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RV83S1 - なぜあなたは、自分の子どもたちを教育しているのか home
セミナー会合 第1回
インド、リシ・ヴァレー
1983年11月24日


0:20 K: もし提案してもいいなら、私が しばらくの間、話しましょう。 おそらく、私が話をした後で、 あなたたちは、議論をするか、 質問をしてくださるでしょう。 それで、だいじょうぶですか。
0:37 それを問い、疑い、 バラバラに引き裂く。 議論をとおして、それに 徹底的に入りましょう - あなたがそうして くださるなら、です。 まず第一に、 私たちはなぜ自分の子どもたちを 教育するのかと、思われます。 世界が何であるかとか、世界が何に なりつつあるかとかを、考慮すると - ますます腐敗し、退廃し、 様々な民族性へ 砕けています - 部族的な戦争と、戦争のための 準備が、世界中で、です。 あらゆる種類の軍備の 増強、核兵器、 そして、人の破壊的な 本性全体です。 暴力的で、腐敗し、 残忍であり、 時折の慈しみの閃きを ともなう。 これが、世界が 何であるのか、です。 私たちの一人一人が 作ってきた社会です。 2:33 社会は、何か外来の、異国風の 人々により組み立てられていない - この地上に生きている、あらゆる 人間により、組み立てられている。 私たちが、この社会を 創り出してきました。 私たちはとうてい、その社会を 変化させられません - すなわち、非道徳的で、 非倫理的であり、 断片化しているものを、です。 世界中の私たち人間が、あの社会を 創り出してきたのです。 私たちは、自分たちの学生、 子どもや孫たちを、多かれ少なかれ、 社会が定めた様式に 順応するよう、教育しています。 彼らは、兵士、船員、 ビジネスマン、 科学者、心理学者になるか、 あるいは、或る種の狂った僧侶、 修道士などになります。
4:00 私たちの教育は、人間行為の 断片化を、もたらしつつあります。 そして問います - 私たちは そうしなければなりません - なぜ私たちは、自分の 子どもたちを、教育しますか。 そのすべての意味は 何ですか。 修士や博士になることの 意味は、何ですか - 科学者や哲学者やビジネスマン (になること)や、 或る種の宗教的な、ロマンチックな、 感傷的な、理想主義的な人間になることと、 そして、彼らが溶け込まなくては いけない世界の(意味は)、です。 それが、私たちが自分たちの 教育があってほしいものですか。 で、お訊きしていいなら - お訊きしなければなりませんが - これらは、私たちを どこへ導いていますか。 ビジネスマンや科学者になる ことは、何になりますか - 人間たちがなろうとしている、 凡庸に終わってしまおうとして いるのを、ご存じのすべて、です。 5:54 自らは、何かの経歴で 優秀であるかもしれません - 偉大な科学者、偉大な哲学者や 優秀な数学者ですが、 自分の私生活は きわめて凡庸です。 凡庸さ(ミーディオクリティ) というその言葉の根本的な意味は、 丘を途中まで 登っていくことです - けっして、 あの丘の頂上へ行きません。 いいですか。 それが、あの言葉「凡庸」(ミーディ オーカー)の根本の意味です。 私たちは、世界中の学生たちを 凡庸な人間へ、変えつつあります。 彼らは、優秀な学位、優秀な地位、 威信を、持つかもしれませんが、 彼らの日常生活は、葛藤、 悲惨、不確実さなどです。 これが、私たちの生です。
7:28 自らは訊ねます - それらの意味は、何ですか。 確かに、人間たちは、 この国でだけではなく、 世界中で、 どこへ行こうとも、 彼らは、安全を 探し求めています - 物理的な安全だけではなく、 心理的、内的な安全をも、です。 各々の人物、 各々のいわゆる個人が、 この混沌の世界、ほぼ狂気の 世界の中で、格闘しています - 或る種の安全を 見つけるために、です。 宗教的な安全、 家族での安全、 経歴での安全を、です。 しかし、衝動は、或る種の安全を 見つけること、安心であること、 或る種の保護を 持つことです。 まさにこの格闘、 いわゆる個人の格闘こそが、 世界で見られるように、 世界を 破壊しつつあります。 9:15 これは事実です。 各々の民族、 各々の共同体、各々の家族、 各々の個人が、安全を 探し求めています - 他の個人たちと対立して、 反対して、です。 で、いつも、 この競争、暴力、 果てしなく続く格闘と 葛藤が、あります - 生まれた瞬間から、 死ぬまで、です。 またもや、これは、 取消不可能な事実です。 自分の生を、何も先入観なく、 間近で検討するなら、 これが、私たちの 日々の道です。 終わりなき葛藤です。
10:30 そして、私たちは 教育しています - 学校で、専門校で、 大学などで、 大地について、全世界について、 大いに知識を持つように、です。 見たところ - あなたが、これを聞いて くださることを、望みますが - 見たところ、知識は、人を 救いつつありません。 私たちは、知識を蓄積してきました - 歴史的に、科学的に、です。 ビジネスの世界での知識、 などです。 私たちは、ものすごい知識を 持っています。 その知識は、いつも 制限されているし、 その本性からして、いつも 制限されるでしょう。 知識は、広大な経験から 出てきたものです - 百万か、二百万年か、 四百万年か・・・ 12:03 何千、何万年の (経験から)、です。 人は、経験してきて、 知識を集めてきました。 その知識、その経験は、 いつも制限されています。 何についても、完全な知識は ないし、けっしてありえません。 私たちは、独断的に なっていません。 私たちは、このとおりだと 言っていません。 それは事実です。 科学者たちを、 ご覧ください - 彼らがいかに知識を集めて、付け加え、 付け加えているのかを、です。 過去二百年に、 ガリレオから今まで、 人は、ものすごい知識を、 自然について蓄積してきました - 物質、天体物理学 などについて、です。 仮説、経験に基づいて、 試してみて、付け加えて、 そして、科学の累積的な 過程すべて、です。 13:12 その知識は、 制限されています。 またビジネスの知識も、です。 あらゆる種類の知識は いつも、制限されています。 あなたは、それに不同意 なさるかもしれませんが、 自らが、かなり間近で それを見つめるなら、 知識は、経験に 基づいているし、 経験は 制限されています。 で、経験、知識は、頭脳の中に 記憶として蓄えられて、 その記憶は、制限されているし、 思考もまたそうです。 思考は、制限されています。 見たところ、それが、私たちが 持っているたった一つの道具です。 それは世界に、荒廃を創り出してきました - 私は、その言葉を使っていいですか。
