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SA82Q2 - 質疑応答会合、第2回 home
質疑応答会合、第2回
スイス、サーネン
1982年7月26日


1:23 クリシュナムルティ: このような大きな集団と 討論を行うことは 可能ではありません。 で、それは、 二人の人々の間の 対話、会話です。 お気になさらないなら、 私たちはそれを そのように 取り扱うでしょう。 二人の友だちが、 自分たちの問題について ともにじっくり 話し合っています。 彼らは、本当の友だちです。 便利な友だちではなく、 互いに幾らかの間、知り 合ってきた友だちです。 そして彼らは、歩いています - おそらく森の中を、です。 ベンチに座っていて、 自分たちの親密な問題について じっくり話し合っています。 友だちが そうするように、です。 で、これはただ、二人の人々 - あなたと語り手 - の間の 会話だけではありません。 それは、対話です。 仲の良い会話です。 一人一人が、可能なだけ 深く問題へ 透徹しようとしていて、 自分たちの無数の格闘、 痛み、心配などすべてへ 答えを見つけようと しています。 3:21 で、それが、今朝私たちが しようとしていることです。 二人の人々がともに じっくり話し合っています。 何をも 主張していません。 どっちつかずではなく、 生へ深い関心を持っている 二人の人々 - その複雑さすべてへ、 その微妙さ、その多様さ すべてへ(の関心)、 彼ら自身の中と外的に 進んで いく狂気への(関心)です。 で、私たちはともに、 しばらくの間、互いに 知り合っている二人の 人々のように、仲良く ともに会話をしようと しています。
4:19 彼らが互いに訊ねる 第一の問いです。
4:28 問い1: 「私の息子は 三年前に死にました。 私の夫は 四ヶ月後に、です。 私は、彼らの全くの絶望の 記憶を手放すことは、 極端に 難しいと見ます。 道があるに ちがいありませんし、 おそらくあなたは ご存知でしょう。 私は長い距離を来て、助けを 見つけました。 」などです。 「どうぞ、死と執着について 語っていただけるでしょうか。」
5:17 「私の息子は 三年前に死にました。 私の夫も 死にました。 私は、彼らの全くの絶望の 記憶を手放すことが、 極端に 難しいと見ます。 道があるにちがいないし、 おそらくあなたは ご存知でしょう。 私は、 長い距離を来て、 あなたの話を聞く中で、 助けを見つけたのです。 どうぞ、死と執着について 語っていただけるでしょうか。」
6:06 まず第一に、ともに じっくり話し合いましょう - 執着するとは どういう意味ですか。 そして、執着と 依存との間の 違いは、何ですか。 執着は何ですか。 なぜ自分は 執着していますか - 国に、人物に、 自分たちがしてきた 何か経験に、 何かイデオロギーに、 何か確定的な結論に、です。 なぜ人々は、世界中で こうしますか - 自分たちの境遇に、 自分たちの環境、 社会的、道徳的などの ものに、依存して、です これが、人が何度も何度も 反復してきた様式です 私は、 経験してきました - 何か私を深く 掻き立てる、 私の生を彩る、意味を 与えるものを、です。 その経験は、 去ってしまい、 死んでいます。 私は、それの記憶へ 取りすがります。 7:54 なぜ私たちは こうしますか、と 私の友だちが 私に訊ねます。 そして私は、友とじっくり 話し合っています - なぜ人間たちは、 どこに生きていても、 何らかの形で、これに 縋りつくのか。 自らの土地、自らの 資産、自らの富、 自らの妻、 自らの夫などに、です。 なぜですか。 どうぞ、私たちはともに じっくり話し合っています。 私の友と、私が、です。 あなたは、 聞いている聴衆です。 なぜ私たちは、縋りつき、 執着しているのか。 執着(アタッチメント) という言葉は、 ラテン語、イタリア語の アタカーレから来ています。 それは、何かを掴んで 保つ、という意味です。
9:10 それは、私たちが 自分自身において 不充分であるからですか - 内的に、です。 それは、さびしさが あるから、 何かを所有する感覚が あるからですか - それが、 一つの家具であっても、 住宅や、人物であっても、 何かを所有すること、 「それは私のだ」 と言うことは、 大変多くの楽しみを 与えてくれます。 それは、私たち人間、 あなたと私は、 何も、もっと深いもの、 もっと肝要なものを 持っていない、 ゆえに、私たちは何かへ取り すがる、ということですか - きわめて、きわめて 表面的なもの、 何か過ぎ去ってしまい そうなものへ、です。 私たちは、無意識的に それを知っています。 何かが過ぎ去りつつあります が、私たちは取りすがります。 私たちは幻影へ、取り すがるかもしれません。 幻影(イリュージョン) という言葉は、 遊び戯れる、 という意味です。 その根本的な意味は、 遊び戯れることです。 10:49 私たちは、幻影と 遊び戯れます。 それらは、きわめて、 きわめて満足できます。 または、私たちは 考案します - 異なった水準で、微妙な 形の自分自身を、です。 で、私たちは、これら すべての物事を創り出し、 取りすがります。 なぜですか。 それは、自分が 何ものでもないこと、 取りすがるものを 何も持たないことを、 恐れている、 ということですか。 それは、 所有する中で、 何かに取りすがり、 縋りつく中で、 それが私たちに、 大きな安全の感覚、 幸福感を与えてくれる からですか。 なぜなら、生は、 きわめて不確実であり、 危険であり、 信じられないほど 残忍であるからですか。 そうね、世界はますます強制収容所 のようになりつつあります。 で、私たちは、なぜ 執着していますか
