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SA81T3 - 葛藤が終わること home
第3回公開講話 
スイス、サーネン
1981年7月16日


0:31 私たちは 一昨日、止めたところから、 継続してもいいですか。 私は、もしよろしければ、 私たちが言ったことを、 少し反復しましょう。 私たちは、あなたに何をも 確信させようとしていません。 それは明らかに理解されなければなりません。 私たちは、特定の視点を受け入れるよう、 あなたを説得しようと していません。 また何についても、あなたに 印象づけようとしていません。 私たちは、何の宣伝をもしていません。 それは怖ろしい - 賛成、反対などは、です。 私たちは、人格について 話していません - また、誰が正しいのかと、誰が 間違っているのかについても、です。 むしろ、ともに 考えぬこうとしています。 それは、最もするのが 困難なことだと思われます。 2:07 ともに観察する - 世界が何であるのかと、 私たちが何であるのか、 私たちが世界をどうしたのかと、私たちが 私たち自身をどうしたのかを、です。 私たちはともに、 内的なのも外的なのも、人を 検討しようとしています。 そして明らかに観察するには、 自由に見られなければなりません。 自分の特定の経験、 意見、判断、 先入観に縋りつくなら、 そのとき、ともに考える ことは、可能ではありません。 私たちの真ん前にある             世界の危機は、 私たちがともに考えることを 要求します、急き立てます - それで私たちがともに、人間の 問題を解決できるように、です。 3:33 どの特定の人物に沿って、 でもない。 特定の哲学者、 特定の導師、 どの特定の人物に沿って、でもない。 私たちはともに、しようとしています。 見、観察しつつあります。 これは、いつの時も 留意することが、重要です - すなわち、語り手は単に 指摘しているし、 ともにそれを検討していることに、です。 で、それは一方的ではありません。 むしろ、ともに 協働し、 検討し、 ともに旅をしています。 それで、ともに行為するのです。
4:43 私たちが指摘しましたように、 私たちの意識は 私たちの意識ではない。 個人の意識ではないのです。 これは、理解するのが きわめて重要です。 なぜなら、私たちの意識は、 専門化した集団、民族的なもの、 などだけではなく、 また、すべての苦労でもあります - 葛藤、抗争、 悲惨、混乱、 悲しみなどです。 私たちはともに その意識を、検討しています - すなわち、 人間的な意識を、です。 それは、私たちの意識です。 私のではなく、私たちのです。
5:35 さて、この検討において 要求される要因の一つは、 自らが智恵の能力を持たなくては いけない、ということです。 辞書の意味によれば、 智恵(インテリジェンス)は、判別する、 理解する、区別する、という意味です。 またそれは、観察する、集める、 私たちが集めてきたすべてを まとめる、 そして、そこから行為する、 という意味です。 その集めること、その判別、 その観察は、 先入観が入りえます。 ゆえに、先入観があるとき、 その智恵は拒否されます。 ですね? その智恵は、 自らが他の一人に従うなら、 その智恵は拒否されます。 他の一人に従うことは、 (彼が)どれほど尊くても、 どれほどあれやこれでも、 あなた自身の知覚を拒否します。 あなた自身の観察を拒否します。 7:14 あなたは単に、誰かに 従っているだけです - すなわち、何をするか、何を考えるかなどを 語ってくれるであろう人に、です。 あなたがそうするなら、 その智恵は存在していません。 なぜなら、その智恵に 観察はないからです。 智恵は、疑い、問うことを 要求します - 人物により、 彼らの熱意により、 彼らのエネルギーにより 印象づけられるのではなくて、です。 智恵は、非人格的な観察がなければ ならないことを、要求します。 智恵は、理性的に、 言語的に説明されるものを、 理解する 能力だけではない。 またそれは、あなたが 可能なだけ多く情報を 集めることをも、要求します。 そして、情報が誰についても、 何についても、けっして 完全ではありえないことを知って、 ゆえに、 その智恵があるところ、 躊躇い、 理性的に非人格的に考えること、 観察と、考えることの明瞭さが、 あるのです。 9:03 智恵はまた、全体の了解をも 含蓄しています。 人の全体、 人の複雑さすべて、 人の物理的応答すべて、 人の情動的反応、 人の知的能力、 人の慈しみ、苦労、 そのすべてです。 そのすべてを一瞥で 知覚し、行為すること、 それが、至高の智恵です。
