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SA81T4 - イメージなく生きること home
第4回公開講話 
スイス、サーネン
1981年7月19日


0:25 皆さんが温かいことを 望みます。 氷河期が来つつあります。
1:03 語り手は、冥想と、 冥想に関与した物事について 講話の終わりに 話してきました。 なぜなら、彼は、 私たちが家を秩序 立てるのでなければ、冥想は ほとんど意味がないと、 感じるからです。 冥想は本当に まったく重要です - 自らが冥想の深い意味を 知るのか、理解するなら、です。 そして彼は意図的に、それを 講話の終わりに、置いてきました。 なぜなら、私たちの生における秩序が 正しく確立されなければならないからです - 私たちが冥想について、 そして 永遠に神聖なものについて 考えられる前に、です。
2:26 で、私たちは今朝、 秩序について、話すでしょうし、 私たちは、先の三回の講話の間にも また、それについて話してきました。 そして、秩序は必要です - 私たちの行為における秩序、 私たちの互いとの 関係における秩序、 私たちの日々の、毎日の 活動における秩序が、(必要)です。 そして、秩序の性質こそを 理解すること - それは、規律・ 修練とは             全然違っています。 規律(修練、ディシプリン) - その語根は、学ぶことです。 順応することではない。 服従することではない。 模倣することではない。 むしろ、学びをとおして 来る秩序です。 私たち自身について学ぶこと - 誰か哲学者、 誰か心理学者に 応じて、ではなく、 私たち自身で秩序を 発見することです。 それは、 強制の感覚すべてより自由、 決意した努力の感覚すべてより 自由です。 または、特定の方向に沿った 秩序でもない。 4:31 そして、きわめて自然に来る 秩序を、発見する。 ゆえに、その秩序には 正しさが、あります 何か様式に応じて、ではなく、 秩序です。 外的な世界において、だけではない - そこは、まったく混沌となったのです。 なぜなら、私たち自身において、 私たちは明らかでない、 私たちは混乱し、不確実であるからです。 で、私たち自身について学ぶ。 そして、その学びは 秩序の一部です。 自分自身について学ぶ - 誰か心理学者に 応じて、ではない。 どれほど学識があり、 どれほど尊くても、です。 しかしあなたが、他の一人に従うなら、 私たちは、私たち自身を 理解できないでしょう。 そして、秩序を持つには、 私たち自身を 理解することが、必要です。
5:51 私たちは、無秩序の中に生きます - 外的に、政治的に 宗教的に、社会的にも、 そしてまた経済的にも、です。 テクノロジーの世界以外に おいて、です。 私たちは、或る種の混沌とした 無意味な存在の中に、生きます。 秩序が何であるかを見出すには、 私たちは理解しはじめなければなりません - 私たちが指摘してもいいなら、 私たちの関係の本性を(理解するの)です。 私たちは生きるし、私たちの生は 関係における動きです。 一人ではとうてい生きられません。 なぜなら、どれほど自分が一人で 生きると考えようとも、 あなたはいつも、何らかの 物事に、関係しているからです 7:12 - 過去に、あるいは、未来の何か 投影されたイメージに、です。 で、生は、関係における 動きです。 その関係には 無秩序が、あります。 私たちはともに、間近で 検討しなければなりません - なぜ私たちは、互いとの 関係に生きるのか - どれほど親密にでも、 表面的にでも、です - なぜ私たちは、自分たちの日々の生に おいて、こうも無秩序に生きるのかを、です。
