Krishnamurti Subtitles home


RA85T3 - 冥想者がいるかぎり、冥想はない
インド、ラージガート
第3回公開講話
1985年11月22日



2:13 K: 誰かここに来て、座りたいでしょうか。 私は本気で申しています。来ていいですよ。
2:30 質問者: 来てもよろしいでしょうか。

K: ええ、どうぞ。
2:40 K: あなたは、ここへ上がってきたいでしょうか。 これはだいじょうぶですよ。 二人の導師だ。
2:59 質問者: 一人だけです。
3:14 K: これでだいじょうぶですか。
3:36 これは最後の講話です。 私たちは今朝、大変多くのことについて、 ともに話し合おうとしています - 大変多くのことについてです。 私たちは、言いましたように、ただ一人が語っているものではない。 あなたと語り手は、ともに参加し、問題全体を 分かち合っています。または、私たちが議論しよう、話し合おうとしている主題を、です。 私たちが言いましたように、あなたはそれに参加しています。 普通に聞いているだけとか、何かあなたが聞かなければならないものではない。 ともに私たちは、多くのことについて、話し合おうとしています。 私たちは、ここ二回の講話と一回の討論会で、多くのことを扱ってきました - 恐れ、人の苦労すべて、 私たちが持っている問題。 それら問題を、私たちはけっして解消できないように見えます。 私たちはいまだに、それらを持ち運んでいます。 私たちは気をつけて、それに入りました。 私たちの精神が問題で満たされているから、問題は存在します。 ゆえに、どの問題を見る自由もないのです。 これは、今それに入る時ではありません。 私たちは、よく気をつけて、それに入りました。 また私たちは、思考の問いにも、入りました - なぜ思考は、この生活を、すっかり不可能にしてしまったのか。 思考は、大変多くの葛藤、抗争を、もたらしてきました - 二百五十万年の間の戦争、です。 それは、実質的に毎年という意味です。 私たちは、互いに殺し合います - 神の名、愛国主義の名において、です。 あなたの国に対する私の国、 あなたたちの宗教に対する私たちの宗教、などと。 戦争に次ぐ戦争。おそらく(ここ)ベナレスで、ではない。 ここでは、相当に現実世界から、かけ離れています。 しかし、私たちは毎年、戦争に向き合っています。 私たちはまた、思考の本性について、話しました。 なぜ思考が、人を分割するのか、また、人々をまとめるのか - 月へ行くような一定のプロジェクトをするため、です。 あのロケットを建造するには、たぶん30万人以上の人々がいて、 誰もが皆、自らの小さな仕事を 完璧にしなくてはいけなかったでしょう。 私たちは、戦争のような危機で、まとまるのか -それは、憎しみから生まれます。 または、何か国民的主題のために、まとまるのか。 または、大きな危機があるとき、まとまります - 地震、火山噴火、自然の出来事などのように、です。 それを別とすると、私たちはけっして、まとまりません。
8:25 さて、今朝、私が大変尊敬を込めて、提案してもよろしいなら、 私たちはみんな、一緒に座っていながら、みんな、まとまりましょう。 そして、エネルギーを集めましょう -私たちが取り上げようとする様々な主題を、 きわめてはっきりと考えられるように、です。 ともに、です。 それは、あなたが、能動的に考えている、能動的に聞こえているという意味です。 かなりのろい私たちの頭脳を、活性化させるように、です。 それを指摘するのを、お許しください - のろく、遅く、単調で、反復的、などです。 で、私たちは今朝、ともに頭脳を鋭敏に保ちます。 私は侮辱していません。 侮辱したいとは思いますが、しません。 それは、ただの冗談です! 身体組織だけを活動的に保つのではない - なぜなら、それはエネルギーを与えてくれるからです。 違った形の歩き方、泳ぎ方、 違った種類のヨーガのアーサナ(体位)など、です。 しかしまた、とても明晰な活動的な頭脳を、持つことです - 専門化した頭脳ではない -哲学者として、科学者として、 物理学者などとして、ではない。 それら専門化した頭脳は、とても狭くなります。 私はここに、幾人か、科学者である友人を知っています。 私は彼らを侮辱していないことを、願っています。 または、博士や哲学者も、です。 彼らは、話について話します。 理解できますか。ジョークが分かりますか。 話について話をする -プラトンでも、アリストテレスでも、 様々なギリシャの哲学者でも、あなた自身のでも、です。 哲学(フィロソフィー)は実際は、辞書によれば、 「真理への愛」「生への愛」「英知への愛」を 意味しています。理論ではない。 ますます多くの理論を付け加えるとか、 誰かを引用し、引用されたものを説明することではない。 世界中のすべての大学、専門校、学校は、 頭脳を条件付けつつあります。
12:12 あなたが、学びの問いに入ったことがあるのか、私は知りません。 学ぶとは、どういうことでしょうか。 今、私たちは、ともに見出そうとしています - 学ぶとは、どういう意味かを、です。 私たちは一般的に、学ぶとは、記憶する、という意味で言っています - 学校へ行く。あなたは、読み書きの仕方を記憶します。 あなたは数学などを記憶します。 学校、専門校、大学をとおしてずっと - あなたが、運良くその水準に届くなら、 または、運悪くその水準に届くなら - 記憶します。 その記憶は、能動的に使われます - 生計を立てるため、権力、所有物、威信、愛顧などを、 獲得するために、です。
