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OJBR80CB12 - 愛の智恵
ディヴィッド・ボームとの会話、第12回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1980年9月16日



0:29 K: これは、私たちがカリフォルニア、オーハイで(春に)行っていた対話です。 私たちはそこで、八回、対話をしました。 ボーム博士と私自身との間で、です。 ここで(6月に)二回、(9月に)一昨日、一回です。 で、私たちは、その対話を継続してもいいですか。 誰かが、これに加わるべきですか、または、まったくなしですか。 私たちは、誰かが、これに加わりたいと感じるのかどうかを、訊ねています。 それがきわめて真剣でないのなら・・・ 彼らは加わるのでしょうか。または、そうしたくないのなら、それはけっこうです。 で、それは、ボーム博士と私自身の間の会話です。 それをつづけましょう。
1:49 私たちは先日、言っていました - 人間は、あがきながら、 生の問題すべて - 物理的なのも、心理的なのも - を、 切り抜けてきて、 心理的な記憶と葛藤と苦労からの自由の 十分な意義を、本当に掴みましたが、 彼は、或る地点に、来ます - 精神が自体は自由だと分かるが、 自体を乗り越える至高のエネルギーを、まだ集めていない地点に、です。 それが、私たちが先日、議論していたことです。 そこから、つづけていいですか。 いいですか。

B: ええ。
3:05 K: 精神は本当に・・・精神、頭脳、心理的な構造全体は、 いったい、葛藤すべてより、 どの動揺の陰すべてよりも、自由でありえますか。
3:27 B: 自己動揺です。
3:30 K: 自己動揺、それらです。 それはいったい、自由でありえますか。 または、完全な自由との観念は、幻影です。
3:41 B: ええ、それは一つの可能性です。
3:44 K: 一つの可能性です。ええ。 それが私たちが・・・
3:48 B: 或る人々は、私たちは部分的な自由を持てるだろう、と言うかもしれません。
3:51 K: ええ、部分的な自由を。 または、人間の条件は、過去により、自らの条件づけにより、決定されるので、 それはけっして、それより自由になりえない、と。 あれら知的な哲学者の数人は、これを述べてきました。
4:12 B: ええ、或る人々は、それが実情だと、感じます。
4:16 K: 本当に、深い無宗派的な、宗教的な人々は - すべての組織的な宗教と、信念、儀式、教義から、 全的に自由な人が、幾らかいるにちがいありません。 彼らは、それはできる、と言ってきました。 ほとんどの人は、これを言ってきませんでした。
4:39 B: ええ、もちろん、輪廻転生をとおして、それはなされると、言ってきた人たちです。

K: ええ。

B: 加えて、その集団は、言います - それには、とても長い時間が、掛かるだろう、と。
4:47 K: ええ。彼らは、それには、とても長い時間が掛かるだろう、と言います。 あなたは、様々な生を経ていき、苦しみ、 あらゆる種類の悲惨を経ていかなければならない。 そして究極的に、あなたはそれへ来る、と。 でも、私たちは、時ということに立って、考えていません。 私たちは、訊ねています - 人間は、自らが深く、深遠に、自らが条件づけられていて、 それで、自らの全存在がそれであることを、 認め、知るか、気づいていて、 それはいったい、自体を解き放てるのでしょうか。 もしそうなると、彼方に何が、あるのでしょうか。 それが、私たちが来つつあったことです。
5:40 その問いは、合理的とか、妥当なのでしょうか - 精神が本当に、それを終了してしまい、 生の苦労すべてを、終了したのでなければ、です。 私たちが先日、言いましたように、私たちの精神は、人が作っています。 人が作っていない精神が、あるのでしょうか。 よろしいですか。 それが、私たちが来たところです。 私たちはどのように、これを見出すのでしょうか。 私たちはみんな、人が作った精神を、知っています - その意識とともに、その内容すべてなどなどとともに、です。 それをさらわなくてはいけませんか。 いらないね。
6:33 B: 私たちはすでに、そうしました。
6:35 K: それは、人が作った精神です。 それが、人が作った自らの機械的な精神より、 自由になることは、可能でしょうか。
6:51 B: ええ。そこには、一種、絡み合い、表現するのが困難なことが、あると思います。 すなわち、この精神が全的に、人が作っていて、全的に条件づけられているなら、 それは、どんな意味で、それを抜け出せるのか。 これは、こう言う種類のことです - もしもあなたが、それは少なくとも、彼方の何かの可能性を持っている、と言ったなら・・・
7:14 K: そのときそれは、報賞、誘惑、あるべきものに、なる・・・
7:21 B: 私は、問いはこうだと、思います - これを整合的に、論理的に表すことができるには、 精神は、全的に条件づけられているけれども、抜けだそうとしている、と 言うことには、非整合性がある、と見えるんです。 私は、それが非整合的であるとは、言っていませんが、 非整合的であるように見えるかもしれませんね。
7:44 K: その問いは理解しますが、 条件づけられていない部分があると、認めるなら、 私たちは、全く別のへ、入ってしまい・・・
7:56 B: ええ、それはもう一つの非整合性です。
8:01 K: ええ。もう一つの非整合性へ、です。 私たちの議論では、 精神は、深く条件づけられているが、それは、洞察をとおして 自由になりうる、と言ってきました - それが、これへの真の手がかりです。 あなたは、それへ同意されるでしょうか。

B: ええ。
8:22 K: その洞察 - 私たちは、それが何なのか、その本性へ、入りました。 その洞察は、精神を、 条件づけから、完全に解き放てますか。 幻影すべて、欲望すべてなどを、拭い去れますか。 その洞察はそれを、完全に拭い去れますか。 または、それは部分的ですか。
8:58 B: 第一の点は、こうだ、と思います- 精神は静止的でないと、言うなら・・・ それは全的に条件づけられている、と言うなら、 それは、何か静止的なものを、提起します - それは、けっして変化しないでしょう。

