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OJBR80CB14 - 宇宙・万物における精神
ディヴィッド・ボームとの会話、第14回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1980年9月20日



0:31 K: 私たちは先日、動きすべてから、全面的に 自由である精神について、話しました - 思考がそこに置いてきた物事、 思考が、もたらしてきて、過去に経験してきた物事すべてと、 未来などから、自由な精神、です。 しかし、私たちがそれへ入る前に、 私は、唯物論(物質主義)とは何かを、お訊きしたいと思います。 人は、この唯物論的な態度と 価値と経験に、捕らわれています。 唯物論(物質主義)の本性とは、何でしょうか。
1:23 B: まず最初に、唯物論は、 一定の哲学的な視点の名前です。
1:28 K: 私はそれを言っていません。 私は、一定の哲学的な・・・発言、という意味で、言っていなくて・・・
1:37 B: 物質が、そこに有るすべてである、との信念ですね。
1:40 K: ええ、私は少しそれへ、入りたいと思います。 すなわち、すべての自然、すべての人間は、反応します - 物理的に、です。 この反応は、思考により、維持されます。 思考は、物質的な過程です。 で、反応は - 樹において、自然において、動物において、人間においてのように - 唯物的な応答です。
2:16 B: まあ、「唯物的」という言葉は、少し正しくないと、思います。

K: 知っています。ええ。

B: そう、それは、物質の応答ですね。
2:23 K: 物質の応答です。そのように表しましょう。いいですよ。 物質の応答。そのほうがいい。 もう一回、反復させてください。 明らかにしましょう。 私たちは、空っぽの精神を持つことについて、話していました。 私たちは、その点へ来ました - そのとき、 壁は壊されてしまい、この空っぽが・・・ それを越えてか、それをとおしてなどか、何があるのか。 私たちは、そこへ来るでしょう。 しかし、私たちがそれで始める前に、 私が言いましたように、反応すべては、物質ですか。
3:13 B: 動きの中の物質です。

K: 動きの中の物質 -
3:15 B: それが提案です。 それを支持する証拠が、たくさんある、と言えるでしょう - すなわち、科学は、神経ゆえの ものすごい数の反応を、見つけてきました。
3:27 K: ええ、それらです。 で、あなたは、物質と動きは、・・・ 有機物質すべてに存在する反応だ、と呼ぶのでしょうか。
3:42 B: ええ。それは必然的です。 物質すべては、私たちが知るところ、 作用と反作用(反応)の法則により、進みます。 あらゆる作用に、相応の反作用があります。
3:51 K: で、作用、反作用(反応)と反作用(反応)は、物質的な過程です。

B: ええ。

K: 思考がそうであるように、です。 さて、それを越えていくことが、問いです。 それが、論点です。
4:07 B: ええ。その前に、或る人々は、それを越えていくことには、何の意味もない、と言うかもしれませんね。 それが、唯物論の哲学でしょう - それを越えていくことには、何の意味もない、との信念です。
4:19 K: 全くそのとおり。しかし、単に、その区域に生きているだけなら、 それはきわめて浅い。ですね?それは本当に、まったく意味がありません。 しかし、思考を、物質的過程と認識し、 反作用と作用は、物質と動きであるなら・・・
4:46 B: ええ。おそらく、こう言うべきでしょう - 或る人々は、物質は、単に作用・反作用ではないと、言ってきました。 それは、創造的な動きを、持っているかもしれず、 それで物質は、新しい形態を、創り出すかもしれない、と。
5:00 K: 物質は、新しい形態を、創り出すかもしれませんが、 それはやはり、あの区域の中にある。
5:04 B: ええ。それを明らかにしようとしましょう - 違いは、何ですかね。 で、ここで・・・とても微妙な形の唯物論が、あるのを、見なくてはいけません。 それを、ピン留めするのは、困難なのかもしれません。
5:18 K: 始めましょう。あなたは、思考が物質的な過程であることを、 考慮するでしょうか。または、同意するか、見るのでしょうか。
5:29 B: ええ。或る人々は、それは、物質と、物質を越えた何かの 両方であると、論争するかもしれませんが。
5:34 K: 知っています。私はこれについて、議論してきました。でも、そうではない!
5:39 B: 私たちは、それを明らかにするように、どのようにそれを、単純に言えますか。
5:41 K: なぜなら、思考のどの動きも、物質的な過程であるからです - あなたが、それは越えていると、主張しても、です。
5:50 B: ええ、私たちは、それを明らかにしなければなりません - それが、権威の事柄ではないように、です。

K: もちろんです。

B: 観察から、思考が物質的な過程であることが、見えます。 さて、それは、どのように見えるのでしょうか。
6:04 K: どのように、それらに気づくのでしょうか。 それが物質的な過程であることに、気づく。 それは、相当に明らかであると、私は思います。 経験、出来事があり、記録される - それが、知識になる。 その知識から、思考が生じます。 行為が起こります。
6:29 B: ええ。で、私たちは、思考はそれである、と言います。
6:34 K: それは越えているとの、どの主張も、やはり思考です!
6:37 B: ええ、それはやはり、背景から来ています。

