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OJ85T3 - 創造は決して終わらない
第3回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1985年5月18日



0:25 美しい朝ですね。 楽しくしておられることを、願っています。 あなたと語り手との間には、 今朝の会話と、 また明日の朝のものだけがあります。 私たちは、様々な主題、様々な問題に入らなくてはいけません。 私たちは、ともに話し合おうとしています - 楽しみ、悲しみ、 死の問い全体、 そして、世界中の人間たちが、 物理的な日々の厄介で退屈でさびしい生活を越えて、 探し求めてきたのは、何なのか。 彼方に何があるのか - 個人にとってだけでなく、 人類全体にとって、です。 思考により触れられず、 名を持たず、 永遠かもしれず、長続きし、永続的である何が、あるのでしょうか。
2:11 で、私たちは、これらすべての事柄について、話し合おうとしています。 冥想を含めて、です。 おそらくヨーガも、です。 誰もが皆、ヨーガにひどく興味を持っているように、見えます。 彼らは、若く美しいままでいたいのです。 それから始めましょうか。 あなたたちは、それに興味があるだろうと、私は考えました。 ヨーガは今、商業になりました。 他のあらゆるものと同じく、です。 世界中にヨーガの教師たちが、います。 彼らは、いつものように、どんどん金儲けをしています。 ヨーガはかつて、 - 私は、これについて大変多くを知っている人たちに、言われました - それは、きわめて、きわめてわずかな人に、教えられただけでした。 ヨーガは単に、身体を健康に、正常に、 活動的に、賢明に保つ、という意味だけではありません。 しかし、それはまた、 サンスクリットでその言葉の意味は、 「結びつける」という意味です。 高いものを、低いものと結びつける。 誰が結びつけるのか、私は知りません。 でも、それが伝統です。 そしてまた、 様々な形のヨーガがあります。 しかし、最高の形は、ラージャ・ヨーガと呼ばれます。 すなわち、ヨーガの王です。 そこでは、その体系、 または、その生き方は、 単に、身体の良い状態に関係するだけではなく、 また、心理的にも、はるかに厳重です。 何も修練はない。 何も体系はない。 日々に反復されることは、何もない。 むしろ、秩序だった頭脳、 いつの時も活動的である頭脳を、持つことです - おしゃべりをしているのではなく、 活動的なのです。 語り手が、これらを翻訳しています。 たぶん彼らは、これらを語ってくれないでしょう。 語り手は、様々な学者とパンディット(学識者)と、 本当のヨーガ教師に、話をしてきました。 今、彼らはほとんどいません。
5:39 で、きわめて深く秩序だち、道徳的、倫理的な生活をすることです。 単に様々な体位を行うだけではなく、 きわめて道徳的、倫理的な、修練された生を、送ることなのです。 それが、最高の形のヨーガの、本当の意味でした。 したがって、身体を健康に保ちました。 身体が、一番、一義的に重要ではなかった。 一義的に重要なのは、明晰で活動的な頭脳、精神、 良い状態を、持つことでした - 動きという意味においてではなく、 それ自体が活動的で、生きていて、 活動に満ちているのものを、です。 でも、今それは、かなり浅くなり、 儲かるようになりました。そして、凡庸になりつつあります。 語り手は、或る人から - ああ、昔にですが - 何か他の人へ教えられないものを、 教わりました。 それで置いておきましょうか。 ヨーガについての話は十分ですか。
7:11 質問者: もっと入ってもらえるでしょうか。
7:12 K: あなたは、私が教わったことを、語ってほしいのですか。 すみません。語ることはできません。 それは、普通の人へ、教えられるべきものではない。 それは、何かあなたが行うことです。 おそらく毎日です。語り手が一時間するように、 身体を完璧に制御することです。 それで、見守っているように、です -制御という言葉を、使わないことにしましょう。 身体を見守る。観察されていない動き、 身振りを、何もしない。 身体の不必要な動きが、何もない。 でも、それは制御されていない。 それが、違いのあるところです。 その主題を置いて、他の何かへ進んでいいですか。 あなたたちが気乗りしないのは、分かります。 なぜなら、あなたたちは おそらく、ヨーガは、来る日も来る日も実践されるもの、 筋肉を発達させるもの、 筋肉質の身体を持つことだと、 考えるかもしれないからです。 全くそうではないのです。 それは、あなたが一日中、生きるもの、 見守り、 観察し、 明瞭であるべきものです。