9:47 そして智恵は、 これまで、葛藤を超越することが できなかったのです。 私たちは今朝、ともに、 見ようとしています - それが可能であるのか、 頭脳が葛藤から 自由でありうるのかどうかを、です。 なぜなら、私たちは、葛藤と ともに生きてきたからです - 私たちが生まれた時から 死ぬまで、です。 常なる格闘 - あるためか、なるため、 何かになるため(の闘争)です。 いわゆる霊的に、 心理的に、 または世の中において、です。 すなわち、成功を収めるため、 充足するため、です。 それは、 なる動き全体です - 「私はこれだが、私はあれになるだろう」と。 そして、究極的に到ること、 目的地、方向は、 最高原理へ向かってです - その原理が神、ブラフマンと 呼ばれるか、 それに他のどの名を 付けるとしても、です。 11:35 なるためか、あるための この常なる闘争。 どちらも同じです。 自らがなろうとしているとき - 様々な方向で、です - そのときあなたは、有ることを拒否しつつあります。 あなたが、有ろうとするとき、 あなたはまた、なりつつあります。 精神の、思考の この動きを、見てください。 私は有る。私は有ると考える。 そして、私であるものに 不満であり、 私の有るがままに不足なので、 私は何かで充足しようとします。 または、特定の方向に 向かった衝動。 楽しめること - それは辛いかもしれませんが、 最後には、楽しめる。 で、この常なる格闘が、 あります - あるためと、なるため、です。
13:07 私たちがなろうとしているものは 何ですか - 私たちのみんなが、です。 物理的にか、 私たちはもっとお金が欲しい。 もっと良い家、もっと良い地位、 もっと権力、もっとお金、 もっと良い身分。 あるいは、生物的にです。 自らが元気でないなら、 元気になりたい。 あるいは、心理的に、です。 すなわち、思考、意識の 内的な過程全体、 衝動全体は 内的に、 自らは実際には 何物でもないとの 知覚や認識からですが、 なる、 それから動いて離れることです - 教育をとおして、 大学をとおして、です。 大学へ行くほど、いわゆる 運が良ければ、です。 良い経歴、職を得る。 それは、あなたに地位、お金 等々を、与えてくれるでしょう。 14:46 心理的に、内的に、 いつも、「有るもの」からの 逃避があります。 私なるものから、いつも 逃げ去っています - (私なるもの)それに私は不満足です - 私を満足させてくれるだろう 何かへ、です。 その満足が、 深い充足、 幸せであっても、 覚りとして、もっと 大きな知識の取得としての 思考の投影であっても、 これは、なる過程です - 「私はこうである。 私はなるだろう」と。 ですね? それには、時が関与しています。 さて、頭脳はこれへ プログラムされています。 私たちの文化すべて、 私たちの宗教的裁可すべて - あらゆる物事が、「なれ」と言います。 この現象は世界中で 見られます。 16:36 それは、この西洋世界において だけではなく、 東洋と、極東と 極西においても、です。 あらゆる人が、なろうとか、あろうとか 回避しよう、などとしています。 これが、葛藤の原因ですか - 内的にと外的に、です。 内的には、 この模倣、順応が(あり)、 理想との競争が、 あります。 また外的にも、 いわゆる個々人の間に、 この競争が、あります - 一つの集団が 別の集団に対立し、 民族が民族に対立した、 などと、です。 で、内的と外的に、 何かであろう、何かになろうとの この衝動が、あります。
