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SA82T5 - 聞くとは、学ぶとは、観察するとは、どういうことなのか home
公開講話、第5回
スイス、サーネン
1982年7月20日


1:25 何を待っておられますか。 私たちはともに究明を続ける べきだと、私は思います。 私たちは初めに、 話すべきです - 聞くとは、どういう ことであるのか、 学ぶとは、どういう ことであるのか、 そして、観察するとは、どういう ことであるのかについて、です。 私たちのほとんどは、 めったに聞きません。 私たちは、自らの 感覚的な耳で、聞きますが、 それは一般的に、それより はるかに深く浸透しません。 聞く - 聞こえることを、 自分たちの言語に 翻訳することなく、 自分の友からでも、 あるいは、親戚からでも、 言われつつあることを 解釈することなく、です。 あるいは、鳥を聞く。 あるいは、 水の流れを、です。 その聞くことは、あまり 深く行きません。 あなたは、発言が 聞こえます - あなたに何かを語っている 誰かからか、です。 または語り手は、あなたの ために、究明しています。 ともに私たちは 究明しています - 私たちに聞こえるのは、 表面的であるのか、 または、聞く行為こそが 問題全体を開くのです。 4:26 で、どう聞くのかが 重要です - 今、言われつつある ことを、だけではなく、 聞くこと、 聞く芸術が、です。 それで聞く中に、大変多くの 敏感さを、持つのです。 あなたは、不条理な、表面的な ことを、拒絶できます。 それは、 相当に明白ですが、 聞く中で、 何が虚偽であるのかと 何が真実であるのかを、 即時に見ることは、 可能ですか - たくさんの説明、叙述、 分析なしに、です。 まさに聞く行為の中で、 知覚するのです。
5:37 そして聞くことはおそらく本当に 最も偉大な、すべきことです。 もし自分があなたに、「私は あなたを愛している」と語るなら、 あなたは、それを どう聞きますか。 あなたは実際に 聞きますか。 または、なぜ彼がそう 言うのかと、思いますか - 彼は何がほしいのか。 彼の狙いは何なのか。 言葉の裏の、彼のアリアール・ パンセ(下心)は何なのか、と。 で、私たちは、その人物の 感じを実際に聞いていません - 「私はあなたに大きな愛情を 持っている」 と言う人の(感じ)を、です。 そのとき、 そう聞くのなら、 互いとの即時の 意思疎通が、あります。 それがあなたにそのように起きて きたのかどうかと、思われます。 そう完全に聞く - それで、天空全体が あなたに開いているのです。
7:13 また私たちは、学びとは何で あるかをも、考慮すべきです。 何か学ぶべきことが ありますか - テクノロジー的に、 言語の学習、 空の飛び方、手紙の 書き方(以外に)、 生において相当に必要な 物事を学ぶこと以外に、です。 (そういう物事の学び) それは必要です。 本の読み方、 車の運転の仕方、 とても良い大工の あり方、です。 あなたは学びます。 蓄積します。 それから、あなたは その知識を、 巧みに行為するように、 使います。 それが、私たちのほとんどが することです - 私たちが、「学び」という 言葉を使うとき、です。 たくさんの情報と知識を 蓄積する。 頭脳に蓄える。 それを頭脳が方向づけ、 行為します。 8:36 それが一般的に、 私たちが「学ぶ」ということで 意味するところです。 大気について外的な学び。 様々な物事について、です。 周辺的な学びです。 さて、他の形の学びが ありますか。 心理的に蓄積されている 学びが、ありますか - 様々な出来事と 経験によって、です。 そして、心理的に 蓄えられている。 そのときそれが、 私たちの関係において、 私たちの日々の生において、 その知識が 助けるのでしょうか。 または、明瞭さを もたらすのでしょうか。 質問を理解されますか。