9:04 私たちは、去る土曜日と日曜日に、話していました - 罪悪という問い、 心理的に傷つくこと、 様々な形の関係について、です。 人間たちと、お互いとだけではなく、 自然に対し、世界の美しさすべてに対する、 私たちの関係についても、です - 山々に対し、牧場(まきば)に対し、木立と 丘々と影と 湖と川に対して、です。 関係を持つ。 私たちは、その関係についても、少し話をしました。 思考により作られたイメージがあるところ、 - あなたと山、 野原と花々すべてとの間に、です - 自分の妻や夫などについて、イメージを作るように、 そのイメージは、他の一人との完全な関係を持つことを、妨げるのです。
10:47 今、私たちの関係は - お互いとの、あなたと語り手との間での - その関係は、理解することが、とても重要です。 彼は、あなたをどの観点にも、説得していません。 彼は、あなたが聞くよう、受け入れたり、拒否したりするように、 どの種の圧力をも掛けていません。 彼はどんな権威をも持ちません。 彼は導師ではありません。 彼は、これら指導者という観念を、嫌悪しています - 心理的、または、その言葉を使っていいなら、霊的に、です。 それは、彼の忌み嫌うものです。 彼は本気でそれを言っています。 それは、何か軽く取られるべきことではありません - 語り手はそういうふりをしているのだ、と。 そういうわけで、これらでは極端に正直でなくてはいけないのです。
12:07 私たちは、時の活動について話しました。 それには、相当はっきりと入りました。 また、思考の動きについても、です。 考えるとはどういうことか。 私たちはそれについても、話をしました。 語り手にそれをもう一度、繰り返してほしいですか。 どうか言ってください。 それがはっきりしないのなら、 語り手はそれについて、大変多くの辛抱をできます。 おそらく私は、「辛抱」という言葉を使いもしないでしょう。 で、私たちはそれについて、話をしました。 あなたと語り手の間で、会話をしました。 ゆえに、その会話は、相互に続けてゆかれます。 それは、一方的な会話ではありません。
13:17 また私たちは、 世界は、(いじめを行う)ごろつきから出来ていることを、言いました。 宗教的なごろつき、 新聞、政治家、 導師、司祭者、 家族の中のごろつき。 それら(いじめを行う)ごろつきは、私たちに罪悪を感じさせるのです。 彼らは初めに攻撃します。そのときあなたは、防御しなくてはいけません。 それが、お互いとの関係などにおいて、 続いてきたゲームです。 で、それが、この罪悪感をもたらします。 私たちは、それについて大変多く話しました。 また私たちは先の日曜日、恐れについて話しました。 人間たちは - これら幾千年、幾万年をとおして 進化してきた者たちは、なぜ、 恐れと呼ばれるこのひどい重荷とともに、生きるのでしょうか。 その恐れは、感受です。 感受は、多くの形を取ります。 ドラッグ、アルコールなどの感受、 性の感受、 何かを達成すること、 はしごを登ることの感受 - 俗世間のはしごでも、 いわゆる霊的なはしごでも、です。
15:13 私たちはまた、 時と思考との間の関係が何かについても、話しました。 それとも、それらは一つでしょうか。 私たちはそれに入りました。 また、恐れの根は何でしょうか。 私たちは、きわめて多くの恐れを持っています。 それらは、人間の能力を破壊するだけではありません - 頭脳を歪曲する。 生物学的にも、心理的にも、活動を、歪曲するか、 縮小させるか、制限するのです。 その根は、恐れの根は、何でしょうか。 私たちは、それに入りました。 恐れの根は時と思考であると、言いました。
16:20 これらを聞くことはできます。 ふつうにか、または真剣に、です。 お互いの会話を聞きます。 しかし、言葉はそのものではありません。 恐れは、その言葉ではありません。 または、その言葉が、恐れを創り出すかもしれません。 理解できますか。 その言葉が、恐れを創り出すかもしれません。 または、それ自体で恐れがあるのでしょうか。 いいですか? 言葉は、画像です。観念です。 しかし、恐れの事実は、すっかり違っています。
17:10 で、その言葉が、恐れを誘発、養成していないこと、 それからその恐れを乗り越えるのではないことが、 はっきりしなくてはなりません。 それなら、事実をではなく、言葉を乗り越える、という意味です。 これらに付いてきていますか。 この事実に向き合わなくてはいけないことを、私たちは言いました。 そして、この事実にどう向き合うのかばかりが、重要であるということを、です - 事実ではなく、あなたがそれにどう接近するのか、 あなたがそれにどう来るのかが、です。 もし結論、概念を 持っているなら - どう恐れを乗り越えるのか、 どう抑圧するのか、 どう超越するのか、 その恐れを乗り越えるのを助ける誰かへ行くとか、ですが - そのときその恐れは、違った形で継続するでしょう。 或る日、何かに怯えていて、 次の日、他に怯えているということかもしれない。 