K: ええ。

B: で、そこに入ってくる、何か新しいものは、 この過程の一部ではない、ということ。 それが、あなたが仰っていることですか。
6:52 K: ええ。何か新しいものが、あることになるならば、 物質的な過程としての思考は、終わらなければなりません。明白です。
6:59 B: それは後で、取り上げるかもしれません。
7:01 K: ええ。私たちは後で何が起きるかを、見るでしょう。 で、私たちは、こう言えるでしょうか - 反作用と作用(反応と行為)すべて、 その反応からの行為は、物質の動きである、と。
7:15 B: ええ。とても微妙な物質の動きです。
7:18 K: ええ、とても微妙な物質の動きです。 で、自らの精神が、その区域の中にあるかぎり、 それは、物質の動きであるにちがいない。
7:35 B: ええ。すると、そこから前進しましょう。
7:40 K: で、精神が、反応を越えていくことは、可能ですか。 それが、次の歩みです、明白に。 私たちが、昨日の朝、 集団との議論で、言いましたように、 自らは、苛立ちます。それが、一番目の反応です。 そのとき、それへの反応、それへの二番目の反応 - 「私はそうであってはならない」と。 そのとき、三番目の反応、「私は制御しなければならない」と。 または、正当化するとか、それが何であっても、です。 で、常に、作用と反作用(行為と反応)です。 自らは、それが動きであると、見えますか - 終わることなき、継続的な動きだ、と。
8:47 B: ええ。反応は実際に、継続的です。

K: ええ。

B: でも、それは一定の瞬間に、終わったように、思われます。 次の瞬間は、新しい瞬間だと、見えます。
9:00 K: でも、それはやはり、反応です。
9:01 B: やはり同じですが、それは、違っていると表示される。

K: もちろん、そのとおりです。
9:05 B: それは、いつも同じです。

K: それはいつも、まさしく同じです。
9:08 B: が、それは、いつも違っていると表示される。いつも新しい、と。
9:11 K: もちろんです。まさにそうです。 あなたは、何かを言う。私は苛立つ。 でも、その苛立ちは、反応です。
9:19 B: ええ。それは、突然に新しい何かだと、思われる。
9:21 K: 突然に新しい、と。でも、そうではない。
9:24 B: でも、見なくてはいけません。どうやって・・・それに、気づかなくてはいけませんね。
9:28 K: もちろんです。
9:30 B: 一般的に精神は、それに気づかない傾向が、ある。
9:33 K: でも、大変多く議論し、話をした後、気づけます。
9:37 B: 私たちは、それに注意深い。
9:39 K: 私たちは、問いに敏感で、鋭敏です。 で、自らが見張っていて、注意深くて、理解するなら、 反応に、終わりがある。 論理的にだけでなく、いつの時も、この反応過程へ、洞察を持つなら、 それは、もちろん、終わりになりうる。 そういうわけで、これを理解することが、とても重要である、と思うのです。

B: ええ。

K: 私たちが、空っぽの精神が何なのか、何か越えたものがあるのか、とか、 そのまさに空っぽの精神に、何か他の性質があるのかを、 議論する前に、です。

B: ええ。
10:21 K: で、その空っぽの精神は、反応ですか。 付いてきておられますか。 痛みと楽しみと苦しみの問題への反応と、 それへの反応は、これらより、 何も無い状態へ、逃避することです。
10:49 B: ええ。精神はいつも、それをできます。

K: 創案する。

B: それは、痛みと楽しみに、注目しそこなうかもしれません。
10:56 K: もちろんです。それは、幻影になる。 さて、私たちは、幻影とは何かの問いに、入りました。 そして、欲望が、幻影の始まりであると、言いました。 さて、私たちは、この空っぽの性質は、 反応でない、という点に、来ていました。 それは、絶対的に確かでなければなりません。ですね? さて、私たちがさらに、これへ入る前に、 本当に完全に空っぽである精神を、持つことは、可能ですか - 思考が組み立ててきた物事すべてから、空っぽです。
11:45 B: 思考が、反応するのを止めるとき、です。

K: そうなんです。
11:50 B: さて、精神は・・・思考は、物質的な過程なので、一方では、 おそらく反応は、持続的に反応し動いている物質の 本性ゆえである、と言えるのでしょう。 でも、そのとき、物質は、この洞察により、影響されますか。
12:10 K: よく付いていけません。 ああ、理解できます。 洞察は、 記憶を保持する頭脳の細胞に、影響しますか。
12:24 B: ええ。記憶は、持続的に反応し、動いています - ちょうど、空気と水が、まわりのあらゆるものが、そうするように、です。

K: もちろんです。

B: さて、もしも、何も起きなかったなら、なぜそれは、いったい止まるのだろうか、と言うべきでしょう。
12:37 K: 全くです。結局、私は、物質的に反応しないなら、 麻痺しています。 しかし、継続的に反応していることもまた、一つの形の麻痺です。
12:54 B: ええ。間違った種類の反応、 心理的な構造をめぐる反応です。
12:59 K: 私たちはいつも、心理的に話しています。
13:01 B: でも、心理的な構造をめぐる反応が、 人類において、始まったのなら、なぜそれは、いったい止まるのでしょうか。 一つの反応は、もう一つ、もう一つを起こすので・・・