9:46 私たちのほとんどは、おそらく あなたが今なさっているように - そうなさっていない ことを、望みますが - あなたは聞いていて、 言われつつあることを 学んでいます - その言葉の普通の 意味で、です。 それを蓄積しています。 そのとき、「はい。 私はそれを 理解しました」と言っています。 初めに、学ぶ。 それから、 言われつつあることの 事実や虚偽を、観察する。 そして、あなたが本当だと 感じる何かへ、縋りつく。 そして、それに 取りすがる。 そして、そこから 行為する。 ますます多く蓄積する。 またもや、 同じ現象です - 言語を学んでいるなどのとき、 外的にするように、です。 これが、 学びの過程全体です。
11:04 私たちは質問をしています - あなたと私が、です -
11:09 蓄積することなく、 観察する 違った道が、ありますか。 なぜなら、蓄積し、 そこから行為した瞬間、 それは機械的に なるからです。 私たちの頭脳は 機械的になったのです。 しかし、頭脳が、思考の、 反応の、機械的過程より 自由であるとき、 そのときそれは、 無量の能力、 無際限の能力を 持っています。 人間たちがテクノロジーの 世界で何をしてきたかを、 見てください - コンピューターの世界で、 戦争の世界で、 通信の世界などで、です。 ここおそらく百年の内に、 テクノロジー的に ものすごい前進です。 で、頭脳は、とてつもない ことの能力が、あります。 科学者たちは、そう 言っています。 おそらくそのとき、あなたは それを受け入れるでしょう。 それは、皮肉として 言われていません。
12:47 さて、私たちが学ぶとき、 それは普通、 理解されているように、 学ぶこと、 知識を蓄積すること、 その蓄積過程こそが、 自動的になります。 機械的になります。 で、私たちはともに 質問しています - この機械的過程はいったい 精神を(自由にし)、 ゆえに頭脳を自由にする だろうかどうか、です。 それで、それが無量の無制限 の状態を持つように、です。 質問を理解されますか。 この問いが幾らか明らか であることを、望みます。 私たちの頭脳は、あなたのや 私のではありません。 それは明白です。 なぜなら、あなたの いわゆる個人的頭脳は、 どうして 進化できますか。 13:58 それは、時の進化です。 進化は、時を 意味しています - 幾千年に 幾千年をかけて、です。 この進化の過程は、頭脳を 条件づけてきました - 一定の褒賞と処罰へ、 一定の反応へ、です。 で、それは、それ自体を 制限してきました。 この制限の中で、それは 知識を蓄積しつつあり、 その知識から 機能しつつあります。 ゆえにそれは、それ自体を ますます機械的にするのです。 それはこうも明瞭です。 そうでしょう。 それは、何か異国風とか 非合理的なことではありません。 自分自身をかなり 深く観察するとき、 - 外側で、そして内的に 起きつつあることに、 気づいているとの 意味で、ですが - 頭脳を見られます - それがいかに条件づけ られてきたのかを、です。 蓄積してきた その知識こそが、 それ自体の制限の道具に なりつつあります。 15:13 いいですか。 あなたがこれに出会って おられるのを、望みます。 私たちは、これに 気づいていますか。 私たちは、自分たちの頭脳が まず第一に制限されて、 条件づけられていることに、 気づいていますか - 民族主義など、です。 条件づけられています。 そして私たちは、その 条件づけから行為しています。 その条件づけから 学んでいます。 ゆえに条件づけを、もっと もっと増大させています。 いいですか、私たちは これに気づいていますか。 それを知り、 それを知覚しますか。 私たちの頭脳が制限されて いることを、受け入れて、 それらは制限されていると、 反復するのではない。 ところが、この条件に 気づいているなら、 そのとき、すっかり違った 質問をできます。 すなわち、 どんな形でも心理的な学びが そもそも、ありますか。 16:31 質問を理解されますか。 私たちは、一緒に ここにいますか。
