Krishnamurti Subtitles
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SA81T5 - 頭脳は全的に自由でありうるのか
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| 0:50 私たちは、もう三回の 講話を行います。 今日と 木曜日と日曜日です。 私たちは、これら三回の講話の間に かなり扱わなくてはいけません。 初めに、私たちはともに 考慮しなくてはいけません - 頭脳は、今、 部分的に 作動しているだけですが、 その頭脳は、全体的に、 完全に機能する能力を 持っているのか どうかを、です。 その問いへそもそも入られたことが あるのかどうか、私は知りません。 なぜなら、私たちは今、その一部分を 使っているだけだからです。 これは、どの専門家へ行くこともなく 自分自身で観察できます。 どの専門化も、 それは必要であるかもしれませんが、 その専門化は、頭脳の一部分だけが 機能するのを、 もたらさないのかどうかが、 分かります。 2:46 もし自らが科学者であり、 その主題を専門としているなら、 当然に、一部分だけが 機能しています。 または、自らが数学者 などであるなら、です。 そして私たちは、訊ねています。 ともに私たちは訊ねています。 私たちは あなたに、その問いを課していません。 私たちは、この質問をしなければ なりません - 頭脳は・ ・・ 現代世界において、自らは専門化 しなくてはいけないけれども、 頭脳が全体的に、完全に機能するよう 許すことは、可能であるのか どうかを、です。 それが、私たちが今朝、 議論しようとしている 問題の一つです。 |
| 3:49 他の問題は、こうです。 人類に、私たちみんなに、何が 起きようとしているのか - コンピューターが 人より正確に、はるかに速く、 急速によく 考えられるが、 コンピューターの専門家たちが それはできると言っているように、 ロボットの助けでもって もしそれができるなら、 そのとき人は、一日、二時間の 仕事を持つだけでしょう。 これが、次の五年、十年、二十年の 内に起きようとしています。 そのとき人は、何をするのでしょうか。 人は、娯楽分野に 従おうとしているのか - それはすでに起きつつあります。 スポーツはますます 重要になりつつあります - あなたがテレビを 視てきたなら、です。 5:26 いろいろな形での娯楽、 サッカー、 そうね、それらが 起きつつあります。 そしてまた、宗教的な娯楽も、です。 人類は、 娯楽の動き全体に 従おうとしているのか、 あるいは、 内的に 向かおうとしています。 それは娯楽ではありません。 それは、はるかに大きな 能力を、要求します - 観察、検討、 非人格的な知覚などの (能力)を、内的に、です。 これらが、二つの可能性です。 これが、すでに起きつつあります。 娯楽の世界が 取って代わろうとしています。 映画とその他すべてです。 6:36 または、コンピューターは 新しい宗教を、定式化できます - すべての宗教を まとめて、 総合し、何か全然 新しいものを、もたらします。 それはもう一つの形の娯楽ですが、 人類はそれに従うでしょう。 または、何か全然違ったものへ 入るでしょう。 それが、一つの問題です。 |
| 7:11 他方は、こうです - 私たちの意識の 内容全体は 基本的に恐れ、 楽しみ、 楽しみの追求と 恐れの回避と、 人類の苦しみです。 それが、私たち人間の意識の 基本的な内容です - その多様性とともに、です。 これらが、人が向き合っている 三つの問題です。 人類が娯楽に従おうとしている なら、それはきわめて単純です。 そして、これらの集会が、一つの 形の娯楽ではないことを、望みます。 |
| 8:14 そしてまた、 頭脳は、 全体的に機能できるように、 全的に自由でありうるのかどうか、です。 なぜなら、どの専門化も、 どの、一定の道、一定の溝、 一定の様式に 従うことも、 必然的に、頭脳を部分的に 機能させるにちがいないし、 ゆえに、制限されたエネルギーです。 私たちはこれらについて、ともに 考えていることを、望みます。 |
