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OJ85T1 - なぜ私たちの家は無秩序なのか
第1回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1985年5月11日



0:22 残念ながら、かなり涼しいです。 もっと良い日々になるであろうことを、願っています。
0:51 私たちは、多くのことについて、話をしようとしています - それらはほぼ、私たちの生、 日々の単調で、むしろくたびれる 葛藤の生に、関係します。 あなたたちは、すっかり確信していただきたいと、願っています - 私たちはどんな種類の宣伝も、やっていないということを、です。 どの視点、どの特定の思想、 どの結論、 どの納得をも、 宣伝しようとしていません。 私たちは一緒に、話し合おうとしています - 二人の友として、 様々な問題について、です。 外面的に、世の中の問題だけではなく、 心理的に、とても複雑な問題についても、です。 私たちはともに、話し合おうとしています。 語り手が言うことを、何も受け入れないで、 むしろ、ともに、問い、 疑い、探究します。 で、これは講義ではありません。 語り手の説教でもありません。
3:03 むしろ、私たちは、あなたと語り手は、 話し合うべきです。 世の中で実際に何が起きているのか、だけではない - それは、ますます無秩序になりつつあります。 また、はるかに複雑な世界、 大変な健全さ、 大変に見つめること、 観察、探求、疑問を 要求する世界。 精神の世界、いわゆる主観的世界をも、です。 これは扇情的な会合ではない、ということが 確信できるなら - そこで、あなたたちが感動を受け取ろうとするもの、ではないのです。 私たちが感動に依存するということが、 ますます明らかになろうとしています - 知的にも、 情動的にも、 想像上でも、 感傷的、ロマンチックでも、です。 ご注意、申し上げてよいならば、 私たちは、私たちのみんなが、きわめてはっきりしなければなりません - すなわち、私たちはともに、あなたと語り手は、 まず世の中を見つめようとしている、ということが、です。 それは、人間たちが創り出してきた世の中です - 経済的、社会的、環境的、 政治的、宗教的なもの、です。 私たちが作った社会、組み立てた社会、 無秩序、 それは全く危険になろうとしています。 専制政治の世の中。 絶対的な暴政、 いわゆる全体主義の国々、 そして、民主主義国、自由な国。 この国と、 おそらく一、二の他の国々は、 開かれた社会です。 あなたたちは、自分のしたいことができるのです。 好きなところに行ける。 仕事を変えられる。 自分の意見、判断を表現できる。 まわりのあらゆるものを批判できる- そうしたいのなら、です。 または、今あるものを受け入れて、 続けていく。
7:00 で、どうか、よろしければ、心に留め置いてください - すなわち、私たちは二人の友として、 話し合っているのだということを、です。 私たちはおそらく、見知らぬ仲かもしれません。 語り手は、あなたたちみんなを、知っているわけではない。 確かに、知りません。 でも、私たちは今朝と来週、 ここにいるので、 私たちは静かに、ためらいつつ、 仮初めに、自分たちが何をしているのかを、 見つめようとしています。 ともに探究しようとしています。 これら数千年間すべての進化の後、 何千年に何千年の長い時の継続の後、 私たちはなぜ、今の私たちであるのか。
8:22 様々な種類の無秩序が、あります。 戦争は、最大の無秩序です。 あらゆる小国も、武装しています - 大国から、提供を受けて、です。 そして、小国からも、です。 大虐殺(ホロコースト)がありました - 先の戦争です。 他の種類の大虐殺が、今、進んでいます。 ベイルート、ヴェトナム、 南アフリカ、 ロシアなどです。 ただ一つの大虐殺があったのではない。 それら大虐殺は、今、起きつつあるのです。 私たちは全然、無頓着になってしまったように見えます - 極東で、中近東で ヨーロッパ、ロシアと ここで起きつつあることに、無頓着です。 私たちは本当に鈍感です。 無頓着で、沈黙しています。 デモ行進をするにしても - デモ行進は、 様々な理由のために、世界中で 起きています。 特定種類の戦争、中性子爆弾、 原子爆弾を望まなくて、です。 けれども、分かったかぎりでは、誰も、 誰一人、戦争を終わらせたくないのです。