8:02 私たちが過去の三回の講話の間に 指摘してきましたように、 私たちはともに考えています。 語り手は、何をも 指摘していません。 特定の方向で考えるよう、 あなたを説得しようとか、 どの種類の納得のための微妙な圧迫をも、 あなたに掛けるとか、していません。 反対です。 私たちはともに、私たちの問題、 人間の問題について じっくり考えています。 ともに考えて、 発見しています - 私たちの、互いとの関係が 何であるのか、 その関係に秩序が あるのかどうか、 その関係において私たちは秩序を もたらせるのかどうかを、です。 それで、 互いとの関係の十分な意味を 理解するには - どれほど近くても、 どれほど疎遠ても、です - 私たちは、考えはじめなければなりません。 私たちは、なぜ頭脳がイメージを創り出す のかを、理解しはじめなければなりません。 9:37 私たちが互いに付いて きているのを、望みます。 なぜ私たちは、私たち自身について イメージを持っているのかと、 他の人たちについてイメージや 映像を(持っているのか)、です。 なぜ私たちにおいて、一人一人が 特異なイメージを持っていて、 自分自身をそのイメージと 同一視するのか、 なぜ世界中の 人間たちは 彼ら自身についてイメージを 創り出してきたのか、 そのイメージは 必要であるのかどうか、 そのイメージは自らに、安全の 感覚を、与えてくれるのかどうか、 そのイメージは、分離的行為を もたらさないのかどうか、 そして、親密でも、 その他でも、関係において、 なぜこのイメージは存在するのか、です。 というのは、イメージは 人間たちを分離するからです。
10:54 どうぞ、私たちは ともに考えています。 私はあなたに、どう考えるのかとか、 何を考えるのかとかを、語っていません。 語り手は指摘していません。 ともに、私たちは 究明しています - このきわめて複雑な 関係の問題を、です。 もしも私たちが、自らの妻との 関係を、間近で見つめられたなら - 夫、友だち(との関係)、 または、それが何であっても、です - それをきわめて間近で見つめる。 それを回避しようとしない、 それを払い除けようとしないで、 もしも私たちがともに、それを 検討し、なぜ世界中の人間が、 イメージを創り出すこの能力を 持っているかを、 見出せたなら - すなわち、 象徴、様式を創り出す このとてつもない機構を、です。 そして、それらの様式、 象徴、イメージの中に、 自らは、大きな安全を見つけます。 私たちはともに、それを 検討しなくてはいけません。
12:34 もしあなたが観察するなら - 語り手があなたに指摘しているのを 気にされないのを 望みます - もし観察するなら、自らが自分自身に ついてイメージを、持っています。 自らは、自惚れ、 傲慢の想像を 持っているのか、 または、その反対のものを、です。 または自らは、 大変多くの経験を蓄積して、 大変多くの知識を 取得してきました - それは、自体が イメージを創り出します。 なぜ私たちは、私たち自身について イメージを、持っていますか。 どうぞ、あなた自身にこの質問を し、それを見つめてください - それらのイメージは、人々を 分離しないのかどうか、です。 もしあなたが、スイス人や イギリス人やフランス人 などとして、イメージを持っているなら、 それらのイメージは、私たちの 人類への観察を、歪曲するだけではなく、 またそれらは、分離しませんか。 14:07 ゆえに、どこでも分離、 分割があるところ、 葛藤があるにちがいありません。 (例えば)中東で抗争が 進みつつあるように、です。 アラブ人、対、イスラエル人、 イスラム教徒、対、ヒンドゥー教徒 キリスト教徒、 対、残りの世界すべて、です。 これが進みつつあります。 民族的な分割、 経済的な分割が あるだけではない。 それらはすべてイメージ、 概念、 観念です。 頭脳は、これらの イメージに縋りつきます。 なぜですか。 それは、私たちの教育のせいですか。 それは、私たちの文化のせいですか - そこでは、 個人が最も重要なものです。 そこでは、集合的社会が 個人より全然 違った何かです。 15:44 それは、私たちの文化の一部、 私たちの宗教的訓練の一部、 私たちの日々の教育の一部です。 自らが自分自身について イメージを持っているとき - イギリス国民である などとして、です - そのイメージを持つことは、 一定の安全を与えてくれます。 それは相当に明白です。 すなわち、自分自身について イメージを創り出しておいて、 そのイメージは、恒常的、 半恒常的になります。 そのイメージの裏に、 または、そのイメージに 自らは、安全を見つけようとします。 - 安心を、 一つの形の抵抗を、です。 ですね?
