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OJBR80CB15 - 人間の問題は、解決できるのか
ディヴィッド・ボームとの会話、第15回
イングランド、ブロックウッド・パーク
1980年9月27日



0:31 K: 私は、先日私たちが話していたことについて、 議論、対話したいと思います。
0:46 私たちは、ほとんどどのテクノロジーの問題をも 解決できる精神を、養成してきました。 見たところ、人間の諸問題は、けっして解決されたことがありません。 人間たちは、自らの問題に、溺れています - 疎通、伝達の問題、知識の問題、 関係の問題、天国と地獄の問題。 人間存在全体が、広大な複雑な問題になってきましたね。 見たところ、歴史をとおしてずっと、このようだったのです。 人は、自らの知識にもかかわらず、 自らの幾世紀もの進化にもかかわらず、 諸問題より、けっして自由でなかったのです。
2:03 B: ええ。本当は解決不可能な諸問題より、です。 解決不可能な諸問題より、と私は加えましょう。
2:09 K: 人間の諸問題は解決不可能なのかどうかを、私は問います。
2:14 B: 今、それらが出ているようには、です。
2:16 K: もちろんです。今、これらの問題は、とても複雑になり、 信じがたく解決不可能になってしまいました- 物事のありようでは、です。 どの政治家、科学者、哲学者も、それらを解決しようとしていません - 戦争などをとおして、以外は、です。彼らの誰一人として、それらを解決できません。 で、世界中で、人間たちの精神は、なぜ・・・ 人間の、日々の生の問題を、解消することができなかったのか。 完全に、これらの問題を解決するのを、 阻止するものは、何でしょうか。 私たちは、自らの精神を、けっしてそれへ向けたことがない、ということですか。 なぜなら、私たちは、日々のすべてと、たぶん夜の半ばを、テクノロジーの問題について 考えることに、使うからです。そして私たちは、他への時間を持たないのですか。
3:31 B: それは、その一部だけです。 多くの人々は、 他はそれ自体の世話をするはずだ、と感じます。 私が思うに、彼らは、これらの問題へ、たくさんの注意を向けません。
3:42 K: なぜですか?なぜですか? 私はこれに、かなり関心を持っています。 なぜなら、 このような学校において、または、私たちが話をする人々すべてについて、 人間の問題は、常に留まっているからです。 私は、この対話において、問うています、訊ねています - 問題を、まったく持たないことは、可能なのかどうかを、です。 人間の諸問題を、です。テクノロジーの問題は別です。それらは、解決できます。 しかし、人間の問題は、解決不可能に思われます。なぜですか? それは、私たちの教育ですか。 それは、私たちの根深い伝統ですか - 私たちが物事を、ありのままに受け入れる、ということは。
4:56 B: ええ、それは確かに、その一部です。 文明が古くなるにつれて、これら問題は、蓄積します。 人々は、物事を受け入れつづけますが、それは、問題を作ります。 例えば、今、世界には、かつてあったのより、はるかに多くの 国家、民族があり、各々が、新しい問題を創り出します。

K: もちろんです。

B: もし、一定の時期へ遡るなら・・・
5:21 K: あらゆる、つまらない小部族が、国家になります。
5:24 B: ええ、それから彼らは、その隣国と闘わなければなりません。
5:27 K: もちろんです。彼らは、互いに殺し合うための、このすばらしいテクノロジーを、 持っています。でも、私たちは、人間の問題について、話しています - 関係の人間的な問題、自由の欠如の人間的な問題、 常の不安定、恐れのこの感覚。 そうね、人間的な格闘、 余生の間、生計のために働くこと。 それは、とてつもなく間違って見えます- 全部が、です。
6:05 B: ええ。人々は、それを見失ってしまったと、私は思いますね。 一般的に言って、彼らは一種、状況を、ありのままに、受け入れます - 彼らはその中に、自分自身を見つけます。 それをできるだけ役立てようとし、 幾つかの小さな問題を、解決しようとします- 自分の状況を改良するために、です。 彼らは、この大きな状況全体を、あまり真剣に、見ようとしないでしょう。
6:28 K: 宗教的な人々は、人にとって、ものすごい問題を、創り出してきました。
6:32 B: ええ。彼らもまた、問題を解決しようとしています。 あらゆる人が、しばしば、自分の小さな断片を、持っています - 何でも自分が 解決できると思うものを、解決するものを、です。 それはすべて、加わって混沌になる。
6:46 K: それが、私が言っていることです。 私たちは、人間として、混沌の中に生きます。 私は、自分が唯一つの問題もなく、 余生の間、生きられるのかどうかを、見出したい。 それは、可能ですか。
7:09 B: 私たちはこれらのことを、問題と呼ぶべきなのかどうかとも、思われます。 問題は、何か合理的に、解決可能でなくてはいけないものでしょう。 一定の結果をどう達成するかの、問題を立てるなら、 それは、あなたが、そうする道を、合理的に見つけられるだろうことを、前提としますね。 いいですか?テクノロジー的に、です。 さて、心理的に、 問題は、そのように見つめられません - 達成する結果を提起し、それから、それをする道を、見つけるように、です。
7:42 K: これらの根は、何ですか。 これら人間的混沌の原因は、何ですか。
7:52 B: 私たちは、長い間、これについて、議論してきました。
7:58 K: 私は、違った角度からそれへ、来ようとしています - 問題に、終わることが、あるのかどうか、です。 そうね、個人的に私は、問題を持つことを、拒絶します。
8:34 B: 誰かが、それについて、あなたと論争するかもしれません - あなたは、何かで挑戦されるかもしれない、と言って、です。
8:41 K: それは問題ではありません。 私は、先日、 きわめて深刻なことについて、挑戦されました。
8:47 B: それは、明瞭化の事柄です。 困難の一部は、言語の明瞭化ですからね。

K: 言語だけではなく・・・

B: その裏にあるすべての、です。
8:56 K: ええ。言語だけではない。 それは、関係と行為の問いです。 先日、一定の問題が、生じました。 それには、たくさんの人々などが、関与していて、 一定の行為を、取らなくてはいけませんでした。 私個人にとって、それは問題ではなかった。
9:24 B: あなたが仰る意味を、明らかにしなくてはいけません。 なぜなら、私は、実例なしでは、知りませんが・・・
9:29 K: 私がいう「問題」とは、何か解消されなくてはいけないもの、 何か、気を揉むもの、何か、果てしなく関心を持ち、 問い、答えるもの、という意味です - 疑い、不確実であり、 或る種の行為を取る。その終わりには、後悔する。
9:46 B: 技術的な問題から、始めましょう - そこで初めに、問題の観念が、生じました。 あなたは、挑戦を受けます。 何かが、されなくてはいけません。

