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OJ85T4 - 継続が終わること
第4回公開講話
カリフォルニア、オーハイ
1985年5月19日



0:24 あなたが、好奇心から来られなかったことを、願っています - 雑誌や新聞に 出ていた記事には関わらず、です。 それらはただの言葉です。 それら言葉に釣られないでください - 提案してよろしければ、です。 どうか、 評判や 年齢、 書かれたことや話されたことすべてに、 感心しないでください。 なぜなら、私たちはともに話し合っているからです - 語り手が重要である、ということではない。 この世界で、人格は全く価値を持ちません。 ですが、私たちがともに話し合おうとしていることは、重要です。 世界はこういう状態にあるので、 私たちは真剣であるべきです。 私たちは、すっかり熱心であるべきです -自分たちの考えることについて、 なぜ考えるのか、 自分たちの先入観が何なのか、 なぜ特定の宗派、派閥や集団に属するのか、 なぜ一定のイデオロギーを持っているのか、 なぜ、単にうれしいものを追求するのか。 好きや嫌いなもの、自分たちに訴えかけるもの、魅力的なものを、 追求するのか、です。
2:58 もしも私たちが、少なくとも今朝、一時間かそこら、 そのすべてを脇に置けたなら、 - それは、まったく大変です - なぜなら、私たちはただ、特定の行程で機能するからです 自らの意見、判断、評価に応じて、です。 それらは正しいのかも、間違いなのかもしれませんが、私たちは、けっしてそれらを問いません。 私たちは、自らの信念、理想、信条を、決して問いません。 なぜこれらを持っているのかを、です。 そして特に、語り手により説得されないこと、 感心しないことが、重要である、 と、私は思うのです。 これは、知的に、情緒的に、 思想的に、あなたを刺激し、 あなたを興奮させる 集会ではありません。 語り手にとって、これはきわめて重要です - 人類のこのすべての苦労と悲しみを、見ることが、です。 もし私たちがともに、ここにいて、 自分自身にごく正直でいられるなら - 何も自己欺瞞がなく、 どの明確な結論にも到らず、 究明し、動き、さらに行くのなら、 そのとき私たちは、ともに物事について話し合えます - 単に語り手から聞くだけ、 わずかな観念を集めるだけ、 同意、不同意をするだけでなく、 私たちは今朝、自分たちの生活から すっかり同意と不同意を脇におけたなら、と。 少なくとも、今朝の間だけでも、です。 そのとき私たちは、会話ができます - 二人の友のように、一緒に すてきな木立の小道を、歩いて行き、 自分たちの問題を話し合う - 互いに説得しあうのではない。 なぜなら、二人は友達であり、しばらくの間、知り合っていたからです。 それら友だちは、普通なのか、本当の友なのか。 言葉の一番深い意味で、本当の友であるなら、 彼らの間に、障壁はありません。 自分たちの内密な問題、自分たちの危機について、 話し合えます - ただ経済的、社会的、 宗教的、政治的だけでなく、 自分たちの意識における危機、 生における危機について、です。 これらのことについて話し合うには、彼らは自由でなければなりません。 自由はとても重要です。 自分の好きなことをする自由ではない - それは、私たちがみんなやっていることです。 なぜなら、一人一人が自己を表現したい、 自己を充実させたい、何者かでありたいと思うからです。 ご存じでしょう - 世の中で起きている利己です - 神の名においても、 教会の名、政治の名などにおいても、です。
7:20 で私たちは今朝、とりわけ、探究すべきです - なぜなら、私たちは過去三回の講話と 質疑応答の会合の間、していたように、 議論しようとしているからです。 私たちは、生の様々な様相について、議論してきました - 葛藤、抗争、 お互いとの日々の抗争、 自己の中の日々の葛藤。 そして、世界で起きている恐ろしいこと - それらは本当に恐ろしく、おぞましい。 もしあなたが、これらの国々のどこかへ行ったことがあるなら、 これらと直接的に、接触します - 新聞や雑誌をとおして読むとか、 政治演説をとおしてでなく。 世界は、本当に深刻な危機にあります。 私たちは、それに無関心でいるようです。 そして、人は他の人に対して、怖ろしく残酷でした。 すなわち、戦争、強制収容所。 それらは、いまだに起きています。 大虐殺(ホロコースト) - 先の戦争中だけでなく、 この人間への拷問、 強制収容所への監禁、 イデオロギーのための百万ごとの殺害 - (先の大戦での)特定集団の人々の六百万だけではない。 中国、ロシアは、何百万人も殺してきました。 私たちは、これらに無頓着です。
9:40 私たちは、人間として、 何千年に何千年も、進化してきましたが、 いまだに、私たちの今のまま、これまでのままなのです - わずかに洗練され、 わずかにお上品になり、 わずかに衣・食がよくなった。 すべて外側です。中世の司祭者たちの衣。 でも内的に、私たちは、これまでのままなのです - なかなか残忍、冷酷で、利己的です。 私たちはこれについて、一緒に話し合おうとしています。 語り手は、何も新しいことを、言おうとしていません。 私たちは少し後で、何が新しいのかと、創造は何かに、入るでしょう。 でも、これらは明白な事実です - 数百万人が飢えています。 貧困は増大中です。 人口過剰な大地。 あなたたちは、行って、これらの幾つかを見るべきです。 そのときあなたは、単に自分の 個人的利害に関心を持つだけに、ならないでしょう。 人は、人間たちは、いつも自由を、探し求めてきました。 それは、彼らの人種的、 宗教的、経済的、 社会的なことの一つでした - 自分たちは自由であるべきだ、と。 その自由は、民主主義世界では、濫用されてきました。 すなわち、私たちは皆、別々の個人であり、 まさしく自分が好きなようにできるのだ、と。 誰も、じゃまをしてはならない、誰も、私たちを抑制してはならない、と。 それが、私たちみんながやりたいことなのです。 それは、世界中で起きつつあることです - 全体主義の世界は、除きます。 そこで人々は、エリートにより屈従させられ、 何をすべきか、何を考えるべきかを、言われます - 何を描くべきか、どの種の文学、どの種の音楽なのかなど、です。 私たちはただ、これらを指摘しているだけです。 どちら側にも付こうとしていません。 これらを理解するなら - 言葉だけでなく、 自らの心の内、自己の深みに理解するなら、 そのとき私たちは、行為するでしょう。 観察と行動は、同じことなのです。 それらは、二つの別々の(分離した)活動ではありません。