17:50 私たちは訊ねています - これが、私たちの葛藤の 基本的な原因ですか。 または、人は永遠に、定められていますか - このすばらしい地上に 生きているかぎり、 永続的な葛藤に定められていますか。 自らは、この葛藤を 合理化できます。 自然は葛藤の中にある、と言えます - 日向へ届こうと格闘する樹は 葛藤の中にあるし、 それは私たちの自然な本性の一部である。 なぜなら、葛藤をとおし、 競争をとおして、 私たちは進化してきた、 私たちは成長して、今の私たちである すばらしい人間になったから、と。 これは、皮肉で 言われていません。 これは、私たちのほとんどが 考えることなのです。 19:14 で、私たちの頭脳は、葛藤へ プログラムされています。 そして私たちは、この問題をけっして 解消することができませんでした。 あなたは神経症的に 何か空想へ逃避し、 その空想へ取りすがり、 全的に満足するかもしれません。 または、自分は内的に何かを 達成したと想像し、 全的にそれに満足するかもしれません。 どの問うこと、 どの疑い、どの懐疑も、 それは、智恵ある精神により 行使されなければなりません。 このすべてを問わなければなりません。 なぜ人間たちは、 何百万年に何百万年もの後、 ・・・ 人の始まりの時から 私たちは、葛藤とともに生きてきました。 20:55 あれらの洞窟に、あります・・・ そこでは、人が、 猪やあれこれの姿の悪と 戦っています。 シュメール人の 古代の時から 葛藤があったのです。 エジプト人などから、 人の現在の進化まで、 人は葛藤の中に、生きてきました。 私たちは、それを受け入れてきました。 私たちは、それを忍耐してきました。 私たちは、それは私たちの本性の 一部であると、言ってきました - (すなわち、)競争すること、攻撃的であること、 模倣すること、順応することは、 この永久に続く 葛藤の様式の一部である、と。
21:49 どうぞ、私たちは ともに観察しています。 語り手が言語的に 葛藤の地図を表していて、 あなたはその地図を 受け入れるのではない。 むしろともに、私たちは 葛藤を観察しています - 私たち自身においてと、外的に、です。 ですね?
22:25 私たちの頭脳は、この葛藤へ プログラムされてきた上は - プログラムされている コンピューターのように、ですが、 コンピューターは学べます。 自らの誤謬、自らの間違いを 発見して、 それらを訂正できます。 最高の数学者は、 自らの理論などすべてでもって、 コンピューターに 情報を入れられるか、 プログラムできます。 コンピューターは そうプログラムされていて、 新しい理論を発見できます。 これは証明されてきました。 教授がプログラム したのではなく、 それは、学び、発見する 能力を、持っています - それは、おそらく 機械的な知性です。 彼らは、超知的機械を もたらそうとしています - すなわち、私たち人間の頭脳を はるかに越えるものを、です。 私たち人間の頭脳は、この問題を 私たち自身で解決してこなかったが、 機械はそれを解決してきました。 これらに付いてきていますか。
24:21 で、なぜ人は、 一方向では、こうも高度に 洗練されていて、 他の方向では、こうも まったく智恵がないのですか。 葛藤は、知識をとおして 終わりますか。 どうぞ、これらの問いを あなた自身にしてください。 自分自身を知ることに ついての知識や、 世界についての知識、 物質についての知識。 世界、社会 - 社会についてもっと学ぶこと、 もっと良い組織、 もっと良い制度、施設など、 それが、私たち人間の 葛藤を解決するでしょうか。 もっともっと多くの知識を取得する ことが(解決する)でしょうか。 または、葛藤からの自由は、 知識といかなる関わりも ないのでしょうか。 どうぞ、ともに私たちは これを考えぬきつきあります。 語り手は、自分自身に 話していません。 彼は、そうしたいなら、 自分の部屋で、それをできます。 ともに私たちは働いて、 これを解きしつつあります。
26:11 私たちは知識を持っています - 大変多くの知識を、 世界、物質について、 宇宙・万物について、です。 また、私たち自身について 大変多くの 歴史的な知識です。 歴史(ヒストリー)の全体が、 人類の物語(ストーリー)です。 もし私たちは、その書物をどう 読むのかを、知るなら - すなわち、私、私自身、 私の意識を、です - 私は、私自身について、ものすごい 知識を持っているかもしれませんが、 その知識は、人間を葛藤から 自由にするのでしょうか。 理解されますか。 どうぞ、 私とともに進んでください。 または、それは、分析と 何の関わりもないのか - 葛藤の様々な原因と要因を 発見することと(関わりが)、です。 27:22 私たちはそれに入られます。 