K: 絶対に、です。

B: あなたは、それは問題だ、と言いますね。
9:57 K: ええ、それは一般的に、問題と呼ばれます。
9:59 B: 問題(プロブレム)という言葉は、 何か可能な解決案を出す、それから、それを達成しようとする、 という観念に、基づいていますね。
10:07 K: または、私は問題を持っていますが、それをどう取り扱うべきかを、知りません。
10:11 B: それは二番目です。 あなたは、問題を持っていて、 それをどう取り扱うかの観念を、持っていないなら・・・
10:17 K: それで、私は、人々に訊ねてまわり、 ますます混乱します。
10:23 B: それはすでに、技術的な問題の単純な観念からの、変化です - 技術的なところでは、ふつう、何をすべきかの概念を、何か持っていますね。
10:35 K: 私たちは持っているかなと、思われます。

B: 何ですか。技術的な問題ですか。
10:38 K: 技術的な問題は、相当に単純です。
10:41 B: それらはしばしば、挑戦を、もたらします - とても深く行き、自分の観念を変化させることを、必要とするものを、です。
10:48 K: ええ。それが、私が取りかかろうとしていることです。
10:51 B: 技術的な問題さえも、そうなるかもしれません。 しかし今、技術的な問題のために、あなたはこう言うでしょう - 「私は一般的に、それを解決するために、何をすべきかが、分かります」と。 例えば、食料の不足がある。 一般的に、しなくてはいけないことは、 もっと多くの食料を生産し、そうする手段を見つけることです。
11:08 K: 私たちは、それをできます!
11:10 B: ええ。また私たちは、全面的に新しいアイディアなどを、発見できるかもしれません。 今、私たちは、心理的な問題を、持っています。 私たちは、同じことをできますか。

K: ええ、それが論点です。

B: ええ。
11:25 K: 私たちは、どのようにこのものを、取り扱いますか。
11:28 B: どんな種類の問題について、私たちは議論しましょうか。例えば・・・
11:31 K: 人間的な問題です。
11:33 B: どんな種類の問題ですか。
11:35 K: 人間関係において生ずる、どんな問題でも。
11:39 B: 人々は合意できない、としましょう。 彼らは常に、互いに闘いますね。
11:43 K: ええ。とても単純なこととして、それを取りましょう。 ここ(学校)での、一団の人々との、私たちの議論において、 ともに考えること、同じ見通し、同じ態度を持つことは、 ほぼ不可能なように、思われます - 互いにまねをしあうのではなく、 通常で、健康的に思われる態度、です。 各人物が、自分の意見を押し出すし、 彼は、他の人により、反論されます。 で、これが、世界とここで、いつの時も、つづいています。
12:30 B: いいですよ。 さて、私たちは、私たちの問題は、 ともに働くこと、ともに考えることだ、と言いますね。
12:36 K: ええ、ともに働く、ともに考える、ともに協働することです - そこに金銭問題が、関与することなしに、です。
12:48 B: それは、もう一つの問いですね - 人々は、多く支払ってもらうなら、ともに働くだろう、ということです。
12:54 K: もちろんです。それが起きつつあることは、見られます。
12:56 B: しかし、これが私たちが望むものでない状況を、与えられると、 私たちは、問題を持っています。
13:02 K: ええ、そのとおりです。さて、私たちは、そういう問題を、どのように解決しますか。 私は、自分の意見を提示します。 あなたは、提示します。彼など、 私たちのみんなが、意見を提示しています。 それで私たちは、まったく互いに出会いません!
13:20 B: ええ。

K: で、私たちは何を、するのでしょうか。 自分の意見をあきらめることは、ほぼ不可能に思われます。
13:28 B: ええ、それは、困難の一つです。 もし、あなたが、 「自分の意見をあきらめることが、私の問題です」と言うなら、 それは、意味をなしません。 そういうわけで、言おうとしていたのですが、それを問題と見做せるのか、私は確かではありませんね - 「自分の意見をあきらめるために、私は何をしようか」と言って、です。
13:47 K: ええ、もちろんです。でも、それは事実です。 で、それを観察して、 私たちはみんな、ともにまとまるべきだとの必要性を、見ると、 これが、他の人たちへ出されるとき、それは、彼らにとって問題になる。
14:09 B: それは、人々は、意見をあきらめるのは、難しいと見るからです。
14:12 K: そうなんです。意見、予め構想された観念、彼ら自身の経験、 彼らの結論、彼らの理想、信念、 そうね、それらを、です。
14:22 B: それすら、その瞬間には、意見のように思われないかもしれなくて、真理のように感じます。
14:25 K: 彼らはそれを、事実と呼びます。

B: 事実や真理だ、と。
14:28 K: で、私たちは何を、するのでしょうか。 あなたは、それが重要である、と分かるなら - 人間たちが、ともに働くことが、です。 何か理想のため、何か信念のためや、 何か神のため、何か原理のためではなく、 ともに働くことの重要性、必要性が、です。 つまり、国際連合で、彼らはともに働いていません。

B: ええ。

K: インドでは、彼らはともに働いていません。 どの国のどの人々も、ともに働きません。
15:18 B: ええ。さて、或る人々は、こう言うかもしれませんね - 私たちは、意見だけでなく、 自己利益をも持っている。 それは、とても類似している、などとです。
15:28 K: それらです。それは問題になる。
15:33 B: それは、問題と呼ばれますね。二人の人々が、異なった自己利益を、持っているなら、 彼らがそれを維持するかぎり、私の見るところ、 彼らがともに働ける道は、何もないですね。
15:46 K: 同意します。でも、仮に、この(学校の)ような場所だ、とします - そこには、人々の集団がいるし、 私たちがみんな、ともに働くことが、重要です。

B: ええ。

K: たとえ、小さな村、小さな国、何であっても、私たちはみんな、ともに働かなければなりません。 見たところ、それはほぼ、信じがたいほど困難になるんです。

B: ええ。さて、あなたはどのように、これに割って入りますか。
16:13 K: それが、私が議論したいことです。

B: いいですよ。それについて、議論しましょう。
16:26 K: あなたがそれを、私へ指摘してくれるなら - 私たちは、ともに働かなければならないことを、です。
16:34 そして、その重要性を、私に示してくれる。 私もまた、それが重要だと、分かりますが、私はそれができません!
16:45 B: それが、論点です。それが重要だと見て、 そうしたいとの意図を持つことさえも、十分ではないです。 ふつう、私たちが、「私は重要性は分かるし、 私はそうしたいとの意図を、持っている」と言うとき、私は行って、そうします。
16:58 K: でも、私はそれをできません!
16:59 B: で、ここで、新しい要因が、入ってきます - 或る人物は、何かが重要だと分かり、 彼は、そうしたいと意図するが、それをできない。
17:06 K: それは、彼に、問題を創り出す!
17:08 B: ええ。そして、あらゆる人に、です。