12:29 - 私たちの一人一人が 何かへ、です。 私たちが、違った形の 執着を見つめ、 それの帰結を見るとき - すなわち、恐れ、 心配、痛みを、です。 それを見るが、 それを終わらせる ための時を許さない。 すなわち、私は、自分の 妻に執着しています。 そして私は、この執着が 多くの帰結を持つことを 知的にも、 深くも、見ます - 辛い、絶望的です。 私は、そのすべてを 論理的に、見ます。 私は、それを知的に、 合理的に見ますが、 私はそれを手放せません。 なぜなら、私は、 一人でさびしいことを 恐れているからです。 私は、このすべてを 見ます。 なぜなら、私の友と、私は 相当に智恵があるからです。 私たちは、どちらも それを見つめています。 14:17 そして私たちは、 こう言います - 時が私を、この執着から 自由にしてくれるだろう、 - 次第に私は 理解するだろう、 次第に私はそれを 手放すだろう、と。 その、次第にという 態度は、愚かしさです。 なぜなら、私は、 全部を見て、 即時にそれを 終わらせるのか、 あるいは、私は 愚かであるからです。 なぜなら、私は、何かへ 縋りつきたいからです - 死んだ、去った 記憶へ、です。 ですね? で、智恵は、執着の動き 全体を、見ることです - それの過程全体を、内の ものも、外のものをも、です。 それの知覚こそが、それを 終わらせることです。 それが智恵です。 延期することではない。 15:27 時に、精神、頭脳を鈍らせる のを、許さないことです。 なぜなら、自らが延期し、 放置し、受け入れるなら、 あなたは、すでに 過ぎ去った様式の中、 すなわち、過去の記憶の 中に、生きているからです。 記憶、それは 死んでいます。 それで頭脳は、何か終了した ものとともに、生きています - 何か過去のものと ともに、です。 そして、過去に 生きることは、いつも 頭脳の性質、活力を 鈍らせます。 いいですか?
16:24 で、私たちは検討してきました - あなたと私が、です。 林の中の あのベンチに座り、 「さあ、検討しましょう - 無執着とは何ですか。 無執着は、執着の 対極ですか」と。 もし自らが 無執着を追求し、 それを別の形の 執着にするのなら、 あなたは、まさしく前と 同じことを、しています。 これが明らかであるのを 望みます。 すなわち、もし、私の 執着からの無執着が その対極であるのなら、 そのとき、葛藤が あります。 執着と、「私は無執着で あるべきだ」との間に 葛藤があります。 そのとき、私の注意全体や 私のエネルギーは 無執着に なろうとしています。 けれども、私は、自分が執着 しているのを、知っています。 17:50 で、葛藤が 進みつつあります。 で、私たちは、関係が何である のかを見出さなくてはいけません - 執着と無執着との間に、 何か(関係が)あるなら、です。 または、いかなる 関係も、ないのです。 執着が終わることが あるとき、 「無執着」という言葉を 使う必要は、ありません。 それの終わることが あります。 しかし、私たちの ほとんどにとって、 私たちの頭脳は、この対極の 過程へ、条件づけられています。
18:52 そして、そもそも対極があるのか どうかを問わなくてはいけません。 物理的な水準には、 対極があります - 高い、低い、 幅広い、広がっている。 醜い、美しい、などです。 しかし、心理的、内的に、 そもそも対極がありますか。 または、 あるものだけですか。 私たちは、対極を 考案します。 あるものを、梃子で動かすか、 取り除くために、です。 あなたと私は、あの ベンチに座っていて、 これについて 話しているし、 私たちが互いに理解し 合うのを、私は望みます。 二人の友だちの間に 権威は、何もありません。 19:52 この事柄へ入ってきた 二人の友の間に、 主張は何も ありません。 で、それは、相互の 協働的な理解です。 それは、一人が相手に 語っているわけではない。 彼らはどちらも、 ともに旅をしています - 同じ小道を、 同じ強烈さをもち、 同じ深さをもって、です。 で、私たち二人の間で、 それが明らかであるなら - 執着と無執着との間には何も 関係がないことが、です - そのとき、ただ執着が 終わることがあります。 他は何もない。
20:51 さて、愛は 執着ですか。 私は、友を 愛しています。 私は毎夕、彼とベンチに 座ることに、執着しています - 私の問題を じっくり話すのです。 そして私は、毎日、 私たちがベンチに座り、 同じことに出会わない とき、惜しみます。 で、私たちは、互いに 訊ねています - 愛は執着ですか。 誰かを所有すること、 誰かに 取りすがることは、 それが 神の観念であっても、 それが、解放、自由の 観念であっても、 それが、所有の中で 愛が成長するとの観念、 概念であっても、です。 で、私たちは、執着と 愛との間の関係が 何であるかを、 問うています。