K: それは鎖のようで、終わりなき連鎖です。
13:13 B: 何かがそれを止めるのでなければ、私たちは、永遠につづけることが、予期されます。
13:17 K: 何もそれを、止めないでしょう。 反応の本性への洞察のみが、 心理的な反応を、終わらせます。
13:31 B: ええ。すると、あなたは、物質が洞察により影響される、と、 仰っています - 物質を越えているものによって、です。
13:37 K: そのとおりです。物質を越えている。それが、私たちがオーハイでも、議論したことです。

B: ええ。
13:45 K: で、この空っぽは、頭脳自体の中に、ありますか。 または、何か空っぽだと、思考が構想してきたことですか。 これについては、とても明らかでなければなりません。
14:07 B: ええ。しかし、何が議論されようとも、問いが何であろうとも、 思考は、それについて、何かをしたくなりはじめます。 なぜなら、思考は、自らがいつも寄与できると、感じるからです。

K: 全くです。 それは、役立つかもしれません。 で、思考は過去に、 自らが、役立つ寄与をしない区域が、あることを、理解しなかった。 それは、「空っぽはとても良い」と言おうとする習慣で、つづけていく。 ゆえに、思考は、「私は、何かをして、 空っぽをもたらすのを、助けようとしよう」と言う。 思考は、役立とうとしていますね。
14:42 K: でも、私たちはそれらを、通りぬけてきました!

B: ええ。

K: 私たちは、思考の本性を、見てきました - それの動きは何なのか、時。 私たちはそれらを、通りぬけてきました。 私は見出したい・・・私は、或る点に来たのです - この空っぽは、精神自体の中にありますか。 または、それを越えていますか。
15:13 B: そうね、あなたがいわれる精神とは、どういう意味ですか。
15:15 K: 精神とは、全体的な・・・ 情動、思考、意識、頭脳。 その全体が、精神です。
15:27 B: 「精神(マインド)」という言葉は、多くの形で、使われてきました。 今、あなたはそれを、一定の形で、使っています。 それは、思考、感情、欲望、意志を、表示します - 物質的な過程全体、です。
15:37 K: ええ、物質的な過程全体です。
15:39 B: それを、人々は、非物質的だと、呼んできました。

K: ええ。
15:42 K: 全くです。私はそう呼びます - 精神は、物質的な過程全体です。
15:49 B: それは、頭脳と神経において、つづいています。
15:51 K: その全体、全体的な構造です。 さて、この反応、唯物的な反応は、終わりうることが、分かります。 私が訊ねている、次の問いは、こうです - その空っぽは、内なのか、外なのか。 他のところ、という意味で、外なのか。

B: それは、どこにあるんでしょうか。
16:21 K: 私は、それが他のところに、あるだろうとは、思いません。私はただ、それを表しているだけです。
16:28 B: どのそういうものも、物質的な過程の一部です。 こことそこに、物質的過程の中で付けられた区別が、ありますね。
16:35 K: そのとおりです。それが、私が取りかかりたいことです。 それは、そこにある。それは、精神自体にある。 その外側に、ではない。ですね? さて、次の歩みは、何ですか。 その空っぽは、何ものをも、何一つ、収容していませんか。
17:07 B: ええ、もの(thing)とは、形態、構造と安定性を持っている何をも、意味しています。
17:12 K: そのとおり。形態、構造、反応。 当然です。
17:15 B: ええ、安定性と反応です。
17:20 K: 形態、構造、能力、反応、それらです。 または、それが、それを何一つ、収容していない。 そのとき、それは何ですか。 そのとき、それは、全的なエネルギーですか。
17:45 B: ええ、エネルギーの動きです。
17:47 K: エネルギーの動きです。 それは、反応の動きではない。
17:50 B: それは、ものの動き、互いに反応しあっているものの動きではない。 世界は、互いに反応しあう多数のものから、 できあがっている、と見做されます。

K: ええ。

B: それが、一つの種類の動きです。 しかし私たちは、それは、違った種類の動きである、と言っています。
18:05 K: それは全面的に、違っています。

B: そこには、何もものがない。
18:08 K: そこには、何もものがない。 ゆえに、時のではない。ですね? それは可能ですか。または、私たちはただ、想像に耽溺していますか - 或る種のロマンチックで、希望があり、楽しめる感受に、 耽溺していますか。 私たちはそうだとは、私は思いません。 なぜなら、私たちは一歩一歩、それらを、すっかり通りぬけて この点まで、来たからです。 で、私たちは、自己を欺瞞していません。 さて、私たちは、その空っぽは中心を持たない、と言います - ですね? - 「私」と、反応すべてなどとしてのを、です。 その空っぽには、時なきエネルギーの動きが、あります。
19:04 B: ええ。時なきエネルギーと仰るとき・・・ つづけて言えるでしょうから、私たちはすでに、 思考と時は同じであると、言ってきました。

K: ええ、もちろんです。

B: それから、あなたは、時は、物質的な過程に入ってこられるだけだと、仰っていますね。
19:23 K: 時は、物質的な過程に、入ってこられるだけです。そのとおりです。
19:27 B: さて、私たちは、時がないけれども、 動いているエネルギーを、持っているなら・・・
19:32 K: ええ、それは静止的でない!
19:34 B: それは流れています。それは動いています。

K: それは動いています。
19:39 B: さて、その動きは何ですか。
19:45 K: 動きとは、何ですか。ここからそこへ。
19:49 B: それは、一つの形態です。
19:52 K: または、昨日から今日へ、 そして、今日から明日へ、もう一つの動きです。
20:02 B: ええ。そのような、様々な種類の動きが、ある。
20:05 K: で、動きとは何ですか。動きはありますか。 私はただ、訊ねています。 私はそれを、問いたいのです。 動いていない 動きがありますか。ちょっと待ってください。理解できますか。 始まりもなく、終わりもない 動きが、ありますか。 なぜなら、思考は、始まりと終わりが、あるからです。
20:39 B: 例外は、物質の動き - 反応の動き - は、 始まりも終わりもないかもしれないことを、言えるでしょう。 あなたは、それについて話していませんね?

