Krishnamurti Subtitles
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SA81T7 - 制御の影もなく生きること
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| 0:52 これが 最後の講話です。 |
| 1:39 私たちは、存在の 複雑な問題について 話してきました。 私たちは、互いとの関係において イメージを 形成することについて、 話してきました - 思考が投影してきて、 私たちが崇拝する イメージ、像です。 私たちはまた、恐れ、楽しみ(について)と、 悲しみが終わることについても 話してきました。 私たちはまた、愛が何であるかの 問いにも、入ってきました - その言葉(「愛」)に関与している 苦労すべてなしに、です。 私たちはまた、智恵をともなった 慈悲についても、話してきました。 私たちは今、今朝、宗教は 何であるかについて、話すべきです。 |
| 2:55 世界中の知識人の ほとんどは その言葉から身を躱(かわ)します。 彼らは、宗教が現在の世界で 何であるかを、見ます - それらの信念でもって、 それらの教義でもって、 それらの儀式と、 既成の宗教の(上下の) 位階的な仕組みでもって、です。 彼らはむしろ、それを嘲るし、 宗教と何でも関わることから 逃げ去ります。 彼らは、年を取り、 死と呼ばれるあの戸口に きわめて近づくにつれて、 彼らは、自らの古い条件づけへ 回帰しはじめます。 彼らは、カトリックになるか、 あるいは、誰か導師を追求するか、 彼らは、お金を持っているなら、 インドや日本へ駆け出します。 世界中の宗教は、 自らの信頼性を 全的に 失ってしまったのです。 4:28 それはもはや、日々の生において 何の意義をも持っていません。 彼らは、すばらしい大聖堂、 教会へ行くかもしれません。 そして、それらの中で 進むことすべて、ですが、 彼らの心は、そこにありません。 あなたは、検討すればするほど、 批判すればするほど、 自らが、宗教的構造すべての 内容全体に 気づけば気づくほど、 全体の事柄について きわめて懐疑的に、 きわめて疑い深くなります。 それで知識人たちは、それと 何の関わりをも、持たないでしょう。 そうでない人たちは、 それをロマンチックに、情動的に 取り扱うのか、あるいは、 何かあなたが娯楽のために 行くものです。 |
| 5:45 しかしあなたが、宗教に対する すべての知的なもの、 ロマンチックな、感傷的な態度を 脇に置くなら、 そのとき、訊ねはじめられます - 何の素朴さをもってでもなく、 真剣さをもって、です。 そこには、疑いが含まれます。 自らは訊ねはじめます - 宗教とは何ですか。 その言葉の単なる意味、 語源的な意味ではなく、 深く、宗教とは何ですか。 人は、 古代の時から、 何かがあるにちがいないと、 いつも探し求めてきました - 通常の日々の生を越え、 日々の生の通常の悲惨、混乱、 葛藤を越えて(何かを)、です 7:05 そして、自らの探求において、 人は、あらゆる種類の哲学、 あらゆる種類のイメージを 考案してきました。 古代エジプト人と 古代ヒンドゥー教徒から現代まで あらゆる種類のイメージ、 像を創り出してきましたが、 人はいつも、見たところ、 或る種の幻影に、捕らわれます。 彼は自己欺瞞を始めます。 その幻影の中から、 彼は、あらゆる種類の活動を 創り出しはじめます。 またもや、もしも私たちが そのすべてを払いのけられたなら - なぜなら、私たちはそれを 充分に検討し、 相当深くそれに入ってきたからです。 現代の宗教すべてに おいて、です - そのとき、自分自身に 訊ねはじめます。 もしあるとして、何か 思考の感染すべて、 時の腐敗すべてを 越えたものは、何ですか - もし空間と時の中の普通の存在を 8:38 越えた何かが、 あるなら、です。 私たちは、自分自身に それを訊ねはじめるなら、 それにどう取りかかるのでしょうか。 何かの種類の準備が 必要ですか。 修練、犠牲、制御、 それら。 一定期間の準備、 そのとき、前進する。 |
| 9:33 私たちは、自分自身に訊ねています。 私たちは、ともに考えています。 何か越えたものが、あるのなら、 そして、自分自身を 催眠にかけないのなら、 自らが幻影から自由であるとき、 そのとき検討し、きわめて深遠に 探究しはじめられます - 真理とは何ですか。 そして、 それへ道があるのか、 何も道はないのか、 または、精神はどうしてそれに到れるのか、 それに来られるのか、です。 |