11:05 私たちが言いましたように、無秩序があります。 思想上の無秩序。 一つの国、世界の一部分は、 特定のイデオロギーに凝り固まっています。 レーニン主義は、世界の一定地域の宗教になっています。 それに反対する人は誰でも、異端者になります。 昔、中世に、カトリックが人々を焼き殺したように、です。 彼らは異端者、異教徒でした。 それが、世界の一定地域で起きていることなのです。 私たちはそれに無頓着です。 私たちは、それがあちらで起きつつあるのを、知っています。 新聞はそれで一杯です。 それについて、本が書かれてきました。 そして殺害 - 同じ宗教の一つの宗派が、別の宗派と対立し、 他の者から兵器をもらい、 神の名、平和の名、 自分の特定思想の名において、 互いに殺し合っています。 これらは、すべて事実です。 語り手は、実際に起きていないことを、何も言っていません。 それがはるか遠くであるかぎり、私たちは無頓着です。 見たところ、それが我が身に触れるとき、 私たちはおそろしく生きて、活動的になるのです - それが私たちの一人一人に触れるとき、それが我が家、裏庭に ごく近くなるときには、です。 またもや、それは事実です。 これらを、言葉で、 書物で、 新聞で、 テレビで知っても、 私たちはこれらについて、全く何もできないように見えるのです。 またもや、それは事実です。 私たちは、今朝と翌週、 というか来週、 私たちはともに、進んで、見出そうとしています -私たちの一人一人は何ができるのか、 私たちの責任は何なのかを、です。 言葉だけではなく、 責任の実際の感じです。 あなたが妻や子どもに対して、夫や ガールフレンドなどに対して、責任を感じるように、です。 あなたが責任を感じるならば、です。 しかし、自己に訊ねるとき - この世の中での自分の場所は何か、 残りの人類に対する自己の責任は何か、 自らは何をすべきか。 世界には、このおぞましい恐ろしい混沌があって、です。 私たちのほとんどは、言語的だけでなく、 実際に、気づき、知っています。 私たちは、幾つも戦争を経て、強制収容所を経てきました。 最近の戦争や過去の戦争ででも、 今起きている強制収容所でも、です。 私たちは、何が起きているかを、知っています。 自分たちが、どれほど深く責任があるのか、 または、どれほど表面的にか、 どれほど無頓着なのか、 または、人間社会全体に、能動的に加わっているのか - アメリカやロシアやイングランドや フランスやインドや日本でも、 世界の特定部分ではなくて、です。 私たちは人間です。 経済的、民族的、国家的な境界 宗教的な境界を別にすると、 私たちはみんな、人間です。 黒、白、紫、ピンク、どんな色であろうと、です。 そこは、私たちの大地です - そこに生き、 土地のすばらしい美しさを享受するための、です。 麗しい海と、丘々、 大きな海と、山々、 木立、果樹園、牧場。 しかし見たところ、私たちは、ともに生きる能力がないようです - 何も障壁なく、 諸国家の分離なく、 - 国家は本当は、栄達した形の部族主義です - 組織的宗教の付着なしに、です。 私たちは、民主主義の世界では、自由について大変多く話します。 世界の他の諸部分では、 自由への要求、 自由への人間的必要性は感じられるものの、 絶対的エリートが、彼らの自由を破壊するのです。
18:37 で私たちは、 これらを、単に言葉ではなく、 単に叙述ではなく、認識し、 単なる説明を受け入れない - それが歴史的であれ、弁証法的であれ、 個人的であれ、です。 私たちは、これらを見つめられるでしょうか - 可能であるなら、非個人的に、 何も偏見、先入観なく、です。 そして、何をできるかを、 ともに見つけられるでしょうか。
19:43 無秩序は何でしょうか。 あなたは、何が無秩序だと思うでしょうか。 そして、秩序は何でしょうか。 秩序は、イデオロギーが、もたらすのでしょうか - 自分の意見、 判断が、 経験をともなう様々な宗教的結論が、もたらすのでしょう。 まさにイデオロギーこそが、無秩序の原因ではないでしょうか。
20:52 どうか、私たちは一緒に考えているのです。 たいへん熱心に提案させていただけるなら、 語り手が言っていることを、単に聞かないでください。 あなたが単に、一連の長い言葉を聞いているだけなら、 それは聞くに値しません。 しかし、耳に聞こえるのだけで聞くのでなく、 心で、精神で、存在すべてでもって 聞く。私たちが人間として、 何をできるかを見出すように、です。
21:45 世の中には、相当、めちゃくちゃがあります。 それが無秩序と呼ばれます。 危険なめちゃくちゃです。 このめちゃくちゃをめぐって、私たちは組織します。 そして、組織されていたものを、再組織します。 これらに付いてきておられることを、願っています。 無秩序、めちゃくちゃをめぐる再組織化 - 混乱、葛藤 - それをめぐるこの再組織化が、進歩と呼ばれます。 ですね? これらに付いてきておられますか。 私たちは、これら新しい組織に、満足しています。 私たちは、自分たちが重大な進歩を遂げていると、感じます。 しかし、めちゃくちゃ、混乱、葛藤、無秩序、 起きているテロ - それらは、数千年に数千年もの間、続いているのです。 今、私たちは、それが世界中で起きているのを、知っています - すばやいコミュニケーションなどをとおして、です。 イタリア、ローマの帝国軍の一兵士を 訓練するためには、15から20セントが掛かったと、言われます。 今、それはたぶん、数千ドルが掛かるでしょう。 これらに付いてきていますか。 私たちは、ものすごく進歩を遂げてきました。 人は棍棒をもって、他の人を殺しました。 それから誰かがやってきて、弓矢を考案しました。 ついにすべての戦争が終わるだろうと、言われました。 これはとても多くの人たちを殺すだろう、と。 それから、様々な武器、戦争の道具がやってきました。 今や最新のもの、最終兵器があるのです - それは、一撃で百万ごとの人間を、蒸発させられます。 私たちはまたもや、巨大な進歩を遂げました。
