Krishnamurti Subtitles home


OJBR80CB3 - なぜ人は思考へ、最高の重要性を、与えてきたのか
ディヴィッド・ボームとの会話 第3回
カリフォルニア、オーハイ
1980年4月8日



0:00 これは、1980年、カリフォルニア、オーハイでの、J.クリシュナムルティと ディヴィッド・ボームの間の第3回対話である。 クリシュナムルティ: 何について、話しましょうか。
0:13 ディヴィッド・ボーム: 何かお持ちですか。
0:15 K: いいえ。私はそれについて、考えていませんでした。
0:35 B: 私たちが前に、他の二日間に言ったことに、関係する一点ですが、
0:41 どこかで私は、指導的な物理学者が言ったのを、読んでいました - すなわち、私たちが宇宙・万物を理解すればするほど、 それは、もっと無意味に思われる。 より意味を持っていない、と。
0:55 K: ええ、ええ。
0:57 B: 私は思いいたりました - すなわち、科学において、たぶん、物理的な宇宙を、 私たちの存在の基盤にしようとする試みですが、 そのとき、それは、物理的には意味を持っているかもしれないが、 それは、他には何も・・・

K: 他には意味を持っていない。全くです。
1:13 B: 今、私たちが議論してもよさそうな問いは、 私たちが先日、話していた、この基盤ですが、 それは、人類に無頓着なのでしょうか。 物理的な宇宙は、そうだと見えますが。
1:32 K: 良い問いです。 問いを、明らかにしましょう。 私はそれを、理解しましたか。 あなたはもう少し、それを説明なさるでしょうか。
1:42 B: ええ。まあ、私たちが、昼食で議論していた 背景に、入るなら、です。 物理学者だけではなく、遺伝学者、生物学者たちは、 あらゆる物事を、物質の振るまいに、還元しようとしてきました - 原子、遺伝子、そうね、DNAに、です。 彼らがそれを、研究すればするほど、そのとき、彼らはもっと、 それは何の意味もないと、感じます - それはただ、つづいているだけです。 私たちは科学的にそれを理解できる、という意味で、 それは物理的に意味を持っているけれども、 それは、それより深い意味を、何も持っていません。

K: それは理解できます。
2:16 B: それは、もちろん、おそらくその概念は、浸透してきました。 なぜなら、過去に人々は、宗教的に感じた・・・ 人々は、もっと宗教的であったし、私たちの存在の基盤は、 物質を越えた何かにあると、感じたからです - 神に、とか、彼らがそれをどう呼びたいと願ったとしても、です。 それは彼らに、存在の全体への深い意味の感覚を、与えましたが、 それは、その合間に、去ってしまいました。 それが、現代生活の困難の一つです - それは何をも意味しない、というこの感覚です。
2:45 K: で、宗教的な人々は、何か意味を持つものを、 考案してきましたか。
2:56 B: 彼らはたぶん、そうしたのでしょう。 そうね、生は何の意味もないと感じて、 彼らは、普通のものを越えた何かを、考案したかもしれません。
3:05 K: ええ。それが・・・

B: 何か永遠であり、・・・
3:10 K: 時がなく、名がない。

B: ・・・時を越え、総体的、 全体的で、独立している。 私たちはそれを、絶対と呼びます。
3:17 K: 私たちが遺伝的にと、その他すべてで生きるさまが、 何の意味もないのを、見て、 それで、利巧な博識な人々は、「私たちがそれに意味を与えよう」と言いました。
3:33 B: まあ、それは、もっと前に起きたと、思います。 過去に、科学が大いに発達してくる、はるか前に、 人々は、どうにか生に、意味を与えました - 宗教の形で、です。 それから、科学がやってきて、この宗教を否定しはじめました。
3:48 K: 否定した。全くです。 それは理解できます。
3:50 B: 人々はもはや、宗教的な意味を、信じていません。おそらく彼らは、 ともかく全面的には、けっしてそれを信ずることが、できなかったでしょう。
3:56 K: ええ。 それで、ええ・・・ それで、生が、これを越えて、意味を持つのかどうかを、どのように見出しますか。 どのように見出しますか。 彼らは、冥想を試してきました。 彼らは、あらゆる形の苦行、孤立を、試してきました - 修道士、僧侶、サンニャーシになる、などなど、ですが、 彼らはまた、自分自身を、徹底的に欺瞞しているかもしれません。
4:33 B: ええ。実は、そういうわけで、科学者たちは、それらを否定してきたのです。 なぜなら、宗教的な人々が語る物語は、 そうね、もっともらしくないからです。

K: ええ。全くです。 で、単に物理的なもの以上の何かが、あるのかどうかを、 どのように見出しますか。 それに、どのように取りかかるのでしょうか。
5:01 B: ええ、まあ、私が考えていたのは、 私たちが過去二日間、 何か基盤の概念について、議論してきた、ということです - 物質を越えて、空っぽを越えている基盤、です。
5:24 K: ええ。でも、仮に、あなたがそうだと仰る、とします。 私は、「ふーん、それもまた別の幻影だ」と言います。
5:32 B: ええ。でも、思われるのは・・・第一の点は、ですね、 おそらく私たちは、これをはっきりさせるでしょう。 この基盤は、たぶん・・・ そうね、この基盤が、人間たちに対して無頓着であるのなら、 それは、科学者たちの、物質における基盤と、同じでしょうね。
5:46 K: ええ。問いは何ですか。 基盤は、異なっていて・・・?
5:50 B: 無頓着なのか。

K: 無頓着なのか。
5:53 B: 人類に対して、です。 そうね、宇宙・万物は、人類に対して全然、無頓着だと、見えます。 それは、無量の広大さで進む。 それは、注意を払わない。 それは、地震と大災害を起こすかもしれない。 それは、私たちを一掃するかもしれない。 それは本質的に、人類に関心を持っていないのです。
6:11 K: 仰ることは、分かります。 ええ、ええ、ええ。
6:15 B: それは、人が生存するのか生存しないのかを、気づかいません - そのように表したいなら、です。
6:21 K: そうです、そうです。 問いは分かりました。
6:26 B: さて、私が思うに、人々は- これを終了させてください - 人々は、神が、人類に対して無頓着でない基盤であると、感じました。 彼らは、それを考案したかもしれませんが、 それが、人々が信じていたことです。

K: ええ、信じていた。
6:37 B: それが、彼らにおそらく与えた・・・
6:39 K: ・・・ものすごいエネルギーを与えた。 ものすごい・・・全くです。
6:43 B: さて、私は、論点はこうだろうと、思います -
6:45 この基盤は、人に対して無頓着でしょうか。
6:49 K: 人に対して無頓着か。 全くです。 あなたは、どのように見出すのでしょうか。 この基盤の、人に対する関係は、何ですか。 それの、人との関係は、人の、それとの関係は、何ですか。
7:12 B: ええ。それが問いです。 人は、それにとって、何か意義を、持っていますか。
7:18 K: ええ。
7:19 B: そしてそれは、人にとって、意義を持っていますか。
7:23 K: 何とまあ、全くです。全くです。
7:26 B: もう一つの点を、付け加えさせてください - すなわち、私はかつて、或る人と、議論していました - 中東の神秘主義の伝統に親しい人と、です。 彼は、こう言いました - そこにおいては、私たちがこの基盤と呼ぶもの、 そうね、この無際限なものは、 何か意義を持っていると、言うだけではない。 彼らは、人がすることが、 そこで究極的に 何か意義を持っていると、感じます。

K: 全くです。全くです。
7:54 (他の)誰かも、加わってください! 仮に、それは持っている、と言う、とします。 さもないと、生きることは、何の意味もない、何事も何の意味もない。 どのように証明するのか、ではなく、どのように見出すのでしょうか。 仮に、あなたが、この基盤が存在する、と言う、とします - 先日、私が言ったように、です。 仮に、誰かが、あなたがそれを言う、とします。 すると、次の問いは、こうです - あれは、人に対してどんな関係を、持っていますか。 そして、人の、それに対する関係は? あなたはどのように、見出すのでしょうか。 それをどのように発見するか、 見出すか、触れるのでしょうか - 基盤がそもそも存在するとして、です。 それが存在しないなら、本当に人はまったく、意味を持たないのです。 つまり、私は死ぬ。あなたは死ぬ。 私たちは、みんな死ぬ。 美徳を持つことは、何になるのか。 幸せだったり、不幸せだったりするのは、 何になるのか。 ただ続けていくだけ、ということです。 基盤が存在することを、あなたはどのように、示すのでしょうか。 科学的な用語でも、また、それの感じ、それの非言語的な疎通も、です。
9:43 B: ええ。まあ、あなたが、「科学的」と仰るとき、理性的という意味ですか。
9:46 K: 理性的です。
9:48 B: で、何か、私たちが実際に触れられるもの、です。
9:51 K: ええ。

B: そうね、それらは、二つの・・・
9:53 K: 触れるのではない。それはできない。

B: 感知する。
9:55 K: 感知する。そのとおり。 触れるより良い - 感知する。 私たちが、科学的というそれは、理性的、論理的、健全だ、 多くの者がそれに来られる、という意味です。 