K: ええ。

B: さて、精神はいつも動きの中にある、と言うなら、 この瞬間に、それが何であるかを、言うことと、 それは全的に条件づけられてきた、と言うことは、 何らかの形で、不可能になると、思われます。
9:24 K: いえ。仮に、私が全的に条件づけられている、とします。 それは動きの中にある。でも、その動きは、境界の内にある。
9:33 B: ええ、それは、境界の内にある。
9:35 K: 一定の分野の内に。

B: ええ。
9:37 K: 分野は、とても明確に区切られています。 それは、自らを拡張、収縮できます。 しかし、境界は、きわめて制限され、明確です。
9:51 B: ええ。そしてまた、 この構造全体は、死に絶えるかもしれません。 私たちは、その構造の内で動くなら、何らかの境界に留まります。
10:03 K: さて、それはいつも、その境界の内で、動いています。 それは、それに対して、死に絶えられますか。
10:12 B: それが、もう一つの次元での、 もう一種類の動きです。あなたは、それを仰ったと、思います。

K: ええ。

K: 私たちは、洞察をとおして、それは可能だと、言います - 洞察もまた、動きです。 全的に違った種類の動きです。
10:38 B: ええ。でも、今、私たちは、その動きは、個人において発生しない、と 言います。私たちは、それを言いましたか。

K: ええ。
10:46 B: 一般的な精神において、でもない。
10:48 K: それは・・・ええ、全く正しい。 それが、私たちが先日、議論したことです。 それは、特定のものの洞察ではなく、一般のもののでもない。 私たちはそのとき、何か全く法外なことを、述べています!
11:06 B: ええ。それを見つめていると、それはかなり、 人々が使ってきた、ほとんどの種類の論理に、違反します - すなわち、特定と一般は、 普通の論理ということに立って、あらゆるものを、覆うはずだ、ということです。 さて、あなたが、両者を越えた何かがある、と仰っているなら、 これはすでに、少なくとも、 述べられたことがない、問いです。 私は、それは、大きな重要性を持っている、と思います。
11:33 K: すると私たちは、どうそれを述べますか。 または、すると私たちは、どうそれへ来ますか。
11:41 B: 私は注目してきました - 人々は、大まかに、二つの集団に分割される、と私は思うんです。 一つの集団は、 最も重要なもの、基盤は、特定である。 具体的な、特定の日々の活動である、と感じます。 もう一つの集団は、 一般、普遍が基盤である、と感じます。

K: 全くです。
12:00 B: 一つは、より実践的なタイプです。 もう一つは、より哲学的なタイプです。 一般的には、この分割は、歴史をとおして、 可視的でした。また、日常生活においても、どこを見ようとも、です。
12:15 K: しかし、一般は- 私たちは、少し議論できます - 特定より、分離していますか。
12:22 B: していませんが、ほとんどの人々は、それに同意すると思いますが、問いはこうです - 主要な価値を与えられようとしているのは、何なのか。 人々は、一方か、他方へ強調を、置きがちですね。 或る人々は、特定へ、おもな強調を置きます。 彼らは、一般はそこにある、と言います - 特定へ気をつけるなら、 一般は、だいじょうぶだろう、と。

K: ええ。
12:41 B: 他の人たちは、一般がおもなものである、 と言います - 普遍が、です。 それを正す中で、特定を正すだろう、と。

K: 全くです。
12:50 B: で、一方へか、他方へ一種の不均衡が、 ありました。人の精神における偏見です。 さて、ここで上げられつつあるのは、この概念です - 一般でもなく、特定でもない、すると、何か、と。
13:10 K: そのとおりです。まさにそうです! 私たちは、それについて議論や会話をすることが、できますか - 論理的に、です。 あなたの専門知識、あなたの科学的な頭脳、その他すべてを、使って、です。 そして、それらではない、この人が、います。 で、私たちは、見出すように、会話をできませんか - 一般と特定が一つであり、 まったく分割されていないのかどうかを、見出すように、です。
13:54 B: またそれは、どちらか一方へのけっして偏見でないのでなくてはいけません。
13:57 K: どちらか一方、ではない。全くです。 どちらか一方に、強調を置くのではない。 すると、私たちがそうしないなら、そのとき、何がありますか。 話が明らかになっているのかどうか・・・
14:16 B: そのとき、私たちは、それについてたやすく話す道が、ありません。
14:20 K: ええ、ええ。
14:24 B: でも、私たちは議論した、と思います - カリフォルニアで、基盤について、です。 問いは、特定の精神は、一般的な普遍的な精神へ、 または、空っぽへ死ぬ、と言える、ということでした。 そのとき、究極的には、空っぽと普遍さえも、 基盤の中へ死ぬ、と言いました。
14:40 K: ええ、そのとおりです。私たちはそれについて、議論しました。
14:42 B: 私が思うに、これは一種、つながる・・・
14:45 K: しかし、普通の人物、相当に智恵がある人は、これらに同意するでしょうか。 これらが、分かるでしょうか。

B: 私は、確かでありません。
14:53 K: または、彼は、「これらは何という戯言か」と、言うでしょうか。
14:55 B: もしも、それが彼に、ただ投げつけられたなら、彼はそれを、戯言として拒否するでしょう。 それは、よく気をつけた提示を、必要とするでしょう。 すると、或る人々は、それが分かるかもしれません。 しかし、それを、誰かへ言うだけなら・・・
15:05 K: もちろんです。
15:07 B: ・・・彼らは、言うでしょう - 誰でも、それについて聞いた人は、です。
15:10 K: で、私たちは今、どこにいますか。 待ってください。 私たちは、特定でも、一般でもありません。 それは、ほぼ合理的に受け入れられない発言です。
15:28 B: まあ、思考を、内容というより、むしろ、動きだと 捉えるなら、という意味では、 それは、合理的です。
15:41 K: 思考を、動きだ、と。全くです。 私たちは、それに同意します。
15:44 B: そのとき、思考は、 特定と一般の間の動きですね。
15:48 K: ですが、思考が、一般です。 思考が、特定です。
15:51 B: しかし、思考はまた、動きです。