24:40 これらには、 戦争、テロ、 起きているおぞましいこと。 私たちは、残虐性に取り組んだことがないのです。 恐怖すべてをともなった、中部ヨーロッパとか、 近頃の残虐行為ではなく、 世界で起きている戦争の恐怖ではなく、 私たちは人間として、残虐性から 自由になることができなかったのです - 動物たちや自然に対してだけでなく、お互いに対してです。 究極的な残虐行為は、戦争です。当然です。 私たちは、人間として、 この言葉、「残虐性」という言葉を、 見つめられるでしょうか。 それから、その言葉の意味と深さを、感じられるでしょうか。 修練としての、自己に対する残虐性 - 私たちはそれらに入るでしょう。 他の人たちへの残虐性。他の人たちを搾取し、 互いに利用しあう - 自分の個人的野心や性的野心のために、です。 これらすべてが、様々な形の残虐性です。 イデオロギーの残虐性、 などです。 それは、特定集団の人々の残虐性ではありません。 ほとんどすべての人間にある残虐性 - 他の誰かを傷つけたいと思うことです。
27:12 なぜなのでしょうか - 宗教的教訓すべての後で、です。 キリスト教のはるか前、 キリスト教の何世紀も何世紀も前、 「殺すなかれ」と言われていました。 他者はあなた自身である、と。 でも私たちは、いまだに続けています。 これは終わりうるのでしょうか。 それは、私たちの生の大きな問題の一つです - この残虐性は、本来的に - どうか、聞いてください - 残虐性は、 本来的に、利己性にあるのですが、 利己性があるかぎり、 他の人への搾取、他の人への残虐性、 他の人の利用などが、あるにちがいないのです。 これは、あらゆる形の表現のもとに 隠れる利己性です。 それは、神の名の裏に隠れます。 それは、あらゆる司祭者とあらゆる人間に、隠れます。 あなたは、自分自身で利己的ではないですか。 もちろんです。 しかし、けっして向き合わないのです。 それを見つめたくないのです。 それを追求するには - そのペテンのすべて、 偽善のすべて、 その誇り、傲慢、 その虚栄とその謙虚を 見出すには、 大きな気づきが必要とされるのです。 大きな修練が要求されるのです。 しかし、私たちはみんな、かなりだらしない人々です。 私たちはかなり、考えるのがずさんです。 私たちは決して、何についても、定かでありません。 私たちは、たくさんの信念、 教条、信仰を、 持っています。 あなたたちが検討されたことがあるのか、と思われます - キリスト教といった一定の宗教と、イスラムの世界は、 書物に基づいていて、 それらを問いはじめ、 疑いはじめると、 全部が崩壊するでしょう。 なぜなら、私たちは、自分の考えること、 自分の経験を、けっして疑わないからです。 私たちはけっして、問いません。
32:34 あれがすてきな気晴らしであったことを、願っています。
32:48 言っていましたように、 私たちはけっして、自らが考えるのを、 自らの先入観を、 自らの結論を、問いません - それらが正確であるのか、 単に意見であるかを、見出すように、です。 または私たちは、利己性に対する自らの要求を、けっして問いません。 ですから、どうか、これらの講話と、 質疑応答の会合の間、 疑いが、なければなりません。 疑いが本質的です。 冷笑癖(シニシズム)なしの一定の形の懐疑は、 頭脳を浄めて、そのため はっきりと見えるようになるからです。 自らが何であるかが、はっきりと見えるのです。 ですから特に、語り手が言っていることについて、懐疑的であってください。 特にそうです。 なぜなら、彼は導師ではないからです。 彼は、あなたから何一つ欲しくないからです - あなたの拍手喝采なども、です。 どうか、それを確信してください。 それで、あなたは寛いで、 自由でいられるように、です。 なぜなら、それはとても重要であるからです。 あなたが本当に確信し、納得しているのなら - すなわち、語り手はあなたから何一つ期待していないこと、 あなたのお金をほしくないことを、です。 (入場料の)寄付に出すもの以外は、です。 でも、それは、語り手のためではありません。 それは、場所をきれいに保つため、学校などのためです。 彼は、あなたに感動を創り出したくないのです - あなたが娯楽で楽しみたいからといって、です。 あなたたちの小説、書物、テレビ、 あらゆるものが、娯楽で楽しませてくれます。 あなたはそれが好きです。宗教的な娯楽です。 しかし、ここで私たちは、自分たちの存在のこの深い問題を、 計り知ろう、掘り下げようとしています。