16:42 自分自身について、どんな 学ぶことが、ありますか。 学ぶ - その言葉の 通常の意味で、です。 何がありますか - 私が 私自身を観察するとき、です。 条件づけ、 その条件づけの応答、 様々な圧迫、 影響、緊張への 反応を (観察するとき、)です。 そして、 外的にも内的にも、 この常なる圧迫を、 見るのです - それの緊張を、です。 それは、ますます多く 葛藤の、 もっと大きな要因を、 導入しつつあります。 いいですか? これに気づくことは、 可能ですか - これを あるがままに観察し、 それを乗り越えるのが 可能であるかどうかを、 自分自身で見出すことは (可能か、)です。 越えて何があるのかを 学ぶのではない。 なぜなら、 そのときそれは 「何かの代償の何か」だけ であるからです。 ですね? どうぞ、これは 本当に重要です。 なぜなら、私たちは 今すぐ、何かあなたの本当の 探究を必要とするものへ 行こうとしているからです。
18:28 で、私たちは、こう 言っています - 学びはなければ なりません。 明白です - 外的な世界について 全的に、学べるだけ 多く学ぶことが、です。 なぜなら、学びは、 外的な世界について けっして、完全では ありえないからです。 いつも何か、付け加えることや 取り去られることがあります。 しかし、学べるか、 自己を観察できますか - 観察されるものを、けっして 記録しないで、です。 さもないと、記録は 知識になるし、 あなたは、またもや 戻っています。 これを 理解されましたか。 どうぞ、私たちはともに じっくり話し合っています。 それは、語り手が何の教義、 何の信念、何の発言をも 定めている、という ことではありません。 私たちはともに 探究しています - すなわち、人類は、 たくさんの情報、知識を 蓄積してきたのです。 それは必要です - 外的に、です。 その落とし穴すべてをともない、 その危険すべてをともない、 その制限すべてを ともなって、です。 19:56 そして、自分自身について 学ぶことが、何かありますか。 または学びではなく、観察の 行為だけが、ありますか。 私たちは、二つの間を 区別しなければなりません - 観察と、 学びとしての蓄積です。 条件を観察すること、 反応を観察すること - 賞罰、善悪、もっと多く としての応答をともなった 反応を(観察するの)です。 ただ観察する。 その観察は、 観察されるものを、 何の思考の動きもなく 保つ、という含意です。 私たちは一緒にここに いますか。いませんか。
21:17 自らが恐れているという ことを、観察する。 恐れがある - 意識的にか、無意識的にか、 奥深く、です。 即時の応答は、それを乗り越える こと、それより自由であること、 それを抑圧すること、 それより逃避することです。 それが、私たちの 条件づけです。 いいですか? さて、恐れを観察する、 気づく。 それを合理化しない。 説明を与えない。 それの原因を 発見しようとしない。 ただそれを観察する。 いいですか。 私たちが話しているとき、 あなたはそれをしていますか。 あなたは、自分が貪欲で妬んで いることを、観察します。 妬みは、社会的な水準 だけにありません。 はるかに深いのです。 22:40 妬みは、もっと多くを 含意しています。 もっと多くは、測量です。 もっと多い、もっと良い、 などです。 それは 一つの形の測量です。 さて、あなたは、 妬みを観察できますか - それは、測量に、 原因を持っています。 比較に、 模倣に、 順応に、 理想を追求することに (原因を持つの)です。 それらは、すべて 測量です。 それらは、すべて 比較です。 さて、妬みを観察する - それへ、蓄積された 何の応答もなく、です。 私たちは、それを していますか。 どうぞ、それを困難に しないでください。 それは、相当に単純です。 私は妬んでいます。 なぜなら、私は、あなたが 頭がいいのを、見るからです。 私は、あなたが 有能であるのを、見ます。 私は、あなたが、とてつもない 能力を持っているのを、見ます - それを、私は 持っていません。 24:18 そして私は、私自身を あなたと比較します。 まさにその比較こそが、 妬みの原因です - いいですか - もっと多く、です。 さて、この過程に 気づくが、 私の妬みから動いて 離れるだけではない - 反応として私の状態を起こした 妬みを(離れる)のではない。 あなたはそれをそう保てますか。 器が水を保つように、です。 それを保つ。 私たちは、意思疎通 していますか。
