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SA83Q1 - 質疑応答会合、第1回
スイス、サーネン
1983年7月24日



1:20 これは、質疑応答の会合です。 数百もの質問が、(書面で)出されています。 私たちは、それらすべてに、とうてい答えられません。 それには、おそらく二ヶ月が、掛かるでしょう。 で、私たちは、二ヶ月の間、ここに、いないでしょう。
1:51 私たちは、質問をするとき、 他の誰かから、返事を期待しますか。 今朝ここには、幾つもの質問が、あります。 私たちは、それらに答えるでしょう。 または、むしろ私たちはともに、問いを究明しましょう - 答えを、ではない。 むしろ、その問いの意味を、見出す中で、 私たちは、そのとき、答えに、出くわすでしょう。 答えより、問いのほうが、はるかに重要であると、 私には思われます。 なぜ自分は、質問をするのか。 その問いの裏の動機は、何なのか。 そして、私たちは、断定的に、 「はい」か「いいえ」の返事を、期待しますか。 または 私たちは、むしろ、他の誰かから答えを、見つけようとしますか - 問いを掘り下げる、 問いへはるかに深く入るより、です。 そして、問いを解き明かす中で、 おそらく私たちは、答えを見つけるでしょう。 答えは、問いの外側にはありません。 それは、問い自体にあります。 私たちがこれらを聞いているのを、望みます。
3:53 すてきな新鮮な朝です。 昨夜、雷がありました。 空気は新鮮ですし、 あなたたちが眠りに就いてしまおうとしていないことを、望みます。 第一の質問: 「私は、深い洞察を持つためには、
4:30 考えるのが、止まらなければならないことを、理解します。 考えるのが止まるには、すでに、深い洞察が、なければなりません。 自らは、どこで出発しますか。 ここにおいて、頭脳は、何かを達成するために、働いていて、 かくして、洞察を阻止していませんか」。
4:57 私は、質問がどういう意味であるかを、知りませんが、 私たちは、それに入ろうとしています。
5:03 「私は、深い洞察を持つためには、 考えるのが止まらなければならないことを、理解しますが、 考えるのが止まるには、 すでに、深い洞察が、なければなりません。 自らは、どこで出発しますか。 ここにおいて、頭脳は、何かを達成するために、働いていて、 かくして、洞察を阻止していませんか」。
5:33 私は、それらがどういう意味かを、知りません。 それに入りましょう。
5:40 私たちは、明らかに見ますか- 私たちの一人一人が、です - 私たちの頭脳が、機械的になってしまったことを、です。 私たちは、反復します。 私たちは、過去に生きます。 そして、私たちが持つ反応は、明白です。 そして、問いは本当は、こうです- 自らはどこで、出発しますか。 存在の問題全体を理解するために、 どこで出発しますか。 洞察とか、考えること、どう考えるのを止めるとか、ではない。 むしろ、このすべての意味は、何ですか。 もしも私たちが、そこから出発できて、 それから、ますます、深く深く 究明できたなら、 そのとき、私たちは、機械的でないかもしれない何かに、出くわすでしょう。 すなわち、私たちが、自分たちの頭脳は 機械的になってしまったことを、悟られるなら、です。 すなわち、あなたが、他の一人を侮辱するとき、相手は、あなたを侮辱します。 行為(作用)、反応(反作用)。 いいですか? 褒賞と処罰です。 この基礎の上に、行為、反応。 その反応から、行為、などです。 潮が満ちてきて、引いていくのに、似ています。 それは、機械的な過程です。ですね? 私たちの記憶は、機械的です。 私たちは、過去に生きます。 私は経験をし、それがわくわくする経験であるなら、 それは、幾つもの褒美をもたらしてきたし、 私は、それに縋りつきます。 そのとき、それは機械的になります。 私は、或る人物に執着しているなら - または、或る観念や、 或る種の経験に、です - そのとき、その執着していること、そのときそれは、機械的になります。 あなたは、何度も何度も同じことを、反復します。 性的なのと、あらゆる他の形の反復的な行為は、機械的です。 これが明らかであってほしいと、私は望みます。