K: ええ、私はそれについて、話していません。
20:47 B: では、それは、始まりも終わりもない、と言うのでは、十分ではない。ですね?
20:52 K: すると私たちは、他へ、戻らなければなりません。すなわち、 思考は、始まりがある。思考は、終わりがある。 物質の動きが、ある - 反応として、 そして、その反応の終わりです。
21:11 B: ええ、頭脳の中で。

K: 頭脳の中で。 これら様々な種類の動きが、あります。 それが、私たちが知っているすべてです。 誰かがやってきて、 全然違った種類の動きが、ある、と言います。 しかし、それを理解するには、私は、思考の動きから、自由でなければなりません - 物質的な過程、それら、時の動きからです。 そうでない動きを理解するには・・・
21:54 B: 二つのことが、ありますね - それは、始まりも終わりもない。 でもまた、それは、過去からの、一続きの連続として、 決定されない。

K: ええ、因果はない。
22:04 B: 一連の原因、一つが他のへ続く、のではない。

K: もちろんです。因果はない。

B: 物質は、一連の諸原因として、見られます - それは、適切ではないかもしれませんが。

K: ええ、理解できます。
22:13 B: でも、今、私たちは、この動きは、始まりも終わりもないと、言っています。 それは、一連の諸原因の結果 終わりなく一つが他のへ続く、のではない。ですね?

K: ええ。
22:27 K: 私は、動きでない動きを、 理解したいのです - たとえ言語的にでも、です。 話が明らかになっているのかどうか・・・
22:44 B: それは動きでないのなら、なぜそれは、動きと呼ばれますか。
22:50 K: それは、止まっていない、それは活動的であり、それは、動的であるからです。
22:59 B: それはエネルギーです。
23:01 K: それはものすごい!ゆえに、それはけっして、止まっていられません。 でも、それは、あのエネルギーの中に、静けさを持っています。私の話は・・・
23:14 B: ええ。エネルギー自体が・・・ 普通の言語はそれを、適切に伝えないと、言わざるを得ないと思います。 でも、エネルギー自体が、止まっていて、また動いてもいる - それが、あなたが仰っていることですか。
23:32 K: ええ。でも、あの動きの中、それは、静けさの動きです。

B: 静けさの動き。

K: それは、狂って聞こえますか。
23:39 B: 動きは、静けさより出現する、そして、 静けさへ戻っていく、と言えます。

K: そのとおりです! それが、それなるものであることが、分かりますね。 私たちは、この空っぽが、精神にある、と言いました。 あの空っぽは、原因もなく、結果もない。 それは、因果の動きではない。 それは、思考、時の動きではない。 それは、物質的な反応の 動きではない。そのどの一つでもない。 それは、こういう意味です - 精神は、どんな動きもなく、 あのとてつもない静けさの能力が、ありますか。 それが、完全に静かであるとき、 それからの動きが、ある。 狂って聞こえますね。
24:47 B: 狂って聞こえる必要は、ありませんよ。 実は私は、前に自分が言及した、と 思います - 過去に或る人々は、この概念を持っていたんです。 アリストテレスのように、です。 私たちはそれについて、議論しました。

K: 知りませんでした。

B: 彼は、動かずに動かすものについて、話しました。 それが、彼が神を叙述しようとしたさまですね。

K: 神を、ね。いいえ。私は叙述していません・・・
25:06 B: あなたは、神を叙述したくないが、 でも、或る種の、これと類似した概念は、過去に様々な人々が、持っていました。 でも、それ以来、それは、流行遅れになったと、思います。
25:17 K: 私は流行遅れに考えます。 私たちはそれを、流行させましょうか。
25:22 B: 私は、アリストテレスが正しい観念を持っていたとは、言っていません。 単に、彼は、何か幾らか類似したものを、 考慮していた、というだけです。 たぶん多くのことでは、違っていて・・・
25:30 K: ええ。でも、それは、知的な概念でしたか、実際でしたか。
25:35 B: これは、言うのがとても難しい。 なぜなら、ほとんど・・・
25:38 K: ゆえに、私たちはアリストテレスを、持ち込まなくていい。
25:40 B: 私は単に、それは狂っていないことを、指摘したいと思いました。 なぜなら、少なくとも、他のとても立派な人々も、 何か類似したものを、持っていたからです。