13:19 で私たちは、ここ三回の講話の間、話してきました - 葛藤について、 心理的な傷と、それに伴う結果、 罪悪について、です。 たぶんあらゆる人間は、何かを経ていくのか、 保っています。 保たれるべき何かを、です。 私たちは、恐れについて話してきました。 昨日の朝、私たちはともに、悲しみと、 悲しみの終わりについて、 話をしました - そして、愛、慈悲は何なのかについて。 それは、親切さとは、いかなる関わりもありません - 哀れみ、 祈り、 献身とは、です。 それらは、愛と慈悲と、いかなる関わりもありません。 愛と慈悲には、自らの智恵があるのです。 私たちは昨日の朝、それについて一緒に話していました。
14:44 今朝、私たちはともに、話し合うべきです。 どうか、よろしければ、いつの時も心に留めおいてください - 私たちはともに話し合っている、ということを、です。 語り手はあなたに、何を考えるべきかを、言っていません。 何を考えるべきかでなく、考えるとは何か、です。 正しい思考、間違った思考、高尚な思考、下劣な思考 イデオロギーの思考、弁証法的な思考、ではない - それらは、やはり考えることなのです。 どの枠組み、どの仕組みに入れても、それはやはり考えることです。 それは、右の考えることでも、極端な左のでも、 極端な右のでも、極端な中道のでも、 それはやはり考えることです。 考えることは、人へ甚大な善をもたらしてきました。 考えることは、大きなテクノロジーを生産しました。 考えることが、医薬、外科手術を生産しました。 考えることはまた、怖ろしい戦争をも、産出しました。 残忍な、おぞましい残虐行為をも、です。 で、私たちが話しているのは、考えるとは何かです - どのように考えるとか、ともに考えることではない。 私たちは、考えることの本性を理解するとき - 単に言語的とか知的にでなく、 考えることの性質を、考えることの起源を 理解する。 本当にそれをつかむとき、 もっとはるかに行けるのです。 しかし、単に、考える領域に留まること - 利巧な法律家、 いかがわしい法律家、 彼らはみんな、考えます。 それは隠者であっても、 僧侶であっても、 あなたが妻に関係していても、 認知、そのすべては、思考の動きです。 私たちは、ともに考えて、ゆえに徒党を組むにしても、 ともに、何かイデオロギー的国家に所属しても、 ともに考えて、カトリック、プロテスタントと、 キリスト教の分派すべてになっても - あなたは注目されたのか、私は知りませんが、 この小さな村には、何ダースも教会が、あるにちがいありません。 私はその数を知りません。 一度も数えたことがありません。 でも、それはやはり考えることです。
18:31 私たちは、その問い、考えるとは何かに入ったので、 今、それには入りません 。 それに興味があるなら、本を読むか、考えるか、できます。 でも、それは相当に単純です。錯綜していません。 すなわち、私たちの考えることすべては、記憶に基づいています。 私たちの考えることすべては、知識に基づいています。 その知識が何であっても、 それが、大きな知識、蓄積された知識であっても、 全然無知である一人の人間の知識であっても、です - 彼は、読み書きを知らなくて、 小さな村落に、貧困に苦しむ掘っ立て小屋に、生活している。 彼もやはり、考えています。
19:31 で、考えることは、経験に基づいています。 経験はいつも、制限されています。 ゆえに、知識はいつも、制限されています - 今でも、未来でも、過去でも、です。 私たちの記憶もまた、制限されています。 なぜなら、それらはすべて、知識と経験に基づいているからです。 で、考えることは、いつも、 未来でも、現在でも、過去でも、いつも、 制限されています。 制限があるところ、葛藤があるにちがいありません。 いつの時も自己について考えているなら - ほとんどの人々はそうです。 自分はどう見えるのか、どう歩くのか、どう振る舞うのか、 どの種の宗教に自分は属しているのか、 自分の信仰は何か、など、 自分自身についてか、自分の観念などについて、果てしなく考えている。 それで、考えることが、人類を分割してきたのです - アメリカ人、ロシア人、アジア人、インド人、 極東、中東、ユダヤ、アラブなど。 それで、制限された思考があるところ - 思考はいつも制限されています -葛藤があるにちがいないのです。 物理的な葛藤でも、知的な葛藤でも、 イデオロギー的な葛藤でも、 男と女の間の葛藤でも、です。 それは今、起こっています。
21:17 で、私たちは、これらを観察して、一日の終わりに、 訊ねなければなりません - 自由は何なのでしょうか。 完全な、砕けていない自由が、 いったいあるのでしょうか。 「自由(フリーダム)」という言葉はまた、 自由に行為すること、 自由に考えることだけを、意味しません。 その言葉はまた、元来、愛を含んでいます。 自由(フリーダム)はまた、慈悲をも意味しています。 その自由は、大変とてつもないことなのに、 私たちはそれを、ごくごく小さな事柄に 変えてしまいました - 人間たちにとって、絶対的に必要であるのに、です。 すなわち、一人一人が、まさに自らがしたいとおりにしたいとか、 自らが持つべきだと思うものを、ほしいのです。 それが制限するのです - その言葉に含意された無量の自由を、です。 自由は、何かからではありません - 私のコップレックスからとか、私の先入観から、ではない。 そのすべては、かなり子どもっぽい。 この言葉を使うのを、お許しください。 自由は、 全的な終わりという意味合いです - 執着の終わりだけではない。 それはまたもや、自らの自我の属性です - 「私」の欠如、という意味合いです。 利己性の全的な欠如です。 それについて、ともに話し合いましょう。