36:39 で、私たちは訊ねています - 私たちの生に、 秩序をもたらすことは、可能でしょうか。 完全な秩序があるなら - 生物学的にも、心理学的にも、完全な秩序があるなら、 葛藤は、無いのです。 私たちがイデオロギーを追求するとき、葛藤と無秩序がある - 理想を追求するとき、です。 理想は、私たちの混乱から投影されるのです。 で、私たちの理想が、混乱をもたらします。 これらに気づいておられるのかどうか、私は知りません。 いわゆる全体主義の国家で起きていることを、 観察するなら、それはとても明らかです。 そこでは、イデオロギーが最高です - マルクス、レーニン、スターリンと、それらすべての 人々のイデオロギーと、それらの解釈者たち、です。 彼らは、荒廃を創り出しつつあり、過去にも創り出してきました。 今もそうであり、世界に大きな無秩序を創り出しています。 どのイデオロギーも、カトリックのイデオロギーでも、 ヒンドゥーのイデオロギーでも、 社会主義のなどであっても、 それらは必ず、無秩序を創り出すのです。 なぜなら、イデオロギーを、あなたは信じていて、 私はそのイデオロギーを受け入れるからです。 ゆえに、あなたは自分自身を、他のイデオロギーに対して、分割します。 ゆえに、イデオロギーでの葛藤、抗争があるのです。 一度それが実際に、深く見えるなら - 単に言語的にでなく、知的にでなく、 深く内的に、自らの血で、 それの真理が見えるのなら、 そのときあなたは、自由な人です -他の何かを見つめられるのです。 ですが、イデオロギーは私たちに、安心感を与えてくれます。 そういうわけで、私たちは信念、教義、信仰にすがりつくのです - それらは、司祭者などが組み立てるのです。 - 私はそれらに入らないでしょう - 私たちは、それにすがりつくのです。 八百以上のカトリック宗派が、あります。 プロテスタントには、どれほど多いか、私は知りません。 イスラム世界には、宗派が幾つもあり、 互いに闘い、殺し合っています。 しかし、仏教とヒンドゥー教の世界では、それは存在しますが、さほど暴力的ではありません。
40:38 で、これの真理を知り、 真理の感じ、深さを知り、 イデオロギー、すなわち人間を分割するものを、すべて片付けられるでしょうか。 これは、とても深刻な問いです。 どうか、押しのけないでください。 「なぜ私が、自分特有の小さなイデオロギーとか自分特有の理想を 持つべきでないんだ」と、言わないでください - 「私の経験、知識に 基づいた理想を、」と、です。 そのとき、自らがすがりつくその知識、 その経験、その特定の概念が、 問われ、疑われ、引き裂かれなければなりません -それの真理を見出すように、です。
41:51 そのとき、訊ねなければなりません -無秩序は、何でしょうか。 なぜ私たちは、私的な生活で、 また公的な生活でも、 なぜこんなに多く無秩序が、あるのでしょうか。 語り手は、質問をしていません。 あなたが、質問をしています。 誰が、この無秩序をもたらしたのでしょうか。 「ええ、私たちの一人一人が責任がある」と、気軽に言って、 それをも脇に押しやらないでください。 私たちは、すばやい答えを学びます。 なぜなら、私たちはみな、大いに学識のある人たちであるからです - 引用符つきの「学識」です。 しかし、私たちはけっして自分自身に訊ねません - なぜ私たちの家は無秩序になっているのか、と。 それは、無秩序があるところ、葛藤が あるにちがいない、という意味です。 私たちは、葛藤とともに生きるのです。 究極のものが、戦争です - その全的な無責任と 無秩序をともなって、です。 あなたは自らの家に、大きな秩序を 持っているかもしれません - 物理的な家に、です。 ほとんどのアメリカ人がそうであるように、です。 しかし私たちは、外面的な無秩序だけでなく、 内的な無秩序についても、話をしています。 なぜ私たちのみんなに、そういう葛藤があるのでしょうか - すなわち、無秩序を生み育てるものが、です。
44:17 この葛藤は、何でしょうか。 なぜ私たち人間は、無秩序とともに生きてきたのでしょうか。 今世紀の間だけでなく、 先週と今だけでなく、 人は、数千年の間、無秩序に生きてきました。 私たちは、それを継承してきました。 私たちの頭脳は、葛藤へ条件付けられています。 私たちのまさに生の見方、考え方、 受け入れ、服従せず、 これに所属し、あれに所属しない。 特定の派、特定のバカな導師に所属する。 私がその言葉を使ったのを、気にされないことを、願っています。 「私はそれを持っている。あなたは持っていない。 私が導いてやろう」と言う特定の人物に、です。 これらの人々と、 彼らに従う人たちの虚栄心。 で、この葛藤は何のせいでしょうか。 その理由、根本は何でしょうか。
45:48 まず初めに、ごく近くで親密に深く、 人間の頭脳を見てみましょう。 それは、幾世紀にも幾世紀もをとおして、進化してきました。 幾千年、二百万年、三百万年、または、 五千万年、または五万年をとおして、です。 なぜこの頭脳は - 私の特定の頭脳ではなく、 人間たちの頭脳です。 私の特定の頭脳はありません。 すてきな観念です - 私は、「自分の頭脳は自分のである」と考えます。 しかし頭脳は、人間の身体組織として、進化してきました。 あなたの身体組織は、他の身体組織に似ています - 高度に進化し、 敏感で、 賢明です。 各身体組織は、自らの智恵を持っています。 しかし、私たちはその智恵を、緩やかに破壊しつつあるのです - 薬物、アルコール、喫煙によって、です。 現代の不条理な生存の事柄全体です。 で、私たちの日常生活での原因は何なのかを、 私たちはまず初めに、話しています。 もし、あなたが今、聞いているとき、私たちの一人一人に秩序があるなら、 もし、私たちの一人一人が、自己にこの完全な秩序を持っているなら、 私たちが他の一人を殺すだろうと、あなたは思うでしょうか。 私たちがどの国家、民族、どの集団、どの導師にも所属するだろうと、思うでしょうか - 時をかけて神聖になったどの書物にも、です。 そのとき、恐れは無いでしょう。 悲しみは、 さびしさは無いでしょう。 確かに神は無いでしょう。 で私たちは、ともに見出そうとしています - この完全な秩序を、私たち自身に持つことは、可能なのかどうか、です。