K: ええ、あらゆる人に、です。
17:13 B: でも、そのとき、なぜ私たちは、自らの意図を、果たせませんか。 重要性が分かり、私たちはそうしたいことを、知り、 けれども、私たちはそれができない。 それは、謎めいて見えます。
17:21 K: それには、多くの理由を示せます。 ですが、それら原因と理由と説明は、 その問題を、解決しません。 その主題を、解決しません。 何が、人間・・・私たちは、同じことへ戻ってきます。 何が、人間精神を、変化させるのでしょうか。 それが必要であることは、見えるけれども、 能力がないとか、進んで変化しようとしない。 ここには、どんな要因が、必要ですか。 何か新しい要因が、必要です。
18:01 B: ええ。それは知覚だと、私は感じます - 何であれ、その人物を保って、変化するのを阻止しているものを、 観察する能力だ、と。
18:14 K: では、新しい要因は、注意ですか。
18:21 B: ええ。それが、私が言おうとしたことです - 注意です。 でも、そのとき、人々の集団の中で、これへ、割って入ろうとするのなら、 あなたがいわれるのは、どういう種類の注意ですか。
18:33 K: 私たちは、それについて議論できます - 注意とは何なのか。私たちは、それについて議論できます。
18:37 B: それは、異なった人々にとって、多くの意味を、持っているかもしれません。
18:40 K: もちろんです。明白に、いつものように・・・注意について、多くの意見です。 私たち、あなたと私は、注意とは何かを、見られるのでしょうか。 誰かが書いて、今朝、手紙が来ました。 その中で、その人物は、こう言います - 「注意があるところ、問題は何もない。 不注意があるところ、あらゆることが生ずる」と。 さて、注意を問題に変えることなく、 私たちがいうそれは、どういう意味ですか。 それで、私がそれを理解するように、です 。 言語的にでなく、知的にでなく、深く、私の血潮に、 注意の本性を、理解する - そこには、何も問題がけっして存在しえないものを、です。 明白に、それは集中ではない。
20:17 B: ええ。私たちはそれへ、入ってきました。
20:20 K: 私たちはそれへ、入ってきました。 明白に、それは、 注意深くあるための尽力、経験、格闘ではない。 ですが、あなたは私に、注意の本性を、示してくれます - すなわち、 注意があるとき、そこから私が注意をする中心は、何もない。
20:48 B: ええ。でも、それは困難なことです。
20:51 K: もちろんです。それを、問題にしないようにしましょう。
20:54 B: ええ。でも、私たちは長い間、それを、試してきました。 まず第一に、注意というのが、どういう意味かについて、 幾らか困難がある、と思うのです。 なぜなら、思考の内容自体は、或る人物が、それを見つめているとき、 彼は、自分は注意していると、考えるかもしれないからです。
21:16 K: いいえ。その注意の状態には、何も思考がありません。
21:19 B: ええ。でも、すると、どのように思考を止めますか、と。 考えがつづいている間、注意の印象が、ありますが、 それは、注意ではないですね。 自分は注意を払っている、と考えます。思います。
21:36 K: いいえ。自分は注意を払っていると思うとき、それは、注意ではありません。

B: ええ。でも、それが、しばしば起きることですね。 では、私たちはどうやって、
21:46 注意の真の意味とは何かを、伝達しようとしていますか。
21:51 K: またはあなたは、こう仰るのでしょうか - 注意とは何かを、見出すには、 私たちは、不注意とは何かを、議論できるでしょうか、と。

B: ええ。

K: 否定をとおして、肯定へ来る。 私が不注意であるとき、何が起きますか。 私が不注意であるとき・・・
22:23 B: あらゆる種類のことが、起きます。
22:28 K: いえ。それよりはるかに多い。 私の不注意さにおいて - 「不注意さ」といった言葉が、あるとして、ですが - 私はさびしく、絶望的で、憂鬱で、心配だ、などと、感じます。
22:46 B: 精神は、壊れはじめ、混乱へ入ります。
22:50 K: 断片化が、起きます。 または、私は、自らの注意不足において、 自分自身を、他の多くの物事と同一視します。
23:03 B: ええ、それもまた、楽しいのかもしれません。

K: もちろんです。それはいつも楽しい。
23:08 B: まあ、でも、それはまた、痛いのかもしれません。
23:11 K: 私は後で、楽しかったことが、痛みになることを、見つけます。
23:21 で、それらが、中に注意がない動きです。 ですね? 私たちはどこかへ、着こうとしていますか。

B: 分かりません。
23:42 K: 私は、注意はこれらへの真の解決であると、感じます。 本当に注意深い精神 - 不注意の本性を理解してしまい、 それより動いて、離れたものは、です。
24:07 B: すると、不注意の本性は、何ですか。
24:10 K: 不注意の本性ですか。 怠惰、怠慢、 この自己関心、この自己矛盾。 それらが、不注意の本性です。
24:33 B: ええ。でも、自己関心を持っている人物は、 自らは、自分自身の関心事に、注意していると、感じるかもしれませんね。 彼は、「私は問題を持っている。私は、それらへ注意を払っている」と、感じます。
24:46 K: ああ、あなたがそれを、どう使っているのかが、分かります。全くです。 私に自己矛盾があって、 そのとき、自己矛盾にならないために、 私がそれに注意を払うなら、それは、注意ではありません。
25:02 B: ええ、あなたは、それを明らかにできますか。 ふつうは、それが注意だと、考えるかもしれないからです。
25:07 K: いいえ。それは単に、思考の過程です - 「私はこれだ。私はあれでなければならない」と言うもの、です。
25:18 B: あなたは、なろうとするこの試みは、注意ではない、と仰っています。

K: ええ、そのとおりです。そうなんです。 心理的に、なることは、不注意を、生み育てます。
25:36 B: その人物は、自分は何かに注意していると、考えるかもしれませんが、
25:40 彼は、この過程に従事しているとき、そうしていない。
25:46 K: なることから自由であることは、とても困難ではないですか。 それが、その根なのでしょう。
25:54 B: 何から自由ですか。

K: なることから。なることを、終わらせる。 これで、何かが伝わりますか。 来て、私たちに加わってください。 私たちは、どこかに着こうとしていますか。 または、私たちは、円をぐるぐると回っていますか。 ほとんどの人間は、何らかの種類の問題を、持っています。 解決できる、テクノロジー的な問題は、別として、 見たところ、人間的な問題は、解決可能ではありません。 私は、なぜか、と言います。
26:41 B: 私たちはちょうど、それに答えましたね。 なぜなら、彼らは本当は、それらに、注意を払っていないからです。
26:46 K: いいえ。でも、そのとき、注意を払うことが、問題になる。
26:49 B: そうなるのは、知っています。 でも、私は、注意は何もない。 そういうわけで、これらの問題があるのだ、と言っています。
26:54 K: ええ。そのときあなたは、それを指摘しますが、それは、問題になる。