16:59 そして、自らが 他の一人に関係しているとき、 どれほど繊細にでも、 どれほど微妙にでも、 どれほど物理的に、 生物的にでも、 応答があります - 感覚的なのも、 同じく心理的なのも、 このイメージに基づいて、です。 またもや、それは事実です。 自らが観察するなら、 あなたが結婚しているか、 誰かとともに生活しているなら、 私たちの日々の生において イメージが形成されます。 あなたがその人物と 一週間か十年間か、知り合いで あっても、一緒に生活しても、 イメージは、ゆっくりと 一歩一歩、形成されます。 あらゆる反応が、憶えられ、 頭脳に蓄えられます。 それで、私の妻について イメージが形成されます。 そして、妻は、 夫について、です。 ですね?  私たちは これに付いてきていますか。 関係は、 物理的、性的、 感覚的であるかもしれませんが、 実際に関係は、これら二つの イメージの間に、あります。
18:58 語り手は、何か法外か、 異国風か、突飛なことを 言っていません。 彼は単に指摘しています。 むしろ、ともに 私たちは学んでいます - すなわち、 これらのイメージが存在することを、です。 これらのイメージは、存在しています。 なぜなら、私たちは他の一人を けっして完全には知りえないからです。 もし私が結婚しているか、 彼女を持っているなら、 私は妻をけっして 完全には知りえません。 私は、彼女を知っていると、考えます。 なぜなら、その人物と 生活してきた後、 私は様々な出来事、 様々な苛立ちと その他すべてを 蓄積してきたからです - すなわち 日々の生で起きることを、です。 彼女もまた、それらの 反応を集めてきました。 それらの反応は、 それらのイメージとともに 頭脳の中に確立されています。 20:30 それらのイメージは、 私たちの生において とてつもなく重要な役割を、果たします。 見たところ、私たちのほとんどは、どの 形のイメージからも、自由ではありません。 イメージからの自由が 本当の自由です。 なぜなら、そのときその自由には、 イメージがもたらした分割が、 ないからです。 もし私が、インドで生まれて、 ヒンドゥー教徒であるなら - 語り手は、そこで生まれましたが、 ヒンドゥー教徒ではありません - 仮に、語り手がインドで 生まれたと、しましょう。 インドにおいて、進んでいく 条件づけすべてをもち - 人種、特定集団の 条件づけです。 彼らの迷信をもち、 彼らの宗教的信念、教義、 儀礼、 社会の構造全体をもって、です。 彼は、そのイメージをもって生きます - それが、彼の条件づけです。 22:10 彼がどれほど多く同胞愛、統合、 全体性について、話をしようとも、 それらは単に言葉です。それらは 実際の日々の意味を、持ちません。 しかし彼が、そのすべての 賦課、そのすべての条件づけ、 そのすべての迷信的戯言より 自由になるなら、 そのとき彼は、イメージを 崩しつつあります。
22:49 また彼の関係において、 彼が結婚しているか、 誰かと生活しているなら、 イメージをそもそも 創り出さないことは、可能ですか。 理解されますか。 すなわち、記録しない - 楽しめるのか、または辛いかも しれない出来事を、 その特定の関係において 記録しない - 侮辱、あるいは へつらい、 励まし、あるいは挫けさせることを、 (記録しないの)です。 そのすべてが、私たちの日々の 関係に、起きつつあります。 それは、可能ですか - そもそも記録しないことは、です。 私たちは互いに出会っていますか。 なぜなら、頭脳が、心理的に 自らに起きつつあること すべてを、常に 記録しているなら、 そのときそれは、けっして 自由で静かではないからです。 それはけっして、平静では、 平和ではありえません。 24:23 機械がいつの時も、作動しているなら、 それは自ずと擦り切れます。 それは明白です。 これが、私たちの互いとの関係に おいて、起きることです。 その関係が、政治家として、 導師として、 弟子として、であり、 関係が何であっても、 あらゆる物事を常に記録 することがあるなら、 そのとき頭脳は、ゆっくりと 萎んでしまいはじめます。 それが、本質的に 老齢です。
25:15 で、私たちは、ともに訊ねています - 私はあなたに 質問していません。 ともに私たちは、究明しているし、 私たちは、この問いに出くわします - 私たちの関係において、それは 可能であるのかどうか。 その反応と微妙さ すべてをもち、 その官能的応答をともった(関係に)です。 憶えておかない可能性が あるのかどうか、です。 すなわち・ ・・ さらに説明することが 必要ですか。 仮に、私は結婚していて、 妻が私をいじめる、 私にへつらう、私を励ます、 などなど、とします。 26:23 この憶えておくことに 責任があるのは、 私たちの日々の教育です - あの苛立ちを 憶えている、 あの励ましを 憶えている、 あの憂鬱を 憶えている。 それを、彼女や 相手の人物は感じて、 その憂鬱の中に生きる。 ゆえに それは分離したと感じます。 この記録することは いつの時も、進んでいます。 私たちは訊ねています - 心理的に、ですが、 記録しないことは 可能であるのかどうか、です。 絶対的に必要なものを 記録するだけです。