| 8:56 そして私たちは、 専門化の世界に、生きます。 技術者、物理学者、 外科医、 大工 - そうね、 機械的な世界全体です。 また、特定の信念の、 特定の教義、儀式の 専門化も、です。 それらはすべて専門化です。 一定の専門化は - 外科医、大工仕事などの ように、それは必要ですが - その専門化にも かかわらず、頭脳は、 部分的にではなく、 完全に、全体的に機能でき、 ゆえに、ものすごいエネルギーを 持てるのかどうか、です。 10:02 私たちが互いに付いて きていることを、望みます。 私たちはともに考えていますね? これは、私たちの誰にとっても そもそも問題ですか。 または語り手が、この問題を あなたに課しつつありますか。 私たちは、こうも多くの問題を持っています。 なぜ私たちはこうも多くの問題を 持っているのか、私は知りませんが、 すでに無数の他の問題へ もう一つの問題を 付け加えないように しましょう。 これはきわめて深刻な 問いであると、私は思います。 すなわち、私たちがともに 探究しなくてはいけないものです。 |
| 10:47 もしあなたが、あなた自身の 活動を、観察するなら - 自分自身の活動を、です - あなたは、頭脳がきわめて部分的にだけ 作動することを、 ますます見つけるでしょう。 ほとんど作動しなくて、 ゆえに、私たちのエネルギーは ますますますます少なくなる - 私たちが年を取るにつれて、です。 生物的に、物理的に、 私たちは、若いとき、 この活力に満ちていますが、 私たちは教育を受け、 生業に従うにつれて - それは専門化が必要です - その頭脳は、小さく 狭くなり、制限されます。 ゆえに、エネルギーは、ますます ますます少なくなりますが、 それは、自らの活力を持っています。 |
| 11:48 で、私たちは訊ねています。 その頭脳は - それは一定の形の専門化を 持たなくてはいけないとしても - 必ずしも宗教的ではない。 なぜなら、それは迷信であるからです。 私たちはそれらを外せます。 仮に、私は外科医である、とします。 私は専門化しなくてはいけません。 それにもかかわらず、頭脳は 全体的に作動できるのかどうか、です。 それは、 その裏の百万年の ものすごい活力すべてでもって、 全体的に、完全に作動できます - それが完全に自由であるときだけ、です。 私たちは互いに出会っていますか。 問いとして、私たちは 探究しようとしています。 頭脳はいったい全的に 自由でありうるのかどうか、です - 専門化は生計のために必要ですが、 (専門化)それにも かかわらず、です。 13:02 コンピューターが取って代わるなら、 それは必要でないかもしれません。 それは外科手術に取って代わらない でしょう - 明白です。 それは、美しさの感じに 取って代わらないでしょう - 夕べの星を、オリオン座、 プレアデス(すばる)などを 見つめることに、ですが、 それは、他の機能にすっかり 取って代わるでしょう。 で、人間の頭脳は、全的に 自由でありえますか - どの形の執着もなく、 です。 なぜなら、 どの種類の執着も、 物理的なもの、 一定の信念、経験 などへの執着・ ・・ 頭脳は、完全に 自由でありえるのか・ ・・ もし頭脳が、そう全的に 自由でありえないなら、 それは衰退しはじめるでしょう。 なぜなら、それが問題により、 専門化、生計 などなどにより 占有されているとき、 それは活動的であるからです。 15:00 頭脳は活動的ですが、 コンピューターが この活動に取って代わるとき、 頭脳は、ますます問題を 持たなくなるでしょう。 ゆえに、それは次第に 衰退するでしょう。 これは起きつつあります。それは 何か未来のことではありません。 あなたが自分の活動を観察するとき、 それは今、実際に起きつつあります。 |
| 15:32 いいですか? で、問いはこうです。 私たちは答えを見つけなくてはいけません - 頭脳は、全的に 自由でありえ、ゆえに 部分的にではなく、すっかり 機能できるのかどうか、です。 そして、私たちの意識は、 その内容とともに、 (すなわち、)基本的に恐れ、 楽しみの追求と、 その含蓄すべてと、 嘆き、痛み、悲しみ、 内的に傷ついたことなど、です。 それが、自らの意識の 基本的な内容です。 あなたは、他の形の意識を 持っているかもしれません - 集団意識、 人種的な意識、 民族的な意識、 特定の集団の意識、 カトリック集団(の意識)、 ヒンドゥー集団の意識などなどですが、 基本的に、 内容をもった意識は 恐れ、楽しみ、 楽しみの追求、 痛み、悲しみ、死です。ですね? 17:12 これが、私たちの意識の 中心的な内容です。 どうぞ、私たちは ともに考えています。 私たちは、ともに考えています。 ともに検討しています。 語り手は、何をも 定めていません。 私たちはともに、存在の現象 全体を、観察しています - 人間存在、すなわち 私たちの存在の(現象を)、です。 