K: うれしいです。
25:50 K: 私は狂っていないことを、保証してもらって、うれしいです!
25:53 B: なぜなら、あなたが、それは狂っているかどうかを、訊ねられたからですね。
26:14 K: あの動きは、静けさの中からですか。 あれは、創造の動きですか。 芸術家、詩人と作家と画家が、創造と呼ぶ、創造ではない。 私にとって、それは創造ではない。 それはただ、能力、技能、記憶、知識がそこに作動しているだけです。 ここで私は、この創造は、形態に表現されないと、思います。
26:59 B: ええ。それは重要です。 なぜなら、ふつう、私たちは、 創造は、形態としてか、構造として表現される、と思うからです。 さて、そのとき、これは困難です。 それは、どういう意味ですか。
27:14 K: 私たちは、狂っていることを、越えていきました。だから、つづけられます。 あなたは、この動きは、時のでなくて、 永遠に新しいと、仰るのでしょうか。
27:43 B: ええ。それは永遠に新しい - 創造は永遠に新しい、という意味において、ですね。
27:49 K: 創造は、永遠に新しい。 それが、芸術家たちが見出そうとしていることなのだと、私は思います。
27:56 B: ええ、それは本当です。
27:59 K: ゆえに彼らは、あらゆる種類の不条理に、耽溺します。 しかし、精神が絶対的に - また、絶対、ですが - 完全に静寂である、あの時点へ来ると、 あの静寂の中から、 いつも新しい、永遠に新しい、この動きが、ある。 あの動きが表現される瞬間・・・
28:32 B: 初めの表現は、思考において、ですね。
28:35 K: そうなんです!
28:36 B: それは、役立つかもしれませんが、そのとき、それは固定しますね。 そのとき、それは、障壁になるかもしれません。
28:46 K: 私は、かつて、或るインドの哲学者、インド人学者から、聞かされました - 彼らは、神の頭とか、何であっても、 彫刻を始める前に、深い冥想を行い、 深い冥想へ、入らなくてはいけなかった。 そして、正しい瞬間に、彼らは槌とたがねを、取り上げた、と。
29:17 B: 空っぽの中から、それを出てこさせるように。 もう一つの点があって、オーストラリアのアボリジニは、砂の上に 姿を描きますね - それらが、恒常性を持たないように、です。
29:28 K: そのとおりです!
29:30 B: もしも思考が、そのように見られたなら、です。 大理石はすでに、あまりに静的すぎますね。 それはそこに、何千年もの間、留まります。 で、元来の彫刻家は、理解したかもしれませんが、 つづく人々は、それを、固定した形態と見ますね。
29:57 K: で、次のことは、こうです - それらは、私の日常生活へ、どんな関係を持っていますか。 どんなさまで、それは、私の行為をとおして、 私の普通の物理的な応答をとおして、作用しますか。 心理的な応答は、何もない。 なぜなら、私は・・・ でも、物理的な応答は、あります - 騒音へ、痛みへ、様々な形の動揺、物理的な動揺へ、です。 物理的なものは、あの静寂な動きへ、どんな関係が、ありますか。

B: ええ。まあ、精神が静寂であるかぎりは、
30:53 そのとき思考は、秩序立っています。
30:57 K: ええ。それは秩序立っています。 ああ、私たちは、何かへ取りかかっています! あなたは、こう仰るのでしょうか - あの静寂な動きは、その終わらぬ新しさとともに、宇宙・万物の全的な秩序である、と。

B: ええ。私たちは、それを考慮できるでしょう -
31:28 宇宙・万物の秩序は、この静寂と空っぽより、出現するし、 持続的に、常に創造される、と考慮できるでしょうね。

K: で、私の関係は何ですか・・・この精神の、宇宙・万物への関係は、何ですか。
31:42 B: あの特定の精神ですか。

K: いいえ。精神について、話しています。
31:46 B: 一般の精神。
31:47 K: いいえ、精神です。一般と特定を、私たちは通りぬけてきました。
31:51 それを越えて、精神があります。
31:53 B: あなたは、それは普遍的だと、仰るのでしょうか。
31:55 K: それは、普遍的な精神です。 あの普遍的な精神は - 私は、「普遍的」という言葉を、使いたくありません。
32:03 B: でも、特定と一般を越えているものは、 ふつう、普遍と呼ばれるだろう、という意味において、です。

K: ええ。

B: でも、たぶんその言葉は、困難です。
32:15 K: 私たちは、違った言葉を、見つけられますか - 地球的?いいえ。 特定を越えている精神・・・いいえ、精神です。
32:25 B: それは、本源、本質である、と言えるでしょうね。何と言えるのか、私は知りません。 それは、絶対とも、呼ばれてきました。
32:38 K: 私は、その「絶対」という言葉も、使いたくありません。
32:41 B: ええ。でも、意味としては・・・絶対は、文字通りには、 制限すべて、依存すべてより自由であるものを、意味していますね。
32:51 K: いいですよ。もし私たちが、絶対は、依存すべて、制限すべてよりの自由を、 意味することに、同意するなら、です。
33:01 B: ・・・関係すべてより、です。
33:03 K: では、私たちは、それを使いましょう。いいですよ。

B: それは、不幸な含蓄を、持っていますね。
33:08 K: もちろんです。私たちの対話での便宜のために、当面の間、その言葉を使いましょう。 この絶対的な静けさが、ある。 あの静けさの中か、 あの静けさから、動きがある。 あの動きは、永久に新しい。 あの精神は・・・あの精神の、宇宙・万物への関係は、何ですか。
33:44 B: 物質の宇宙・万物へ、ですか。
33:46 K: ええ、宇宙、万物全体です。 物質、樹々、自然、人、天空。
33:56 B: それは、興味深い問いですね。
34:01 K: それは、秩序の中にある。 宇宙・万物は、秩序の中にある - それは、破壊的でも、建設的でも、やはり秩序です。
34:09 B: それは、必然的な秩序ですね。 秩序は、絶対に、必然的だとの性格を、持っています - それはその他ではありえない、という意味で、です。