27:38 頭脳は記録します。 なぜなら、それは一つの方向で 必要であるからです。 すなわち、それは、自らが学ぶようなこと すべてを、記録しなければなりません - (例えば)数学で、です。 私は、技術者であるのであれば、 知り、記録しなければなりません - すべての数学、 圧力 などなどを、です。 私は記録しなければなりません。 私は、物理学者であるのであれば、 以前の物理学者と彼らが言ってきたこと すべてを、記録しなければなりません。 私は、車の運転を学ぶのであれば、 記録しなければならない、などですが、 私たちは訊ねています - 心理的、内的に、 私たちの関係において そもそも記録することは 必要であるのかどうか、です ですね? 28:49 この、過去の物事を憶えておくこと、 それは愛ですか。 進んでください。 私が自分の妻へ、「あなたを 愛しているよ」と言うとき、 それは、 私たちがともに経てきたこと すべてを、憶えていることですか。 憶えていること - 出来事、苦労、 紛糾、格闘。 それらはすべて、記録され、 頭脳に蓄えられつつあります。 そして私が、「私は妻を 愛している」と言うとき、 その憶えていることは 実際の愛ですか。 質問を理解されますか。
30:04 で、自由であることと、そもそも記録 しないことは、可能ですか。 どうぞ、語り手から答えを 待たないでください - それが可能であるのかないのかを、です。 ともに見出しましょう。 すなわち、 完全な注意が あるときだけ、 記録しないことは 可能です。 いいです。 お示ししましょう。 なぜ私たちが説明を欲しいのか、 私は知りません。 なぜ私たちの頭脳は すばやく捉えられないのか。 即時に全体へ洞察を 持てないのか。 なぜ私たちは、このことを、 これらの真理を見て、 その真理に作動させ、 ゆえに石板を浄められないのか - 心理的にそもそも 記録していない精神、頭脳を 持つように、です。 31:44 しかし、ほとんどの人間は かなり弛んでいます。 むしろ、自らの古い様式に、 自らの特定の 思考の習慣に、 生きたいので、 彼らは、何でも新しいことを拒絶します。 なぜなら、知らないものと 生きるより、むしろ 知られたものと生きるほうが、はるかに良いからです。 知られたものには、安心があります。 少なくとも私たちは、 安心があると、考えます。 私たちは、知られたものに 安全があると、考えます。 で、私たちは反復しつづけ、歩みつづけ、 格闘しつづけます - 知られた もののその平野の中で、です。 そして、ともに発見する - 記憶が作動する 機構の過程 全体なしの 観察、です。
33:24 さて、あなたは、私に その質問をしたのです。 私たちは、あなたに 質問をしたのです。 私たちの、互いとの関係において それは可能ですか。 (関係が)親密でもあっても、なくても、 お互いについてイメージを 創り出さないことは、可能ですか。 なぜなら、そのイメージ、 過去の物事を憶えていることが - それがイメージです - 人々を分割するからです。 それはイメージだけではないが、 もし私が野心的であり、 競争していて、 最高経営責任者になろうとか、 心理的に何らかのものに なろうとしているし、 私の妻もまた同等に、他の方向で 他の何かをしているなら、 私たちはどうして関係を持てますか。 34:29 質問を理解されますか。 これは実際に、現代世界で 進みつつあることです - 男と女、 各々が、自分の特定の経歴を 探し求めています。 彼ら自身の野心、 分離した野心、 貪欲、妬み、 成功、同一視、 そしておそらく彼らは ベッドで出会います。 彼らはそれを関係と呼びます。 で、自らの日々の生において このすべてを観察し、 必然的に訊ねます - 実際にこれに基づいていない 関係が、ありますか。