| 10:26 で、私たちはともに 今朝、この問題を ともに 探究しよう、探検しようと しています。 まず第一に、 自らがすべての幻影から 自由であるべきことを、 理解することが、 重要ではないのでしょうか。 さもないと、精神は 様々な形と多様な幻影の中に 留まります。 で、何が幻影を創り出しますか。 それは、欲望ではないですか - 何かに到りたいこと、 何かを経験したいこと、 通常を外れた何かを、持ちたいこと、 欲望することではないですか - 超感覚的な知覚、 幻視(ヴィジョン)、 霊的な経験 などを、です。 で、自らはきわめて明らかでなければ なりません - 欲望の本性、です。 それについて私たちは、過去の 講話で相当に話しました - そして、欲望の動きを 理解しなければなりません。 それは、イメージをともなった思考 です。 私たちはそれに入りました。 そしてまた、私たちの探究に、 何の動機をも持たないことも、です。 12:18 それは、きわめて困難です - 何も意図を持たないこと、 方向の感覚を 持たないことは、です。 そのとき頭脳は、自由であり、 本当に探究できます。 またもや、私たちは 講話をとおしてずっと この問題へ入ってきました。 私たちは、自らの家に秩序が なければならないと、言いました - 私たちの存在に、 私たちの関係に、 私たちの活動に(秩序が)、です。 その秩序は自由です。 その秩序なしに、 美徳はありえません。 美徳、正しさ(正義)は、 何か知的に養成される ものではありません。 秩序があるところ、 美徳があります。 そして秩序は、何か 生きているものです。 課業、習慣ではありません。 |
| 13:34 そして、他の点は、こうです - 何か学ばれるべきことが ありますか。 どうぞ、私たちは ともに考えています。 何か、他の一人から 学ばれるべきことが、ありますか。 私たちは、他の一人から学べます - 歴史を、 生物学、数学、物理学を、 複雑な知識すべてをともなった テクノロジーの世界全体を、です。 あなたは、他の一人から学べます - 書物から、 すでにそれらを 研究してきた人から、です。 心理的に何か、他の一人から 学ばれるべきことが、ありますか。 どうぞ、これは 重要な問いです - 私たちがともに究明 しなければならないものです。 14:47 他の一人から学ばれることが(あるのか)、です - 心理的に私たち自身について、 何か永遠なものがあるなら、 永遠であるものについて、です。 または、 他の一人から学ぶことは 何もありません。 なぜなら、 人間の経験すべて、 心理的な知識すべて - すなわち、自らが 人類が数百万年の間、 集めて、まとめてきたものが、 自分自身の中にあるからです。 よろしいですか。 ゆえに、そのとおりであるなら、 すなわち、私たちは 残りの人類であるなら、 私たちの意識は 人類の全体ですし、 私たちの意識はそれなのです 外へ出ていき、 私たち自身について 他の誰かから学ぶことは、 かなり不条理で、 かなりうぶに思われます。 なぜなら、私たち自身に ついて学ぶことは 観察の明瞭さを必要とするからです。 16:25 それは単純です。 心理的な権威は ありません。 ゆえに、霊的な権威は ありません。 なぜなら、人類の歴史’(ヒストリー) 全体は、人類の物語(ストーリー)ですが、 それが私たちにあるからです。 ゆえに、経験すべきことは 何もありません。 これをご覧になるのかどうかと、思われます。 「私は知っている」とか、「私が真理への道を 示してあげよう」とか言う誰かから 学ばれるべきことは 何もありません。 これは、世界中で 司祭者たちの 潮流全体であったのです。 彼らは、最高のものと普通の者 たちとの間の解釈者(通訳)です。 古代の日々から、彼らは このゲームをやってきました。 18:14 私たち自身について学ぶ、 理解するには、 そのすべての権威は、脇に 置かれなければなりません。 いいですか。 明白です。 なぜなら、その権威は 私たちの一部であるからです。 私たちが司祭者です。 私たちが弟子です。 私たちが教師です。 私たちが経験です。 私たちが究極のものです - 私たちが、どう理解するかを知るなら、です。 いいですか? |