私たちが先に指摘しましたように、 私たちは人類です。 なぜなら、私たちの意識は それが西洋世界に生きている キリスト教徒であっても、 中東にでも、 アジア世界にでも、 その意識、それの内容は 基本的に恐れ、 楽しみの追求、 痛み、傷、悲しみと、 このすべてのけっして 終わらない重荷であるからです。 で、私たちの意識は 人格的、私のではありません。 これは受け入れることが、きわめて困難です。 18:32 なぜなら、私たちは、条件づけられ、 教育されてきたので、 この現実に抵抗するからです。 それは、私たちがそもそも 個人ではない、という意味です。 私たちは、人類の全体です。 それは、ロマンチックな観念ではありません。 それは、哲学的な概念 ではありません。 それは、絶対的に理想ではありません。 それを間近で検討するなら、 それは事実です。 で、私たちはともに見出そうと しています - すなわち、頭脳は その意識の内容から自由で ありうるのかどうかを、です。 |
| 19:53 なぜ皆様は、聞かれますか。 なぜあなたは語り手に 聞かれますか。 または、語り手に聞く中で、 あなたは、あなた自身に聞いています。 いいですか。 それが、起きつつあることですか。 語り手は 指摘しているだけです。 彼は鏡として作用しています - そこに あなたは実際に、あなた自身を見るのです。 自分の意識の現実は - 叙述、ではありません - (現実)それを、語り手は 指摘しています。 叙述を、ではありません。 それは単に観念になります - もしあなたが単に叙述に 付いていくだけなら、です。 しかし、叙述をとおして あなた自身は実際に、あなた自身の 精神、頭脳の状態、 あなた自身の意識を、知覚します。 そのとき、語り手に聞くことは 一定の重要性を、持っています。 21:33 しかし、あなたが単に、電話のように 語り手に聞いているだけなら、そのとき それは、ほとんど価値を持ちません。 ですね? で、どうぞ、 これらの講話と質疑応答の 終わりに、あなた自身に こう言わないでください - 「私は変化していません。 なぜ 私は変化しなかったのですか。 それはあなたの過失です。 あなたは長年、おそらく 六十年間、話してきたが、 私は変化していないのです」と。 それは、語り手の過失ですか。 または、あなたがそれを 適用できなかったのか。 それで、あなたが適用しないのなら、 当然に、それは 語り手の過失です。 そのときあなたは、冷笑的になり、 あらゆる種類の 不条理なことをします。 で、どうぞ、留意してください - 私たちは語り手に 聞いているのではなく、 叙述と言葉をとおして、 私たちは 私たち自身の意識を 見つめていることに、です。 (私たちの意識)それは 人類すべての意識です。 23:14 西洋世界は、宗教的に 一定の象徴、一定の人物、 一定の儀式を 信じているかもしれないし、 東洋の世界もまた 同じものを持っていますが、 その裏に、同じ恐れ、 同じ楽しみの追求、 嘆き、痛み、傷ついたこと、 これを欲しいこと・ ・・ その全体が 共通の人類の動きです。 ですね? |
| 23:52 で、聞く中で、私たちは 私たち自身について、学んでいます。 叙述に従っていて、 ゆえに叙述を 学んでいるのではなく、 実際に、見るのを学んでいて、 ゆえに、全的な自由を もらしつつあります。 (自由)そこでは 頭脳の全体が作動できるのです。 ですね? 結局のところ、 冥想、 愛と慈悲は、 頭脳の全体の 作動です。 全体の作動が あるとき、 統合的な秩序が、あります。 25:09 統合的な内的な秩序がある とき、全的な自由があります。 何か時なく神聖であるものが ありうるのは、 そのときだけです。 それは褒賞ではありません。 それは、何か達成される ものではありません。 それは訪れます - 永遠に時なく、 神聖であるものが、です。 頭脳が全的に自由であり、 全体的に機能できるときだけ、です。 そして、その全体性の中に 秩序があり、それで自由があります。 |