48:37 あなたはそれに興味がありますか。 正直に、です。 あなたは時間を使うでしょうか -お金を、ではない。 それは、お願いできる中で一番汚いものです。 あなたは、見出すよう、自分のエネルギーを使うでしょうか。 あなたが、オフィスや実験室へ行くのに、 エネルギーを使うように、です。 または、特定の科学の専門分野などに、です。 あなたはこれらすべての方向に、大変なエネルギーを注ぎます - 権力、金銭、地位、認知、 名声のため、それらの悪名すべてのためです。 あなたは、来る日も来る日も、オフィスへ行くのに、 ものすごいエネルギーを使います。 五十年、六十年の間です。 そして、あなた自身を癒やさなければならないときに、他人を癒やそうとしています。 今、あなたは、そのエネルギーの幾らかを、注ぐでしょうか。 そこに静かに座り、ともに見て、考えて、 あなたはそのエネルギーを、注ぐでしょうか。 そのすべてを、ではない。 なぜなら、明後日の朝、あなたはオフィスか工場か 何か仕事へ、行かなくてはいけないからです。 あなたは、そのエネルギーを注ぐでしょうか。 あなたが自らの家を、秩序だてられるかどうかを、見出すように、です - 内的な家、精神・心理(サイキ)のこの複雑な構造全体を、です。 あなたがそれを、あなた自身に注ぐなら -私に対してではない。 語り手に対してではない。 彼はそれを受け入れないでしょう - そのとき、ともに見出しましょう。 語り手があなたに語るのではない -それは、不条理で、 子供っぽく未熟になります。ともに見出すのです。 あなたが、そのエネルギー、その活力、その裏の衝動を、 葛藤の陰一つなく生きられるかを見出すように、注ぐなら、 そのとき訊ねられるのです - その原因は何でしょうか。 なぜなら、原因が見つけられるとき、 結果は存在しないからです。 あなたが、この因果の問いに入ったことがあるのかどうか、私は知りません。 私たちは短くそれに入るでしょう。
52:11 原因は、結果より分離していません。 結果は、原因にあるのです。 原因がないなら、結果はありません。 しかし、私たちは原因と結果を分離します。 これらオークの(木の)ドングリは、 オーク(の木)を産出します。 しかし、樹、葉っぱ全体、 葉の美しさ、 葉っぱに照る日射し、枝と幹 - それは、種子にあるのです。 しかし、私たちにとって、因果は二つの別々のことなのです。 私たちは、原因を取り除けるならば、おそらく私は とても健康になるだろう、と言うのです。 しかし、それは、目的への、終わりへの手段は、 大事でないと、言うようなものです。 ところが、手段が終わりです。 これらは理解できますか。 見つめてください - 世の中で、何が起きているのか、です。 彼らは、平和について話しています -彼らのみんなが、です。 そして、軍備を築いています。 原因は、恐れです - 何らかのものを守ろうとすること等です。 その恐れがあるかぎり、 自己で完全に安全でありたいとの欲望があるかぎり、 あなたは戦争をするでしょう。 それについては、後で話をするでしょう。
54:21 で、私たちが生きているこの無秩序の原因は、何でしょうか。 私は言いましたように、見出すように、あなたの頭脳、思考、エネルギーを注いでください。 それはあまり困難ではありません。 それを困難だと呼んでから、困難にしないでください。 それはとても単純です。 パレスチナ人、アラブ人とイスラエル人の間で 何が起きているかを、見てください。 彼らは同じ集団からです。 彼らは、同じこの大地に生きています。 しかし、自分はアラブ人であると考えるよう、 訓練され、教育され、プログラムされてきました。 ここ千六百年間、コンピューターのようにプログラムされました。 他方は、四千年間、自分たちを イスラエル人と呼びます。 彼らは古い人民です。 ヒンドゥーのように、シナ人のように、です。 で彼らは、自分たち自身を分割してきました - アラブ人とイスラエル人、 アメリカ人と、 この国の古いインディアンです。 あなたはよく気をつけて、彼らは滅亡させてきました。 大虐殺です。
56:27 で、分割があるかぎり、葛藤があるにちがいないのです。 どうか、これは法則です。 それは私の法ではなく、法則です。 判事たちと法廷の法律ではなく、 これは永遠の法則です。 あなたが奥さんから分離していて、 奥さんがあなたから分離しているかぎり - 彼らの野心で、充足への欲望で、 彼らの誇りで、分離の感覚で、です。 「私は充足しなければならない。 これでなければならない。あれでなければならない」と。 その関係には、葛藤があるでしょう。 弟子と導師の間に葛藤、神とあなたの間に葛藤が あるように、です - 神がいるとして、ですが。 で、どこでも、私とあなた、彼らと私たちの間に、分割があるところ、 私たちは葛藤を持つでしょう。