この恐れの中から、私たちは人類に対して、ひどいことをしてきたのです。 私たちはお互いへ、ひどいことをしてきました。 この恐れから、安全をほしがることから、 または、安全を持たないことから、 私たちは、百万ごとに人間を破壊してきました。 先の戦争と、以前の戦争は、それを示しました。 恐れがあるところ、神があります。 そして、幻想より導出される慰めすべてが、です。 しかし、心理的に、ゆえに生物学的に、 - その逆ではありません。 まず初めに物理的な安全、 それから後で、心理的安心ではないのです。 社会主義者、共産主義者、 (「根本」を意味する)過激派(ラディカル)、いわゆる過激派は、 外側に秩序を確立しようとしてきました。 共産主義者、全体主義者がしようとしているように、です。 彼らは成功しつつありません。 単に抑圧しているだけです。 しかし、あらゆる人間の、自己の この心理的構造全体を、 理解しはじめるなら、 恐れの本性を理解しはじめるのです。 私たちは、時、思考に入りましたが、 それらの本性を理解するなら、恐れは終わりうるのです。
20:32 私たちは今朝、美しさは何かについて、 ともに話し合うべきです - こんなに美しい朝であるからです。 あなたは、これに関心がありますか。 美しさは、何でしょうか。 語り手は、あなたにその質問をしています。 あなたは、返答しなければなりません。 みなさんが、ではない - それは不可能です。 たとえ一人でも、です。 あなたの返答は、何でしょうか。 尊敬を込めて、お訊きしていいなら、 その問いに対する、あなたの応答は、何でしょうか。 美しさは、何でしょうか。 それは、山々にあるのでしょうか。 影に、でしょうか。 これら樹々のもと、木漏れ日に、でしょうか。 それは、月の光に静かな水面でしょうか。 または、晴れた晩の星々でしょうか。 または、美しい顔 - 均整がとれて、 内にあの重みと美しさを、持っている。 またはそれは、美術館に、 絵画、彫像にあるのでしょうか。 パリのルーブルには、すばらしい彫像があります - サモトラケの勝利の女神像です。 驚くべき彫像です。 それが美しさでしょうか。
22:33 で、この質問をすべきです。 雑誌での美人ではない。 それが美しさでしょうか。 丁寧にメイクなどをした、 美しい女の人 - それが、美でしょうか。 で、私たち自身に、この質問をすべきです。 なぜなら、男、女はいつの時も、このものを探し求めているからです。 そういうわけで、美術館が重要になるのです。 なぜなら、私たち自身では、とても醜いからです。 罪深い、のではない - それは、用いるには間違った言葉です。 私たちは、砕けています。 断片化しています。 私たちはけっして、何か全体的なものが、 ホリスティック(全包括的)な生き方が、見えません。 私たちは、美しさは向こうにあると、思うのです - 絵画に、キーツの麗しい詩に、 または、すばらしく書かれた文学に、です。 で、美しさは、何でしょうか。 あなたは、語り手が説明するのを、待っているのでしょうか。 または、あなた自身に、訊ねたことがあるのでしょうか。 または、専門家が言ってくれるのを、探し求めているのでしょうか。 私たちは一緒に、それに入れるでしょうか。 語り手が、あなたを確信させたい、 あなたに何かを示したい、告げたい、ということではない。 それを理解することが、とても重要です。 彼は権威ではありません。 彼は公的人物ではありません。 彼は、そのすべての醜い評判、成功、 ひとかどのものになることが、 嫌いです。 そのとき、その人物を脅すことができます。 理解できます。 しかし、そのようなものではない。 私たちは二人の人間です - 自分たちの存在の複雑な問題全体について、ともに話し合っています。 で、美しさは何でしょうか。 美しさは愛でしょうか。 美しさは楽しみでしょうか。 美しさは、気力を、感動を 与えてくれる何かでしょうか。 あなたは、「あの絵は、何とすばらしい。 何と美しい」と言います。 で、美しさは何でしょうか。 一緒にそれに入っていいですか。 一緒に、です。
26:33 あの向こうの、あれらの丘が見えるとき - 青空と、 空に際立つあれら山々の線と、 日焼けした芝生に 幾つかの影と、 影濃き樹々 - それを見つめるとき、 即時に言語化するのでなく、それを見つめるとき、 または、大きな山が見えるとき - 雪に満ち、 高い峰々、 一度も汚染されたことがない空、 山のこの荘厳さが見えるとき、 何が起きるでしょうか。 あの山の荘厳さ、 その甚大な堅固さ、 その偉大さ - その山が、見えるとき、 その瞬間、何が起きるでしょうか。 あの丘、あれらの影や、 これら樹々の下のこの木漏れ日が、見えるとき、です。 一秒の間、 山の偉大さが、私たちの些細さすべてを、追い払います - 私たちの悩みと問題すべて、生の苦労すべてを、 その一秒の間、です。 そのときあなたは、静寂になり、見ます。 ですね?