14:34 思考は、大聖堂、 偉大な寺院、神殿、 モスクを 創り出してきました。 思考は、それらの中にある物事 すべてを、創り出してきました。 いいですか? 思考は、核爆弾を 創り出してきました。 思考は、とてつもない医療、 外科手術を、もたらしてきました - 超高速の通信を、です。 思考は、コンピューターを 組み立ててきました - 私たちは、コンピューターの 本性全体には、入らないでしょう。 で、一方で思考は、とてつもない テクノロジーの前進を、 創り出してきました。 そしてまた、 戦争をも、です。 それは、民族性を 創り出してきました - それは、 栄達した部族主義です。 この思考はまた、神を 創り出してきました。 あなたは、これらを 受け入れますか。 16:25 思考は、私たちの 互いとの関係において - 親密でも、 そうでなくても - 私たちの関係に、分割を もたらしつつあります。 これらはすべて、 事実です - 語り手の 個人的な意見や 評価や判断ではありません。 私たちは、事実を 見つめています。 事実とは、起きてきたことか、 起きつつあることです。 私たちの教育は、 それが 西洋式の教育であれ、 いわゆる東洋のであれ - そういうものがあるなら、です - 人間たちを、とてつもなく 些細にしつつあります。 人は、断片化しています。 なぜなら、思考は、その本性こそに おいて、分割的であるからです。 それで、私たちは、自分の学生、 自分の子どもたちを、 何であるように 教育していますか。 18:22 私たちのようであるように、 同じ古い様式に 従うように、ですか。 共産主義の世界、 全体主義の世界は、 歴史的な判断と、彼ら自身の 特有な結論に沿って、 共産主義者たちは、 「環境を制御しろ。 すると、あなたは、人を変化 させるだろう」と言います。 それが、彼らの 教説の一つです。 彼らは、人間の思考を 制御しようとしてきました - 破滅的な結果を ともなって、です。 いわゆる民主主義の世界は、 その理想すべてをもって、 他方へ対立しています。 で、世界は、イデオロギーへ、 理想へ、分割されています - 共産主義、 宗教的なもの、 民主主義的なもの、 独裁制へ、です。 で、理想、 イデオロギーは、世界を 砕いてしまいつつあります。 20:04 キリスト教の信仰は、 その教義と儀式すべてをもって、 そして、ヒンドゥー教、仏教、イスラム 世界は、すべてこれに基づいています - 信仰、信念、 イデオロギーと書物に、です。 それらは、すべて 神聖と呼ばれています。 なぜなのか、私は知りませんが、 それらは、神聖と呼ばれています。 で、世界は、こうです。 またもや、これは、語り手の 先入観ではありません。 これらは事実です。 あなたがそれを好きでも、好きで なくても、これらは事実です。 私たちは、 成人した人々です。 自分の子どもたちに対して、こうも とてつもない権威を、帯びています。
21:19 先日、私たちが カリフォルニアにいたとき、 私たちの前の車は、バンパーに ステッカーを貼っていました。 それが何であったかを、 ご存じですか。 あのステッカーには、「すべての 権威を問え」と言われていました。 バンパーに それを見ることは - カリフォルニアで、ほんの 一ヶ月半前のことですが - とてつもないことです。 ここでは、伝統、権威が、 ものすごい役割を、果たします。 誰も問いません。 誰も 政治的な権威を、疑いません - 宗教的な権威、どの、 いわゆる宗教書の権威をも、 親の権威を、です。 すみません! 私たち自身の知識の権威を (問わないの)です。 で、私たちの精神は、むしろ私たち の頭脳は、条件づけられています。 西洋において、条件づけ られているだけではない - 彼らの特定の文化に沿って、 彼らの環境、彼らの宗教 などに沿って、 彼らの文学によって、です。 この国でもまた、頭脳は条件づけられて います - ヒンドゥー教徒として、です。 23:24 彼らは、社会的構造の様々な 範疇に、所属しています。 宗教により、条件づけられています - 宗教の権威により、伝統により、 環境により、自分が食べる食べ物 と衣服などによって、です。 で、私たちの頭脳は、 条件づけられています - それは事実です - 知識によって、です。 そして、訊ねます - このすべてのすばらしい 教育は、何になりますか。 自分が親であるなら - あなたは そうであるにちがいありません - なぜあなたは、自分の子どもを 教育していますか。 これらに 順応するように、ですか。 果てしない葛藤の生を 送るように、ですか。 もしあなたが、「それが 人の本性である」と言うなら - 「人は格闘 しなければならない。 格闘をとおして、あなたは前進する」 と - それは、全くの戯言です。 25:06 あなたは、樹々は光へ 向かって格闘する、と言います。 しかし、私たち人間は、この 不幸な大地に、生きてきましたが、 それを、私たちはゆっくりと、 気をつけて、破壊しつつあります。 私たちは、自分の頭脳を 使うと考えられています - 動物より、もう少し 智恵がある、と。 私たちは、 自分たちの頭脳を使って - 私たちがそもそも、それらを 使うとして、ですが - この状態に、現在の状態に 到ったのです。 戦争、葛藤、不幸せ、 心配に、です。 恐れに虐げられ、 楽しみを追求し、 悲しみの重荷 - これが、私たちの生です。 それには、向き合いたくない かもしれません。 むしろそれを忌避するかもしれません が、それはそこにあります - 永続的な傷のように、 病気のように、です。 26:46 私たちは、それが慣習に なったのです。 私たちは、何をも堪えます。 特に、この国では、です。 どの種類の政治も、 どの種類の腐敗、 冷淡さも・ ・・そうね、その他すべて、 です。あなたはまわりに、それらを見ます。 で、私たちは、同じ点に 戻ってきます。 私たちは、何のために 彼らを教育していますか。 彼らは試験に通ります。 知識を取得します - 特定の分野で、です。 就職します。 親たちは、それに興味を 持っているだけです。 就職しろ、結婚しろ、 安全であれ、と。 全然放置されている世界 全体が、あります - 世界、すなわち、 心理的な領域、 内的な生を、あなたは 全然放置します。 あなたは彼らに、とてつも ない情報を、詰め込みます - 物質について、物理学 などなどについて、ですが、 人間の心理で進んでいることへ、 けっして注意を、払いません。 28:51 私たちは、大変尊敬を込めて お訊きしています - 私たちは、人の発達全体に 関心を持っています。 全包括的な接近です。 一面的な接近、ではない。 人間存在の養成全体に 関心を持っています。
29:28 科学者たちは、頭脳の左側と 右側があると、言っています。 頭脳の右側は、けっして 使われてこなかった。 それはある。 左側には・ ・・ その他すべて、です。 またもや、この分割が あります。 私たちは、あらゆる物事を 分割します。 男と女の間、これらの美しい 樹々と私たち自身との間に、 分割がない、 ということではないが、 私たちは、よろしければ、今訊ねている ように、訊ねたことがないのです - 頭脳全体を使うことは、 可能ですか。 その一部分だけ ではなくて、です。 生への全包括的な接近。 思考の接近ではない - それは分割的です。なぜなら、 それは、制限されているからです。 30:51 で、私たちは 訊ねています - 私たちは、自分の子どもたちを 教育できるでしょうか。 単に技術者、電気の専門家 などになるために、ではなく、 また自分自身に、きわめて 深く入るように、です。 なぜなら、あの世界は 無制限であるからです。 もし、あの世界が理解され、 生きられていないなら - 言葉は、大事ではありません。 生きられる - それは、大いなる誠実さ、 正直さを、要求します。 あの世界から、変化が、 外へもたらしえますが、 外から内へ ではありません。 それは、共産主義者がしていること です。 社会主義者がしていることです。 それが、民主主義者が していることです。 32:15 彼らは、外を変化させる ことにより、自分たちは、 人間たちの内の構造、本性を 変化させようと、望んでいます。 私たちは、反対のことを 言っています。 すなわち、生の深さ、美しさ、 善さなどを、理解することです。 内的に、私たちの関係において、 私たちが何であるかを理解すること - 見守ることにより、分析なく、 深く深く透徹することによって、です。 それは、きわめて困難になります。 私はそれらに、入らないでしょう。