K: ええ。
15:54 B: それで、動きの中、それは、どちらか一つであるのを、越えます。 すなわち、動きの中で、です。
16:01 K: そうですか。
16:03 B: まあ、それはありえます。私は、ふつうはそうでない、と言いました。 なぜなら、ふつう、思考は、どちらか一つの側に、捕らわれているからです。
16:08 K: それが、全論点なのでしょう。 ふつう、一般と特定は、 同じ区域に、ある。
16:15 B: ええ。あなたは、どちらか一つに、固定する。
16:18 K: ええ。でも、同じ区域に、同じ分野にある。 思考は、二つの間の動きです。 または、思考は、両者を創り出してきた。
16:32 B: ええ。それは、両者を創り出してきたし、間を動く。
16:34 K: 間と、そのまわりを。
16:36 B: その区域のまわりと中を、です。
16:38 K: ええ、あの区域に、です。 それは、幾千年の間、こうしてきました。
16:48 B: ええ、ほとんどの人々は、それが、思考ができるすべてである、と感じるでしょう。
16:52 K: さて、私たちは、こう言っていますか - 思考が終わるとき、 思考が創り出してきた動きもまた、終わりになる。 ゆえに時は、終わりになる。
17:09 B: 私たちはここで、もっとゆっくり行くべきです。

K: すみません。
17:11 B: ・・・それは、思考から時への飛躍です。 私たちは前に、それへ入ったことがありますが、それはやはり、飛躍です。
17:18 K: そうです。なぜなら、初めに、見てみましょう。 思考は、一般と特定を、創り出してきた。 思考は、両者を連結させる動きです。 思考は、それを巡って動く。 で、それはやはり、同じ区域にある。
17:38 B: ええ、そうして、それは、時を創り出してきました - 時は、一般と特定の部分です。 時は、特定の時です。また、一般的な時です。 すべての時、永遠です。 それは、時の全体において、この特定の時を、見ます。
17:54 K: ええ。でも、そうね、思考は時です!
17:57 B: それは、もう一つの問いです。 私たちは、 議論していましたね。 思考は、内容を持っているんです- それは、時について、です。 それに加えて、私たちは、思考は動きである、と言います - それこそが、時です。 それは、過去から未来へ、動いている、と 言えるでしょう。ですね?
18:15 K: ですが、思考は、時に基づいています。 思考は、時から出てきたものです。
18:22 B: ええ、でも、そのとき、それは、 時は、思考を越えて存在する、という意味ですか。 思考は時に基づいている、と仰るなら、 時のほうが、思考より根源的です。 それが、あなたが仰りたいことですか。

K: ええ、ええ。
18:33 B: では、私たちは、それへ入るべきです。 時は、思考の前にあった何かである、と 言えるでしょう。 そう表されるでしょうか。 または、少なくとも、それは、思考の起源において、ある、と。
18:45 K: 知識の蓄積があるとき、時はあった。
18:53 B: 或る程度まで、それは、思考から出てきました。

K: いいえ、私は行為し、学びます。

B: ええ。
19:01 K: その行為は、以前の知識に、基づいていませんが、
19:11 私は、何かをするし、する中で、学びます。
19:16 B: ええ、そのとき、その学びは、記憶に登録されます。
19:19 K: 記憶などなどに、です。 で、思考は本質的に、時の動きではないですか。
19:30 B: どんな意味で、この学びは、時の動きですか。 私たちが学ぶとき、それは登録される、と言えますね。 そのとき、その同じ学びが、次の経験で、作動します - 学んできたことが、です。
19:50 K: ええ。過去はいつも、現在へ動いています - いつの時も、です。
19:55 B: ええ、現在と混ざり、融け合う。

K: ええ。
19:57 B: 二つは一緒に、またもや、 次の経験として、登録される。
20:02 K: で、私たちは、こう言っていますか -時は、思考より異なっている、 または、時は思考である、と。
20:12 B: ええ、この学びの動きと、経験の中への記憶の応答、 それから、再び登録すること - それは時であると、私たちは言います。 それはまた、思考なのでしょう。
20:25 K: ええ。それが思考です。
20:30 思考を離れて、時がありますか。

B: それはもう一つの問いですね。
20:34 私たちは、こう言うのでしょうか - 物理的にか、宇宙において、 時は、思考を離れて、意義を持っている、と。
20:42 K: 物理的に、ええ。それは理解できます。
20:45 B: そのとおり。で、そのとき、私たちは、精神においてか、心理的に、と言っています。
20:49 K: 心理的に、 知識として、「私」などとして、心理的な蓄積が、 あるかぎり、時がある。

B: ええ。

K: それは、時に基づいています。
21:03 B: どこでも、蓄積があるところ、時がある。
21:06 K: ええ、それが論点です。 どこでも、蓄積があるところ、時がある。
21:10 B: すると、いろいろと逆になる。ふつう、時が最初であり、時の中で蓄積をする、と言うからです。

K: いえ、いえ。私個人はそれを、逆に表したいと思います。
21:18 B: それが逆に表せることを、見ることは、重要です。
21:22 仮に、蓄積が何もない、とします。 そのとき、どうですか。
21:25 K: そのとき - それが全論点です - 時は何もない! 私が、蓄積し、集め、なっているかぎり、 時の過程がある。 しかし、集めることがなく、なることがなく、蓄積がないなら、 心理的な時は、どこに存在しますか。
21:53 B: たぶん、物理的な時さえも、或る種の物理的な蓄積に、 依存しなければならない、と言えるのでしょう。

K: もちろんです。それは全く別の事柄です。

B: それを、私たちは否定していません。 私たちは、心理的な蓄積の意義を、 否定しています。
22:06 K: そのとおりです。で、思考は、 心理的な蓄積から、出てきたものです。 その蓄積、その集めることが、 それに、継続性の感覚を、与えます- それが、時です。

B: ええ。
22:25 B: まあ、それは、動きの中にあると、思われます。 何であれ、蓄積されてきたものは、 現在へ応答しています - 未来の投影をもって、です。