B: ええ、それは公的です。
10:11 K: ええ。それは、一人の主張だけではない。
10:16 B: ええ。それは公正だと思います。

K: それは、科学的でしょう。
10:20 B: ええ。
10:26 K: それは証明できる、それは示されると、思います。 なぜなら、私たちは、まさに始まりから、こう言ってきたからです - すなわち、もしも、半ダースの私たちが、実際に自由になったなら、等々、ですが、 それは示されると、私は思います。確かです。 が、すべての物事でもって、自らが、そうしなければなりません - ただ言語的に、それについて話すだけではなくて、です。 私は・・・または、あなたは、基盤は存在する、と言いますが、 基盤は、一定の要求を持っています。 すなわち、絶対的な静寂、絶対的な空っぽが、なければなりません。 それは、どの形でも自我主義の感覚がない、という意味です。 ですね? あなたは・・・あなたは私に、それを語ります。 私は進んで、自分の自我主義すべてを、手放そうとするのでしょうか。 なぜなら、私はそれを証明したいから、それを示したいから、 あなたが仰っていることが、実際に真実なのかどうかを、見出したいからです。 で、私は進んで・・・私たちのみんなが、私たちの十人が、進んで、 「ほら、自己の完全な根絶だ」と、言おうとするのでしょうか。
12:09 B: ええ。私は、自分はこう言える、と思います - おそらく或る意味で、自らは進んで、人々は進んでしようとするでしょうが、 他の意味も、あるかもしれません - その中では、進んでしようとすることが、 あなたの意識的な努力や決意に、従属していない、という意味で、です。
12:27 K: ええ、待って。で、私たちは、それらを通ってゆきます。
12:30 B: 私たちは、見なくてはいけません・・・
12:32 K: それは、進んでという意志ではない。 それは欲望ではない。それは努力ではない。
12:36 B: ええ。でも、進んでしようとすること(ウィリングネス)を仰るとき、 例えばそれは、意志(ウィル)という言葉を、含んでいます。
12:42 K: 進んでしようとする - あのドアを通ってゆく、という意味で、です。
12:46 B: ええ。
12:49 K: 私や私たちは、進んで、あの特定のドアを通って行こうとしていますか - 基盤が存在することを、見つけるように、です。 あなたは、私にそれを頼みます。 私は、「同意します。私は進んでそうしよう」と言います - 意志を行使しないのと、それらという意味で、進んでしましょう。 自己の側面や性質や本性は、何ですか。 で、私たちは、それへ入ります。 あなたはそれを、私に指し示します。 私は、「そうだ」と言います。 私たちの十人がそれを、できますか。 執着しない。恐れを持たない - よろしいですか。 その事柄の全体です。 信念を持たない、 絶対的に理性的である - そうね、観察です。 もし十人の人々が、そうするなら、 どの科学者もそれを受け入れるだろうと、私は思います。 ですが、十人の人々が、いません。 で、一人の人の主張は、まあ・・・
14:00 B: ええ、仰ることは、分かります・・・ 私たちは、ともに、公的に、そのことを、しなくてはなりません。
14:06 K: そうなんです。 

B: で、それが、本当の事実になるように、です。
14:09 K: 本当の事実に、です。
14:11 人々がそれを受け入れる、という意味で、本当の事実です。 幻影やイエスと信念と、その他すべてに、基づいていなくて、です。
14:20 B: ええ。まあ、(語源的に)実際になされたことである、事実(ファクト)です。
14:25 K: さて、誰が、これをするのでしょうか。 科学者たちは、望む・・・そのことはすべて幻影で、戯言だと、言います。 そして、他の人たち、Xが、います - Xは、「それは戯言ではない。 基盤がある」と言います。 Xは、「あなたが、これらのことをするなら、それはあるだろう」と言います。
14:51 B: ええ。さて、私は、あなたが仰ることの幾つかは、 あなたが話しあう人物にとって、始まりには、 全面的には意味をなさないかもしれないと、思いますね。
15:07 K: ええ、全くです。なぜなら、彼は、進んで聞こうとすらしていないからです。
15:11 B: ええ。でもまた、彼の背景全体が、それに反しています。
15:14 K: もちろんです。もちろんです。
15:16 B: 背景が、何が意味をなすのかと何がなさないのかの概念を、 与えてくれますよね。

K: 全くです。

B: さて、あなたは、例えば、歩みの一つは、 時を持ち込まないことである、と仰りますね。
15:24 K: ああ、それは、はるかに困難です。
15:26 B: ええ。ですが、それは相当に決定的です。
15:28 K: いや、待ってください。 私は始めるのに・・・ いえ、時を持ち込みません。私は、学校生徒の水準で、始めるでしょうね。
15:35 B: いいですよ、ええ。 が、あなたは最終的に、 それら、もっと困難な点に、到ろうとしています。 

K: ええ。
15:43 学校生徒の水準で始めて、「いいかい、これらのことをしなさい」と言います。
15:48 B: まあ、それらは何ですか。 それらを、調べましょう。
15:51 K: 信念はなし。
15:53 B: 或る人物は、自分が何を信じるかを、制御できないかもしれません。 彼は、自分が何を信じているかさえ、知らないかもしれません。
15:58 K: いいえ。何をも制御しないで、観察してください。 

B: ええ。
16:01 K: 自分は信念を持っている、自分は信念にすがりつく、と。
16:04 信念は、安全の感覚を、与えてくれる、などなど、と。 その信念は、幻影です。それは、何の実在性をも、持っていません。
16:14 B: ええ。そうね、もしも私たちが、 そのように科学者へ、話をすることになったとしたなら、 彼は、「私は、それについて確かではない」と言うかもしれませんね。 なぜなら、彼は、「私は物質世界の存在を信じている」と、言うからです。
16:25 K: ええ。あなたは、日の出と日の入りを信じていません。それは事実です。
16:30 B: ええ、いや。 ですが、彼は信じています。 これについては、長い論争があったんですよ。 それが私の精神の外側に存在することを、証明する道は、ありませんが、 私はとにかく、それを信じています。 そうね、これは、生ずる問いの一つです。 科学者たちは、実際には信念を持っていますよ。 或る人は、この理論が正しいと信じているし、 他の人は、あのものを信じています。
16:52 K: いいえ、私は、理論を持っていません。 私は、理論を何も持っていません。 私は、学校生徒の水準で、始めます - 「ごらん、理論、結論を受け入れてはいけない。 あなたの先入観に、縋りついてはいけない」などなどと、言うことからです。 それが出発点です。
17:12 B: ええ。まあ、おそらく私たちは、 「自分の理論に取りすがってはいけない」と言ったほうがいいですね。 なぜなら、誰かは、あなたを問うかもしれません。あなたが、 自分は理論を持っていないと、言うなら、彼らは即時に、それを疑うでしょうね。
17:23 K: 私は、理論を持っていません。 なぜ私は、理論を持つべきでしょうか。
17:29 D.ムーディ: そうね、クリシュナジ、もし私が科学者であるなら、 私もまた、自分は理論を持っていないと、言うでしょう。 私は、私が自分の科学的理論のために構成する世界もまた、 理論上であるとは、見えません。 私はそれを、事実と呼ぶでしょう。
17:44 K: で、私たちは、何が事実かについて、議論しなくてはいけません。 ですね?事実とは、何ですか。 私は、事実なるものは、起きつつあることである、と言うでしょう - 実際に起きつつあることである、と。 あなたは、それに同意されるのでしょうか。 

B: ええ。
18:06 K: 科学者たちは、それに同意するのでしょうか。
18:09 B: ええ。まあ、科学者たちは、起きつつあることは、 理論をとおして理解されると、言うだろう、と思いますね。 科学では、起きつつあることを、 器具と理論の支援でもって以外には、理解しません。
18:22 K: さて、待って、待って。 外、あそこで起きつつあること、 ここで起きつつあることです。

B: いいですよ。
18:27 でも、ゆっくり行きましょう。

K: それが、私が言いたい意味です。
18:30 B: 初めに、外、そこで、起きつつあること。 器具と理論が、必要です。 たとえ・・・
18:33 K: いいえ。私は - いいえ。
18:35 B: 外、あそこにあることについて、事実を持つためでも、です。
18:37 K: 外、あそこの事実とは、何ですか。
18:39 B: ・・・或る種の理論なしに、それはできません。
18:42 K: いいえ。そこの事実は、葛藤、抗争です。 なぜ私は、それについて、理論を持つべきですか。
18:47 B: が、私はそれについて、議論していませんでした。 私は、物質についての事実について、議論していましたよ - それに、科学者は、関心を持っています。

K: ええ、いいですよ。
18:55 B: 彼は、一定の小さな理論なしには、その事実を確立できません。
19:02 K: おそらくは、ね。 私はそれを、知らないでしょう。
19:04 B: そうね、理論は、彼のために、事実を組織してくれるからです。
19:08 それなしには、それは本当に、陥るでしょう・・・
19:11 K: ええ。それは理解できます。 で、それは、事実なのかもしれません。 

B: ええ。
19:16 K: あなたは、それについて、理論を持つかもしれません。
19:19 B: ええ。重力について、原子について、です - それらのことのすべては、正しい事実を生み出すために、 理論に依存します。
19:26 K: 正しい事実を、ね。 で、あなたは、理論でもって始めます。
19:29 B: 理論と事実の混合です。 けっして・・・ それはいつも、理論と事実の結合です。
19:34 K: ええ、いいです。 理論と事実の結合です。
19:38 B: さて、私たちは、そういう結合がない区域を、 持とうとしている、と仰るなら、

K: そうなんです。
19:45 すなわち、心理的に私は、何も理論を、持っていません。 自分自身について、宇宙・万物について、他の一人との自分の関係について、 私は、何も理論を、持っていません。 なぜ私は、持つべきでしょうか。 ただ一つの事実は、人類が苦しむ、悲惨だ、混乱している、 葛藤の中にある、ということです。 それは事実です。 なぜ私は、それについて理論を持つべきでしょうか。
20:14 B: あなたは、ゆっくり行かなければなりません。 そうね、科学者たちを引き入れようと意図なさっているなら、 これは、科学的であるべきです。 あなたは、極端にゆっくり行かなければなりません。
20:23 K: 私は、とてもゆっくり行きましょう。
20:25 B: 科学者たちを、置き去りにしないように!
20:28 K: または、私を置き去りにしないように。
20:31 B: 「縁切り」にならないように、ね。 さて、科学者たちは、こう言うかもしれません - 「ええ、心理学は、内的に見よう、精神を究明しようとする科学である」と。 彼らは、様々な人々が理論を持ってきた、と言います。 フロイトとユングと、他の人々のような人です - 私は、彼らのすべてを知りません。 さて、私たちは、これら理論を作ることが、なぜ何にもならないのかを、 明らかにしなくてはいけないでしょう。
20:59 K: なぜなら、理論は、実際に起きつつあることへの 観察を、阻止するからです。
21:05 B: ええ。ですが、外側では、理論は その観察を助けているように、思われましたね。
21:10 なぜ、ここでは違うのか。