58:00 この分割は、どのように引き起こされるのでしょうか。 それは、私たち一人一人の側での利己性でしょうか。 どうか、検討し、問い、疑い、訊ねてください。 それは、私たちの一人一人がこんなに利己的であり、 こんなに自己に関心を持っている、ということなのでしょうか。 で、まさにその関心が、分割します。 あなたは結婚し、他の人と生活をするなどかもしれません。 しかし、この分割はつづきます。 私たちはこの分割を、自然だと受け入れます。 ゆえに、葛藤を、永久の闘争を、存在の一部分、 生の一部分として受け入れます。 闘争すること、互いに闘うことは、自然である、と。 そのための存在理由は、こうです - 自然では、あらゆるものが戦わないのか。 どの樹も、光を求めて戦っている。 大きな動物が小さな動物を食べる、などです。 それが、私たちの持ち出す理由です。 すると、私たちの生は、自然に、 必然的に、葛藤に生きるよう、受け入れられるのです。 しかし私たちは、実際にはけっして問いません - この分離した個人主義的な利己性を、 全く持たないことは、可能でしょうか。
1:00:47 お訊きしてもよろしければ、 あなたは自分自身に、この質問をしているでしょうか。 それを訊ねることに、怯えているのでしょうか。 それとも、ただ聞いて、 これら樹々の下に座って、むだな時間を過ごし、行ってしまうのでしょうか - 「それは可能でない」とか、 「ああ、そうだ。可能です」とか言って、 そのように放っておくだけでしょうか。 または、あなたはそれを問うのでしょうか。 まず初めに、身の回りの世の中が実際にどうかを、見る - 国家主義的、民族主義的な分割、宗教的な分割、 イデオロギー的な相違。 それらは、私たちが創り出してきました。 知識人、テロリスト、帝国主義者たちが、です。 現代の帝国でも、 古代の帝国でも、どの帝国も流血なしに 建設されませんでした。 かつて言われたように、 初めにバイブルを持ち、次に銃を持つ。 これが、私たちの生の道でした。 男でも女でも、真剣である人は、 葛藤が終わりうるかどうかを、本当に見出したいのです。 それが終わるのなら、そのときにだけ、世界に平和があるのです。 平和は、多大な智恵を要求します - ただの平和のデモ行進だけではない。 それは、どの国のどの首都にも、ありません。 それは、自らの心と精神の中に、身の回りに、 本当の平和を持つことを、要求します - 葛藤の本性を理解し、それを終わらせることを、です。 それを理解するには、 葛藤の構造と本性を理解するには、 観察が必要とされるのです。 それについて非難ではなく、 どちらかに味方するのでなく、 自らが何をしているかを、ただ観察するだけです。 私たちがどのように常に自己を分離しているのか、 - アメリカ的な生き方 - などなどです。 あなたは、これらを聞いていますか。 または、これらにうんざりしかけていますか。 どうか、語り手に教えていただけるでしょうか。
1:04:25 聴衆: 私たちは聞いています。
1:04:27 K: どうか、 あなたたちはみな、「はい」と言って、家に帰るかもしれません。 または、当分、語り手に刺激されるかもしれません。 それは、葛藤の終わりをもたらしません。 頭脳の無量の能力を、行使しなければなりません - 頭脳の無量の、無限の能力を、です。 ですが、私たちの教育は、その能力を制限します。 私たちの教育はまた、私たちをテクノロジーで助けてきました - ものすごい前進です。 小さなコンピューターから、複雑な航空機、 潜水艦、軍艦、 すばやいコミュニケーションなどなど、までです。 今、もっと多くの病気がやってくるほどに、 もっと多くの医薬が、考案されています。 ものすごい進歩が、成し遂げられようとしています。 語り手は、冷笑癖(シニシズム)で、これを言っていません。 これらは事実です。 彼は、冷笑癖を忌み嫌っています。
1:06:19 で、静かに、何の選択もなく、 観察できるでしょうか - 私たち自身に起きていることを、観察するのです。 そこに、私たちの顔が 見える鏡です - どのように髪を櫛でとかすのか、どのように歯を磨くのか、 どのようにひげを剃ったり、お化粧をするのかなど、です。 私たちは、可能なかぎり近くで、 明確に、精密に、何も歪曲なく、 観察できるでしょうか。 それは、私たちが選択の動きを理解しなくてはいけない、という意味です。