23:50 私たちは今朝、ともに話し合おうとしていました - 先日、したようにです - なぜ私たちは、無秩序に生きるのでしょうか。 なぜなら、私たちはともに、死について話そうとしているからです。 昨日の朝、言いましたように、私たちはそれについて、話そうとしています。 それは、陰鬱な主題ではありません。 それは、何か回避されるべきことではありません。 それは、何か老人たちに関係することではありません。 それは、あなたが生まれた瞬間から死ぬまで、関係します。 それは、私たちみんなの回避不可能な定めです。 それは、一つ確実なことです。 他の確実なこと、他の最終的決定はありません。 死は、私たちの一人一人が向き合っています。 それについて、まもなく話すでしょう。 しかし、それを理解する、死の無量の意義を理解するには - それの恐れではなく、死をどのように乗り越えるのかとか、 どのように気持ちよく迎えるのか、ではない。 それについて、幾つも本が書かれているように、です。 すてきな考えですね - 幸せな死に方とは。 で、私たちはそれについて、話そうとしています。
25:29 しかし、そうする前に、私たちは自分自身で、見出さなければなりません。 なぜなら、それは・・・どうか、静かに聞いてください。 私たちはともに、仲良く話し合っています。 あなたをどの方向にも説得していないし、 また、あなたに慰めをも、与えていません。 また、「ええ、死を越えて何かがある」とも、言っていません。 それらのゲームは、あらゆる宗教、 あらゆる導師、あらゆるいかさま師により、やられてきました。 どうか、笑わないでください。 これは、あまりに深刻すぎるのです - 私たちはユーモアを持つべきでない、ということではない。笑うのは、良いことです。 しかし、笑いは、事実に向き合うのを回避する手段なのかもしれません。 で、それに気づかなくてはなりません。 私たちはユーモアを持つべきでない、ということではない。 良いジョークに 全身で笑う。 語り手は、たくさんのジョークを収集してきました - 低俗なジョークでなく、良いジョークを、です。 でも、語り手はそれに入らないでしょう。
27:06 で、私たちは初めに、考慮しなければなりません - 過去にそうしたように、です。 私たちはもう少し、それに入らなければなりません。 なぜ人間たちは、どの人種、 どの信仰、集団などにいても、 なぜ彼らは、無秩序に生きるのでしょうか。 無秩序の理由は、何でしょうか。 原因、根は何でしょうか。 私たちは互いに、この質問をしあっています。 どうか、語り手が問いに答えるのを、待たないでください。 なぜなら、あなたはその問いに応える能力、責任があるからです。 あなたは、見出す責任能力があります - なぜ私たちは無秩序を受け入れるのか、 世界中で、政治的、宗教的、 経済的、社会的に、です。 世界には、広大な無秩序があります。 戦争は、究極的な無秩序です。 で、無秩序の根は、何でしょうか。 私たちはそれを、問うたことがあるでしょうか。 または、あなたは単に、無秩序に生きていて、無秩序の中から、 秩序を見つけようとするのでしょうか。 質問を理解できますか。 無秩序な頭脳は、秩序を見つけられません。 ですね?それは通常で、全うだと思われます。 もし私が混乱し、不安定であり、 生の退屈と、ものごとを 何度も繰り返す退屈に捕らわれているなら - それが、性的行為であれ、イデオロギー的であれ - 私たちの頭脳は、機械的になってしまいました。 なぜなら、私たちは、専門家たちにより、コンピューター化されてきたからです。 すみません。ここには、幾人か専門家がおられます。 私たちは、宗教により、コンピューター化され、プログラムされてきました - これを信じるように、あれを信じないように、です。
29:56 で、私は訊ねています。 私たちは互いに訊ねています - 私たち自身、私たちの頭脳における 無秩序の原因 - 原因、または、原因の一つは - 私たちはそれを見ようとしています。 これが唯一つの原因であるとか、多くの原因があるとか、言わずに、です。 私たちは、それの真の原因を、見出さなくてはなりません - 原因とか、因の作用を 増殖させるのではなくて、です。 それは何でしょうか。 なぜ私たちは、無秩序に生きるのでしょうか - 私たちはそれに、向き合わなくてはいけません。 あなたが向き合いたくないのなら、向き合わないでください。大事なことではありません。 しかし、私たちが正直であるなら、 あなたが無秩序の因の作用を、見出したいのなら、 私たちは、探究しなくてはいけません - 先入観を持つのではなく、 無秩序のために、誰かを責めたり、私たちが生きる社会を 責めるのではなくて、です。 私たちが生きる社会は、私たちが作ってきたのです - お祖父さん、ひいひいお祖父さんたちが、です。 そして私たちは、社会を作りつつあります - 私たちの貪欲をとおし、野心をとおし、 攻撃をとおし、利己などをとおして、です。 これは、私たちが創り出してきた社会です - 宗教的な違い、国家的、民族的な違いなどです。 私たちの頭脳は断片化しているから、 全体的でなく、完全に活動的ではありません。 それは、内的に砕けています - 欲望、願望をとおし、 楽しみをとおし、 攻撃と暴力などをとおして、です。 それはけっして、ホリスティック(全包括的)でありません。 それが、無秩序の原因の一つでしょうか。 これに付いてきておられますか。 私たちの頭脳は、条件付けられてきて、 プログラムされてきたから - それが正しい言葉です。 コンピューターのようにです。 で、それは、特定の線に沿って、考えます。 その信条、その経験に沿って、行為します。 それが、私たちの無秩序の原因でしょうか。 つまりです - 私たちは検討しています。 私たちは、観察し、問うています - 分析していません。