35:41 そのとき、きわめて近く、深く 探究しなくてはいけません - 愛とは何ですか。 私を待っておられますか。 これは、きわめて複雑な問いです。 なぜなら、私たちみんなが、自らが何らかの ものを愛しているのを、感じるからです - 抽象的な愛だけではない。 (例えば、)民族の愛、 国民の愛、 神の愛、 園芸の愛 過食の愛。 私たちはその言葉を、こうも ひどく濫用してきました。 で、私たちは、見出さなくてはいけません - 基本的に、愛は何ですか。 そうね、愛は観念ではありません。 神の愛は、観念です。 象徴の愛も やはり観念です。 あなたが教会へ行き、 跪いて祈るとき、 あなたは本当は、何か 思考が創り出したものを 崇拝しているか、 それへ祈っています。 37:50 ですね? それで、何が起きるかを、見てください。 思考が、それを創り出したのです。 実際にこれは事実です。 あなたは、思考が創り出した ものを、崇拝します。 それは、あなたがきわめて微妙な形で あなた自身を崇拝している、という意味です。 これがたぶん、冒涜的な 発言であることは、 存じていますが、 それは事実です。 それが、世界中で 起きつつあることです。 思考が、国旗を創り出します - 特定の国の象徴を、です。 そのとき あなたは、そのために戦います。 あなたたちは互いに殺し合います。 私たちは、他の民族との競争の中で 大地を破壊します。 それで国旗は、私たちの 愛の象徴になります。 39:06 同様に、 宗教的な愛が、あります - 象徴への献身です。 またもや、思考が何をするかを、見てください。 あなたは象徴を創り出す、 思考は象徴を創り出す - その象徴の属性すべてと ともに、です。 ロマンチックだ、論理的だ、健全だ、と。 それを創り出しておいて、 あなたは、それを愛します。 あなたは、他のどのものにも 全然忍耐できなくなります。 またもや、思考がそれを創り出しておいて - あなた自身の特定の教育、 条件づけである思考が、です - あなたはそれを崇拝します。 すなわち、 あなたはあなた自身を崇拝しています。 そのようにして、導師すべてが 世界に存在するのです - 司祭者すべて、 宗教的構造すべてが、 それに基づいています。 40:22 その悲劇を見てください。 なぜなら、私たちは何百万年に 何百万年もの間、生きてきて、 私たちはやはり、 とてつもなく破壊的で、 暴力的で、残忍で、 冷笑的な人間であるからです。
40:46 そしてまた、私たちが「私は 他の一人を愛している」と言うとき、 その愛には、欲望、 楽しみが、あります - 様々な思考の活動の 投影物が、です。 で、覗き込み、見出さなくては いけません - 愛は欲望であるのか、 愛は楽しみであるのか、 愛に恐れがあるのかどうかを、です。 なぜなら、恐れがあるところ、 憎しみがあるにちがいないからです。 どうぞ、私があなたにこれらを語って いません。 これらはご存じでしょう。 恐れがあるところ、 嫉妬、心配、 所有欲、支配が あるにちがいありません。
42:08 で、関係の深さと 関係の美しさを 理解する。 なぜなら、関係には 美しさがあるからです。 宇宙全体が 関係における動きです。 宇宙(コズモス)は、秩序を意味しています。 自らが自分自身に 秩序を持っているとき、 自らは関係に 秩序を持っています。 ゆえに、私たちの 社会に秩序を、です。 で、この関係において、 探究しなければなりません - 私たちが、秩序を持つことが 絶対的に必要であると見るなら、です。 ゆえに、その秩序の中から 愛が出てきます。 欲望が何であるかを 探究しなければなりません。 いいですか? 何かになりたいとの欲望、 開明、神へ 到りたいとの欲望、 あれやこれへの欲望。 で、これが、問題の 一つであったのです。 おそらく、人間たちにとって まさに問題です。 私はこれらに入らなければなりませんか。
44:31 私たちはまた、他の何かをも訊ねなければなりません。 美しさは何ですか。 今朝、山々には雪が 見られます。 新雪です。 きれいで、麗しい光景です - あなたが寒すぎないなら、です。 そして、孤独な樹々が あの白に対して 黒く立っています。 そして、私たちのまわりの 世界を見つめると、 すばらしい機械、 とてつもないコンピューター - その特別な美しさとともに、です - そして、顔の美しさ、 絵画の美しさ、 詩歌の美しさ。 私たちは、外のあそこ、美術館に 美しさを認識するように、思われます。 あなたがコンサートに行き、 ベートーヴェンやモーツアルトを聴くとき、 または、何を聴くにしても、 大いなる美しさが、あります。 46:18 いつも、外のあそこに、です。 丘に、谷に、 流れる水に、 そして、鳥が飛ぶのと、 朝早く、クロウタドリの 囀り(さえずり)。 しかし、外のあそこにだけ 美しさが、ありますか。 または、美しさは、 「私」がないときだけ、 何か存在するものですか。 理解されますか。 あなたが、晴れた朝に あれらの山々を 見つめるとき - きらめく青空に対して 鮮やかです。 私はロマンチックになっていません。 その荘厳さこそが、 あなた自身の蓄積された記憶 すべてを、追い払います。 47:41 一瞬の間、です。 それに注目なさったことがないですか。 そこで、外的な美しさ、 外的な荘大さ、 あの山の 荘厳さと強さが あなたの問題すべてを、拭い去ります。 一秒間、あなたの中から あらゆる物事を、です。 あなたは、あなた自身を忘れたのです。 あなた自身の全的な不在が あるところ、美しさがあります。 しかし、私たちは、私たち自身から 自由ではありません。 私たちは、ひどく利己的な人々です。 私たち自身に関心を持っています。 - 私たちの問題に、 私たちの苦悶に、 私たちの悲しさに、私たちの さびしさに(関心を)、です。 その絶望的な さびしさの中から、 私たちは、何らかの物事との 同一視が欲しいのです。 49:10 そのさびしさの中から、私たちは 誰かに縋りつきます - 信念に、観念に、 人物に、 特に人物に、です。 その依存において 私たちの問題すべてが、生じます。 そして、依存があるところ - 心理的に、です - 恐れが始まります。 あなたが何かへ繋がれているとき、 腐敗が始まります。