28:43 子どもを取ってみてください。 小さな男の子か女の子です。 彼らは一日中、走りまわり、 叫んでいました。そうですね、 少しわがままです - それはすてきですが、 親たちは、子どもにそのようであってほしくない。 彼らにすてきな玩具(おもちゃ)を与えるとき、 彼らのわがままに、何が起きるでしょうか - 複雑な玩具を、です。 彼らの全エネルギーが、その玩具に集中されます。 彼らは、わがままではありません。 その玩具を壊すまでは、です。 そのとき、全部が再び始まります。 すなわち、玩具は、 - どうか、聞いてください。 私たちは、ともに話し合っています - その玩具が、子どもを没入させます。 玩具ばかりが重要になります。 その子は、それが大好きです。それを握りしめ、それにキスします。(話に)付いてきていますか。 すり切れたテディベアを、見たことがあるでしょう。 そのすべてのわがままは、去りました。 なぜなら、玩具が、わがままを没入させたからです。 玩具が重要になります。 ですね? あなたが母親や父親であるなら、これはご存じです。 玩具は、あいにくテレビです。 で、山が一秒の間、私たちを没入させます。 それが私たちの玩具です。 私たちは我を忘れます。 これが現実です。 あなたは、すばらしい彫像が見えるなら - ギリシャ彫刻だけでなく、 古代エジプトのものも、です。 それらの、とてつもない大地の感覚、 充実、豊かさ、 安定、威厳が、です。 一秒の間、一瞬の間、それらの威厳、 それらの無量性が、私たちの些細さを、追い払うのです。 で、私たちは、玩具によって没入します。 大人たちも、です。 それはたぶん、彼らのビジネス、 政治での彼らのごまかしなのかもしれません。 で、これらすべてのものごとが、私たちを没入させます。 もし、何も没入させてくれるものが、無いのなら、 あなたは、憂鬱になります。 それから逃避しようとします。 私たちのあるがままから逃げ去るために、あらゆる種類のことをします。
32:17 で、美しさは、 何か、あなたが無いとき、 起きるものですか。 あなたが、自分の問題すべて、 自分の心配、不安全とともに、 - あなたが愛されていても、愛されていなくても - あなたが、心理的な複雑さすべてとともに、無いとき、 その状態が、美しさです。
33:04 これは、冥想の問題の一つです。 養成すること、 実践すること、 来る日も来る日も、です - 自分が無いことを見るように、です。 そして、実践している実体は、誰でしょうか。 理解できますか。それは、同じ玩具です。 それは冥想と呼ばれるというだけです。 で、あなたやKが無いところ、 美しさがあるのです。 私たちが言いましたように、美しさは楽しみではありません。 それは感受ではありません。
34:03 で、私たちは、楽しみについて、 ともに話し合うべきです。 なぜなら、私たちにとって、楽しみは、とてつもなく重要なことであるからです。 日の入りの楽しみ、 あなたが好きな誰かに会う楽しみ、 楽しく過ごすこと。 で、私たちはともに、楽しみの概念全体について、話し合うべきです。 なぜなら、それが私たちの欲しいものであるからです - あなたが正直であれば、です。 それが私たちの困難です。私たちはけっして、 真剣に自己に正直でないのです。 ですが、私たちは、自己に怖ろしく正直であると、 さらなる厄介につながるかもしれないと、思うのです - 自己にとってだけでなく、自分の夫、妻等にとって、です。 で、恐れ、罪悪、関係の 本性を理解し、日常生活の 動きすべてを、理解するには、 それをごく間近で、見つめなくてはいけません - それを制御し、形作るのではなく、 これは、そのように、あのように行かなければならない、と言うのでなくて、です。 初めに、それを見つめる - 恐れなく、 憂鬱にならずに、 それを何とかしなければならないと感じないで、です -
35:59 で、私たちはともに、楽しみは何かを、探究しようとしています。 美しい車を所有する。 または、十二世紀のすてきな家具を持つ - それを磨く、それを見つめる、 それを鑑定する。 イングランドには、特定の部屋に、或る家具があります。 それは、十六世紀、十五世紀頃のものです。 そのために、大変多くのお金が、支払われました。 それを見守っていると、大きな楽しみを与えてもらえます。 すると、自己を、その家具と同一視します。 すると、あなたはその家具になります。 なぜなら、何であれ自己を同一視すると、あなたはそれであるからです。 それはイメージなのかもしれません。 それは一つの家具なのかもしれません。 それは、一人の男や女なのかもしれません。 それは、何か観念、何か結論、 何かイデオロギーなのかもしれません。 何か、より大きなものや、便利なものとの 同一視すべては、 満足できます。 あまり不快を与えません。 それは、大変多くの楽しみを、もたらしてくれます。 