13:23 で、学ぶとは、どういうことでしょうか。 他の種類の学びが、あるのでしょうか。 私たちは、普通の種類の学びを、知っています - 学校、専門校、大学。 または、技能を学ぶ。優れた大工や配管工や 優れた料理人になるため、です。 ここには、とても良い料理人の私の友人が、幾人もいます。 また、とても良い哲学者、 精神科医と物理学者の友人たちも、です。 みんな、そこにいます。 ここです。あの方向に、ではない。 で、学ぶとは、どういうことでしょうか。 他の種類の学びが、あるのでしょうか - 単に、記憶するだけでないものが、です。 あなたはそれについて、考えたことがありますか。 あなたが記憶しているとき、頭脳は記憶で満たされます。 それは単純です。 で、記憶は増殖します。 あなたを幾らか、鋭敏にしておきます。 あなたは、もっと多く、もっと多く学びます。 私たちは、あなたに訊ねています - 彼と私が、です。 よろしいですか? 私たちは、あなたに訊ねています -単に記憶するのではない、 他の種類の学びが、あるのでしょうか。 言いましたように、私たちはともにいます。 私たちの頭脳は、活動的です。 で、語り手はあなたに、訊ねています - すっかり違った種類の学びが、あるのでしょうか。
16:01 質問者: 理解することが学ぶことです。

K: いいえ、まだ定義なさらないでください。 考えぬいてください。問いを見てください。 記憶するのではない、違った種類の学びが、 あるのでしょうか。 これは、とても重要な問いです。 なぜなら、頭脳はあらゆることを記録するからです - あらゆる出来事、あらゆる種類の記憶、です。 あなたが傷つくとき、それは記録されます。 しかしあなたは、誰が傷ついているのかを、けっして探究しません。私たちはそれにまもなく来るでしょう。 で、頭脳は記録しています。 それの重要性を見てください。 それは記録しなくてはいけません。さもないと、あなたと私は、ここにいないでしょう。 で、頭脳は常に、記録し、捨て去っています。 さて、記録することは、必要でしょうか。 質問は理解できますか。 あなたは、車での出来事を記録します - 事故、です。 それは即座に記録されます。なぜなら、あなたは 痛みがあるか、けがをしたか、車が傷ついたからです。 で、頭脳は、記録するだけでなく、またそれ自体を保護する 能力、エネルギーを、持っています。 私たちは訊ねています - あらゆることを記録することは、必要でしょうか。 または、必要なことを記録するだけで、他は何もないのでしょうか。 あなたは、自分自身にこの問いをしたことがありますか - 精神科医を含めて、 物理学者などを含めて、です。 あなたはこの問いを、考慮したことがありますか。 頭脳は、自らの安全のために記録します。 さもないと、あなたと私は、ここに座っていないでしょう。 私たちは、ここに来るには、どれぐらい時間が掛かるだろうかなどを、記録しました。 私たちは訊ねています -一定のことを記録することは、必要であるが、 精神・心理(サイキ)が関与しているところでは、全然不必要である、と。 質問を理解されますか。
19:15 あなたが、お世辞を言われたとき、それを記録することが、必要でしょうか。 または、侮辱されたときも、です。 それらのことを記録することは、必要でしょうか。 なぜなら、記録は精神・心理を築き上げるからです。 私たちはともに、話し合っているでしょうか。 それとも、あなたは、 「ええ、なかなか良さそうに聞こえる」と言っているだけでしょうか。 これは、とても深刻な問いなのです。 なぜなら、精神・心理は、要素、性格、気風 すべてから出来上がっていて、そこに、頭脳に収容されているからです。 それが、意識と呼ばれます。 その意識の中に、 記憶の活動すべて、恐れ等々が、収容されています。 で、私たちは、またもや訊ねています -どうか眠らないでください。またもや、です - 精神・心理を築き上げることは、必要でしょうか。 「精神・心理(サイキ)」は、自己を意味しています。 自己とは、記憶すべて、思考、想像、 魅惑、恐れ、楽しみ、悲しみ、 痛みの活動すべてです。で、記録することが、 精神・心理全体、「私」、ペルソナを作り上げます。 理解できますか。 自己を築き上げるように、記録することは、必要でしょうか。 あなたは、これらのことのどれも、考えません。 で、私は訊ねています。私たちは訊ねています -彼と私が、です。哀れなものだ。 あなたがここに座っているのは、お気の毒です。気にされますか?
21:35 質問者: もしあなたが望まれるなら。

K: もし私が望むなら? あなたが、そこに座っておられるんですよ。
21:48 あなたは、これについて考えたことがありますか。 見つめたことがありますか。 または、様々な哲学的、宗教的な事柄でやるように、究明し、 この記録の問いに、入ったことがありますか。 もしも私は、車の運転の仕方を、記録しなかったなら - 語り手は二年前、時速120マイル(192キロ)で車を運転していました。 もしも私は・・・もしも記録がなかったなら、私は運転できませんでした。 で、一定のものごとを記録することは、必要ですが、 他のものごとを記録することは、全然不必要です。 その美しさを、見てください。 そのため、頭脳はいつも記憶に条件づけられていないのです。 そのため、頭脳はとてつもなく自由に、だが、活動的になるのです。
23:10 で、それが、最初の問いです。 学びは、記録することではないのです。 私はこれについて、精神科医と議論したいと思います - 彼らは、ここにいます。 私たちは、この事柄について、ニューヨークで議論してきました。 彼らは、記録しないとの観念に、魅了されました。 そのため、脳細胞自体が変異するのです。 理解できますか。ああ、いいえ。 私たちの頭脳は、脳細胞などでもって、築き上げられています - 私は専門家ではありません - 脳細胞には、記憶があります。 私たちは、それら記憶によって生きます - 過去、 自らの持つ思い出すべて、 年を取るほど、さらに、さらに遡っていき、 ついに、死にます。 遡る。 それで、見出す、学ぶことが、なかなか重要な問いなのです - 頭脳があらゆることを記録しなくてはいけないのかを、学んで見出すのです。 忘れるのではない。忘れるのと記録しないのとは、違います。 二つの別々の事柄です。 