33:09 少しそれに入ってもいいですか。 私たちは、自己分析や、専門家による分析でない、と言いました。 分析は、解析する、砕いてしまう、 という意味合いです。 分析しているのは、誰でしょうか。 質問を理解できますか。 私はあなたに、お訊ねしています -分析しているのは、誰でしょうか - 政治的なこと、宗教的なことなどだけでなく、 自己分析、 自己欺瞞、です。 「私は欺瞞されてはいけない」と言う。 「私は正直でなければならない」と。 で、私たちは訊ねています - それは分析ではない、と言っています。 なぜなら、「私が分析しよう」と言う分析者は、 分析されるものであるからです。 何も違いはありません - どうか聞いてください。 分析されるものと分析者との間に、何も違いはありません。 それらは同じです。 その常識、合理性を、見てください。 しかし私たちは、分析者と分析されるものを、分離してきました - あるいはむしろ、分析されるべきものを、です。 で、分析者と、分析されるべきものとの間に、 葛藤があるのです。 しかし、それらは一つであるなら - 現にそうです - そのとき、問題全体が、すっかり違ってきます。 思考することを離れて、思考者は無い。 ですね? 思考が思考者を作ります。 しかし、思考者は自分自身に対して、 「私は思考より分離している。 ゆえに私は思考を制御できる」と言います。 理解できますか。 一度本当に理解するなら、 葛藤は、すっかり違った意味を持っています。
35:37 で、私たちは分析していません。 ただ観察だけがあります - 観察をする実体はない。 ですね? ものごとを、ありのままに観察することだけが、ある。 しかし、「私はよく気をつけて見なければならない」、「私は正しく見ているのか」、 「これは正しいのか」、「これは間違っているのか」と言った瞬間、 あなたは、分析しています。観察されるものから、観察者を分離しつつあるのです。 もちろん、あなたはその樹ではありません。 そうでないことを願います。 しかし、あなたがこれらオークの樹を観察するとき、 「私は好きだ」、「嫌いだ」、「すてきだ」、「すてきでない」等の言葉を使わず、 それらを観察する。 ゆえに、ただ観察だけがある。 そのきわめて明瞭な観察 -何も偏見、先入観等なしの、 まさにその観察が、行為です。 私たちはそれに入るでしょう。 で、私たちは観察しています。 私たちの日常生活の無秩序を、観察しています - その退屈、疲れ、 その機械的な部分などを、です。
37:07 で、無秩序は、自己のこの分割が原因になって、起こされるのでしょうか。 「私は良くなければならない」、 「私は暴力的だが、或る日、暴力から自由になるだろう」、 「私は貪欲で、残忍だが、或る日、私は・・・」と。 すなわち、「私はその性質とは違っている」と言う実体、です。 そのとき彼は、その性質と葛藤になったのです。 しかし、その性質はあなたです。 これは理解できますか。 これを本当に、深みで理解するなら、 あなたは、葛藤をすっかり消去します - それが無秩序の原因です。 これを理解なさるのかと、思われます。 ごらんなさい。私は、私の性質とは、私の貪欲とは 違っていません。 しかし、「貪欲は外側か内側の何かであり、私はそれを制御しなければならない」、 または「それに屈する」と、私は言ってきました。 それが私の条件付けだったのです。 しかし、実際の事実は、貪欲は私であるのです。 私は、貪欲とは異なりません。 これを理解されましたか。
38:44 で、この分割、 私たち一人一人の心理的分割が、 無秩序の主要原因の一つなのかもしれません。 これを理解なさりましたか。 理解なさったことを、願っています。 それは、知的な離れ業ではありません。 それは、「そうか、私はそれを養成しよう」と言う何かではありません。 ただ、事実として見てください。 すなわち、私に心理的に分割があるかぎり - 私は自分の性質とは違っている。 私は自分の言葉とは違っている。 私は自分のイメージとは違っている。 私は暴力とは違っている、と。 その違いが、葛藤をもたらします。 葛藤が、無秩序の根なのかもしれません。 ですね? そして、行為者と行為するものとして、 何も分離が無いとき、 それらは同じで一つであり、分離不可能であるとき、 それが真実であり、正直で、実際であるならば、 そのとき葛藤は停止します。 全然違った動きが、起こります。
40:28 で、無秩序の原因の一つは、 国籍、宗教の間の分離です - ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒。 この世の中で起きている分割すべては、ご存じですね。 無秩序の停止があるとき、 秩序は自然です。それは、何か養成されたものではない。 それは、あなたが来る日も来る日も反復するものではない。 それは自然に、楽に、自由に来ます。 これを心に留め置いて - すなわち、葛藤は、無秩序の本質であるということを、です。 男と女との間、神と人との間 - 神がいるとして、ですが - 善と悪との間。 どうか、気をつけてください。分割があります。 善は、悪に根ざしていません。 善は、悪に根を持ちません。 理解されますか。 善は、悪の対極ではありません。 善が悪と関係を持っているなら、 善はやはり、悪によって制限されるのです。 ですね?理解できますか。 さあ、みなさん、動いてください。 対極、すなわち、 暴力と、その対極は非暴力です。 善が、非暴力の理解から生まれるのなら、 それは、善ではありません。 善は、悪と何の関係をも持ちません。 これは、実際の事実です。
42:48 では、死について話しましょう。 なぜなら、死の後、話すべきことが、まだあるからです - 宗教は何なのか。 人が、時を越えた時から、 人が探し求めてきたのは、何なのか。 物理的な快適さ、身体的な痛み、 心理的な心配などを別にして、 人は言いました - このすべての醜い残虐性と 卑俗さを越えて、何かがあるにちがいない。 思考が組み立てていないものが、何かあるにちがいない。 無量であり、名のないものが、何かあるにちがいない、と。 私たちは、見出そうとしています。 私たちはそれについて、ともに観察し、学ぼうとしています。 で、今朝扱うべきことが、多く、多くあるのです。 あなたたちが、これらに注意する辛抱、 エネルギー、活力を持たれることを、願っています。