8:53 そのとき問いは、こうです- この機械的な習慣、 機械的な頭脳は、 機械的であるよう、プログラムされてきました。 なぜなら、それは、機械的な、常なる反復に、 安全を探し求めていて、 あなた自身のその先入観を反復していて、 機械的な過程であるからです。 それは、相当に明らかであると、思います。 それで、問いは、この機械的な過程が、 止まりうるのかどうか、です。
9:47 仮に、自分は習慣を持っている、とします - タバコを吸う、薬物、アルコール、性的なことと、 何かに所属する習慣、 集団に所属すること、 或る種の正統派宗教に所属することなど、 そこであなたは、安心を感じます。 そこであなたは、自分が、また同じように考える人々の中にいると、感じます。 この機械的な過程は、自分に安全の感覚を、与えてくれます。 これはまたもや、相当に明らかです。 あなたが聞いておられるのを、望みます。 聞いておられますか - お訊きしてもいいなら、です。 なぜなら、私は、ここに来ることの意味が、分からないからです - 暑さすべてを経ていくことと、 自分が経てゆく面倒、そして、ここに座って、 ぼーっとしてしまい、何か他の夢を見ることの(意味)が - あなたが、互いに聞き合うために、来ていながら、です。 で、どうぞ、互いに聞き合いましょう。 それは、あなたが、語り手が言っていることを、 受け入れなければ、とか、あなた自身の先入観、結論などに 縋りつかなければならない、という意味ではありません。 私たちのどちらもが、きわめて複雑な問題を、理解しつつあるのです。 問題は、生きること、存在です。 私たちの日々の生などの、その存在において、 頭脳は、同じことを何度も何度も 反復しつづけていることが、見つかります。 あなたは(プレイヤーに)、違ったディスクを、載せるかもしれませんが、 それは、同じことが反復されている、 など、でしょう。 で、私たちの頭脳は、機械的になったのです - 長い進化をとおし、 無数の経験をとおして、です。 そして頭脳は、大変多くの記憶を、蓄積してきて、 記憶を反復しつづけます。 そうね、私たちはこれらを、知っています。 ゆえに、頭脳は、機械的になったのです。 この機械的な過程の中に、それは、安全を探し求めます。 それが、私たちがほしいすべてです。 私たちは、みんな安全が、ほしいのです - 生物的、物理的とともに、 また心理的にも、です。 そして、頭脳が、機械的になるとき、 自分は、安全があると、考えます。 私が、私はイギリス人である、私はフランス人である、 私はヒンドゥーであると、反復するかぎり、安全があります。 しかし、その分割的な過程は、不安全を、もたらします。 ですね? それは、明らかです。 そうでしょうか。
13:21 さて、問いは、こうです。 私たちが、洞察の問題へ入る前に、問いは、こうです - この機械的な過程は、終わりに、なりうるのかどうか。 この機械的な過程は、頭脳に、 衰退を、もたらします。 ですね? 私たちは、これが見えますか。 頭脳は、刺激が必要です。 頭脳は、挑戦が、必要です - 問うこと、疑うこと、 訊ねること、要求することが、(必要)です。 が、それが課業であるなら、それは、要求するのを、止めます。 それは、鋭く明らかであるのを、止めます。 それで、次第にそれは、衰退します。 それは、そこら中に、見られますね。 おそらくここではない! が、それは、ほぼ十代から老齢まで、見られます。 自分の頭脳が、常なる反復により、衰退するのへ、 気づいているのかどうかと、思われます。 あなたは、古いものへ反逆し、もう一つの様式へ、填まり込み、 それから、それを反復するかもしれません。 「私はもはや、キリスト教徒ではない。私は仏教徒だ」、 「私はもはや、仏教徒ではない。 チベット人だ」と。 自分がやるゲームを、ご存じですね - 世界中で、です。
15:16 で、問いはこうです - 頭脳は衰退するのを、止められるのかどうか、です。 それは本当に、きわめて深刻な、真剣な問いです。 私たちが過去に生きているかぎり - 私たちは、そうです。なぜなら、私たちは、記憶に生きるからです。 ですね? 私たちは、記憶です。 それは、過去です。 未来の記憶はありません。 未来の記憶は、過去から投影されるかもしれません - 現在に出会って、それ自体を修正し、進んでゆきます。ですね? これが、私たちがみんなする過程です。 過去が、現在に出会い、それ自体を修正し、 それから、さらに進行する。 が、それはやはり、動いている過去です。そうですね?