K: もちろんです。

B: すると、再びそれが、登録されます。 さて、登録されているすべての蓄積は、 時の秩序に、ある - 一つの時、次の時・・・

K: そのとおりです。
22:43 K: で、私たちは、思考は時である!と言っています。
22:47 B: または、時は思考です。

K: ああ、そうです。どちらでも、です。
22:51 B: しかし、時の動きは、思考です。
22:54 K: 時の動き・・・

B: 心理的な時・・・
22:59 K: 動き・・・あなたは、何を仰っていますか。
23:02 B: 心理的な時の動きは、その蓄積ですが・・・
23:06 K: 時です。

B: それは時ですが、それはまた思考です。 二つは、同じことを、意味しています。
23:14 K: で、心理的な蓄積は、思考と時です。
23:20 B: ええ。私たちは、本当は一つの言葉が必要なとき、たまたま二つを、持っています。

K: 一つの言葉。全くそうです。

B: 私たちは、二つの言葉を持っているから、二つのものを、探しますね。
23:28 K: ええ。ただ一つの動きが、ある。 それは、時と思考です。 時+思考、時/思考、です。 さて、精神は、幾千年もの間、その区域で、いつの時も 動いてきましたが、それより自由になりえますか。
23:50 B: なぜそれは、縛り上げられていますか。何が精神を、捉えているのかを、正しく見ましょう。
23:54 K: 蓄積です。
23:56 B: ええ。でも、なぜ精神は、蓄積しつづけますか。
24:02 K: それは相当に明らかだと、思います。 なぜなら、蓄積には、安全がある、 安心があるからです - 見かけの安全です。
24:11 B: それは、少し議論が必要だ、と思います。 一定の区域では、それはさらに真実です。 物理的な食べ物の蓄積は、 一定種類の安全を、提供するかもしれません。
24:21 K: もちろんです。
24:22 B: そのとき、外と内との間に、 何の区別も、付けられなかった上は、 内的に蓄積できるとの感じが、ありました - 経験、あるいは、何をすべきかの何らかの知識を、です。
24:35 K: 私たちは、こう言っていますか - 安全のための物理的な蓄積の 外的な必要は、必要である。 その同じ動き、同じ観念、同じ衝動が、 心理的な思考の分野へ、動いて入る、と。 そこであなたは、安全でありたいと望んで、蓄積します。
24:54 B: ええ。内的に、蓄積できると望んで、です - 現在の記憶や関係、・・・

K: ええ、それらです。

B: ・・・頼りにできそうな物事、頼りにできそうな原理を、です。
25:07 K: で、蓄積、心理的な蓄積は、 安心、保護、安全です。
25:17 B: ともあれ、幻影です。
25:19 K: いいですよ。それらの幻影、安全の幻影。 この幻影の中に、それは生きてきました。
25:28 B: ええ。で、最初の間違いは、人がけっして 区別を理解しないことだった、と、見えるのです - 自らが外側でしなくてはいけないことと、内側でしなくてはいけないことの間の区別を、ですね。
25:37 K: ええ。私たちは、それを言いました。 それは、同じ動きです - 外と内は。
25:42 B: でも、人は、その動きを、運んできました - 外的には正しい手順を、人は、知らずに、 内的に運んできました。 それが紛糾を起こすだろうことを、 おそらく全面的には知らずに、です。
25:53 K: で、私たちは今、どこにいますか。 私、或る人間は、これらを悟ります。 彼は、「私は本当に、 この蓄積された安全と思考と時より、自由でありうるか」と言う 時点に、来たのです。 心理的な時より、です。ですね? それは可能ですか。
26:21 B: 私たちは、それは、この起源を持っていた、と言うなら、 それを分解することは、可能なはずでしょう。 もしも、それが私たちに、組み込まれていたなら、何もできないでしょう。
26:29 K: もちろんです。それは確かに、私たちに、組み込まれていません!
26:32 B: ほとんどの人々は、まるでそうだと信じているかのように、行為します。

K: それは不条理です!
26:35 B: それは、私たちに組み込まれていないのなら、 私たちが変化する可能性が、存在します。 なぜなら、何らかの形で私たちは、それは最初に、時をとおして、 築き上げられると、言ったからです。
26:50 K: もし、それは組み込まれている、と言うなら、 私たちは、望みのない状態に、あります。
26:58 B: ええ。それが、進化を使う人々の困難の一つだと、私は思います。 進化を持ち込むことにより、 彼らは、この静的な境界より、抜け出したいと、望みます。

K: 全くです。

B: 彼らは、進化が同じことである、と悟りません - それはさらに悪い。それは、罠が作られた、まさしく手段です。
27:21 K: で、私は、その点に来ます。 人間として、 私はこれらを悟ります。 私は十分に、これの本性に、気づいています。 私の次の問いは、こうです - この精神は、この分野よりすっかり動いて出て、 おそらく、全然違った次元に入れるのでしょうか。 私たちは言いました・・・ それは、洞察があるとき、起こりうるだけです - 私たちはそれを、通ってきました。
28:08 B: ええ。この全体のことを、とても深く問うとき、 洞察が生ずるように、思われます。

