Krishnamurti Subtitles home


RA85T1 - あなたが何と考えるのでも、あなたはそれである
インド、ラージガート
第1回公開講話
1985年11月18日



1:37 だいじょうぶですか。 あまり変更しませんでした。 みなさんが聞こえることを、願っています。
2:10 なぜみなさんが、ここにいるのかと、思われます。 もしもその質問を真剣にしたならば、 あなたの答えは、どうなるでしょうか。 なぜ私たちはみんな、ここに、ガンジスの岸に、集まっているのか。 もちろん、聖なる河です。 ゆえに、部分的には、その理由のために、あなたはここにいます。 そして、あなたがこの人物を聞きに来る 他の理由は何なのか、と思われます。 それは単に評判でしょうか。 それは単に、あなたが前に、この人から幾度も 話を聞いてきた。 ゆえに、「行って、話を聞こう」と言うことなのでしょうか。 彼が言うことは、あなたのすることへ、どんな関係があるのでしょうか。 私の質問を理解できますか。 彼の言うことと、あなたがすることとの 関係は、何なのでしょうか。 それらは、二つの分離したことでしょうか。 それとも、あなたはただ、彼の言うべきことを聞き、 日々の生活を続けていくのでしょうか。 問いを理解しましたか。
4:09 で、私たちは、ともに話し合おうとしています - 何か抽象的、理論的な問題について、ではなく、 むしろ私たちは、二人の古い友人のように、 ともに話し合おうとしています。 これら樹々の下に座って、 私たちの日々の生について、です。 そちらのほうが、はるかに重要です。 何か理論的な、きわめて博識な、抽象的な問題よりも、です。 それらへは、はるかに後に来るかもしれません。 で、話し合いましょう -自分たちの問題を話し合っている 二人の古い友として、です。 私たちは、多くの問題を持っています -どう冥想するのか、 どの導師に従うのか - あなたが従う人なら、です。 どの種の実践を行うべきか、 どの種の日常活動をやっていくべきか、 などです。 また、私たちの、自然に対する関係は、何でしょうか。 すべての樹々、河、山、 平原と、谷へ、です。 自然に対する私たちの関係は、何でしょうか - 一つの樹に対して、一つの花に対して、通り過ぎる鳥に対して、です。 私たちの、お互いとの関係は、何でしょうか。 語り手とではなく、お互いと、です。 妻と、夫と、子どもたちと、 環境と、です - 政府、隣人、 共同体などとして(の環境)、です。 これらに対する、私たちの関係は、何でしょうか。 または、私たちは孤立していて、 自己に関心を持ち、 自らの生の道に、強烈な利害を持っているのでしょうか。 どうか、私は訊ねています。私たちは訊ねています。 あなたたち、みなさんに、この問いを、です。 で、二人の友として - 語り手は本気で、友として、と言っています。 導師としてではない。 あなたたちはこの国に、十分、導師たちを持ってきました。 彼らは本当に・・・それに値しない。 語り手は、あなたに感銘を与えようとの、いかなる意図をも、持っていません - 何をすべきかを言うとか、あなたを助けるとかの意図を、です。 どうか、講話をとおして、これを心に留めおいてください - 彼は、あなたを助けようとの、いかなる意図をも、持っていません。 なぜかを言いましょう - その理由、論理を、です。
8:28 あなたたたちは、大変多くの導師を、持ってきました - 何千人も、です。 大変多くの助ける人たち - キリスト教の助ける人、ヒンドゥー教、仏教の、です。 あらゆる種類の指導者を、です - 政治的にだけでなく、 いわゆる宗教的にも、です。 当面、その(宗教という)言葉がどういう意味か、私は知りません。 私たちは、その言葉に入るでしょう。 あなたたちは、大の類、小の類の指導者たちを、持ってきました。 あなたは、どこにいるのでしょうか - この長い、二百万年の進化の果てに、です。 あなたは、どこにいるのでしょうか。 私たちは、どこにいるのでしょうか -あなたと、ここの私たちみんなは、です。 私たちはこの地上に、二百五十万年の間、 生きてきたと、されています。 その長い革命と進化の間に、 私たちは、いまだに野蛮人に留まっています。 私たちは、より清潔になり、より早い通信、より良い保健衛生、 交通などになったかもしれません。 しかし、道徳的、倫理的に、 私がその言葉を使っていいなら、霊的に、 私たちは、いまだに野蛮人なのです。 私たちは互いに殺し合います - 戦争でだけでなく、 言葉により、身振りによっても、です。 私たちは、とても競争好きなのです。 私は自分自身に話しているんでしょうか。それとも、私たちは一緒に、ここにいるんでしょうか。 私たちは、とても野心的です。 一人一人が、自分自身に関心を持っています - 自分の利益。 それが、私たちの生における主調です - 自分の利益。 自分の幸福、安全、地位、 権力などに関心を持つ。 私たちは、自分自身へ関心を持っていませんか - 霊的に、 宗教的に、ビジネスなど、 一人一人が、世界中で、です。 ロシア人でも、アメリカ人でも、ヨーロッパ人などでも、 私たちは、みんな、自分自身に関心をを持っています。 それは、自己を孤立させている、という意味です - 残りの人類から、です。 それは事実です。私たちは誇張していません。 私たちは、真実でないことを、言っていません。 どこへ行こうとも - 語り手は、或る時に世界中へ 行ってきました。そして、いまだに回っています。 あなたたちの中には、遠い道を来られた人もいます。語り手もそうです。 はるか遠い道を、です。 そして、世界を回って行き、 何が起きているかを見るとき - 軍備の増大、 暴力、狂信、 そして、不安全、不安定の大きく深い感覚、 そして、分離の感覚 - 「あなた」と「私」。ですね?