| 26:05 で、それを述べた後、ともに 前進して、見出しましょう - 私たちの意識の 内容は - それは思考の作動です - 内容は、思考の活動すべてにより 組み立てられています。 私たちはそれに入るでしょう。 その内容はいったい 自由でありえて、 それで、全的にすっかり違った 次元があるのかどうか、です。 ですね? 初めにともに、楽しみの動き 全体を、観察しましょう。 生物的、性的な楽しみだけが あるのではない。 所有に楽しみが、 お金を持つことに楽しみが、 あなたが目指して働いてきた何かを 達成することに、楽しみがあります。 27:48 政治的、宗教的な 権力に、楽しみがあります - 或る人物に対する権力、 知識の取得と、 その知識の表現には、 教授として、 作家として、詩人としての 権力です。 知識をとおして 訪れる満悦。 そして、きわめて厳格な、 道徳的な、禁欲的な生を 送ることの楽しみ。 通常の人には 共通していない何かを 内的に達成することの 楽しみ。 これが、何百万年の間、 私たちの存在の 様式であったのです。 私たちの頭脳は、それに条件づけられています。 ゆえに、私たちの頭脳は 制限されてきました。 29:20 ですね? これをご覧に なるのかどうかと、思われます。 何でも条件づけられているものは 制限されているにちがいありません。 ゆえに、頭脳が これらの形と、他の多くの形の 楽しみを追求しているとき、 それは必然的に、小さくなり、制限 され、狭くなるにちがいありません。 たぶん無意識的に これを悟って、 自らは、いろいろな形の 娯楽を、探し求めます - セックスをとおした(解放)、 いろいろな種類の充足などを とおした解放を、です。 ですね? どうぞ、それをあなた自身に観察してください。 あなたは私に聞いていません。 あなたは、あなた自身に聞いています - あなた自身の日々の生の活動を、です。 30:26 もしあなたが観察するなら、 あなたの頭脳は、一日中、 何らかのことで、占有されています。 果てしなくおしゃべりし、話しています。 それは、進みつつあります - けっして 止まらない機械のように、です。 それで、頭脳は次第に 自ずと擦り切れつつあります。 それは、非活動的になろうとしています - コンピューターが自らの所を 取ってしまおうとするなら、です。 すべてのことを コンピューターは、するでしょう。 |
| 31:23 で、なぜ人は、 人間は、 この永続的な楽しみの追求に 捕らわれていますか。 なぜですか。 どうぞ、見出してください。見出しましょう。 それは、人はこうも まったくさびしいからですか。 あの孤立の感覚からの 逃避ですか。 それは、人が子ども時代からこれに 条件づけられてきた、ということですか。 それは、思考が 楽しみのイメージを 創り出し、それを 追求するからですか。 よろしいですか。 で、私たちは、ともに訊ねられますか - 思考は楽しみの起源で あるのかどうか、です。 ですね? そうですか? すなわち、自らは或る種の 楽しみを、持ってきました - きわめて美味しい食べ物を食べること、 性的なこと、 あるいは、へつらわれる 感覚、などなどです。 33:29 思考は・・・ むしろ、頭脳はそれを 登録してきました。 こうも多くの列車があるのを 私は知りませんでした。 これらの出来事は 楽しみを、もたらしてきましたが、 それらは、頭脳に 記録されてきました。 昨日か先週の あの楽しみを 憶えていること - その憶えていることは 思考の動きです。 それで、思考は 楽しみの動きです。 ですね? 思考は、あの出来事を 登録したのです - 楽しめる、興奮すること、 憶えておく甲斐があることを、です。 それは、蓄えられ、保たれ、 執着されます。 そして思考は、未来に投影し、 それを追求します。 ですね? |
| 35:19 で、そこでの問いは、こうです - なぜ思考は、または、 過ぎて終了した 出来事の記憶は、 続きますか。 それは、私たちの占有(没頭)の一部ですか。 金銭、権力、地位を 欲しい人は、 365 00:35:51,400 --> 00:35:55,740 永続的にそれに占有されています。 おそらく同様に、 頭脳は、この憶えていることの 問いでもって、占有されています - 一週間前、大きな楽しみを 与えた何かが 頭脳に保たれたものの(問いで)、です。 思考は、未来の楽しみを投影し、 それを追求します。 これが 楽しみの反復です - それは 思考の動きです。 ゆえに、制限されています。 ですね? 私たちはこれを 見るのかどうかと、思われます。 ゆえに頭脳は、けっして 全体的に機能できません。 それは、部分的に機能できるだけです。 |