22:21 結婚している 私の友は、 幾度も結婚して きましたが、 彼は、それらにより かなり損傷してきました。 彼は、かなり 不幸せです。 彼は、今なお自分が現在の妻を 愛していると、考えます。 彼は、私たちの会話の中で 私に言います - 「私は彼女を失えません。 私は取りすがらなければ なりません。 なぜなら、私の生は、彼女なし には、空っぽであるからです。 」 これらをご存知でしょう。 「私は彼女を 手放せません。 彼女は、何か私より全然違った ことを、したいのですが、 それは彼女を導いて、私より 離れさせるかもしれません。 で、私は彼女に譲ります。 私は、自分の欲望を、 他の何かをしたいとの自分の 思いを、抑圧するでしょう。 私は、彼女を受け入れて、 彼女に従うでしょう。 しかし、内的に、 いつの時も、 彼女と私との間に、 葛藤があります。 」 いいですか。 これらをご存知でしょう。 これは、新しい物語 ではないでしょう。
24:01 で、私は、 愛の無量性全体 - すなわち、とてつもなくて、 私が理解しないもの - を こうも些細な何かへ 還元したのです。 すなわち、私は執着していて、 所有したがります。 私は失いたくありません。 もし私は失うなら、 不幸せです。 これを私は、 愛と呼びます。 で、それは愛ですか。 どうぞ、同意 しないでください。 そうではないと、 言わないでください。 そうでないなら、 それは終わりです。 しかし、私の友は、それを 見つめるのを、恐れています - その複雑さを 見つめるのを、です。 私の友は、その主題より 動いて離れたいのです。 なぜなら、彼が、執着が愛で ないことを、本当に見るなら、 そのとき彼は、妻へ行って、 「私はあなたを愛している。 が、私はあなたに執着して いない」と言えますか。 25:24 何が起きるでしょうか。 彼女は私に、煉瓦を 投げつけるか、 出て行ってしまう かもしれません。 なぜなら、彼女の全人生が 執着することであるからです - 家具へ、観念へ、 子どもたちへ、 夫へ、です。 よろしいですか。 で、そのとき、 私の関係は何ですか - 私は、 愛が執着ではない、 嫉妬ではない、 野心、競争ではないことを 見たのです。 そのとき私にとって、 それは実在です。 言語的な構造物 だけではない。 そして、全く異なっている彼女 への私の関係は、何ですか。 進んでください。それはあなた の問題です。私のではない。
26:38 彼女は、私にとって真理である ことを、受け入れないでしょう。 ご覧になってください。 ここに何が関与して いるかを、見てください。 それらがどんなに 辛いのか。 それは、何も表面的なこと ではありません。 それは、自分の存在の まさに核心に、触れます。 私は何を するのでしょうか。 辛抱しますか。 辛抱です。 辛抱することは 時を必要としません。 辛抱は 時ではありません。 ところが、無辛抱は 時の性質を、含んでいます。 じっくり考え抜いて ください。 いいですか。 私が、妻が私より異なって いるのを、悟るとき、 私が考えることすべてが 全然、間違っています。 そして、私は、同じ家に生き なくてはならない、などです。 私は辛抱しますか - 私自身では、 辛抱が時の過程ではない ことを、知って、です。 私は、それを 悟りますか - 辛抱は、堪えること、 解消するために 時を許すことです。 28:37 私は、何もできませんが、 おそらく別の日、別の週、 別の年、私たちはあらゆる ことを、決着させるでしょう。 で、私は、現状を 忍耐します。 そして、忍耐は 愛ですか。 進んで、 考えぬいてください。 それは「間違っている」のを 知りつつ、何かを堪えること、 括弧付きの 「間違っている」です。 そして「まあ、時が次第にそれを 消去するだろう」と言うこと。 すなわち、私は本当に辛抱できず、 結果を見つけたいのです。 で、私はそれを 堪えます。 で、私は何をするので しょうか。 進んでください。 離婚ですか。 逃げ去りますか。 彼女に、私の家、 私の品物等を譲り、 さようならを言い、 すっかり消え去りますか。
29:53 または、私は訊ねています - 私の愛は、強烈で、 それは、彼女に変化を もたらせますか。 どうぞ、あなたがこれらの 質問をしています。 私は、この現象全体を その深さすべてとともに 理解したのですが、 その愛、慈悲、 智恵の性質は、 彼女に変化を もたらすでしょうか。 すなわち、彼女がそもそも 敏感であるなら、 彼女がそもそも 観察できて、 私が言っていることを 聞いて、 互いに 理解し合いたいのなら、 そのとき、彼女が変化する 可能性が、あります。 もし彼女が壁を 立てるなら - ほとんどの人々が そうするように、です - そのとき私は、何を することになりますか。 進んでください。 私を見つめないで、 あなたたち自身を 見つめてください。
31:28 私たちの奇妙な ところの一つは、 私たちが断定的な 答えをほしがること、 私たちが、何か定まった ことを、欲しがることです。 なぜなら、そのとき 私は自由であり、 そのとき私は、自分のしたい ことをできるからです。 で、この問いに 断定的な答えはないので、 それは、あなたの注意、 あなたの智恵、 あなたの愛の性質に、 依存します。
