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SA82Q1 - 質疑応答会合、第1回
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| 0:55 講話は終わりました。 これは、多くの問いが 出され、 書きとめられてきた (質疑応答)の会合です。 出されてきた問いすべてに 答えることが 可能であるとは、 私は思いません。 それらの一つずつに 答えるには、 たぶん十日ほどか、 掛かるでしょう。 おそらくもっと多く、です。 で、私たちはそれらの中から幾つ かの問いを選んでおきました。 |
| 1:41 私たちが、誰かに 問いを出すとき - または、 私たち自身に、ですが - 問いの裏の意図は 何ですか。 |
| 1:55 それは単に、答えを 見つけるためですか。 それも、他の誰かからの 答えを、ですか。 または私たちは、 私たち自身に、 問いを出しますか。 そして、私たちが私たち 自身に出した問いへの、 応答は何ですか。 書きとめられて、 手渡された、 問いがあったので、 見たところ、 あなたは自然と、語り手から 答えを期待しています。 残念ながら、それは 可能ではないでしょう。 私たちはともに、問いを 探検しようとしています。 私たちはともに、答えを 探し求めるのではなく、 むしろ、問い自体が何を 意味しているのかを、です。 それで、その問いの 究明こそにおいて、 私たちは、答えを 見つけるでしょう。 私たちは、答えは問いにある ことを、見つけるでしょう。 - 問いを離れて、 ではない。 いいですか。 |
| 3:34 問いは炸裂です。 それは挑戦です。 そして、挑戦に 応えるには、 それが科学的、 医学的であっても、 あるいは、私たち自身の 個人生活であっても、 それへ正確に接近 しなければなりません。 私たちがそれに 入られるなら、初めに 接近が大変大事です。 私たちは、どの問題にも どう接近しますか。 問題(プロブレム) - その 言葉の(語源的)意味は、 何かあなたに 投げつけられたものです。 それが、あの言葉の 根本の意味です。 何か突き出された ものです。 私たちはそれに どう応えますか。 私たちの動機は 何ですか - それを、問いを 見つめる中で、です。 問いを探究する中で、 私たちの原因は 何ですか。 5:16 それは、心地良い答え、 満足できる答えを、 見つけることですか。 または、問いを深く 究明するには、 そして、深く探究するには、 動機を持てません。 あなたがそれを見つめて、 それを探検しているとき、 問いは、自らの深さと 意義全体を、開きます。 で、私たちは今朝と、 次の二日の朝、 問いを究明する中で、 私たちは動機をもって それに接近するのかどうかが、 明らかでなければなりません。 または、よく気をつけて 問いを観察し、 それで、問い自体が 開きはじめるのです。 |
| 6:32 私たちのほとんどにとって、 私たちは、 あらゆる物事を 一定の狭い視点へ 狭めてしまいたいのです。 私たちのほとんどにとって、 どの問題も、 それは、他の問題すべてに 関係しています。 それ自体での、単一の 問題は、何もありませんが、 私たちは、この問題を、 狭く制限された探究へ、 還元したいと思うのです。 しかし、探究する中で、 あなたは、それを流れさせ、 それを駆けさせ、それを 動かせなければなりません。 で、願うのですが、それが、 私たちがともにできることです - これらの問いへ 入るのです。 語り手は、問いに 答えていません。 むしろ、ともに、 問いの探究の中で、 協働しています。 いいですか? |
| 8:05 問い1: 「精神の老化過程を 緩められますか。 または、それは 回避不可能ですか。」 |
| 8:16 「精神の老化過程を 緩められますか。 または、精神の衰退は 回避不可能ですか。」 |
| 8:32 これは、私たちが 年を取るにつれて、 私たちみんなが 訊ねている問いです。 あらゆる人が、老化の 過程を、緩めたいのです - 物理的に、だけではなく、 また、精神的に、 知的に、 情動的にも、です。 そして、高まった敏感さの 能力を、保ちたいのです。 いいですか。 私たちはみんな、 それを望みます。 特に、年を 取るにつれて、です。 十歳の年齢で、老いて いるかもしれません。 または、九十歳の年齢で 老いているかもしれません。 で、私たちは、 年老いるというのは、 どういう意味かを、 探究しなければなりません。 |