K: 全くです。

B: 私たちがふつう知っている秩序は、絶対に必然的ではありません。 それは、変化させられるでしょう。 それは、他の何かに依存しうるでしょう。 どのふつうの秩序も、偶発的です。 それは、何かに依存します。
34:32 K: 火山の爆発は、秩序です!
34:36 B: それは、宇宙・万物全体の秩序です。 それは、必然的です。 宇宙・万物全体を考慮すると、それは、その他ではありえません。
34:42 K: 全くです。 さて、宇宙・万物には、秩序がある。 静かであるこの精神は、完全に、秩序の中にある。
34:57 B: 深い精神、絶対です。
34:59 K: ええ、絶対的な精神です。そのとき、この精神は、宇宙・万物ですか。

B: それが問いです。どんな意味で、あれは、宇宙・万物ですか。
35:10 私たちは、それを言うことが、どういう意味かを、理解しなくてはいけませんね。
35:23 K: または、こういう意味です - 分割がありますか。 この絶対的な精神と、宇宙・万物との間に、分割が、です。 または、どちらも同じです。 それが、私が取りかかりたいことです。
35:41 B: すなわち、私たちは、精神と物質の二元論を持っているのか、 または、それらはどちらも同じか、です。

K: そうなんです。 それは、僭越でしょうか。
35:53 B: いいえ、必ずもそうではない。 これらはただ、二つの可能性ですよ。
35:57 K: 私は、すっかり確かであってほしいと、思います- きわめて、きわめて微妙な大きな気づかいが、 本当に必要な何かを、私たちは踏みつけていないということが、です。 私がいうのが、どういう意味か、お分かりですか。
36:15 B: 私たちは、身体へ戻るなら、 身体は物理的だ、それは物質的だ、と言ってきました。

K: ええ。

B: 私たちはこう言いました - 身体の中にある精神・・・
36:26 K: 一般と特定です。
36:28 B: すべての思考、感情、欲望、意志、一般と特定は・・・

K: 全くです。同意します。

B: ・・・あの物質的な過程の一部です - 身体より異なっていません。

K: そのとおりです。 すべての反応は、物質的な過程です。
36:39 B: ゆえに、ふつう精神と呼ばれるものは、
36:42 ふつう身体と呼ばれるものより、異なっていません。

K: 全くです。

B: 今、「宇宙・万物全体を考慮しなさい」と仰る中で、これは、はるかに大きくなります。 私たちは、こう言います - あの宇宙・万物の中の精神と呼ばれるもの、 それは、宇宙・万物と呼ばれるもの自体と物質より、異なっていますか。

K: そのとおりです。
36:59 K: そういうわけで、私は、私たちの日常生活に、秩序がなければならない、と感じるのです - 思考の秩序、ではありません。

B: 思考は、制限された秩序を、持っていますね。
37:10 K: ええ、そうなんです。

B: それは依存しています。それは相対的ですね。

K: で、秩序は・・・
37:21 B: それは、制限より自由です。

K: 制限より自由です。
37:26 私は、自らの日常生活において、それを持たなくてはいけません - それは、いかなる葛藤もない、という意味です - 矛盾もない・・・その他すべて、です。
37:40 B: 思考の秩序を取るなら、それは理性的であるとき、秩序立っているのが、分かります。 さて、矛盾において、思考の秩序は、壊れてしまっています。 それは、自らの制限に到っていますね。 思考は、矛盾に到るまで、働きますが、 それが制限です。

K: で、私の日常生活において、
37:57 そこに何も動揺がない完全な秩序が、あるのなら、 その秩序の、 けっして終わらない秩序への関係は、何ですか。 秩序のあの静寂な動きは- あのとてつもない何かの、です - それは、私が、深い内的な心理的な秩序を、持っているとき、 私の日常生活に、影響しえますか。 問いを理解されますか。
38:33 B: ええ。私たちは、例えば、火山は、 宇宙・万物の秩序全体の顕現である、と言っていました。
38:40 K: 絶対に、です。虎は鹿を殺す。
38:43 B: すると、問いは、人間は、自らの日常生活において、 同様でありうるのかどうか、です。

K: そうなんです。 そうでないなら、他は何の役に立つのか、私には分かりません!
38:54 B: それは、人間にとって、何の役にも立ちません。

K: そうなんです。
38:58 B: そのときあなたは、人間が自分自身の中、自分の思考の中から、 自分の目的を、作り出そうとしていることへ、また陥ってしまうでしょう。 或る人々は、「宇宙・万物について、誰が気にするのか」と言うだろう、と思います - 「私たちが気にするすべては、自らの社会、自らがしていることだ」と。 でも、そのとき、それは、崩れ落ちてしまいます。 なぜなら、それは、矛盾に満ちているからです。
39:17 K: もちろんです。明白です。 それを言うのは、無思考の人だけです。 それで、あの宇宙・万物は、全的な秩序にありますが、
39:33 それは、私の日常生活に、影響するのです。
39:36 B: ええ。 思うに・・・或る人々、科学者たちは、どのように、と訊ねるかもしれませんね。 人々は、こう言うかもしれません - 「いいよ。私は、宇宙・万物が物質から 構成されていることを、理解します。 物質の法則は、あなたの日常生活に影響しますが、 それがどのように、精神に影響するのかは、さほど明らかではありません」と。どのように精神は・・・ すなわち、日常生活に影響する、この絶対的な精神がある、と。