32:06 そして、私の友が訊ねる 問いは、こうです - 私の息子と私の夫は 死んでいます。 私は、彼らの記憶に 執着しています。 私は、 ますます絶望し、 ますます憂鬱に なりつつあります。 私は、過去に 生きていますが、 現在はいつも、過去に 彩られています。 で、私は、何を することになりますか。 そして、私の友が訊ねる 問いは、こうです - 死の問題について じっくり話し合いましょう。 あなたと語り手は、 あのベンチに座っています。 そこら中で、鳥たちが さえずっていて、 千の影があり、 川がすばやく流れていき、 麗しい音を立てています。 そして彼は この問いを出します。 彼はこう言います - 「私はすっかり若いですが、 どの瞬間にも、事故が 起こりうるし、 死があるかも しれません。 私の息子と夫の(死) だけではなく、 私自身の死も、です」と。 彼は、「それについて話し 合いましょう。」と言います。
34:00 私たちは、半分の問いに 30分を、掛けてきました。 気にされませんか。 死について 話し合いましょう。
34:19 古代の時から 歴史的に、文化的に、 すべての絵画と塑像から、 人はいつも 訊ねてきました - 死の後、何が 起きるのか、と。 自分は、たくさん 経験を、集めてきました。 道徳的であろう、 美的であろうと格闘し、 たくさん知識を 集め、 自己の深みへ 入ってきました。 もし死が 終わりであるなら、 そのとき、このすべては 何になりますか。 このすべての格闘、 痛み、経験、 知識、富の意味は、 何ですか。 そして死は、いつも その終わりに待っています。 私は、一つの派に 所属しており、 一定の衣装を受け入れる かもしれません。 なぜなら、私はその派に 所属しているからです。 それは、またもや、 孤立する過程です。 35:48 そして死は、私たちみんなに とって、共通の要因です。 導師にとって、 (ローマの)教皇にとって、 または、世界の無数の 「教皇」にとって、です。 で、それは事実です。 私たちはみんな、あの とてつもない出来事の、 意義、深さを 理解したいのです - それは、とてつもない。 そして、死と生きることとの 間の関係は、何ですか。 どうぞ、あなたが付いてきて おられることを、望みます。 私は、友に 訊ねています。 私が言っていることへ、付いて きておられることを、望みます。 彼は、「進んでください」 と言います。 私は言語的に付いていきます。 私はこれを理解します。
36:53 世界中の様々な文明が 死を乗り越えようと してきました。 彼らは、こう 言ってきました - 死後の生のほうが、 今より重要である、と。 で、彼らは、死への 準備をしています。 そして、今現在、 人々はこう言います - 私たちは、 患者を、友だちを 幸せに死ぬよう、 助けなければならない、と。 私たちは、けっして 訊ねませんでした - 何が重要なのか、と。 死の前、 死の前の長年のことか、 または、死の後か。 どちらが重要ですか。 どちらが本質的ですか。 私は友に 訊ねています。 自然に彼は、「死ぬ前」 と言います - 自らが生きていた 長い年、 たぶん 10年、15年、30年、 50年、80年、90年。 終わる前の、 それらの長い年、です。 38:16 それが、 生きる期間です。 そのほうが、それが終わる ことより、はるかに意義深い。 なぜ - 私たちはいつも訊ねて います。 彼と私は、です - なぜ私たちは、 この質問をしませんか。 後に何があるのか、とか、 私が幸せに死ぬように助けて くださいとか、ではなく、 私の生は、何ですか - 私が 80年の間、 生きてきたものは、です。 それは、一つの常なる 戦いであったのです - 痛みがなく、 格闘がない成り行きが、 時折、あって、です。 時折、稀に 何かが、起きます。 しかし、私の生の残りは、 格闘、格闘であったのです。 私はそれを、生きる ことと、呼んできました。 39:39 そうですね? それが、私たち みんながしていることです - 友と私だけではなく、 すべての人間がそうなのです。 仕事を持つために 格闘しています。 失業しています。 もっと富を ほしがります。 抑圧されています。 全体主義国家の 暴政、などです。 それは、広大な 密林であったのです。 それが、私の 生であったのです。 私はそれに縋りつきます - 格闘へ、痛みへ、 心配へ、さびしさへ、です。 それが、私が持っている すべてです。 いいですか? それのみが 重要になったのです。
40:40 で、私は訊ねています。 私たちは互いに訊ねています - 死ぬのは、何ですか。 今、これは、かなり 複雑な問いになります。 友と私は、時間を 持っています。 日曜日の朝ですし、 仕事はありません。 で、私たちは座って、 それへ入られます。 死ぬのは、個人ですか。 どうぞ、友として 探究してください - 死ぬのは、誰ですか。 有機体が生物学的に 終わることを別にして -(有機体)それは、ひどい 扱いを受けてきました。 それは、幾つもの病気、 病に、罹ってきました。 それは必然的に 終わりになります。 あなたたちは、人が150年 生きるのを助ける新しい薬を、 見つけるかもしれませんが、 いつも、 150年の後に、 あのとてつもないものが あって、待っています。