B: ええ。

K: 私はどうやって、注意深くすべきか、と。
27:01 B: ええ。問いは、それを止めることです。 困難は、精神がいたずらをする、ということですね。 これを取り扱おうとする中で、それはまたもや、まさに同じことを、します。

K: もちろんです。 それで、戻ってきましょう。
27:20 精神は、知識、自己の重要性、自己矛盾、 その他すべてに満ちていますが、その精神、 人間の精神は、それ自体を見つける地点に、来たのです - 心理的に、自らは動けない、と。
27:45 B: ええ、動くところが、どこにもない。
27:51 K: で、何ですか。 その点へ来た人物へ、私は、何と言うのでしょうか。 私は動いて行っているのかと、思われます。 私たちはそうではないですか。
28:11 B: それは、問いへ焦点を、合わせはじめていると、私は思いますね。
28:20 B: どうぞ。

K: 私は、あなたへ来ます。 私は、この混乱、心配と、絶望感に、 満ちています。世界のありさまに、向き合うだけではなく、 また、私自身の中でも、です。 私は、その点へ来ます。 私は、それを突き破りたいと、思います。 で、それは、私にとって問題になります。
28:48 B: ええ、そのとき、またもや、なろうとの試みが、ある。
28:52 K: ええ。それが、私が取りかかりたいことです。 で、それが、これらの根でしょうか - この、なりたいとの欲望が。
28:59 B: ええ、それは、根に近いにちがいありません。 それは、予告なく、入ってきつづけます。 不注意は、そうなので、あなたは、「私は自分の問題を見つめているし、 私の問題はいつも、なることです」と言うのです。 それで、私は、「私は、なるのを止めたい」と言う。それはまたもや、不注意です。
29:18 K: それはまたもや、問題になる。

B: そのとおりです。

K: で、私は、なる動きなしに、どのように、私自身の この複雑な主題全体を、見做すとか、見つめますか。
29:35 B: 全体を見つめなくてはいけないと、思われますね。 「私はどうすれば、注意を払えますか」と言ったとき、 私たちは、なることの全体を、見つめなかった。 その一部は、すり抜けるように思われて、観察者になりましたね。
29:52 K: ほら、なることは、これの呪いだったのです - 心理的に、呪いです。 貧しい者は、豊かになりたい。 豊かな者は、もっと豊かになりたい。 それは、この、いつの時も、 なってゆく動きです - 外的にも、内的にも、です。 それは、大変多くの痛みを、そして時には、楽しみをもたらすけれども、 このなること - 心理的に、なる、充足する、達成するこの感覚は、 私の生を、そうであるすべてに、してきました。 今、私は、それを悟りますが、それを止められません!
30:40 B: ええ。でも、一つのことは、なぜ私はそれを止められないのか、ですね。
30:43 K: 少しそれに入りましょう。 部分的にそれは、私は、なる中で、その終わりに報賞があることに、 いつも関心を持ってきたし、 私はいつも、痛みを回避しているからです- 処罰と報賞です。 その循環に、私は捕らわれています。 それがたぶん、 なぜ精神が、何かになろうとしつづけるかの理由の一つです。 他はおそらく、深く根づいた心配、恐れです。 私は、何かにならない、何かでいないのなら、迷っています。 私は不安定で、不安全です。 で、精神は、これら幻影を受け入れてきて、「私はそれを終わらされられない」と言います。
31:51 B: ええ。でも、すると、なぜ精神は、それを、終わらせないのですか。 また私たちは、これら幻影には何の意味もない、と 言う問いへも、入らなくてはいけませんね。
32:05 K: 私が幻影に捕らわれていることを、あなたは私に、どのように確信させますか。 させられません - 私がそれを、自分自身、見るのでなければ、です。 私はそれが、見えません。なぜなら、私の幻影は、とても強いからです。 その幻影は、宗教により、家族などなどにより育まれ、養成されてきました。 それは、精神に、深く根づいているので、 私は、それを手放すのを、拒絶します。
32:42 B: すると、それは不可能に思われます。

K: それが、起きつつあることです。 それが、多数の人々において、起きつつあることです。 彼らは、「私は、これをしたいが、できない」と言います。 さて、その状況を与えられると、何をすべきでしょうか。 それは、説明、論理ですか。 論理での、すべての様々な反駁などなど - それが、彼を助けるでしょうか。 明白に助けません。
33:25 B: ええ。なぜなら、それはすべて、構造へ吸収されるからです。
33:30 K: 明白に、助けません。 で、次のことは、何ですか。
33:36 B: 私は問うでしょう - もし彼が、「私は変化したい」と言うなら、 変化したくないとの願いもまた、ありますね。 それはそこにあります。
33:43 K: もちろんです。 「私は変化したい」と言う人は、 また、精神の裏に、「本当に、なぜ私は 変化すべきなんだ?」を、隠し持っています。それらは、相伴います。
33:56 B: ええ。すると、あなたは、矛盾を持っていますね。
34:00 K: それが、私がいう意味です - 矛盾です。 私は、この矛盾に、生きてきました。 私は、この矛盾を、受け入れてきました。
34:07 B: なぜ私は、それを受け入れたりしてきましたか。