16:26 それで、 生、生きることを見つめる道が、ありますか - すなわち、単に過去の継続ではないもの、です。 ですね? 私は、質問をしましたか。 私は、見つけます - 私の頭脳は・・・ 仮に、私は見つける、とします - 私の頭脳は、反復的になっていく、と。 言語は、反復的です。 思考が創り出してきた象徴は、反復的になります。言語は制限・・・ 言語は、制限されていませんが、 言語の制限は、 象徴を創り出す、などです。 私は当面、それらに入らないでしょう。 それで、言語、 過去の記憶は、 経験に、一連の記憶に、執着し、 繋がれています。 それらすべては・・・ なぜなら、それらは、機械的であり、 頭脳の衰退をもたらすからです。 これは、明らかですか。 私たちは、そこから進めますか。 どうぞ、頷いて、「はい」と言わないで、 あなた自身の頭脳を、見てください。 あなた自身の頭脳を、見守り、 あなた自身の生を、見守ってください。 なぜなら、あなたの生は、行為(作用)、反応(反作用)の活動であり、 記憶と、すべての騒動、 死、楽しみ、心配、さびしさなどであるからです。 それが、私たちの生です。 私たちは、多かれ少なかれ、百万年の間、 そのように生きてきました。 それは、反復的です。 戦争に次ぐ戦争。 ですね? 世界の色々な地域で、戦争に次ぐ戦争。 過去数年の内に、 二つの、ひどい戦争が、あったのです。 で、それは、反復し、反復し、反復してきています。 で、私たちは、その点に、到ったのです。 あなたがこれを聞いてこられたことを、望みます。
19:08 あなたがその点に来られたとき、自らは訊ねます - なぜ頭脳は、こうも多く過去に、依存しますか。 プログラムされることに、です。 理解されますか。それは、明らかですか。 なぜ頭脳は、この反復的な行為に、依存するのか、 それとともに生きるのか。 私たちは、この反復的行為は、大きな安全を与えると、言っています。 自由は、安全を与えません。ですね? 私たちは、少し後で、それへ来るでしょう。 で、安全が、過去へ取りすがることの基礎です。 伝統は、過去です。 ロンドンの、毎朝、行き来する、あれらの兵士 - これらを、ご覧になったことが、ありますね。 哀れなものです!
20:15 で、今、私たちは、訊ねています - 頭脳は、 自分の機械的な過程を知覚できるのかどうか、です。 その知覚こそが、 それから離れてしまう挑戦を、もたらします。理解されましたか。 私は、自分の頭脳が機械的であることを、知覚します。 私はそれを知覚します。観念としてではなく、実際に、です。 ですね? 私はそれを、知覚します。 それは機械的である、との知覚が、あります。 その知覚こそが、挑戦です。ですね? 私たちは、これに出会っていますか。 私は、危険な蛇を、知覚します。 それは、挑戦です。ですね? 私は、それについて、何かをしなくてはいけません。 さもないと、その毒蛇は、私を殺すでしょう。 で、私は、行為しなくてはいけません。ですね? 知覚があるとき、行為がある、起こります。ですね。 私たちは、これに出会っていますか。