楽しみは、恐れに伴います。 あなたがそれを見守ったことがあるのか、私は知りません。 それはコインの裏側です。 でも私たちは、裏側を見たがらない。 楽しみが一番重要なものであると、 自分自身に言うのです。 ドラッグをとおしてでも - それは今、この国で、ますます多くなっています。 アヘン、コカイン、アルコール - それらはご存じですね。世界で起きていること、 特に、この国で、です。 それは、一定の無責任を生み育てます。 一瞬の間、一定の気力、エネルギーを与えてくれます。 頭脳を静かにします。たぶん頭脳を鈍らせます。 究極的に、人間を破壊します。 あなたはこれらを、テレビで観たことがあります。 これらを観たことがなくても、誰かを知っている、 などです。 私たちは、楽しみから始めて、破滅に終わるのです。 そして、何かを、女や男を 所有する楽しみ。 誰かに対する 権力の楽しみ。 それは、家事のお手伝いさんがいるなら、その人物へ対して、 妻や夫、誰かしらに対して、かもしれません。 私たちは力が欲しいのです。 ですね? これらについて、すっかり正直でありましょう。 私たちは、権力を賞賛します。 権力を絶賛します。 権力を崇拝します。 それが、宗教の位階制度の 霊的な権力であっても、 政治家の権力、 金銭の力であっても、です。 語り手にとって、権力は悪です。 そういうわけで、信奉者たちは、知識をとおし、 覚りをとおし、権力をほしがりますが - 彼らが語るそれら腐ったものを、ご存じでしょう。 覚りが無い、ということではなく、 彼らが語る腐ったもの、愚劣、戯言です。 それが、彼らに権力を与えます。
40:39 すなわち、それを続けてよろしければ、 私たちの教育、 テレビ、 環境、雰囲気 - それらが、私たちを凡庸にしています。 私たちは、他の人々が言うことを、あまりに多く読みすぎます。 「凡庸(ミーディオウカー)」という言葉は、 丘を途中まで登り、けっして頂上に到らない、という意味です。 成功ではない - 成功は、まったくの凡庸さです。 これらすべての事柄について、強調して話して、すみません。 あなたが聞きたくないのなら、それもまた結構です。 あなたは、娯楽として語り手を楽しませていないし、 彼はあなたを楽しませていないのです。 これらはすべて、怖ろしく深刻な事柄です。 私たちは、他の人たちに権力を与えます。 なぜなら、私たち自身は、権力、地位、身分を 好きであるからです。 ゆえに私たちは、それを他の誰かへ、手渡します。 それから私たちは、それを崇拝し、礼賛するか、賞賛します。 私たちは、幾千年間、そのように生きてきました。
42:23 で、 権力、 同一視。 安全、金銭を持つこと。 金銭が自由を与えてくれると感じること - それは、全く自由ではありません。 自由の中では、自分の欲しいものや好きなものを、選択できます。 それが自由でしょうか。 あなたが、この自由の問いに入ったことがあるのか、私は知りません。 自由は、どういう意味でしょうか。 天国において、ではない。 あのジョークを憶えていますか -私がジョークを繰り返してもいいですか。 二人の人が天国にいます。 翼と後光、それらを持っています。 一人がもう一人に言います - 「私は死んでいるのなら、なんでこんなに気持ちが悪いんだろう?」と。 つかめましたか? で、すべての形の楽しみが、私たちの生の一部です。 それは、ますます扇情的になりました。 ますます、 騒がしく、 俗悪に、凡庸に なりつつあります。 で、私たちは、自らの楽しみを続けます。 その跡に、恐れが続いてきます。 で、この感受の活動を理解しないのなら、 恐れと楽しみは、続くでしょう。
44:40 感受は、何でしょうか。 今、それに入っていいなら、です。 その言葉の実際の意味は、「諸感覚の活動」です。 ですね? 諸感覚のその活動は、部分的であるのか - それはいつもそうです - または、感覚すべてが、充分に目覚めているのか、です。 理解できますか。 それは部分的であるとき、制限されています。 ですね? あなたは、もっと多く、もっと多く欲しいのです。 「もっと多く」は、過去の感受が 充分でなかったことを、意味しています。 あなたは、それをもっと欲しい。 様々な思想の学派へ行き、 一つの宗派から別のへ行きます。 この国で、そして、よそでも、これらを 見たことがありますね。 で、感覚すべてにとり、ホリスティック(全包括的)な活動が、あるでしょうか。 私の問いを理解できますか。 私は、あなたに質問しています。 私たちの感受は、制限されています。 あなたは、もっと上の感動を得るために、ドラッグ等をとります。 それはやはり制限されています。 なぜなら、もっと多くを求めているからです。 「もっと多く」を求めるとき、いつも「小さいもの」がある。 ゆえに、それは部分的です。 いいですね?単純です。 で、私たちは訊ねています - 感覚すべてのホリスティック(全包括的)な気づきが、あるでしょうか。 ゆえに、「もっと多く」を求めることが、けっしてないのです。