| 18:58 で、誰かから学ばれるべきことは 何もありません - 語り手のものを含めて、です。 特に語り手のを、です。 なぜなら、自らは他の人々の 影響、印象を、大いに 受け入れるからです。 ですね? で、自由に 探究できなくてはいけません。 そして、きわめて深く、 深く探究するには、 - 表面的に、ではない - なぜなら、私たちは、 過去六年か、六十年の間、 表面的な探究すべてを してきたからです。 そして私たちは、多かれ少なかれ 自らの生に秩序を確立してきたと、言うとき - 多かれ少なかれです - 私たちは その点に来たのです。 私たちは進むにつれて、さらに 大きな秩序を、確立するでしょう。 そのとき私たちは、訊ねられます - 宗教的な精神とは何ですか。 すなわち、冥想が何であるかを 理解できるものは、です。 私たちは、それに入ろうとしています。 |
| 20:44 ここ、おそらく十年、 十五年のうちに、 その言葉は、西洋で たいへん人気が、出たのです。 前は、アジアやインドへ行ったことが ある、きわめてわずかな 者だけが、話をし、自らの 形の冥想を探究しました。 なぜなら、アジア人と ヒンドゥー教徒は - 私たちは、ヒンドゥー教徒とアジア人を 一つの言葉「アジア人」で、呼びましょう - アジア人たちは、こう言ってきました - 冥想をとおしてだけ、あなたは、 時がないもの、 度量がないものを 理解できるようになる、と。 しかし、この十年か 十五年の間、 何もすることがなくて、 導師を自称する人たちが 西洋へ渡ってきて、 その言葉をもたらしました。 21:59 それは、言葉になって・・・ むしろ、それを薬物のようにしました。 「冥想」(メディテーション) という言葉は、実際は - 辞書の意味ですが - じっくり考える、熟考する、 関心を持つ、などという意味です。 東洋からその言葉を もたらしたこれらの人々、 彼らはそれを、あれら騙されやすい 人々へ売りました。 あなたはそれに支払いました。 彼らがもたらすマントラに 支払いました。 あなたは、彼らのごまかしを 次第に学びました。 またあなたは、彼らが持ってくる 様々なマントラをも、 学びました。 その言葉はご存じですね。 きっとそうだと思います。 導師(グル)、マントラ、冥想のように、 日々のありふれたコインの一部です。 サンスクリットで「マントラ」 という言葉は、ならないことにおいて、 考慮する、熟考する、冥想する、 という意味だと、思います。 ならないのです。 23:46 またその言葉は、すべての 自己中心的な活動を 脇に置く、という意味です。 マントラはそれを意味しています。 すなわち、ならないことについて じっくり熟考する、冥想するのと、 自己中心的な活動を すっかり片付けてしまう。 それが、その言葉「マントラ」の 本当の意味です。 あなたは、それを売れません。 あなたは、誰かへ行って、「金をくれ。 そうすれば教えてやろう」と言えません。 それらを してきた人々は、 尋常でなく豊かな人々に なったのです。 それは、何か商業的な ものになったのです。 |
| 24:48 また、様々な体系の冥想も あったのです - チベットのもの、ヒンドゥーのもの、 日本のもの、禅などなどです。 ですね? これらの体系は、思考により 創案されてきたのです。 明白です。 思考は、制限されているので、 体系は必然的に、制限されて いるにちがいありません。 また、あなたが反復し、反復し、反復する なら、それらは、機械的になります。 あなたの精神は、自然に鈍くなります。 かなり愚かに、 まったく騙されやすくなります。 ですね? それは常識です - これらは、ね。 が、私たちはみんな熱心に、 何か霊的なものを経験したいのです - 薬物をとおしてか、 アルコールをとおしてか、あるいは、 体系に従うのです - すなわち、 或る種の興奮する経験を 与えてくれるだろうと望むものを、です。。 26:16 なぜなら、私たちは、自分の日々の 生に、退屈しているからです - 次の四十年の間、 オフィスへ行って、 その終わりに死ぬ。 私たちはそれらに退屈しています。 私たちは、自らの現在の宗教に 退屈しています。 それで、誰かがやってきて、 何か突飛な概念をもたらします。 私たちは、それに惚れ込みます。 これは起きつつあります。 私たちは、誇張していません。 私たちは、個人的に誰をも 攻撃していません。 私たちはただ、進みつつある 戯言を、検討しているだけです。 |