| 9:52 私たちの外側の世界は、 いつも 私たちに圧迫して のし掛かっています。 世界は、ますます 危険になりつつあります。 ますます多くの暴力です。 そして、私たちがそれへ 正確に応答しないのなら、 私たちもまた 暴力的になるでしょう。 私たちもまた破壊的で、 退廃的になるでしょう。 で、問題があります。 問いがあります - 頭脳は、若く 保たれますか。 それがどれほど年老いて いるかは、大事ではない。 その頭脳は、活動的で、 効果的で、 明らかでありえて、 若さのエネルギーを 持てますか。 決断をでき、 一定規準の性質を 維持できるように、です。 それが問題です。 それが問いです。 ですね? これは可能ですか。 私たちはみんな、 きわめて明らかで精確で 決断できる頭脳を、 持ちたいと思います - 混乱していなくて、 散らかっていなくて、 いつも新鮮で、 動いていて、 問題で 行き詰まっていない。 それが、私たちがみんな 望むであろうことです。 私たちがきわめて若くても、 きわめて老いていても、です。 |
| 12:13 そして何が、頭脳を 老いさせますか。 どうぞ、私たちはともに 探究しています。 あなたは、語り手に聞いて いるだけではありません。 何が、頭脳を そうしますか。 それは、私たちが講話の 間に、説明しましたように、 私たちの頭脳 ではありません。 個人的な頭脳 ではありません。 私たちの頭脳は私のとあなたの であると考えることは かなり子どもっぽく かなり未熟です。 なぜなら、頭脳は、時を とおして進化してきたからです - 大変多くの知識を 蓄積してきて、 大変多くの経験を 経てきました。 痛み、悲しみ、心配、 あらゆる種類の苦労を、です。 それは、私の頭脳や あなたの頭脳ではありません。 それは、 人類の頭脳です - それが、私たちの一人一人に 顕現してきたのです。 私たちはそれについて、 よく気をつけて話して きたと、私は思います。 で、私たちは今、それに 入らなくてもいい。 |
| 13:33 で、頭脳は 私たちの一人一人に 顕現していますが、 何が、それを 老いさせますか。 擦り切れさせますか。 どうぞ、私たちは互いに、 この質問をしています。 どうぞ、私がそれを説明 するのを、ただ待たないで、 それを 考え抜いてください。 どの組織体も、 どの機構も、 軋轢をとおして 擦り切れます。 軋轢が、人為的に 創り出された、 もたらされたのでも、 あるいは、 自然の軋轢でも、です。 それが人為的でも、自然 でも、それは軋轢です。 あらゆる物事が、軋轢を とおして擦り切れます。 軋轢とは緊張、 病気、不健康、 間違った振るまい などです。 頭脳が壊れてしまう、衰退 するのは、回避不可能です。 そうなるに ちがいありません。 15:19 そして質問者は 訊ねます - それを新鮮に 保つことは 可能であるのか どうか、です。 この問いを 究明する中で、 この衰退の原因は 何ですか。 それは、葛藤ですか。 永続的な葛藤ですか。 私たちの生は、 葛藤だけではなく、 適応でもあります。 私たちは、ともに 探検しています。 あなたは、語り手が言っている ことを、受け入れていません。 私たちはともに、この問題を 見つめています。 この問いは、古代から 訊ねられてきましたが、 見たところ、ほとんどの人が 答えを見つけてきませんでした。 原因を、です。 おそらく私たちは、 この事柄へ正確な観察を 見つけようと できるでしょう。 16:53 それは葛藤ですか。 私たちの関係に おける葛藤ですか。 なることの中での 葛藤ですか - 私はこれである。 私はあれになろう、と。 「あるもの」と 「あるべきもの」。 「あるもの」。 そして、「ある もの」を、理想へ変容する。 あるもの - すなわち、 今の私なるもの、 現在の瞬間にあるもの、実際に 内的に起きつつあることです。 その起きることは、過去に 応じて翻訳されます。 または、イデオロギー的な 概念に沿って、です。 で、いつも、この矛盾した 存在が、あります。 この矛盾こそが 原因です。 葛藤の原因の一つです。 18:16 いいですか? どうぞ、よく気をつけて これを理解しましょう。 あるもの、 実際に 起きつつあること、 そして私たちは、理想、 対極を、持っています。 そして私たちは、対極を 達成しようと、奮闘します。 で、いつも 葛藤があります。 これが、きわめて 明らかであるなら、 そのとき、私たちは 探究できます - この葛藤は必要で あるのかどうか、です。 私たちは、こう言うかも しれません - これまでの生のすべては、 一連の、無際限の 多くの葛藤であった。 それはけっして終わりえない。 それは生の一部である、と。 あなたがそれを受け入れる なら、そのとき必然的に、 機構、すなわち頭脳は 擦り切れるでしょう。 しかし、あなたが それを受け入れないなら - 葛藤が必要である ことを、です - そのとき私たちは、 訊ねられます。 私たちが今、訊ねて いるように、です。 葛藤は必要ですか - 私たちのすべての 分野において、 関係において、 学ぶ中で、 知識を取得する中で、 葛藤が(必要か)、です。 さて、それは、 こういう意味です - 20:20 二元性は、そもそも存在 しますか - 対極は、です。 いいですか。 私たちは 互いに出会っていますか。 私たちは互いに訊ねています - 対極は存在しますか。 それは、正反対です。 それは、「あるもの」へ 全的に対立した何かです。 これらに付いてきて おられますか。 |