で、あなたが傷ついているとき- 身体的にではなく、 心理的、内的に、です - 傷は、何なのでしょうか。 あなたは、「私は傷ついた」と言います。 あなたは、その語句を聞いたことがないですか。 あなたにとって、新しいですか。 あなたたちはみんな、傷ついているでしょう。 子どもの頃から、成長して、死ぬまで、 あなたは、いつの時も傷ついています。 あなたは、「私はもう傷に耐えられない」と言います。 「私は多く傷ついてきた。私は怯えている」と。 私は、自分自身のまわりに壁を築き、自分自身を孤立させます。 そして、傷つくことの帰結すべて、です。 さて、誰が傷ついているのでしょうか。 答えてください。そこに座っていないでください。 あなたたちはみんな、傷ついています。 地上のあらゆる人間は、幾らか傷ついています - 子どもの頃から、 叱られる、ぶたれる。 子どもたちに起こるすべて、です。 私たちのみんなが、傷を持ってきました。 さて、誰が傷ついているのでしょうか。
26:27 質問者: 私、です。
26:28 K: どうか、ただ答えないでください。 考え抜いてください。 あなたは、「それは私です」と言います。 あのお方が、指摘されるようにです。 では、「私」は、何なのでしょうか。 あなたはただ、「私」、「自我」だと言います -思いつくどの言葉でも、です。 でも、あなたは究明しないのです -「私」が誰なのか、 ペルソナが誰なのか、人格は誰なのか、あなたは誰なのか。 名前、学位 - あなたが幸か不幸かであれば、です。 仕事、住宅か、アパート、 ちっぽけなアパート、箱の中で生活する。 そして、名前の後の称号、IAS、MSc(理学修士)やMAD。 むしろMAD(狂人)か、などです。 で、あなたが自分自身について、築いてきたイメージ、 あなた自身である他の物事について、築いてきたイメージ。 で、あなたが、自分は傷ついたと言うとき、イメージが傷ついたのです - あなた自身についての、です。 はっきりしていますか。 いいえ、どうか、説明について、はっきりさせないでください。 それらイメージすべては、あなたです。 あなたは物理学者です。 あなたは医師です。あなたは哲学者です。 あなたはMPです。 意味は知りませんが・・・ああ、すみません。 知っています(下院議員です)。または、技術者です。 彼らがみんな、「彼は技術者です」「彼はまぬけです」といって 紹介されることを、悟ったことがありますか。 いつも、その職業により紹介されるのです。 理解なさりますか。すべて狂っています。
28:55 で、自己、精神・心理(サイキ)、ペルソナは、あなたが、自分自身について、 築いてきたイメージです。 そして、あなたが、奥さんについて築いてきたイメージ、 彼女が、あなたについて、築いてきたイメージ。 これらイメージが、関係を持つのです。 何が起きているかを、見てください。 イメージが関係を持つ - 人物ではなく、イメージが、です。 あなたは、それにより生きます。 で、あなたは、奥さんやご主人や友だちを、けっして知らないのです。 または、知ろうともしない。 あなたはイメージを持っています。 で、問いはこうです - あなたは、ただ一つのイメージもなく、生きられるでしょうか - 総理大臣について、彼や私のような人物について、です。 ただ一つのイメージもなく、生きられるでしょうか。 それの意味合いを、見てください - その美しさ、その自由を。
30:14 話し合うべきことは、とても多くあります。 進んでもいいですか。 「はい、進んでください」と言うだけでなく、あなたは、それに参加しています。 あなたは能動的に、ともに考えています。 「はい。あなたが言うべきことを聞きましょう」と言うだけではない。 あなたは、いずれにせよ、本当は全くそれを聞きません。
30:43 で、私たちはともに、話し合うべきです - なぜ生にはこれら努力なのか。 なぜ私たちは、何をするにも、こういう無限の努力をするのでしょうか。 質問を理解されますか。 私は、このお方に訊ねています。 なぜ努力するんですか。 私は、これらをずっとやってきました -すばやく答えないでください。 私は、科学者、哲学者により、様々な形の 宗教的なまぬけ、あらゆる種類の人物により、 きびしく絞られてきました。 だから、すばやく言わないでください。 なぜ私たちは、生においてこんなに努力するのでしょうか。 あなたは、冥想するために、ものすごい努力をします。 私たちは、まもなく、それに来るでしょう。 生きるため、けんかするため、互いに戦うために、ものすごい努力です。 意見対意見、判断対判断。 「私はあなたに同意する」、「私は彼に同意しない」と。 なぜこれらの努力でしょう。何のためでしょう。 お金のためですか。 私はあなたに、お訊きしています。 目覚めていてください。 お金のためですか。家族のためですか。 どうか、気をつけて聞いてください。 自分の愛情のため - 自分は誰かに愛されなければならない、と。 なぜこれらの努力でしょうか。 あなたは、その問いをするとき、訊ねなくてはいけません - 進行していいですか - あなたは、訊ねなくてはいけません。 愛は何でしょうか。 それで、あなたは困ってしまう。 愛は努力でしょうか -「私はあなたを愛さなければならない。 だから、私はそれについて努力しよう」と。 愛は努力でしょうか。 そのときあなたは、探究しなくてはいけません -愛は何でしょうか。 あなたは、これを探究するのは構いませんか。 あなたは、愛が何かを、知っていますか。 見たところ、あなたは知らない。なぜなら、みなさんはすっかり沈黙しているからです。 愛は何でしょうか。 野心があるとき、愛がありうるでしょうか。 どうか・・・どうか、これは深刻です。後生です。 これは、気に掛けない誰かさん、 わが道を行きたいだけの誰かさんのためではない。 それは野心でしょうか。それは貪欲でしょうか。 それは、自己中心性でしょうか。 それは、野心的な達成でしょうか。 愛は、憎しみの対極でしょうか。ああ、神様!