| 27:03 で、自らが、充分に これらに気づいていて、 これらを脇に置いたのなら - なぜなら、 それはまったく無意味であるからです。 あなたは、インドやチベットへ 行かなくてもいい - どこだろうと他のどこかへも、です。 または、ローマへさえも、です。 なぜなら、常識を 使うだけではなく、 批判的な精神、問うている精神を 持つなら - 他の人たちが 言うことだけではなく、 またあなた自身をも問う。 そのほうが、はるかに重要です。 あなた自身が見るものを 何も受け入れない - すなわち、それが正確であるか、尊いか、 本当の経験であることを、です。 それを問うこと、 有能で、理性的で、 健全である精神を持つこと。 28:15 それが本質的です。 そして、すべての幻影、 一つの形の自己睡眠から 自由である精神を、持つこと - もしそれが、可能であるなら、です。 多かれ少なかれ、狂って、 暴力的になった 世界において、です。 テロ、戦争、 原子爆弾と、 コンピューター - それは、思考の活動すべてに 取って代わろうとしています。 そのとき、人間は何ですか。 理解されますか。 人間は、思考の上に 生きてきました。 すべての建築、 すべての音楽、 教会、寺院、神殿、モスクの 内側にある物事、 それらはすべて、思考によりそこに 置かれ、思考により創案されています。 29:39 私たちの関係すべては 思考に基づいています。 私たちは「あなたを愛しているよ」と言う けれども、それはやはりイメージの一部です - それは、思考が他の一人に ついて創り出したのです。 で、私たちにとって思考は 驚くほどに重要です。 思考自体は、私たちがよく気を つけて検討してきたように、 制限されています。 それは、砕いてしまう(能力)、 人々の間に断片化をもたらす 能力を、持っています - 私の宗教、私の国、私の神、私の信念 などなどとして(の断片化を)、です。 そのすべてが 思考の動きです。 思考、空間と時。それについて 私たちは、話してきました。 |
| 30:46 さて、ともに - 私たちが そこまで行ったのなら、 そのとき私たちは、検討しはじめられます - 冥想が実際に何であるかを、です。 キリスト教の形のそれは 観想です。 観想は 冥想より違っています。 冥想は、 もはや部分的に 機能していない 頭脳の能力です。 私たちはそれについてもまた話しましたが、 自らの条件づけから 自由になった(頭脳)、 ゆえに全体として機能 している頭脳、です。 そういう頭脳は、 単なる観想とは、違っています。 私は、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒や 何としてでも、条件づけられます。 そして私は、自分の背景から、 自分の条件づけから 観想できます。 32:12 その観想は、私の条件づけを 自由にしませんが、 冥想は要求するし、 ゆえに、それは とてつもなく真剣になります。 それは、大変多くの 探究と注意を、必要とします。 部分的に 機能しないことは、 大変多くの注意を、必要とします。 またもや私たちは、気をつけて それを説明しました。 私たちが、部分的にというのは、 特定の専門化において、という意味です。 または、特定の占有(職務)に おいて機能する、 狭く頭脳にやらせるとか、 頭脳に、信念、伝統、 教義、儀式を受け入れさせる、 という意味です - (信念、伝統など) それらは部分的なだけです。 33:57 それらすべては、思考が創案しています。 キリスト教徒は、この言葉 「信仰」を、持っています。 そして、神への信仰を持っているなら - 何へ、であろうとも - あれこれはだいじょうぶであろう、とか、 あれこれはだいじょうぶに なるだろう、と。 これは、二千年の間、 標語であったのです。 アジア人たちは、彼ら自身の 形の信仰を、持っています - 業、輪廻転生、 進化、時などです。 |
| 34:37 で、冥想は、 観想より違っています - 冥想は、頭脳が もはや部分的に 行為するよう条件づけられていないで、 全的に行為することを要求する、 という意味において(違うの)です。 ですね? それが、冥想の 必要条件です。 さもないと、冥想は 何の意味もありません。 |
| 35:17 で、そのとき問いは、こうです - この世界に生きていて、 それは可能ですか。 (生きること)それは、一定の 形の専門化を要求します。 巧みな大工、 巧みな機械工、 巧みな数学者や、 きわめて巧みな主婦です。 それは大事なことではない。 これらを要求する この世界に生きていて、 けれども、専門化より 自由である。 私たちがともにここにいるのか どうかと、思われます。 仮に、私が物理学者である、とします。 すなわち、理論物理学者です。 私は人生を、自分の人生の ほとんどを、数学的に定式化 することに、使ってきました - それについて考え、 それを問い、訊ね、 それについてものすごい 知識を養成して、です。 私の頭脳は 専門化し、 狭まってきたのです。 けれども、私は 冥想を探究しはじめます。 