13:17 これが、人類の共通の調べです。 どうか、私たちは、事実に、向き合っているのです - 理論ではない。 或る種の遠方の、理論的、哲学的な 言明ではないのです。 私たちは、事実を見つめています。 あなたの事実に対立した私の事実、ではない - 事実、です。 世界のあらゆる国は、皆さんはご存じにちがいないですが、 軍備を築いています。 あらゆる国が、です。 どれほど貧しくても、どれほど豊かでも、です。ですね? あなた自身の国を見てください -無量の貧困、無秩序、 腐敗 - あなたは、それらをご存じです - そして、軍備を築いています。 かつて、人を殺すのは、棍棒でした。 今は、百万ごとに人類を蒸発させられます - 一発の原子爆弾や中性子爆弾で、です。 私たちは、棍棒、弓矢などから、 原子爆弾を持つまでに、なりました。 私たちは、進歩してきました - テクノロジーでは、 無限の革命が今、起きています -私たちはそれについて、ほとんど知りません。 テクノロジーの過程は、とても急速なので、 一夜で、すでに過ぎ去っています。 何か新しいもの、です。 でも、倫理的に私たちは、百万年間そうであったものなのです。 対照を理解できますか。 テクノロジーでは、例えば、コンピューター。 それは、人より、よく考えられます。 それは、新しい冥想、新しい神、 新しい理論を、創案できます。 私たちは先日、三、四人の大変傑出した コンピューターの人たちと、話をしていました。 コンピューターは、後へ先へと考えられるのです。 それは、「アーキテクチャー」と呼ばれます。 私は、当面それに入りませんが、 第五か第六世代のコンピューターは、 とても早く、 とてつもなく有能なので、 発明でき、生産でき、変更できるなどです。 私は、あなたたちとは、それらに入りません。
17:10 人は - すなわち、あなたと私ですが、 私たちの頭脳には、何が起ころうとしているのでしょうか。 私が言っていることを、理解できますか。 コンピューターが、ほぼ何でもできるのなら - もちろん、セックスとか、新しい月を見るのは、除きます - それは、人間たちができることを、ほぼ何でもできます。 これは、何らかの理論ではありません。 それは今、起きつつあるのです。 で、あなたには、何が起ころうとしているでしょうか。 人間としての私たちには、何が起ころうとしているでしょうか。 私たちは、娯楽がほしい。 たぶんこれは、あなたたちの娯楽の観念の一部でしょう - ここに来て、座って、聞く。 同意や不同意をする。そして家に帰る。 自分の生活を続けていく。 これは、娯楽の一部です - 教会、寺院、モスクやフットボール、 この国ではクリケットに行くように、です。 どうか、これは娯楽ではありません。 あなたと語り手は、ともに考えなくてはなりません。 ただ静かに座り、何かふしぎな雰囲気を、何か福徳を 吸収するだけではない。 ごめんなさい。全くそのようなことではないのです。 私たちは、健全に、論理的に、ともに考えようとしています。 同じものを、ともに見ようとしています。 どのようにあなたが見て、私が見るのか、ではなく、ともに観察します - 私たちの日々の生を、だけではない。 そのほうが、他の何よりはるかに重要です - 私たちの日々の毎分が、です。 で、初めに私たちは、ともに考えようとしています。 ただ聞く、同意や不同意をするだけではない - それはとても簡単です。 私たちが同意と不同意を脇に置けるのかどうかを、 強く願っています。 それをするのは、ほとんどの人々にとって、とても困難です。 私たちは、あまりに熱心に、同意や不同意をしたがります。 私たちの反応は、あまりに早い。 私たちは、あらゆるものを分類します - 宗教的な人、非宗教的な人、世俗的などなどと、です。
20:33 もしもあなたが、少なくとも今朝、できるなら、 同意と不同意を完全に脇に置いて、 単にともに観察し、ともに考えましょう。 そうされるでしょうか。 あなたの意見と私の意見を、すっかり脇に置く - あなたの考え方と、他の人の考え方を、です。 私たちは、それができるでしょうか。 一時間だけです。気にしないでください。 あまり長くはやらないでしょう。 なぜなら、同意と不同意は、人々を分割するからです。 「はい、私はあなたに同意します」とか、 「あなたに同意しません」とか言うのは、非論理的です。 それは、あなたが、投影している、 自分の意見、判断、評価にすがっている、という意味か、 または、同意しない。そして、「すみません。 私はあなたに同意しません」と言う。 もう一つの形での私的な利害ですし、そして、捨て去るのです。 私たちはそれをできるでしょうか - 今朝の間、ただ面白さのため、 ただ楽しさのため、あなたが望むなら、娯楽のために、です。 私たちの意見、判断を忘れ、 同意や不同意を言うのを忘れ、 ただ、良い明晰な頭脳を持つように、です。 献身的や情動的とか、ロマンチックなのではなく、 はっきりと考える頭脳を、です - それがそもそも可能であるとして、ですが。 理論、意見、 許可と不許可の紛糾すべてに、 関与しない頭脳、です。 それをできるでしょうか。 たぶんあなたたちは、一度もこれをしたことがない。 では、進行しましょう。