44:10 死は、私たちみんなに共通しているものです。 で、この主題について、ともに話し合うのですが、 それは、とてつもない意義を持っています。 死は感受ではありません。 理解できますか。 それは、嘆くべきこと、 憶えておき、回避されるべきことではなく、 (暖炉の)マントルピースに載せて崇めるものではありません。 それは、無量の行為です。 で、私たちはそれについて、ともに話し合おうとしています。 人はいつも、死に怯えてきました。 それは事実です。 なぜでしょうか。 死は、何を意味しているのでしょうか - 死を越えて何があるか、ではありません。 私たちはそれに、まもなく入るでしょう。 死ぬのは、何かとてつもないことです。 回避されるべきことではない。それは回避できません。 ごく若いとき、何か病気をとおして死ぬかもしれません - 何か事故をとおし、親の過失をとおし、 飲酒、喫煙のしすぎをとおして、です。 そうですね、この醜い社会の全体の事柄です。 そして、老齢のための死があります - 事故、病気、老衰などをとおして、です。 で、ともに私たちは、それを探究しようとしています。 ともに、です - どうか、いつの時も、これを心に留めておいてください。 私たちは、そのとてつもない出来事の意義、深さを 見出すために、あなたのエネルギーを注ごうとしています。
46:41 そこには、基本的に、二つのことが含意されています。 継続と、 継続が終わることです。 私たちは、四十年、五十年、九十年、百二十年、生きてきました - 時の長さがどれほどであっても、です。 誕生から死亡まで、その長い間隔の中で、 私たちは、とても多くのものごとを、取得してきました。 物理的なものだけではない - 車、住宅。運が良ければ、 野原の 半エーカーほど。 あなたは、知識、経験を取得してきました。 あなたは、たくさんの記憶、たくさんの経験を 収集してきました。 あなたは、外的にも、心理的にも 収集し、集めてきました。 あなたは、自らが収集してきたものを、剥奪されたくありません - 自らが憶えてきたこと、 自らが苦しんできたことを、です。 で、私たちは、長い継続をほしがり、持っています - 人種的な遺産、 集団的な有限な経験。 私たちは、集めているリスです ですね? 私たちは、自らが集めてきたものへ、ものすごく執着しています。 それが継続です。 それは、十日間の継続なのかも、 百年の継続なのかもしれません。 伝統の継続、 人種、集団、家族との 同一視の継続。理解できますか。 継続したいとのこの願望、この欲求 - 私自身においてだけでなく、継承された収集物も、です。 私が死ぬなら、継続する息子がいる。 私が収集してきたものを、彼が継承する - 物理的に、 また心理的にも、です。
49:42 それで、幾世紀に幾世紀に 幾世紀ものこの長い収集と 継続があるのです。 ですね? 死がやってきます。 すなわち、身体組織は衰えます。 私たちはそれを、全うに、合理的、健康的に使ってきたのか、 または、様々なドラッグ等をとおして、 誤用してきたのか、です。 で、身体組織は必然的に、終わりになります。 終わることが、死です。ですね? で、私たちは、終わるとはどういう意味かを、考慮しなければなりません。 理解できますか。 継続と、終わること。 私たちは一緒にいますか? 私たちはともに話し合っていますか。 これは、あなたと語り手との間の会話です。 で、この継続が、あります -あなたがすがりつくもの、です。 そして、その継続の終わり、です。 で、私たちは、継続するとは何を意味するかを、理解しました - 私はそう願っています。 で私たちは言います - 「私は死ぬだろう。 だが、来世、何かがあるだろう」、 「私は来世を生きるだろう」、 「来世があるだろう」と。 それは、全アジア人、ピタゴラスと、 幾らかの西洋の人々、古代の人々が、 あるにちがいない、と言ったことです。 東洋の全体は、多かれ少なかれ、生まれ変わりを信じています。 なぜなら、彼らは継続したいからです。 彼らは、訊ねたことがありません。 幾らかの人、古代の人々は訊ねました - 継続するのは、何だろうか、 そもそも継続があるのだろうか、と。 あなたは、これらを訊ねていますか。 いいえ、訊ねていません。私があなたに訊ねています。 お願いです。 そもそも、継続があるのでしょうか。 継続がないのなら、どういうことなのでしょうか。 なぜ私は、さらに収集すべきなのでしょうか。 で、私は収集すまい - それから、隠者、インドのサンニャーシ、 僧侶になるのです。それらはご存じです。 私は収集しまい。私はただ、一つの観念を収集してきた - それが、私の神、私の救い主、私の導師である。 私は一つのものを収集してきた。 それで、それにすがりつきます。
53:01 で、私たちは、継続を持つとはどういう意味かを、知ります。 で、私たちは、終わるとはどういう意味かを、探究しなくてはなりません。 終わる - 自発的にです。老齢、病気と、 或る種のひどい痛み、それらをとおして、ではない。 何でも終わらせるとは、どういう意味でしょうか。 いいですか? ゆえに訊ねます - 継続は、 創造でしょうか、考案でしょうか。 付いてきておられますか。どうですか? 継続はいったい、創造的でありうるでしょうか。 または、知識としての継続があるところ、考案、発明があるのです。 すなわち、考案は、知識に基づいています - 科学的な考案、機械的な発明など、です。 なぜなら、以前の知識があるからです。 すなわち、考案、発明の同じ線を辿っていく。 もっと多くの知識を集め、もっと考案、発明する。 それが、世の中でテクノロジーで起きていることです。