いいですか? 36:42 私の、冥想への 探究の中で、 私は、その言葉の意義と深さを 部分的に 理解できるだけです。 なぜなら、私は、他の何かに 繋留されているからです。 私たちは互いに出会っているのか どうかと、思われますね。 私は、私の専門職としての 自分の理論物理学に、 繋留されています。 そこに繋留されていて、私は 理論的に探究しはじめます - 時がないものがあるのかどうか、 冥想が何であるのかなどを、です。 で、私の探究は またもや部分的になります。 ですね? ですが、私はこの世界に 生きなくてはいけません。 私は、どこかの大学の 教授です。 37:42 私は、妻、子どもを持っています。 私は、それらの責任を 持っています。 おそらく私はまた、病気です。 私は、それらの責任を 持っています。 けれども、私は 真理の本性を、きわめて 深遠に探究したいのです - それは冥想の一部です。 で、私の接近は、部分的です。 |
| 38:15 で、私の問いは、こうです - 大工として専門化するが、 けれども、それを 一定の水準に置いておくことは 可能ですか。 それで、私の頭脳、(すなわち) 人類すべてに 共通の頭脳である頭脳は - これは、ほとんどの人々にとって 受け入れることが、きわめて困難です。 あなたの頭脳は、あなたの頭脳ではない。 それは、数百万年の間、 成長してきた、 あらゆる種類の知識を 蓄積してきたのです。 それは、あなたのではありません。 あなたの意識は、私たちが入ったように、 あなたの意識ではありません。 あなたはそれを、すぐに受け入れますが、 私たちが、頭脳はあなたのではないと 言うとき、あなたは、 むしろ抵抗するでしょう。 それは、空間と時を とおして成長してきたのです。 それは、人類すべてに共通しています。 私たちは今、これに入らないでしょう。 39:32 で、私の問いは、こうです - 私の頭脳は、 専門化しているが、「はい、それは 自らの機能を持っているが、 その機能は介入しようと していない」と言えますか。 いいですか? これらを理解なさっているのか どうかと、思われます。 私は大工です。 私は、木材の性質、道具、 木目、木材の美しさ などを、知っています。 私は、「はい。 それは自然です。私はそれを 持たなければならない」と言いますが、 専門性を 養成してきた頭脳は、 冥想の全体性を、とうてい 理解できません。 40:35 ですね? もし私が大工として、これを理解 するなら - それの真理を、です - すなわち、私が大工として 一つ所を持っているが、 その専門化は 了解の全体性において、 冥想を理解することの 全体性において、 何の所をも持っていないのです。 私が、それの真理を見るなら、 そのとき、専門化は 小さな事柄になります。 いいですか? 私たちは出会っていますか。 |
| 41:23 で、そのとき私たちは、訊ねはじめます - 冥想は何ですか。 なぜ世界の一定の部分は、 アジア世界のように、 この言葉に重要性を 与えてきたのか。 アジアは地理的に、残りの 世界から分離していません。 それは地理的に分離していますが、 アジアはあなたと私です。 ですね? なぜなら、私たちは人類の一部、 私たちの意識の一部であり、 私たちは残りの人類であるからです。 で、人類の一部分が、 大変多くの時間、二、三千年から 四千年を、掛けてきたとき - エジプト人がしてきたように、 ヒンドゥー教徒がしてきたように、です - 見出すことが、私たちの 探究の一部です。 |
| 42:41 まず第一に、 冥想は注意を要求します。 そうですね? 注意する - それは、観察の中で あなたの能力、エネルギー全体を 掛けることです。 注意は、集中より 違っています。 これらに付いてきて おられるのを、望みます。 私たちはともに、ここにいますか。 集中は、思考がする努力です - その能力を エネルギーとして特定の点に 焦点化するように、です。 ですね? それが集中です。 あなたが学校にいるとき、 教師はこう言います - 「君の本に集中しなさい。 窓の外を見るな。 君のおぞましい本を見なさい」と。 そしてあなたは、集中する よう、訓練されます。 それは、あなたのエネルギーすべてを 特定の点に持ってくることです。 44:24 それは、 その集中の中であなたは 他のどの種の思考をも介入 させつつない、という意味です。 すなわち、制御することです。 集中は、思考を制御することを 含蓄しています - 彷徨ってしまわないように、 あなたの思考を、特定の主題に、 特定のページに、 特定の画像に、 焦点化するように、です。 すなわち、 思考は、私の注意を焦点化すること、 私のエネルギーをあれに焦点化することが、 重要であると、言います。 それは、思考の作動です。 それは、思考の作動であり、 その中に、強制、制御が あるのです。 それは、「見なさい」と言います。 |