| 36:47 さて、 次の、生ずる問いは - 私は何をすることになりますか。 これが思考の様式であるなら、 思考はどうすれば、止まりえますか。 または、頭脳はどうすれば、昨日の あの出来事を、登録しないでいられますか - 私に喜びを与えてくれたことを、です。 それが明白な問いです。 ですね? さて、なぜあなたは、そういう 問いを出しますか。 ただそれを究明してください。 なぜですか。 それは、 あなたが楽しみの動きから 逃避したいし、 その逃避こそが、別の形の 楽しみであるからですか。 言っていることを理解されますか。 いいですか? ところが、あなたがこう言うなら - 「ごらん。 これが事実だ。 事実は、大きな喜び、楽しみ、 興奮を与えた出来事、 そして事実は、それが去った、 ということだ。 それは、一週間前に起きたことのであり、 生きているものではない。 それは、あのとき生きているものだったが、 今、それはそうではない」と。 ですね? 38:31 あなたは、先週の楽しみ、 娯楽、興奮を 終了させられますか。 終了した。 それを終わらせる。 それを持ち越さない。 それは、どうそれを終らせるのか、ではない。 それは、どうそれを止めるのか、ではない。 ただ事実を見る - 頭脳が どう作動しているのか、 思考がどう作動しているのかを、です。 自らがそれに気づいているなら、 思考自体が終わりに なるでしょう。 すなわち、先週の楽しみを 登録することが 終わった、終了した。 ですね? どうぞ、皆様、 もし私たちがこれをしないのなら、 語り手がそれを 明らかにしないのを責めて、 ゆえに冷笑的にならないでください。 または、冷笑的でいるのを助けられないでください。 |
| 39:54 他の問題は、恐れです。 またもや、これは 人類すべての共通の地盤です - あなたが小さな家に生きていても、 宮殿に、でも、 あなたが仕事を持っていなくても、 たくさん仕事を持っていても、 あなたが、地上の あらゆる物事について ものすごい知識を持っていても、 あなたが司祭者であっても、 あなたが、 神の - または、何のでもです - 最高の代理人であっても、 やはり、人類すべてに、深く 根づいたこの恐れが、あります。 それが、人類すべてが拠って立つ ところの共通の地盤です。 40:55 それについて疑問はありません。 それは、絶対的な 取消不可能な事実です。 それは反論できません。 それは事実です。 またもや、頭脳がこの恐れの 様式に 捕らわれているかぎり、 その作動は制限されています。 ですね? ゆえに、それはけっして 全体的に機能できません。 で、私たちは、そうしてしかるべき です。 それは必要です・・・ もし人類が、機械としてでなく、人間 として完全に生存するのであるなら、 この恐れから全的に自由であることが 可能であるのかどうかを 自分自身で見出さなければなりません。 物理的な恐れだけではない - 職を失うことの、 怪我をすることの、 先週経験した痛みがあることの (恐れ)、 そして、その痛みの思い出を 持ち運び、 ゆえに、その痛みが 発生しないことを、望みます。 そこには恐れが関与しています。 生物的な恐れが、あります。 42:29 そして、深い心理的に 根づいた恐れです。 あなたは、あなた自身を見つめています。 語り手を、ではない。 語り手は重要ではありません。 重要なのは、私たちの意識の 内容を見つめることです - その恐れとともに、です。 私たちは、様々な形の恐れに について、話していません - 老齢の恐れ、 死の恐れ、 さびしさの恐れ、 心配の恐れ、 憎しみを生み育てる恐れ、 到着しない、達成しない、 充足しないことの恐れ、 涅槃に 到らないことの恐れ - 何でもあなたが 霊的に到りたいものに、です。 43:40 私たちは、恐れの対象ではなく、 恐れ自体について、話しています。 いいですか。違いが分かりますか。 私たちは、何かについて恐れています。 または、何かへの恐れ、 昨日の恐れや、 明日の恐れ、 それは、時の恐れです。 |
| 44:10 ですね? 私は、それに少し 入ろうとしています。 で、私たちは恐れについて、話しています。 それ自体、です。 恐れの表現、ではない。 明らかですか。 恐れは何ですか。 恐れがあるとき、あなたは・ ・・ いいえ、違ったように表しましょう。 恐れがあるとき、 まさにその瞬間に、 恐れとしての認識が、ありますか。 質問を理解されますか。 私に恐れがある、と仮定します。 その恐れは、 それが、反応が起きつつある 瞬間に、叙述可能ですか。 または、後で、ですか。 後は、時です。 これをご覧になるのかどうかと、思われます。 いいですか。私たちは ともに、ここで出会っていますか。 私は恐れています - 仮に、私は恐れているとします。 私は何かについて 恐れているのか、あるいは、 私は、過去に何か自分が してきたことを、恐れています - あなたに悟られたくない、 知られたくないことを、です。 