| 20:56 私たちはこれらを 探究していますか。 あなたは、これらに興味を 持っておられますか。 語り手が、 あなたに それへ興味を持たせて いないことを、望みます。 これは、あらゆる人間の 自然な興味です - 人は、世界のどこにいようとも、 見出したいのです。 そして私たちは 訊ねています - 心理的な対極が ありますか。 対極はあります - 男、女、 闇と光、痛みと、 痛みがないこと。 当然に、対極は ありますが、 私たちは訊ねています - 葛藤がありますか。 それは、心理的な対極に おいて、存在しますか、と。 それは明らかですか。 で、「あるもの」へ 対極がありますか。 私は暴力的ですが、 暴力への対極が ありますか。 22:34 そして、多くの哲学者と 多くの教師と 多くの理想主義者が、 それを言ってきました。 対極は非暴力の 概念です。 ですね? そこで私たちは、ただちに 問題を持っています - 概念と事実です。 で、時の分割が あります。 いいですか? 時は、「あるもの」です - それは暴力です。 すなわち、一連の究明を とおして変容されるべき、 対極すなわち非暴力へ 到着すべきものです。 すなわち、 暴力の終わりへ、です。 いいですか? さて、 対極があるところ、 葛藤があるに ちがいありません - 善と悪、です。 いいですね。 私たちは初めに、 心理的に話しています。 |
| 23:45 で、たぶん、すべての人間に 暴力があります。 動物から継承した、 などなどなど、 気をつけて 養成されたのです - 民族主義、 分離主義をとおして、 私たちの一人一人が、 心理的に他のあらゆる人から まったく分離しているとの 観念をとおして、です。 世界中の宗教は、これを 維持してきました - あなたは、 分離した魂である、と。 私たちは先の六回の講話の間、 それについて話してきました。 |
| 24:36 今、私たちは訊ねています - 心理的に 「あるもの」へ、 対極がありますか。 いいですか。 私は暴力的です。 思考はなぜ、対極を 創り出しますか。 事実は、私が暴力的 である、ということです。 事実は、私が心配して いる、ということです。 事実は、私が貪欲で、妬み、 さびしい、ということです。 それらは事実です。 対極は、非事実です。 ですね? 私たちはそれを 受け入れますか。 大事なことは、 暴力からの自由があるべき である、ということではない。 大事なことは、 暴力の本性を理解し、 暴力が終わりうるのか どうかを見ることです - 対極を 創り出すのではない。 思考が対極を創り出した 瞬間、葛藤が始まります。 これは明らかですか。 私たちはそこから 進めますか。 |
| 26:06 で、自分は暴力的です。 私たちは、あの性質、 あの反応を見つめられ、 暴力を終わらせることが 可能であるかどうかを、 見出せますか。 「私は暴力から自由である」 と言う精神の状態を、 創り出すのではない。 暴力を終わらせる - 理解されますか 非暴力としての 暴力の継続ではない。 いいですか。 すなわち、対極は、 必然的に、 それ自体の対極から 産まれます。 いいですか。 |
| 27:06 で、暴力を観察し、 それを終わらせることは 可能ですか。 暴力とは何ですか。 怒り、 他の一人を 傷つけたいとの欲望。 暴力は、競争、 比較、模倣です。 そのすべてが、一般的に 暴力と考えられています。 野心的な人は、 当然、暴力的です。 私たちは、暴力が何で あるかを叙述してきました。 そして、対極を 創り出すことなく、 この暴力の状態は、終わり えますか。 いいですか。 なぜなら、私たちは、 対極が葛藤を 創り出すにちがいないのを 見るからです。 ですね? しかし、もし私が、 私自身に向かって、 「別の状態を 達成するために、私は 暴力を終わらせなければ ならない」と言うなら、 それはまたもや、 「あるもの」から 逃避することです。 明らかですか。 |