21:46 ご覧ください。私が・・・自分が山を登っているとき、 あなたは、断崖絶壁を、見ます。 断崖絶壁は、挑戦でしょう。 あなたは、きわめて有能であり、それで進んでいくのか。 あるいは、あなたは、目がくらみ、岩に取りすがり、這って戻るのか、です。 で、同じように、あなたは、知覚するとき - 頭脳は機械的であり、 プログラムされているとの知覚が、あるとき、 そのプログラムには、何も安全が、ないのです。 自分は、安全がほしいかもしれませんが、安全はないのです。 なぜなら、頭脳は、鈍くなり、衰退しつつあるからです。 ゆえに、そこには、安全がありません。ですね? ですね?明らかですか。 で、危険の知覚が、あるとき、行為があります。ですね? 頭脳が機械的になりつつある、とか、 なってしまったとの知覚が、あるとき、 その知覚こそが、その反復的な行為を終わらせるエネルギーを、 もたらします。 ですね? これをお分かりになるのかどうかと、思われます。 私たちは、そもそもここに、一緒にいますか。 いえ、いえ。 私はどうやって、それについて話すことになりますか。 あなたが、私に、何をすべきかを語ってください。
23:46 まず第一に、始めましょう。 自分は、私たちの一人一人は、私たちの頭脳が 機械的になったことを、悟りますか。 あなたは、それを悟りますか。 そのとき、あなたが哲学者であっても、 あなたが科学者であっても、 あなたがビジネスマンであっても、 あなたが、誰か導師に従っていても、 あなたが、何か宗教に所属していても、いなくても、 機械的な過程全体が、進んでいます。ですね? その機械的な過程が進んでいるかぎり、 頭脳は、衰退するにちがいありません。 なぜなら、頭脳は、ものすごく活動的でなければならないからです。 それは、機械的な過程の中で、活動的です。ですね? が、それは、自由の中で活動的ではありません。 ゆえに、自由の中でのみ、 頭脳は、衰退しません。 これは、明らかですか - 少なくとも、幾らかは。 私たちは、そこから動けますか。
25:09 頭脳がプログラムされつつあり、 反復的であるかぎり、自由は、ありません。 ゆえに、それは、衰退するにちがいありません。 それは、監獄の中の人間に、似ています。 そこに、自由はありません。 ゆえに、生物的に、有機体的に、だけではなく、 また精神的にも、頭脳、それは、次第に衰退します。 明らかですね。さて、そこから動きましょう。
25:54 すてきです。この二週間の暑い天気の後、 雨が降っています。 涼しい。
26:06 それは、考えるのをどう止めるのか、 課業をどう破るのか、ではありません。 あなたが、事実を見るなら - すなわち、反復的行為、 自分がしてきた経験などの何かへ縋りつくことは、 衰退の主な要因の一つであることを、です。 あなたはそれを見るなら、 あなたは、すっかり違った行為を、もたらしたのです。 これは、明らかですか。 危険の知覚が、あるとき- 物理的な危険の、です - あなたは行為するように、です。 が、私たちは、頭脳が、 私が説明してきた様々な理由のせいで、 衰退しつつあることを、見るとき、 あなたは、つづけていきます。 なぜなら、あなたは、 課業が頭脳を衰退させつつあるとの事実が、見えないからです。 もしも、それが見えたなら、あなたは、行為するでしょう。 あなたは、わざわざ、ここへ来ましたね。 あなたは、手間暇を掛けて、ここへ来ました。 あなたは、歩みを重ねてきました。 あなたは、お金を蓄えてきました。 または、あなたは、お金をたくさん持っていた、あなたは支払った、などです。 が、あなたは、ここへ来ようと、決断しました。 同様に、あなたは、何かを明らかに見るとき - 衰退の要因を、です - あなたは、つづけていきます。 あなたは、「行為がなければならない」と、言いません。ですね?