50:19 で、欲望は何であるかの、この 問いに、入らなければなりません。 なぜなら、それは 私たちの生において 最も切実で肝心な衝動であるからです。 私たちは、特定の物事への 欲望について、話していません。 欲望自体(について)、です。 何かへの(欲望)、ではない。 よく気をつけて、それに入りましょう。 なぜなら、自ら知っているにちがいないですが、 すべての宗教は、こう言ってきたから です - 「神に仕えたいのなら、 欲望を屈服させなさい。 欲望を破壊しなさい。 欲望を制御しなさい」と。 すべての宗教が言ってきました - 「その欲望を、思考が創り出した イメージで代替しなさい」と。 キリスト教徒が 持っているイメージ、 ヒンドゥー教徒、仏教徒、その他すべてが、です。 あなたは、現実を イメージで代替します。 これらに付いてきてください。 現実は欲望です。 それが 燃えさかることです。 自らは、それを他の 何かで代替することにより、 それに打ち勝てると、 考えます。 52:14 これが、すべての宗教的な 考えの様式であったのです。 または、「それへ降参しなさい - すなわちあなたが、主人である、 導師である、象徴である等と、 考えるものへ」と。 それは、またもや 思考の活動です。 これらに付いてきておられるのか どうか、私は知りません。 で、よく気をつけて、欲望の動き 全体を 理解しなくてはいけません。 というのは、明白に、 欲望は愛ではない、 欲望は慈悲ではないからです。 愛と慈悲なしに、 冥想はまったく 無意味になります。 なぜなら、愛と慈悲は、自らの 智恵を持っているからです。 それは、ずる賢い思考の 智恵ではありません。
53:30 で、私たちはともにしましょう - 語り手は本気で、ともに、と言っています - 語り手が説明し、 あなたが従うのではない。 そのときあなたは、単に 従う者になるでしょう。 ところが、私たちのどちらも、ともに 一歩ずつ、 欲望の本性を理解するなら - なぜそれは、私たちの生において、こうも とてつもない重要性を、果たしてきたのか、 どうそれが明瞭さを歪曲するのか、 どうそれが、とてつもない愛の 性質を阻止するのかなどを、です。 私たちが理解することが、 重要です - 抑圧しない、 それを制御しようとしない、 それを特定の方向へ 指向させないのです - それがあなたに平和とその他 すべてを与えてくれようとも、 むしろ、ともに検討する - どうぞ、ともに、です - 欲望の本性と動きを (検討するの)です。 進みましょうか。 あなたは疲れていませんか。 ここはすてきで、暖かい。
55:20 どうぞ、留意してください - 語り手は、あなたに印象づけよう、 あなたを導こう、 あなたを助けようと していません。何もない。 ともに私たちは、歩んでいます - おそらく手に手を取って、 きわめて微妙な、 複雑な小道を、です。 お互いに 聞き合わなくてはいけません。 欲望についての真理を見出す ように、聞かなくてはいけません。 その真理を理解するとき - 欲望の 意義、意味、 充実、真理を、です - そのとき欲望は、自らの生において まったく違った価値や 衝動を、持っています。
56:28 また、他の何かをも 見つめなければなりません。 すなわち、あなたが 欲望を観察するとき、 あなたは、欲望を見つめる外部者として、 それを観察していますか。 またはあなたは、欲望が生ずるままに、 それを観察していますか。 欲望は、何かあなたより 分離したものではなく、 あなたが欲望です。 違いが見えますか。 私は、自分が持つ 欲望を、観察するのか - 私が店のウィンドウに、何かうれしい ものを、見るとき(のように)、です。 私は、それを買いたいとの 欲望を、持ちます。 そのとき、対象物は 私より異なっています。 対象物は異なっていますが、 欲望は私です。 で、欲望の知覚が あります - 欲望を見守る 観察者なしに、です。 私はこれを、幾らか 明らかにしつつありますか。 いいえ。よろしい。 説明しましょう。