K: ええ。違いは・・・ あなたのほうが上手です。 それは、相当に単純です。
21:16 B: それを、はっきり記しましょう。 なぜなら、そうね、 科学者たちを引き入れたいのなら、この問いに、答えなければなりません。
21:24 K: ええ、そうです。私たちは、それに答えるでしょう。それに答えるでしょう。 問いは、こうです - なぜ自らは・・・いや、問いは何ですか。
21:32 B: 理論は、外的に、物質について事実を組織する中で、 必要でもあり、役にも立つが、 けれども、内的、心理的に、それらはじゃまになり、 まったく役に立たないのは、なぜですか。 

K: ええ。
21:54 理論(セオリー)とは何ですか。
21:56 B: ええ。まあ・・・ 

K: 「理論(セオリー)」という言葉の意味です。
21:59 B: (ギリシャ語の)テオリアは、視覚を、意味していました。 それは、見ること、眺めることを意味していましたね。一種の洞察です。

K: ええ。眺めること。 眺める - そうなんです。
22:08 B: ええ、それは、眺め、見方ですね。

K: 見方です。
22:11 B: 理論(セオリー)は、外側の物質を見つめるのを、助けてくれます。
22:15 K: ええ。さて、あなたは・・・ 理論(セオリー)は、観察することを、意味しています。
22:20 B: それは、観察の仕方です。

K: 観察の仕方です。 あなたは、心理的に、起きつつあることを、観察できますか。観察する。
22:34 B: ええ。さて、私たちは、外的に、物質を見つめるとき、 或る程度、観察を固定することを、言いましょう。
22:42 K: ああ、すなわち、観察者は違っている、と。
22:45 B: 違っているだけでなく、それらの関係は、固定しています - 少なくとも、しばらくの間、相対的には、です。
22:51 K: ええ、そのとおりです。 私たちは今、動けます。動きましょう。
22:55 B: これは、物質を研究するには、必要だと見えます。 物質は、さほど早く変化しないし、 それは、或る程度、分離できます。 そのとき私たちは、相当に恒常的な見方を、行えます。 それは、変化しますが、即時に、ではない。 それは、しばしの間、一定に保たれます。
23:14 K: ええ。

B: それが理論と呼ばれます。
23:18 K: あなたが仰ったように、理論(セオリー)、その言葉の実際の意味は、 観察の仕方です。 

B: そのとおりです。それは、ギリシャ語で 「シアター(劇場、演劇)」と同じ語根を、持っていますね。
23:31 K: シアター(劇場、演劇)、ええ、そのとおりです。それは見方です。 さて、何が・・・さて、私たちは、どこから始めますか。 普通の見方、通常の見方、 各人物に依存する見方 - 主婦、夫、お金を稼ぐ人・・・ あなたがいう見方とは、どういう意味ですか。
24:02 B: 同じ問題は、科学の発展の中で、生じましたね。 すなわち、私たちは、常識と呼ばれるものでもって、始めました。
24:08 K: ・・・常識ね。

B: 通常の見方、です。 それから科学者たちは、これは不適切であることを、発見しました。
24:14 K: 彼らは、それより離れました。

B: 彼らは動いて離れました。
24:16 少なくとも、彼らは、その幾部分かを、あきらめました。
24:18 K: さて、それが、私が来ようとしていることです。 通常の見方は、先入観に満ちています。
24:25 B: ええ、それは恣意的です。

K: 恣意的です。
24:27 B: 自分の背景に、依存します。

K: ええ、それらです。 で、私は、自分の背景、自分の先入観より、自由でありえますか。
24:36 B: ええ。

K: ありうると、私は思います。
24:38 B: ええ。今、内的に見ることとなるとき、 言えるんだろうと、思いますが、 そうね、問いは、心理学のような理論は、 これをする中で、何か役立つだろうか、ということですね。 危険は、理論自体が先入観なのかもしれない、ということです。 もしも、理論を作ろうとしたなら・・・
25:00 K: それが、私が言っていることです。 それは、先入観になるでしょう。
25:03 B: それは、先入観になるでしょう。なぜなら、私たちは何も持っていないからです。 私たちはまだ、基礎を置くべき何をも、観察したことがありません。
25:09 K: 基礎を置くべきことを。 全くです。 で、共通の要因は、人が苦しむ、ということです。 ですね?それは、共通の要因です。

B: ええ。

K: そして、観察の仕方が、大事です。
25:32 B: ええ。

K: いいですか?
25:37 B: 科学者たちはそれを、人の最も根源的な要因として、 受け入れるだろうか、と思われます。
25:44 K: いいですよ。葛藤ですか。
25:46 B: まあ、彼らは、それについて論争してきましたが・・・
25:49 K: 何でも取り上げてください。 構いません。執着、楽しみ、恐れ。
25:54 B: 或る人々は、私たちは、もっと肯定的なことを取り上げるべきだと言って、 反論するかもしれないと、思います。
25:58 K: それは何ですか。

B: まあ、単純には、例えば、 或る人々は、理性が共通の要因であると、言ったかもしれません。
26:07 K: いえ、いえ、いえ。私は、理性が共通の要因であるとは、呼ばないでしょう。 彼らは、理性的であるなら、互いに闘っていないでしょう。
26:15 B: ええ、理解できます。私たちはこれを明らかにしなくてはいけませんね。 過去においては、たとえばアリストテレスのような誰かが、 理性が、人の共通の要因であると、言ったかもしれませんね。 さて、それに対するあなたの反論は、人たちは一般的に理性的ではない、
26:28 というものです。

K: ええ、そうです。
26:30 B: 彼らは、そうであってもよかったろうに、そうではない。
26:32 K: ええ、そうなんです。
26:34 B: で、あなたは、それは事実ではないと、仰っています - ですね?

K: そのとおりです。
26:50 ディヴィッド・ムーディ: 通常、科学者たちは、人類にとって共通の要因は、 こうだ、と言うだろうと、私は思います - すなわち、多くの異なった人間たちが、いるし、 彼らはみんな、幸せのために奮闘していることである、と。
27:07 K: それが、共通の要因ですか。 いいえ。 私はそれを、受け入れないでしょう - 多くの人間たちが、幸せのために奮闘している、と。
27:18 ムーディ: いえ。私は、人間たちはみんな異なっている、と言うでしょう。
27:24 K: 同意します。いえ、彼らは、自分たちは異なっている、と考えます。
27:26 ムーディ: それが、私が言っていることです。 すなわち、人々が事実だと信じている共通の理論が、ある、と。
27:32 K: すなわち、各人が、自分は全然、他の人たちより異なっている、と考えます。
27:37 ムーディ: ええ。彼らはみんな、独自に幸せのために、奮闘しています。
27:41 K: 彼らはみんな、或る種の満足を探し求めています。 ですね?それに同意されるでしょうか。
27:47 B: ええ、それが一つですが、 私が理性を持ち出した理由は、 科学の存在こそが、 理性が人に共通しているとの概念に、基づいている、ということでした。 まあ、ゆっくり行かないといけませんね。
27:59 K: 分かりますが、そういうわけで、私は
28:01 あなたに、それを持ち込んでほしくなかったのです。 

B: 何ですか?
28:04 K: 各人が、自分の個人的満足を、探し求めている。
28:07 B: ですが、もしもそれが全面的に真実であったなら、
28:09 科学は不可能になるでしょうね。

K: 全くです。
28:11 ムーディ: なぜですか。

B: まあ、なぜなら、あらゆる人は、真理に、興味を持たないだろうからです。 科学をする可能性こそは、真理を見つける、この共通の目標が、 個人的な満足を越えていると 人々が感じることに、依存します。 なぜなら、たとえ、自分の理論が間違っているとしても、 あなたは、それが間違っていることを、受け入れなければなりません - それが満足できなくても、です。 すなわち、それには、きわめてがっかりしますが、人々はそれを受け入れます。 彼らは、「それは間違っているね」と言います。
28:39 K: 私は、満足を探し求めていません。 私は、普通の人です。
28:42 ムーディ: まあ、それは、何か、 例えば、多くの国々の多くの憲法に、書き込まれていることです。 そういうわけで、私はそれを持ち出したんです。 それは、共通の信念であると思われます - これが、人が求めているものであることは。
28:56 K: いいえ。私は、ボーム博士が持ち出したことを、考えます - すなわち、科学者たちは、人間が理性的であることを、当たり前だと取っている、と。
29:05 B: 少なくとも、彼らが科学をするときは。 

K: 科学では。
29:07 B: 彼らは、自分たちが私的な生活では、 あまり理性的でないことに、同意するかもしれませんが、 彼らは少なくとも、自分たちは科学的な仕事をするとき、 理性的である能力がある、と言います。

K: そうなんです。
29:16 B: さもないと、始めることは、不可能でしょう。 

K: 不可能です。
29:19 で、外的に、物質を取り扱う中で、彼らはみんな、理性的です。
29:23 B: 少なくとも、そうあろうとします。 彼らは、或る程度は、そうです。
29:26 K: いいですよ。彼らは、そうあろうとします。彼らは、他の人間たちとの 自らの関係において、非理性的になる。
29:33 B: ええ。彼らは、それを維持できません。
29:35 K: で、それが共通の要因です。

B: ええ、いいです。 で、これが、この点を、はっきりさせることが、重要です - すなわち、理性は制限されていることと、 根源的な事実は、より一般的に 彼らは、理性的ではいられない、 ということです。

K: 人間たちは、非理性的です。
29:54 B: 彼らは、何か制限された区域では、成功するかもしれません。
29:57 K: そのとおりです。そのとおりです。 さて、私は・・・ それが、共通の要因です。 それは、事実です。

B: それは、事実です - 私たちは、それは回避不可能だとか、それは変化させられないとか、
30:08 言わないけれども。

K: ええ、ええ。それは事実です。
30:10 B: それは、ずっとあった事実です。

K: ええ。それは、起きつつある。
30:12 B: ええ。それは、起きてきたし、それは、起きつつある。 

K: ええ。
30:18 私は、普通の人間として、ずっと非理性的であったのです。 私の生は、全的に矛盾してきた、などなどです - それは、非理性的です。 さて、私は人間として、それを変化させられますか。
30:40 B: ええ。 では、私たちが 科学的なアプローチから、どう前進するかを、見ましょう。 さて、これは、問いを生じさせるでしょうね - なぜ、私は、あらゆる人は、非理性的なのか、と。
30:52 K: 言えますよ。私たちは、そのように条件づけられてきたからです。 私たちの教育、私たちの宗教、私たちの・・・あらゆる物事が、です。
30:58 B: それでは、どこにも到らないでしょうね。 なぜなら、それは、もっと多くの問いへ、繋がるからです - 私たちは、いかに条件づけられたのか、などとです。
31:05 K: 私たちは、それらに入れます。