47:04 これらに付いてこられているかと、思われます。 私たちは一緒にここにいますか。 たとえ部分的にでも、です。 感覚すべてのこの全的な充分な気づきが、 あるところ、 - その気づき、です。あなたがそれに気づくのではない。 諸感覚それ自体の気づきです - そのとき、中心が無いのです - そこに、全体性への気づきがある中心が、です。 理解できますか。 あなたは、あれらの丘を見つめるとき、 視覚の目、視神経が作動してだけでなく、 見つめられるでしょうか - 感覚すべてでもって、 あなたのエネルギーすべて、注意のすべてでもって、です。 そのとき、全く「私」が無いのです。 そのとき、私が無いとき、もっと多くを求めることや、 もっと良くなろうとすることが、ありません。
48:20 それから、私たちはまた、ともに話し合うべきです - 悲しみは何でしょうか。 理解できますか。これらすべては、互いに関係し合っています。 罪悪、 心理的な傷 - それを、ほとんどの人々は持っています - そして、それら心理的な傷の帰結が、何なのか、 自分の養成した知性の虚栄 - それは傷つきます - そして、自己のまわりに築いてきたイメージ - 他の何でもなく、それが傷つきます。 私たちは、それらに入りました。 私たちは、関係について話をしました。 私たちは、恐れ、楽しみについて、話をしました。 それらはすべて、相互に関係しあっています。 それらは、少しずつ取られるべきものとか、 分離してから、「これが私の問題です」と言い、 それに、すがりつくべきものではありません。 もしあなたが、「私はそれを解決できる。 他は気にしない」と言っても、 他は、そこに留まります。 で、この動き全体が、見えるでしょうか - 一つの動きだけではなくて、です。
50:04 で、私たちは、悲しみについて、話をしたいのです。 これは、無量の主題です。 それにより、目に涙が浮かびます。 言葉ではない。 「悲しみ」という言葉は、 男たちと女たちの精神に、 時の始まりからあったのです - この悲しみの感情が、です。 悲しみはけっして、終わったことがありません。 あなたが旅行をするなら - 特にアジアやアフリカの世界で、です- 無量の貧困が見えるのです。 無量です。 涙を流したり、何か社会改革を行ったり、 彼らに食べ物を与えたり、 衣服を与えたり、などします。 しかし、そこにはやはり、悲しみがあるのです。 そして、あなたが失ってしまった誰かの悲しみが、あるのです。 あなたは彼らの写真を、(暖炉の)マントルピースやピアノに 載せていたり、壁に掛けています。 そしてそれを思い出す。 見つめ、涙を流す。 その写真に関連した記憶すべて、です。 その写真でもって忠実に、維持し、養育し、継続します。 その写真は、その人物ではない。 その写真は、記憶ではない。 しかし私たちは、それら記憶にすがりつく。 それは私たちに、ますます悲しみをもたらします。 そして、人生でほとんど何も持たない人々の悲しみです。 お金、 ごくわずかな家具だけでなく、 また、 無知も、です。 何か大きなことへの無知だけでなく、 自分たちの日々の生についての無知、 内側に何も持たないことのそれです。 豊かな人々は持っている、ということではない。 彼らは銀行口座には持っていますが、内側には何もない。 これらを見てください。
53:30 そして、人類の無量の悲しみがあるのです -すなわち、戦争です。 数万人、数百万人が、殺されました。 ヨーロッパで見たことがあるのなら、 すべて直線に、数千、数万の十字架です。 どれほど多くの女、男、親たちが、泣いたのか。 この国でだけではなく、 あらゆる共同体、あらゆる国、あらゆる国家でも、です。 私たちは、過去、歴史的時代において 毎年、戦争があったことを、悟ったのでしょうか。 部族戦争、民族戦争、イデオロギーの戦争、宗教戦争。 中世には、人々は拷問されました。 焼き殺されました。 彼らは異端者でした。 これらはご存じでしょう - あなたが聞いたことがあり、見たことがあるなら、です。 人、男や女の始まりから、 悲しみは、様々な形で継続してきました。 悲しみの貧しさ、無知の貧しさ、 願望を充足できないことの貧しさ、 達成の貧しさ - 達成すべきことは、もっとあるのです。