K: それは習慣であるからです。
34:11 B: でも、精神は、健康なとき、矛盾を受け入れないでしょう。
34:16 K: でも、私たちの精神は、健康ではありません! 私たちの精神は、病気に罹り、腐敗し、混乱しているので、 たとえ、あなたが、これの危険すべてを指摘するとしても、 精神は、それを見るのを、拒絶します。 で、仮に、私はその立場の人である、とします。
34:44 私たちはどうやって、彼が、なることの危険を 明らかに見るのを、助けますか。 そのように表しましょう。 心理的に、なること - それは、民族、国家との同一視、それらの事柄を、含意しています。
35:05 B: または、意見へ取りすがること、です。
35:07 K: 意見、信念へ、です。 私は経験をしてきた。 それは私に、ものすごい満足を、与えてくれる。 私は、それに取りすがろう。 私は知識を持ってきた。そうね、それら、です。 あなたはどうやって、私を、そういう人物を、これらより自由であるよう、助けますか あなたの言葉、あなたの説明、あなたの論理、 あらゆる物事が、「全くそうだ」と言います。 でも、私は動いて、それから出られません。
35:44 もう一つの要因があるのか、と思われます もう一つの伝達の道 - 言葉、知識、説明、報賞に基づいていないものが、です。付いてきていますか。 もう一つの伝達の道が、ありますか - 私たちが、テーブルで短い間、話していたもの、です。 そうね、そこにもまた、危険があります。 私は、あると思います。 必ずあると、思います - 言語的でなく、分析的、論理的でない 伝達の道が、です。 それは、健全さの欠如を、意味していません。 私は必ず、もう一つの道がある、と思います。
37:09 B: おそらく、あります。
37:13 K: さて、あなたはどのように、私と疎通、伝達しますか - この罠に捕らわれている私と、非言語的に、です。 それで私が、それを深く掴んで、 それが、他のあらゆる物事を、破ってしまうように、です。 そういう伝達が、ありますか。 私の精神はいつも、他の一人と言葉でもって、疎通、伝達してきました - 説明でもって、論理でもって、分析でもって、です。 強制的なのか、暗示的なのか、などなどです。 私の精神は、それらに捕らわれてきました。 それらを突き破る、もう一つの要素が、あるにちがいありません。 さもなければ、それは不可能です。
38:21 B: ええ。で、それは、聞けない無能力を、突き破るでしょう。
38:24 K: ええ。聞けない無能力、観察できない、聞こえない などの無能力を、です。 違った方法が、あるにちがいありません! 私はかつて、或る人に会いました - 多くの人たち、です - 或る聖者ととともに 或る場所へ行ったことがある人で、彼と一緒にいるとき、 彼らは、「私たちの問題すべてが、解消された」と言います。 ちょっと待ってください。 彼らは、自分の生活へ戻っていくとき- 古いゲームへ戻っている。
39:13 B: ええ。そこには、何も智恵はなかったですね。
39:16 K: ええ、あなたは、危険が見えます - あの人、あの聖者は、静かで、非言語的なので、 彼のまさに面前で、彼らは静かに感じます。 私が言っていることに、付いてきておられますか。 彼らは、自分の問題が解消されたと、感じます。
39:36 B: でも、それはやはり、外側からです。
39:39 K: もちろんです。まさにそうです! もちろん、そうです - 教会へ行くのに、似ています。 良い、いにしえの教会や、大聖堂の中では、 とてつもなく静かに感じます。 それは雰囲気です。それは構造です。 そうね、それらです。 まさに雰囲気こそが、あなたを静かにさせます。
40:04 B: それは、静けさというのは、どういう意味かを、伝達する、と思います それは、非言語的な伝達を、伝えます - あまり深くないですが。
40:13 K: それは、何でもない!それは、お香に似ています!
40:17 B: ええ、それは表面的です。
40:19 K: ええ、全く表面的です。 お香のように、それは蒸発します。 で、私たちはそれらを、脇に押しのけます。 そのとき、私たちは何を、残したのでしょうか。 外的な機関、神や、何か救い主、ではない。 それらを脇に押しのけて、私は、何を残したのでしょうか。 伝達できる何か、人間たちが自分自身で築いてきた壁を 突き破るだろう何が、そこにありますか。
41:23 私たちが、二時間前に、昼食のテーブルで言いましたように、 それは愛ですか。 もちろん、その言葉は腐敗し、含みがあり、汚れます。 しかし、その言葉を浄化すること - それは、 これら利巧で分析的なそれらを、突き破るだろう要因ですか。 それが、欠けている要素ですか。
42:09 B: 私たちは、それについて議論しなくてはいけません。 たぶん人々は、幾らか、この言葉に用心しています。
42:15 K: ああ、私は、言葉を越えて、用心しています!
42:17 B: ゆえに、人々は、聞くのへ抵抗するので、 愛へもまた、抵抗するでしょうね。

K: もちろんです。
42:25 K: そういうわけで、私は、それはかなり危うい言葉だと、言ったのです。
42:31 B: さて、私たちは、先日にもまた言っていました - 愛は、智恵を収容しており、それは気づかいでもある。 私たちがいう愛が、 智恵と気づかいをも収容しているエネルギーを、意味したなら・・・
42:45 K: もちろんです。それを、先日私たちは、通ってきました。話をしました。
42:48 B: そのほうが、もっと意味をなしますね。

K: さて、ちょっと待ってください。 あなたは、その性質を持っていますが、
42:56 私は、自分の悲惨、自分の心配などに、捕らわれています。 あなたは、その智恵でもって、透徹しようとしています - この暗闇の塊に、です。 あなたはどのように、そうするのでしょうか。 それは、作用するのでしょうか。 しないなら、私たち人間は、迷っています!付いてきていますか。 ゆえに、彼らは、イエス、ブッダ、クリシュナを、考案してきました - 「彼らはあなたを愛している」と。 お分かりですか。 それは、全く無意味に、表面的で、 戯言になってしまいました。
43:54 で、私は何を、するのでしょうか。 私は、それが要因だ、と思います。 注意、知覚、智恵と愛。 あなたはそれを、私に持ってくる。 私は、それを受け取る能力が、ない。 私は、「それはすてきに聞こえます。 私はそれを感じますが、 私はそれを保てません」と言う。 私はそれを保てません。 なぜなら、私は、この部屋の外へ出て行った瞬間に、迷っているからです。
44:47 B: それが、本当に問題です。
44:50 K: ええ、そうです。それが、本当の問題です。 愛は、何か外側のものですか- 言っていることを、理解されますか - 救い主が外側にある、天国が外側にある、それらのことのように、です。 しかし、愛は、何か・・・ - 私はよく気をつけて、その言葉を、使っています - 何か、私の外側のものですか。 あなたが私に持ってくる、 あなたが、私の中に目覚めさせる、あなたが贈り物として、私に与えてくれるものですか。 または、それは、私の暗闇の中に、ありますか。 私の幻影、苦しみの中に、 その性質が、ありますか。 明白にありません。ありえません。
46:07 B: では、それはどこにありますか。

K: まさにそうなんです。 それは、あるにちがいない・・・さて、ちょっと待ってください。 愛は、あなたのや私のではない。 それは、個人的ではない。 それは、或る人物には所属して、或る人物には・・・という何かではない。 愛はある。
46:32 B: これは、重要な点ですね。 議論の一つで、あなたは、 孤立は、どの人物にも所属しない、 それは、何かあらゆる人が見つめられるものだ、と仰っていましたね。

K: ええ。 ところが、私たちは孤立を、私の個人的な問題と考えがちですね。
46:48 K: もちろん、そうではない。それは、みんなにとって、共通の基盤です。
46:51 B: でも、それは、手がかりなのかもしれませんね。 なぜなら、誰かが、愛を探していて、 「これが私の愛にちがいない。あなたはそれを持っているが、私は持っていない」と言うからです。 それが、考える道筋です。
47:00 K: いえ、いえ。智恵は、個人的ではありません。
47:04 B: でも、またもやそれは、私たちの考え全体に、反しますね。