| 28:41 で、それは 終わりえますか - それを別の形で、別の水準で 継続させないのです。 いいですか。 で、ともに見出しましょう - 暴力は、そのとてつもない 複雑さすべてとともに、 終わりうるのかどうか、です。 すなわち、私たちは その反応を、観察できますか - その言葉が 目覚めさせたものを、です。 いいですか。 その言葉が、です。 私たちにほとんどにとって、 言葉はとてつもなく重要です。 で、私たちは、暴力と 呼ばれるこの反応を、 その言葉なく 見つめられますか。 いいですか。 これは本当に、まったく 複雑な主題です。 私は、自分の妻や 彼女を見つめられますか - 私がそれを、彼女を 持っているなら、ですが、 その言葉なしに、 イメージを創り出す その言葉、 象徴である その言葉なしに、です。 そして、思考が 言語化の動きであることを 発見できますか。 いいですか。 私たちはともに これらをしていますか。 またはあなたは単に語り手に 聞いているだけですか。 |
| 30:38 そうね、私たちは、言葉のネット ワークに、捕らわれています。 私たちは、ドイツ人、 フランス人、イタリア人です。 それが何であっても、です。 それらは、ラベル、 言葉だけですが、 その言葉の裏には、 大変多くの文化、 一定の伝統などなどが、 あります。 で、この暴力の事実を、 その言葉なしに 観察できますか。 それが、 第一の問いです。 そのとき、その言葉がその 感じを、創り出していますか。 いいですか? 私が、 「私の妻」と言うとき、 その言葉がその感じを 創り出します。 で、私たちはこの反応を、その 言葉なしに見つめられますか。 いいですか。 それの含蓄が何であるかを 見てください。 すなわち、言葉は、 過去の出来事を 憶えているか、 関連づけることです - 私が「暴力」と呼んできた ものを、です。 32:03 で、私がその言葉を 使うとき、 私は、現在の応答を 過去へ関係させたのです。 ゆえに、過去が 判断しています。 いいですか。 これは、たくさんの頭脳の 行使を、必要とします。 きわめて、きわめて、きわめて 近く観察するよう、行使する - あなたがこの暴力の事実を 見つめているとき、です。 で、その言葉からの 自由が、ありますか - それで、あなたが 見るように、です。 その言葉からの自由がある とき、何が残っていますか。 理解されますか。 その反応だけです - ですね? - すなわち、あなたが暴力的と 名づけてきたもの、です。 これらに付いてきておられる のかどうかと、思われます。 私たちは、互いに 出会っていますか。 または私は、自分自身に 話していますか。 |
| 33:29 そうですね、 観察の中、 観察の中で、 時から自由であること。 いいですか。 もう少し説明しましょう。 時は過去です。 現在を修正し、 継続しています。 いいですか。 過去の記憶、経験、 知識の蓄積が、 現在に出会い、 修正されたか、 修正されないで、 継続する - それが、未来です。 今、暴力を見つめる - 時の観念なしに、です。 これはお分かりに なりましたか。 さて、ちょっと待って。 自分の妻を見つめる。 または、友だちや、それが 何であっても、ですが、 新鮮に、です。 何かを新鮮に見つめるには、 時は生じてこられません。 いいですか。 私が妻を見つめるなら - 過去の記憶と出来事など などすべてをもって、です - この蓄積、すなわち 時の結果が、 妻を観察しています。 35:31 いいですか。 で、私は、自分が 妻と呼ぶ人物を、 その言葉なく、時なく、 見つめられますか 理解されますか。 やってみてください。 私たちがここに座っている とき、してください。 お分かりですか。 それは、このすべてへ きわめて、きわめて間近の 観察を、必要とします。 それは、活動的な頭脳を 必要とします - 「はい」と言う だけではない。 この問いに鋭敏で 敏感である頭脳です。 時と言葉なく観察する。 時は、彼女についてか、 彼について、 蓄積された知識すべてです。 そのときあなたは、 その人物やその反応を、 新鮮に観察しています。 いいですか。 私たちは、これを していますか。 |
| 36:44 そして問いは、 こうです - 頭脳が衰退しないことは、 可能ですか。 私たちは、葛藤が衰退の要因の 一つであると、言いました - 緊張、圧迫、 達成したいとの衝動、 心理的に何かに なりたいとの衝動 - これらすべてが、 葛藤の要因です。 さて、私たちは、暴力の 動き全体を、観察します - それは、葛藤の 主な要因の一つです。 葛藤が関与している ところの要因、です。 いいですか。 さて、この葛藤は心理的、 内的に、終わりえますか。 どうぞ、あなた自身に 訊ねてください。 もう一度、気をつけて それに入りましょう。 なぜなら、 分かることですが、 永続的に動いている、 どの機構も どれほど油を 差していても、 常に動いているものは、 擦り切れてしまうに ちがいないからです。 38:28 そして、要因の一つは 思考です。 思考は、永続的に 活動的です。 いいですか。 さて、思考は、いつの時も おしゃべりしていて、 映像を創り出している、 それらのことですが、 思考は、それ自体が 活動中なのを観察する中で、 終わりになりえますか。 理解されますか。 