K: ええ。

B: それは意味をなさないことが、見えます。
28:20 K: 今、それへ洞察を得て、 その制限を見てきて、ゆえに、それを乗り越える - 越えて、何がありますか。 これについて、私たちは、少し話をしました - オーハイでだけではなく、ここでも、です。
28:59 B: 私たちは、これを言葉に表すことさえ、とても困難だと、感じました。 でも、私たちは、この線で何かが、されなくてはいけない、と言った、と思いますね。
29:08 K: ええ。それは、言葉に表されなくてはいけない、と私は思います。
29:12 B: なぜかを、仰られるのでしょうか - なぜなら、多くの人々は、 これは全面的に、非言語的なままにしておくべきだ、と感じるかもしれないからです。
29:26 K: 私たちは、言葉はそのものではない、と言えますか - どんな叙述でも、実物ではない。 真理ではない。 どれほど装飾や縮小をしても、 ただの言葉は、それではない。 それを認識すると、そのとき、これらを越えて、何がありますか。 私の精神は、欲望なしで、 それで、幻影を、越えた何かを、創り出さないでしょうか。
30:03 B: ええ、すると、欲望のその問いにおいて、 欲望は、この時の過程に、あるにちがいないですね。
30:08 K: もちろんです。欲望は時です。
30:11 B: 明白な形の欲望とともに、 とても微妙な形のものが、ある上は・・・
30:19 K: 結局、あること、なることは、欲望に基づいています。
30:26 B: ええ、それらは本当は、一つで、同じです。
30:28 K: ええ、それらは、一つで、同じです。 さて、自らは洞察を持つとき - 私は、その言葉を、何度も何度も使うのは、嫌ですが - 欲望の動き全体と、幻影を創り出すその能力へ、 持つとき、それは終了しています!
30:51 B: ええ。思うに、おそらく私たちは・・・ これは、きわめて決定的な点ですから、私たちは、欲望について、 もう少し言おうとすべきです - この蓄積過程において、それがいかに本来的であるか、 それがいかに、多くの形で出てくるか、です。 一つには、蓄積するにつれて、何かが欠けているとの感覚が 来ることが、言えるでしょうね。

K: もちろんです。

B: あなたは、もっと多くを持つべきだと、感じます - 何か終了させるもの、完成させるものを、です。 何でも、あなたが蓄積したものは、完全ではない。
31:28 K: 私たちは初めに、なるという問いへ、入れるでしょうか。 そのとき、欲望が、そこへ入ってきます。
31:34 世界中で、人間すべてが、この、なろうとの衝動を、 持っているのは、なぜですか。 外的に、私はそれを理解します。単純です。
31:46 B: 私たちは、ますます強くならなくてはいけません。
31:48 K: 物理的に、筋肉を発達させる・・・
31:51 B: 言語、論理・・・
31:53 K: それらです。また、より良い職、もっと多くの快適さ、などなどです。 しかし、人間の精神には、なぜ、 なろうとする、この種子が、ありますか - 覚ろう、と。 当面の間、その言葉を使いましょう。 より良くか、もっと良くなろうとする。
32:22 B: すでにそこにあるものへの不満足の感覚が、 あるにちがいありません - それが、一つのことです。
32:27 K: それは、不満足ですか。
32:29 B: 或る人物は、それに、完全であってほしいと、感じます。 仮に、彼は、楽しみの記憶を蓄積してきた、とします。 ですが、これら記憶は、もはや適切ではありません。 彼は、もっと何かが必要だ、と感じます。
32:44 K: それですか。
32:46 B: もっと多くを得ること - それが、問いの一つです。 結局のところ、彼は、全体、究極を持たなければならない、と感じます。
32:59 K: 「もっと多く」という言葉が、本当の刺でないのかどうか、 私はまったく、確かでありません。
33:06 B: 「もっと多く」という言葉ですか。

K: ええ、もっと多く、 もっと、です。私はもっとなるだろう。 私は、もっと多く持つだろう。 私は、なるだろう・・・この動き、 前へ動き、獲得し、比較し、前進し、 達成する動き全体 - 心理的に、です。
33:27 B: 「もっと」という言葉は、「蓄積」という言葉の 意味全体において、まさに暗示的ですね。

K: もちろんです。

B: あなたは、蓄積しているなら、もっと多く蓄積していなくてはいけません。 それをする道は、他にありません。
33:38 K: で、なぜ、人間の精神に、この種子がありますか。
33:42 B: 彼は、この「もっと」が、内的に、間違っていることが、見えません。 もし、彼は外的に、「もっと」という用語を、使いはじめたのなら・・・ でも、それから、それを内的へ運び込んだ。 何かの理由のために、彼は、それがどんなに破壊的かを、見なかった。
33:58 K: なぜです。なぜです。なぜです。 なぜ、相当智恵のある哲学者と、宗教的な人々は、 自らの大きな生の大部分を、達成することに、使ってきましたが、 なぜ彼らは、このとても単純なことを、見なかったのですか! 偉大な知識人と、いわゆる・・・進化的な概念など。 なぜ彼らは、この単純な事実を、見なかったのですか - すなわち、蓄積があるところ、 もっと多くがあるにちがいない、ということを、です。
34:33 B: ええ、彼らはそれを見たのですが、そこに何の害をも、見ないのです。
34:35 K: 待って。いえ、彼らにそれが見えるのか、私は確かではない。
34:37 B: 彼らは、自らが、もっと多くを得ようとしていることを、見てきました - 彼らは、より良い生を得ようとしています。 そうね、十九世紀は、前進の世紀でした - いつの時も、改善していました。
34:48 K: いいですよ。でも、外的な前進です。
34:50 B: でも、彼らは、人は内的にも、自己を改善しているだろう、と感じました。
34:56 K: でも、なぜ彼らは、いったいこれを、問うたこともないのですか。
34:59 B: ええ。何が、彼らをして、それを問わせるのでしょうか。
35:05 K: 明白に、この常なる格闘です。 もっと多くへ、です。
35:11 B: でも、彼らは、それが前進のために必要だと、考えましたね。
35:15 K: でも、それは前進ですか。
35:17 B: 私たちはそれを、明らかにできますか。 仮に、あなたが、十九世紀の楽観主義者の一人へ、 答えなくてはいけなかった、としますね - 人はいつの時も、もっと良くなるよう、前進している、 外的にも、また内的にも、というものへ、です。
35:28 K: ええ、外的には認めましょう。