23:20 考えるとは、何でしょうか。 世界のあらゆる人間は - あらゆる人が、一番無知な人、一番粗野な人から、 小さな村のごくごく小さな人物から、 一番高度に洗練された科学者まで、 何か共通なものを、持っています。 あなたは、注目したことがないですか。 考えることです。村人たちは考えます - 何も読んだことがなく、学校、専門校、大学に行ったこともない。 でも、たぶん、ここのあなたたちのほとんどは、 教育を受けているか、受けたのでしょう。ですね? で、あなたは考えるし、村人は考える。ですね? ヒマラヤに自分一人で座っている人 - 彼もまた考える。 で、世界のあらゆる人間は、考えます。 ですね? この考えることは、時の始まりから、ずっとありました。
24:58 で、私たちは、第一の質問をしなければなりません - 私たちは、幾つもの質問をしようとしているからです。 考えるとは、何でしょうか。 あなたが考えるのは、何について、でしょうか。 あなたが考えるのは、何について、でしょうか。 考えるとは、何でしょうか。いいですね? 初めにあなたは、その問いに、答えるでしょうか。 書物からではない。いいですね? 何かギーターやウパニシャッドからではない。 または、バイブルやコーランの言うことではない。 考えるとは、何でしょうか。 あなたが、専門校、学校へ、大学まで 行かれるとき、そして、あなたが官僚や 大臣や総理であったり、 村で一番下であったりするとき、 みんな、共通のものを持っています。 他の多くのこと - それには後で入るでしょうが - は、別として、 考えるとは、何でしょうか。 私たちは、考えることにより、生きます。 私たちの日々の行為は、考えることに、基づいています - 私たちが、問い、解決し、しっかり捉え、見出すのでないならば、です。 あなたが物理学者であっても、労働者であっても、または、 地上のどの種の人間であっても、私たちはみんな、考えます。 あなたは一通りに考え、もう一人はもう一通りに考えるかもしれません。 でも、それはやはり、考えることです。明らかですか?
27:01 で、それは何でしょうか。 あなたは、記憶が何もないなら、考えられるでしょうか - 後へ先へと考えられないなら、です。 明日や一時間後にするであろうこととか、 昨日や今朝、してきたこと。 先へ後へと考えられます。 それは、テクノロジーで、コンピューターの世界では、「アーキテクチャー」と呼ばれます。 コンピューターは、これができます。 で、あなたはともに、見出さなければなりません - インドの考え方と、 ヨーロッパの考え方ではなく - あなたたちが、語り手の言っていることに、付いてきているのか、私は知りません - 東洋の考え方すなわち仏教の、ヒンドゥー教の、 イスラム教の、キリスト教のと、宗派すべてでなくて、です。 いいですか?で、考えるとは、何でしょうか。 どうか、言ってください。考えるとは、何でしょうか。あなたは、なぜ考えますか。 あなたたちは、参ったのでしょうか。 答えがない? あなたたちは、明日、私と議論をするのだと、思います。 または、明後日か。 私たちは、ともに対話をしようとしています。 あなたが、考える過程を、本当に理解しないのなら、 あなたがそれを、本当に理解しないのなら、 私たちの生はいつも、ごくごく制限されるでしょう。 で、私たちは、とても深く真剣に、 物理学者や科学者たちが検討するように、 この考える過程全体を、ごくごく近くで、 検討しなければなりません -それは、私たちの生を形作るのです。 人は、考えることにより、神を創り出してきました。 神は、人を創り出してきませんでした。 永続的に互いに戦っているこれら人間たちを、 創り出したのは、きわめて哀れな神にちがいありません。 かなりアホな老いぼれの神に、ちがいありません。 で、考えるとは、何でしょうか。なぜ私たちは、それを問題にしてしまったのでしょうか。 ですね?私たちは、考えることについて、問題を持っています。 で、私たちはまた、近くで検討しなければなりません -なぜ私たちは問題を持つのかを、です。 理解できますか。私たちは少し一緒に、ここにいますか。 少なくとも、互いに付いてきていますか。 みなさん、眠りに就いたのでしょうか。