ああ、神様。 すなわち、思考は 静まれますか。 なぜなら、思考は常に 活動的であるからです。 ゆえに、頭脳は常に おしゃべりし、論争し、 議論しています。 よろしいですか。 その頭脳は、自らの 思考の動きとともに、 静まれますか。 いいですか。 そして彼らは、こう 言ってきました - あなたが一定のことをする なら、それは可能である。 冥想しなさい。 静かに座りなさい。 40:12 自分一人で散歩へ行きなさい、 それら、です。いいですか。 しかし、そのすべてが動機を、 原因を持っています。 なぜなら、あなたは、 静めることにより、 頭脳はさほど老いない だろうと、考えるからです。 ですね? で、動機があるところ、 終わりは単に 別の形での継続です。 これらを理解されるのか どうかと、思われます。 あなたは、この種類の 考えに慣れておられません。 あなたは、究明に 慣れておられません - 自由な究明に、です。 で、私たちは 訊ねています - 頭脳は 機械的になったし、 常に活動的ですが、 その活動は 緩くなってしまえますか。 その活動は 止まりえますか。 |
| 41:34 その欲望、その問い - それは止まりうるのか - の裏の動機は、何ですか。 それは、あなたが とても若い頭脳を持ちたい、 ということですか。 ゆえに、その裏には 動機があります。 その動機こそが あなたの究明を 破壊しようとしています。 いいですか。 で、この事実を 見つめる中で、 すべての動機より 自由でありえますか。 動機からの自由が あるなら - (動機が) どれほど微妙でも、 どれほど 隠れていても、です - そのとき、葛藤は 終わりえますか。 さて、これが問いです - 葛藤は終わりえますか。 誰が、それに答えようと していますか。 語り手が、ですか。 またはあなたは、それを 究明し、探検してきましたか。 そしてそれは、 弾けてしまった。 そしてあなたが、 あなた自身で それに答えなくては いけません。 そうですね? あなたは、それを見つめて、 見出せますか。 仮に、語り手が「はい。 それは 終わりうる」と言うとします。 そのとき、あなたは どこにいますか。 それは 重要ではないのです。 重要なのは、自分自身で 見出すことです。 で、問いは 答えられています。 |
| 44:02 問い2: 「不治の病に どう向き合えますか - 関与したすべての物理的な 痛みと苦悶とともに、です。」 |
| 44:14 「不治の病に どう向き合えますか - 関与したすべての物理的な 痛みと苦悶とともに、です。」 |
| 44:38 いろいろな種類の 痛みが、あります - 物理的(身体的)なのと 心理的なの、です。 さて、心理的な痛み、 苦悶、激しい苦しみ。 それが、自らが関心を 持っていることですか。 または、物理的な痛み、 一定の不治の病ですか - たとえば、癌です。 私たちはこれに どう出会いますか。 物理的な痛みを 緩和するためには、 様々な薬物などが あります。 そして、それに 耐えられます。 私たちのほとんどは、 薬物にもかかわらず、 きっと経験してきたと 思います - 一定の形の痛みを 堪えてきました。 それが激しくなるとき、 あなたは何かをします。 或る種の医薬、 医療的処置を、です。 |
| 46:15 で、初めに、心理的な 痛みを、見つめましょう - それは、心身的である かもしれません。 そして、内的に 痛みとは何ですか。 どうぞ、答えてください。 心理的な嘆き、 痛みとは、何ですか。 多くの要因により 引き起こされる痛み - 充足したい、なりたい、 達成したいとの (要因の)ように、です。 そして、それらの 痛みが、ありますね。 傷つくことの痛みが あります。 他の人からの損傷の (痛み)です。 私たちのほとんどは、子ども 時代から、傷ついています。 私たちはその傷を、生涯に わたって持ち運びます。 その傷は、抵抗を もたらしますね。 私の関係における 抵抗です。 なぜなら、私は、もはや 傷つきたくないからです。 47:59 で、私は、自分自身の まわりに、壁を築きます。 私自身を孤立させます。 それが、もっと恐れを 創り出します。 で、私は、この傷と恐れと 抵抗をもって、 生涯ずっと、生きます。 それが、ほとんどの人間が 持っている傷の一つです。 傷の痛みを持たないことは 可能ですか。 それは、まったく 傷つかないことです - 心理的に、です。 いいですか。 傷ついているのは、 何ですか。 どうぞ、それを 見つめてください。 あなた自身、それに 入ってください。 私が「あなたが私に語ったこと、 あなたが私に言ったことで、 私は傷ついている」と 言うとき、 傷ついているのは、 何ですか。 「私」、ですね? それは何ですか。 傷ついている「私」は 何ですか。 49:19 イメージを創り出してきた 思考、です。 