K: 知っています。

B: あらゆる人が、この人物は智恵があるが、あの人はない、と言う。 私は、智恵の欠如があるなら、それを自分自身で、取得しなければなりません。

K: もちろんです。

B: で、これは、全部のことへの障壁の一つなのかもしれません - すなわち、ふつうの毎日の思考の裏には、 人類のより深い思考が、ある。 私たちはみんな、分割されていて、これら様々な性質は、 私たちに所属するのか、私たちに所属しないのだ、と。
47:35 K: 全くです。これらを考案するのは、断片化した精神です。
47:40 B: ええ、すべては考案されましたが、私たちは、それを拾い上げてきました - 言語的に、非言語的に、子どもの頃から、含意によって、です。

K: 全くです。

B: ゆえに、それは、浸透します。 それは、私たちの思考の、 私たちの知覚の基盤です。 で、これは、問われなくてはなりませんね。
47:58 K: 私たちは、それを問うてきました。 すなわち、 嘆きは、私の嘆きではない。 嘆きは、人間的です。
48:05 B: ええ。でも、人々はどうやって、それを見ることになりますか。 なぜなら、嘆きに捕らわれた人物は、それは自分の嘆きだと、感じるからです。 それは正しいと、思えませんか。
48:15 K: ええ。それは部分的に、私たちの教育のせいだ、 部分的に、私たちの社会、伝統のせいだと、私は思います。
48:21 B: でも、それはまた、私たちの考え方全体に、暗示されています。
48:23 K: 考え方全体に。全くそうです。 それで、私たちは、戻ってきます。
48:27 B: すると、私たちは、それから、跳び出さなくてはいけませんね。
48:29 K: ええ。でも、「それから跳び出す」ことが、問題になります。 すると、私は何をすべきなのか、と。
48:36 B: でもおそらく、私たちは、愛は個人的でないし、 愛は、誰にも所属していないことが、分かります。 他のどの性質も、そうであるように、です。
48:43 K: 大地は、イギリスの大地やフランスの大地ではない。 大地は大地です。
48:48 B: 私は、物理学での例を、考えていましたよ。 もし、科学者や化学者が、ナトリウムのような元素を、研究しているなら、 彼は、自分のナトリウムを研究し、他の誰かは、自分のを研究し、 彼らはどうにか、メモ書きを比較する、のではない。
49:01 K: 全くです。ナトリウムはナトリウムです。
49:04 B: ナトリウムは普遍的に、ナトリウムです。

K: ええ。
49:05 B: で、私たちは、愛は普遍的に愛だと、言わなくてはいけませんね。
49:08 K: ええ。でも、そうね、私の精神は、それを見るのを、拒絶します。 なぜなら、私は恐ろしく個人的であり、 恐ろしく「私と、私の問題」、それらであるからです。 私は、それを手放すのを、拒絶します。 あなたが、ナトリウムはナトリウムだと仰るとき、それはとても単純です。私はそれが分かります。 でも、あなたが私に、嘆きは私たちみんなに共通している、と言うとき、それは・・・
49:38 B: それは、同じ嘆きです。

K: ナトリウムは嘆きです!
49:43 B: これは、時でもっては、できませんが、人類が、 ナトリウムはナトリウムだと悟るには、ずいぶん長く掛かりましたね。

K: で、それが、私が見出したいことです。
50:05 愛は、何か、私たちみんなに共通するものですか。
50:13 B: まあ、それは、存在するかぎりは、共通でなくてはなりません。
50:17 K: もちろんです。
50:18 B: それは、存在しないかもしれませんが、存在するなら、そのようでなくてはいけません。
50:21 K: それが存在しないことは、私には確かではありません。 慈悲のように、です - 「私は慈悲深い」でない。 慈悲はそこにある。それは、何か・・・「私は慈悲深い」ではない。
50:33 B: 慈悲はナトリウムと同じだと、言うなら、それは普遍的です。

K: 普遍的です。

B: そのとき、あらゆる人物の慈悲は、同じですね。
50:42 K: 慈悲、愛と智恵。 智恵なしには、慈悲深くありえません。
50:48 B: ええ。で、私たちは、智恵もまた普遍的だと、言います。

K: 明白です。

B: でも、私たちは、特定の人々の知能を テストする方法を、持っていますね。

K: ああ、いいえ!
50:59 B: でも、それはすべて、じゃまになりつつあるものの一部です。
51:02 K: この分割的、断片的な考え方の一部です。 考えることが、断片的です。
51:10 B: 全包括的な考えが、あるかもしれません。 私たちはまだ、そこに入っていませんね。
51:15 K: ええ。そのとき、全包括的な考えは、考えではないと、私は思います。 それは、何か他の要因です。

B: 私たちがまだ入っていない何か他の活動です。 で、愛が、私たちみんなに共通しているなら、なぜ私は、それに盲目なのですか。
51:40 B: 部分的に精神は、ひるむと、私は思います。 それはただ、そういう概念の、見方の突飛な変化を、 考慮することを、拒絶しますね。
51:49 K: でも、あなたはちょうど今、ナトリウムはナトリウムだと、仰った!
51:52 B: ええ、でも、人々は不安を感じます。 そのための証拠は、たくさん持っていますよ - あらゆる種類の実験において、築き上げ・・・
52:01 K: 塩は塩です。それが、イギリスの塩であっても・・・

B: ええ。でも、それは、たくさんの仕事と経験をとおして、築き上げられましたね。
52:10 今、私たちはここで、愛について、それをできませんね。

K: ああ、そうです!それはできません。 愛は知識ではない。
52:18 B: 実験室へ入っていき、愛は愛だと証明することは、できません。
52:25 K: なぜ自らの精神は、きわめて明白な要因を、 受け入れるのを、拒絶しますか。なぜですか? それは、手放すことの恐れですか - 私の古い価値、標準、意見、 それらを、手放すことの。 でも、またもや・・・付いてきておられますか。
52:49 B: たぶんそれは何か、より深いものだと、思います。 それをピン留めすることは、難しいですが、 それは、あれら単純な物事のどれでもない。 あれは、部分的な説明ですね。
52:58 K: あれは、表面的な説明です。 私はそれを知っています。 深く根づいた心配や、 全的に安全でありたいとの、あこがれですか。
53:19 B: でも、それはまたもや、断片化に基づいています。