34:47 そうですね、みなさま、私たちは、 時の初めから、いつも戦っています。 これは、フランスの様々な洞窟に見られます。 そして、ギリシャ神話に、です - 生をとおしてずっと、善が悪と戦っている。 私が言っていることを、理解されますか。 善が悪と戦っている。 それは絵画に見られます - 善が象徴化され、 悪魔とか何かとして象徴化されたものが、です。 ギリシャ神話や他の神話では、 雄牛対何かです。 白い雄牛対黒い雄牛、 または、違った形、象徴などで、善が悪と戦っている。 私たちは、いまだにそうします - 善が悪と戦っています ですね?あなたはそうしませんか。 善は、悪より分離しているのでしょうか。 善玉と悪玉。 善は、悪から生まれるのでしょうか。 急に、深刻な顔をなさらないでください -あなたにとって、すべてゲームです。 善が悪に関係しているなら、それは善ではない。 善が悪から生まれる、やってくるなら、 それは善ではない。 それは単純でしょう。 しかし、悪が善から全的に離別しているなら、 善と悪の間に、何も関係はなく、 それらは互いに関係を持たないのなら、 そのとき、悪と善だけがあるのです。 全的に互いから離別しています。 ゆえに、それらは戦えません。
37:36 で、そのとき私たちは、探究しなくてはいけません - 善は何でしょうか。 あなたは、これらに興味がありますか。 ゆえに、あなたは訊ねなくてはいけません -愛は、憎しみを保有しうるのでしょうか。 または、憎しみは、愛とは何の関わりもないのか。 ゆえに、二つの間に、何も関係がない。 ゆえに、それらは互いに戦えない。 理解できますか。 これは、重要な問いです - あなたが、理解し、 掘り下げ、入るべきことです。 なぜなら、あなたはいつも言っているからです - 「私は今日、良くなかったが、明日良くなるだろう」、 「私は今日、怒っていたが、明日、怒らないだろう」と。 これは、善と悪の間の、 相対的な関係です。
38:53 で、愛は、嫉妬とは、いかなる関わりもないのです。 愛は、憎しみとは、いかなる関わりもないのです。 憎しみ、楽しみ、心配などがあるところ、 愛は、存在できません。そうなんです。 語り手は、あなたがいったい誰かを愛しているのかどうかを、問うのです。 そして、愛は何でしょうか。 それはどのように訪れるのでしょうか。 質問を理解できますか。 その問いをなさらないですか。 本当に、あなたはその問いをしますか。それとも、私があなたのために、それを訊ねているだけでしょうか。
39:57 質問者: 問いは、私たちとともにあります。

K: 何の問いです?
40:02 質問者: 私たちは愛しているのかどうか、です。

K: そうです。あなたが愛しているのかどうか、です。 悲しみがあるところ、愛は存在できるでしょうか。 気をつけてください。私に答えないでください。 私たちのほとんどは、何らかの種類の悲しみの中にいます。 試験に落ちる - なんとまあ、私たちが何なのかを考えてみてください - 試験に落ちる、 失敗して成功を収めない。ビジネスや政治や、 奥さんとの関係で、 上の階の誰かとの関係で、です。 理解できますか - 上の階です! それは、あなたの導師や、何か他の想像の人物かもしれません。 で、あなたは成功できないとき、あなたに成功がないとき、 憂鬱です。悲しみに充ちています。 または、あなたは、小さな村に生活しているから、悲しみに充ちています。 あなたは読み書きの仕方を知らない -ありがたいことです。 または、車の運転の仕方を知らない。 または、あなたは、お風呂、暖かいお風呂がない。 一枚の汚い布をまとっている。 私たちは、それらを経てきたのです。 語り手は、それらを経てきたのです。 あなたたちはみんな、相当、豊かである、などです。 それで、彼は苦しみます。 地位に就いた人 - はしごの上、高く、です。 誰もはしごを、引きずり降ろさない。 彼は上、高くにいます。 で、彼もまた苦しみます。なぜなら、もう数歩、上がるところがあるからです。 で、この地上のあらゆる人は、 最も貧しい者から、最も豊かな者まで、 最も権力をもつ者から、最ももたない者まで、 あらゆる人が、みんな苦しみます。 よろしいですか。みんな、苦しみます。 地上のあらゆる女は、苦しみます。 男たちは、楽しみを得る。 女たちは、苦しむ。 で、苦しみは、あなたのではない。 なぜなら、まわりのあらゆる人が、苦しむからです。 それは、私の苦しみではない。それは苦しみです。 あなたがそれを理解されるのか、と思われます。 私の息子が死ぬ。私はひどくうろたえる。 私は泣いて、「ああ、神様。 私は息子を失ってしまった」と言う。 それは、永続的な問題になります。 私は、小さな男の子や女の子を見るたびに、泣きます。 私は、さびしさ、悲しみ等の痛みを、経てゆきます。 悲しみは私のではない、それはみんなのであることを、私たちは考えたことがあるのでしょうか。 それにより、悲しみは最小化されません -それは、そこにあるのです。 その悲しみは、終わりうるのでしょうか。 私が苦しんでいるかぎり - 私は妻を失ったから、 または、私は自分で思ったほど偉大でないから、 または、関節に痛みがあるからとか、何かしらですが、 私はいつも苦しんでいます。 私は訊ねています -その悲しみは、終わりうるのでしょうか。 悲しみがあるなら、あなたは・・・愛はないのです。 どうか、これを悟ってください。 私は苦しみ、苦しみ、苦しむのなら、それは、自己憐憫の一部、 自己関心の一部です。それは、他の誰でもなく、私が苦しんでいる、ということだけです。 私の悲しみは、あなたの悲しみとは違っている - 私の神は、あなたの神とは違っている。 私の導師は、あなたの導師より強い、というように、です。 それはジョークになります。