イメージは私自身です。 ですね? イメージなしに 私自身はありません。 私は、多くのイメージを 持っているかもしれません。 で、「私」である イメージなしに、 日々の生を生きることは 可能ですか。 それに入ってください。 質問を理解されますか。 イメージが 傷つきつつあります。 イメージが、痛みを 引き起こしつつあります。 イメージは、思考により 創り出されます - 様々な出来事、 事故などをとおして、です。 そのイメージは、 その複雑さすべてとともに - それはイメージだけ ではありません - 傷ついています。 イメージは、こうです - 私は結論を持っています。 私は結論に到ったのです。 私はその結論に 取りすがります。 50:48 その結論のどの動揺も 痛みです。 私は神を信じている - もし信じているなら、です。 あなたがやってきて、 「不条理なことを 止めろ」と言います。 そのとき、その言語的な 主張こそが、傷つけたのです。 なぜなら、私は問い はじめているからです。 または、私は問わないかもしれ なくて、私は傷ついています。 なぜなら、あなたは、何かとても 深刻なことを、言うからです。 で、私たちがイメージを 持っているかぎり、 思考の過程が、常に イメージを創り出していて、 そのイメージに 生を与えているかぎり、 痛みがあるに ちがいないのです。 これは事実です。 そのとき、訊ねます - その痛みは終わりえますか。 それは こういう意味です - この生に何もイメージなく 生きられますか。 51:58 よろしいですね。 これは、知的な難問、 謎解きではありません。 これは、私たちの生です。 私はイギリス人です。 または、インド人です。 または、それが 何であっても、です。 そのイメージに取りすがる ことが、とても重要です。 そのイメージが どうなじられても、 私は暴力的になります。 そして痛みが付いてくる、 などです。 いかなるイメージもなく 生を生きられますか。 いいですか。 考え抜いてください。 |
| 52:52 さて、心理的な痛みが あります。 内的に、この痛みの 本性を理解するなら、 ゆえに、イメージはないし、 ゆえに、痛みはない - 私たちが心理的に知って いるようなものは、です。 いいですか。 そこから、物理的な痛みへ 動きましょう。 物理的なものから 心理的なものへ、ではなく、 心理的なものから、 物理的なものへ、ですね。 私たちはいつも、物理的な 痛みに、関心を持っています。 痛みの心理的な構造を、 けっして探究しません - 内的に、です。 いいですか。 私たちは、 心理的なもの、 頭脳の心身的状態でもって 始めます。 そのとき、物理的な痛みを 探究します。 |
| 54:00 私たちは、そういう 腐った生を、生きます。 タバコを吸う、酒を飲む、 その他すべてです。 私たちはいつの時も、 生の自然な過程を 腐敗させていますね。 汚染 - 空気、水を汚染する。 死んだ動物を食べる。 いいですか? 死骸を、です。 そして、様々な形の感受に 耽溺しています。 そして、味わいのみが、 全く重要になります。 で、物理的に私たちは、 こうも異常に思える 物事すべてに、屈します。 いいですか。 そうであるかもしれません。 おそらくそれが、物理的な 痛みの原因の一つでしょう - すなわち、病気と病 (の原因)です。 55:11 私たちは今、その問いに 入ろうとしていません - 病気とは何なのかと、 病とは何なのかに、です。 私たちは、別の時に そうするでしょう。 またはあなたは、自動車で 事故を起こします。 あなたの腕や脚が折れて しまう、などなどです。 このすべての痛み、 物理的な痛みを 見つめられますか。 それが激しすぎないなら、 それを観察する。 そして、しばらくの間、 それに留まれますか - できるだけ長く、です。 質問を理解されますか。 私たちは、物理的な 痛みを、受け入れますか。 または私たちはいつも痛みを 免れようとしていますか。 それが激しいなら、 当然、 私たちは、痛みから 自由になりたい。 56:18 しかし、私たちは、 痛みと同一視されずに、 痛みを観察できますか。 質問を理解されますか。 仮に、私はひどい頭痛が していると、します。 偏頭痛です。 私は、自分自身をそれと 同一視しないで、 それを観察できますか。 質問を理解されますか。 または私たちは、 「神様、私は こんなにひどい頭痛が している。 私はそれについて 何かをしなければ ならない」と言います。 または、それが ひどすぎないのなら、 あの痛みとの同一視すべて より、自由でありえますか。 いいですか。 それを探究し、 見出してください。 |