25:11 おそらく私たちの 幾人かは、 この種類の探究に 慣れていません。 私たちの数人はおそらく好奇心 から、ここに来たのでしょう。 または、あいつを見るため、 彼が何について話しているのか、 彼はなぜ賛成反対している のかを(見るため)、です。 そして、自分の精神、 おしゃべりな精神の中で 進んでいること すべて(を見るため)です。 もし自らが一時間、 注意できるなら - おそらく散発的ですが - きわめて複雑な問題を 理解するよう、 あなたの 注意を向けるのです。 そして、複雑な問題は、 私たちが学んできたし、 いつの時も蓄積することが、 頭脳を機械的に しつつあることです。 26:13 で、知識は、機械的に なりつつあります。 精神を機械的にしつつ あります。 理解されますか。 私は、大工のあり方を 学びます。 大工の親方の 見習いになり、 私は学びます。 私は、大工道具、 木材などについて 大変多くの知識を 蓄積してきました。 そしてそこから、私は行為 します。 私は大工になります。 それは、ますます 機械的になります。 もし私が、一定方向での 専門家であるなら、 それは同じことです。
26:52 で、私たちは、きわめて深刻な 質問をしています。すなわち、 知識は、私たちを ますます - 外的な知識ではなく、 心理的な知識が、です - 心理的な知識は、私たちを ますます機械的にしつつあり、 ゆえにますます頭脳の能力を 制限しつつありますか。 頭脳は、とてつもない 能力を、持っています。 無際限の能力を、ですが、 私たちはそれを、 きわめて小さな事柄へ、 還元してきました。 いいですか。 で、この事実を 観察できますか - すなわち、 心理的に私たちは、 自らが何であるかを、 語られてきました - 専門家たちによって、です。 そして彼らに沿って、私たちは 自分自身を理解しようとします。 彼らに沿って、 私たちは順応しますが、 私たちはけっして心理学者を 離れて、究明しません。 それは、探究する、 という意味です - 知らないで、 動くのです。 いいですか。
28:25 で、聞こえることが、 あります - 観察をとおした学びの 異なった行為が、です。 その学びは、 蓄積ではありません。 流れていく水は、けっして 蓄積していません。 動いて、 動いています。 そして、聞くこの全的な 過程が、あるとき - どの経験からも 蓄積せず、 起きてきたことを けっして記録しない - これは、あなたが きわめて間近で観察している ときだけ、起こりえます。 それで、頭脳は、 ますます条件づけられ、 ますます機械的になり、 制限されてきましたが、 この制限を 崩せますか。
29:33 もしこれが 明らかであるなら、 そのとき私たちは、 何か絶対的に必要なものを 探究しはじめられます。 美しさとは何ですか。 美しさの、愛への関係は、 何ですか。 慈悲へ、智恵へ (の関係は何か、)です。 いいですか。 どうぞ、この質問を してください。 あなた自身にこの質問をし、 見出してください。 私たちはともに 話し合っています。 私はあなたに 語っていません。 あなたは、まったく 語り手に、従っていません。 彼は全然、匿名です。 彼はたまたま、便宜のために 演壇に座っていますが、 これには、何の権威も ありません。 それは、私が知っていて、 私がそれについて 30:47 あなたにすっかり 語ろう、ということではない。 反対に、私たちはともに 協働しています - 何か絶対的に 必要なもの、 生自体の全体への 究明において、です。 すなわち、私たちは、 会合した過去四回で、 恐れと他の物事に ついて、話しました。 今私たちは、話しています、 訊ねています - この美しさの無量の 感覚は、何ですか。