または、何か過去に 起きてきたことで、 それが再び、あの恐れを目覚めさせます。 46:04 または、対象なしに、それ自体で 恐れがありますか。 恐れがあるとき、その秒に 私はそれを、恐れと呼びますか。 または、それが来てしまった後だけですか。 これらを理解されますか。 それは確かに、 それが起きてしまった後です。 ですね? それはどういう意味ですか。 他の恐れの 出来事の記憶が 頭脳に保たれてきました。 そして、反応が 起きる瞬間、 記憶は、「あれは恐れだ」と言います。 ですね? 私たちはともに、ここにいますか。 私はもう一度説明しましょう。 神様。私たちはいかに 説明に依存するのか。 何とひどい。 |
| 47:27 私はその瞬間に、認識します・・・ あの感じの即時性で もって、です。 あなたはそれを、恐れと呼びません。 私がそれに恐れと名づけるのは、 それが起きてしまった後だけです。 それを恐れと名づけることは、 生じて、 恐れを引き起こしてきた 他の出来事を、 憶えていることです。 私は、過去のあれらの恐れを 憶えています。 そして、新しい感じが生じます。 私は即時にそれを、「恐れ」という 言葉で同一視します。 ですね? それは十分に単純です。 で、いつも記憶が、現在へ 作動しつつあるのです。 |
| 48:26 で、私たちは探究しています。恐れは何ですか。 恐れは時ですか。 何か一週間前に起きたことの 恐れ - すなわち、私が恐れと名づけた 感じを引き起こしたこと(の恐れ)、 そして、それが再び起きてはならない との未来の含蓄、 それは起きるかもしれないし、 ゆえに私はそれを恐れています。 で、私は、私自身に訊ねているし、 あなたは、あなた自身に訊ねています。 恐れの根であるのは 時ですか。 いいですか? あなたはこれらに 退屈しつつありますか。 いいえ。そうでないのを望みます。 で、時は何ですか。 |
| 49:36 これを理解されますか。 時計による時は、 きわめて単純です。 一定の時に日の出が、 一定の時に日の入りが、あります。 そして昨日、今日、明日。 それは、時の自然な順序です。 また、私たちには、 心理的な時も、あります。 すなわち、 先週起きて、 楽しみを与えてくれたか、 恐れの感覚を目覚めさせた 出来事、 そして、それを憶えていること、 現在において投影し、修正される だけではなく、未来も、です。 私は職を持たないかもしれない。 私は自分の地位を失うかもしれない。 私は自分のお金を失うかもしれない。 私は 自分の妻を失うかもしれない - 時ですね。 で、恐れは、時の一部ですか。 51:03 そのように見えます。 いいですか? そして、心理的な時は何ですか。 時計による時があります。 明白です。 列車に乗らなくてはいけないなら、 それは固定されています。時があります。 ここからそこへ行くことは、 時を必要とする、などです。 時は空間を含蓄しています。 ですね? 空間が必要な、 物理的な時だけではない。 また、空間が必要な 心理的な時も、あります。 昨日、先週、 今日、修正される。 明日、と。 空間と時があります。 ですね? それは単純です。 で、恐れは 時の動きですか。 そして、時の動きは 心理的に 思考の動きでは ないですか。 これらに付いてきておられますか。 どうぞ、これは、私たちの一人一人に とって、きわめて良い教育です。 |
| 52:24 で、思考は時です。 時は恐れです。 明白です。 私は、歯科医のところで座っていて、 痛みを受けました。 私は憶えています。 蓄えられて、投影されて、 あの痛みが再びないのを 望みます。 思考は動いています。 すなわち、昨日の痛みの時は 保たれたし、再びそれを欲しくない。 で、恐れは、空間と時の 中の動きです - (空間と時)それは思考です。 ですね? もし、それが、観念ではなく、 現実として見られるなら - それは、あの痛み、あの恐れへ 注意を払わなくてはいけない。 すなわち、先週起きたものへ、 という意味です - あの恐れが生ずる瞬間に、 それへ 完全な注意を向ける。 そのときそれは、登録されません。 53:53 こうしてください。すると、 あなた自身で見出すでしょう。 あなたが侮辱へ 完全な注意を向けるとき、 侮辱はありません。 または、誰かがやってきて、「あなたは何と すばらしい人物か! 」と言うなら、です。 あなたが注意を払うなら、それは、 アヒルの背の上の水に、似ています。 ですね? で、どうぞ、これの真理を あなた自身で見てください。 