28:03 さて、そこから、さらにそれへ入りましょう。 考える過程とは、何ですか。 理解されますか。 考えることの原因や因果は、何ですか。 私たちはみんな、考えます。 幸か不幸か、です。 或る人たちは、より多く、或る人たちは、より少なく、 或る人たちは、とてつもない明瞭さ、論理をもって、 他の人たちは、ぞんざいな形で、生きますが、 私たちはみんな、考えます。 私たちは、一度も、訊ねたことがありません - 考えることの原因は、何ですか。 その根は、何ですか。 理解されますか。 どうぞ、考えるとは何であるかを、 あなたたち自身で見出してください。 あなたが、慣れ親しんだ質問を、されるとき、 あなたの応答は、即時です。 あなたの名前は、何ですか。 あなたは、どこに住んでいますか。 あなたは即時に答えます。 なぜですか。 あなたは、自分の名前に慣れ親しんでいるし、 あなたは、道路と、自分が住んでいる住宅に、 慣れ親しんでいるからです。 それで、慣れ親しんだことと、常なる反復です。 あなたは、即答します。 ですね? 仮に、もう少し複雑な質問がされる、としましょう。 問いと答えとの間に、間隔が、あります。 その間隔の中で、あなたは、自分の記憶を、探求しています。 あなたは、見ています。 あなたは、こう言っています。 「これは正しいのか、これは間違っているのかと、思われる」と。よろしいですか。 問いと答えの間の間隔は、 時の間隔です。 その時の間隔の中、あなたは答えを、探求しています - 百科事典の中にか、あなた自身の記憶の中にか、 または、誰かに訊ねています。ですね? で、問いと答えの間に、間隔が、あります - それは、時の間隔です。 仮に、自らが、何かとても複雑な問いを、して、 あなたが、「私は知らない」と言う、としましょう。ですね? ここから火星への距離は、幾らですか。あなたは知りません。 あなたは、「私は知らない」と言いますね。 で、慣れ親しんでいること、 問いと答えの間の時の間隔と、 「私は知らない」と言うことです。 で、この過程全体が、考えることです。ですね? よろしいですか。私たちは一緒に、ここにいますか。 この過程全体 - あなたが慣れ親しんでいる問いと、 時を要求する問い。 そして、あなたは「私は知らない」と言います。 そのすべてが、考える過程です。 特定の線に沿って考えること - あなたが、特定の経験に執着していて、 あなたがその経験に取りすがるなら、ですが - そのとき考えるのは、その経験を巡って、です。ですね? 一分間、待ちましょうか。 または、進みましょうか。 雨にもかかわらず、進みましょう。
33:00 そして、考えるのは、記憶に、基づいています。 もしも、記憶を持っていなかったなら、あなたは、考えられません。 そして記憶は、頭脳の中に、 知識として集められています。 知識は、経験から来ます。ですね? 経験、知識、記憶、思考。 自らが、これについて、絶対的に明らかでなければなりません。ですね? 経験は、いつも制限されています - あなたが、楽しみ、痛み、 悲しみ、さびしさ、憂鬱、 心配を、経験していても、です。 そのすべてが、制限されています。ですね? 「私は覚りを開いた」と言う人 - いいですね?理解されますか。 或る人物が、「あなたは、覚りを開いていますか」と、訊ねられます。 そして、相手の人は、「そうです」と言うとき、 彼が覚りを開いたとの、その経験こそが、制限されています。 どの正気の、理性的な、本当に覚りを開いた人も、 「私は覚りを開いた」とは言いません。ですね?