31:04 で、初めに、なぜ私たちは生に、問題を持つのでしょうか。 問題とは、何でしょうか。 私たちは、一杯それらを持っています -政治的な問題、 収支の問題、経済的な問題、 一つの宗教、対、他の宗教の問題。 ああ!理解できますか。 あなたたちは、千ごとの問題を持っていませんか。 問題とは、何でしょうか。 その「問題(プロブレム)」という言葉の意味 - それは、どういう意味でしょうか。意味、です。 辞書によれば、それは、投げつけられたもの、 挑戦、見なくては、向き合わなくては いけない何かを、意味しています。 それが、問題(プロブレム)が意味するところです。 いいですね? 私たちはともに、ここにいるでしょうか。それとも、私は、自分自身に話しているのでしょうか。 で、初めに、「問題(プロブレム)」という言葉は、投げつけられたものを、意味しています。 あなたは、それを避けられません。 それから逃げ出せません。 それを抑圧できません。それはそこにある -痛い親指のように、です。 私たちの生すべてが、生まれた瞬間から死ぬまで 問題を持つのは、なぜでしょうか - 死について、恐れについて、百ものことについて、です。ですね? あなたが、この質問をしているでしょうか。 それとも、私が単に、あなたのためにしているのでしょうか。 あなたたちは、これらに反応するように見えません。 あなたは、生まれた瞬間から、しばらく後、 数年後、学校へ行きます。 そこでは、読み書きをしなくてはなりません。 それは、その子にとって、問題になります。ですね? 後で彼は、数学を学ばなくてはいけません -かわいそうに。 それが問題になります。 母親は、「してはいけない。これをしなさい。 あれをするな」と言います。 それが問題になります。ですね? で、子どもの頃から私たちは、問題の中で育てられます。ですね? 私は、何か変なことを言っていますか。 あなたたちはみんな、くそまじめに見えます! その言葉を使ってすみません。でも、あなたたちは、大まじめに見えます。 たぶん今朝だけでしょう -どうやら、いいか・・・ で、子どもの頃から私たちは、問題を養成し、その中で生きます。 私たちの頭脳は、問題の中、条件付けられます。 それはけっして、問題から自由ではありません。 あなたは、大きくなり、青年になるにつれて、セックス、お金の稼ぎ方、何をすべきか、 社会に従うのか従わないのか、反逆するのかしないのか、 そして終わりに、社会に、環境に屈します。 で、これらが問題になるのです。
35:39 世界のあらゆる政治家は、一つの問題を解決し、 それにより、他の諸問題を創り出します。 これらに注目したことが、ないですか。 で、人間の頭脳 - 頭蓋骨の内側にあるものは、それ自体、問題を持つのです。 理解できますか。 で、頭脳は、問題を解決できるように、いったい諸問題から自由になれるでしょうか。 質問を理解できますか。 頭脳は、諸問題から自由でないのなら、 どうして問題を解決できるでしょうか。 理解できますか。 これは論理的です。ですね? で、頭脳は、あなたの頭脳 - 頭蓋骨の内側にあり、記憶を持ち運んでいるものは・・・ 私はその詳細すべてには入らないでしょう。 それは、ものすごい知識を取得してきました。 その頭脳は、問題を持つよう養育され、教育されてきました。 ですね? で、私たちは今、訊ねています -頭脳、あなたの頭脳は、 まず初めに、いったい問題から自由になれ、 それから問題を解決できるでしょうか。 それは論理的です。ですね。 で、あなたはまず初めに、問題から自由になれるでしょうか。 または、それは不可能でしょうか。 私の問いを理解できますか。 私たちの頭脳は、ヒンドゥー教徒として、そして、ヒンドゥー教の様々な分割として、 条件付けられています。私たちは、 頭脳は、仏教徒として、僧侶として、条件付けられています。 頭脳は、様々な狭い宗教に、条件付けられています。 頭脳は、専門化により条件付けられています。 ああ、神様! あなたたちは、これらに興味がないんでしょうか。 私は、あなたたちを見て、自分自身に訊ねています。 あなたたちは、これらに興味がないんでしょうか。 または、会合に行って、聞き、「はい、全くです。全くです」 と言う習慣なのでしょうか。 あなたたちは、おかしな人たちです。いいですよ。
38:51 で、始めましょう。 私たちの頭脳は、条件づけられています -私たちが生きる環境により、 あなたの教育により、宗教により、 貧しさや豊かさによって、です。 あなたたちは、僧侶としての誓いを立ててきた。 なぜなのか、私は知りませんが、あなたたちは、それらを立ててきた - それは、苦悶、問題になるのです。 で、私たちの頭脳は、とてつもなく条件付けられています - ビジネスマンとして、主婦としてなど、です。 その狭い視点から、私たちは世の中を見ます。 で、私たちはこの問いに入らなくてはいけません - 問題を持つことだけでなく、また、考えるとは何かにも、です。