K: もちろんです。

B: 私たちが断片化していることを、受け入れるなら、私たちは必然的に、 全的に安全でありたくなるでしょうね。 なぜなら、断片化していると、いつも危険の中に、いるからです。
53:31 K: で、それが、その根ですか。
53:34 全的に安全でありたいとの、この衝動、この要求、このあこがれですか - あらゆる物事との私の関係において、確実でありたい、と。
53:47 B: ええ。たとえそうでも、或る面で・・・あなたは、しばしば仰ってきました - 本当の安全は、何もないことに見つかる、という意味で、 安全への探求は、合理的でありうるかもしれない、と。
53:58 K: もちろんです。何もないことに、完全な安全があります。
54:01 B: 間違っているのは、安全への要求ではなくて、 断片が安全であるべきとの要求です。 断片はとうてい、安全でありえません。
54:08 K: それは、各国が、安全であろうとするのに、似ています。それは、安全ではありません。
54:12 B: もしも、すべての国々が、まとまったなら、完全な安全が、達成できるかもしれません。
54:17 K: もちろんです。 部族主義は、何もないでしょう。
54:20 B: で、私が思うに、あなたがそれを表すさまは、まるで、私たちは、 永遠に不安全の中に生きるべきかのように、聞こえますね。
54:26 K: いいえ。私たちはそれを、きわめて明らかにしました。
54:30 B: 安全を求めることは、意味をなしますが、 私たちは、間違った形で、それに取りかかっています。
54:35 K: ええ、そのとおりです。 愛は普遍的であり、個人的でないことを、あなたはどのように、伝えますか - 個人的達成の狭い轍の中に 完全に生きてきた人に、です。
55:01 B: すると・・・第一の点は、こうです - 彼は、自らの狭い特異な性格を、問うのでしょうか。
55:10 K: 彼らは、それを問います- 私はこれについて、多く議論してきました - 彼らは、それを問います。 彼らは、それの論理が、見えます。 彼らは、これらの非論理が、見えます。 けれども・・・ 面白いことに、これらの事柄で、とても真剣であった人々は、 生の全体性を、飢餓をとおし、苦悶をとおして、 見つけようとしてきました - あらゆる種類の道で、です。 彼らは、見つけませんでした。彼らは、自らが見つけたと、想像します。

B: それはまたもや・・・

K: つまり、苦悶をとおして、全体を把握や知覚したり、 全体的であったりできない、ということです。 苦悶は、修練、その他すべてを、含んでいます。それらは、ご存じですね。 で、私たちは何を、するのでしょうか。 私は、これらを見るのを拒絶する兄弟を、持っています。 私は、彼が好きなので、私は、彼とともに生きてきたので、 彼へ、大きな愛情を持っています。 私は彼に、動いて、そこから出てほしい。 私は、彼と、疎通、伝達しようとしてきました - 言語的に、 時には、非言語的に、身振りにより、眼差しによって、です。 でも、これらはやはり、外側からです。 おそらくそれが、なぜ彼が抵抗するかの理由です。 私の兄弟であり、私は彼へ大きな愛情を持っているので、 私は彼を助けられるなら - 私は、「助ける」という言葉を、使わないでしょう - 彼自身の中に、この炎を目覚めさせられることを、指摘する。 それは、彼が私に聞かなければならない、という意味です。 またもや、戻っています。しかし、私の兄弟は、聞くのを拒絶します!
57:53 B: 可能でない行為が、幾つかあるように、思われますね。 或る人物が、断片化といった一定の思考に 捕らわれているなら、彼は、それを変化させられません。 なぜなら、その裏には、他の思考が、たくさんあるからです - 想定上、彼が知らないものが、です。

K: もちろんです。

B: 彼は、そこで行為をできるよう、実際に自由ではないですね - 彼を保っておく思考の構造全体のせいです。 私たちは、どこか彼が自由に行為でき、動けるところを、見つけなくてはいけませんね - 条件づけにより制御されないところを、です。
58:27 K: で、私はどうやって - 私は、大きな用心をもって、「助け」という言葉を、使いましょう - 兄弟を助けますか。 彼は、自分への私の愛情を、知っています。 彼は、私の・・・その他すべてに、気づいています。 これらの根は、何ですか。 私たちは、なることを、言いました- それらは言語的です。 それらは、十の違った形で、説明できます - 原因、結果と、その他すべてです。 これらを説明した後、彼は、 「あなたは、私を、今いるところに、取り残してしまった」と言います。 私の智恵、私の慈しみ、愛は、 「私は彼を放っておけない」と言います。 私は、「まあ、地獄に行け」と言って立ち去れません。 私は彼を、放っておけません。 それは、こういう意味ですか - 私は彼に、圧力を掛けていますか。
1:00:02 私は彼に、どんな種類の圧力も、掛けていません - どんな種類の報賞も、それのどれ一つとして、です。 ああ、そうだ。私の責任はこうです - 私は、もう一人の人間を、放っておけません。 それは、義務の責任、それらの種類の汚いことではない。 それは、それらを言う智恵の責任能力です。
1:00:36 B: それは、明らかです - 彼を放っておくなら、 全部のことは、何の意味もないだろう、ということが、です。

K: ああ。

B: そのときそれは、断片化へ戻っていくでしょう。
1:00:47 K: そうね、インドには、そしてたぶんチベット、それらには、或る伝統があります。 いわゆるマイトレーヤ・ブッダが、います - 自らは、人間たちを解放してしまうまで、 究極的なブッダにならないだろうとの誓いを、立てたもの、です。
1:01:12 B: みんなを、ね。

K: ええ。
1:01:21 K: その伝統は、何をも変化させてきませんでしたね。 私は、どうやって・・・自らは、どうやって・・・ 彼は、その智恵、その慈悲、その愛を、持っているなら - それは、国のや、人物や理想、救い主のではない。 それら戯言のではなく、あの清浄さを持っている・・・ あれは、他の一人へ、伝導できますか。 または、彼とともに生きる、彼へ話をする - それはすべて、機械的になりますね。
1:02:57 B: この問いはけっして本当に、解決されたことがないと、仰るのでしょうか。
1:03:02 K: そう思いますね。

B: そのとおりです。

K: でも、私たちは、それを解決しなければなりません。 それは、解決されたことがないが、 私たちの智恵は、「それを解決しなさい!」と言う。 いや、智恵は、「それを解決しろ」とは言わないと、私は思います。 智恵は、これらは事実である、と言います。 おそらく、幾らかの人は、それを捉えるでしょう。
1:04:05 B: 私には、本当に二つの要因が、あるように、思われますね - 一つは、それはすべて意味をなさないことを示す、道理による準備です。