B: ええ。ですが、
31:07 その線を辿ることは、答えることにならない、と言おうとしました。
31:10 K: 全くです。なぜ私たちは、そのように条件づけられていますか。
31:14 B: ええ。私たちはいかに・・・ 例えば、私たちは先日、おそらく人は、 間違った方へ曲がったと、言っていました。 

K: ええ。
31:22 B: それが、間違った条件づけを、確立しました。
31:24 K: 始まりから、ずっと間違った条件づけです。
31:29 または、安全を探し求めることが - 自分自身のため、自分の家族のため、自分の集団のため、 自分の部族のための安全、ですが - この分割を、もたらしてきたのです。
31:45 B: ええ。ですが、そのときですら、なぜ人は、この安全を、 間違った形で探し求めたかを、訊ねなくてはいけませんね。 もしも、何か智恵があったなら、 この全部が何も意味がないことは、明らかであったでしょう。
31:57 K: もちろんです。あなたは、私たちが間違った方へ 曲がったとの観念に、戻ろうとなさっています。 あなたは、どのように私へ、 私たちが間違った方へ曲がったことを、証明するか、示すのでしょうか。
32:08 B: ええ。あなたは、私たちはこれを科学的に立証したいと、仰っています。 それが、あなたが仰っていることですか。 あなたは、この立証を継続なさりたいのですか。
32:20 K: ええ。 思考のみが重要になったとき、 間違った方へ曲がった、と私は思います。
32:25 B: ええ。すると、何がそれのみを、重要にしたのですか。
32:29 K: 何がそうしたのか。 さて、それを考えぬきましょう。 何が思考を・・・ 何が、人間たちをして、思考を、 ただ一つの作動の手段に即位させたのか。 なぜ彼らは、思考を即位させたのか。ですね?
32:57 B: ええ。またそれも、明らかにされなくてはいけないでしょう - 思考がそんなに重要であるなら、なぜそれは、 困難すべてを、引き起こすのか、です。これらが、二つの問いです。
33:05 K: それは相当に単純です。 それは相当に単純です。
33:08 B: まあ、私たちはそれを、調べてきましたが、私は、こう言っています - もしもあなたが、他の誰かに説明していたなら、
33:12 私たちは、それに入らなくてはいけない、と。 

K: それは相当に単純です。 で、思考が王に、最高にされてきたのです。 それが、人間たちの間違った方への曲がりなのかもしれません。
33:27 B: ええ。そうね、思考は真理の同等物になったと、私は思います。 人々は、真理を与えるため、いつも真実であるものを与えるために、 思考を用いましたね。 一定の段階で、 私たちが知識を持っているとの概念が、あるかもしれないとき - それは、しばらくの間、一定の事例では、当たっているかもしれませんが、 人たちは一般化します。なぜなら、知識はいつも、一般化しているからです。 人たちが、いつもそうだろうとの概念に、到るとき、 これが、何が真実なのかの思考を、与えましたね。 これは思考に、この最高の重要性を、与えるでしょう。
34:06 K: なぜ人は思考に - あなたは訊ねているんでしょう - なぜ人は思考に、こういう重要性を与えてきたのか。そういうことですか。
34:14 B: まあ、彼はそれへ滑り込んだと、思います。
34:16 K: なぜですか。
34:18 B: 彼は、自分が何をしているかが、分からなかったからですね。 始まりに、彼は、危険が分からなかった。
34:27 ムーディ: ちょっと前に、あなたは、 人にとっての共通基盤は、理性であると、仰りました。それで・・・
34:35 K: 科学者たちは、そう言います。 ムーディ: ええ。
34:37 で、彼らは、何かを真実だと証明できるなら、 自分が幸せを持つより、そのほうがもっと重要であることが、分かります。
34:47 K: よく付いていけません。
34:49 ムーディ: 或る人物に対して、何かが真実であると、示せるなら・・・
34:53 K: ええ。あなたが、私にそれを、示してください。 私が非理性的であることは、真実です。 それは事実です。それは真実です。
35:10 ムーディ: ええ。でも、そのために、理性は要りません。 そうするには、観察で充分です。
35:16 K: いえ。私は非理性的です。 私は行って、闘います。 私は平和について話します。 私は・・・そうね、非理性的です。
35:26 ムーディ: それは、すべて非理性的です。 それで、なぜ私は、自分が合理的でないとき、 理性がそんなに重要であると、言いますか。
35:34 K: いいえ。ですが、ボームが指摘しているのは、こうです - 科学者たちは、人は理性的である、と言います。 毎日の生活の事実は、非理性的です。 さて、私たちは、言っています。 彼は、訊ねています - なぜそれは非理性的なのかを、科学的に、私に示してください、と。すなわち、 私に示してください - どのようにして私はこの非理性へ、滑り込んだのか、 なぜ人間たちは、これを受け入れてきたのかを、です。 私たちは、それは習慣、伝統、宗教である、と言えます。 科学者たちもまた、 彼らはそこでは、科学的な分野では、とても理性的ですが、 自らの生活においては、とても非理性的です。
36:36 ムーディ: あなたは、思考を王にすることが、 おもな非理性である、と提案なさっていますか。
36:44 K: ええ。そのとおりですか。

B: ええ、そうです。
36:49 K: 私たちは、その点に到りました。 私は、はっきりさせたいです。
36:51 B: ええ。ですが、すると、私たちはどうして、 思考をそんなに重要にすることへ、滑り込みましたか。
36:56 K: なぜ人は、思考に、最高なものとして、重要性を与えてきましたか。 なぜでしょう。私は、それは相当に簡単だと、思います。 なぜなら、それは、人が知っている唯一つのものであったからです。
37:12 B: まあ、それでは、人がそれに最高の重要性を与えるだろう、
37:16 ということには、なりませんね。

K: ええ。なぜなら、 私が知っているものは、私が知らないものより、重要であるからです - 思考が創り出してきたもの、イメージ、その他すべては、です。
37:33 B: ええ。でも、そうね、もしも、人が・・・ もしも、智恵が作動していたなら、人は、その結論に到らなかったでしょうね。 私が知っているすべてが、重要なすべてである、と言うことは、理性的ではありません。
37:46 K: そういうわけで、人は非理性的であるのです。
37:49 B: ええ。でも、「私が知っているすべてが、重要なすべてである」 と言うのは、非理性へ滑り込むことであると、私は言っています。 でも、なぜ人は、その間違いをしてしまったのでしょうか。
38:02 K: 人は、知られたものへ縋りつき、何でも知られていないものに 反対するから、その間違いがなされると、仰るのでしょうか。
38:13 B: まあ、それは事実ですが、人がなぜそうするのかは、明らかでないですね。
38:16 K: なぜなら、それは、私が持っている唯一つのものであるからです。
38:19 B: まあ、そうね、私は、訊ねています - なぜ人は、これを見るほどの智恵を持たなかったのか・・・
38:26 K: なぜなら、私たちは非理性的であるからです。
38:29 B: まあ、私たちは、ぐるぐると円周を回っていますよ。
38:32 K: 私たちが円周を回っているとは、思いませんが、どうですか。
38:35 B: そうね、あなたが示されるこれら理由のどれもがみな、 単に、別の形の非理性なんですよ。
38:40 K: それが、私が言っているすべてです。 私たちは基本的に、非理性的です。 私たちが思考に、最高の重要性を与えてきたから、 その非理性が生じてきたんです。
38:53 ムーディ: ですが、その前の歩みは、 思考が、私が存在するとの観念を、築き上げた、ということではないですか。
39:03 K: ああ、それはずっと・・・少し後で来ます。 私はそれに入りたくなかった。 なぜなら、彼は、「一歩一歩行かなくてはいけない」と言うからです。
39:13 ムーディ: 私は、この歩みが、本当は前に来ると、感じましたね。なぜなら・・・
39:18 いいですか? 

K: いいですよ。 お好きなことを、言ってください。 つまり、これは・・・アメリカではアメリカ流と、言うとおりです。 ムーディ: すみません。 それは、「私」にとって・・・
39:29 「私」にとって、ただ一つ、存在するものは、思考です。
39:35 K: 科学者たちは、それを受け入れるのでしょうか。
39:38 B: いえ。科学者は、自分は物質の本性を 究明していると、感じます - そうね、 思考に依存せず、究極的にどのようにも依存していなくて、 彼は、宇宙・万物のあり方を、知りたいと思うのです。 彼は、自己を欺いているかもしれませんが、 彼は、さもなければ、やりがいがないだろうと、感じます - 自分は客観的な事実を見つけていると信ずるのでなければ、ね。
40:00 K: あなたは、こう仰るのでしょうか -物質をとおして、物質の究明をとおして、 彼は、何かを見つけようとしている、彼は、基盤を見つけようとしている、と。
40:12 B: まさしくそうなんです。

K: 待って、待って。そうですか。
40:16 B: 正確に、そうです。 

K: さて、宗教的な人は、Xのように、 宗教的な人のXさん、彼はこう言います- あなたは、自分の生において、 ひどく理性的になることにより、それを見つけられる、と。 ですね? すなわち・・・等々です。 彼はそれに入るでしょう。 彼は、「私は、自分が理性的であることを、受け入れない」と言います - 宗教的な人は、始めます。 「私は非理性的だ。私は矛盾する」などなどなどと。 で、私は初めに、それを、はっきりさせなくてはいけないでしょう - 一歩一歩、はっきりさせる。 または私は、全部のことを、一撃でできます。 ですね? 私は、自分が非理性的であるのを、受け入れます。
41:24 B: まあ、ええ。困難があります - 自分が非理性的であると、受け入れるなら、あなたは、止まってしまいます。 なぜなら、どうやって始めようとするのか、と言うからです。ですね?
41:33 K: ええ。