31:29 そうね、 私たちの文明全体が、 東洋ででも、西洋ででも、 外的なものの 究明であったし、 外的なものを、 気持ちよく、快く、 快適などに してきました。 外的なものを、 美しくする - 美しい邸宅、 美しい家具、 麗しい庭園、 美しい衣服、 それは、 すばらしい絵画です。 それは本当に、全く とてつもない詩歌です。 偉大な聖堂、 寺院、神殿など、 美しい女、男など、 外面的です。 外面的なものを、 可能なだけ、完璧にする。 可能なだけ、正確にする。 32:54 もしもあなたが、国の この地方に生きていたなら、 彼らの機械的な物事が とてつもなく長持ちして いるのを、見るでしょう。 あなたは一日おきに、 配管工を呼ばなくていい。 ここでは、それらは 持続します。 で、私たちの歴史 (ヒストリー) - すなわち、人類の物語 (ストーリー)です。 その人類はあなたです。 歴史(ヒストリー)は、あなた 自身の物語(ストーリー)です。 私たちは、外的なものを、 可能なだけ、 いわゆる美しく してきました。 航空機を ご覧になるなら、 それは本当に、 とてつもなく美しい。 または、 ダイアモンドや、 広大な水面に架かった すばらしい橋は、です。
34:03 で、それが 美しさですか。 部分的には、ね。 あなたが、青空に 対した山を見るとき - 影、谷、川を、です - それは、 驚くべき光景です。 で、訊ねます - 美しさは何ですか。 内の美しさを 持つことなく、 美しさが ありますか。 理解されますか。 私たちは今すぐ、「美しさ」 という言葉に、入るでしょう。 あなたは、美しい顔を 持っているかもしれません - 美しい身体、均整、 良い眼とその他すべて、 そして、人物の 外的な美しさは、 すてきで、魅力的で、 気持ちいい。 それが 美しさですか - 美しさの深さと意味を理解 することなしに、です。 付いてきておられますか。 私たちは一緒に ここにいますか。 はい? ベネ(よし)。 誰かが私に 同意してください。 私は、私自身に 話していません。
35:35 で、美しさは 何ですか。 それは、外面的な 世界だけに、ありますか。 自分自身の中で生(命)の 美しさを理解することなく、 外面的な世界に、美しさが ありえますか。 いいですか。 で、私たちは、ともに 探究しています - どうぞ、私は「ともに」を 強調しなければなりません - 美しさが何であるかを見出す ように、ともに協働しています。 雑誌に沿って、ではない。 芸術的権威が、美しさは何で あるかを言うこと、ではない。 私たち自身で、美しさの 本性を理解することです。 なぜなら、それなしに、 愛はありえないからです。 美しさは、原因を 持っていますか。 愛は原因を 持っていないように、 智恵は原因を 持っていないように - 私たちは以前、 それに入りました。 美しさは、原因を 持っていますか。 37:17 で、私たちは、探究 しようとしています - 美しさに原因があるのか どうか、です。 理解されますか。 原因が、です。 あなたが、何かとてつもなく 大いなる、すばらしい、 壮大なものを、見るとき、 それへのあなたの応答は 何ですか。 あなたは、それを 観察します。 あなたは、そもそも、 何か外面的なもの、 起きつつあることに、 気づいているなら、 「あれは何ととてつもないのか、 何と美しいのか」と言います。 「行って、お茶を しましょう」と。 そのとき、そういう応答は きわめて、きわめて表面的です。
38:25 さて、あなたが何か壮大な ものを、見るとき、 何が起きますか - まわりのこれら山々のように (壮大なものを)、です。 あなたの中、私たち一人一人の 中で、何が起きますか。 あのほんの一秒の間か、 おそらく、幾らか長い期間、 あの瞬間に、 あれの無量性が あなたの問題すべてを 押しのけます - 私たちの葛藤すべて、 私たちの不幸せすべてを、です。 あのほんの一瞬の間、 あの大いなる山の 壮大さの中、 あなたは、一秒の間、 なくなってしまいます。 いいですか。 いいですか。 そこでは、 外の大きさが、 自分自身の些細さを 追い払ってしまったのです。 いいですか。 ただそれを観察してください。 これはそのとおりです。 あなたは、大いなる絵画、 絵の前に、立ちます。 または、大いなる音楽を 聞きます。 一瞬の間、 響き以外、あらゆる物事が、 去ってしまいました。 そして響きは、無量の 動きを、持っています。 