55:40 このすべてが、無量の悲しみを、もたらしてきました。 個人的な悲しみだけでなく、 人類の悲しみも、です。 カンボジアで、そこで起きつつあること、 (ソビエト・)ロシアで、起きつつあること - 全体主義国家で、です。 私たちは、それについて読みますが、涙一つ、流しません! 私たちは、これらに無頓着です。 なぜなら、私たちは自分の悲しみに、 自分のさびしさ、自分の不当さ、無能さに、消耗しているからです。 で、私たちは、自分自身に問おうとしています。 悲しみに、終わりはあるのでしょうか。 終わるのです - 悲しみの後、終わった後に、 何が起きるのか、ではない。 私たちの個人的悲しみに、終わりがあるのでしょうか - その意味合いすべてとともに、です。 醜い顔 - 私はそれらを醜いとは呼ばないでしょう。 好きでない顔。 これらの何もかも、ご存じでしょう。 そして訊ねます - そもそも真剣であり、見出そうと 関与し、参与しているのなら、 悲しみに、終わりがあるのでしょうか。 もし終わりがあるのなら、そこに何があるのでしょうか。 なぜなら、私たちはいつも、報償がほしいからです。 何かを、です - 私はこれを終わらせるなら、あれを持つにちがいない、と。 私たちは何をも、けっしてそれ自体で終わらせません。 それ自体のために、です。 で、この悲しみは、終わりうるのでしょうか。 それは、こういう意味です - 悲しみは、愛とともに、ありうるでしょうか。
58:34 それに入りましょう。 私は、息子を愛しています。 もし私が息子や娘を持っているなら、彼らを愛しています。 彼らは、あらゆる種類の人間になります - ドラッグ。その過程全体を、ご存じでしょう。 私は、泣きます。 それを悲しみと呼びます。 悲しみの、愛に対する関係は、何でしょうか。 質問を理解できますか。 私はあなたに訊ねています。 どうか、見出してください。 私たちは、悲しみが何かを、知っています。 大きな痛み、悲痛、さびしさ、 孤立感。 私の悲しみは、あなたのとは全然違っている、と。 まさにその感じの中、私は孤立したのです。 私たちは、知っています - 言語的にだけでなく、 深みに、感じ、内的な気持ち、 まさに存在に、です。 私たちは、その言葉の意味が何かを、知っています。 そして、悲しみの、愛に対する関係は、何でしょうか。 そのとき私たちは、訊ねなくてはなりません -愛は、何でしょうか。 あなたが、この質問をしています。 語り手が、ではない。 愛は何でしょうか。 その質問をするとき、 それへ肯定的に来るのでしょうか - 「愛はこれである」という意味で、です。 それに一定の定義を、 言語的定義や内的定義を与え、 それを通すのか。 神の愛、書物の愛、樹々の愛 - 一ダースのものの愛。 で、愛は何でしょうか。 この質問をなさったことがありますか。 あるのなら、 それは感受でしょうか。 性的なもの、麗しい詩を読むこと、 これらすばらしい古い樹を見ること。 愛は楽しみでしょうか。
1:01:52 どうか、自分自身に対して、怖ろしく正直でなければなりません。 さもないと、これには、面白さは、何もありません。 ユーモアは必要です - 笑うことができること、 良いジョークを見つけること、 一緒に笑うことができること。 あなたが自分一人でいるときでなく、一緒に、です。 私たちは自分自身に訊ねています -愛は、何でしょうか。 愛は欲望でしょうか。 愛は思考でしょうか。 愛は、何かあなたが保ち、所有するものでしょうか。 愛は、あなたが崇拝するものでしょうか。 理解できますか。 塑像、イメージ、象徴を崇拝する - それが、愛でしょうか。 象徴、塑像、画像は、思考により組み立てられます。 あなたの祈りは、思考により組み立てられます。 それが、愛でしょうか。 どうか、あなた自身で入ってください。 そのすべてが愛でないことを、悟るとき - あなたの楽しみ、感受、 よい葉巻、よい食事を とること、 よい衣服を、よい趣味で 着こなすこと。 で、楽しみ、欲望は、 - もちろん恐れは、明白に愛ではありません。 あなたは、憎しみを見つめたことがありますか。 あなたは憎むなら、恐れを払いのけます。 ええ。 あなたが本当に誰かを憎むとき、恐れはありません。 ですね?あなたがそうでないのを、願っていますが。
1:04:44 で、私たちは、何が愛でないかの否定をとおして - 自己において、愛でないすべてを、 完全に否定し、全的に 脇に置けるでしょうか。全面的に、です。 そのとき、あの香りがあるのです。 ひとたびあなたが、愛でないそれらのものを、 完全に脇に置いたなら、あの香りは、けっして去りません。 愛は慈悲と伴いますが、そのとき、 愛は自らの智恵を持っています。 それは、思考の知恵ではありません。 科学的な精神、頭脳の知性ではありません。 その愛、その慈悲を持っているとき、 嘆きはなく、痛みはなく、悲しみはないのです。 しかし、それに来るには、 - すみません、あなたはそれに来られません - あなたが、それでないすべてのものを否定するとき、それはあるのです。 建築家の美しさではない - それは、石により組み立てられます。 あなたが、あれら大聖堂、寺院、神殿、 モスクを、見たことがあるのなら、 それらはすべて、思考と楽しみや、 信仰、崇拝により、組み立てられています。 そのすべては、愛でしょうか。 愛があるならば、あなたは決して、他の一人を殺さないでしょう。 決して、です。 あなたは、自分の食べ物のために、他の動物を決して殺さないでしょう。 もちろん、どうぞ、 肉を食べつづけてください - そうしたいなら、です。 私は、あなたに語っていません。