B: 彼はそれをできるでしょう。

K: 外的には、ね。その同じ、「もっと良く」なる外的な衝動が、
35:39 動いて、心理的な領域へ、入ったのですか。
35:43 B: 私たちはそれを、明らかにできますか。 なぜそれは、心理的な領域で、害をなしますか。
35:50 K: 害は・・・ちょっと待ってください。 それを、考えぬきましょう。 心理的に蓄積することにおける、害は、何ですか。ああ、そうだ! それは分割します。
36:09 B: それは、何を分割しますか。
36:11 K: 蓄積のまさに本性が、 分割をもたらします - あなたと私と彼らなどの間に、です。
36:21 B: 私たちはそれを、明らかにできるでしょうか。それは、決定的な点ですね。 私は、一つのことが、見えます - 仮に、あなたが、あなたの形で蓄積していて、私は、私の形で蓄積する、とします。
36:29 K: そうなんです。 彼、彼女は、別の形で蓄積します。
36:33 B: そのとき私たちは、共通の蓄積の仕方を、課そうとします。 それは、もっと多くの葛藤です。
36:37 K: それは不可能です!それは、けっして起きません。
36:40 B: ええ。彼らは、あらゆる人がもっとなるべきだ、と言います。

K: ええ、ええ。

K: 私は、蓄積してきました - 心理的に、ヒンドゥー教徒として、です。ですね? 他の人は、イスラム教徒として、蓄積してきました。
36:57 B: 幾千もの分割が、あります。
36:59 K: 幾千もの分割です。
37:00 B: 一つの職業やもう一つの中にも、と言えるでしょう。
37:03 K: もちろんです。幾千もの分割です! ゆえに、蓄積は、まさにその本性において、人々を分割します。 ゆえに、葛藤です。
37:15 B: 各人が、自分特定の形で、蓄積します - それは、他の誰かより、違っています。 共通の蓄積の仕方は、作られません。
37:23 K: 作られませんか。で、みんな、蓄積しよう!と。
37:25 B: それは働きません。なぜなら、あらゆる人がすでに、違った関係を・・・
37:29 K: もちろんです。
37:31 B: ・・・持っているからです - あなたが、何をしようとも、です。
37:34 K: すると、私たちは、こう言えますか - 蓄積において、人は、心理的な安全を探し求めてきました。 その安全は、その蓄積とともに、 人間の分割の要因です。心理的に、です。
37:52 B: ええ。蓄積しようとするどの試みも、分割するでしょう。 幾らかの社会学者も、カール・マルクスのように、 幾らかの人々を、他の人々より分割するのは、 彼らによる、この資本の蓄積だった、と言ってきました。

K: そうです。

B: それが、ものすごい葛藤を、始めた、と。
38:13 K: で、 そういうわけで、人間たちは、 その帰結を悟らずに、蓄積してきた、と私たちは言いました。 それを悟って、蓄積しないことは、可能でしょうか。 それは、ものすごい!ということです。
38:38 B: ええ。人間精神は、自動的に蓄積します。

K: 知っています。
38:43 K: なぜですか。とても明らかで単純な理由のため、です。 外的に、と同じく、蓄積において、それは、安全だ、安心だと感じます。
38:57 B: おそらく、こう言えるでしょうね- この罠にはまったので、 精神が抜け出すことは、とても難しかった。 それはすでに、占有されていました。 精神は、この蓄積の過程に満たされています。

K: ええ。

B: 何を見ることも、とても難しくなります。
39:10 K: さて、仮に、私の精神は、この占有の過程に満たされている、とします - すなわち、心理的な知識、それらでもって、です。 それは、終わりえますか。 もちろん、終わりえます!
39:24 B: 精神がその根へ、到るだろうなら、です。
39:27 K: もちろん、終わりえます! すなわち、蓄積において安全がある、ということ - それは、幻影です。
39:37 B: これは、一定の水準で、見られます。 そうね、これについて、議論します - 知的に、ではなく、 私は、地図のように、言うのを選ぶでしょうね。 この過程全体の地図を、描いてきました。 そのとき、問いはこうです - あなたは、地図を持っているとき、 今、国を見つめることが、できなければならない。 地図に載っているものを、見なさい、と。
39:58 K: ええ。地図を見つめているとき、 国は見えません。
40:02 B: ええ。地図は、役立つかもしれませんが、それは十分ではないですね。

K: 全くです。 でも、今、私たちは、こう言っています - 欲望は、人々をして、それをつづけさせるものである、と。
40:16 K: 欲望だけではなく、この深く根づいた、蓄積する本能です。
40:23 B: リスのように、です!

K: ええ、リスのように。 未来のため、安全のため、です。 それと欲望が、相伴います。ですね?
40:38 B: それは、築きあがり、強烈な欲望になりますね。
40:41 K: もちろんです。それで、欲望+蓄積が、 分割、葛藤、その他すべての要因です。
40:53 B: 本当は、欲望(デザイア)という言葉は、必要を、意味することを、言えます。 或る人物は、自分に必要であるから、もっと蓄積しなければならない、と感じます。
41:01 K: ええ、必要です。さて、私は訊ねています - それは、終わりえますか。 それが、意志の行為をとおして、終わるなら、それはやはり、同じことです。
41:14 B: それは、欲望の一部です。

K: もちろんです。
41:17 それが、処罰や報賞ゆえに、終わるなら、それはやはり、同じことです。 で、自らの精神は、これが見えて、それらを脇に置きます。ですね? しかし、精神は・・・ 蓄積より自由でしょうか。 そうです。私は、それはありうる、と思います。そうすると思います。 すなわち、心理的な知識を、まったく持たない。 知識は蓄積です。ゆえに、などなどです。
42:10 B: ええ、思うのですが、私たちは、考慮しなくてはいけません - 知識は、普通に意味しているより、 きわめてはるかに行く、ということを、です。

K: もちろんです。

B: ただの・・・

K: 書物の知識、経験より、もちろんです!
42:23 B: でも、蓄積する中で・・・例えば、 このマイクロフォンの知識を持っていて、マイクロフォンのイメージ、映像を、築き上げます。 あらゆる物事が、それに入っていく。自分は、それが継続することを、期待しますね。