| 45:38 で、集中の中には - どうぞ、気をつけてこれを理解して ください。気にされないなら、です - 集中の中には、制御者と 制御されるものが、あります。 ですね? 私の思考は、彷徨いつつあります。 私は、それは彷徨うべきではないと 言います。 私はそれを引き戻します。 制御者は、「私はこれに集中し なければならない」と言うのです。 で、制御者と制御されるものが あります。 ですね? 制御者は誰ですか。 制御者は 思考の一部です。 制御者は過去です。 制御者、すなわち「私は大変多く 学んできたし、私、制御者が 思考を制御することが 重要である」と言うものです。 46:40 すなわち、思考は それ自体を分割したのです - 制御者と 制御されるものとして、です。 で、それは、思考がそれ自体に やっているごまかしです。 これらをご覧になるのかどうかと、思われます。 どうぞ、私たちはよく気をつけて これを理解しなければなりません。 なぜなら、注意には 制御者がないし、 制御されるものもないからです。 注意だけがあります。 で、それは、気をつけた検討を 必要とします - 制御者と制御されるものをもった 集中の本性へ (の検討を)、です。 ですね? 私たちの生すべては、 この制御者があります - 「私はこれをしなければならない。 私はあれをしてはならない。 私は私の欲望を制御し、 私の怒りを制御し、私の衝動を 制御しなければならない」と。 47:51 そうね、制御、制御、制御です。 ゆえに、私は次第に、自分自身を 抑制するのを、学んだのです。 そして、 「抑制するな。 何でも好きなことをしろ」と 言う人々が、いますね。 それもまた、導師たちが やっているゲームです。 |
| 48:08 で、自らは、集中が何であるのと 注意が何であるのかを 理解する中で、きわめて 明らかでなければなりません。 私たちが指摘しているように、 注意には、すなわち、注意する ことには、制御がありません。 どうぞ、これを理解してください。 なぜなら、私たちは今すぐ 見出そうとしているからです - その中に制御がない ところの生きる道が、 私たちの日々の生が、ありますか。 いいですか。 それが、冥想の一部です。 これは、自分自身に訊ねなければ ならない問いです。 日々の存在において、あらゆる形の制御が まったく存在しないところの 生きる道が、ありますか。 49:18 なぜなら、制御は努力を意味しているからです。 制御は、制御者と制御されるものとの 間の分割を、意味しています。 私は怒っています。 私は自分の 怒りを制御しなければなりません。 私は喫煙します。 私は喫煙しては ならないし、私は喫煙に抵抗します、 などなどなどです。 私たちが言っていることは、 何か全然違ったことです。 ゆえに、それは 誤解されるかもしれないし、 すっかり拒絶されるかも しれません。 それは、きわめてありふれています。 なぜなら、私たちは、「まあ、 生すべては制御だ。 制御しないなら、やりたい放題、 ばかばかしいことになるだろう。 それは意味がない。 ゆえに、 制御しなければならない」と言います。 50:18 いいですか。宗教、哲学、 あなたの教師、あなたの家族、 母親は、「制御しろ」と。 しかし私たちは、制御者が誰であるかを 探究したことが、ありません。 制御者は、過去において 組み立てられています。 過去は知識です - それは思考です。 思考は、それ自体を分離したのです - 制御する者と 制御されるものとして、です。 そして集中は、それらです。 |
| 51:08 それを理解する中で、 私たちは、はるかに根源的な質問を しています - すなわち、 この世界に、家族、その他 すべてをもって、 制御の影もなく、生きられますか。 いいですか? まず第一に、その問いの 美しさを見てください。 なぜなら、私たちの頭脳は 千年の間、抑制するよう 訓練されてきたからです - あなたは制御し、制御します。 それはけっして、頭脳の全体性で もって作動していません。 ですね? それが何をしているのかを、 あなた自身で見てください。 あなたは私から、語り手から 学んでいません。 あなたは、自分の頭脳が 作動中なのを、見守っています - 理性的に、です。 批判的な検討です。 そこに欺瞞、催眠などは ないのです。 