1:07:29 なぜ選択するのでしょうか。 あなた自身に訊ねてください。 なぜ選択の必要性が、あるのでしょうか。 もちろん、二台の車の間、 二つの素材の間には、選択があります。 お金を持っているなら、より良いほうを選択します。 二人の著者の間、 光と陰の間の選択 - 太陽の陰、 陰を作り出す太陽と、太陽の光。 闇と日射し、 背が高いのと低いのと。 しかし、心理的な選択が、そもそもあるのでしょうか。 質問を理解できますか。 あなた自身に訊ねてください - なぜ私たちは、心理的に、内的に選択するのでしょうか - 「私はこれをしよう。あれをすまい」、 「これは正しい。あれは間違い」、 「私は暴力的である。だが、非暴力的にならなければならない」、 「私は誇りを持っている。だが、謙虚にならなければならない」と言う。 理解できますか。この内的選択は、 いつの時も、続いています。 明晰さがあるとき、そもそも選択があるのでしょうか。 それとも、混乱があるときだけ、選択があるのでしょうか。
1:09:45 質問者: (聞き取れない) K: ごめんなさい。質問は、火曜日に受けるでしょう。 もし、お気になさらないなら、ですが。
1:10:00 どうか聞いてください -語り手にでなく、あなた自身に、です。 あなたがこの質問をしているのです。 私はあなたに、その質問をするよう、頼んでいません。 あなた自身が、その質問をしているのです。 なぜ、この選択があるのでしょうか -暴力的でないように、です。 それは選択です - 「私は暴力的である。 だが、私は非暴力的になるよう選択しよう」と。 なぜ、その選択があるのでしょうか。
1:10:42 質問者: (聞き取れない) K: どうか、お願いします。 あなたがここに来て座り、話をしたいのなら、 完全に歓迎します。
1:10:53 質問者: (聞き取れない) K: どうか、気になさらないでしょうか。 来週、火曜日と木曜日に質問はできます。 私は、あなたが質問しないよう、妨害していません。 どうか、礼儀をわきまえて、 辛抱をしてください。 そして、うんざりしないで、 語り手が言っていることからではなく、 あなた自身で見出してください。 語り手は重要ではありません。 でも、一緒に言われつつあることは、重要です。 語り手は、個人崇拝を 求めていません。 これに、個人性は関与していません。 私は本気で言っています。 彼は全く重要ではありません。 しかし、言われつつあることは、重要です。
1:12:13 で、私たちは訊ねています - 物事の選択は別にして、 なぜ私たちに、この選択があるのでしょうか。 私たちはそれを、一分間、見つめられるでしょうか。
1:12:35 世界中の人間たちは、 たぶん類人猿などから、 継承しました。 - 彼らは、暴力的な人々です。 世界中の人間たちは、そうです。 彼は、暴力をとおして何が起きているかを悟る、と言うのです - 彼自身の中だけでなく、集団的にも、です。 彼は言うのです - 「非暴力的になろう。 非暴力を実践しよう。 非暴力について話をしよう。 その道具を政治的に使おう」などと。 これは、インドが産出したものの一つでした - 非暴力です。 インドだけでなく、他の者たちも、はるか昔にそれについて、話をしました。 で、私たち、私、あなたは暴力的です -私がそもそも暴力的であるとしてですが。 私たちは暴力的です。 そのとき私たちは、「私は非暴力的になろう」と言います。 それは選択ですね。 さて、私たちは、なぜこうするのでしょうか。 「私は貪欲である。だが、私は貪欲になるまい」と。 ですね? 「私は虚栄に満ちている。だが、私は虚栄がないふりをしよう」と。 なることはできません。 虚栄があるところ、 それは謙虚さへ変化させられません。 虚栄があるところ、それが終わること、 それがそれになるのでなく、それが完全に終わること。 そのときにだけ、謙虚さがあるのです。 で、よく気をつけて見ましょう - あなたが、辛抱とエネルギーを持ってくださり、 あまりにうんざりせず、あまりに寒すぎないなら、 なぜ私たちはいつの時も、こうしているのかを、です。
1:14:55 暴力を、取ってみてください。 なぜなら、それは、世の中で、そして私たち自身にも、起きていることであるからです。 極端な暴力の感覚 - 爆弾、殺すこと、突き刺すこと、盗むこと、 殺害、強姦、あらゆる形の暴力。 暴力は、何でしょうか。 物理的な暴力か。 それは、その一面です。 確かに暴力は、それよりはるかに錯綜しています。 暴力は、 - あなたが、近くで検討し、あなた自身のそれに入るなら - 暴力は、順応です。 「私はこれである。だが、あれになるだろう」、 「あなたはこれを理解しない。だが、あなたは自分はこれを理解すると考える」、 実際に、「有るもの」を理解しないのです。 それを理解することなく、 あなたはそれを、他のものへ変容させたいのです。 仮に、私は暴力的であるとします。 物理的に、私は暴力は好きでない - 物理的に、です。 なぜなら、それはそこら中で見られるからです。 仮に、と私は言いました - 実はそうではありません。 私は、起きていることが好きでない。 私は暴力的になるまい。 私は、暴力の本性を理解していない。 しかし、それから逃避したい。ゆえに、理想を創り出す。 で、そうでない何かを創り出した後、 それから、有るものと、有るべきだと思うものと の間に、葛藤があるのです。 これが、私たちがしていることです。 で、私は自分自身に言います - 他方、すなわち非暴力を、 達成する前に、私は、 まず初めに、暴力が何かを理解しなければならない、と。 これはとても論理的であるでしょう。 私たちは、とても非論理的になっています。 そして、論理的であることに、怯えます。 なぜなら、あまりに論理的にならないようにするという幻想に、捕らわれているからです。 で私は、まず初めに、とても論理的であろうとしています。 私は、論理を使った後、論理を越えられます。