原因、または多くの原因は、 分析的な発見をとおして、 それは、頭脳を葛藤から 自由にするでしょうか。 日中に私たちが目覚めている 間の葛藤だけではなく、 また、私たちが眠っているとき、 続けられるこの葛藤も、です。 あなたは、夢を検討できます。 夢を解釈できます。 なぜ人間たちはそもそも夢を見るかの 本性全体へ、入られますが、 それは、葛藤を解決するでしょうか。 分析的な頭脳は、 きわめて明らかに、理性的に、 健全に、 葛藤の原因を分析する - 葛藤の多くの原因、 多くの要因が、あります - その分析は、葛藤を終わらせるのでしょうか。 28:47 分析が、時であるだけではなく、 分析者は、自分自身を 分離しています - 対象物、すなわち 葛藤から、です。 そのとき、その葛藤を 分析しようとします。 で、葛藤から自分自身を分離している - よろしいですか - それは、葛藤を解決するのでしょうか。 または、それは、 いかなる関わりもなくて・ ・・ またはそれは、これらの過程の どれとも、関わりがないのです。 すなわち、分析、 原因を発見することと、 その原因から自由になるよう 私たち自身に強いようとすること、 または、 様々な検討をとおして、 私たち自身について大変多くの 知識を取得すること - それは、葛藤の問題を 解決するのでしょうか。 または、 「私が道を示してあげよう。 30:18 私は葛藤から自由であり、 私が道を示してあげよう」と 言う誰かに、従うこと。 それが、助けてくれるでしょうか。 これが、司祭者の役割、 導師の役割、 いわゆる覚りを開いた人の 役割であったのです。 「私に従いなさい。 示してあげよう」、 または、「私が指摘しよう。あなたは行きなさい」と。 私たちは、幾千年に幾千年にわたって これらすべてを、持ってきました。 歴史はこれを示していますが、 その一つの深く根づいた葛藤を 人は解決することができなかったのです。 ですね?
31:19 ともに見出しましょう - 道(やり方)を、ではなく、 言語的な標示を、ではなく、 知的な言語的な概念を、 ではない。 ともに見出しましょう - 葛藤を終わらせるであろう 知覚、行為があるのか どうかを、です。 それを次第にではなく、 即時に終わらせる(知覚、行為が、です)。 質問を理解されますか。 どうぞ、 初めに問いを理解してください。 その問いの含蓄は 何ですか。 頭脳はプログラムされている、 または配線されている。 葛藤へプログラムされている。 それは、あの様式に捕らわれています。 あなた自身でそれをご覧になれます。 私たちは、訊ねています - その様式は、次第にではなく、 即時に壊されるのかどうかを、です。 33:13 あなたは、自分がそれを壊すと 考えるのか - 薬物をとおし、 アルコールをとおし、セックスをとおし、 違った形の修練、 規律をとおし、 違った形の、自分自身を何かへ 手渡すことをとおして、です。 人は、この葛藤の 恐怖から逃避するために、 千の違った道を 試してきました。 いいですか。 私たちは訊ねています - こうも条件づけられた頭脳が、 その条件づけを 即時に壊すことは 可能ですか。 いいですか? これはたぶん、理論的な 非現実的な問いです。 あなたは、「それは不可能だ」と言う かもしれません。 「それは理論だけだ」、 「それは、これから自由でありたい との願い、欲望だけだ」と。 しかしあなたが、そのものを検討するなら - 理性的に、論理的に、です。 それは、私たちの 智恵の一部です - 時は、この条件づけを 解決しないでしょう。 35:04 それが、初めに 悟るべきことです - 明日に、ではない。 心理的な明日は ありません。 私は当面、それに入らないでしょう。私は、 それは時を含蓄すると、言っているだけです。 自らが言語的にではなく、 実際に見るなら - 自らの心において、 自らの精神において深く、 自分の存在のまさに 深みにおいて、です -            時は、この問題を 解決しないでしょう。 それは、あなたがすでに様式を 壊した、という意味です - 様式に、ひび割れが 見えはじめています。 なぜなら、私たちは 時を、受け入れてきたからです - このプログラムされた頭脳を 解きほぐす、砕いてしまう 手段として(の時を)、です。 で、あなたが明らかに観察するとき、 時は、 どの境遇のもとでも、 頭脳を時から自由にしないでしょう。 