42:17 私の意識は、 その全体は、 その内容すべてとともに、 それは、私のですか。 すなわち、私の意識は その内容です。 内容は、私の信念、 私の教義、私の迷信、 私の国への私の執着、 愛国心、 恐れ、痛み、楽しみ、 悲しみなどが、 私の意識の内容です。 そして、あなたのです。 で、私たちのどちらもが、 あのベンチに座って、 この事実を認識します - すなわち、内容が意識を 作り上げるのです。 内容なしに、私たちが知っている ような意識は、存在しません。 そうですね? で、友と私たちは 43:38 それの論理、それの合理性 などを、見ます。 私たちは、それに 同意します。 そのとき、この意識に、私は 自分のとして縋りついてきたし、 友もまた、それに 縋りつくし、 自分たち自身を 個人と呼びますが、 その意識は、 他の意識と似ていませんか。 いいですか。 どうぞ、この点について 明らかであってください。 すなわち、もしあなたが、 運よく旅行でき、観察し、 他の人々と、じっくり 話し合えるなら、あなたは、 それらがあなたのと相似している ことを、見つけるでしょう。 彼らは、苦しみます。 彼らは、さびしい。 彼らは、千の神々を 持っています - あなたたちは、一人の神を 持っているかもしれませんが。 彼らは信じている、 彼らは信じていない、 など、です。 44:52 ほとんどあなたのに 類似しています。 周辺には、多様性が あるかもしれません - 私たちの意識の へりには、です。 あなたは背が高いかもしれません。 あなたは低いかもしれません。 あなたは、とても 利巧かもしれません。 あなたは、学究的 かもしれません。 あなたは、大変多く読書 してきたかもしれません。 あなたは有能です。 あなたは一定の技術、技倆を 持ているかもしれません。 それはすべて、周辺に、 外側にありますが、 内的に私たちは 相似しています。 いいですか。 これは事実です。 ゆえに、 私たちの条件づけは、 私たちは個別の分離した 魂であると言いますが、 それは 事実ではありません。 45:48 これが、友が身悶えし はじめるところです。 なぜなら、彼は、 自分が個人でないとの観念を 好きでないからです。 彼は、その事実に 向き合えません。 なぜなら、彼の条件づけすべては ずっとそれであったからです。 で、私は友に言います - 「それを見つめてごらんよ。 それから逃げ去らないで、 それに抵抗しないで、 見つめなさい。 あなたの頭脳を使いなさい。 あなたの感傷ではなく、 あなたの欲望ではなく、 ただそれを見つめなさい。 それは、事実ですか。 そうでないですか。 彼はそれを、漠然と 受け入れます。
46:58 で、私たちの意識が、人類 すべてに、相似しているなら、 そのとき、私は人類です。 理解されますか。 どうぞ、これの深さと 美しさを、理解してください。 もし私が 人類であるなら - 全人類であるなら - そのとき、死ぬのは 何ですか。 理解されますか。 私は寄与するのか・ ・・ あるいは、私は動いて、 その全意識より離れるのか - (全意識)それは 「私」ですが - 私はそれより私の存在全体を 浄めます。 いいですね? すなわち、私は個人ではない、 私は人類の全体である、と。 そのとき、意識を空っぽに することが、ありますか - すなわち、私の信念、 私の心配、私の痛み、 私の何やらかんやら、 それらを、です。 そのすべてに、終わる ことが、ありますか。 私がそれを終わらせるなら、 それはどんな重要性ですか。 48:36 よろしいですか。 それは、どんな重要ですか。 または、それは人類にとって どんな価値ですか。 私は人類です。 私は この質問をしています - これは、どんな価値、どんな 意義を、持っていますか。 大変多くの智恵、愛の後、 私がこれを観察するし、 その観察の中で、 それらの内容が全的に終わる ことが、あるとき、です。 それは、何か 価値がありますか - 人類をその現状から動かす、 という意味での価値が、です。 いいですか。 理解されますか。 確かに、価値が あるでしょう。 泥、混乱の、散らかった バケツの中で明瞭さの一滴 - その一滴が 作用しはじめます。
50:13 そして質問者は、 友は、言います - 私は、死の本性を 理解しはじめています。 私は、私が執着している 物事 - 私がそれらに 取りすがるなら、 死が私を捉えている ことが、分かります。 私がそれらを手放すなら - 毎日 それらが生ずるたびに、です - 私は、死とともに 生きています。 理解されますか。 死は、終わることです。 で、私は、生きている間に、 終わらせつつあります - 私が死ぬとき、失うであろう 物事すべてを、です。 いいですか。 で、友が訊ねる問いは、 こうです - 私は、自分の蓄積を毎日手放せ、 それを終わらせられますか。 それで私は死とともに生きています - ゆえに新鮮さとともに、です。 過去に、記憶の中に 生きているのではない。 いいですか。 で、ここから、きわめて 複雑な問いが、生じます。 不滅性(不死)とは 何ですか。 一つの問いです - 私たちはまだ 続けています。 すみません! 不滅性(不死)とは何ですか。 すなわち、 死すべき定めを越え、 死を越えて、です。