33:06 手短に、分析は、分析者を 含意しています。 分析者は、彼が分析している ものより、異なっていますか。 もちろん、 異なっていません。 よろしいですか。 分析者は思考の部分です。 分析されるものもまた、 思考の部分です。 で、彼は、自分自身とゲームを やっています - いつの時も、です。 それは、当面の間、 論点ではありません。 私たちは、分析者は分析されるもの であると、言っています。 観察者、 目撃する者は、観察されるものです。 彼が目撃しつつあるものです。 二つの間に、分割は ありません。 なぜなら、現在は、過去と 未来のどちらでもあるからです。 すみません。それで私たちは、 全然別の方向へ、導かれます。
34:15 で、私たちの子どもを、 この学校と この学校に連携した 他の学校の学生たちを、 教育することは、 可能ですか - 生への全包括的な接近を もたらすように、です。 それは、慈しみ、愛を 要求します。 その言葉で 退屈しないでください。 あの感じがそもそも存在するのか どうかを、訊ねます - 私たちは実際に、自分たちの子どもを 愛しているのかどうかを、です。 愛です。 支配するのではない。彼らに 何をすべきかを、言うのではない。 それは、少し後に来ますが、 私たちは本当に、自分たちの 子どもを、愛していますか。 愛は、感傷性より 異なっています。 愛は、献身より 異なっています。 35:37 愛があるところ、 責任があります。 この全包括的な教育を持つことは、 大いなる慈しみを、含意しています。 愛を、です。 愛があるところ、 智恵があります。 思考のずる賢い 智恵ではありません。 いいです。 私たちは、 当分の間、終了しました。 私は三十分間、話をしてきました。 で、議論をしましょう。 あなたが、語り手が言ってきたことを バラバラに引き裂いてくださるなら、です。 問い、疑ってください。 問うことには、 芸術が、あります。 で、どうぞ、それは あなたしだいです。
36:46 質問者: 質問を してもいいですか。 あなたは、生への全包括的な接近に ついて、仰っていました - そして、頭脳の機能すべてを 使うことについて、です。 今日、私たちは頭脳を、全的に 探検してきていませんが、 それを全的に使うことは、 自発的な行為でありえますか。 頭脳の機能すべてを使うことは、 自発的な行為になりうるでしょうか。
37:19 G. ナラヤン: 頭脳の 機能すべてを使うことは、 自発的な行為に なりえますか。
37:31 K: 私たちは、自発的に 何かをしますか。 または、それは、 いつも強制的ですか。 または、私たちの行為の 裏には、動機がありますか。 自然発生的で、自由な 行為が、ありますか。 私はお訊きしています。 または、私たちの行為は いつも、褒賞と処罰により 条件づけられていますか。 あなたは、「自発的」という 言葉を、使われました。 ですね? それは、 どういう意味ですか。 私は、自発的に志願 して、軍隊へ入ります。 私は、自発的に 志願して、自由に、 ビジネスマンや 科学者などになります。 あの自発的な衝動の裏には、 動機が、ありませんか。 動機は、動きを 意味しています。 その動きは、すでに 方向を、定めたのです。 で、自発的な行為は ありません。 で、頭脳は、自らが観察するかぎり・ ・・ 私は頭脳の専門家ではありません。 どうぞ、理解してください。 私たちは、大変多くの頭脳の 専門家へ、話してきました。 39:23 彼らは、頭脳が条件づけられている ことまでは、行きます - その条件づけは、恐れに、 褒賞と処罰に、基づいています。 その頭脳は、 こうも条件づけられていて、 けっして自由ではありえません。 あれらの哲学者、 実存主義者などが、います - 彼らは、条件づけられた頭脳はけっして 条件づけを解けないと、言います。 あなたは、それを修正できる、 あなたは、牢獄をもっと美しくできる、 もっと多くのトイレと もっと良い食べ物を持てるが、 あの条件づけは、いつも 存在するだろう、と。 私たちは、それを 問うています。 私たちは、それは 可能であると、言っています - すべての条件づけより 全的に自由であることが、です。 あなたがそれを問うこと、それが 可能かどうかを見出すことは、正しい。 40:59 しかし、他の一人から見出すことは ゲームをすることに、似ています。 もしもあなたが、自分自身、 それに入ったなら - 自分がいかに条件づけ られているのかと、 それの原因などなどを、 見出すのです - そのすべてが、大変多くの 内的な探究を、要求します。 で、私たちは、自由な 人間ではありません。 それは、こうも明白です。 私たちは、自分の環境により、 社会により、自分の宗教により、 自分の文学などにより、 条件づけられています。
41:49 ヒララル教授: 私たちが、 自分の子どもたちを教育したい、 生の全包括的な眺めを 持ちたいと、言うとき、 それは、観念にならないですか - 今日の 私たちなるものからの逃避に、です。 そして、観念の問題すべてを 創り出しませんか。
42:09 GN: 彼は言います - 全包括的な教育の観念こそが、 すぐに思考になり、 それで、「あるもの」からの 逸脱にならないか、と。
42:24 K: 理解されましたか。私が問いを 反復しなければいけませんか。 あるものからの逸脱。 全包括的な接近は、あるもの から逸脱しないのか、と 彼は訊ねます。 
42:38 GN: いいえ。 彼が言うのは、こうです - 全包括的な接近は、 すぐに観念になり、 で、それは逸脱する・・・
42:46 K: ええ。 観念とは何ですか。 あなたたちは、熟達者です。 観念とは何ですか。 元来の意味、ギリシャ語とラテン語 などからの語源的な意味は、 観念(アイディア)は、 観察すること、見ること、 明らかに知覚することを、 意味しています。 その知覚から、観念と 呼ばれる抽象物を、作ります。 あの抽象物は、あるものより 実在性を持ちます。 よろしいですか。 いいですか。 で、あなたは、「全包括的」 という言葉を、使うとき、 それを観念にできますが、 私はこう言います - 全包括的な生を生きるとは、 どういう意味かを 見出すことは、 初めに「あるもの」を探究する こと、そして、「あるもの」は 根本的に変化させられるのか どうかを、(探究すること)です。 で、それは、観念ではありません。 それは、生き方です。 しかし、「全包括的」と いう言葉が、聞こえて、 あなたは、それを 観念に、抽象物にでき、 その抽象物に沿って 生きられます。 ゆえに、それは分割的に なります。いいですか?