すなわち、あなたが、時、空間、 思考は、恐れの動きである ことを悟るとき、です。 それは事実です。 語り手が叙述したのではない。 あなたがあなた自身において それを観察してきたなら、 それは絶対的な事実です。 あなたはそれから逃避できません。 あなたはそれから逃避できません。 55:03 あなたは事実から逃避できません。 それはいつも、そこにあります。 あなたはそれを、回避しようとするかもしれません。 それを、抑圧しようとするかもしれません。 あらゆる種類のことをしても・ ・・ それはいつも、そこにあります。 ですね? あなたが事実へ完全な注意を 向けるなら、事実はありません - 心理的に、です。 理解されますか。 |
| 55:33 で、私たちの 意識の内容は 思考、時と空間の 動きです。 その空間はきわめて制限されて いても、幅広く広汎であっても、 それはやはり 時、空間、思考の動きです。 私たちが指摘しましたように - ともに、です - 楽しみ・ ・・ それは、他の山の向こうです。 あなたが何かを観察 なさったのを、望みます。 あの道具のとてつもない 機械的な力、 ものすごい力、です。 思考がそれを創り出してきました。 思考は、私たち自身に いろいろな形の力を 創り出してきましたが、 それらはすべて制限されています。 57:32 この制限から 自由があるとき、 驚くべき力の感覚が あります。 機械的な力ではない。 ものすごいエネルギーの感覚です。 あれよりはるかに多く、です。 それは、思考と何の 関わりもありません。 ゆえにその力、そのエネルギーは 誤用できません。 しかし、思考が「私はそれを 使おう」と言うなら、 そのときその力、 そのエネルギーは、消散します。 |
| 58:15 ですね? 私たちは後、5分間、残されています。 私たちはまた、私たちの意識に 存在する他の要因についても、 ともに議論し、 じっくり話し合うべきです - それは、悲しみ、嘆き、痛みと 損傷、傷です。 それは、ほとんどの人間に 子ども時代から存在しています。 傷、 その傷、 心理的な傷から、 その痛み、 それを憶えていること、 それに取りすがることと、 そこから生ずる 嘆きです。 そしてまた、 そこに関与した悲しみも、あります。 そしてまた、人類の地球的な 悲しみも、あります - すなわち、何千に何千もの戦争に 向き合ってきた者の(悲しみ)です。 何百万に何百万の人々が 泣いてきました。 この戦争の機構は 今も進んでいます。 政治家たちにより、私たちの民族主義により、 私たちは残りから分離している、 我々と彼ら、 あなたと私との 私たちの感情により、方向づけられて、です。 1:00:10 それが、地球的な悲しみです。 それを政治家たちは、築いて、 築いて、築いています。 私たちは、すぐに 別の戦争へ備えています。 それが無いだろうことを、望みますが、 あなたたちが何かを 準備しているとき、 どこかで或る種の爆発が、 あるにちがいありません。 それは、中東においてでないかもしれません。 それはここで起きるかもしれません。 あなたたちは、何かへ 準備しているかぎり、 あなたたちは、それを得ようとしています。 食べ物を準備するように、です。 しかし、私たちはこうも - もし失礼なしに その言葉を使っていいなら - 私たちは、これらが進むのを 許すほどに、愚かです。 テロなどを(許すほど)です。 |
| 1:01:13 で、私たちは訊ねています - おそらく私たちは、明後日 それを継続するでしょう - 私たちは訊ねています - この様式 全体、(すなわち)傷ついたこと、 さびしいこと、痛み、抵抗、 引き下がり、孤立(の様式)、 それが、さらに痛み、嘆きを 引き起こします。 私の息子の死の悲しみ、 何かを失うこと(の悲しみ)、 私が保ってきた何か貴重な 信念を失う悲しみ、 私が誰かに従ってきたとき、 来る幻滅 - 自らの生、 自らの尽力を捧げてきた、 誰かのために格闘し、 自身を何かへ委ねてきて、 そのとき幻滅する。 そこから、痛み、心配、 不確実性、悲しみです。 1:02:24 あなたはこれらに注目してきました。 それが、私たちの 意識の様式です。 自らが訊ねるとき - このすべてから自由であることは いったい可能ですか。 私たちが適用するなら、それは可能です - 果てしなくそれについて話すのではない。 私は、自分が子ども時代から心理的に 傷ついていることを、悟り、 その傷の帰結すべてを 見るなら、です。 帰結は、私は抵抗する、 私は引き下がる、 私はもはや 傷つきたくない。 