52:02 私たちが、先日 言いましたように、 原因があるところ、 終わりがあります。 結果には 終わりがあります。 原因が残っているなら、それは 別の結果を創り出します。 それは、常なる連鎖です。 ですね? 私たちは 訊ねています - 何も因果なしに、 生がありますか。 理解されますか。 私は友に訊ねています。 私が言っていることを 理解されますか。 私たちは、原因でもって 生きます。 そうね、私は、それへ 入らなくてもいい。 私たちの生すべては、 きわめて、きわめて 多くの原因(コーズ)に 基づいています。 私はあなたを愛しています。 なぜなら(ビコーズ)、 あなたは私に何かを 与えてくれるからです。 私はあなたを 愛しています。 なぜなら、あなたは私を 慰めてくれるからです。 私はあなたを愛しています。 なぜなら、 私は性的に充足しつつある から、などなどなど、です。 53:08 それが原因(コーズ)です。 そして結果は - 私が使う言葉は、「愛」です が、それはそれではないし、 そして、私が持っている どの動機も、因果作用です。 で、私は、友に 訊ねています - 何も原因(コーズ)なく 生きることは、可能ですか。 何の大義(コーズ)にも 所属しない - 組織された大義 という意味で、です。 または私自身に、 何も原因を持たない。 因果作用があるのなら、終わる ことがあることを、知って、です - それが時です。 さて、私たちはともに 見出そうとしています - 生が、日々生きることが あるのかどうか、です。 私たちの日々の関係に、私たちの 日々の活動において、です。 何か理論上のではなく、 実際の活動において、です。 自らは、原因なく 生きられますか。 54:45 友よ、それを 覗き見てください。 私を見つめないで、 それを見つめてください。 初めに、問いを 見つめてください。 私が、「私はあなたを愛して いる。 なぜなら、あなたは 私に見返りに、何かを与えて くれるから」と言うとき、 その因果作用の関係には、 いつも、その関係が 終わることが、あります。 で、私たちは互いに 訊ねています - 原因なしに 生がありますか。 初めに、それの美しさを 見てください。 深さを見てください。 単なる言葉ではなく、その 問いの活力を、見てください。 私たちは 言いました - 愛は原因を持って いません。 明白です。 あなたが私に何かを 与えてくれるから、 私はあなたを愛している なら、それは商品です。 市場の品物です。 で、私はあなたを 愛せますか。 56:01 愛がありえますか - 何をも 欲しがることなく、です。 物理的に、です。 心理的、内的に、何をも、 どの形でも何をも、 (欲しがらないで、)です。 で、それが愛です - それは 何も原因を持っていません。 ゆえに、それは無際限 です。 理解されますか。 智恵のようにです - それは 原因を持っていません。 それは、終わりなく、 時がない。 慈悲もまた、そうです。 さて、私たちの生に あの性質があるなら、 活動全体が、完全に 変化します。
57:09 それで、あの問いは 十分ですか。 この質問をした私たちの友が 理解されたことを、望みます。
57:38 問い2: 「あなたはどのように 根源的な問いを立てますか。 精神の中で問いを 保つこと、見つめること、 観察することは・ ・・ 問いを保つこと、 思考を観察すること、 それは、 思考の過程ですか。」
58:11 私はその問いを 読みましょう。 「あなたはどのように 根源的な問いを立てますか。 」 それが、質問者が 訊ねることです。 「それを見つめること、 観察すること、 あなたの掌で、それを 宝石として保つこと - それは、その問題の、 その問いの 根源的な理解へ、 つながるでしょうか。 または、理解、見つめる ことは、思考の過程ですか。 」 いいですか。 その問いは 明らかですか。
59:00 私は、問題を 持っております。 問題は、私の死です。 死について私ができる 根源的な問いは、何ですか。 根源的な、深い問い - すなわち、実在であり、 表面的な反応だけではない。 私の妻は死にました。 私は不幸せです。 どうぞ、私の不幸せをどう 乗り切るのかに答えてください - それは、きわめて、 きわめて表面的な問いです。 どう無執着であるかを 私に語ってください、と。 それは、 きわめて単純です。 しかし、根源的な問いを するには - 私たちはめったに そうしませんが、 そして、根源的な問いは、 観察があるとき、 出てきますか。 起きますか - 何の偏見もなく、 何の方向づけもなく、 問いを聞くことが あるとき、です。 または思考が、根源的な問いを 見つけられ、発見できますか。 今、理解されますか。 私は言います - 友よ、私が言っていることに、 付いてきておられますか。 彼は、「いいよ、進んで ください」と言います。
1:00:36 私たちは、言葉なく観察 したことがありますか。 それを見つめ、 それに入ってください。 なぜなら、私たちにとって言葉 ばかりが重要になったからです - 資本家、独裁、 ドイツ人、フランス人 - その言葉が、です。 私たちは、観察しますか。 彼と私は、観察しますか - すなわち、 私たちの頭脳が 言葉のネットワークに 捕らわれていることを、です。 いいですか。 私たちは、これに 気づいていますか。 言葉は、時です。 思考、記憶です。 いいですか。 言葉は、象徴です。 言葉は 原因の結果ですし、 私たちは、言葉で もって生きます。 それは思考の動きです - それ自体を象徴、言葉に 表現していますが、 それは思考の動きです - それは 言葉でもって生きるのです。 いいですね。 それを 見つめてください。