44:40 HL: あなたは、思考について 拡張されました。
44:46 K: どうぞ、座って くださいますか。よろしいですか。 あなたは、何を 仰っていましたか。
44:53 HL: あの問いは、 完了しましたか。
44:58 GN: 彼は、あなたがあの答えを完了させた のかどうかを、知りたいと思います。
45:02 HL: あなたは、思考に ついて、拡張してきました。 思考は、こうも多くの 物事の根本原因です。 思考は、寺院、神殿を創り出してきました。 思考は、遺跡を創り出してきました。 思考は、モスクを創り出してきました。 思考は、民族性を創り出してきました。 それは、栄達した 部族主義です。 あの流れの中に、思考は 運命づけられてきました。 これは正確ですか。
45:31 K: 私はそれを、非難 してきていません。
45:34 HL: そのとき私たちは、これら すべての物事を発見したとき、 思考は、動機的な力です - 尊い観念のためか、 邪な観念のためでも、です。 これは正確ですか。
45:51 K: 言ってもいいですか。まず第一に、 私たちは思考を非難してきていません。 私たちは、思考は、私たちが今持っている たった一つの道具であると、言いました。 その思考は、 制限されています。 ゆえに、何でもそれがする ことは、断片的です。 それは、一方で、 とてつもない医療、通信、 コンピューターなどを 創り出します。 他方で、それは 戦争を、創り出します - それが、他方を破壊します。 いいですか。 で、それが、見たところ、私たちが 持っているたった一つの道具であり、 その道具は世界に、こうもひどい 効果を、もたらしつつあるので、 私たちは、別の道具があるのかどうかを 見出そうとすべきではないですか - それは、 直観ではありません。 思考により触れられていない 別の道具が、ありますか。
47:14 HL: そのとき私たちは、 何か他の機関の教示に、 依存しなくてはいけません。 それを見出すには、私たちは、他の 誰かに依存しなくてはいけません。
47:23 K: いいえ、いいえ。
47:24 HL: 私たちに、自分たちの真理を語り、 それを悟らせてもらうように、です。
47:29 K: 私たちは、ほとんど あらゆる物事のために、 他の人たちに 依存します。 ですね? 私は、自分は、牛乳配達人に、郵便 配達人に、医師に、政府に依存します。 自分の妻や夫に 依存します。 自分は、あらゆる物事に 依存します。 依存をとおして、執着を 成長させます。 ですね? 仮に、私が結婚している、 とします。 私は妻に依存します。 よろしいですか。 そのとおりですか。 そうでないですか。 私は、神聖な雌牛を 踏みつけていますか。 私は、妻に依存します。 で、 次第に私は、彼女に執着します。 いいですか。 これは だいじょうぶですか。 執着をとおして、嫉妬、 心配、恐れが、成長します。 いいえ?  いいえ? あなたたちは、これらを ご存じのはずです! で、愛は執着ですか。 それを探究して いただけるでしょうか。
49:15 HL: それは、左半球に 所属する思考過程が、 こうも多くの雑音を発生させる、 ということですか。 私たちが導いてもらうのを 求めている本当の信号を 見る機会を 与えていない、と。 そちらは、右半球に 所属していそうで、 左側の雑音が 問題すべてをやっていて・・・
49:37 K: 問題が生じます - あの雑音は静寂で ありうるのかどうか、です。 頭脳は、自分のリズム、 自然なリズムを持っています - 思考により賦課されつつある リズムではありません - そちらは、雑音を立てます。 あの雑音は、終わりえますか。 それは、全く違った問題です。
50:17 HL: あなたのは、シリーズの 中での、初めの講話です - それは、「教育における 価値」の問いを、取り扱うと 思われています。 私は思うのですが、 すべての教育の目的、 少なくとも、述べられた すべての教育の目的は、 ソヴィエトの 学校教育を含めて、 統合された人物を 創り出すことです。 私は先日、本を 読んでいました - 『ソヴィエトの 学校教育の問題』ですが、 そこでは、ソヴィエトの 学校教育の目的が、 はっきりと 述べられています。 さて、問いは、学校教育の目的が 何であるのか、ではありません。 それらは一般的に、自分自身で 考えられる、統合されている個人を 創り出すことであることが、 認定されています。 さて、これが 正確であるなら、 そのとき、必要とされているのは、 優秀さへの要求です。 そのときだけ、或る人物は 本当に、自分自身で考えられます。 さて、問いは、こうです
51:43 K: ここに来てくださるでしょうか。 HL: これは価値に関係しています。 さて、優秀さへの要求が あるなら・・・
51:51 K: ここへ来て座ってください。 HL: どうぞ、ここで終了させさせてください。
51:59 K: みなさんは、ここからのほうが あなたの声が、よく聞こえます。 私は、玉座が他の人たちに 占有されるのが、うれしいです。 来て、座ってください。
52:12 質問者: 始まりから それを聞きましょう。
52:17 HL: 私が理解するかぎり、 すべての教育の 述べられた目的 - あらゆるところの責任ある 人々が述べたのは、 統合された個人、すなわち、 自分自身で考えられる人を、 創り出すことです。 これはまた、ソヴィエトの学校教育 の目的をも、含んでいます。 それは、 異なる接近の問いです。 所々、文化文化で 違っている知覚の問いです。 私たちはここで、何か あの知覚を創り出す道を 探していると、 私は思います - すなわち、自分自身で考えられる 個人へ、真につながるものを、です。 53:10 これは、私たちの脈絡では、 私が分かるかぎり、 優秀さへの要求に、関係しています。 教師の側に、だけではなく、 教師が、学生たちから優秀さをどう 要求しようとするのかに、です。 私が見るところ、 困難が生じます - 優秀さとその追求は、本質的に、 判断を離れている、と。 私は、優秀さは価値を離れている とさえ、述べるでしょうね。 もしこれが、教師の 知覚であるなら、 彼が本当に、真に それを知覚するなら、 おそらく彼は学生へ、伝統の 役割を、伝えられるでしょう - 価値、社会的価値の役割と、彼らの 生におけるそれらの真の所を、です。 54:17 困難は、こうです - 優秀さは 価値を離れているけれども、 子どもが必要とする 生における価値を、 教師は、どう伝えることに なりますか - 子どもがしなくてはいけない 何百の物事において、です。 私は、これが、あなたに議論して いただきたい点であると、思います。
54:52 K: あなたたちは、 分かち合いたいですか。 ここに座ってください。 後生ですから、私を一人に しておかないでください。 一番目に私は、私たちがそもそも 個々人であるのかどうかを、問います。 私はまた、価値の概念 全体をも、問います。 私たちは、個々人ですか。 私たちは、 分離した実体ですか。 もちろん、物理的に それは理解されますが、 内的に、心理的に、私たちは 分離していますか。 または、それは 幻影ですか。
55:44 HL: 問いは、こうです - 内的に、心理的に、私たちは 分離していませんが、 問いは、通常の教師は どうやって・・・
55:56 K: 私たちは、そこへ 行くでしょう。
55:58 HL: 彼は、子どもたちとの相互作用に おいて、どう前進することになりますか。 これが、 事態の核心なんですね。
56:10 K: 教育者の機能は 何ですか。 あなたは、同じことを 訊ねています。いいですね?
56:17 HL: はい。私はこう言う でしょう - 教育者の機能は、 どうにか、統合された人物を 創り出すのを、助けることです。 これは、またもや、 堂々巡りです。
56:28 K: いいえ。いいえ。 ちょっとお待ちください。 あなたは、教師です。 私は、あなたの学生です。 あなたは、私が全的にそうであるのを どう助けようとしていますか - 私の生の全体性を 理解するように、です。 それが、統合、 誠実さなどです。 あなたが そうでないなら、 あなたが、それらの本性を理解し、 それを生きているのでないなら、 あなたがそれについて、私へ 話すのが、何になりますか。 それでは、何の違いも 出ないでしょう。
57:09 HL: けれども、 起きつつあることは、 全面的に無意味 ではないでしょうね。
57:17 K: それはもっと・・・ HL: ご覧ください。 私は、大学の教師です。 少年たちは、様々な問題を もって、私たちへ来ます。 必ずしも、科学的な問題 (をもって)ではない。 一定の種類の関係が 確立されます。 私は、その関係により 縛られたと、感じます。 私は、その関係を 価値づけます。 子どもたちが私へ来るなら、 私たちは議論します。 私は、結果が何であるかを 知りません。 それが、必要なものすべてですか。
57:55 K: いいえ。
57:57 HL: 私たちは、慈しみの 中で、議論します。 彼らは私へ来ます。 なぜなら、たぶん 彼らは私を信用するからです。 私は彼らに話します。 なぜなら、私は彼らへ 慈しみを持っているから です。 私たちは議論します。 私は知りません。 何が正しいか、何が間違っているかを 見出すことは、必要ですか。
58:14 K: それは必要でしょうね。 HL: どのように、ですか。 私の考え方にとって・・・ 
58:30 K: あなたはお訊きになりましたね。 あなたは、質問をされました - 何が正しいのか、とね。 何が正しいのかを どう見出しますか。 私は探究しようとしています。 どう見出しますか。 それは、選択に 基づいていますか。 これは正しい。 これは 間違っている、と。 消えました。
59:10 質問者: マイクが・・・ ご迷惑をかけて、すみません。
59:16 K: 正しいことは、 間違ったことの対極ですか。 善いものは、 悪いものの対極ですか。 HL: いいえ。 
59:31 K: いいえ。 ちょっとお待ちください。
59:33 で、正しいことは、間違った ことに、全然関係していません。 ゆっくり行ってください。 いいですか?