36:27 私たちがいう時は、今そうであるように、 条件づけられている、プログラム されている、という意味です。 私は、それを壊すため、その条件づけ を解くために、それを検討し、 努力するでしょう。 その過程 すべてに、時が関与しています。 ですね? で、あなたは、そうするとき、 同じ様式に捕らわれています。 あなたは、それから 動いて離れていません。 しかし、一度あなたが、 時が要因ではないことを、 明らかに自分自身で絶対的に 取消不可能に見るなら、 そのときすでに、あなたは、 頭脳の囲い込みの壁に ひび割れを、見はじめます。 いいですか。 あなたは 今、そうしていますか。 なぜなら、哲学者と科学者たちは、 時は成長の要因であると、 言ってきたからです。 生物的に、言語的に、 テクノロジー的に、 時は必要ですが、 37:56 彼らは、心理的な時の本性へ けっして入りませんでした、 探究しませんでした。 おそらく幾人かは入ったかも しれませんが、私たちは知りません。 この時への探究は 心理的に、なること全体を、 含蓄しています - 「私はこうであるが、私はああなるだろう。 私は不幸せで、充足していない。 絶望的にさびしい。 が、明日は違っているだろう」と。
38:58 で、私たちの頭脳は、 人類すべてに共通しています。 それはあなたの頭脳ではありません。 あなたは、一定の特異性、傾向を 持っているかもしれませんが、 私のとあなたのとの、この頭脳は 時をとおして、進化してきました。 それは、私の頭脳ではありません。 生物的に、そのとおりです。 それは、私の頭脳ではありません。 その頭脳は、葛藤をとおして、 幾世紀をとおして進化してきて、 この点に来たのです。 私たちはともに動いていますか。 私たちはともに、 その合理性、その論理が 見えますか - すなわち、 私たちの意識は、私たちのではなく、 人間の意識であることが、です。 私たちは先日、よく気を つけて、それに入りました。 40:09 それが人間の意識であることを 悟るとは、 あなたはすでに、個人意識の 様式を、壊したのです。 ですね? で、自らが、時が葛藤の要因 であることを、悟るなら、 そのとき、その知覚こそが 行為です。 決断が起きたのです。 あなたは決断しなくていい。 知覚こそが 行為と決断です。 どうぞ、私たちは、ともに 働かなくてはいけません。 それは、あなたが聞いて、同意や 不同意をするだけではありません。 私たちはともに働いています。
41:17 さて、 多様な形の葛藤が あります - 千の意見が あるように、 千の葛藤の道が あるのです。 私たちは、多くの形の 葛藤について、話していません - 葛藤自体(について)、です。 私の特定の葛藤ではない - 私は妻とうまく行かない。 自分のビジネスマンとか、 あれこれと、うまくいかない、と。 人間頭脳の、 その存在における葛藤です。 気になさらないことを、望みます。 知覚がありますか - どうぞ、初めにただ聞いてください。 あなたは後で、同意しても いいし、同意しなくてもいい。 初めにただ聞いてください - 記憶から生まれていない(知覚)、 知識から生まれていない 知覚が、ありますか。 葛藤の本性全体を 見る知覚が、です。 本性全体、葛藤の本性と構造を (見るもの)が、です。 その全体の知覚。 そういう知覚が そもそも、ありますか。 質問を理解されますか。 43:16 分析的な知覚ではなく、 葛藤の(知的な観察)、 様々な種類の葛藤の 知的な観察ではない。 また、葛藤への 情動的な応答でもない。 私たちは訊ねています。 憶えたことのではない 知覚が、ありますか - (憶えたこと)それは、時です。 それは、思考です - 時や思考のではない 知覚が、ありますか。 すなわち、葛藤の本性全体を 見られるものが、です。 その知覚こそが、 その葛藤が終わることです。 それが、あなたへの私の質問です。 問いを理解されますか。 すなわち、思考は時です。 ですね? 44:32 それが見えますか。 思考は、です。 思考は 記憶、知識、経験です - 頭脳の中に記憶として 組み立てられています。 そのすべてが、時の結果です。 「私は一週間前、知らなかったが、 私は知っている」などと、 知識の増殖、 知識の拡がり、 知識の深さは、 時のです。 