私は、孤立を助長します。 ゆえに私は、私自身のまわりに 壁を築いています。 私の妻もまた、傷ついているし、 彼女は同じことをしています。 ですね? 1:03:44 これらすべてのことを悟られるのか どうか、私は知りません。 で、すなわち、子ども時代から 傷ついたことの帰結は 痛み、抵抗、 引き下がり、孤立、 もっともっと、 深い深い恐れです。 そして、人類の 地球的な悲しみです。 それについてお考えになったことさえ あるのかどうか、私は知りません。 人、人間はいかに、 戦争をとおして苦悶し、 独裁制、全体主義のもとで 苦悶し、 世界の様々な地方で 苦悶してきたのか。 また、私の兄弟、息子、妻が 逃げ去ることや死ぬことの 悲しみも、あります。 そして、別離の悲しみ、 自らが何かに完全に 興味を持っているが、相手は そうでないとき、訪れる悲しみ。 1:05:06 よろしいですか。 この悲しみに、 慈悲はありません。 愛はありません。 そして、悲しみが終わることが 愛をもたらします。 楽しみではなく、欲望ではなく、愛を、です。 愛があるところ、 慈悲があります。 慈悲でもって、 智恵が来ます - それは、思考の智恵とは いかなる関わりもありません。 |
| 1:05:47 で、人類としての私たち自身を、きわめて 間近で見つめなくてはいけません - なぜ私たちは一生涯、これらすべての 物事に堪えてきたのか、なぜ 私たちはけっしてそれを終わらせなかったのかを、です。 それは、私たちの怠惰の一部、 私たちの習慣の一部ですか。 もしあなたが、「それは私たちの 習慣の一部、私たちの条件づけの一部だ」 と言うなら、私はそれについて 何をすることになりますか。 それについて話しましょう。 私はどのように 私自身の条件づけを解くことになりますか - それをやりつづける。 それが、私たちがみんなしていることです。 私は答えを見つけられません。 私は お隣りの導師か、さらに離れたのへ 行くでしょう。または、 司祭者やあれやこれやへ、です。 私たちはけっしてこう言いません - 「ほら、私自身を間近で見つめよう。 そして、私がそれを突き 抜けられるのかどうかを、見よう。 どの習慣のようにも」と。 1:07:03 あなたが喫煙の習慣を持っているなら、 それはきわめて容易く断ち切れます。 または、薬物、アルコールです。 しかし、そうね、私たちは、 「それのどこがいけないんだ。 私はともかく老いていく。 身体は自ずと破壊されつつある。 で、もう少し楽しみを。 それのどこがいけないんだ」と言います。 で、私たちは続けていきます。 私たちは、自らがすることすべてへ まったくの責任を、感じません。 私たちは、それを 環境のせいにします。 社会のせい、私たちの親のせい、 過去の遺伝のせいにします。 「それは遺伝的だ」と。 何かの言い訳ですが、 けっして適用しない。 もし自らが本当に 欲求を持っているなら - なぜ私が傷ついているのか、 なぜ自分は傷ついているのかを 見出そうとの即時の欲求を、です。 自分は傷ついています。なぜなら、自分自身に ついてイメージを築いてきたからです。 それは事実です。 1:08:13 あなたが「私は傷ついている」と言うとき、 それは、あなたが自分自身について 持っているイメージです。 誰かがやってきて、 そのイメージを踏みにじるし、 あなたは傷つきます。 あなたは、比較をとおして 傷つきます。 「私はこれであるが、 他の誰かのほうが良い」と。 自らが自分自身について イメージを持っているかぎり、 あなたは傷つこうとしています。 それは事実です。 しかし、あなたがその事実へ 注意を払うなら、 すなわち、あなたがどの種類でも イメージを持っているかぎり、 誰かがそれへ ピンを刺そうとしています。 私が私自身について イメージを持っているかぎり - なぜなら、私はたくさんの人々、 大きな聴衆へ話をし、 愚かにも世の中で 有名になるからです。 評判でもって進んでいく 馬鹿話のすべて、です。 私はそれを維持したいが、あなたは それを傷つけようとしています。 1:09:33 誰かのほうが、もっと大きな聴衆を 持っています - よろしいですか。 で、私は傷つきます。 で、比較があるかぎり ・ ・・ で、あなたが、あなた自身について 持っているイメージへ、 完全な注意を向けるなら - 集中ではなく、注意を、です。 注意を向ける。 そのときあなたは、イメージが何の 意味も持たないことを、見るでしょう。 それは消え去ります。 いいです。止めましょう。 私たちは明後日、 継続するでしょう。 |