59:51 よろしいですか? HL: これは理解されます。
59:55 K: ああ、ああ! 私はそれを問い ます。それは理解されていません。
1:00:01 HL: そういうわけで、私は 申し上げたのです - 何が正しいかと間違っているかを見出す ことは、必要なのかどうかを、です。
1:00:07 K: 私たちは今、 それをしています。
1:00:10 HL: しかし、子どもが来るとき・・・ K: いいえ。お待ちください。
1:00:13 初めに、あなたと私は、この事柄に ついて、明らかでありましょう。 そのとき、私たちは 子どもについて、話せます。 正しい行為は、間違った行為から 出てきたものですか。 HL: いいえ。 
1:00:28 K: で、 それらは関係していない?
1:00:29 HL: はい。
1:00:31 K: もしそれが、あなたと 私との間で、明らかであるなら
1:00:33 - すなわち、何も 対極はない。 ただ、あるものだけです。 さて、善さは、悪いの対極ではない、 愛は、憎しみの対極ではない、 などです。 いいですか。 それが、あなたと私との 間で、明らかであるなら、 そのとき私は、あなたの学生です。 私は、あなたへ来ます。 私は、正しい行為が何であるかを 見出したいのです。 ですね? その正しい行為は、選択から 出てきたものですか。 選択 - 私はこれを すべきか、あれかを、か。 いいですか。  選択がある ところ、混乱があります。 なぜなら、私は 知らないからです。 これはいいですか。 同意されますか。
1:01:51 HL: これはだいじょうぶですが、 子どもが私へ来るまでに・・・
1:01:58 K: いいえ。私は あなたにしてほしい・・・ 当面、子どもなんか 忘れてください。 あなたと私は、それに ついて、話し合っています。 正しい行為は、選択の中から 生まれていますか。 HL: いいえ。
1:02:13 K: いいえ。
1:02:14 しかし、私は、なぜ選択が存在する のかを、理解しなければなりません。
1:02:21 HL: 選択は存在しなくてはいけません。 なぜなら、様々な機能があるからです。
1:02:26 K: いいえ、いいえ。
1:02:28 HL: 機能志向の 生の様相が、あります。 それは、意識的な選択が なされるのを、必要とします。
1:02:36 K: なぜですか。 なぜ私は、選択しなくては いけませんか。 どうぞ、私に 説明してください - なぜ私は、この経歴とあの経歴の間で 選択しなくてはいけないのかを、です。 それは、私の親たちに依存しますか。 それは、私の動機に依存しますか。 それは、富への私の欲望 などなどなどに、依存しますか - 権力、地位、威信、 身分への(欲望に)です。
1:03:06 HL: 同時に、幾つかの範囲では、 選択がされなくてはいけませんね。
1:03:12 K: 私はそれを問います。 私は、この布とあのものとの 間で、選択します。
1:03:19 HL: 何でもあなたが選択する ことは、選択になります。
1:03:23 それは偶然的では ありません。 K: 待って。私たちは、物理的な ことについて、話していますか。
1:03:26 HL: それが、私が 言ったことです - 機能です。
1:03:29 K: ああ、私は 誤解しました。
1:03:30 HL: 日々の機能において、しなくては いけない選択が、あります。 それは必要です。 
1:03:36 K: ええ、 この布とあれとの間で、です。
1:03:38 HL: それが、 私が言った意味です。 それが日々の機能であるとき、何か 選択が、されなくてはいけません。 それは必要です。
1:03:46 K:ええ。このひどい車と あのひどい車との間で、です。
1:03:52 HL: でも、この種類の選択は、 他の範囲へもまた持ち込まれます。
1:03:56 K: それが、私が異議を 唱えていることです。
1:03:59 HL: あなたがそれに 異議を唱えるのは、正しい。 論点はこうです - それを どう子どもへ伝えますか。
1:04:07 K: 私は、自分がそれを理解した 前に、それを伝えたくありません。 私はどうして、何か自分が理解 していないことを、伝えられますか。
1:04:14 HL: が、ここ、学校には 教師たちが、います。 彼らは、あなたのような 聖者ではありません。
1:04:21 K: ああ、いいえ!
1:04:25 HL: 彼らはたぶん、 通常の人間です。 あたりに道を 見つけようとしています。
1:04:31 K: 私を壇上へ 祭り上げないでください。
1:04:34 HL: でも、あなたは たまたまそうであるし、 あなたを降ろすために、私が できることは、何もありません。
1:04:41 K: 私は、お訊き しているだけです。 物質的な事柄には、 選択がありますね。 しかし、あの同じ動きは、 心理的世界の中へ、拡張されます。 それが、私が異議を 唱えているところです。 HL: 異議を唱えられるのは、 正しいです。 論点は、ですね、 これは、見たところ、或る種類 の自然な種類の傾向です - そこでは、頭脳は、それがすべての 範囲へ持ち込まれるべきだと、感じます。 おそらくそれは、するには 最も安全なことでしょう。 それは起きるのです。 これをどう伝えますか。 これが困難です。
1:05:28 K: それは 相当に単純です。
1:05:31 GN: この脈絡で、何かを お訊きしてもいいですか。 彼は、思考は制限された機能を 持っていると、言っていました - が、思考が どうにか引き取るし、 自らがそのための基礎を 持たないことを、します。 そしてあなたは、別の 道具があると、仰いました。
1:05:56 K: 私は、「別の道具が あるか」と、言いました。
1:05:59 GN: 別の道具が あるのなら、 違った道具の理解へつながる 究明の本性とは、何ですか。 それが道具であるなら、です。
1:06:14 K: それが、彼が訊ねていることですか。
1:06:17 HL: 私の論点は関係しています が、少し違っています。 私は、例を お示ししましょう 二年前、私がバンガロール 学校にいたとき、 文化のクラスが ありました。 一つのクラスには、幾人か 学生がいましたが、 教師の一人は - 議論がありました - 教師の一人は、思考は無意味だ との発言を、しました。 さて、問いはこうです - 教師の側に必要とされる 敏感さが、大量にあります - 子ども、学生へ、 たぶん年長の学生へも、 思考が果たせる甚大に重要な役割、 役立つ役割を、伝えるために、です。 これは、強調されなくてはならない だろうと、私は思います - もっと、です。 こうも多くの物事が、教えられつつある とき、それは自動的に強調されます - 数学、理科、言語、 スポーツ、です。
1:07:28 GN: それはきわめて単純だと思います。 思考と選択は、連係していますね。 あなたは、機能的な水準に 選択があると、仰っています。 それは、相当に単純です。 より深い問いは、 こうです - 思考が引き取りつつあるとき、 それが妥当な機能を持たないところ、 違った道具を見つけて、 どう接近しますか。 なぜなら、私たちは、この道具に 填まり込んでいるからです。
1:07:55 HL: この瞬間に、私は 道具について、考えていません。 この瞬間に、私が 考えているのは、ですね、 子どもたちを取り扱わなくては いけない教師たちが、一組いるんです - 時々、毎日、学生たちを 取り扱って、です。 彼は、学生たちとの相互作用へ どう取りかかりますか - 毎日、何千もの 状況において、です。 それは、大きな鋭敏さを必要とします - 名目上の水準で相互作用するにも、です。
1:08:31 K: で、私たちは 何をしましょうか。
1:08:35 HL: 何が役割ですか。それは、 価値の問いを、持ち込みます。 なぜなら、背景が そこにあるなら、 そして、自らが あの背景より作動するなら、 私たちが話している 種類のことですが、 それは、だいじょうぶですが、 それは、ものすごい量の気づきと 敏感さを、必要とします。
1:09:03 K: そうなんです。 あなたはどうやって・・・
1:09:06 HL: 教師は、この価値の問いに どう取り組みますか。
1:09:12 K: さて、あなたは、 敏感さの問いを、出されました。 敏感であるとは、 どういう意味ですか。 一歩一歩、行きましょう。 または、それは退屈ですか。
1:09:32 HL: それは、退屈という問いではない が、私はさらに進行したいと思います。
1:09:38 K: 進行なさってください。 HL: さらに、です。
1:09:45 K: 私はあなたの学生です。 よろしいですか。 私は、あなたへ来ます。 私はこう言います - 「先生、 全世界は価値で分割されています。 あなたは、一定種類の 価値を、持っています。 私は、一定種類の 価値を、持っています。 私は私の価値へ拘るし、あなたは あなたの価値へ拘ります。 私たちは、けっして 問いません - なぜ私たちは、そもそも 価値を持っていますか」と。
1:10:17 HL: 私は、このことを存じている だけです - 子どもにとって・・・
1:10:24 K: 私は、あなたの子どもです。
1:10:27 HL: 私は、私たちに起きた ことを、言っているだけです - 四十年前に私たちが あなたに聞いたとき、ですが。 これらは事実です - それらも また、憶えておくべきです。 私たちが聞いたとき - 私たちの三人が、です。 あなたが 1938年か、 1939年に来られたとき、 私は直接的にあなたに 聞きませんでしたが、 私の友だち二人が 聞きました。 彼らは、圧倒されました。 あれに圧倒されたので、 国際芸術の試験で一番になっていた人、 彼は、経営学修士三級を取りました。
1:11:11 質問者: でも、それは 彼の過ちではなかった!