で、思考は時です。 明白です。 どの動きも、 どの心理的な動きも、 時です。 私に同意しないでください。 そのとおりです。 私は、ここからへモントルーへ 行きたいなら、時を使わなければなりません。 私が言語を学びたいなら、 時です。 私が遠方の誰かに会いたいなら、 それは、時を必要とします。 45:46 その時は、短くも 長くもできます。 同じ過程、 外の過程が、 内的に持ち込まれます - 「私はそうでない。 私はなるだろう」と。 そして、それの拡がりです。 で、思考は時です。 思考と時は 分割不可能です。 私たちは進んでいいですか。 私たちは、この事実が見えますか。 私たちは 質問をしています。
46:27 時と思考ではない 知覚が、ありますか。 その知覚は 全面的に、頭脳の 様式の外に、あります - すなわち、一定の様式、 一定の枠組み、一定の道が 慣習となったものの(外に)、です。 そういうものが、ありますか。 おそらく、ただ一つそれのみが 問題を解決しようとしています。 なぜなら、私たちは、 百万年の葛藤の問題を 解決したことがないからです。 私たちは、同じ様式を 継続しています。 私たちは、智恵をもち、躊躇い、気づかいを もって見つけなければなりません。 葛藤の全体に及ぶ 知覚が、ありますか。 その知覚こそが 様式を壊してしまいます。 いいですか?
47:57 さて、私たちはともに、これに どのように出会うでしょうか。 語り手は、この問いを 差し出してきました。 彼は間違っているかもしれません。 彼は ばかげて、非理性的かもしれません。 が、あなたがよく気をつけて それを聞いてきた後、 - もしあなたが聞いてきたなら、です - それは、私たちの責任です - 語り手のとともに、あなたのです - そのとおりであるのã 「まあ、それは可能ではない。 なぜ なら、私はそれをやったことがないから。 それは私の範囲の中にない。 それについて 私は十分に考えたことがない」と 言うのではない。 または、「私はそもそも そのように考えたくない。 なぜなら、私は自分の 葛藤に満足しているから。 なぜなら私は、いつの日か人類が葛藤から自由に なると、すっかり確信しているから」と。 48:46 それはすべて、問題からの 逃避だけです。 私たちは今、ともにここにいますか。 ともに、葛藤の複雑さすべてに 気づいている。 それを拒否しないで、気づいて いる。 それはそこにある。 それはある - 身体の痛みのように 現実的で、それはそこにある。 自らはそれに気づいています。 何の選択もなく、気づいて いる。そのとおりです。 同時に、 質問をしています - これには、すっかり違った接近が あるのかどうかを、です。
50:01 さて、私たちは観察できますか - それが何であるかは、大事ではない - 言葉なく、 名づけることなく、憶えたことなく、 です。 理解されますか。 あなたはそれをできますか。 あなたの友だちや妻を見つめる - それが何であっても、です - 人物を観察する。 言葉なく - 「私の妻」、 「私の友だち」、「私たちは同じ小さな 集団に所属している」と (いうことなく、です)。 それのどれもなく、 観察する。 すなわち、憶えたことを とおして観察しない。 あなたは、それをできますか。 私たちは、それをできますか。 あなたは直接、それを試したことがありますか。 今、あなたがそこに座っていながら、 私たちはともに、それをできますか。 すなわち、その人物を 見つめるだけではない - 名なく、 時と憶えたことなく、です。 また、私たち自身をも(見つめるの)です。 51:42 私たちが自分自身について 築いてきたイメージ 私たちが相手について 築いてきたイメージ。 そのイメージを見つめる - まるでそれを初めて 見つめている(かのように)、 薔薇を初めて 見つめているかのように、です。 あなたは、そうするのでしょうか。 すなわち、見つめるのを学ぶ。 この性質を観察するのを学ぶ - 思考の作動 すべてなしに、です。 それは可能ではないと、言わないでください。 それは、大学教授へ行くのに似ています - 彼の主題を知らずに、ですが、 あなたは彼から学びたいのです。 私はあなたの教授ではありません。 あなたは、彼から学びたい。 で、あなたは彼へ行って聞きます。 