40:06 なぜあなたは、そもそも考えるのでしょうか。 違った行為の道が、あるのでしょうか。 生へ、日々の生活に対して、違った接近手法が、あるのでしょうか - まったく考えることを必要としないものが、です。 ああ、あなたたちは、これらを知りません。 で、初めに私たちは、ごく近くで、ともに見なくてはいけません - 私が説明していて、あなたが受け入れる、というのではない。それは、ばかばかしいでしょう - ともに、私たち自身で見出し、それから行為しましょう。 「はい、まったくです」と言うのでなく、行為する。 私たちは、それに入ろうとしています。 考えるとは、何でしょうか。 あなたは、考えませんか。 さもないと、あなたはここにいないでしょう。 あなたは、一定の時にここへ来る手配を、しました。 あなたはまた、戻る手配をも、しました。 それが考えることです。 哲学的に考える - 哲学(フィロソフィー)は、真理への愛、生への愛を、意味しています。 大学で何か試験に通ることではない。 で、ともに見出しましょう -考えるとは、何でしょうか。 もしもあなたが、記憶を持たなかったなら - 昨日のとか、明日何が起こるだろうかとか、ですが、 どの種も全く記憶がなかったなら、あなたは考えるでしょうか。 理解できますか。さあ、みなさん! あなたは、もしも記憶を持たなかったなら、考えて、それにより、行為するでしょうか。 もちろん、考えません。 何を躊躇なさっているんですか。 記憶がないなら、考えられません。ですね? で、記憶は何でしょうか。 今、あなたは参っています。
42:56 記憶は、何でしょうか。 あなたは昨日、何かをした。 あなたがしたことは、頭脳に登録される。 それが記憶になる。 その記憶に応じて、あなたは考え、行為する。ですね? で、記憶は何でしょうか。 それはどのように起きるのでしょうか。 あなたは、誰かがお世辞を言ってくれたのを、憶えている。 あなたは、誰かが自分を傷つけたのを、憶えている - あなたについて醜いことを言った、 または、書物を書いたからと、お世辞を言ったのを、です。 で、あなたは憶えている - 記憶です。 すなわち、記憶は知識から出てきたものです。ですね? ですね?やれ、神様! すなわち、あなたは私を侮辱した。 それは、頭脳に登録されます - 記憶として。 その侮辱やお世辞や、何であれ、登録されます。 それが記憶になる。 すなわち、その出来事の知識が、記憶になる。 私は、車で事故を起こした。その事故は、頭脳に、 脳細胞に登録される。そのとき、それは、 「そうだ、それが記憶だ。私は事故を起こした。 気をつけて運転しなければいけない」と言う。ですね? で、知識から、記憶が出てきます。ですね? 明らかですか? 記憶から、思考です。
45:08 さて、知識は何でしょうか。 これはかなり難しい。 私たちはみんな、知識を蓄積します。偉大な学者、 偉大な教授、科学者たちは、ものすごい知識を取得します。 理解できますか。知識は何でしょうか。 それはどのように訪れるのでしょうか -あなたが知識を持つということは? あなたは、これらについて考えたことがないのですか。これらを見つめたことがないのですか。 知識は、経験があるとき、訪れます。ですね? あなたは、車で事故を起こした。それが・・・ 事故、それは経験です。ですね? その経験から、知識を持ちます。 その知識から、記憶を持ちます。 記憶から、思考を持ちます。ですね? 気をつけてください。 同意や不同意をしないでください。 私は、あなたの足下の敷物を引き抜こうとしています。 で、経験は何でしょうか -すなわち、あの出来事です。 ですね?車での事故です。 それは頭脳に、知識として登録される。ですね? などとです。知識・・・ 経験、知識、記憶、思考です。明らかですか。 これは論理的です。 それについて、私の見方や、あなたの見方ではない。 で、経験すべては、神の経験であっても、 あなたの経験でも、制限されています。ですね? 同意なさるでしょうか。それは、分かるでしょうか。 経験すべてが、です。なぜなら - 見てください - 科学者たちは毎日、ますます多くを付け加えています。 ですね? 付け加えられるものは、いつも制限されています。ですね? 同意しないで、見てください。見てください。 「私はほとんど知らない。私はもっと知らなければならない」と。あなたは、付け加えています。 ですね? あなたが付け加えるところのものは、制限されているにちがいありません。 ああ、神様!いいですね?
48:04 質問者: いいです。
48:07 K: で、経験はいつも制限されています。 あなたの、神の経験 - それがどういう意味か、私は知りませんが、それは大事なことではない。 もっと何か付け加えられるものが、あるところでは、 あなたの、何かの経験は、いつも制限されています。 で、経験は制限されています。 知識は制限されています - 永遠にです。未来の知識だけではない。 それは、いつも制限されています。 ゆえに、記憶は制限されています。 だから、思考は制限されています。 ですね?思考は制限されています。 制限があるところ、分割がある。ですね? シーク教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、イスラム教徒、 キリスト教徒、民主党、共和党、共産主義者。 理解できますか。それらは、すべて思考に基づいています。 ゆえに、政府すべては制限されています。 あなたの活動すべては、制限されています。 あなたが、大変抽象的に考えても、きわめて高尚になろうとしても、 それはやはり思考です。ですね? で、その制限された思考の性質から - 思考はいつも制限されています - 私たちの行為は、制限されています。 ですね?