54:33 で、創造 - 創造、です。赤ちゃんを作ることだけではない。 創造は、 終わることに関係しているのでしょうか。 理解できますか。で、私たちは見出そうとしています。 ああ、みなさんは。 どうか、私が話をしています。 あなたはこれに、加わろうとしていません。 どうか、疲れすぎないでください。 で、終わるとは、何でしょうか。 私は - どうか、聞いてください - 習慣を、終わらせられるでしょうか。 私は明日、習慣を終わらせられるでしょうか。 それとも、今日ですか。 探究してください。 自発的に、です。願望をとおし、指図をとおしてではない。 誰かが、「それを終わらなさい。 すると、褒美を得るでしょう」と言うからとか、 それら未熟なことではない。 私たち自身で見出すのです - 何かを楽に、幸せに 何の努力もなく終わらせるとは、どういう意味かを、です。 それは、ただ一定の身体的習慣を終わらせる、という意味ではない。 安全に生きるために頭脳が養成してきた習慣をも、という意味です。 理解できますか。 それを終わらせなさい。 それが、死ぬとはどういう意味か、ということなのでしょう。 なぜなら、私たちは、広大な記憶の集積であるからです。 私たちは記憶の束です。 ですね?これがお分かりになるのかと、思われます。 「私は霊的である。神である」 - それらのことではないのです。 それも、やはり記憶です。 インド人たちは、自分たちの説明を持っています - 分離したアートマン、と。私はそれらには入りません。
57:04 で、死は、終わることを意味しています。 ですね? あなたは、それを受け入れないかも、好きでないかもしれません。 しかし、それは事実です。 あなたは、あらゆるものを、持っていけません。 あなたは、最後の瞬間まで、それを取っておきたいかもしれません。 あなたは、銀行口座を持ち、あらゆる快適なものを持っているなら、 最後の一秒まで、そうしたいかもしれません。 私たちは、或る人を知っていました -たくさんのお金を集めて、 無限に金持ちでした。 彼は死のうとしていました。 彼はそのたくさんを、戸棚に入れておきました - 文字通り、です。 私はたまたま、そこに居合わせました。 彼は息子に、戸棚を開くよう、言いました。 すべてのダイアモンド、黄金、銀行口座、札束を見るために、です。 彼は、幸せにそれを見ていましたが、死のうとしていました。 分かります。 彼は、自らが死のうとしていることを、けっして悟りませんでした。 なぜなら、お金が、尋常でなく大事であったからです。 死ではなく、 あの戸棚に収められているものが、です。 で、終わりがあるのでしょうか - 自らの深い記憶に、 自らの執着に、です。 ああ、それを取り上げましょう。
59:00 あなたの執着に、終わりがあるでしょうか。 執着は何でしょうか。 なぜ私たちは、何らかのものへ執着しているのでしょうか - 資産、お金、妻、夫へ、 何か愚かな結論へ、 何かイデオロギー上の概念へ。 なぜ私たちは、そんなに執着しているのか。 探究してください。 それについて、ともに話し合いましょう。 そして、執着の帰結。
59:55 もし私が、あなたたちへ執着しているなら、 もし語り手が、聴衆のあなたたちへ執着しているなら - 彼の頭脳の状態がどうであるにちがいないかを、考えてみてください。 彼は怯えています。彼には聴衆がいないかもしれません。 彼は神経質になり、ほとんど卒倒しそうです。 そして、彼は、執着しています - 人々を利用するように、 評判をとるように、です。理解できますか。 で、執着の帰結です。 あなたが、ごく近くで観察するなら、 それが妻や夫でも、 男の子や女の子や、観念や画像、 或る記憶、或る経験に対してでも、 帰結は、それが、失うことの恐れを生み育てる、ということなのです。 ですね? その恐れの中から、嫉妬があります。 私たちがどれほど嫉妬深いのか - 権力の座にある人たちに対して、です。 付いてきていますか。 すべての嫉妬、です。 嫉妬から憎しみがあります。 もちろん、嫉妬は憎しみです。 あなたが執着しているとき、 いつも、この疑い、秘密が あるのです。 これらに注目なさったことは、ないですか。 私が言わなくてもいい。 それは、世の中でごく普通です。 あなたは、何かのものや観念、人物へ に執着しているなら、それを今、終わらせられるでしょうか。 それが死です。 それはこういう意味です - あなたは、一日中、死とともに生きられるでしょうか。 考えてみてください。入ってください。 あなたは、その偉大さ、その無量性が、見えるでしょう。 すなわち - 自殺をするのではない。 私たちは、そのばかげたことについて、話していません。 それとともに生きること、 執着の感覚すべて、恐れの感覚すべてを、 終わらせることについて、です。 それは、活動的な頭脳を持つ、という意味です - 活動的だが、方向、目的等を持たないで、 活動的です。 それが、毎秒、死とともに生きることです - けっして収集しない。けっして集めない。 けっして、何へも継続を与えない。 みなさんは、ご存じない。 そうするならば、それがどういう意味かが、分かるでしょう。 それが本当の自由です。 その自由から、愛があるのです。 愛は、執着ではありません。 愛は、楽しみ、欲望、充足ではありません。
1:04:03 私たちはともに、宗教は何かについて、 話し合うべきです。 進みましょうか。 疲れていませんか。 一息つきたいと思うでしょうか。 これは、とても深刻な主題です - 死のように。他のあらゆる人間的努力、 あらゆる人間的経験、悲しみ、痛み、嘆きのように、です。 これもまた、とても重要な問いです - 宗教は何でしょうか。 信じない者と信じる者、ではない。 古代の人々の日々から、 「これは充分でない」と言われていました。 「私たちが生きているさまは、意味がない」と。 私たちは生へ、意味を与えられる。 それは、知的な過程です。 しかし、生の本当の深みと意義 - これはどういうことなのだろうか。 で、その探究の中、彼らは言いました - これらを越えた何かが、あるにちがいない、と。 ですね? そして、「宗教(レリジョン)」という言葉自体、 その言葉の意味が、見つけられていません。 その言葉の語源的な意味が、です。 で、私たちはともに、見出さなければなりません - 真の、実際の宗教は何かを、です。 思考が創案した宗教ではない。 組織された宗教ではない - キリスト教やヒンドゥー教や仏教のように、です。 それは宗教ではない。 それはちょうど、他の大ビジネスのようにです。 ですね? 私は、それを非難していません。 ただ観察しているだけです。 私たちはそれを観察しています。 私は本気でそう言っています。 私はそれを非難していません。 語り手は、非難する感覚を、自らに持っていません。 彼は、これらは事実である、と言うだけです - それらを、私たちは回避します。 私たちは今、それに向き合っています。 