45:23 で、悲しみに、終わりはあるのでしょうか。 または、人類は生涯、この恐怖を経て行かなければならないのでしょうか。 そうです。 語り手は、それは終わりうる、と言います。 さもないと、愛はないのです。 私はいつの時も、涙を流しているなら -なぜなら、私は息子を失ってしまったからです。 彼は、私が持つ唯一の息子である、 私にとって、息子は私の代理である、 私の継続、私の資産 -それがどんなに小さくても、です。 私は、彼が総理大臣になるだろうと、望んでいた。もっと良い住宅、 もっと多くの学識、もっと多くの金銭を得るだろう、と。分かりますか? 私たちはみんな、同じように考えます。 これを玩(もてあそ)ばないでください。 それで、私は苦しみます。 あなたがやってきて、私に語ります - 「地上のあらゆる人間は、苦しむ。 ねえ君、それは君の苦しみではない。 私たちはみんな、それを分かち合っている。」と。 私は、そういう発言を受け入れるのを、拒否します- 自分の悲しみのために、です。 私は、自分の悲しみを愛しています。 私は、自分の悲しみの中、幸せです。 私は、自分の悲しみの中、分離していたい。 で、それには、大変な探究、納得が、それについて話すことが、 必要とされるのです - 「ごらんなさい。それはすっかり、あなたのではない。 その少しは取っておきなさい。でも、それはすっかり、あなたのではない」と言うためには、です。 それは、自己憐憫がないことを、意味しています。 それは、あなたが本当に、残りの人類すべてのために、 悲しみの重荷を分かち合っていることを、意味しています。 進んでください - あなたは、それについて、何も知りません。 それについて考えてください。見てください。 あなたは人類の一部です。 あなたは、人類から分離していません。 あなたは、より良い地位、より良い学位、より多くのお金を持ち、 教授かもしれませんが、あなたは人類の一部です。 あなたの意識は、人類の一部です。 すなわち、あなたの意識は、あなたが考えてきたこと、 想像したこと、恐れてきたことなどすべてを、収容しています。 あなたの意識はそれなのです。 そして、それが、人類の意識です。 人類は、恐れ、悲しみ、痛み、心配を持ち、涙を流し、 不安定で、混乱している - 地上のあらゆる人間が、です。 あなたは、残りに似ています。 で、あなたは - 気をつけて聞いてください -あなたたちは、個々人ではないのです。 私は、自分の身体があなたの身体とは違っているのを、知っています。 あなたは女である。私は男である、などと。 しかし、私たちは世の中に一団として、いるのです。 その関係 - あなたが、自らは残りの人類であると感じるとき、 何か全然違ったことが、起こります。 言葉、想像だけではなく、その感じ、 その甚大さ、です。
49:18 で、私たちはそれについて、ちょっと話をしました。 それから、私たちは死について、話をすべきです。 すみません。うるわしい朝に、樹々の下に座り、 静かです。今、列車が橋を渡っています。 うるわしい朝に、私たちはとても静かです。 死について話すことは、陰鬱に見え、醜く見えるかもしれません。 何か話されるべきでないことに、見えるかもしれません。 アメリカでは、本が書かれています -「幸せな死に方」です。 医師たちが書いていて、自分の患者たちに、 幸せな死に方を、教えています。 今、私たちはともに、それを検討しよう、分かち合おうとしています。 あなたが聞いて、私が話すだけではない -それは子どもっぽい。 で、死は何でしょうか。 なぜ私たちはそれに、そんなに怯えているのでしょうか。 なぜ私たちは、死を十年後に、 または、二十年後や百年後に、遠ざけておくのでしょうか。なぜでしょう - 生きることと、死と。 そのとき、あなたは、死は何か、死ぬとはどういうことかだけでなく、 生きるとは、どういうことかをも、訊ねなくてはいけません。 私が言っていることを、理解されますか。 生きるとは、どういうことでしょうか。 あなたの生きることは、何でしょうか。 9時から5時までオフィス。 事務員として、知事として、 または何であっても、工場労働者として、 9時から5時、余生の間です。 退職するとき、ぼけ老人、以外は、です。 あなたの生は、子どもを産み育てること、 セックス、楽しみ、痛み、悲しみ、心配、問題に次ぐ問題、 病気、医師、 帝王切開、産みの苦しみ。 これが私たちの生です。 それを否認されますか。しない。 それが生きることと呼ばれます。 まるで私が見知らぬ人であるかのように、見ないでください。 これが、生きることと呼ばれるものです。 あなたは、それを支持する。それを楽しむ。 あなたは、これをもっともっと多く欲しい。 で、これが、生きることと呼ばれるものです。 あなたは、死をはるか遠くに置いておきます - 可能なかぎり、長年です。 その時の隔たりの中、 あなたは、その同じ様式を、築いています - 何度も何度も、です。 あなたの子どもたち、孫たちは、同じ様式に生きるのです - それが、生きることと呼ばれます。 ご自身を欺瞞しないでください - 「自然は闘争する。だから私たちは闘争しなければならない」と言って、です。 猿たちは闘争する。で、私たちは猿です。 そうですね、とても有名な作家がいます - 私たちは彼を知っていました -それらを含めていいですか。 私たちは彼を知っていました。彼は書きました - 「おそらく、猿ではなく、私たちが檻に入るべきだろう」と。