K: ああ。
40:12 K: 私の日常生活とは、何ですか。 一連の反応と無秩序ですね。 私はそれを、とてもすばやく、短くしています。それは、それです。
40:26 B: それはほぼ、それですね。

K: ほぼ、です。
40:31 思考はいつも、その中に秩序をもたらすために、格闘しています。

B: ええ。

K: そうするとき、それはやはり無秩序です。
40:41 B: 思考は、制限されているからです - いつも、自らの矛盾により、制限されています。

K: もちろんです。

K: 思考はいつも、無秩序を創り出しています。 なぜなら、それは自体が制限されているからです。
40:54 B: それが、制限を越えようとするやいなや、それは無秩序です。
40:57 K: それは、無秩序です。そうです。
41:00 私は理解しました。 私はそれに入ってきました。 私はそれへ、洞察を持ちます。 で、私は自分の生に、一定種類の秩序を持ちます。 しかし、その秩序はやはり、制限されています。

B: ええ。

K: 私はそれを認識します。 それが物質であるかぎり、 生きること、この存在は、制限されている、と私は言います。
41:31 B: 或る人々は、それを受け入れて、なぜもっと多くを持つべきなのか、と言うでしょうね。
41:35 K: ああ、私は、もっと多くを持とうとしていません!
41:38 B: でも、気をつけて見ましょう。 或る人々は、こう言うでしょう - もしも私たちが、この制限された秩序をもたらせたなら、私は幸せになるだろう。 私たちは今、こんなに多くの無秩序を、持っている。 もしも、私たちは、普通の物質的な生活に、本当の秩序をもって、生きられたなら・・・
41:52 K: 私は、「そうしましょう!」と言います。もちろん、それは、されなければなりません。

B: ええ。

K: しかし、まさにそれをする中で、自らは、それが制限されていると、悟らなくてはいけません。
42:04 B: ええ。あなたが産出できる最高の秩序さえ、制限されています。
42:10 K: 精神は、自らの制限を悟って、 「それを越えよう」と言います。
42:16 B: なぜですか?或る人々は、「なぜそれら制限の中で、幸せにいないのか」と 言うでしょうね。 持続的にそれらを拡大し、 「私たちは、新しい思考、新しい秩序を発見できる」と言って、です。 芸術家たちは、新しい形の芸術、科学者たちは、新しい種類の科学を、発見するでしょう。
42:34 K: でも、それはいつも、制限されています!

B: ええ。私たちは、ゆっくり行かなくてはいけません。 なぜなら、思うに、或る人々は、ここまで行って、それから、 「それが可能なすべてである」と言うだろうからです。
42:44 K: ええ。「私は人間の状況が好きだ。 それを受け入れよう。 それをできるだけ、役立てよう」と。
42:50 B: 彼らは、「私たちは、今しているのより、はるかに良くできるかもしれない」と、言います。
42:53 K: ええ。でも、それはやはり、人間の状況です - 少し改革され、少し良い、などと。
42:59 B: 或る人々は、甚大に改革された、と言うでしょうね。
43:02 K: ええ。でも、それはやはり、制限されています。
43:05 B: ええ。まあ、それを明らかにしようとしましょう。 なぜなら、制限の何が、いけないのですか。
43:12 K: その制限には、自由がありません。 制限された自由は、あります。
43:17 B: ええ。で、結局、私たちは、自らの自由の境界へ、来ます。 はっきりさせましょう。私たちに知られていない何かが、私たちに反応させます。 ゆえに、これは必然的に、失敗するでしょう。 なぜなら、反応をとおして、私たちはまたも、矛盾に陥るだろうからです。
43:34 K: ええ。でも、私は、自分がいつも、一定の区域の中で 動いていることが、見えるとき・・・
43:41 B: そのとき、ゆえに、私は、諸々の力の制御のもとに、ある。
43:44 K: 諸々の力と、制限されたものの(もとに)、です。 精神は必然的に、それに反抗します。
43:51 B: それは、重要な点です。 精神は自由がほしい。ですね?
43:56 K: 明白です。
43:57 B: それは、あれが最高の価値である、と言いますね。 で、私たちは、それを受け入れて、それはただの事実だ、と言いますか。

K: ええ。すなわち、私は囚人です。私は、自分がこの制限の中で、囚人であることを、悟ります。
44:11 B: ええ。或る人々は、それに慣れてしまい、「私は制限を受け入れる」と言います。
44:14 K: 私はそれを、受け入れないでしょう。
44:16 私の精神は、牢獄からの自由がなければならない、と言います。 私は囚人です。 牢獄は、とてもすてきで、とても文化的で、 その他すべてなのですが、それはやはり、制限されています。 それは、これらを越えた自由が、なければならない、と言います。
44:33 B: ええ。さて、どの精神が、これを言いますか。 それは、人間の特定の精神ですか。