52:51 あなたは、「私はそれについて 何かを知っている」とか、 「あなたは間違っている」とか、「あなたは 正しい」とか、「私はあなたの見た目が 好きでない」とか、言いません。 あなたは聞きます。 見出します。 あなたが敏感に、 気づきをもって 聞きはじめるにつれて、 あなたは、発見しはじめます - 彼が、言葉がたくさんの まがい物の教授であるのか、 本当に彼自身の深みへ入ってきた 教授であるのかを、です。 理解されますか。 さて、私たちはともに、 そう聞いて観察できますか - 言葉なく、 憶えたことなく、 思考の動き すべてなく、です。 53:51 それは、完全な注意を 意味しています。 いいですか? 注意するための中心から ではない注意。 何も中心を持っていない 注意です。 もちろんです。 あなたが、そこから注意を している中心を、持っているなら、 それは単に、 一つの形の集中です。 しかし、中心がなくて、 あなたは注意しているなら - それは、あなたが、自らの完全な 注意を向けている、という意味です - その注意に 時はありません。 いいですか。これをご覧に なるのかどうかと、思われます。
54:54 仮に、私はあなたに聞いている、とします。 あなたは私に、物語をしています。 物語 - すなわち、 私自身の物語、 人類の物語です。 あなたは私に、その物語をしています。 私はあなたに聞いています。 なぜなら、私はそれについて 何も知らないからですが、 私が聞いていながら - あなたが自らの 考えることを伝達するために、言語的に 言っていることだけを(聞くの)ではなく、 聞くことへの そのきわめて敏感な注意の中で、 私は、言葉を 聞いているだけではなく、 私は言葉を 越えていったのです。 私は、彼が言っていることの 意味の深みを、捉えつつあります。 理解されますか。 私たちはこうしていますか。
55:59 ご覧ください。あなたたちの多くは、 幸か不幸か、 長年にわたって 語り手に聞いてきました。 そしてあなたは、この、頭脳の プログラムを壊すことは 訪れていないと、言います。 そしてあなたは、年々、 その発言を反復します。 それは訪れていない、と。 それはあなたが - どうぞ、聞いてください - それは、あなたが到達したい、 なりたいからですか。 様式が壊れてしまったところの 頭脳の状態を持ちたい、と。 すなわち、あなたは聞いてきました。 それはまだ訪れていません。 あなたは、それが訪れるで あろうと、望んでいます。 それは、もう一つの形の なることです。 ですね? で、あなたはやはり、葛藤の中にいます。 57:16 あなたは、私を払い除けるか、 「私はもうここに来ないだろう。 なぜなら、私は欲しいものを 得ていないから」と言います。 「私はあれを欲しいが、得ていない」と。 で、欲しいことは、なることです。これらを ご覧になるのかどうかと、思われます。 何かでありたいとの欲望は、 葛藤の始まりです。 その欲望は、プログラムされた 頭脳の一部です。 私たちは、こう言っています - その様式を壊すには、 時、思考の動きなく 観察しなさい、と。 それは、とても単純に響きますが、 その論理、その理由、 健全さを見てください。 語り手がそう言うからではない。 それは健全です。
58:24 で、論理的、理性的である能力を 行使し、 その制限を 知らなければなりません。 なぜなら、理性的に考えること、 理性的な観察は、やはり 思考の一部であるからです。 そして、思考が制限されて いることを知って、 その制限に気づいて、それを さらに推し進めないでください。 なぜなら、あなたがどこまで行こうとも、 それはやはり制限されているだろうからです。 ところが、あなたが 「私は薔薇を、花を 観察できるのか。 言葉なく、色なく、 ただそれを 見つめられるのか」と言うなら、 その見ることが、大きな 敏感さを、もたらします。 頭脳のこの重さの感覚を 崩してしまい、 とてつもない活力を 与えます。 なぜなら、思考は、 葛藤をとおして、自らの エネルギーを、持っているからです。 明白です。 しかし、全然違った種類の エネルギーが、あるのです - 思考、時に関係していない 清浄な知覚が あるとき、です。
1:00:11 よし! 今朝はそれで十分であると 思います。そうでないですか。
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