35:07 で、すべての経験が、制限されています。 ゆえに、未来や過去におけるすべての知識は、 制限されています。 で、思考は、記憶の子どもですが、 記憶は、制限されています。 それで、考える過程全体が、制限されています。 これは明らかですか。 私たちは、そこから進めますか。
36:14 さて、思考は制限されているとき、何が起きますか。 制限があるとき、何が起きますか。 質問を理解されますか。 あなたは、聞いていますか。 または、雨を、ですか。 進みましょうか。 みなさんは、聞こえますか。 今、私たちは、進めますか。
40:15 自らが、自分自身について考えているとき - 私たちのほとんどは、そうです - 自分自身について考えることは、きわめて制限されています。 あなたは、その自分自身について考えるのを、拡大するかもしれません 覚りを開いたとか、偉大な作家だとか・・・ ああ! 今、進んでもいいですか。 私たちが言っていましたように、 私たちが自分自身に、関心を持っているなら - 私たちのほとんどが、そうであるように、です。 「私は高みに到った」と言う人々さえも、ですが、 彼らは、自分自身について考えています。 自分自身について考えるそのことの帰結は、きわめて分割的です。ですね? 様々な形で、あなたが、あなた自身について、考えていて、 私は、私自身について考えているなら、 それは、分割をもたらします。 ゆえに、その分割には、葛藤が、あります。ですね? で、何でも、制限されているものは、葛藤を、もたらすにちがいありません。 私は、アラブ人です。 あなたは、ユダヤ人です。 または、それを、お好きでないなら、私はユダヤ人です。 あなたはアラブ人です、などと。 で、どこでも、制限があるところ、葛藤が、あるにちがいありません。 これは、理解することが、とても重要です。 なぜなら、私たちの生すべては、制限に基づいているからです。ですね? ゆえに、私たちは、永続的な葛藤の中に、います。 私たちはこれを悟るのかどうかと、思われます - 言語的に、単なる発言としてではありません。 すなわち、どこでも、分割があるところ・・・ どこでも、分割があるところ- 私たちの関係において、 どれほど親密でも、 民族的な分割、経済的な分割、 社会的な分割、宗教的な分割、ですが - 葛藤、格闘、戦争が、あるにちがいありません。 これは、法則です。 モーゼの法です。
44:29 で、自らがそれを悟るとき - そして、その自己関心は、民族的に、など、 思考によりもたらされます。 ゆえに、思考は制限されているので、 必然的に葛藤を、創り出すにちがいありません。ですね? これは、明らかですか。 これは、論理的です。 ですね? 理性的で、正気です。 すなわち、どこでも分割が、あるところ - 私自身について、私の野心について、考えます。 他の人物は、自分の野心、 自分の充足について、考えます - この分割は、葛藤を生み育てるにちがいありません。
45:29 で、そのとき問いは、こうです- それは、可能ですか・・・ これの真理を見て、 すなわち、私がインド人であるかぎり、 私が、自分のピアノに関心を持ち、 自分の覚りに、自分の本の著作などに、 関心を持っているかぎり、 それは、間違いなく、動揺、騒動、葛藤を、 創り出すにちがいなく、究極的に、戦争に終わるのです。 自らが見るなら、それへの知覚が、あるなら、 行為とは、何ですか。 どう、考えるのを止めるのか、ではない。 それをご覧になるのかどうかと、思われます。 知覚が、あります- すなわち、 思考が、この分割を創り出してきた、と。 宗教的に、それはきわめてよく見られます - 私がカトリックであるかぎり、 あなたが、他の何かであるかぎり、 私たちは互いに、騒動になろうとしています。 で、それは、思考の産物です。 で、自らは、何をすることになりますか。 あなたは、事実を知覚します。 その事実こそが、あなたを、解き放ちますか。理解されますか。 または、その事実は、単に観念のままに、留まりますか。 あなたは、眠りに就こうとしていませんね? 眠っていますか。 雨は、去ってしまいました。 で、私たちは再び、始められます。