58:08 私は樹を見つめられます。 「樹」は、言葉です - すなわち、 それにより、野原に立っている ものを、私が認識するものです。 しかし、私はまた、言葉が樹では ないことをも、知っています。 ですね? 言葉は、樹ではありません。 私の妻は、言葉ではありません。 が、私は言葉を、私の妻に したのです。 これらの微妙さをご覧になるのか どうか、私は知りません。 で、私は始まりから、きわめて 明らかに理解しなければなりません - 言葉はそのものではないことを、です。 欲望という言葉は その感じではありません。 あの反応の裏に、 あれが持つ とてつもないエネルギー、ではない。 で、私は自分が言葉に捕らわれていないように、 よく見張っていなければなりません。 59:35 また、頭脳は、活動的でなければ なりません - 対象物が 欲望を創り出すかもしれないが、 対象物より分離している 欲望があることを、 見られるほどに、です。 これらに付いてきていますか。 私たちはともに、ここにいますか。 私たちは、言葉がそのものではない ことに、気づいていますか - 欲望は、欲望を見張っている観察者 より、分離していないことを、です。 すなわち、対象物が欲望を 創り出すかもしれませんが、 対象物より独立した 欲望が、あるのです。 一人一人が、分離した欲望を 持っています。 宗教、自分の神、 世俗的なもの、などなど、です。 で、このすべてに 気づいていなければなりません。
1:01:00 で、私たちは、見出そうとして います - 欲望とは何ですか。 店のウィンドウや路上の 対象物や、 私が見る人物ではなく、 欲望はどう生じますか。 欲望はどう花開きますか。 なぜこれはその裏に、こうもとてつも ないエネルギーを、秘めていますか。 どうぞ、私たちはともに、ここにいます。 私が説明し、あなたが従うのではない。 ともに私たちは、動いています。 なぜなら、これは、関係において 大きな重要性を、持つからです。 もし、欲望の本性を 深く理解しないなら、 私たちはいつも、互いとの 葛藤(状態)にいるでしょう。 私は一つのことを欲望し、私の妻はもう 一つのことを欲望するかもしれません。 私の子どもたちは、何か全然違った ことを、欲望するかもしれません。 で、私たちは、いつも 互いにいがみ合っています。 この闘い、この格闘が 愛、関係と呼ばれています。
1:02:51 私たちは訊ねています - 欲望の起源は何ですか。 欲望はどう始まりますか。 聴衆: (聞き取れない)
1:03:07 K: どうぞ、 次の日曜日の後、 質疑応答があるでしょう。
1:03:11 だから、どうぞ、そうなさってください - 気にされないなら、です。 そのとき私たちは、 質問を書きとめられるし、 私は応答するでしょうが、 今ではない。 気にされないなら、です。 私たちは訊ねています - 欲望の起源は何ですか。
1:03:51 私たちはこれにおいて、 きわめて誠実で、きわめて 正直でなければなりません。 なぜなら、それはきわめて、 きわめて欺瞞的で、きわめて 微妙であるからです - 私たちがその根を 理解するのでなければ、です。 私たちのほとんど、私たちのみんなにとって、 感受は重要です - 感覚的な応答、です。 ですね? 触れる、味、 臭い、聞こえる。 私たちのほとんどにとって、 特定の感覚的応答のほうが 他の応答より 重要です。 私たちは、芸術的であるなら、 特別に何かを見ます。 私たちは、技術者やあれや これやとして訓練されるなら、 そのとき、感覚的応答は 異なっている、などです。 1:05:10 で、私たちはけっして、 感覚的応答すべてでもって 全的に観察しません。 私たちは応答するか、 何か特別なものについて 自らの応答において、観察します - 分割されて、です。 さて、あなたの感覚すべてでもって 全的に応答することが 可能であるのかどうかを、 見出しましょう。 その重要性を見てください。 すなわち、あなたの感覚すべてで もって全的に応答するなら、 中心化された観察者の 消去が、あります。 これらに付いてきておられるのか どうかと、思われます。 しかし、私たちが、分離された 特定のものに、応答するとき、 そのとき、その分離において 分割が始まります。 1:06:27 あなたがこのテントから 出ていくとき、見出しなさい - あなたがあの川を見つめるとき、 流れる水を、 水面の光、 水の速さを、です。 あなたが自らの感覚すべてでもって、それを 見つめられるのかどうかを、見出しなさい。 どうやってかを、私に訊かないでください。 そのときそれは、機械的になります。 理解されますか。 しかし、あなたが 「それを見てみよう。 見出そう」と言うなら - すなわち、感覚的応答を 理解することにおいて 私たち自身を教育するのです - それら(応答)は全的になるでしょう。 私は、他の何かへ戻って こなければなりません。 - すみません - それは、その一部だけです。