52:29 そして、冥想のほとんど、 すなわち、アジア世界から 差し出されてきたものは、 制御することです。 思考を制御しなさい - それで、 あなたは 平和である精神を持つ、 静かである精神を持つように、です。 永遠におしゃべりしているのではない。 なぜなら、精神、頭脳の 静寂、静けさ、 絶対的な静止が、 知覚するために 必要であるからです。 ですね? ゆえに、すべての種類の冥想は、 どれほど微妙でも、 根、基礎を持っています - 制御することです。 または、あなた自身を 誰か導師へ、何か観念へ 手渡しなさい。 53:36 そしてあなた自身を忘れなさい。 あなたは自分自身を何かへ 委ねたから、ゆえに、 あなたは平和です。 それはまたもや 思考、欲望の動きです。 そして、何かあなたが 捧げたものの興奮です。 それは受け入れられてきたのです。 |
| 54:02 これらに付いてきていますか。 ところが、注意は、何か 全然違ったものです。 それは、集中の 対極ではありません。 それが対極であるのなら、 そのとき、対極は 自体の対極に根づいています。 愛が憎しみの対極であるのなら、 そのとき愛は、憎しみの中から生まれています。 ですね? これをご覧になるのかどうかと、思われます。 どの対極も、自体の対極に 根づいています。 で、私たちは、 注意は集中の 対極ではないと、 言っています。 それは全的にそれより離別しています。 で、私たちはともに探究しようと しています - 注意は何ですか。 それは努力が必要ですか。 それは、私たちの主要な活動の一つです - 私は努力しなければなりません。 私は怠けています。 私は今朝起きたく ないが、起きなければなりません。 努力しなさい、と。 いいですか。 私は何かをしたくないが、 しなければなりません。 私はこれに、うんざりしつつあります。 |
| 55:47 私たちがその意義を即時に 捉えられないことが、どんなに とてつもないかを、見てください。 それは、説明され、説明され、 説明されなくてはいけません。 私たちは、直接的知覚の 能力がないように、思われます - 集中と・ ・・ - (集中させた)強制収容所ではない - 集中と注意との間で、です。 注意へ洞察を持ち、 注意深いこと。 まあ、私たちはそれに入るでしょう。 注意はいつ起きますか。 |
| 56:34 明白に、努力をとおして、ではない。 あなたが注意するよう、 努力するとき、 それは、あなたが不注意 であり、その不注意を 注意に変えようと していることの標示です。 理解されますか。 私は、これらの説明に うんざりしています! 個人的に私は、これらの戯言のどれに ついても、学んだことがありません。 個人的に、誰も私にこれらを 説明しませんでした。 ありがたい。 個人的に私は、これらについて 読んだことがありません。 それは、真正でないでしょう。 それは、意味がないでしょう。 57:41 が、速やかな洞察を持つ。 理解されますか。 すべての宗教的組織の虚偽を 即座に見ること - それらのすべて(の虚偽)を、です - ゆえにあなたは、その外に出ています。 観察者が観察されるものである ことを、即座に見る。 ゆえに努力がない。 そのとおりです。 それは、分割があるとき、 努力が存在するだけです。 付いてきていますか。 で、それは、私たちの頭脳がこうも鈍く なってしまったことを、標示していますか。 なぜなら、私たちは訓練され、訓練 されてきたからです - よろしいですか。 で、それは、その原初の速さを 失ってしまったのです - すべての説明と言葉、言葉、 言葉なしに直接的に見る 能力を、(失ったの)です。 58:55 しかし、不幸にも、これに 入らなくてはいけません。 なぜなら、私たちの精神、私たちの 頭脳は、即座に掴めないからです - 例えば、真理は道を 持たないことを、です。 理解されますか。 あの発言の無量性、 あの発言の美しさを見て、 すべての道を脇に置く - アジアのもの、西洋のもの、 東、西、南、北のものを(脇に)、です。 それで、あなたの頭脳は とてつもなく活動的になるのです。 |
| 59:45 困難の一つは、私たちが 機械的になりつつあることです。 コンピューターは、私たちが学んで いるのより、速く学んでいます。 コンピューターは 私たちのはるか先へ、行けます。 それで、私たちの頭脳がとてつもなく 活きて活動的でないのなら、 私たちの頭脳は、次第に 萎れてしまうでしょう。 今、私たちは存在します。 なぜなら、私たちは考えなくてはいけない、 私たちは活動的でなくてはいけない からです - 部分的に、です。 しかし、コンピューターが すべての仕事、すべての思考を 取って - 思考のほとんどを、です - 頭脳にはできない速度で 作動できるとき、 そのとき頭脳は、萎れようと しています。 理解されますか。 どうぞ、これらを悟ってください。 これは起きつつあります。 それは、語り手の誇張した 発言ではありません。 それは今、起きつつあります。 |