| 57:25 みなさま、このすべてに おいて、重要なことは、 智恵をもって生へ 接近することです。 さて、智恵とは 何ですか。 これが問題なのでしょう。 ここに問題があります。 第一の問題は、こうでした - 頭脳は、新鮮に 若く活動的に 明らかに保てるのか どうか、です。 第二の問いは、 痛みに耐えられるのか、 などでした。 さて、これら二つの問いを 観察する中で、 中心的な要因が出てきます - それが智恵です。 生に接近する - (生)それは、痛み、 楽しみ、心配、悲しみと、 人が人自身のために 作ってきた この生の複雑さすべてです - 外的にも、 内的にも、です。 戦争、テロ行為、 テロリスト、誘拐、 残忍さ、卑俗さ、 粗さ、 その全体です。 それが、私たちの生の 一部です。 このすべてに、 本当の智恵をもって 接近できますか。 59:12 で、探究しましょう - 智恵とは何ですか。 いいですか。 あなたが疲れて いないなら、ですが、 |
| 59:25 智恵(インテリジェンス)、 その言葉の意味は、 情報を蓄積し、 それを使うことです。 たくさんの情報を収集し、 それを、いわゆる 智恵をもって使う。 あなたの楽しみや 痛みに沿ってとか、 あなたの偏見に 沿って、ではない。 あなたは、大変多くの経験、 知識を収集してきて、 その知識を、 生において能動的に 智恵をもって使用して きました。 いいですね? その智恵は、 個人的ではありません。 なぜなら、あなたは たくさんの情報を 蓄積してきたからです。 あなたは、自分自身を その情報と 同一視するかもしれません - 「私の情報」と言って、 ですが、それは情報です。 で、あなたは 見られますか - 智恵は個人的ではない、 思考の利巧な活動ではない ことを、です。 いいですか。 |
| 1:00:55 私たちが、テクノロジーの 世界へ、入るとき、 そこには、経験、知識の 広大な蓄積が、あります。 技術者は、そのものすごい 蓄積を使うかもしれません - 自分自身をその蓄積と、 その知識と、同一視し、 「私がそれをした」と 言うかもしれません。 いいですか。 または彼は、何かを 生産するために、 その情報、知識を 使います。 たとえば、科学者 - 以前の科学者たちより 大変多くの知識を取得し、 さらに探究し、 その知識へ付け加えている 人のように、です。 1:01:52 しかし、彼が、その知識と 自分自身を、「私」として、 やってきた偉大な人物として 同一視した瞬間、 そのとき、その活動に 智恵はありません。 いいですか。 そして智恵は、思考の 活動ではありません。 今、これは、理解する ことが、困難です。 私たちは、 探究しています。 私の定義を 受け入れていません。 あなたは、智恵が 何であるかの私の叙述と、 説明を、 受け入れていません。 私たちはともに、智恵が 何であるかを、見ています - 私の結論やあなたの 結論ではない。ですね? |
| 1:02:42 さて、智恵とは 何ですか。 思考は、蓄積された知識に 基づいています。 ですね? ゆえにその知識は、いつも 制限されるでしょう。 何についても、 完全な知識はないのです。 私たちは、この点が明らかで なければなりません。 いいですか。 宇宙について、科学について、 物理学について、 完全な、全的な知識は、 ないのです。 彼らはいつも、付け加え、 付け加えていますね。 で、知識は、無知と手に 手を取り合って、行きます。 いいですね。 もちろんです。 あなたがそれをお好きでない だろうのは、存じていますが、 それは事実です。 ですね? で、知識は 制限されているので、 思考は制限されているに ちがいありません。 そうですね? そのとおりです。 それは 制限されています。 何でも思考がすることは、 利巧に、ですが、 制限されているので、完全な 智恵ではないですね。 1:04:13 これに付いてきて おられますか。 で、それは、思考の 活動ではありません - 利巧な知覚、 利巧な論争、 利巧な教条的理論をもたらす もの、ではありません。 それは、 智恵ではありません。 で、智恵は何ですか。 私たちは、それでない ものを、否定してきました。 よろしいですか。 私たちは、これはそれでは ない、これはそれではない、 これはそれではないと、 言ってきました。 そのとき、 何がありますか。 もしあなたがこのすべてを、 それでないものを取り除くなら - それはまた、偽りを 偽りと見ることですね。 偽りの中に 真理を見ることですね。 それもまた、別の形の 取り除くことです。 で、もしあなたが このすべてを取り除くなら - そこには時が 含まれていますね。 なぜなら、知識の蓄積は 時であるからです - そのとき、残っている ものは、智恵です。 ですね? |