54:20 で、これが、生きることと呼ばれるものです。 私はこれを自分自身に言います -私たちはともに、これを分かち合っています - なぜそれを、死と呼ばれるものを、生きることへ、持ってこないのか、一緒にしないのか、と。 あなたは、何も持って行けません。 あなたの導師さえも、彼が言ってきたすべて、 あなたが生きようと目指してきたすべてさえも、です。 あなたは、それを持って行けません。 あなたの家具、奥さん、 子どもたち、あなたが集めてきた銀のすべて、 金庫の中の金銭すべて - そのどれ一つとして、あなたは持って行けません。 それは、一つ、確実なことです - 死は。 あなたは、何をも持って行けません。 例外は - 私たちはそれには入らないでしょう。 で、あなたは、何をも持って行けないので、 なぜ二つを出会わせないのでしょう。 私が言っていることを理解できますか。 なぜ今日、死が来ないのでしょう。 自殺ではない - 私はそれについて話していません。 結局のところ、私は妻や、家具に執着しています - そっちのほうが好きか! 笑ってすみません。 あなたたちは、狂った群衆です。 で、私は自分自身に言います。 または、あなたは、あなた自身に言います。 私は、何らかのものに執着しています。 自分のシャツ、自分の衣に - あのお方のようにです。 何か導師、何か空想、何か象徴に、私は執着しています。 十年後、死がやってきて、「やあ君、 君はそれを持って行けないよ」と言います。 で、なぜ今、執着から全的に自由にならないのでしょうか。 それが死です。 話していることを理解できますか。 全的に執着がない。 明日ではなく、今日です。明日は死です。
57:14 で、なぜ私は、自分の執着から自由になれないのでしょうか - 今、です。 ゆえに、生きることと死ぬことは、いつの時も一緒です。 あなたはそれの美しさが見えるのか、と思われます。 十年後や四十年後ではない。 それは、無量の自由の感覚を、与えてくれます - あなたの職業、まわりのあらゆることへ、です。 で、生きることと死ぬことは、いつも、一緒です。 それは、何か怯えるべきことではない。 で、頭脳はそれができるなら - 理解できますか - そのとき頭脳には、全然違った性質が、あるのです。 それは、何も留め金を持たない。 それは、何も過去、未来、現在の感覚を持たない。 それは生きています。 私は今、それに入られません。なぜなら、それは本当に、果てしない生きる道であるからです。 すなわち、毎日が新たな一日です。 毎朝が、朝の日です。
59:01 また私たちは、宗教についても、話すべきです。 私が話していることを、Kが話していることを、 間違えないでください。 未来は今です。 ゆえに、「私は来世に生まれるだろう」は、ないのです。 それは、あなたが執着している観念です。 それは、大きな慰めやら何やら等を与えてくれます。 しかし、あなたは、輪廻転生を信じているなら、今、正しく行為しなければなりません。 今、正しく行為する。 なぜなら、来世であなたは、その付けを払わされたり、報われたりするだろうからです。 あなたは、輪廻転生を信じているなら - たぶんあなたたちのほとんどが、そうでしょう - それは、とても慰めてくれる観念です。 でも、それは無意味です。 なぜなら、今正しく行為するなら -正しさに報いはないのです。 正しさは、正しさです。 あなたがそれから、何を得るだろうか、ではない - それは、商売の態度、機械的な態度です。 私は、それらに入らないでしょう -時間がないのです。 なぜなら、私たちは、さらに幾つか他の話すべきことが、あるからです。
1:00:38 宗教は何でしょうか。 これは、生の最も重要な問いの一つです。 インド中に寺院があります。 世界中にモスクが、世界中に教会があります。 それらの司祭者たちは、美しく装飾され、 美しく衣装を着て、大メダルを付ける、など。 これは、古代から問題の一つでした - 司祭者と王です。 司祭者は、権力をほしがりました。 王もまた、権力をほしがりました。 しかし、司祭者は、 読み書きをする人だったから、彼のほうが強かった。 王は彼に従わざるをえなかった。 彼のほうが賢い人であった、 または、そう思われていたからです。 次第に王は言いました -「これは充分ではない。」と。 それで、司祭者と王との間に、戦争がありました。 これは歴史的です -様々な形で、それは見られるでしょう。 王が勝ち、「おまえはおまえの居場所にいろ」と言いました。 しかし、司祭者もまた、権力を持ちたかった。 こららはご存じでしょう。 それは、ちょうど今、起きています。 ローマ教皇は、三重の王冠を持っています -霊的、現世的、(煉獄)等です。 で、議会には、抗争がありました -首相と司祭者との間、です。 それで、司祭者は、放り出されました。 で、彼らは、宗教的にならざるをえませんでした。 宗教は築かれてきました - 私は、「宗教(レリジョン)」という言葉には、入りません。 それは一時は、とても錯綜した意味を、持っていました。 でも、今それは、象徴、儀式、迷信になっています。 この国では、それは迷信、儀式、 象徴の崇拝です。 これは世界中で、何度も何度も 繰り返されます - これら三つの混合です。 それが宗教でしょうか。 パーシー教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、 キリスト教徒、仏教徒 - それが、宗教でしょうか。 または、宗教は、全然違った何かでしょうか。 あなたたちみんなを、うろたえさせて、すみません。 でも、それが宗教でしょうか。 一日三回、寺院へ参る。 イスラム教徒は、一日五回、呼びかける。 そして仏教徒などです。 それが宗教でしょうか。それとも、宗教は、全然違った何かでしょうか。 それは、儀式とは、象徴とは、いかなる関わりをも持ちません。 なぜなら、これらすべては、人が創案したからです。 なぜなら、司祭者たちは、権力、地位がほしかったからです。 それで彼は、新しい帽子、新しい衣服を着け、長いひげを生やしました。 または、頭を剃りました。 で、これらが宗教と呼ばれます。 普通の思慮深い人、相当智恵ある人は、 「それはゴミだ。全くのゴミだ」と言うでしょう。 彼がそれらを取り除くなら - 本当に取り除き、ヒンドゥーであることを、 自らの迷信、象徴、礼拝、祈り、 それらすべてのものとともに、全的に片付けてしまう。 キリスト教徒も、仏教徒も、そうする。 そのとき、宗教は何でしょうか。 彼は真剣な人です。 ただ言葉を売り歩く人ではない。戦争を売り歩く人でなく、言葉を売り歩く人でもない。 で、宗教は何でしょうか。 私たちはともに、話し合っています - 語り手は、法を定めていません。権威はない。 彼は言います - それについて話しましょう。 究明しましょう。 それに入りましょう、と。