K: もちろんです。 あなたが、自分自身について、知識を持っているなら、それは、あなた自身の映像を、築き上げます。
42:45 K: ああ!自分自身について、知識を持てますか。
42:48 B: いいえ。自分は持っていると考えるなら、 自分がどんな種類の人物なのかについて、 知識がある、と考えるなら、 それは、築き上がって、映像になる。 その期待とともに、です。
42:59 K: でも、結局、あなたは、自分自身について、知識を持っているなら、 すでにイメージを、築いてきました!
43:05 B: ええ。それは同じです。 傾向は、こうです - あなたが外側ですることの移転が、あります。 あなたが、このマイクロフォンを観察すると、知識を築き上げます。 それは、それについての、あなたの映像、あなたの知覚へ、入ってきます。 そのときあなたは、「私は自分自身について、同じことをするだろう」と言います。 私は、私がそうであるべきとか、私がそうである、種類の人物を、知っています。 それは、築き上がります。 たくさんの蓄積が、築き上がります - ふつうは知識と呼ばれない形で、です。 例えば、嗜好、好き嫌いです。

K: 理解できます。
43:38 K: でも、ひとたび、知識としての心理的な蓄積が、 幻影であり、破壊的であり、無際限の痛みと悲惨を 引き起こすことを、悟るなら - あなたは、それが見えるとき、それは終了しています!
43:58 B: 私は、こう言おうとしています - そう仰るとき、問いは・・・しょっちゅう、 知識という言葉は、含まれるべきものすべてを、伝えないんです。

K: もちろんです。

B: 私は、こう言えるでしょう - 「いいよ、私は、知識において、一定の物事を知っている。 自分自身について、その知識を築き上げることは、愚かしい」と。 でもそのとき、他の種類の知識が、あるかもしれない - 私が知識として認識しないものが、です。
44:23 K: 自らが持っている、他の種類の知識は、何ですか。 嗜好、好き嫌い、 先入観。

B: 習慣。
44:33 K: 習慣。そのすべてが、自らが創り出してきたイメージに、ある。

B: ええ。人は、イメージがとてつもなく実在に見える形で、
44:49 発達してきました。

K: ええ。

B: ゆえに、その性質は、知識だとは思われません。
45:00 K: いいですよ。で、私たちは、言いました - 蓄積は時である。蓄積は安全である。 心理的な蓄積があるところ、 分割があるにちがいない。 思考は、特定と一般との間の動きである。 思考はまた、イメージの中から、 蓄積されてきたものの中から、生まれた、と。 ですね? そのすべてが、自らの内的な状態です。 それは、私の中に、深く埋め込まれています。
45:43 B: ええ、物理的と精神的に、です。
45:45 K: すっかり、ね。私は、物理的にそれが必要であると、認識します - 幾らかは、ね。
45:50 B: でも、それは物理的に、やられすぎている。
45:53 K: もちろんです。何でもやりすぎが、ありえます。 しかし、心理的に、それを悟るには、 私はどう、それに取りかかるのか。 私は、蓄積してきました。 幾千年もの間、蓄積してきました - 一般と特定、です。それはずっと習慣でした。 私は、どうやって、習慣を認識するだけではなく、 習慣を認識するとき、 その動きは、どうやって、終わりになりますか。 それが本当の問いです。

B: ええ。
46:43 K: 智恵は、これらの中で、どこで役割を、果たしますか。 私が言っていることに、付いてきておられますか。
46:51 B: これを見るには、智恵がなくてはいけませんね。
46:55 K: それは智恵ですか。 それは、いわゆる普通の智恵、知性ですか。 または、智恵は、何か全然違ったものですか。
47:05 B: ええ。人々がいう智恵が、ふつう何を意味しているかを、私は知りませんが、 それが単に、能力だけを意味しているなら・・・
47:13 K: 判別できる、区別できる、

B: それらです。論理を使える。
47:18 K: ・・・技術的な問題、経済的な問題を解決できる能力、などなどなど、です。 私はそれを、部分的な智恵と呼ぶでしょう。 それは本当の・・・
47:25 B: それは、思考の技能と、呼べるでしょう。
47:28 K: 思考の技能。いいですよ。思考の技能。 でも、智恵は - ちょっと待ってください。 それが、私が見出そうとしていることです。 私はこれを悟ります - 蓄積、分割、安全、 一般と特定、思考。 私は、それらの道理、それらの論理が、分かります。 しかし、論理、道理と説明は、そのものを、終わらせません。 もう一つの性質が、必要です。 その性質が、智恵ですか。 私は、しばらくの間、洞察より、離れようとしています。
48:19 B: その言葉をあまりに反復しすぎないように。

K: しすぎないように。 智恵は、思考と連係していますか。
48:39 B: あなたが言われる「連係」という言葉が、どういう意味かを、私たちは知りません。
48:42 K: それは、関係していますか。 それは、思考の一部ですか。 それは、とても明らかで精密、正確で論理的な 思考の結論から、出てきたものですか。
48:56 B: いいえ。それはやはり、もっともっと多くの技能でしょう。
48:59 K: 技能ね。ええ、私は同意します。
49:02 B: 少なくとも、私たちは、智恵は違った性質であると、提案しています。

K: ええ。
49:11 K: その智恵は、愛に関係していますか。
49:18 B: それらは伴うと、私は言うでしょうね。
49:21 K: ええ。私はゆっくり動いて、それへ入ろうとしています。 そうね、私はすでに・・・私は、今朝私たちが議論してきたことすべてを、悟ります。 私はすでに、出口のない壁、堅固な壁に、来ています。私は越えて行けません。 観察する、見つめる、あさる中で、 私は、この言葉「智恵」に、出くわします。 私は、いわゆる思考の智恵、技能とそれらは、 智恵でないことが、分かります。 で、私はさらに訊ねています - この智恵は、愛と連係や関係していますか。 その一部ですか。 愛を蓄積することはできません。ですね?
50:28 B: 人々は、しようとするかもしれません。
50:30 K: それは、バカげて聞こえます!
50:32 B: 人々は、愛を保証しようとします。
50:35 K: それはすべて、ロマンチックな戯言、映画のものです。 愛を蓄積することは、できません。 それを、憎しみ、それらと連係させることは、できません。 で、それは、全然違った何かです - あの愛は。 あの愛は、智恵を持っていますか - そのとき、それが作動する。付いてきていますか。 そのとき、それが、壁を破ってしまう。 どうでしょうか・・・