B: なぜなら、もし・・・
41:35 K: もし私は、自分が非理性的であるのを、受け入れるなら - ちょっと待ってください - 完全に、です。そのとき、私は理性的です。
41:42 B: ええ。あなたは、それをもっと・・・

K: 理解されますか。もちろんです。
41:46 B: それをもっと、はっきりさせなくてはいけませんね。 人は自己を欺瞞して、信じてきた、と言えるのかもしれないと、私は思います - 自分はすでに理性的である、と。
41:57 K: ああ、私は、それを受け入れません。
41:59 B: ええ。さて、あなたは、この欺瞞を受け入れないなら、 理性はそこにあるだろうと、仰っています。
42:08 K: いいえ、私はそれを受け入れません。 事実は、こうです - 私は非理性的です。
42:12 B: そうです。

K: 基盤を見つけるには、
42:16 私は、自分の生において、ひどく理性的にならなければなりません。 それが、私が始めるところのすべてです。 他のあらゆる人、物事等々より分離した「私」のこの観念を、 思考が創り出したことにより、非理性は、もたらされてきました。 で、私は、非理性的ですが、 非理性の原因を見つけ、それを拭い去ることができますか。 私は、それをできないのなら、 最も理性的である基盤に、到れません。 お分かりになるのかどうか・・・ 基盤に出くわすために、 物質を究明している科学者 - 彼は、基盤がそもそも存在することを、受け入れないかもしれません。
43:22 B: まあ、暗黙裡に彼は、それが存在することを、想定していますね。
43:25 K: そうですね。Xさんがやって来て、それは存在している、と言います。 あなたは、科学者として、「それを示してください」と言います。 Xは、「私はあなたに示しましょう」と言います - 「初めに、自分の生において理性的になりなさい」と。 そこで、ではない。 科学者として、別の科学者と会い、 実験する、その他すべて、ではない。 そこで理性的であり、自分の生では非理性的ではいけない。 あそこよりむしろ、そこで始めなさい、と。 それらに対して、あなたは、何と仰るのでしょうか。
44:18 B: そうですね。まあ・・・
44:22 K: これは、努力なく、欲望なく、意志なく、 どんな説得、圧迫の感覚もなく、されなければなりません。 さもないと、あなたはゲームに戻っています。
44:36 ムーディ: クリシュナジ、あなたは、科学者はここで理性的でありうると、 仮定なさっていますか。 または、仰っていますか。
44:43 K: 彼は、彼らはそうだと、言います。

B: 彼らは、或る程度、そうです。
44:46 ムーディ: 或る程度は。

K: もちろんです。彼はそう言います。 科学者たちは、何かについて会うとき、とても理性的です。
44:52 ムーディ: 或る程度は。

K: ええ、或る程度は。
44:55 B: まあ、結局、彼らの個人的な関係が、入ってくる、などです。
44:59 K: もちろんです。そうなんです。 彼らは、自らの嫉妬と野心のために、非理性的になる。
45:04 B: まあ、また、彼らは、自分の理論などに、執着しているからです。
45:07 ムーディ: また、彼らの基本的な非理性は、彼らは、 自らの発見するものが真理であると、考える、ということでないですか。
45:13 K: いいえ、彼はそうは言いません。 物質の究明をとおして、彼らは、基盤に出くわしたいと望みます。
45:22 B: 彼らは間違っているかもしれませんが、
45:24 それが、彼らが望むことです。ですね?ムーディ: ええ。
45:29 K: そうにちがいない。さもないと、物質を究明することが、何の役に立ちますか。
45:34 ムーディ: たぶん何の役にも立ちません。

K: ええ。
45:37 B: 加えて、もちろん、それは、実用目的などのために、重要です。
45:41 K: ええ、実用目的です。 銃砲とその他すべてを、発明するため、です - 潜水艦とスーパー・ミサイル、です。
45:49 B: まあ、また、新しいエネルギー源、などです。
45:52 K: もちろんです。もちろんです。 私は、冗談を言っていただけです
45:54 - その一部です。

B: それは、その一部です。 加えて、それは、それ自体で興味を持っているかもしれませんが、 私たちは、そう言わなくてはいけません・・・このように表しましょう - 科学においてさえ、もしも、あなたは、理性的でなかったなら、 科学を十分に追求できないでしょう。

K: ええ、幾らか理性的で、ね。
46:14 B: 幾らか理性的で。 でも、実は結局、理性の機能不全が、ともかく科学を阻みます。 科学者たちは、自分の理論を変更するし、彼らは嫉妬深くなる、などです。
46:24 K: そうなんです。または、非理性が、彼らに打ち克ってしまう。
46:29 B: ええ。まあ、彼らは、非理性を閉め出せません。
46:32 K: そうなんです。
46:33 B: で、ならば、非理性全体の起源を 見つめてもいいかもしれないと、言えるのでしょう。
46:38 K: そうなんです。 それが、私が言っていることです。
46:40 B: ええ。それが、ただ一つの可能性です。 

K: ええ。
46:44 B: でも、今あなたは、はっきりさせなくてはいけませんね
46:46 - それが本当にできることを、です。
46:48 K: ああ、はい。私はあなたに、それを示しています。 

B: ええ。まあ・・・
46:52 K: 私は言います - 初めに、あなたが全的に非理性的であることを、 認識しなさい、見なさい、 観察しなさい、気づきなさい、と。 どんな言葉でも、です。
47:04 B: まあ、「全的に」という言葉は、面倒を引き起こすでしょうね。 なぜなら、もしも全的に非理性的であったなら、 話を始めることすら、できないでしょう。
47:12 K: いいえ。それが私の問いです。私は、あなたは全的に非理性的だと、言います。 初めに、それを認識しなさい。 見守りなさい。 理性的である、私のどこか一部があると、 認めた瞬間 - いいですね? それが、非理性を拭い去りたいと思うのですが・・・
47:35 B: それではなく、お話になっていることを、理解するには、 充分な理性が、なければなりません。
47:41 K: ええ、もちろんです。 もちろんですね。

B: 本質的に、私はむしろ、こう表したいと思います -
47:48 あなたは、非理性により、支配されている。 非理性が支配する - その問いを議論するほどの理性は、あるけれども、と。
47:56 K: それは、私には疑問です。
47:57 B: さもないと、私たちは、話を始めることさえできないでしょうね。
48:00 K: いえ、聞いてください。 ちょっと待って、ちょっと待って。 私たちは、話をはじめます。あなたは、私たちの二、三人は、話をはじめます。 なぜなら、私たちは進んで、互いに聞こうとしているからです。 私たちは進んで、言おうとしています -「私は、自分が持っているどの結論をも、 脇に置こう。あなたも、脇に置くでしょう」などです。 私たちは進んで、互いに聞くでしょう。
48:18 B: それは理性の一部です。
48:20 K: いえ、私たちに関して、です。

B: ええ。
48:23 K: ですが、大多数は進んで、私たちに聞こうとしていません。 なぜなら、私たちは、基盤が存在するのかどうかを、見出すよう、 関心を持ち、真剣であるからです。 いいですね? それが、私たちに、互いに聞く理性を、与えてくれます。
48:43 B: ええ。まあ、聞くことは、理性にとって本質的です。
48:46 K: 何ですか。
48:47 B: 聞くことが、理性にとって必要です。
48:50 K: もちろんです。私たちは、同じことを言っていますか。
48:55 B: ええ。

K: ええ。 なぜなら、科学者は- ちょっと待ってください - 科学者は、物質の検証、物質の研究をとおして、 基盤に到りたいと望むからです。 私たち、X、Y、Zは、言います - 自分たちの生において理性的になろう、と。 それは、あなたと私とX、Y、Zが進んで、 互いに聞こうとしている、という意味です。それだけです。 聞くことこそが、理性の始まりです。 (アメリカ大統領)カーターさん、Kさんは、私たちに聞こうとさえ、 しないでしょう。 教皇さえも、誰も、です。 で、私たちは、聞いていますが、幾らか理性的でありえ、始められますか。 それが、私の論点すべてです。 これはすべて、ひどく論理的であるでしょう。 で、私たちは、そこから進行できますか。 なぜ人は、自らの生に、この非理性をもたらしてきたのでしょうか。 私たちの二、三人は、見たところ、非理性の何らかの部分を投げ捨てて、 幾らか理性的になりえます - X、Y、Zが、です。 それら理性的な人々は、「さあ、始めよう」と言います。
50:37 ですね?

B: いいです。
50:38 K: なぜ人がこのように生きるのかを、見出しはじめましょう - 科学者も、私も、です。 なぜなら、彼は人であり、彼は科学者だけではないからです。 さて、彼の生における支配的な要因は、何ですか - すべての人間の生における、共通の支配的な要因、です - 理性的であるX、Y、Zを別として、 彼らを含めて、人の生における支配的な流れは、何ですか。 明白に、思考です。

B: ええ、それはそうです。 もちろん、多くの人々は、それを否認して、それは感情であるとか、 他の何かが主要である、とか言うでしょう、言うかもしれません。
51:26 K: 多くの人々が、そう言うかもしれませんが、思考は感情の一部です。
51:31 B: そうです。それは、ふつう理解されていません。
51:34 K: 私たちは、それを説明するでしょう。 感覚、感じ - もしも、その裏に思考がなかったなら、 感覚があったことは、認識すらされないでしょう。
51:45 B: ええ、あなたはどのように・・・それを表さなくてはいけませんね。 つまり、これは、或る人々との伝達において、 主要な困難であると、思います。
51:55 K: ええ。で、私たちは始めます。 或る人々は放っておきましょう。 私は、X、Y、Zの三人に、これを見てほしいのです。 X、Y、Zは、互いに聞くから、 彼らは、幾らか理性的になったからです。 ゆえに、彼らは互いに聞いていますし、 思考は、この流れの主な起源である、と言います。
52:17 B: ええ。私たちは、思考とは何かを、言わなくてはいけないと、思いますね。
52:20 K: それは相当に単純であると、思います。