49:59 さて、そこからあなたは、よく気をつけて、探究しはじめます - 思考は、自らの正しい場所を持ち、 他の場所を全く持たないことが、できるでしょうか。 質問を理解できますか。 いえ、いえ、どうか、眠らないでください。 私は、ここに来るには、思考が必要です。 私は一定の時間に、起きなくてはいけなかった、その他すべてです。 あなたもそうです。あなたは、そこでは考えなくてはいけません。 で、制限から自由な行為が、あるのでしょうか。 一分間、与えましょう。考えぬいてください。 考えぬいてください。気をつけて、見てください。 すなわち、 考えるのは制限されているので、私たちは、宇宙・万物全体を、 とても小さな事柄へ還元してしまったのです。理解できますか。 私たちは、自分たちの生を、こんな小さな事柄にしてしまいました。 私は、自分はこれでなければならない、あれであってはならない、 と考えます。自分は権力を持たなければならない、持ってはならない、と。付いてきていますか。 私たちは、生の甚大な性質を、とても小さな些細な事柄へ 還元してしまったのです。ですね? で、思考から自由であることは、可能でしょうか。 それは、私はここに来るには、考えなければならない、という意味です。 私は官僚であるなら、官僚制度ということに立って、考えなければなりません。 私は工場へ行って、ねじを回すなら、 一定の知識を持たなければなりません。 なぜ私は、自己について知識を持つべきなのでしょうか。 ああ、みなさん、質問を理解できますか。 高い自己、低い自己とそれらのことです。 なぜ私はそれについて、知識を持つべきなのでしょうか。それはとても単純です。 私は利己的であるからです。 私は実際には、私自身に関心があるだけです。 私たちは、同胞愛を持つふりをするかもしれません。 平和について話すかもしれません。多くの言葉で、 あらゆる言語的な説明をし、言葉を弄ぶかもしれません。 でも、私たちはいつも、自己中心的なのです。ですね? で、そこから、問いが生じます - 自己中心性は、本質的に、 深い利己性なのですが、 そもそも変化が、ありうるのでしょうか。 理解できますか。 私たちは、全く無自己でありうるでしょうか。
53:55 答えてください。で、私たちは探究しなくてはいけません - 自己は何でしょうか。よろしいですか? あなたは何でしょうか - あなたの名前と職業、 誓いと、何らかの導師に従うこととそれらは、別として、です。 あなたは何でしょうか。 教えてください。 あなたの職業は別として、名前は別として - または、逆に表すと、あなたは、あなたの名前ですか。 あなたは、あなたの職業ですか。 それとも、あなたは、共同体の一部ですか。 あなたは、伝統の一部ですか。 ヒンドゥー - それは、伝統、名前です。 で、あなたは何でしょうか。 ギーターの言うことやウパニシャッドの言うことや、誰かが言うことを、 繰り返さないでください。それは無益です。 実際にあなたは、何でしょうか。 神さま、あなたたちみんなは、どうしちゃったんですか? この問いがあなたに出されているのは、これが初回ですか。 私は、何でしょうか。 あなたは、恐れではないですか。 あなたは、あなたの名前ではないですか。 あなたは、あなたの身体ではないですか。 あなたは、あなたが自らは何であると考えるものではないですか。 あなたが、自分自身について築いてきたイメージ -あなたは、それではないですか。 あなたは、あなたの怒りではないですか。 それとも、あなたは、 「いや、怒りは私から分離している」と言いますか。 さあ、どうぞ! あなたは、あなたの恐れ、野心、貪欲、 あなたの競争、不安定、混乱、痛み、 悲しみではないですか。 あなたは、それらではないですか。 あなたは、あなたが従う導師ではないですか - そして、首に掛けるあらゆる種類のものではないですか。 で、あなたが自分自身をそれと同一視するとき、 すなわち、あなたの恐れ、楽しみ、痛み、悲しみ、 愛情、無礼 - そのすべて。 あなたは、それらではないですか。 それともあなたは、何か上のもの、 超自己、超意識ですか。 もしあなたが、自分は超意識である、高い自己である、と言うなら、 それもまた、考えることの一部です。 ゆえに、あなたが、高い思考者、上の自己と呼ぶものは、 やはり、とても小さいのです。 で、私は何でしょうか。 さあ、どうぞ!眠りに就かないでください。
57:59 今は何時でしょうか。
58:01 質問者: 10時10分前です。

質問者: 9時55分です。
58:06 K: 私たちは一時間近く話したんですか。

質問者: そうです。
58:12 K: やれまあ!あなたたちが、これは値打ちとあると思うのかどうか、私は知りません。
58:20 私は言っています - あなたはそれらの束である、と。ですね? 思考により組み立てられた。「私はヒンドゥー教徒である、私はバラモンである、 私はバラモンでない、私は反バラモンである、 私は総理大臣になりたい、 私は、もっと大きな地位がほしい。 私は、権力、地位がほしい。」と。 ですね?いいえ、と言わないでください。 あなたは、それらすべてがほしいのです。 あなたは、神の近く、導師の近くにいたい。 ゆえに、彼の言うことに、従う。 あなたは、不安定で、混乱し、さびしく、悲しみの中、 痛み、心配の中である。ですね?あなたはそのすべてです。 あなたが、自分は何であると考えようとも、です。ですね? あなたは、あらゆる種類のものを創案するかもしれません。 でも、その創案もまた、あなたなるものです。ですね?