1:11:14 HL: いいえ、どうぞ! これは効果でした。 そう言わないようにしましょう。
1:11:21 K: で、何が起きましたか。
1:11:23 HL: 他の人物は・・・ 私が示している論点は、ですね、 子どもが私へ来るなら、または、 私が子どもへ責任を持つなら、 私は彼に、価値の全体系が間違って いるとは語れない、ということです。
1:11:45 K: もちろんです。私は まったくそう言わないでしょう。
1:11:49 HL: なぜなら、さもないと、彼は全面 的にめちゃくちゃになるだろうからです。
1:11:52 K: 私は、それで 始めないでしょう。
1:11:57 HL: あなたは、どう 始めるのでしょうか。
1:11:59 K: 私は、観察するとはどういう意味かを 訊ねることから、始めるでしょう。 私は彼に、敏感であるとは どういう意味かを、訊ねるでしょう - 樹々に敏感である。 自然、岩々、それらに、です。 それは、 どういう意味ですか。 敏感であることは、関係を 持つことを、意味しています。 私は敏感であって、岩々を 見つめないかもしれません。 私は、それで 始めるでしょう。 私は、敏感であるとは どういう意味かに、入るでしょう。 さて、あなたが、貧しい女を見る とき - 無教育で、汚れています - 感じを持つとは、 どういう意味なのか - あの人間との疎通を (持つとは)、です。 1:12:51 私は、それで 始めるでしょう。 私はこう言うでしょう。 もし あなたが価値を持っているなら - すなわち、 あの女は貧しい。 ゆえに、そうね、 無視する、軽蔑する。 そのとき、その価値こそが、あなたが あの人物へ敏感であるのを、阻止します。 もしあなたが、階級意識を持ち、貴族的 であるなら、学識を持っているなら、 それは、あの女との疎通に おいて、障壁になります。 口に出さずに、です。 これは、すべて こうも明白です。 私は、それらで 始めるでしょう。
1:13:28 HL: 私が、教育における 価値のセミナーに関して、 回状をもらったとき、 私は、セミナーが どういうものなのかについて あまり明らかではありませんでした。
1:13:39 K: 私もまた 知りませんでした。
1:13:43 HL: このセミナーの視野は再定義 されなくてはいけないと、私は思います。
1:13:51 GN: どのセミナーですか。 質問者: これです。
1:13:52 GN: ああ、分かります。
1:13:53 HL: なぜなら、 優秀さへのこの要求は、
1:13:58 もし私たちが、自分自身で考えられる 個人を、創り出しているなら、 本質的にあなたは、何かそれ 自体では価値を持たないものを、 目指しているからです。 それは、価値を離れているし、 それは、判断を離れています。 あなたは、全然別種類の 要求を、しています。 あなたは、どの価値観をも 創り出そうとしていません。 ゆえに、 これら三、四日の間に、 私たちが話そうとしている ことの目的は、 定義されなくてはならないと、 思います。 K: あなたは、何かを訊ねて いましたか。 
1:14:47 質問者: 私が、ですか。
1:14:52 質問者: 思考は、これまで人たちが 使った道具であったのです。
1:14:56 あなたは、人は思考のより別に道具を 探せるのかどうかを、訊ねられました。 お訊きしてもいいですか - 人が思考を 超越したときさえも、 道具性の概念は、有効な ままなのでしょうか。 なぜなら、思考の水準でも、 あなたは、 思考者と思考は一つで、 同じであると、仰ったからです。 そのとき私たちは、別の道具を 探しているべきでしょうか。 またはむしろ、道具性の区域 全体を、超越すべきでしょうか。 そのとき、仰ったように、 行為は自発的に流れます。 そこには、道具も、 道具を使う者も、ありません。
1:15:50 K: おそらく私は、間違った言葉を 使ったのかもしれません - 「道具」と。 私たちは今、思考だけを持って います。 よろしいですか。 あれが、善いものと悪いものを どちらも創り出しつつあります。 私たちは、あの思考とともに、 ここ五万年の間、生きてきました。 私たちはやはり、 それ、思考とともに、 次の千年も、進んで いきつつあります。 今、私たちは訊ねています。 違った 知覚、違った観察がありますか - 思考により触れられて いないものが、です。 それは、自らがよく気をつけて 単に言語的にではなく、実際に 思考の本性と構造を理解しなくては いけない、という意味です。 1:17:02 徹底的にそれに入るのです - 絶対的に明らかであるように、です。 私たちが互いに話し合って いるとき、思考は必要です。 ここからそこへ行くには、 思考が必要です - 車を運転するには、手紙を書くには、どの テクノロジーのことをするにも、です。 大工の名人は、思考を 使わなくてはいけません - 木材が、どんな種類の木目 であるかを、見るには、です。 彼は、道具に気づき、知って いなければなりません。 で、これらすべての分野で、思考は 必要です。 よろしいですか。 そのとき、心理的な世界において 思考は、そもそも必要ですか。 心理的な世界は、 人間たちの間の関係です。 1:18:02 私の妻との関係において 思考は、必要ですか。 どうぞ、その質問をして ください。 それは必要ですか。 単に拒否するだけではない - それは必要でない、と。 私の妻と、または、夫や 友だちとの、 実際の関係において、です。 思考は、そこで そもそも必要ですか。 または、あの思考こそが、 彼女と私との間に 葛藤、分割を、 もたらしますか。 すなわち、思考は、彼女と私との 間に、イメージを創り出します。 そのイメージを、彼女は 私について作ってきたし、 私は彼女について 作ってきました。 それらのイメージは、私たちの 間の葛藤の原因です。 で、イメージなく 生きることは、可能ですか。 1:19:08 「はい、私は同意します」、 「それは可能ではない」と言って ただそれを落とし、 イメージを 続けていくのではない。 イメージ作りに終わることが あるのかどうかを、見る。 それが必要とする・ ・・ よろしいですか。 私はそれらに 入らないでしょう。 で、思考は、一定の方向、 一定の区域で必要ですが、 私たちは、思考は 心理的な世界において 全然不必要であると、 言っています。 それがすべてです。
1:19:44 質問者: あなたは、内面性に ついて、話しておられます。 内的な生活があるなら、それは 多くの問題を、解決するでしょう。
1:19:55 K: 私は、内的な生活、 内面性や内、という言葉を、 この意味で 使っています - それは、海の潮に 似ています。 潮は、引いていき、 満ちてきますね。 私が言っていることを 理解されますか。 潮は、私たちの反応です。 私たちが創り出してきた 世界が、あります。 いいですか。 自然の世界ではなく、 私たちが創り出してきた 社会的な世界、です。 それから、それを創り出しておいて、 私たちは、それの奴隷になります。 で、それは、満ち引きと しての行為です。 理解されますか。 その行為は、止まれますか。 私が問いを正しく表しているのか どうか、私は知りません。 私が言ったことを 理解されましたか。
1:20:54 質問者: それが止まれるのか、私たちは それを、より良い形で継続できるのか。
1:21:02 K: 私たちの生は、作用と反作用 です。行為と反応ですね。 同意なさるのでしょうか。
1:21:09 質問者: はい。