1:18:31 私は暴力的です。 私は、まわりのすべてが、違った形の暴力を持っているのが、見えます - 動物たち、自然などから、 ものすごい稲光、 その美しさ。 それは、一つの形の暴力です。その衝撃です。 そして、私は暴力的です。 暴力は、物理的なだけではない。 大変多くは、はるかに心理的です。 私が様式に順応するとき、 私がプログラムされるのを許しているとき、です。 理解できますか。 あなたが私に対して、私は何をすべきかを語る - 私の魂、私の精神のためや、何のためにせよ、です - そして、あなたが権威になるとき、 それで私が権威を受け入れるとき、暴力がある。 ですね? もちろん、心理的な権威です。 コンピューターの権威はいます。 法律の権威はいます。 右または左側を行けと言う警察官の権威は、あります。 ヨーロッパで運転するなら、右側を走ります。 イングランドやここで運転するなら -どちらですか。左ですか。 ええ、左。 いや、右?そうだ。 私は近頃、運転していません。 ええ、私は左を歩いて行き、 それから右へ歩いて行く。まったくそのとおりです。
1:20:45 で、暴力の一部ですが、私が自分の混乱や 無秩序の中から、 権威を創り出すところ、 暴力が、存在するにちがいないのです。 私は混乱しています。 私は動揺しています。 私は確実性がほしい。 あなたがやってきます - 導師、司祭者、 心理学者、他の人たちです。 彼らが権威になるのです。 私は、自分の混乱、自分の無秩序の中から、 彼らを創り出したのです。 で、私は悟ります。権威があるかぎり - それは主観的にです。 私がしてきた経験でも、 その経験の記憶が、権威になるのでも、 - 付いてきてください - または、「私は知っている。 それについて、あなたへすっかり語ろう。」と言う誰かの権威でも、です。 嫌らしい導師たちは、これらをします。 どんどんお金を儲けています。 彼らは、世界で一番金持ちの人々の幾人かです。 あなたたちの福音主義者、 教会、 ものすごい組織。 彼らは、「信仰を持ちなさい。 信じなさい。受け入れなさい」と言います。 私は怯えています。私は、「はい」と言うのです。 私はだまされやすい。私はそれを受け入れます。 で、私は、自分の無秩序の中から、権威を創り出しています。 秩序があるなら、権威はない。 なぜなら、私は、適切にふるまうからです - でも、様式に沿って、ではありません。
1:22:56 で、葛藤、無秩序の原因の一つは、 権威を心理的に受け入れることです。 それはこういう意味です - ただ一つの理想、ただ一つの権威もなく、 生きられるでしょうか。 それで、今、大きな秩序に生きるように、です。 明日にではない。 心理的に、 私たちの内的な家には、無秩序があります。 なぜなら、私たちは、他の一人から自己を分離させたからです。 それは、最もなすのが難しいことの一つです - 分離はない、と言うことは、です。 私は世界である。 私は残りの人類である、と。 なぜなら、あなたは苦しむ、ロシア人は苦しむからです。 ヒンドゥー、シナ人、 この地上のあらゆる人間は、苦しむ。 私は涙を流す。 もちろん、笑いも、です。 この地上のあらゆる人間は、 恐れから、悲しみから、 あらゆる形の回避、あらゆる形の逃避を、追求します。 それで、私は世界です。なぜなら、私は苦しむ、あなたは苦しむからです。 これは、イデオロギー的な戯言だけではありません。 これは現実です。 で、私は、残りの人類、すなわち、あなたから、 分離するかぎり、 葛藤と無秩序を持つにちがいないのです。 それには、少し後に入るでしょう - 私たちは、別々の(分離した)意識を、持っているのか、 または、人類の意識か、です。
1:25:42 何時でしょうか。
1:25:44 答: 一時五分前です。
1:25:48 K: すみません。長く引き留めてしまいました。 誰かが言ってくれるべきです。 で、これを終了させましょう。 私の思考に分離があるかぎり - 私は、行為から思考を分離できます。 一つのことを考えて、別のことを言います。 一つのことを考えて、別の形で行為します。 それが分離です。それが、葛藤、偽善を生み育てます。
1:26:41 で、この葛藤の問いには、きわめて深く、深く入れます。 そして、その微細さの 本性と構造と 道筋を理解しはじめるとき - それを見守ると、選択のない見守りこそが、 その見守りの中、その葛藤が終わることが、分かるでしょう。 それには、大きな注意が必要とされるのです -あらゆる思考に、 あらゆる行為に、内的感じのあらゆる道筋に対して、です。 その葛藤を終わらせたいのなら、 それに対して、ものすごい注意を向けなくてはなりません。 普段の注意ではなく、 一日や一週間後ではなく、 いつの時も、その注意を動かしつづけるのです。
1:28:05 どうか、立ち上がっていただけますか。終了しました。