| 1:05:55 さて、ちょっと 待ってください。 私は何かを見ます。 私は、自分が虚栄心が 強いのを、見ます。 誇っていて、 傲慢です。 それは知覚可能です。 さて、それを解消する ために、時を掛けることは - もし、そう したいなら、です。 すなわち、私は傲慢でない ために時を掛けるでしょう - それは、 智恵ある行為ですか。 なぜなら、私はそこに 時を許してきたからです。 私は虚栄心が強い。 私はしばしの間、それと 遊び戯れるでしょう。 私はそれが好きです。 私は、それが不条理 であるのを知っていますが、 私はそれを好きです。 続けていきます。 そしていつの日か、それは 終わるだろうと、望みます。 すなわち、私は自分が虚栄心が 強いことを、知覚します。 気づいていますが、 私は即時に行為しません。 即時の行為が 智恵です。 分かりますか。 理解されますか。 これは明らかですか。 私が時に、私の虚栄を 解消するか、 片付けてしまうのを 許すとき、 そのとき、行為は 智恵がありません。 しかし、知覚し、即時に 行為することは、智恵です。 ですね? すなわち、 知覚と行為との間に、 時が入ってくるのを 許さない。 |
| 1:07:47 で、私たちは、 この事実に入られます - 智恵は何かであるかの (事実に)、です。 いいですか。 ここでのもう一つの要素を 見つめてください - 愛とは何ですか。 私たちはみんな、その言葉を きわめて自由に使います。 私たちがいうその言葉は どういう意味ですか。 あなたは、それが何で ないかを発見するときだけ、 その言葉の深さ、 その感じの深さ、 それの明らかさ、強烈さを 見出せるだけです。 いいですね? それは 嫉妬ではありません。 それに 同意されるでしょうか。 私はあなたを愛して います。 そうですか。 私はあなたを 愛しています。 私は本気でそう 言っています。 私はあなたを愛して いると言うとき、 私は本気で 言っています。 私はあなたを 愛しています。 その愛は、何か動機を 持っていますか。 すなわち、動機は、 私は演台に座って、 あなたたちに話をするから、 あなたたちを愛している、と。 私はとても 満足に感じます。 そうね、 それの醜さすべて、です。 私はそこで充足する、 などです。 - そのすべての 不条理なことです。 1:09:50 で、私はあなたを 愛していると言うとき、 動機があるなら、それは それではない。 ですね? 嫉妬があるなら - すなわち、 私はあなたに 執着しています。 私はあなたに 縋りつきます。 それは私に、権力、地位の 感覚を、与えてくれます - さびしさの 回避の感覚を、です。 そして私が、私はあなたを 愛していると言うとき、 それは、私があなたに執着 している、という意味です。 それは愛ですか。 進んでください。 それを究明してください。 執着は愛ですか。 明白に そうではありません。 |
| 1:10:38 で、私は、 嫉妬がそれではない、 執着はそれではないのを 発見したのです。 私は、執着を知覚します - 私は執着しています。 私は、執着から自由になる ために、時を掛けないでしょう。 私は、執着の帰結を 見るし、 即時にそれを 終わらせます。 それが智恵です。 |
| 1:11:08 で、愛がそれではない 要因とは、何ですか。 私たちは、嫉妬、執着と 孤立と、言いました。 私の野心、私の充足 - よろしいですか - 自己中心的な活動の動き 全体は、愛ではありません。 いいですね。 そんなにぼーっとした 顔を、しないでください。 これらは事実です。 で、否定により、 それが何であるかを 発見します - 時折にとか、 稀にとかではない。 もし自らがこれに 深く入ってきたなら、 あの性質、あの香り、 あの強烈さ、 それの美しさが、あります。 それとともに、 慈悲が訪れます。 私は、慈悲深く ありえません - もし私がどの形の概念にも 執着しているなら、です。 もし私が、私の神を愛していて、 私は慈悲深いと言うなら、 それは 慈悲ではありません。 |
| 1:12:54 で、愛、慈悲、智恵は 互いに相伴います。 で、私たちは、この智恵をもって この問題に、接近できますか - 心理的な痛みと 物理的な痛みに、です。 それについて神経症的に なるのではない。 自分の痛みに 常に占領されていて、 あらゆる種類の心理的問題を 創り出しているのではない。 いいですね。 で、この会話の終わりに、 この智恵の性質が ありますか。 この智恵の性質が、 ありますか - すなわち、愛であり、 慈悲であるものが、です。 1:14:14 または単に、 利巧な論議、 弁証法的な探究、 意見対意見、 観念対観念ですか。 それは、葛藤です。 一つのイデオロギー的集団、対 別のイデオロギー的集団です。 共産主義のイデオロギーと 全体主義のイデオロギーと いわゆる民主主義の イデオロギー。 これら二つは、今、 闘っています。 で、一緒の この会話の後、 この香りが ありますか - 活動的な、この智恵と 慈悲の性質が、です。 よろしいです。 |