B: まあ、それは何ですか。
52:22 K: 思考は・・・
52:23 B: いえ。私が言ったのは、それは全体の一部である、ということでした。
52:26 K: ええ。思考が非理性を、もたらします。
52:30 B: ええ。でも、そうね、それは何ですか。 自分が考えていることを、どのように知りますか。
52:35 仰る考えるとは、どういう意味ですか。

K: 考えることは、記憶の動きです。 記憶は、経験、知識であり、頭脳に蓄えられています。 それを、あなたと私は - 私たちは、これらを知っています。
52:53 ムーディ: クリシュナジ、この瞬間に私たちはまた、部分的に考えていますが、 にもかかわらず、この種の考えは、記憶だけではないように、思われます。
53:05 K: ああ、いいえ。それは記憶です。 確かに、です。 ムーディ: だけですか。
53:08 K: いえ、いえ、いえ。私は先へ行きません。私は、ちょうどいるところに、
53:13 止まります。 

B: 仮に、私は理性を持ちたい、とします - それは、理性的な思考をも、含みますね。

K: そうなんです。
53:19 B: でも、理性は、理性的な思考を、含むにちがいありません。
53:22 K: もちろんです。

B: 理性的な思考は、記憶だけですか。
53:25 K: 理性的な思考は、もしそれが・・・ さて、ちょっと待って、気をつけてください。 

B: ええ、いいです。
53:33 K: ちょっと待ってください。
53:35 私たちが完全に理性的であるなら、全的な洞察が、ある。 その洞察が思考を用いる。 そのとき、それは理性的です。
53:48 B: そのときそれは、理性的です。

K: やれまあ、ええ。
53:52 B: そのとき思考は、記憶だけではない。

K: いえ、いえ。
53:56 B: まあ、それは洞察により用いられつつあるから、ということです。
53:59 K: いえ。洞察が思考を用います。
54:01 B: ええ。でも、思考がすることは、今、記憶のせいだけではない。
54:05 K: ちょっと待ってください。
54:06 B: そうね、私はそれをこのように見ます。

K: 全くそうです。全くそうです。
54:10 B: ふつう思考は、独自に動きます。

K: 全くそうです。

B: それは、機械のように、独自に動きます。それは、理性的ではない。
54:16 K: 理性的でない。全くそうです。
54:19 B: ですが、思考が洞察の道具であるとき、 それは、間の違いであることが、見えるでしょう。
54:26 K: ええ。同意します。同意します。 そのとき思考は、記憶ではない。
54:31 B: それは、記憶に基づいていない。

K: ええ。記憶に基づいていない。
54:34 B: 記憶は用いられるが、それは、記憶に基づいていない。
54:36 K: そのとおりです。ふぅー。 そのとき、何ですか。 X、Y、Zは、相当に理性的です。 彼らは、この点が見えていました - すなわち、思考は、制限され、分割的で、不完全なので、 けっして理性的でありえない、と。
55:12 B: 洞察なしに、動くときは。

K: 洞察なしには。そのとおりです。 さて、X、Y、Zは、どのように洞察を持つことになりますか - それは、全的な理性です。
55:29 B: ええ。
55:31 K: 思考の理性ではない。
55:35 B: それは知覚の理性である、と言うべきでしょう。 私はそれを、知覚の理性と呼ぶべきでしょう。
55:42 K: 知覚です。

B: 理性的な秩序を知覚することです。
55:45 K: ええ、知覚の理性です。
55:47 B: そのとき、思考は、それの道具になる。 で、それは、同じ秩序を持つ。

K: ええ。 さて、私はどのように、その洞察を持つことになりますか。 それが、次の問いなのでしょう。 私は何をすべきでしょうか。または、すべきでないのでしょうか - この即時の洞察、無媒介の洞察を、持つように、です。 それは、時のではない。 それは、記憶のではない。 それは、原因を持たない。 いいですね? それは、賞罰に基づいていない。 それは、それらより自由です。 さて、私はどのように、X、Y、Zと議論する中で - 彼らは、基盤に出くわしたいと思うのですが、 私はどのように・・・精神は、どのように、この洞察を持ちますか。 私が、「私は洞察を持っている」と言うとき、それは間違っています。 明白です。で、精神にとって、それは、可能でしょうか。 精神は、ずっと非理性的であったし、 幾らか理性的になったのです - X、Y、Zですが。 そのX、Y、Zは、訊ねます - その洞察を持つことは、可能ですか。 ええ。あなたの精神が、時より自由であるなら、 その洞察を持つことは、可能です。
57:38 B: そうです。

K: いいですか? ゆっくり行きましょう。なぜなら・・・そうね、言わせてください - 私たちは、科学的な視点に戻るなら、常識さえも、ですが、 科学的な仕事において、時は、暗黙裡に、 あらゆる物事の基盤として取られていると、思います。
57:58 K: ええ。

B: 常識でも、です。 実は、古代ギリシャ神話においてさえ、 時の神、クロノスは、自らの子どもたちを生み出すし、彼らを飲み込みますね。
58:07 K: ええ。
58:08 B: それはまさしく、私たちが、基盤について、言ったことです - あらゆる物事が、基盤より来るし、基盤へと死ぬ。 で、或る面で、人類はすでに、時を基盤として、取りはじめていたのです。
58:17 K: ええ。

B: はるか昔に。ですね?
58:19 K: ええ、そのとおりです。 そして、あなたがやってきて、時は基盤ではない、と言います。
58:23 B: そのとおりです。 で、今まで、 科学者たちさえも、基盤をどこか時の中に、探してきたし、 他の誰もみな、そうです。
58:31 K: そうです。それが全論点です。

B: 今、あなたは、時は基盤ではない、と仰ります。
58:36 K: とても興味深い。 つづけてください。
58:37 B: もちろん、誰かは、それは戯言だ、と言うかもしれませんが、 私たちは、「いいよ、私たちはそれへ開いたままでいよう」と言うでしょうね。
58:43 K: いいえ。私たち、X、Y、Zは、それへ開いています。
58:46 B: ええ。私たちは、それへ開いていようとしていますが、 私は、或る人々は、ただちに容易くそれを退けるかもしれない、と言っています。
58:50 K: もちろんです。 或る人々は言うでしょう。もちろんです。 サイエンス・フィクションの作家は、それを受け入れるかもしれません!
58:59 B: まあ、彼らはそうかもしれない。 ええ、彼らの何人かは。
59:01 K: 私は冗談を言っていただけです。
59:06 B: さて、あなたが、時は基盤ではないと、仰るなら、 これは、私たちを放っておくように思われますよ。 私たちは、自らがどこにいるかを知らない、と言いましょう。
59:13 K: 私は、自分がどこにいるかを、知っています。 私たちはそれに入るでしょう。

B: ええ。
59:18 ムーディ: 時は、私たちが初めに叙述したこの思考と、同じ動きですか。
59:25 K: ええ、時はそれです。 時は思考です。
59:32 B: ええ。まあ、それについてもう一度、ゆっくり行きましょう。 なぜなら、私たちがしばしば言ってきたように、年代順的な時が、あるからです。
59:38 K: もちろんです。それは単純です。
59:39 B: ええ。でも、私が思うに、私たちはすべき・・・ 加えて、私たちは考えています。 そうね、考えるには、年代順に時が、掛かります。 でも、加えて、それは、一種の想像上の時を、投影します。
59:51 K: それは未来です。
59:53 B: それは未来です。そして、私たちが経験するような過去です。
59:55 K: ええ、そのとおりです。
59:57 B: 想像されていて、 また、一種の実在の考える過程でもある時です。
1:00:02 K: それは事実です。

B: それは事実です。 考えることは、物理的に時が掛かっています。 でも、私たちはまた、過去と未来全体を想像できる時をも、持っています。
1:00:11 K: ええ、それらは事実です。

B: ええ。 では、この時は、基盤ではないことを、言いましょう - おそらく、物理的にさえも、です。
1:00:25 K: 私たちは、見出そうとしています。 私たちは、見出そうとしています。
1:00:28 B: ええ。でも、私たちは、それを基盤だと感じます。 なぜなら、私たちは、自分たちが自己として、 自己として私が、時の中に存在する、と感じるからです。 時なしに、「私」はありえないでしょうね。

K: そうなんです。
1:00:39 B: 私は、時の中に、存在しなければなりません。

K: もちろんです。もちろんです。
1:00:42 B: 永遠に何かである、とか、何かになる、と。
1:00:45 K: ええ。なることとあることは、時の平野の中に、ある。 

B: ええ。
1:00:52 K: さて、精神は、時をとおして進化してきましたが・・・
1:01:01 ムーディ: それは変な発言です。

K: なぜですか。
1:01:05 ムーディ: すると、仰る精神とは、どういう意味ですか。頭脳という意味ですか。
1:01:08 K: 精神 - 頭脳、私の感覚、感じ。 ムーディ: ああ、分かります。
1:01:11 K: そのすべてが、精神です。

B: 特定の精神、という意味ですね。
1:01:16 ムーディ: 特定の精神ね。

K: もちろん、特定の精神です。
1:01:18 私は、「精神」について話していません。すなわち・・・ 私は、私たちの、X、Y、Zの精神について、話しています。 時をとおして進化してきた精神です。いいですね?
1:01:31 B: まあ、その特定性も、時に依存します。
1:01:34 K: もちろん、時と、その他すべてに、です。 さて、私たちは訊ねています - その精神は、洞察を持つように、時より自由でありうるでしょうか - 全的に理性的であり、 そのとき、思考に対して作動できる洞察を、です。思考は理性的になるでしょう。 その思考は、記憶に基づいていない。ですね?
1:02:07 B: そうです。

K: そうです。 さて、私は、Xは、どうやって - Xは、どうやって私は時より自由であるべきなのか、と言います。 私は、自分がここからそこへ行くには、レッスン、技術などを学ぶには、 時が必要だと、知っています。私は、きわめて明らかに、それを理解します。 で、私は、その時について、話していません。 私は、なっていくこととしての時について、話しています。
1:02:38 B: または、あることとしての(時)ね。
1:02:39 K: ええ、もちろんです。 なっていくことは、あることです。 私は、あることから、なっていくのを、始めます。それから・・・
1:02:46 B: 自分自身において、何かであることですね。
1:02:48 K: ええ、自分自身において、です。