それは、大地を 覆います。 あの瞬間に、あなたは - 私の連想すべてと 同じく - ありません。 40:45 自己がないとき、 美しさが、あります。 いいですか。 どうぞ、 これを見てください。 どうぞ、これの真理を 見てください。 語り手がそう言うから、 ではありません。 出来事が実際に起きるのを 見てください - あなたが、 「神様、これは何ととてつもない ものだ」と言えるところを、です。 すなわち、 あなたの思考と、 思考の含蓄すべてと、 思考が組み立ててきた 物事すべてが、 一秒間、完全に 去ってしまいました。 それは、そこに ありません。 なぜなら、何かが あなたに外面的に 甚大な感銘を 与えてきたからです。 あなたは、あなた自身を 忘れます。 いいですか。 さて、この甚大さを
42:03 あなたの前に持たないことは、 可能ですか - すなわち、 自己を、問題などを押しのけて しまうものを(持たないの)です。 何の外面的な大きさや 美しさや感銘なしに、 生を見つめることは、 可能ですか - 中心からでないとの この感覚をもって、です。 質問を理解されますか。 私がこの生を見つめる ことは、可能ですか - (この生)それは、本当に 全くとてつもないものです。 すべての音楽と すべての寺院、神殿と、 すべての山々と詩歌より はるかに偉大な、 とてつもないこの生を、 そのすべての複雑さ、 そのすべての痛み、 悲しみ、心配などと ともに、です。 それを見つめること - それへ何の応答もなく、 これらへ何の反応も なく、です。 43:22 それは、こういう 意味です - あなたは、 絶対の静けさをもって これを見つめられますか。 あなたが、山を 見つめるとき、 あなたは一秒の間、 静かです。 なぜなら、あの広大さが、 あなたを静かにした、 力で強いたからです。 さて、何の力もなく、 何の強要もなく、 外面的に何の圧迫もなく、 あの静寂な観察を持つ - あなた自身についてだけ、 進んでいくことすべてに ついてだけではなく、 全的に静寂に観察できる あの能力を、持つのです。 愛は、原因を 持っていません - 自分はそれを言葉に 表すかもしれません。 「私はあなたを 愛している」と。 しかし、 その言葉の裏には、 広大さの感覚が (あります)、 それへのとてつもない 深さの感覚が、あります。 45:06 「私はすべきだ。すべきでない。 私はもっと持っていたなら」 その他すべての、この ものすごい活動があるとき、 あの深さとあの性質は、 とうてい存在できません。 生をそのように見つめる ことは、可能ですか。
45:31 さて、私たちは、問題を 見つめようとしています - すなわち、私たちの ほとんどが持っているもの、 死ぬことの問題を、です。 それは、私自身のような年老いた 人々の問いではありません。 それは、あらゆる人の 問題です - 彼らが貧しくても、豊かでも、 権力があっても、などです。 ともに私たちは、それを 見つめようとしています。 それを見つめる。 説明を 求めるのではない。 私たちは、この後すぐに そうするでしょうが、 この問いを見つめる。 それは、記録なき時から 人類を悩ましてきました。 死、死ぬこと、です。 死の後、何が起きるのか、 ではない。 何のほうが重要なのかを 探究するのではない。 それは、死の前に 何があるのか、です。 死ぬ前の長年の 期間全体です。 ただ、終わると呼ばれる ことを、観察する。 いいですか。 終わることです。
47:18 死は、終わることです。 さて、終わるとは どういう意味ですか。 どうぞ、これは 本当に重要です。 それに入ってください。 何かを終わらせる。 例えば、執着を 取り上げましょう。 私たちのほとんどは、 執着しています - 住宅へ、 信念へ、信条へ、 何か理想へ、 何か存在の様式へ、 または、 或る人物へ、です。 執着している。 それは、 あれへ縋りつく、 或る人物などへ取りすがる、 という意味です。 あの執着の帰結は 恐れ、心配です。 人物や観念を保つことと、 その観念のために 闘うことの楽しみです - それもまた、別の 形の楽しみです。 