47:19 このような発言をするとき - すなわち、 どこでも、分割があるところ、葛藤があるにちがいない、と。 関係などにおいて、です。 それは、あなたにとって、事実ですか。 すなわち、あなたは、それの実在を、見ます。 または、あなたは単に、それの観念を、見ます。 これは、明らかですか。 事実 - たとえば、蛇が事実であるように、です。 が、あなたは、蛇について観念を引き出せて、 その観念の中に、生きられます。 ゆえに、あなたは、非実在とともに、生きています - 事実を離れて、です。 これは、明らかですか。 私たちは、そこから進めますか。 私たちが今、しているのは、どちらですか。 明日ではなく、今、 あなたがそこに座っていて、 私たちが議論していながら、です。 そして私たちは、発見します- すなわち、 分割があるところ、葛藤があるにちがいないことを、です。 それは、あなたにとって、事実ですか。 あなたにとって、真理ですか。 または、それは観念だけですか、 ヴザヴェ・コンプリ?(理解されましたか)・・・ どちらですか。 それは、事実ですか。 あなたが空腹であるように、です。 または、それは、あなたが空腹であるとの観念ですか。理解されますか。 どちらですか。 それは、事実であり、そのとおりであるなら、 すなわち、分割があるところ、葛藤があるにちがいないことが、です。 または、あなたは、それの発言だけが、聞こえます。 ゆえに、それは、事実と何の関わりも、ありません。 で、あなたにとって、どちらですか。 それが事実であり、そのとおりであるなら - すなわち、あなたは断崖絶壁に落ちるだろうこと、それは、事実です。 で、あなたは、それより動いて、離れます。 で、事実は、あなたが答えなければならない挑戦です。 ですね? あなたは、答えていますか。 または、あなたは、「これは、あまりに過ぎる。 私は、危険が何になるだろうかを、知らない」などなどと、言います。 で、それは、あなたしだいです。
50:28 で、それは、思考が止まるとの問いではありません。 事実を見ることと、事実の知覚、 それ自体が、動きをもたらします - すなわち、思考でないものを、です。 私は、これを、何回も何回も反復しつづけられません。
51:14 質問者は、訊ねます- 洞察とは何ですか。 それは、何であり、この知覚と行為は、どうして、 即時的に、起きますか。 それが、彼が仰る意味です。 理解されますか。 問いは、明らかですか。 問いは、すなわち、 記憶に基づいていない行為が、ありますか。もちろんです。 それが、記憶に基づいているなら、それは、反復的です。 行為が、ありますか - どうぞ、あなた自身に、この質問をしてください。 過去の記憶、過去の経験に(基づかず)、ゆえに、 思考に、基づいていない行為が、ありますか。 その種類の行為が、あるなら、その行為は、制限されています。 ゆえに、葛藤を生み育てるにちがいありません。 で、過去の記憶、経験などに 基づいていない行為が、ありますか。 ですね? それが、問いです。 彼は、訊ねます。彼は、言います- それは洞察である、と。 理解されますか。何かを明らかに見て、行為しています。ですね? 私たちにとって - 私たちは何かを、明らかに見ません。 私たちは、時間を掛けます。 その間隔の間に、他の挑戦が、起こります。 で、私たちの行為はいつも、混乱しています。 ところが、 行為は、ありますか - どうぞ、あなた自身にこの質問を、してください。 私はあなたに、この問いを差し出しています。 どうぞ、問いを聞いてください。 そして、その問いが論理的で、理性的であるのかどうかを、 見出してください。 それは、理性的で、論理的です。なぜなら、 私たちの行為は、記憶に、過去の経験に、 基づいているからです。 ゆえに、私たちの行為は、機械的です。 そして、質問者は仰います - 動き、行為が、ありますか。 そこに過去、思考がまったく入ってこないものが、です。 問いは明らかですか。
54:20 さて、私たちは、見出そうとしています。ですね? 行為の道具としての思考は、 テクノロジーの分野は別として、 世界に荒廃を創り出してきました。ですね? これについて、明らかですか。 私は、それらを、何度も何度も反復しなければなりませんか。 思考は、すばらしい大聖堂を、築いてきました。 思考は、大聖堂の中に、すべての物事を、置いてきました。 式典、儀式、ミサ、 彼らがまとう衣装すべて。 そのすべては、思考の産物です。 神の啓示ではありません。自らは、そう考えたいかもしれませんが、 それは、思考の動きです。 ですね? その動きは、制限されています。ゆえに葛藤を、創り出すにちがいありません。 で、私たちは、見ますか- すなわち、思考の活動は、 一定の区域では、必要ですが、 他の区域では、必要でないかもしれないことを、です。 妻へ、夫、彼女などへの 自分の関係におけるように、です。 