1:05:57 私たちの頭脳は、いつの時も、しゃべっています。 静かであるときが、一秒もない。 それに注目したことがありますか。 しゃべりに、しゃべりに、しゃべったり、想像している。 または、永続的に行為している。 それはご存じでしょう。 けっして、静寂の瞬間が、ないのです。 その静寂もまた、反復です。 「ラーマ、ラーマ」とか、何を反復しても、です。 あなたが反復に反復し、反復するとき、頭脳は、とても鈍くなる。 ですね?これに同意されますか。 何か機械的なことを反復するとき、です。 あなたはその言葉か、何らかのことを反復します。 反復をとおして、次第にあなたの頭脳は、鈍く、静かになる。 その静けさは、あなたにとって、何かすばらしいことです。 私が言っていることを、理解されますか。 みんな、眠っているんでしょうか。 または、目覚めていて、互いに話し合うのでしょうか。
1:07:19 この反復は、物理的でも、性的でも、 常に反復、反復、反復すると、 身体、組織体だけでなく、頭脳をも鈍くするのです。 それが鈍くなるとき、あなたは、それが静かであると、考えます。 やれまあ! で、あなたがこれら戯言(たわごと)を取り除くなら - 語り手にとって、それは完全な戯言です。 それは、サーカスへ行くようなものです。語り手にとっては、です。あなたにとっては、そうでない。 しかし、私たちはともに、それを分かち合っています。 私たちはともに、それについて話し合っています。 私は、あなたを説得したり、影響したりしていません - これやあれをしろ、と。
1:08:16 で、私たちは探究しなくてはいけません -冥想は何か、静寂は何かを、です。 静寂は、空間を容れます。 あなたは、狭いところで静寂になれません - 空間です。 で、私たちは、冥想、空間、時の問いに、入らなくてはいけません。 そして、時に終わりがあるのか、です。 理解できますか。「どのように冥想するかを、語ってください」ではない。 理解されますか。 私たちは、あなたに、冥想の仕方を語っていません。 今、あなたの冥想は、達成です。 「冥想(メディテーション)」という言葉の意味は、じっくり考える、ということです。 辞書にこれは見つかるでしょう -じっくり考える、 よく考える、重みを量る、気をつけて見る。 それはまた、測量する、という意味です。 サンスクリットでの「マー」。測量です。 で今、今あるような冥想は、 反復、精神を鈍らせること、それで「ああ、ついに!」と言う。 なぜなら、それは鈍いからです。 そして、鈍いので、静かになります。 あなたは自分が、何かものすごいことを達成したと、考えます。 あなたは、他の人たちへ、これを反復して回ります。 哀れな、だまされやすい人々は、「はい、はい」と言う。 で、私たちは今、これらを考慮しようとしています。
1:10:18 今、10時5分すぎです。 あなたたちは、つづけたいですか。 私が働いているのでしょうか。 それとも、あなたが、働いているのでしょうか。
1:10:27 質問者: ともに、です。

K: 確かですか。
1:10:30 質問者: それは確かです。
1:10:37 K: 一般的に実践されているような冥想は、 この鈍さを養成することです。 ゆえに、次第に頭脳を従順に、静かにすることです。 あなたは、静かだと感じるなら、「神様、すべてが達成された」と言う。 語り手にとって、それは全く冥想ではありません。 冥想の仕方を、訊かないでください。 それは、大工に、美しいキャビネット(戸棚)の作り方を、訊くに似ています。 彼が良い大工であるなら、彼に言うまでもありません。 で、私たちは、冥想の仕方を、訊ねていません。 私たちは、冥想が何かを、訊ねています。 全く二つの違ったことです。 どのようにでなく、冥想は何か、です。 一般的に実践されているように、それは、一連の達成です。 そしてあなたは、「ブッダは覚りを開いた」と言います。 私は、それがどういう意味かを知りません。 ですが、大事なことではない。
1:12:04 で、あなたが比較するとき - それが冥想です - 「マー」は、私が言いましたように、サンスクリットで、「測量」です。 「私は今日こうだった。 私は明日、良くなるだろう」 それは測量です。 で、測量は、冥想に何の場所をも持ちません。 測量は、大きな場所を持っています -(古代)ギリシャ人からこのかたです。 測量は、テクノロジーすべてに必要です。 テクノロジーすべてに、椅子を組み立てるのでも、 月へ行く最も複雑な軌道でも、です。 測量が必要です。 で、私たちは言っています - 冥想は、比較と測量すべてから、 全的な自由、という意味合いです。 さあ、これは難しい。 なぜなら、冥想は、何をすべきかを知っているなら、 何かすばらしいものです -あなたが、ではなく、冥想が、です。
1:13:27 冥想者は、冥想と異なっています。 冥想者があるかぎり、冥想はありません。 これらを理解できますか。 なぜなら、冥想者は自分自身に関心があるからです - 自分がどう進歩しているか、自分が何をしているか、 「私は明日、もっと良くなるだろうと願う」、心配。 冥想には、冥想者が全くありません。 ひとたび、これがあなた自身で見えたなら - それの美しさ、それの深さ、それの微妙さが、です。