誰かに従うこと、「彼は私の 導師である」等々と言うこと、 48:49 そして、彼に取りすがる ことは(楽しみ)です。 または、執着の中には、 恐れ、心配、 何か楽しみが、あります。 そして、あの執着の中で 継続したい、 けっしてそれを終わらせない との欲望が、です。 私たちは、みんな これを知っています。 これは、ほとんどの 人間にとって普通です。 さて、執着を終わらせるとは どういう意味ですか。 なぜなら、私たちはそれの 帰結を見るからです。 そしてまた、私たちは それの原因をも、見ます。 私は、聴衆としてのあなた たちに、執着しています。 なぜなら、私はそこから、 大きな満足感を、 大きな充足感を 招来するからです。 私はそうしませんが、仮に、 私がそうするとします - 達成感、名声など、 それらの戯言を、です。 私たちは、無執着に ついて、話していません 50:03 無執着は 執着の対極です。 私が無執着を 追求するとき、 私は本当は執着を 追求しています。 あなたは、この点に ついて、明らかですか。 どうぞ、これの真理を 見てください。 私は執着しているし、 それは私に、大きな 痛みを、もたらします。 その痛みの中から、 私は、「後生だから、 私はこれらに無執着になれた ならなあ」と言います。 すなわち、 痛みの応答です。 それが、無執着の観念を 投影してきたのです。 そして私は、無執着を追求 しています。 明らかですか。 で、私たちは、無執着に ついて、話していません。 私たちはただ、執着の事実に ついて、話しているだけです。 無執着は、執着を離れた 観念だけです。
51:12 で、私たちは、終わることに ついて、話しています - 無執着の養成なしに、 です。 いいですか。 で、執着をすっかり終わらせる ことは、可能ですか。 それは、執着の含蓄 すべてに気づくことと、 それを終わらせることを、 意味しています。 終わらせることは、 時の過程ではありません。 いいですか?   私たちのほとんどは、 「はい、私は 執着しています。 私は次第にそれを離れる でしょう」と言います - 「それは時が掛かるでしょう。 なぜなら、私は手放せないから。 なぜなら、様々な理由がある から」、その他すべてです。 で、それは部分的に、 明らかな観察の欠如です。 部分的に怠けです。 そして、 執着している習慣です。 52:38 自らが、執着の動き全体に 気づいているとき - それは、こうも明白です - 自らが、この執着の事実に 深く気づいているとき - 共同体へ、コミューンへ、 集団へ(の執着)、 そうね、その全体です。 それを終わらせること。 なぜなら、あなたは 執着の真理を見るからです。 そして、真理の知覚は、 時のではありません。 いいですか。これをご覧に なるのかどうかと思われます。
53:17 これは、幾らか 明らかですか。 虚偽である、 幻影のようなこと、 そして真実であることを、 知覚するそのことには、 時が掛かりません。 「私はそれをじっくり 考えなければならない。 私はそれを、分析 しなければならない。 私は友だちへ、それについて 話さなければならない。 私は観察するために 静寂の感覚を養成しなければ ならない」と言いません。 で、知覚、真理を見ることは、 時のではありません。 理解されますか - それは発見です。 なぜなら、私たちの ほとんどは、私たちの伝統は 「時を掛けろ。 実践しろ」と 言うからです - 「無執着を実践しろ」と。 「あなたは今日それより 自由でないかもしれない。 それに 取り組みなさい。 」と。 それはすべて、 こうも不条理です。 それは、別の形の格闘、 痛み、心配です。
54:42 で、事実、真理を見る ことは、即時的です - もしあなたが、全部に 気づいているなら、ですが、 私たちのほとんどは 部分的に眠っています。 なぜなら、私たちは薬物 漬けになってきたからです - 伝統によって、他の人々が 言ってきたことによって、です。 もしあなたが、そのすべてを 脇に置け、見つめられ、 執着の含蓄全体が 見えるなら - そして、それを 終わらせること。 終わらせることは、未来がある ということではありません。 これを理解されますか。 私は執着を終わらせる かもしれません。 なぜなら、私はその執着の中、 痛みを持っているからです。 ゆえに、私はそれを 終わらせたい。 それは、原因を 持っています。 いいですか。 理解してください。 原因を持っているものは、 終わりえます。 愛は、原因を 持っていません。 ゆえに、それは 無制限です。