K: ああ!
44:44 K: 自由がなければならないと、誰が言いますか。 ああ、それはとても単純です。 まさに痛み、まさに苦しみ、それらこそが、 私たちが越えていくことを、要求します。
44:57 B: で、あなたは、この特定の精神は、制限を受け入れるけれども、 それを痛いと見ると、仰っています。

K: もちろんです。

B: ゆえに、この特定の精神は、どうやら、 それが正しくないと、感じます。

K: ええ。
45:10 B: それは、それを回避できませんね。 自由の必要性があるように、思われます - そのように表したいなら、ね。
45:15 K: 自由は、必要です。 自由へのどの妨げも、後退です。

B: ええ。
45:27 K: そうです。

B: その必要性は、反応ゆえの外的な必然性ではありません。
45:32 K: ええ。自由は、反応ではありません!
45:34 B: 自由の必要性は、反応ではない。

K: ええ。

B: 或る人々は、あなたはずっと牢獄の中にいたので、 このように反応したと、言うでしょう。

K: ああ、いえ、いえ。
45:45 で、私たちは、どこにいますか。 それは、反応からの自由がなければならない、という意味ですね - 思考の制限からの自由、 時の動きすべて、それらからの自由、です。 それらからの完全な自由が、なければなりません! - 私が、空っぽの精神とそれらと、宇宙・万物の秩序を、 本当に理解する前に、です。 そのとき、それは、精神の秩序です。 あなたは私に、ものすごくたくさんを、頼んでいます! 私は進んで、そこまで行こうとするのでしょうか。
46:39 B: 不自由は、その魅力を持っていますね。
46:42 K: もちろんです。私は、その魅力に、興味がありません。
46:45 B: でもあなたは、質問をされました - 私は進んで、そこまで行こうとするのでしょうか。 で、それは、不自由には、あなたを保つ何か 魅力的なものがある、と提起するようです。

K: もちろんです。私は、それらについて、はっきりしています。
46:57 私は不自由に、安全、安心、楽しみを、見つけてきました。 私は、あの楽しみ・痛みには、何も自由がないことを、悟ります。 そして精神は、反応としてではなく、これらからの自由がなければならない、と言います。 その点に来ることと、葛藤なく手放すことは、 自体の修練、自体の洞察を、要求します。 そういうわけで、私は言ったのです - 私たちのうち、一定量の時間、思考と究明を これらに注いできた人は、 自らは、そこまで行けますか。 または、身体の応答、 日々の要求の応答、日々の行為の責任 - 妻、子ども、それらが、 私を抑え、保っていて、この完全な自由の感覚を 阻止しているものですか。 修道士、僧侶、聖人、サンニャーシたちは、 「あなたは世間を放棄しなければならない」と言ってきました。
48:25 B: ええ。私たちは、それに入ってきました。 彼らはとにかく、世間を伴っています。
48:30 K: それはまたもや、もう一つの形の白痴です- そのように表して、すみません。 私たちは、それらを通りぬけてきました。 だから、私は、再びそれらに入るのを、拒絶します。今、私は言います - あの宇宙・万物と、自体よりこれらを空っぽにした精神、 それらは、一つですか。

B: それらは、一つですか。
48:58 K: 一つです。それらは、分離していない。 それらは、一つです。
49:04 B: ええ、多かれ少なかれ、あなたは、物質的な宇宙は、絶対的な精神の 身体のようであると、仰っているかのように、聞こえます。

K: ええ、いいです。いいです!
49:17 B: それは、その絵画的な表し方なのかもしれません。

K: ええ。
49:25 K: 私たちはまた、罠に陥らないよう、よく気をつけなければなりません -
49:29 宇宙的・普遍的な精神は、いつもそこにある、との罠に、です。
49:37 B: すると、それをどのように、表されるのでしょうか。
49:41 K: 彼らは、そう言ってきました - 神はいつも、そこにおられる。 ブラフマンや最高原理は、いつもそこにある。 あなたがすべきことは、自己を浄化し、それに到着することだけだ。 そこに来るために、あらゆる種類のことをしなさい、と。 それもまた、とても危険な言明です。 なぜなら、そのときあなたは、 「私の中に永遠がある」と、言うからです。
50:10 B: 思考は、永遠を投影しつつある、と私は思います。

K: もちろんです。

B: でも、あなたは、どのようにそれを、表されるのでしょうか。 「それはいつもそこにある」と言うことには、論理的な困難が、あります。 なぜなら、「いつも」は、時を含意するからです。

K: もちろんです。

B: それは、毎分そこにある - それが、あなたが仰る意味です。 私たちは、時と何の関わりもないものについて、議論しようとしています。
50:29 K: 時とは、何の関わりもない。
50:30 B: で、私たちはそれを、ここ、そこ、今、そのときにある、と置けませんね。
50:39 K: で、私たちは、或る点へ来ましたね - この普遍的な精神が、ある。 そして、自由があるとき、 人間精神は、それのでありうる、ということに、です。

B: ええ。

K: それで十分だと思いますが、どうですか。
51:10 B: ええ、何時ですか。
51:14 K: 私たちは、時で行こうとしています。よろしい!
51:17 B: まあ、それで十分でしょうね。
51:19 K: それで十分でしょう。私たちは継続するでしょう。いつですか。
51:22 B: あなたは、来週、土曜日に行きたいですか。
51:25 K: 見てみましょう!