1:14:11 で、私たちは言います - 冥想の実践は、まったく冥想ではないのです。 岸に座って、見つめる - ご存じですね。 精神をますます鈍くする。 そして、「そうだ。私は一時間を過ごした。 すばらしい」と言う。 そしてあなたは、彼に平伏す。彼の足に触れる。 ところで、どうか、私の足に触れないでください。 それは、人間として大変、威厳がない。 あなたは、好きな分だけ、私の手を握られます。 だが、誰かの足ではない。それは、非人間的で、みっともない。よろしい。 で、冥想は、何か実践できないものです - ヴァイオリンやピアノを実習するようには、です。 歌う中で、あなたは実践します。 それは、あなたが一定水準の完璧さへ到りたい、という意味です。 私がいうのは、冥想には、水準がない。 達成されるべきものは、何もない。 ゆえに、それは、意識的、意図的な冥想ではない。 あなたがこれらを理解されるのか、と思われます。 全的に方向付けられていない冥想が、あります - 全的に、私がその言葉を使えるならば、無意識的です。 それは、意図的な過程ではありません。 それで、放っておきましょう。 私たちは、これに、たくさんの時間を過ごせます- 一時間かもっと、 丸一日、あなたの全人生を、これを見出すために、です。
1:16:03 また私たちは、空間について、話をすべきです。 なぜなら、冥想はそれであるからです。 空間 - 私たちは、頭脳に空間を持ちません。 あなたは、気づかれたことがありますか - 空間がない。 二つの格闘の間、二つの思考の間に、空間があります。 しかし、やはり、思考の範囲の中など、です。 空間は何でしょうか。 空間は、時を含んでいるのでしょうか。 または、時が、空間すべてを含んでいるのでしょうか。 私たちは時について、話をしました。 ごく手短に、それを調べてもいいですか - 10時15分近いのだけれど。 ここに引き留めたことで、後で、私を責めないでください。 時 - 私はそれを、ごく手短に表しましょう。 あなたが理解しないのなら、すみません。 時は、昨日です。 記憶すべて、出来事すべて、 けんか、不安定さすべて、 そして、長い二百五十万年の記憶。 そのすべてが、昨日です。 そして、現在は、環境です。 今、起きつつあることです。 過去すべては、境遇により、時により、出来事により、 今、修正されます。 そして、未来は修正されます。 時の中で、未来として、もう一度、形作られます。 で、過去は、現在の中で、それ自体を修正し、 未来になる。 で、時すべて、未来、現在、過去は、 今に収容されています。 同意しないでください。これは最も・・・ それは、ものすごく啓示的なことなのです。 なぜなら、それは行為を要求するからです -同意だけではない。 「はい、私は家に帰って・・・」と言い、自分の生活をつづけるのではない。 時の全体 - 未来、現在、過去は、今です。 で、行為は今、変化します。明日にではない。 「明日、私は良くなるだろう」ではない。 で、行為すべて、思考すべて、 時すべては、今なのです。 私たちはそれに入りました。それ以上は入りません。 で、空間は何でしょうか。 想像しないでください。なぜなら、そのときそれはただ、あなたの思考が、「空間はこれだ」と 想像しているからです - 「天界だ」と。 私は、とても良いジョークを語らなければなりません。いいですか?
1:19:37 質問者: どうぞ、どうぞ。
1:19:43 K: これは、たまたま地獄のことです。 あそこ、遠方には、悪魔がいます。 私は、誰をも指さしていません! 悪魔が、彼方の隅にいます - そうですね、 キリスト教の悪魔です - 二本の角と尻尾がある。 そして、二人の人々がともに、話をしています。 一人が、もう一人に対して、言います -「ここは、とても熱いな。 地獄は、とても熱い。」もう一人は、言います - 「ああ、とても熱い。 でも、からっとした暑さだ」と。 ジョークにならない?おかしな人たちだ。 よろしいです。 私は、たくさんジョークを持っています。 私は持ち込めませんが。
1:20:36 で、空間は何でしょうか。 もし空間が時を含んでいるなら、それは空間ではありません。 それは、周囲を囲い込まれて、制限されています。 で、頭脳は、時から自由でありうるでしょう。 これは、重要な、無量の問いなのです。 あなたたちは、それを推し量るように見えません。 もし生が、すべての生が、今に含まれているなら、 それは、どういう意味かが、分かりますか。 すべての人間はあなたです。 すべての人間が、です。なぜなら、あなたは苦しむ、彼は苦しむからです - 心配、痛み、などです。 彼の意識は、あなたです。 あなたの意識は、あなたの存在は、彼です。 あなたと私は、ありません -空間を制限するものは、です。 で、時に、終わりはあるのでしょうか。 時計には、ではない。 それは、ねじを巻くし、止まります。 時の動き全体に、です。 時は動きです。一連の出来事、動きです。 思考は、一連の動きです。それで、時は思考です。 で、私たちは訊ねています。 もし空間が時を含んでいるなら - 昨日、明日等を、です -それは、空間ではありません。 で、時に、終わりはあるのでしょうか。 それはこういう意味です -思考に、終わりはあるのでしょうか。 で、それはこういう意味です -知識に、終わりはあるのでしょうか。 で、経験に、終わりはあるのでしょうか。 それは、全的な自由です。 そして、これが冥想です。 岸に座って、見つめるのではない。 それはすべて、あまりに子どもっぽい。 これは、知能だけでなく、洞察をも、大変多く 要求します - どうか、その(洞察という)言葉を、二度と使わないでください。 このすべてへの洞察、です。 物理学者、芸術家、 画家、詩人などは、制限された洞察を、持っています。 制限された、小さいものを、です。 私たちは、時のない洞察について、話しています。 で、これが冥想です。 これが宗教です。これが生きる道です -あなたが望むなら、余生をとおして、です。