K: 全く無意味です。

B: でも、そのとき、そこから、おそらく幾らかの人は、それを捉えるでしょう。
1:04:21 K: 私たちは、それをしてきました。あなたは私に、これらを語りはじめました。 あなたは、地図をきわめて明らかに、広げました。 私は、それを、きわめて明らかに、見てきました - すべての河、葛藤、悲惨、混乱、 不安全、なること。 それらが、きわめて、きわめて明らかです。 章の終わりに、私は始まりに、戻っています。 または私は、それを一瞥してきました。 それは、私の渇望になります - あの一瞥を捉える、それに取りすがる、それを失わないことが、です。 そのときそれは、記憶になります。 悪夢すべてが、始まります。
1:05:09 あなたは私に、地図をきわめて明らかに示す中で、また、 それよりはるかに深い何かを、私に、指摘してきたのです - それは愛です。 あなたの人物により、あなたの推理により、論理により、 私は、手探りし、それを追い求めています。 しかし、私の身体、私の頭脳、私の伝統の重み、 それらが、私を引き戻します。 で、それは、常なる闘いです。 付いてきておられますか。 私は、全部のことが間違っている、と思います。
1:06:04 B: 何が間違っていますか。
1:06:06 K: 私たちが生きているさま、全部のことが、間違っています。
1:06:12 B: 多くの人は今までに、それが分かるにちがいないと、私は思います。 少なくとも、相当数が、です。
1:06:19 K: 私たちはかつて、オーハイで話していました - 人は、間違った方へ曲がってしまい、 何も逃げ道がない谷へ、入り込んだのかどうか、です。 それはありえません。それは、あまりに憂鬱で、あまりにすさまじい。
1:06:48 B: それでも、思うのですが、あなたがそう仰るなら、或る人々は、異議を唱えるかもしれません - それはすざまじいとの単なる事実から、それは非真実にはならない、と。 あなたは、なぜそれを非真実だと感じるかの、もっと強い理由を、 何か仰らなくてはいけないだろう、と私は思います。
1:07:03 あなたは、人間の本性に、何か本当の変化の可能性を、知覚されますか。

K: もちろんです。さもなければ、私たちは・・・

B: それは無意味になるでしょう。
1:07:11 K: ・・・猿、機械になるでしょう! 根本的な変化へのその能力は、 何か外側の機関へ、帰属させられますね。 ゆえに、私たちはそれを頼みにし、そこに迷ってしまいます。 私たちは、誰をも頼みにしないで、 それらより完全に自由であるなら、 その孤独は、私たちみんなに、共通しています- 明らかになっていますか。

B: ええ。

K: それは、孤立ではない。 それは、明白な事実です。 あなたは、これらを見て、「これはとても醜く、非現実的で、愚かだ」と 言うとき、あなたは自然に単独で・・・ あなたは自然に一人です。 その一人の感覚は、共通しています。

B: ええ。
1:08:25 B: ええ、もちろん、さびしさの普通の感覚の中、 各人物が、それは自分のさびしさだと、感じます。
1:08:32 K: もちろんです。さびしさは、孤独ではなく、一人ということではない。やれまあ!
1:08:37 B: 私は思うのですが、根源的な物事すべては、普遍的だ、と言えるでしょうね。 ゆえに、あなたは、こう仰っています - 精神が深く行くとき、それは、何か普遍的なものへ、入ってくる。

K: そのとおりです。

B: それを、絶対、神聖と呼ぼうとも・・・
1:08:53 K: そのとおりです。それが問題です - 精神を、きわめてきわめて深く、それ自体へ、入って行かせることです。
1:09:01 B: ええ、今、私に思いついた一つのことは、 私たちが、自らの特定の問題でもって始めるとき、それはとても浅い。 そのとき私たちは、何かもっと一般的なことへ、行く。

K: ええ。

B: 一般(ジェネラル)という言葉は、興味深くも生成する(ジェネレイト)と同じ語源を、持っていますね。

K: もちろんです。

B: 類(ジーニャス)は、来たるべき生成・世代(ジェネレイション)です。 で、何かもっと一般的なものへ、行くにつれて、 生成されるものの深みへ、行っています。

K: そのとおりです。

B: さて、そのとき、そこから、さらに先へ行くと、 一般は、やはり制限されている。 なぜなら、それは思考であるからです。

K: 思考です。全くそうです。 でも、それほど深遠に行くには、
1:09:44 ものすごい・・・勇気だけではなく、 同じ流れを常に追求する感覚が、必要とされます。

B: ええ。思うに・・・すっかり正しくはないが。 それは、「勤勉」と呼ばれるかもしれません。 それはやはり、あまりに制限されていますね。
1:10:01 K: ええ。勤勉は、あまりに制限されています。 それは、宗教的な精神と伴います - それは、行為において、思考において、活動などにおいて、勤勉である、という意味で、です。 でも、それはやはり、制限されています。 それは正しいと、私は思います。 精神が、特定から一般へ、 そして、一般から行けるなら・・・
1:10:29 B: 絶対へ、普遍へ・・・
1:10:31 K: ・・・それより動いて、離れる。
1:10:35 B: 多くの人々は、それはすべて、とても抽象的であり、 日常生活とは何の関わりもない、と言うでしょうね。
1:10:42 K: 知っています。それは、最も実践的なことです。抽象ではない。
1:10:47 B: 実は、特定は抽象です。
1:10:49 K: ええ。特定は、最も危険なものです。
1:10:52 B: それはまた、最も抽象的なものです。 なぜなら、全体より、抽象することによって、 特定へ到るだけだからですね。

K: ええ、もちろんです。

B: しかし、それは、その一部なのかもしれないと、思います。 そうね、私たちは日常生活で、何か本当に自分たちに影響するものが、ほしいのです。 私たちは、話をすることに、我を忘れたいだけではないですね。 ゆえに、彼らは、これらすべての空漠とした一般論に、興味は持てないと、言います。

K: これらは抽象だ、と。
1:11:18 B: 抽象だ。私たちは、日常生活の現実的で 確固たる具体的な事実へ、入ろうとしている、と。 さて、それが日常生活で働かなければならない、というのは、真実ですが、 日常生活は、その諸問題の解決を、保有していません。
1:11:32 K: ええ。日常生活は、一般的な生です。
1:11:36 B: 一般と特定です。

K: そして、特定です。

B: でも、そうね、日常生活で生ずる諸問題は、 そこでは、人間的な問題として、解決できません。
1:11:44 K: そのとおりです。 特定から一般へ動く。 一般から動いて離れ、さらに深く。 そこにはおそらく、あのもののこの清浄さが、ある - 慈悲、愛、智恵と呼ばれるものの、です。 でも、それは、あなたの精神をこれへ注ぐ、という意味です - あなたの心、精神、あなたの全存在が、ここに、関与していなければなりません。
1:12:23 まあ、私たちは止めたほうがいい。 五時十五分です。 すみません。私たちは、長い間、進んできました。 私たちは、どこかに到ったのでしょうか。 私はそう思います。
1:12:33 B: おそらくそうです。ええ。

K: そう思います。