B: より良い、より幸せである、と。
1:02:51 K: ええ。全部です - もっと、です。

B: もっと、です。
1:02:55 K: さて私は、私の頭脳は、 基盤が存在するのかどうかを、見出そうと究明していますが、 私の頭脳は、私は、私の精神全体は、時より自由でありうるでしょうか。 ええ。 今、私たちは、時を分離しました - 必要である時と、必要でない時、です。 すなわち、私の頭脳は、いつも時の中で思考として機能してきたように、 機能しないでいられますか。 いいですか? それは、思考は終わりになりうるのか、という意味です。いいですか? あなたは、それを受け入れるのでしょうか。
1:04:06 B: ええ。それを、もっとはっきりされますね。 私たちは、第一の問いはこうである、と言えるのでしょうね - 私の頭脳は、思考の機能により、支配されないでいられますか、と。
1:04:16 K: ええ、それは時です。

B: 時です。 さて、そのとき、思考が終わりになると、仰るなら・・・
1:04:22 K: いいえ。思考としての時は、止まりうるのか。
1:04:27 B: ええ、心理的な時は、止まってしまう。
1:04:29 K: ええ。私はそれについて、話しています。もちろんそれです。他は・・・
1:04:31 B: でもそのとき、私たちはやはり、理性的な思考を、持つでしょう。
1:04:33 K: もちろんです。 それは理解されています。 私たちは、それを言ってきました。私たちは、触れずに、それを放っておいています。
1:04:37 B: 私たちは、意識的な経験の思考について、議論しています。
1:04:43 ムーディ: なることとあることの、です。

B: なることとあることの、です。
1:04:47 K: そして、記憶の保持、そうね、知識としての過去、です。 ああ、そうです。それはできます。
1:05:00 B: 本当は、経験の記憶、ということですね。 他の経験は、保持されるでしょう。
1:05:05 K: 経験の記憶 - 傷、執着、その全体の、です。 

B: ええ。
1:05:09 K: さて、それは、終わりになりうるのでしょうか。
1:05:12 もちろん、なりえます。 さて、これが論点です。 それが終わりうるのは、 まさしく知覚が- それは何ですか - 傷へ・・・
1:05:32 B: ええ。

K: ・・・心理的な損傷へ。 それの知覚が、それが終わることです。 それを持ち越さない - そちらは、時です。 それが終わることこそが、時が終わることなのです。 それは・・・私は、それは明らかだと思います。 または、明らかではないですか。 いいですよ。私は傷ついています。 Xは傷ついています。 子ども時代より負傷しています。 様々なことで・・・ 私たちはそれらを、知っています。 彼は、聞くこと、あなたと話すこと、議論することにより、 この傷の継続が、時であることを、悟ります。いいですか? そして、基盤を見出すには、時は、終わらなければなりません。 で、彼は言います - 私の傷は、即時に、無媒介に終わりうるのか、と。
1:06:31 B: ええ。思うに、私たちがすべき・・・そこには、幾つか歩みが、ありますね。 彼は、傷は時であると見つける、と仰いますが、 即時のそれの経験は、それは自体で存在している、ということですね。
1:06:42 K: 分かります。もちろんです。もちろんです。私たちは、それに入られます。
1:06:45 B: ええ。それは単純に、それ自体での何かです。思考ではない。
1:06:50 K: ええ。すなわち、私は、自分自身についてイメージを、創り出してきましたが、 イメージが傷ついている。 でも、私が、ではない。
1:06:58 B: それは、どういう意味ですか。

K: いいですよ。 なっていく中で- それは時ですが - 私は、自分自身について、イメージを創り出してきました。いいですね?
1:07:15 B: ええ。思考が、そのイメージを創り出してきました。
1:07:18 K: 思考が、イメージを創り出してきました - 経験をとおし、教育をとおし、条件づけをとおして、です。
1:07:25 このイメージは、私より分離している、と。 ちょっと待ってください。 私はそれを説明しましょう。 このイメージは、実際には私です。 

B: ええ。
1:07:42 K: しかし、私たちは、イメージと「私」を分離してきました。それは、非理性的です。
1:07:49 B: そうです。
1:07:51 K: で、イメージは私であることを、悟る中で、 私は、幾らか理性的になります。
1:07:58 B: ええ、そうね、でも、それは明らかではないだろうと、思います。 なぜなら、或る人物が傷ついているなら、彼は、 イメージが私であると、感じるからです。

K: ええ。イメージは、あなたです。
1:08:07 B: でも、傷ついている人物は、そのように感じますね。
1:08:09 K: いいですよ。
1:08:11 ですが、それに対して作動した瞬間、あなたは、自分自身を分離します。
1:08:14 B: そのとおりです。それが論点です。 さて、一番目の感じは、イメージが私、傷である、というものです。 二番目の感じは、 私は、それに対して作動するために、イメージより引き下がる、というものです。
1:08:25 K: それは、非理性です。

B: それは正確でないからですか。
1:08:28 K: そのとおりです。いいですか?

B: で、それは、時を持ち込みます。
1:08:33 なぜなら、私は、そうするには時が掛かるだろう、と言うからです。
1:08:36 K: 全くそうです。 で、そうなることにより、それを見ることにより、私は理性的になります。 行為の中で・・・行為は、即時にそれより自由であることです。
1:08:51 B: ええ。まあ、それに入りましょう。 私たちは、自らが引き下がってきた、と言いますね。 一番目のことは、傷があった、ということでしたね。 

K: ええ。

B: それはイメージですが、初めに私はそれを分離しません。 

K: ええ。

B: 私は、それと同一視されたと感じます。
1:09:05 K: 私はそれです。

B: 私はそれですが、 そのとき、私は引き下がって、 何かをできる私があるにちがいないと思う、と言います。
1:09:12 K: ええ、それに対して作動できる、と。

B: そうです。 さて、それには、時が掛かります。

K: それが時です。
1:09:16 B: それが時ですが、私は、それに時が掛かると考えている、ということです。 さて、私がそうしないなら - 今、ゆっくりと行っていただかなくてはいけません - その傷は、存在できませんね。

K: そのとおりです。
1:09:29 B: でも、それは、経験自体において明白でありません - こうであることは、です。
1:09:35 K: 初めに、それへゆっくり入りましょう。 私は傷ついています。 それは事実です。 そのとき、私は、自分自身を分離します。 分離が、あります - 「私はそれについて、何かをしよう」と言って、です。
1:09:54 B: ええ、何かをするであろう私は、異なっている。
1:09:57 K: 異なっている。もちろんです。
1:09:58 B: 彼は、自分が何をすべきかについて、考えます。
1:10:01 K: すなわち、「私」は異なっている。 なぜなら、それは、なりつつあるからです。

B: まあ、そうです。

K: 私は、それを錯綜させたくありません。
1:10:08 B: それは未来へ、異なった状態を、投影します。ですね?
1:10:12 K: ええ。 私は傷ついています。 分離、分割があります。 「私」はいつも、なっていくことを追求していますが、 「私は、それを制御しなければならない。 私は、それを拭い去らなければならない。 私は、それに対して、行為しなければならない」とか、 私は復讐したい、傷つけたい」と言います - その他すべてを、です。 で、分離のこの動きは、時です。
1:10:43 B: ええ。私たちは今、それが見えます。 さて、論点は、こうです - それは明白でない。ここには、明白でない何かが、あります。 或る人物は、「私に依存せずに、傷が存在する。 私は、それについて何かをしなければならない」と考えています。 私は未来へ、より良い状態と、私がするであろうことを、投影します。
1:11:02 K: ええ。

B: さて、そうね、
1:11:03 それを、きわめて明らかにするようにしましょう。 なぜなら、分離がないと、仰っているからです。
1:11:10 K: いえ、私の理性は、分離がないことを、発見します。
1:11:14 B: 分離はない。 だが、分離があるとの幻影は、 傷を維持するのを、助けます。

K: 傷を。そのとおりです。 なぜなら、幻影は、「私はなりつつある」であるからです。
1:11:25 B: ええ。私は、これであるが、あれになるだろう。
1:11:29 K: あれになる。ええ。
1:11:30 B: で、私は傷ついているが、無傷になるだろう。
1:11:31 K: 無傷に。
1:11:32 B: さて、その思考こそが、傷を維持します。
1:11:34 K: そのとおりです。
1:11:35 ムーディ: ですが、私が意識して、「私は傷ついている」と言うとき、 すでに分離が、そこにないですか。
1:11:41 K: 私は傷ついています。 そのとき私は、 「私は、あなたを叩こう。あなたは、私を傷つけてきたから」と言うか、 「私はそれを抑圧しなければならない」と言うか、私は、 恐れを創り出す、などです。抵抗します。 ムーディ: でも、その分離の感じは、
1:11:58 「私は傷ついている」と私が言う瞬間に、すでにあります。
1:12:01 K: 知っていますよ。 ですが、それは非理性です。
1:12:06 ムーディ: それはすでに非理性的です。

K: すでに、です。 「私は傷ついている」とあなたが知る・・・私が言うとき、 すでに分離が存在していませんか。
1:12:16 B: 存在していますね。 でも、それが起きる前に、一種の衝撃を受ける、と思います。 最初の出来事は、一種の衝撃です。 痛みとか、何でも、です。
1:12:24 K: ええ。または傷つく。
1:12:26 B: そこであなたは、その衝撃と同一視される。そのときあなたは、 「私は傷ついた」とか、何であれ言うことにより、それを説明します。 そのとき即時に、それが、分離を含意しています - あなたは、それについて何かをしなくてはいけません。

K: もちろんです。もちろんです。 私は、傷ついていないなら、 分離や無分離について、何も知りません。 

B: ええ。
1:12:44 ムーディ: 何かが私に起きるかもしれませんね。
1:12:46 K: ええ。彼が衝撃と言ったように、どの種の衝撃でも、です。
1:12:50 ムーディ: でも、私が「私は傷ついた」と言う瞬間に、
1:12:55 そのときその瞬間に、私はすでにその事実より 自分自身を、分離しています。