| 1:01:09 私たちはそれに気づいていません。 で、私たちは、注意が何であるかを 探究しています。 集中には、いつも 中心が、あります - そこから あなたが行為しているところが、です。 あなたはそれを見られます。 いいですか。これは明らかです。 私が集中するとき、私は 何か利益のために、集中しています - 何か深く根づいた動機のため、何か 獲得すべきものなどのために、です。 すなわち、中心から 私は観察しています。 ところが、注意には 中心がまったくありません。 あなたが、何か無量なものを 見つめるとき - 山々のように、です。 それらのとてつもない荘厳さ、 谷の美しさ、 青空に対する線。 その美しさは、一瞬の間、 中心を追い払います。 これに注目なさったことはないですか。 あなたは、その偉大さにより 一秒の間、驚愕します。 1:03:05 美しさは、中心がないときの あの知覚です。 理解されますか。 玩具を与えられた子どものように、です。 彼は、玩具に没入します。 彼はもはや悪戯をしていません。 彼は完全に玩具とともにいます。 しかし、玩具を取り去るか、彼が壊すと、 彼は自分自身に戻っています。 ですね? で、私たちのほとんどは、 様々な玩具に没入します。 玩具が去るとき、私たちは 自分自身に戻っています。 さて、玩具なく、私たち自身を 理解する中で、 その理解 - どの方向もない、 どの動機もない、 まさにその理解が 専門化からの自由です - それが、頭脳の全体を 活動的にします。 さて、頭脳の全体は、 活動的であるとき、 全的な注意です。 ですね? |
| 1:04:36 ご覧ください。私は 他の何かを指摘しましょう。 私たちはいつも、感覚の一つで もって見ているか、感じていますね。 私は、何かの味が好きです。 または、何か音楽が聞こえますが、 自らは、感覚すべてでもって けっして聞きません。 何をも見つめません。 いいですか? そうなさったことがありますか。 ああ、後生ですから。 あなたが山を見つめるとき、 その荘厳さのせいで、あなたの 感覚は、充分に作動中です。 ゆえにあなたは、自分自身を忘れます。 理解されますか。 さて、あなたが海の動きを 見つめるとき、 または、水や空と、 細長い月を、です。 あなたが自らの感覚すべてでもって それを全的に見つめるとき、 それは完全な注意です - そこに中心はないのです。 1:06:08 それは、注意が全的な静寂である ことを、意味しています - もはやおしゃべり していなくて、完全に 止まった頭脳の(静寂)です。 それが今、あなたに起きていますか。 あなたの頭脳は、完全に止まっていますか。 なぜなら、私たちは、止まった ことについて、話しているからです - 精神の、頭脳の 絶対的な静寂(について)、です。 なぜなら、様々な形の 静寂があるからです。 二つの雑音の間の静寂、 二つの調べの間の静寂、 思考の間の静寂。 ですね? あなたが林に入るときの 静寂 - 危険な動物の 大きな危険があるところ、 あらゆる物事が 全的に静寂になります。 なさったことがあるのかどうか、私は 知りません - いいえ、ありませんね。 ここであなたたちは、あらゆるものを殺したのです。 |
| 1:07:49 で、この静寂は、思考により、または 恐れをとおして、組み立てられていません。 あなたが本当に怯えているとき、 あなたの身体全体、あなたの神経、 あなたの頭脳が、そうなります - それに注目なさったことがないですか。 で、これは、あの静寂の 性質ではありません。 それは全然違っています。 それは、頭脳の全体の 作動です - その感覚すべてが活動的で、です。 それは、精神の 全的な静寂を もたらす自由です。 それは、そういう精神、そういう 頭脳、精神・ 頭脳だけです - 私は当分、それを二つに 分割したくありません。 私たちは、頭脳に拘りましょう - そういう頭脳、 それは絶対的に静かです。 努力、決意により、欲望により、 動機により、もたされたのではない。 1:09:04 それは、秩序の自由です - すなわち、振るまいにおける 美徳、正しさです。 あの静寂においてのみ、 名がなく、時がないものが あるのです。 あれが冥想です。 |