56:21 で、私たちは 訊ねています。 死は、終わること であるからです - 生理学的にも、 そして自らが心理的に蓄積 してきた物事すべても、です。 それは、終わることです。 しかし、思考は、「それは 十分でない」と言います - 「未来は何なのか。 私は、こうも多くの 知識を、蓄積してきた。 私は美徳を持ってきた。 格闘してきた。 そのすべてへの褒美は 何なのか」と。 で、私たちの 精神、頭脳は、 褒賞と処罰が 慣習となっています。 褒賞は、未来の快適さ、 未来の安全、 ありつづけたものの 継続です。 そして、死の後に 何もないのなら、 生は、何の意味も ありません。 いいですか?  私は 続ける、格闘するでしょう。 私は、生涯すべて、 そうしてきました。 それは、私の生の一部です。 生の一部です。 しかし、私が 葛藤の本性を理解し、 それを 終わらせるなら、です。
58:08 で、継続するのは、 何ですか。 理解されますか。 私たちに、継続の感覚を 与えてきたのは、何ですか。 生理的に、自らは 継続してきました。 あなたが生まれた瞬間 から、死ぬまで、です。 継続があります。 それは、測量可能です - 年齢により、 時により、 物理的に、です。 それを別として、 継続とは何ですか。 私が蓄積してきた 物事ですか。 家具ですか。 知識、経験、 広大な苦しみですか。 で、無測量の感覚が ありますか。 継続は、測量を 意味していますね。 これに付いてきて おられますか。 何でも継続するものは、 測量できます。 測量、巻き尺によって、 ではなく、 心理的な比較です。 私はこれであったが、私は あれになろうとしている、と。 1:00:09 それは、 一つの形の継続です。 いいですね? それは測量です。 私は、測量なく、継続を 見つめられますか。 または、頭脳が測量しない ことは、可能ですか。 測量は、ギリシャの中から 生まれました。 そうですね? そして、古代ギリシャの中から 測量が、組み立てられました。 そして、西洋世界と 東洋世界は、 この様式に 従ってきました。 測量なしに、 テクノロジーはありません。 いいですか。
1:01:14 で、私たちの条件づけは、 測量することです - もっと良いもの、 もっと多くのもの、です。 さて、測量なしに 観察がありますか。 これは、なかなか 複雑な問いです。 あなたはただ同意や 不同意だけを、できません。 なぜなら、私たちの生すべては 測量に基づいているからです。 あなたは背が高い。 私は低い。 あなたは利巧だ。 私はそうでない。 あなたは美しい。 私はそうでない。 あなたは、大成功をした。 私は、失敗した。 で、いつも、比較の 領域において、です - (比較)それは 測量です。 測量なく生きるとは、 どういう意味ですか。 あなたが、この質問を しています。 そうなさっていることを 望みます。 何も測量を持たない - それは、比較がないことを 意味しています。 1:02:40 愛は、測量ですか。 理解されますか。 どうぞ、 これに入ってください。 私はあなたを 愛している。 明日、私はあなたを 愛さないだろう。 生を生きること - それがそもそも 可能であるのかどうか、 自らがそれに入り、 見出さなくてはなりません。 原因 - すなわち時ですが - それなしに生を生きること、 測量なく生を 生きること。 その言葉「もっと良い」、 「もっと多い」に 蓄積されている重荷なく 生を生きること - それがそもそも 可能であるのか、です。 または、生はいつも、 測量の中、原因の中で 継続しなければ ならないのか。 ゆえにいつも、時と 知識の制限の中に、です。
1:04:07 よろしいです。 それで十分です。
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