1:02:35 で、問いは こうです - 思考は、その言葉と 時でもって、 それは、根源的な 問いを出せますか。 理解されますか。 思考は制限されており、 砕けており、 そういう思考は、根源的な 問いを、訊ねられますか。 または、質問者は 知りたいのです。 私の友は、 知りたいのです - 根源的な問いは、思考に 関係していません。 そのとき、私の友は 訊ねます - この根源的な問いは どう生じますか。 これらに付いてきて おられますか。 どうぞ、それを見つめ、 あなたの頭脳、あなたの エネルギーを行使し、 これを 見出してください。 眠り込んでしまうとか、 それらではなくて、です。
1:04:02 根源的な問いは、純粋な観察を とおして、生じますか。 すなわち、観察する。 観察するとは、 視覚的な眼でもってだけ ではない、という意味です。 観察するとは、聞くことを もまた、意味しています - 感覚的な耳だけではなく、 内的な耳でもっても、です。 聞くことと、 見つめること。 あなたが見つめることを、 あなた自身の用語法へ、 あなた自身の言葉へ 翻訳するのではない。 もしあなたがそれを、自分に 合うように翻訳するか、 自分の利便のために それを見つめるなら、 そのとき、あなたの観察は 制限されています。 1:05:10 ゆえに、あなたは 自分の妻を、 樹を、 観察できますか - あの水のとてつもない動きを、 あれらの山々を、です。 言葉なく観察するし、 言葉なく聞く。 そして、何も方向なく 観察する - すなわち、何も 動機なく、です。 あなたは、それを できますか。 すなわち、あなたは 聞いていますか。 私は、友に 訊ねています。 あなたは、私が言っている ことを、聞いていますか。 または、あなたは しばらくの間、 注意の状態を 維持できません。 なぜなら(注意する)そのとき だけ、あなたは聞くからです。
1:06:22 で、あなたは、思考の 同伴なく、聞けますか。 それは、言語化 することなく、 あなたが聞こえること、 あなたが見ることを、 観念へ抽象化し、観念を 追求することなく、です。 理解されますか あなたは、そう全的に、 完全に観察できますか。 あなたが、そう 観察するなら、 根源的な問いの 必要は、何ですか。 問いの必要は そもそも何ですか。 ご覧ください。 それは妬みを 理解するのに似ています。 妬みを 取り上げましょう。 妬みを見つめて ください。 私たちのほとんどは 妬んでいます。 きっとみなさんは、演台に 座りたいだろうと、思います。 そうね、 この妬みの性質 - もっと、もっと もっと、権力、地位、 評判、名声を ほしがること、です。 さて、妬み - 妬みと呼ばれる 反応を、その言葉なく見つめる。 1:08:07 あなたが、「私は妬んで いる」と言うとき、 あなたは単に、 現在の反応を、 過去の妬みの記憶へ 関連づけているだけです。 ですね? 過去の記憶です。 ゆえに、あなたは 見つめていません。 あの妬みの動きを、現在に おいて観察していません。 あなたは、何も過去の動きも なく、妬みを観察できますか すなわち、 思考なく、です。 あなたが、そう 観察するとき、 それは、全的に新しい 反応です。 ゆえにそれは、 何か私たちが観察しなくては いけない新しいものです。 あなたが観察するとき、たぶん 根源的な問いは、こうです - それに、終わりが ありますか。 もちろんです。 理解されますか。 あなたの観察のための 原因があるとき、 あなたの観察に 終わりがあります - あなたが、原因なく 観察するとき、です。 理解されますか。
1:09:31 私たちは、もう一つ しましょうか。
1:09:37 問い3: 「私は林の中で 自然に近く生きてきました。 そこには暴力は ありませんが、 外の世界は 本当の密林です。 私はそこで、どう生きる ことになりますか - その一部分に、その競争、 残忍さ、暴力と残酷さの 一部分に なることなく、です。」
1:10:03 「私は林の中で自然に 近く生きてきました。 そこには暴力は ありませんが、 外の世界は 本当の密林です。 私はそこで、どう生きる ことになりますか - その競争、残忍さ、 暴力と残酷さの 一部分になる ことなく、です。」
1:10:38 初めに、 森の中で自分一人で生きる ことが、どんなに容易いのか。 私は友へ、自分がそれを してきたことを、語ります。 自慢や何もなく、 それは自然です。 私はそれをしてきました。 それはとても容易い。 なぜなら、あなたは、誰にも 関係していないからです。 あなたは、樹々、川、 草木を、見つめます。 それらは、自らを見つめる よう、あなたを招きます。 あなたが、樹を見つめれば 見つめるほど、 それは美しくなります。 影、風の中で ひらめいている木の葉。 それは、あなたに何をも 要求しません。 あなたは、楽しんでいます。 鳥たちを、聞いています - 水の響きを、麗しい 澄んだ朝を、です。 1:11:51 そして、永遠にそのように 生きるように、誘われます。 しかし、あなたは それをできません。 そこでさえ、あなたが 林の中に生きるなら、 あなたは、誰かにか、 何かに関係しています。 あなたは、牛乳を持ってきて くれる人に、関係しています。 で、いつも - たとえ、自分が隠者 であるとしても - あなたはいつも、他の一人との 一定の種類の関係に生きています。 もしあなたが、神経症的な 聖者であるなら、 そのときそれは、 きわめて容易くなります。 ほとんどの聖者は 神経症的です。 そのとき、彼らは あなたに 食べ物、衣服、その他 すべてを与えてくれます。