B: ええ。
51:35 K: いいですよ。もう一回、始めましょう。 私は、あの愛が何なのかを、知りません。 私は、物理的な欠片すべて、それらを、知っています。 私は、楽しみ、欲望、蓄積、思い出、映像は、愛でないことを、悟ります。 それらを、私ははるか昔に、悟りました。 しかし、私は、この壁が甚大であり、 それを飛び越えもできない地点に、来ています。 で、私は今、あさっています - 人が作った動きでない、違った動きが、 あるのかどうかを、見るため、です。 その動きは、愛なのかもしれません。 その言葉を使うのは残念ですが、当分の間、それを使いましょう。 なぜなら、その言葉は、台無しにされ、誤用されてきたからです。
52:39 B: あなたは、愛は動きである、と仰っていますね。 感情だけでない、と。

K: ええ、ええ。
52:45 B: それには、感情が関与するかもしれないが、それは感情ではない。

K: それは何の関わりもない。
52:51 K: で、智恵をともなった愛 - それは、 この壁を破ってしまうか、解消するか、壊してしまう、要因でしょうか。 「私はあなたを愛している」、「あなたは私を愛している」ではない。ですね? それは、個人的や特定ではない。それは、一般や特定ではない。それは、越えた何かです。ですね?
53:25 B: ええ。それが論点です。 もちろん、人の背景の、もう一つの部分は、 愛を、特定化することです - 特定の物事や個人に、です。
53:40 K: あの智恵をもって愛するとき、 それは、全体を覆うと、思います。 それは、特定や一般ではない。 それは、あれです! それは光です。それは特定の光ではない。 いいですよ。すると、それが、私の前にある壁を、 壊してしまう要因であるなら、 そのとき・・・私は、あの愛を知りません。 人間として、私は、一定の点に到ったが、 それを越えて行き、あの愛を見つけることができません。私は、何をするのでしょうか。 何が・・・するとか、しないとか、ではない。 私の精神の状態は、何でしょうか - 壁のこちら側のどの動きも、 やはり壁を強めていると、悟ったときに、です。ですね? で、私はそれを悟ります。そして、冥想や何でもすることをとおして、 何の動きもない。ですが、精神は、それを越えて行けません。
55:09 しかし、あなたは、やってきて、こう言います - 「ほら、あなたが、智恵をともなったあの愛の性質を、持つなら、 あの壁は解消できる、壊してしまえる」と。 私は、「すばらしい。でも、私は、それが何かを、知りません!」と言います。 私は何をするのでしょうか。 私は何もできません。私はそれを悟ります。 何でも私がすることは、やはり、壁のこちら側の内に、ある。ですね?
55:45 で、私は絶望していますか? 明白にそうではない。なぜなら、私は、絶望したり、憂鬱であるなら、 やはり、同じ分野で、動いているからです。 で、そのすべてが、止まったのです。 私はとうてい何もできないこと、どの動きも、だと、悟って、 私の精神に、何が起きますか。 私が訊ねていることへ、付いてきておられますか。 それは正しいですか。 それは相当に論理的だと、私は思います。 私は、自分が何一つ、できないことを、悟ります。 いいですか?で、私の精神は、蓄積するよう、なるよう、 いつも動いてきましたが、その精神の性質へ、何が起きたのか - そのすべてが、止まったのです。 私は悟った瞬間、できません・・・何の動きもない。ですね? それは可能ですか。または、私は幻影の中に、生きていますか。 または、私は、あの点へ来るために、本当にこれらを、通りぬけてきましたか。 または、私は突然に、「私は静かでなければならない」と言いますか。 それが伝わっているのかどうか、私は知りません。
57:18 B: ええ、それは理解できます。 それは、同じ過程の一部です。
57:21 K: 同じ過程の、ね。

B: 過去から投影するんです。
57:27 K: で、私の精神は・・・ 私の精神に、革命がありますか。 その動きが、完全に止まってしまった、 という意味での、革命です。 止まったのなら、愛は、壁を越えた何かですか。
58:09 B: それは、何をも意味しないでしょう。
58:11 K: もちろんです。するはずがない。
58:13 B: 壁自体が、過程の産物であり・・・

K: そのとおり。

B: ・・・それは幻影です。
58:18 K: いいですか。それで、私は、 壁はこの動きであると、悟っています。 で、この動きが終わるとき、 智恵のあの性質、愛などが、そこにある! ですね?それが、論点全体です。
58:45 B: ええ。その動きは終わる、と言えるのでしょうか。 その動きは、自らが何の意味もないことを、見る。
58:56 K: それは、危険を見ることについては、いわゆる、技能を持っています。
59:05 B: まあ、そうかもしれません。
59:07 K: ええ。どの危険も、一定量の気づきを、要求します。

B: ええ。

K: しかし、私は人間として、蓄積過程が、 ものすごい危険である、と悟ったことがない。
59:23 B: ええ、それは、安全の本質だと見えるからです。

K: もちろんです。その他すべてです。
59:28 K: あなたがやってきて、それを私へ指摘します。 私は、よく気をつけて、あなたに聞いています。 私は実際に、それの危険を知覚します。 知覚は、愛の一部なのでしょう。ああ、私はそれに、取りかかろうとしています。
59:59 B: あなたは、愛はエネルギーの一種だと、提案なさっています - それは、特定でも、一般でもない。 そして、それは瞬間的に、一定の物事を包み込むかもしれない、と。
1:00:13 K: で、どんな動機もなく、方向等もない知覚、 私の・・・この蓄積の動きにより 生じさせられてきた壁への知覚 - それへの知覚こそが、智恵と愛です。ですね? 私たちは止めたほうがいい。 十二時半です

B: いいです。
1:00:55 K: 私たちは、つづけるべきでしょうか。
1:00:57 B: あなたはどう、感じられますか。 たぶん、止めるのが一番いい。
1:00:59 K: 止めたほうがいい。私たちは、或る点に来ました。 私たちはいつ、また会いますか。

B: 二日後、木曜日です。
1:01:10 K: よろしいです。