キリスト教は、世界で最大の、 最もお金持ちのものの一つです。 南インドには、寺院があります。 そこには、三日ごとに、百万ドルが入ります。 ですね? それら、三日ごとの百万ドルでもって、 大学、専門校を持ち、貧しい人たちに食事を与え、 定期的な社会的なことすべてを、行います。 しかし、それは宗教ではない。 週に一回、教会へ行く - これらについて、笑ってすみません - 週に一回、行く。(罪の)告解。 聖餅(ウェハー)をいただく。 中世の装束。 そして、歌い、踊ることすべて。 または、それらの場所で、何をしようが、です。 それが、私たちが宗教と考えるものです - それは、私たちの生とは、絶対的に何の関わりもありません。 私たちの日々の不幸な、惨めな、 幸せな、不幸せな生とは、です。 それは、何か伝統的なものです。 私たちはそこで、育てられてました。 または、私たちはそれを拒否し、それはすべて無意味だと言い、 それらについて、冷笑的(シニカル)になることもできます。
1:08:43 しかし、私たちは真剣であるなら -あなたがそうであってほしいと、願います。 たとえ今朝の間だけでも、です。 宗教的な頭脳を持つとは、どういうことでしょうか。 語り手にとって、 頭脳は精神(マインド)とは違っています。 ゆっくり進んでください。私は少し説明しましょう。 頭脳の活動は、神経学的なだけでなく、 心理的でもあります。 ですね? それは、感受すべての中心です。 それは、刺激すべての中心です - 感受、衝動、欲望の、です。 それは、思考すべての中心です。 それは制限されています。 それは、神を考案できます。 無量の空間を発明できます。 しかし、それはやはり、頭脳の領域にある。 理解できますか。 ところが、精神は、頭脳の外側にあります。 どうか、これを受け入れないでください。 私たちはこの事柄を、一定の科学者たちと議論してきましたが、 彼らの数人は受け入れます。彼らの数人は言います - 「まあ、この哀れな年寄りは、はっきりしないな」と。 それでいいのです。
1:10:19 で、気をつけて、あなた自身で見てください。 語り手は、権威ではありません。 これらの事柄で、権威を受け入れないでください。 お願いですから、あなた自身で見てください。 あなたの頭脳は、条件付けられ、プログラムされて、 教育されています - オックスフォード、ケンブリッジ、 ここでは、ハーヴァードなどです。 蒸留された知識、です。 あなたは教授から、教師から、知識を取得します。 次にそれをさらに伝えます。 活動全体が、頭蓋骨の中にあります。 ゆえに、どれほど多く想像しようとも、 それはやはり、頭脳の中です。 ゆえに、制限されています。 愛は、頭脳の中にありません。 お願いですから、それを悟ってください。 愛は、頭脳にありえません。 あなたは、愛について考えられません - あなたと妻、または夫との間の愛。 それが何であっても、です。 それはそこに、感受としてあります。 ゆえに、その感受は愛ではない。 死は、感受ではない。 ですね? で、語り手にとって、 頭脳は、何か精神から分離したものです。 ちょっと時間があるなら、それに入りましょう。 少し長く続けても、かまいませんか。
1:12:18 聴衆: かまいません。どうぞ。
1:12:25 K: それで、私たちは言えます - あなたが、正気で合理的であり、 全的に、非個人的に、何の偏見もなく、観察しているなら、 人が、宗教として組み立ててきたものごとすべては、 宗教ではない、と。 お香、儀式、礼拝、祈り、 位階制度すべて、 これらの人々の無限の富 - 無限です。 すばらしい絵画、ヴァチカン、 インドの一定の寺院のものすごい宝石。 確かに、礼拝すること、跪くこと、片膝をつくこと - それらは、宗教ではありません。 怒らないでください。 どうかただ聞き、観察してください。
1:13:39 原理主義者、 福音主義者 - 原理主義者は、この国、 イランと、イスラム世界だけではありません。 この原理主義は、何か怖ろしい病のように、ゆっくり成長しています。 インドでも、です。 なぜなら、それは彼らに、権力、地位の感覚を与えてくれ、 制限されているからです。 で、そのすべて、教え諭すこと、説教、 カトリックのすばらしい儀式の美しさすべて、 あなたが、ヴェネチアやローマで枢機卿が典礼を行っているのを、見たことがあるなら、 すばらしい眺めです。 それは、軍隊の作戦行動に似ていますが、美しい。 しかし、それは、私たちが先日、話をしたような、美しさではありません。 で、それらは宗教ではありません。 ですね? 知能は、判別する力、 区別する力です - 何が真実か、何が虚偽かを見る。 それが、知能の力です。 そして、世界中の知識人たちは、これらを拒否してきました。 語り手が知識人である、ということではない -私はただ言っているだけです。 で、それらは宗教ではない。 頭脳は、これらに条件付けられてきましたが、 それから自由になれるでしょうか - 明日ではなく、今、です 明日はありません。 私たちはそれに入りました。 時は - 私は今、これらに入らないでしょう。 あまりに長すぎます。 時は今です。 で、それが終わるのなら、それらが何も意味がないのなら、 そのとき訊ねられるのです - 宗教は何でしょうか。 ですね?
1:16:17 そのとき、冥想は何かという問い全体が、来るのです。 なぜなら、冥想と、見出すことは - 経験するのではなく、見出すのです。 理解できますか。 何が真理なのかを、見る。 私の真理やあなたの真理でなく、 キリスト教の真理やヒンドゥー教の真理でない。 それが私のやあなたのであるなら、それは真理ではありません。 ですね? 「それは私のだ。私はそれを保とう。 あなたも保ちなさい」と。 どうして、そうでありうるでしょうか。 愛が、私のやあなたのではないように、です。 で、真理は、国籍を持たず、宗教を持ちません。 それへの道はありません。体系はありません。 で、私たちは、これに来なくてはいけません - 見出すのです。 私が見出す、あなたが見出すのではない - それが、ともに見えるのです。 そして、冥想のこの問い全体が、あるのです - 気づき、注意の、です。 ですね?