1:13:01 で、自分が世界に 入るとき、 面倒が始まります。 人間たちが創り出してきた 世界、です - 過去の世代に次ぐ 世代だけではない。 (各世代)それが、この社会を 創り出してきたのです。 しかしまた、私たちのみんなが それに寄与しています。 あなたが、切手を 買うとき、 あなたが、 手紙を出すとき、 あなたは、戦争へ 寄与しています。 あなたは、列車に乗るとき、 戦争に寄与しています。 で、あなたはこう 言うかもしれません - 私は列車に乗るまい。 私は手紙を出すまい。 私は電話をすまい。 私は税金を払うまい、 などと、です。 税金は、なかなか 困難です。 あなたは政府に 追われるでしょう - もしあなたがお金を 持っているなら、です。 で、あなたは、何を するのでしょうか。 完全に引きこもり、手紙を 書かず、旅行しないのか。 1:14:20 理解されますか。 この問いは、しばしば 語り手に出されてきました。 あなたが、戦争に反対している、 平和などとしましょうが、 あなたは、それに 寄与しています - 世界中を旅行する ことによって、です。 で、私は、どこで 止まるのでしょうか。 理解されますか。 手紙を書かない、 旅行をしない。 寄与すること、戦争を助ける ことすべてを、しない。 またはあなたは、はるかに 根源的な質問をしますか。 すなわち、なぜ戦争は そもそも存在しますか。 なぜ人は - いわゆる 文明化しているし、 いわゆる教育を 受けているのですが - なぜ人は、他の人、他の人間を、 殺すことを、支持しますか。 で、そこで、根源的な 問いは、何ですか。 それは、民族性ですか。 それは、この孤立の 観念全体ですか。 1:15:57 民族的な孤立、 個人的な孤立、 共同体的な孤立、です。 私が、僧侶、修道士の衣や 違った種類の衣を、着るとき、 私は、自分自身を 孤立させています。 で、孤立が 戦争の原因ですか。 明白です。 私が、「私はイギリス人だ。 あなたはフランス人だ。 あなたはこれだ。 あなたは あれだ」と言うとき、 私は、私自身を 孤立させています。 私は、イギリス人やインド人と して長い伝統を持っています。 私がインド人であるなら、 私は、はるかに 古代の伝統を持っています - それが、私を 孤立させています。 で、どの形の孤立も、戦争へ 寄与するにちがいありません。 その戦争は、互いに殺し合う ことだけではなく、 互いとの葛藤、抗争です。 いいですね。
1:17:05 さて、それらを見て - それは智恵を必要とします。 漠然としたユートピア 観念、だけではない - それを見ること、 この事実への知覚こそが - どの種類でも 孤立があり、 一つの集団に所属して、 別の集団に対立し、 一つの宗派で、 別の宗派に対立し、 紫、黄の一つの制服。 孤立させています。 これらは、孤立へ 寄与します。 ゆえに、回避不可能な 葛藤です。 それを知覚すること、 それの真理を見ることは、 智恵を必要とします - 「私はそれに 同意します」と言って、 それについて何も しないことではない。 しかし、私が それの真理を見るとき、 その知覚こそが 智恵の行為です。 1:18:13 いいですか。 で、その智恵でもって 私は、世界へ入ります。 すなわち、原因を 持たない智恵、 原因を持たない愛です。 慈悲は、明白に 原因を持てません。 その美しさでもって、 その明瞭さでもって、 そのエネルギーでもって、 私は出会います。 私は、残忍な世界に 出会います。 私は、その愛から 行為します。 またはむしろ、原因を 持たない愛が、行為します。 私は、乞食である かもしれません。 または、とても良い技術者 なのかもしれませんが、 あれの性質は、 けっして、 野心、残忍さ、暴力の 世界へ、入られません。
1:19:24 さて、私の友は、こう 言います - 「理解しますよ。 あなたが仰ることを、私は きわめて明らかに理解します。 あなたが 仰ってきたことを、 私は知的に掴みました。 表面的に、です。 さて、私はどう、それを 捉えることになりますか。 私はどう、それを 保つことになりますか。 私が息を保つように、 私が息をするように、 何か、こうも甚大な ものを保つ。 私を助けるであろう方法は 何ですか。 体系は何ですか。 もちろん、明白に、 あなたが体系に従うとき、 あなたは、去っています。 終了しています。 なぜなら、あなたは、 あの本当の愛の状態を 達成したいからです。 あなたは、不幸せであるから、 達成したいのです。 ゆえに、あなたは 動機を持っています。 ゆえに、それは 智恵ではありません。 ゆえに、それは 愛ではありません。 で、あなたが、この 香りを持っているとき、 そのときあなたは、 世界を経てゆけます。 あの香りは、けっして その美しさを失いません。
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