1:21:11 K: 私たちの生は、 社会的な責任と 個人の責任です。 いわゆる「個人」の責任です。 それは、潮です。 そうで ないですか。引いていき・・・ 私たちが創り出してきた社会、 そしてその社会の奴隷になること - それは、潮に似ています。 満ち引きです。 いいですか。 そこで、 私は訊ねています - 作用と反作用のあの潮は 止まられますか。 これが、必要とする・ ・・それは、 わずかな言葉だけではありません。 これは、大いなる究明を 必要とします。 なぜなら、私たちの感覚は、きわめて 速く応答するからです。 ですね? あなたは私に、私はバカだと言います。 私はきわめて速く応答します。 それは、反応、 反作用です。 または、あなたは、私に お世辞を言います。 私はすばらしい気分です。 それは反応です。 さて、お世辞と侮辱の どちらへも、反応がない。
1:22:29 質問者: 通常の状況において、私たちは それを、正しく評価できません。 私たちは、行為と反応が 止まるのを、理解できません。 私たちは両側で、生に充ちています。
1:22:39 K: はい、そうです。
1:22:41 質問者: あなたが、私たちに理解する よう、描写されている状況は・・・
1:22:44 K: いいえ。これは生です。
1:22:45 質問者: 私たちは、内的な 潮を、理解できます - あなたがこうも明らかに説明して こられた行為と反応を、ですが、 これが停止する状態を 想像することは・・・
1:23:00 K: それは想像ではありませんよ。 それは探究されなくてはいけません。 それは、想像力豊かな 過程ではありません。 私は、見出さなくては いけません - 私の教師が、「おまえは ばかだ」と言うとき、 私の反応が 何であるのかを、です。 私はそれを見守ります。 または私は、全的に無頓着です。 それは、私が鈍感だという意味です。 私は見守っています。 私は気づいて います。私は鋭敏でいます。 注意は、反応ではありません。 集中は、反応です - 私は それらに入らないでしょう。 質問者: それは、サマバーヴァ ですか。 
1:23:55 K: 何ですか。
1:23:58 私は残念ながら、どのインドの 言語をも、知りません。
1:24:04 GN: サマバーヴァは、 平等な信念を、意味しています。
1:24:09 K: そうね、あなたがサンスクリット に翻訳した瞬間、私は迷っています。 なぜなら、あなたは特有の意味を与えて いるが、私は与えていないからです。 私は、無知な人です。 質問者: 質問をしてもよろしいですか。
1:24:23 K: ちょっとお待ちください。
1:24:25 私は、これらについて どの本をも、読みません。 私は見守りました。 見守る中で、私は、基準は 世界であることを、悟ります - あるべきものや私の想像 ではなく、あるものである、と。 世界は残忍です。 その世界は、私たちのみんなにより 創り出されています。 それは事実です。 私は、自分が残忍であるのか、自分が 暴力的であるのかを、見守ります。 私が非暴力を追求する、ということ ではない - それは、ばかげています。 私は、それらに 入らないでしょう。 で、私は 見守っています。 見守る中に、価値は ありません。そのとおりです。 1:25:21 私は暴力的であるのか、あるいは、 私は暴力的でないのか、です。 「暴力」という言葉を使うと、 暴力は、きわめて複雑な過程です。 それは単に、物理的な怒りと、物理的に 誰かを傷つけることではありません。 それは、あれより はるかに複雑です。 で、鋭敏であり、 見守っている頭脳 - あなたは、先入観を持っていない ときだけ、見守られます。 あなたが、「私の国は、他のどの 国よりも、偉大だ」と言うなら、 私は、国々の含蓄が何で あるかを、見守っていません。
1:26:06 質問者: 始まりにあなたは、私たちの 教育は何になるかを、訊ねられました - 私たちの子どもたちを 教育することの意味は、です。 思考は、 私たちの智恵、思考は、 あの問いへ深く入られ、 あの問いに正しく 答えられますか。
1:26:35 K: 智恵とは何ですか。あなたは 「智恵」という言葉を、使われました。 あなたがいうその言葉は、 どういう意味ですか。
1:26:44 質問者: 私は、思考と智恵に、二つの 違った意味を、持っていました。 どちらも同じでは ありませんが、 智恵が作動するところ、 そのとき私たちは、あなたの問いへの 答えを、見つけるかもしれません。
1:27:02 K: ええ。で、あなたがいう 智恵とは、どういう意味ですか。
1:27:06 質問者: 断片的に考えないことです。 私は、それが何であるかを 言えませんが、 私は、それが何でないかを 言えます。 なぜなら、私は、智恵が何で あるかを、叙述できないからです。
1:27:19 K: あなたは、思考の智恵と 仰るのでしょうか。 質問者: いいえ。

K: ちょっとお待ちください。 コンピューターを組み立てるには - それはきわめて複雑です - 一定の智恵の性質が 必要です。 ですね? で、あなたは、思考の智恵は 智恵でないと、言っています。
1:27:45 質問者: ええ。
1:27:48 K: そのとき、あなたがいう 智恵とは、どういう意味ですか。 そうね、思考は、創り出して きました。 とてつもない能力を、 一定の「智恵」の性質を、 持っています。 それは、月へ 行ったのです。 それは、大変多くの 智恵を、必要とします。 潜水艦を建造するのは、 ものすごい智恵を、必要とします。 核爆弾を発見する - 働いて働いて、発見する。 それは、一定の智恵を 必要とします。 あなたはこう仰っています - 思考の活動すべては 一定の智恵の性質を 創り出してきましたが、 それは、あなたが話している 智恵ではない、と。 よろしいですか。
1:28:39 質問者: はい。
1:28:41 K: さて、 その智恵は - あなたは、智恵はいつも、正しく 作用すると、仰っています。 仮に、私はあの智恵を 持っていない、とします。 人間が、あの智恵を 持つことは、可能ですか。 または、それは、 理論だけですか。 理解されますか。 それはどちらですか。 それは理論ですか。 または、 あなたは、それは可能である、 自分はそれを持てると、 仰っているのか、 または、作動する智恵が ある、と。 さて、私に、どうかを 語ってください。 私は、あの智恵が何で あるかを、知りません。 私があの智恵を持つことは 可能ですか。 それが、あの問いに 含蓄されていることです。
1:29:40 質問者: あの問いがあるとき - それは可能か・・・ 教育は何になるのか、と。 あの問いがあるとき、 私たちはお互いに、観念と 構想について、議論します。 私たちはただ議論します。 私は観念を 幾つか指摘するかもしれないし、 あなたは、観念を幾つか 指摘するかもしれません。 私たちの各々がこの観念を指摘 するのは、答えに繋がりますか。 K: いいえ。確かにそうなりません。
1:30:11 質問者: そうならないでしょう。
1:30:12 質問者: で、私は私自身へ 深く入らなくてはいけません。
1:30:14 私の子どもを教育することは 何になりますか。 それは、職に就くためですか。 それは この社会に填まり込むためですか。 私たちは、それらについて 議論してきました。 深くそれに入り、問うこと、 その問うことは、答えを もたらせますか。
1:30:35 K: はい。が、それは、どうするかに依存 します。問うことには芸術があります。
1:30:40 質問者: はい。お訊きしますが、 あの芸術とは何ですか。
1:30:43 K: 私は問うかも しれませんが、そのとき・・・ 質問者: それは、分析へ繋がる だけです。 
1:30:46 K: いいえ。
1:30:49 HL: 私は、疑念を 持っています -
1:30:52 この種類の議論は、言葉に 迷ってしまいがちである、と。 私は個人的には、 ここでの私たちの滞在に、 何かの目的を定めて いただきたいと、思います。