K: いえ、いえ、いえ。 私が知るすべては、私は傷ついている、と。 いいですか? 私は、すでに自分自身を分離したとは、言いません。
1:13:12 ムーディ: ええ。私は、そう言っていませんが、それは、含意されていませんか。
1:13:15 K: いいえ。私はただ傷ついています。 私がその傷を維持し、それについて何かをするかぎり、 私は非理性的です。 それは、なることです - そのとき、非理性が入ってきます。 それは正しいと、私は思います。
1:13:30 B: さて、それを維持しないなら、何が起きますか。
1:13:33 K: 何ですか。

B: 仮に、あなたが、「いいよ、
1:13:36 私は、このなっていくのを、つづけないよ」と言う、としますね。
1:13:42 K: ああ、それは、全く違った事柄です。 それは、私はもはや考えていない・・・ いや、私はもはや、時をもって観察していない・・・ 時を観察として用いていない、という意味です。
1:14:00 B: ああ、はい。それは、あなたの見方ではない、と言えるでしょうね。
1:14:02 K: ええ。 

B: それはもはや、あなたの理論ではない。
1:14:06 K: そのとおりです。そのとおりです。

B: いいですか? なぜなら、時は、あらゆる人が、心理的な目的のために、 採用する理論である、と言えるでしょうから。
1:14:14 K: そのとおりです。 それが、共通の要因です。 時が、人の共通の要因です。 私たちは、時は幻影である、と指摘しています。
1:14:27 B: ええ。心理的な時、です。 

K: もちろんです。それは理解されています。
1:14:32 B: さて、あなたは、こう仰っていますか - 私たちが、もはや時をとおして、これに接近しないとき、 傷は継続しない、と。

K: 継続しません。それは終わります。
1:14:44 B: それは終わります。
1:14:46 K: なぜなら、あなたは、何にもなっていっていないからです。
1:14:50 B: なっていく中で、あなたはいつも、自分なるものを、 継続させていますね?

K: そのとおりです。
1:14:55 自分なるものを、継続させている- 修正されて・・・
1:14:58 B: そういうわけで、なろうと格闘するんです。
1:15:00 K: ええ、その他すべて、です。 私たちは、洞察について話しています。

B: ええ。 

K: すなわち、洞察は、時を持ちません。 洞察は、時の産物ではありません - 時とは、記憶、思い出などなどです。 それで、洞察がある。 その洞察は、時より自由であって、 記憶に対して・・・思考に対して、作用します - それは理性的です。 すなわち、洞察が、思考を理性的にします。 ですね?

B: ええ、そうです。
1:15:43 K: 記憶に基づいている思考ではない。 そのとき、その思考とは、いったい何ですか。 

B: 何ですか。
1:15:51 ムーディ: ええ。それが疑問です。

K: さて、私は言っています・・・
1:15:55 いや、彼はまだ・・・さて、ちょっとお待ちください。 

B: 何ですか。
1:15:59 K: 私は、思考がそもそも入ってくるとは、思いません。
1:16:05 私たちは、時がないとき、洞察は生じてくると、言いました。 記憶、経験、知識に基づいている思考、 それは、なっていく、時の動きです。 私たちは、心理的に話しています- 他で、ではない。 私たちは、時より自由であることは、洞察を含意する、と言っています。 洞察は、時より自由であって、それは思考を持ちません。
1:16:49 B: ええ。でも、それは、思考を用いるかもしれないと、私たちは言いました。
1:16:52 K: 待って、待って。 私は確かではありません。 ゆっくり行ってください。

B: ええ、あなたは変化しつつある。
1:16:55 K: それは、説明するために、思考を用いるかもしれませんが、 それは行為します。 前に行為は、思考に基づいていました。 今、洞察があるとき、ただ行為だけが、ある。 なぜ思考をほしいのですか。 洞察は理性的であるから、ゆえに、行為は理性的です。 

B: ええ。
1:17:33 K: 行為は、思考に対して・・・思考から行為しているとき、非理性的になる。
1:17:42 B: ええ、思考から。
1:17:44 K: で、洞察は、思考を用いません。
1:17:50 B: 私たちはそれを、明らかにしなくてはいけませんね。
1:17:52 K: ええ、私はそれに拘ります!

B: なぜなら、一定の区域において、それは、思考を用いなくてはいけないと、 私たちは、合意したからです。 例えば、何かを建設したいのなら、 それをどうするかについて、利用可能な思考を、用いるでしょうね。
1:18:04 K: ですが、それは、洞察ではない。

B: ええ。でも、たとえそうでも、
1:18:08 その区域に、洞察を持たなくてはいけないかもしれません。
1:18:11 K: ええ、部分的なのを、ね。 私たちは先日、ブロックウッドで議論しているとき、言いました - 科学者、画家、建築家、医師などなど、芸術家など、 彼らは、部分的な洞察を持つ、と。 私たちは、基盤を探し求めているX、Y、Zについて、 話しています。 彼らはますます・・・ますます、ではない。 彼らは、理性的になりつつある。 私たちは、洞察は時なしであり、 ゆえに、思考なしである、と言っています - その洞察は行為である、と。 その洞察は、理性的であるから、行為は理性的です。
1:18:59 ムーディ: 行為は、思考でありうるのでしょうか。 

K: いいえ。 ちょっとお待ちください。 私は遡ろうとしています。 お許してください。私は、自分自身をお手本に、しようとしていません。 私は、まったく謙虚に話しています。 あの少年、あの若者は1929年に、教団を解散しました。 何も思考は、ありませんでした。 人々は、「これをしろ。あれをするな」、 「それを取っておけ」、「それを取っておくな」と言いました。 彼は、洞察を持ちました- 終了しました。 彼は、それを解消しました。 なぜ思考が、要るのですか。
1:19:43 ムーディ: 思考は要りません。

K: ああ!要りますよ。 私たちは、解消するため・・・何かをするために、思考を使用します。
1:19:51 B: でも、そのとき、あなたは、教団を解散する中で、何か思考を用いました。 例えば、いつそれをするのか、どうそれをするのか、です。
1:19:57 K: ああ、それは単に、便宜のため、 他の人々などのため、です。
1:20:03 B: でもやはり、何か思考が、必要でした。
1:20:05 K: ああ、いいえ。 決断が行為です。
1:20:07 B: 私は、決断について、言いませんでした。 最初の行為は、思考を必要としないと、仰ったが、 つづくものは、何か思考を、必要とするかもしれません。
1:20:15 K: それは何でもない。 それは、クッションを、そこからそこへ動かすのに、似ています - 何ですか?
1:20:21 B: ええ。それは理解できます - すなわち、最初の行為の本源には、思考が関与していない、と。
1:20:25 K: それが、私が望んだすべてです。
1:20:27 B: が、それは一種、染み通って・・・
1:20:29 K: ええ。それは、波に似ていて・・・
1:20:32 ムーディ: 思考すべては、この過程の中で、変容を遂げませんか。 前にそれは・・・ 

K: ええ。 もちろんです。もちろんです。 なぜなら、洞察は、時なしであり、 ゆえに、頭脳自体が、変化を、遂げてしまったからです。
1:20:49 B: ええ。今、私たちは、あなたが仰るそれが、どういう意味かについて、 話をできるでしょうか。
1:20:55 K: 今、何時ですか。
1:20:58 B: ええ。私たちは、時を参照しなければなりませんよ。 5時25分です。
1:21:02 K: 私たちはここで、ちょっと止まらなくてはならないだろう、と思います。
1:21:05 B: おそらく別の日に。

K: 私の頭は、ブンブン言っています。
1:21:08 B: 次回に、ね。
1:21:12 K: これは良い、と思います。 で、それは、こういう意味でしょうか - あらゆる人間的な応答は、見られなければならないか、 または、洞察に入らなければなりませんか。 私がいう意味を、ご存じですか。 私がいう意味を、言いましょう。 私は、嫉妬しています。 嫉妬の平野全体に及び、それで それを終わらせるであろう、洞察が、ありますか。 妬み、貪欲・・・私は何と言いましたか。 嫉妬に関与しているすべてを、終わらせるのです。 よろしいですか。

B: ええ。
1:22:16 K: 非理性的な人々は、一歩一歩、と言います - 嫉妬を取り除きなさい、執着を取り除きなさい、 怒りを取り除きなさい、これ、あれ、他を取り除きなさい、と。 それは、なっていく常なる過程です。ですね? 洞察は、全的に理性的ですが、 「そのすべてを拭い去れ」と言います。 ですね?

B: ですね。
1:22:51 K: それは事実ですか。 X、Y、Zが二度と嫉妬しないだろう、という意味での事実です - けっして、です。
1:23:04 B: ええ。私たちは、それについて議論しなくてはいけませんね。 なぜなら、どうして、それを保証できるのだろうかは、明らかでないからです。
1:23:09 K: ああ、はい。私はそれを保証しましょう! 

B: なさるんですか。
1:23:22 K: 私たちは止めたほうがいいですね。 あなたの頭も、痛んでいませんか。 あの人は、ストックリーと呼ばれますか。
1:23:37 B: ストックリーです。ストックリー、彼は聞かないでしょうね。
1:23:39 K: ええ、彼は聞かないでしょう。
1:23:41 B: いいですよ。あなたが、聞ける人たちに、届くだろうなら。 あなたが、聞くことができる人たちに、届けられるなら。
1:23:45 K: ええ、聞ける人に。 それは、基盤を見つけるのに一番目のことは、 私たちは聞かなけばならない、という意味です。いいですね?
1:24:07 B: そうね、科学者たちは、いつも聞けるわけではない。 (相対性理論の)アインシュタインと(量子論の)ボーアさえも、 一定の点で、互いに聞くことが、できませんでした。
1:24:17 K: もちろんです。 彼らは、自らの非理性を、作動させました。
1:24:24 B: 各々が、自らの見解へ・・・
1:24:26 K: ・・・特定のへ・・・

B: 執着していた。ですね?
1:24:29 K: そのとおりです。 ここから出しましょう。 さもないと、私たちは、ここに座って、続けているでしょう。