1:17:54 冥想は、インドの言葉であり、 導師たちがこの国へ持ってきました。 その(メディテーションという)言葉の意味は、「じっくり考える」ということです。 意味、辞書の意味は、 じっくり考える、よく考えてみる、 何かについて承知する、熟慮する。 私は、自らが書こうとしている本について、熟慮する。 または、描こうとしている絵画について、熟慮する。 しかし、冥想は、見たところ違った何かです。 禅仏教の冥想があります。 あなたが「禅(ぜん)」という言葉に興味があるなら、 それは、インドの言葉「デャーナ」から来ています。 仏教僧侶の一人が、六世紀にシナへ行き、 そこで、仏道を説きました。 彼らは「デャーナ」を発音できなかったので、それは「チャン」になりました。 それから、日本人がそれを引き継いで、それは「ゼン(禅)」になりました。 私はこれを聞かされました。 間違っているかもしれません。 お好きなように、受け取ってください。 で、禅について、動きと評価の全体と、 書物があります。 それから仏教の冥想があります。 それは、とても錯綜しています。 私はそれに入らないでしょう。 そして、ヒンドゥーの冥想があります。 それから、チベットから幾らかの人々が、彼らの冥想をもたらしました。 導師(グル)たちは、自分の冥想を考案します。 サンスクリットで「グル(導師)」という言葉は、重さを、意味しています - 重み、重い、です。 またその言葉は、異なった意味を持っています。 すなわち、無知を根絶するのを助ける人です。 理解できますか。 自分の無知を他人に賦課する人ではない。 私たちが笑えることが、うれしいです。 それは、幾つか他のことを意味していますが、それで充分です。
1:21:02 で、冥想は、 今、世界中で実践されつつありますが、 それは、意図的な行為、 体系的な実践です。 足を組んで座る。一定の形で呼吸する。 自らの思考を制御する。自らの反応を沈黙させる。 保つ、制御する、抑圧する。 または、ちょっとずつ、あなたの全身に気づく - 私はそれに入りません - 気づき。 そして、眠りに就かずに、目覚めつづける。 様々な体系と方法があります。 幾つかは心地よく、幾つかは心地悪い。 幾つかでは、冥想するとき、あなたへ叫んだり、軽く叩いたりして、 目覚めさせつづける導師も、います。 ああ、そうです。これは続いています。 そうなさらないでください。 または、画像に対して冥想します - 象徴に対して、 または、詩歌、一言に対して、です。 それはすべて、方向付け、制御という意味合いです - 制限されたエネルギー、力づく、ということです。ですね? 語り手にとって、それらは冥想ではありません。 語り手にとって、です。 どうか、受け入れないでください。 すっかり違った種類の冥想が、あります。 なぜなら、それらはすべて、 たくらみ、策略の結果であるからです。 ですね? で、次第に、それらすべてのことを実践するなら、 あなたの頭脳は必然的に、鈍くなります。 ですね。 そして、X線とアルファ線とか、 その種のことすべてを、行えます。 それで、あなたが一定のことを、とてつもなく上手くできることが、 示されます。でもそれは、やはりごくごく制限された領域の中です。 で、語り手は言っています - どうか、これを全く受け入れないでください - なぜなら、受け入れて、「あなたは正しい」、「間違っている」、 「これは不合理だ」と言うことは、何の価値もないからです。 ただ観察してください。 意識的な冥想は、まったく冥想ではないのです。 意図的な冥想は、他のどの形の達成とも似ています - ビジネスでのそれ。 「私は貧しく始めて、お金持ちになる」。 金銭、権勢、地位を追求するその人と 「私は、涅槃や 天国や静寂を達成するために、冥想しよう」と言う他の人 との間の違いは、何でしょうか。 全く何もありません。 どちらも、自らがほしいものを、達成しようとしています。 一人はそれを霊的と呼び、もう一人はそれをビジネスと呼ぶだけです。 私たちは、どちらをも飲み込んでしまいます。
1:24:24 で、意図的でない冥想が、あるのでしょうか。 あなたは、あらゆるものを脇に置いて、 その質問をするなら、見出すでしょう。 それは、 頭脳が - あなたが、これへ深く入ることに興味があるなら、です - 蓄積された知識すべてから 自由である頭脳、という意味です。 向き合ってください。 なぜなら、知識すべては、条件付けであるからです。 ですね? なぜなら、知識はいつも制限されているからです - 私たちは先日それに入りました - なぜでしょう。 なぜなら、知識は経験に基づいているからです。 経験はいつも制限されています - 神の経験でも、何であっても、です。 神は、あなたの考案です - あなたの恐れ、心配から、 安全でありたい、安楽がほしい、 誰かに頼りたいとの願望からの発明です。
1:25:52 で、頭脳は、自らのリズムを持っていますが - 語り手は、頭脳の専門家ではありませんが、 彼は、見守ってきました。 自分の小さな些細な頭脳だけでなく、人類の頭脳を、です。 その頭脳は、果てしなくおしゃべりしています。 祈って、助けを求め、助けを要求しています。 それは、ものすごく活動的です。 その活動は、落ち着きうるのでしょうか。 とても静かに止まり、 何の動きもない。 - 誘発したのでなく、養成した静寂ではない。 静寂については、言うべきことが、大変多くあります - 今ではない。なぜなら、一時に近いからです。 雑音の間の静寂、 二つの戦争の間の静寂 - 平和、 理解できますか。 二つの音色の間、 二つの言葉の間、 二つの思考の間の静寂 - それらは、静寂ではありません。 それは、止まって静かな 全く平和な頭脳 - 人が収集してきたすべてが空っぽな頭脳では、ありません。 人は、始めからいつも、名のないものを、 探し求めてきました。 人はそれへ、様々な名、様々な様相を、与えてきました - ここ、キリスト教では、一つのことであり、 ヒンドゥー教では、別のことです。 ヒンドゥー教では、信じてもいいし、信じなくてもいい。 それでもやはり、ヒンドゥー教徒です。 理解できますか。 寺院へ一度も行かない。全く懐疑的であり、 あらゆることを疑う -それでも、ヒンドゥー教徒です。 彼らは、頭脳を、驚くほど養成してきました。 今それは、すべてビジネスになろうとしています。
1:28:41 で、意識的、意図的でない冥想が、あるのです。 その冥想には、全くの静けさがあります。 それは、思考の静けさではない。 その静けさは、思考の産物ではない。 そういうわけで、思考を理解することが、とても重要なのです - 考えることとそれらを、です。 頭脳が全く静かであるとき、 名のないものが、あるのです。 それは、叙述できません。 どんな性質をも与えられません。 それは、救い主ではない。それは何でもない。 それは、全然違った何かです。
1:29:35 で、何か時を越えているものが、あるのです。 なぜなら、すべての時が、止まったからです。 それが、真の冥想です。 それが、本当に真の宗教的な精神です。 立ち上がってもいいですか。