1:31:15 K: あなたは、何を 仰っていますか。
1:31:19 HL: 私たちは、何について 議論していますか。 少し目的の感覚が なければなりません。
1:31:25 K: はい。そうしましょう。 あなたは、何について議論 したいと思うのでしょうか。
1:31:33 HL: 私たちは、ここに 学校を持っています。 私たちは、教師を持っています。 私たちは、学生を持っています。 私は、教師と学生たちが、 彼らが何をしているかを、 私たちへ語ってほしいと 思います。 あなたが今日、なさったと 私が感知する要求は、 教師たちにとって 甚大な要求ですが、 子どもたちには、実質的に 何でもありません。
1:32:13 K: いいえ。初めに 教師、教育者です。
1:32:21 HL: 生ずる第一の問いは、私たちは この要求にどう応えているか、です。 生ずる第二のことは、 学校が適切な器であるのか、 または、別の器への必要が あるのかどうか、です - クリシュナジが話している種類の 要求に、応えるために、です。 もし子どもたちが本当に、 果たす役割を、持っていないなら、 なぜ学校を持ちますか。
1:33:04 K: ああ、いいえ! HL: 私は理解します。 私は今、あなたがなさっている種類の 要求へ、言葉を差し挟んでいます。 あなたは、教師たちにそれを、要求 なさっています。 
1:33:22 K: ええ。 HL: ゆえに、今のところ、 子どもたちは補助的です。 K: はい、同意します。
1:33:24 HL: そのとき問いは、学校は、 クリシュナジが行っている 種類の要求のための 器であるのかどうか、です。 学校が器であるなら、この学校は どの範囲まで、そうですか。
1:33:38 K: 私は、その問いに答えましょう。 時間ではないですか。
1:33:42 HL: 時間ですが、私は、校長と アルカジを、楽しみにしています。 私は、どうしてかを知りませんが、 私はここに捕まりました。 許していただけるなら、私は 戻るでしょう。 
1:34:06 K: いえ、いえ。 K: 教師は、学生と同じく、 教育が必要です。 私たちは、過程を 反転させるでしょう。 仮に、あなたは私の学生である、私は あなたの教師である、としましょう。 私はあなたに、数学の情報を 与えているだけではありません。 また私は、あなたとの関係を 確立したいと思います - 私はあなたと、 その中で 私たちがどちらも探究して いる関係が、ほしいのです。 いいですか? 私は、あなたを 助けようとしています。 あなたは、私を 助けようとしています - 心理的世界全体を探究する ように、です。 ですね? 私たちは、情報、数学、理科は 違っていると、言ってきました。 数学について話をし、 情報を与えている中で、 私は、あなたとの関係を 確立してきました - その中で、私たちは どちらも、探究しています。 いいですね? 探究しています。 で、私たちの関係は、 全然違っています。 それは、私が教師であり、あなたは教え られる者である、ということではない。 私は、あなたが探究する よう、助けています。 探究するとは、先入観を 持たない、という意味です。 いいですか? HL: はい、理解します。
1:35:41 K: で、初めに私は、「先入観を 持たないでください」と言います。 あなたは、先入観に 満ちています。 私もまた、先入観に 満ちています。 さて、それについて 話しましょう - 私たちがどちらも、それから 自由であるように、です。 あなたがそれから自由であるか どうかを、私は知りたいです。 本気でそうでないとき、けっして 「はい」と言わないでください。 で、私は先入観に 満ちています。 私は、自分がバラモン であると考えます。 私は、自分が・ ・・ そうね、それらのことです。 私は、先入観、意見、評価、 結論を、持っています。 あなたもまた、 持っています。 それで、私たちが 本当に、それから深く 自由でありうるのか どうかを、見ましょう。 1:36:38 私は、あの一つのことについて 毎日、三十分間を過ごすでしょう。 それで、あなたと私は 学期末に、 これらひどい先入観から 自由であるように、です。 そのとき、私たちの頭脳は 自由に探究できます。 ですね?  さもないと、 私はできません。 一流の科学者は、仮説、理論を 持っているかもしれませんが、 彼は、それを 試してみます。 その試しが、自分の仮説に沿わない なら、彼はそれを反故にします。 で、私たちは来週の間、お互いに 試してみようとしています - 私たちが全面的に先入観より自由で あるのを、見届けるように、です。 あの過程の中で私は、あなたとの とてつもない関係を、確立したのです。 1:37:46 また私は、「君はなぜ怯えている のかを、探究しよう」と言います。 よろしいですか。 私は、生の全体を これに、持ち込むでしょう。 それが、学校と教師の 機能です。 私は、自分の妻と子と ともに、それをできます。 理解されますか。 私は それもまたしますが、 学校は、私たちが どちらも歩める地盤です。 「学校」(スクール)と いう言葉は、 ご存じのように、元来、 余暇を意味しています。 探究する余暇を 持つことです。
1:38:29 HL: 質問をする中で 私の論点は、 私たちが行おうとしている種類の 議論へ、意味を与えることでした。
1:38:46 K: それで出発しましょう。 あなたと私は、 「私たちが生において先入観より 自由でありうるのかどうかを、 働いて見出そう」と 言います。 はい、そうです!
1:39:03 HL: あなたは こんな比率に、削減されます。
1:39:12 それは、取り扱うのがきわめて 困難です。 K: いいえ! 私は、自分があなたに対する先入観を 持っていることに、気づいています。 私は意見を持っています。 なぜ 私は、それらを持っていますか。 それは、こうも くたびれる事柄です。 それは、私たちの精神に 重荷を載せます。 それは、私たちの見通しに 重荷を載せます。 なぜ私は、意見を 持っていますか - 政治家について、レーガン氏や 誰かについて、です。 それは本質的に、時間のむだ、 エネルギーのむだです。
1:39:58 質問者: もし教育が、生きることが何なの かの全包括的な知識を獲得することと、 私たちの生を根本的に 変化させることであるなら、 教えることは、分析的過程を とおして、起こりうるのか、 あるいは、ただ共感的 であるのをとおして、ですか。
1:40:20 GN: 教育が全包括的で あるためには、これは、 分析的過程をとおして、できますか。 または共感的過程をとおして、ですか。
1:40:34 K: 私は、先入観を 持っているなら、 どうして全包括的な 生き方を、持てますか。 私が、自分がキリスト教徒や ヒンドゥー教徒であると、言うなら、 それは破壊されます。
1:40:49 質問者: 子どもにとって、 先入観の問いは、ありません。 たぶん教師にとって、です。 私たちは、子どもがこの生に ついて知識を得るのと、 同時に制限と先入観より自由で あるのを、どう助けるのでしょうか - それらは、分析的過程と 思考の本性に、伴います。
1:41:15 GN: 彼は、同じことを言っています。 「子どもたちは先入観を持っていない。 ところが、成人たちは 先入観を持っている」と。
1:41:24 K: あなたは、同意されるのでしょうか - 子どもたちは、家で生活し、 親により育てられるから、彼らは すでに、条件づけられている、と。 彼らはすでに、条件づけられて います。 そうでないですか。 一時間半で、十分です。 また会いましょう。 私は、自分が一時間半、話そうとして いると悟りませんでした。すみません!
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