1:07:32 私たちは訊ねています - 欲望の起源は何ですか。 私たちが言いましたように、感覚的応答です。 私たちは、感覚的応答で、始めます。 あなたは何かを見ます。 見ることが、応答を もたらします。 あなたは、緑のシャツや 緑のドレスを、見ます。 見ることが、応答を目覚めさせます。 そのとき、接触が起きます。 そのとき、その接触から 思考がイメージを創り出します - あなたがあのドレスを着ているのか、 あなたがあの車に乗っているのか、 あなたがあの家にいるのを、です。 で、それを見守り、 ゆっくりこれに入ってください。 感覚的応答、 見ること、聞こえること、 味わうこと、感覚的応答、 そのとき接触、 眼でもってだけではなく、 それに触れる。 そのとき思考が、あなたがあのシャツを 着たイメージを、創り出す - または、あのドレスを着たのか、 あの車に乗ったのを、です。 1:09:36 そのとき、欲望が生じます。 これに付いてきていますか。 道路で車を見る - すてきな線、 磨き上げられている等、 秘めた力。 そのとき私は、それに触れます。 触れて回る、回ってみる。 エンジンを試験する。 そのとき思考は、 私が車へ乗り込む イメージを、創り出す。 そして点火装置を付けて ペダルを踏み、運転する。 いいえ、ただそれを見てください。 これが実際に、進むことです。 ですね? で、欲望が始まります。 欲望の起源は、思考が イメージを創り出すとき、です。 そのときまで、欲望はありません。 感覚的応答、 接触が、あります - それは平常です。 だいじょうぶです。 健康的ですが、 そのとき思考は イメージを創り出します。 その秒から 欲望が始まります。 よろしいですか。 1:11:11 私は、美しい花瓶を見ます。 その姿、その美しさを 見ます。 (古代)ギリシャのものとその他すべてです。 私はそれに入らないでしょう。 それに触れる、それを見つめることが - それの美しさを、です - 次第にイメージを創り出す。 それを欲しい - 始まります。
1:11:42 これが明らかであるなら、 そのとき、問いはこうです - 思考がイメージを創り出さない ことは、可能ですか。 これを理解されますか。 これは、欲望について学ぶことです - それはそれ自体が修練です。 それについて学ぶことが、修練です。 欲望を制御することが、ではない。これを 理解なさるのかどうかと、思われます。 これは明らかですか。 欲望について学ぶこと。 あなたが何かについて学ぶなら、 それは終了しています。 ところが、あなたが「私は欲望を 制御しなければならない」と言うなら、 そのときあなたは、全的に、 すっかり違った平野に、います。 1:12:39 しかし、あなたがこう言うなら - 「ほら、 私は今、思考がイメージを 創り出すとき、その秒に 欲望が始まることを、理解する」と。 さて、この動きの全体を 見ることは、可能ですか - その区分だけではなく、 その全体を、です。 その全体を見るとき、あなたは 理解するでしょう - すなわち、思考がそのイメージ でもって介入しないだろうこと、 ただあなたは見る、 感受を持つだけのことを、です - それのどこが、いけませんか。 理解されますか。 いいえ、理解なさらない。
1:13:33 なぜなら、そうね、私たちはみんな、 欲望について、こうも狂っているからです。 私たちは、欲望をとおして 自分自身を充足させたいのですが、 私たちは、欲望が世界に 創り出してきた荒廃が、見えません。 個人的な安全への 欲望、 個人的な到達、 成功、 権力、地位、威信への欲望、 よろしいですか。 私たちは、自らがすることすべてへ 全的に責任があることを、感じません。 自らが欲望を理解するなら - その本性を、です - そのとき欲望は、どんな所を持ちますか。 または、愛があるところ、 それは、何か所を持ちますか。 愛は、とてつもなく 人間存在の外側の何かであり、 で、それは本当に、実際に まったく価値を持たないのですか。 または、私たちは、 この言葉の美しさと深さと 偉大さ、神聖さを 見てこなかったから - その言葉ではなく、 現実を、です - 私たちは、研究するため、 自分自身を教育するため、 それが何であるかを理解するための エネルギー、時間を、持っていないのです。 1:15:50 なぜなら、自らの智恵を ともなった愛と慈悲なしには、 冥想はほとんど 意味がないからです。 そして、あの香りなしには、 永遠であるものは けっして見つけられません。 そういうわけで、私たちの家を 整えることが、重要であるのです - 私たちが居住する家を、です。 外的に住宅だけではなく、 私たちの生の家、私たちの存在の、 私たちの闘争の家、そこに、 完全な秩序をもたらすことが、です。 終了しました。
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