59:31 で、もう一つのごくごく錯綜した問いには、 私は今、入りません。なぜなら、時間が近くなっているからです。 誰が、このすべてを組み立てたのでしょうか。 そのすべてを組み立てるのが、私、私の自己と呼ばれます - 私の自我、私の人格、私の高い自己、私の神、そうですね、アートマン、と。 私は、これらの種類のことを創案します。 誰が、これを組み立てたのでしょうか。 質問を理解できますか。 それとも、ただ一つの構造が、あるのでしょうか。 理解できますか。 理解できますか。私たちは、これらを分離してきました。 或る日、私はすっかり安定しています。 二日目、私は不安定です。 三日目 - 私が言うのは、長い間隔を置いて、三日目という意味です - 私は、とても高尚になりたいと望む、切望する。 五日目、私は、「私は恐れをなくさなければならない」などと言う。いいですか。 一日一日と動いていく。私たちは、何という種類の人間なのでしょうか! 私はヒンドゥー教徒である、仏教徒である、その他すべてです。 誰が、これらを分割したのでしょうか。 質問を理解できますか。 誰が、「私はヒンドゥー教徒だ」「私はイスラム教徒だ」と言ってきたのでしょうか。 それは単に宣伝でしょうか。 国々の間の分割 - 誰がこの分割を創り出したのでしょうか。 さあ、みなさん!
1:01:36 質問者: 思考がそれを作ってきました。

K: ソクラテスが?
1:01:41 質問者: 思考が、です。

K: 思考だ。確かですか。 または、同一視されたい、安全でありたいとの願望、あこがれでしょうか。
1:02:04 質問者: そうです。

質問者: それも思考です。
1:02:09 K: それを言い表す前に、聞いてくださるでしょうか。 もちろん思考です。でも、そこには、何か他のものがあります。 私は、大変尊敬を込めて、あなたにお訊きしています。 誰がこの分割を、創り出したのでしょうか。 もちろん思考です。 しかし、その思考の裏に、他の何かがあります。 「私はロシア人だ」とか「イスラム教徒だ」。 私はそれに取りすがります。ですね? 余生の間、私はイスラム教徒やカトリックや ヒンドゥー教徒です。または、何であっても、です。 思考は別として、誰が、これらをしているのでしょうか。 願望は何でしょうか。欲求は何でしょうか。 その裏の動きは、何でしょうか。
1:03:06 質問者: なることです。
1:03:08 K: なること - それはどういう意味ですか。 何になるのですか。
1:03:12 質問者: 今の私とは違うように、です。

質問者: 安全です。
1:03:17 K: やっとです。安全でしょう。 私は安全でありたい。 そういうわけで、私は導師に従うのです。 私は、あなたとの関係で安全でありたい - 妻との、です。彼女は私のものだ、と。ですね? 安全。よろしいですね。 安全で、保護され、安心だ。 私はどこかにそれを持たなければならない、と。 ですね?家では、ね。工場とか、官僚機構では、 それはかなり困難です。 願望、欲求、応答、 反応は、安全です - 「私は安全、安心でなければならない」と。ですね? K、誰それ、(大卒の)学士。 あなたたちは、狂った群衆です。 または、MP、〔すなわち〕国会議員。 付いてきています? ここ、この国では、称号がきわめて大事です。 で、それは、一つの形の安全です。ですね? あなたたちは、みんな、安全がほしい。 でも、私たちはけっして問いません -そもそも安全があるのでしょうか。 進んでください。 「私は安全だ」と言えるところが、どこか、あるのでしょうか。 あなたは、奥さんを信用しない。 奥さんは、あなたを信用しない。 あなたは、上役を信用しない。 なぜなら、彼の立場に取って代わりたいからです。 すべて常識です。あなたたちは、導師になりたい。 後生です! で、世界のどの人間も - あなたは今、笑うかもしれません -世界のどの人間も、 自分が安全、安心でいられるところを、持ちたいのです - 競争がないところ、 手荒に扱われないところ、困らされないところを、です。 あなたは、それらがほしくないですか。 あなたが正直ならば、息抜きに、それらがほしくないですか。 ええ。でも、あなたはけっして訊ねません -そもそも安全は、あるのでしょうか。 私たちは、何かがほしいが、それは幻影なのかもしれません。 私は神がほしい。でも、私たちは、神を創り出してきました。 で、あなたは安全がほしいが、また訊ねなければなりません - そもそも安全はあるのでしょうか。 あなたは、安全がほしいのなら、 他方の問いをも、訊ねなければなりません。 「私は安全がほしい」と言って、取りすがることはできません。 そもそも安全が、あるのでしょうか。