1:07:23 で、それは、出くわすべき無量のものなのです。 誰もそれを、他の一人に与えられません。 何もそれを、あなたに与えられません。 しかし、あなたが自らの存在において、それでないものすべてを、脇に置くなら - 思考が組み立ててきたすべて、 儀式、続いていることすべて、 特別の衣装を、です。 あなたが自らの問題すべてとともに、全的に空っぽであるとき、 他のものがあるのです。 それは、最も肯定的なもの、 最も実用的なことです。 生において最も非実用的なことは、軍備を築くこと、 人々を殺すことです。 そうでないですか。 それが、あなたたちが自らの税金を使っているものなのです。 私は政治家ではありません。 だから、これらを聞かないでください。 でも、私たちがみんな何をしているのかを、見てください。 私たちがしていることが、私たちが創り出してきた社会です。 その社会は、私たちと異なっていません。 私たちは、社会を改革するかもしれません。 私たちの多くが、それをしています。 社会主義者、資本主義者、 特に共産主義者は、外側を組織しようとしました。
1:09:22 で、愛は、どの組織とも、どの人物とも、 何の関わりもありません。 海からの涼しいそよ風のように - このそよ風です。 それを閉め出すことも、それとともに生きることも、できます。 あなたがそれとともに生きるとき、 それは全然違った次元です。 それへの道はありません。 真理への道はありません - あなたのも、私のも、です。 いかなる道もない - キリスト教のも、ヒンドゥー教のも、宗派のも、です。 やれまあ。 で、それを生きなくてはいけません。 あなたは、あなた自身の 心理的な本性と構造全体を 理解したときにのみ、それに来られます。
1:10:35 私たちはいつか、話し合うべきです -おそらく明日に、です。 今、1時20分前です。 ええ、1時20分前です。 あなたは、死について、ともに話し合いたいですか。 それとも、明日まで待ちますか。 これは、明日お出でくださいとの、招待ではありません。 あなたが来るのか来ないのかは、 語り手にとって、全然大切ではありません。 それは、死は、きわめて複雑な問題です。 死は感受ではありません。 あなたは、今、語り手に、一緒にこれらへ入ってほしいですか。
1:11:27 聴衆: はい。
1:11:30 K: ほんとうに確かですか。

聴衆: はい。
1:11:33 K: いいえ。どうか、あなたがこれを訊ねています。 なぜなら、これはきわめて深刻な事柄であるからです。 私たちが話してきたことすべては、きわめて深刻です。 私たちは、それに入る時間が、ありました。 理解できますか。 私たちは詳細に、これらを通ってきました。 これらのことには、六回の講話等の間に、 入られます - どの数の講話、 どの数の会話の間にも、です。 しかし、死について話をする - それは、陰鬱な主題ではありません。 それは、何か回避されるべきこと、 人生の終わりのことではありません。 明日まで待ったほうがいいと、私は思います。 ちょっと待ってください。語り手が言うべきことを、ただ聞いてください。
1:12:42 もしあなたが、私たちが話してきたことを生きてきたのなら、 これらへ繊細に、優しく、静かに来なければなりません - 好奇心からではない。 ためらながら、繊細に、それへ来る - 或る意味で、大きな威厳をもち、 内的な尊敬をもって、です。 誕生のように、それはものすごいことです。 死について話をすることはまた、創造をも含意しています - 創案、発明ではない。 科学者たちは、発明しています。 なぜなら、創案、発明は、知識から生まれるからです。 創造は継続的です。 それは始まりもなく、終わりもない。 それは知識から生まれない。 そして死は、創造の意味かもしれません。 来世を持つこと - もっと良い機会、 もっと良い住宅、もっと良い冷蔵庫、ではない。 それは、ものすごい創造の感覚かもしれません - 始まりと終わりがなく、果てしなく、です。 1時間20分の後、 今、それについて話すこと - 1時間10分か5分か。それは大事なことではない。 それは、あなたの注意、気づかいを必要とします - それへの繊細な接近の感覚を、です。
1:14:49 で、よろしければ、 たいへん謙虚に、尊敬を込めて、お願いいたしますが、 それについては、明日の朝、話してもいいでしょうか。 そのとき私たちはたぶん、もっと多くエネルギーがあるでしょう。
1:15:23 立ち上がってもいいですか。