1:07:00 そのとき、問いが生じます - なぜあなたは、安全がほしいのでしょうか。 あなたが考える中に、安全があるのでしょうか。 あなたの関係に、安全があるのでしょうか。 私との(関係)ではない。あなたの奥さんと、あなたの子どもたちとの(関係)です。 あなたの職に、安全があるでしょうか。 あなたは、大学教授かもしれません。 ひとたび教授になると、気をつけて保護されます。 でも、もっと上の教授たちがいます。 あなたは、副学長になりたいのです。 そのゲームはご存じでしょう。 で、どこに安全が、あるのでしょうか。 それとも、安全は、全くないのでしょうか。 考えてみてください。 その美しさを見てください - 安全への願望を何も持たない。 何の欲求も、 どの種の感じも持たない -そこに安全があるというものを、です。 あなたの誓い、あなたのオフィス、あなたの工場、 あなたの議会などに、安全があるでしょうか。 生は、安全を持たないのかもしれない。 生は、生きられるためにある。 問題を創り出し、それからそれらを解決しようとするために、ではない。 悲しみ、痛みを持つために、ではない。 それは、生きられるためにある。 そして、それは死ぬでしょう。 それは、私たちの恐れの一つです -死ぬことは。ですね? 私たちはそれらに入るでしょう。
1:09:14 で、今朝は、私たちは互いから学んだでしょうか - 互いに助け合ったのではない。 私たちは、学んだのでしょうか。 私たちは、語り手が話していることが、そもそも聞こえたのでしょうか。 耳で聞こえたのでしょうか。 あなたたちは、世界の事実が見えたのでしょうか - それは、あなたです。世界はあなたです。 あなたは、それらの事実が見えたのでしょうか。 それとも、それらはすべて観念でしょうか。 事実と観念との間には、違いがあります。 観念は、けっして事実ではない。 マイクロフォン - 語り手の前のこのものですが、 「マイクロフォン」という言葉は、そのものではない。ですね? 言葉はそのものではない。 でも、私たちは言葉を、そのものにしてきました。 私が言っていることを、理解できますか。 で、ヒンドゥー教徒はあなたではない。 その言葉は、あなたではない。 あなたは事実であり、言葉ではない。 あなたはこれらが見えるのかと、思われます。 で、言葉が見え、言葉は そのものでないことが、見えるでしょうか。 「神」という言葉は、神ではない。 言葉は、現実とは全然違っています。ですね?
1:11:32 で、私たちは、大変尊敬を込めて、お訊きしています - あなたは今朝、何を学んだのでしょうか - 実際に学び、それで行為するように、です。 「ええ、全くそのとおり。そのとおり」と言い、 家に帰って、続けていくのではない。 で、私たちが行為しないのなら、世界は大変な混沌(状態)にあるのです。 あなたがそれを悟られるのか、私は知りません。 世界には、大きな困りごと、大きな悲惨があるのです。 そして世界はあなたです。 なぜなら、あなたが悲惨にあり、 あなたが混乱していて、あなたがこれらであるからです。 ゆえに、あなたは身の回りに、世界を創り出しています。 私の言っていることを理解できますか。後生です! あなたが変更しないなら、世界は変更、変化できません。 なぜなら、世界は、どこへ行こうとも、 世界のあらゆる人間は、あなたが経ていくのと、 同じ現象を経て行くからです -不安定だ、不幸せだ、怖ろしい、 不安全だ、安全がほしい、制御しようとする、 「あの導師は私の導師より良い」と言おうとする、 などなどです。戦争を起こしている。 理解されますか。 語り手は、楽観主義者や悲観主義者ではありません。 私たちはあなたに、事実を提示しているのです - 新聞の事実ではない。 私たちは、自分たちの生の事実について、話しています - 導師とか皇帝とか他の誰かの生ではない。 私たちはともに、あなたの生について、話しています。 あなたの生は、残りの世界に似ています。 人々は、ひどく不幸せで、不安定で、悲惨です。 百万ごとに失業しています。 貧困、空腹、悲しみ、痛み -ちょうどあなたのように、です。 あなたは、彼らと異なっていません。 あなたは自分自身を、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒やキリスト教徒と呼ぶかもしれません。何でも好きなものと、です。 しかし、意識的、内的にあなたは、残りの世界に似ています。 あなたは、濃い褐色かもしれないし、彼らは、薄い褐色かもしれません。 違った政府。 しかし、あらゆる人間は、このひどい世界を分かち合っているのです。 私たちが、この世界を作ってきたのです。 理解できますか。 レーニンやマルクスではない。 私たちが世界を作ってきたのです。 私たちが社会です。 あなたは、社会に何か違っていてほしいと思うのなら、 あなたが、始めなくてはいけません。 あなたが、自らの家に秩序をもたらさなくてはいけません。 家はあなたです。 よろしいでしょうか。
1:16:04 終了しました。