その関係において、 その関係が、思考に、基づいているなら - ゆえに、分割的であり、ゆえに、葛藤です。 それは、明らかです。 みなさんが、それを見ます。 ゆえに、葛藤が、あるところ、愛は、ありません。 嫉妬は、愛ではありません。 野心は、愛ではありません。 が、妻と夫が、どちらも野心的であるとき、 ゆえに、永続的な葛藤が、あります。 で、思考は、その所を持っています - テクノロジー的に、ここからそこへ。 そして、思考は心理的に、まったく所を、持たないかもしれません。 理解されますか。で、あなた自身で、見出してください - 思考に基づいていない行為が、あるのかどうか、です。 語り手は、それがあると、言います。 彼の言葉を、受け入れないで、彼が言っていることを、疑ってください。 彼が言っていることを、問うてください。 彼は、何の権威でもありません。 彼は、言います。 彼は、今すぐ、あなたに、その理由を、示すでしょう - すなわち、行為がある・・・ 思考に基づいていない行為が、ある、と。 ですね? 私たちは、見出そうとしています。
58:01 どうぞ、懐疑的であってください。 彼が話していることを、疑い、問うてください。 それは、あなたの人生で、あなたに起きたことが、ないですか - 何かを真実だと見て、行為することが、です。 ですね? 思考の過程なしに、 合理化の過程なしに、 憶えておくことなしに、 ですね? それは、起きたにちがいありません。 あらゆる人物が、これの瞬間を、持っています。 何の思考の動きもない、明らかな知覚です。 同じ時に、行為が起きています。 いいえ? みなさんは、人間でないのですか。 これは、とても変ですか。 或る人たちは、それを直観と、呼びますが、 「直観」という言葉は、むしろ、危険な言葉です。 あなたは、自分の欲望を直観できます - 「私は、あれをほしい」と言う。よろしいですか。 で、動きが、あります。 動きは、行為です。 動きが、あります - そこに、思考がそもそも介入しないものが、です。 私はそれを、お示ししましょう。 愛は、思考ではありません。ですね? それに同意されますか。 愛は、欲望ではありません。ですね? あなたは、それが見えますか。 愛は、楽しみではありません。 愛は、野心、嫉妬など、憎しみではありません。 で、愛が何でないのかの否定をとおして、 肯定的なものが、あります。 私たちは、こうしていますか。 あなたは、嫉妬を脇に置けますか - 憎しみ、 野心、攻撃、暴力を、 愛でないすべてを、です。 で、愛は、 そこに欲望がない行為です。 楽しみがないもの、です。 ゆえに、愛は - そういうものが、あるとして、ですが、 そこから、起きるどの行為も、 思考の動きではありません。 私たちは、ここに一緒にいますか。 または、それはすべて、長々しい言辞だけですか。
1:01:15 さて、それを逆に表すと、 私たちは、記憶の背景より、作動します。 私たちの行為すべては、過去に、基づいています - 知識などに、です。 さて、あなたは、頭脳は、 自らが過去より作動しているとの事実を、見られますか。 それを知覚し、 それの帰結を、見られますか。 それの帰結を見ることは、 過去に、依存しません。 ですね? ゆえに、記憶のではない行為が、あります。 私は、これを反復しつづけられません。 私たちは、どこかに近づいていますか。 憶えていることから生まれていない洞察が、あります。 洞察は、時のではありません。ですね? 時は、思考です。 時は、記憶です。 時は、経験、知識です。 私たちは、時に依存するかぎり - それは、分割的です。 ゆえに、葛藤です。 これを見ること、これの実際を、知覚すること。 そのときだけ、その中へ洞察が、あるのです。
1:03:03 私は、もう十五分間、許されています。 私たちは、一つの問いについて、一時間、話してきました。
1:03:16 第二の質問: 「私は、愛されることに、焦がれています。 それは、常なる苦悩です。私は何をすることになりますか」。
1:03:31 問いは、だいじょうぶですか。 「私は、愛されることに焦がれています。 それは、常なる苦悩です。 私は、何をすることになりますか」。
1:03:48 私たちのほとんどは、この立場に、いませんか。 私たちはみんな、愛されたい- 特に、一人によって、です。 さて、これに入りましょう。 私は、十五分間を、持っています。 それは、とても複雑な疑問です。
1:04:18 私たちは、なぜ愛されたいのですか。 そして、なぜ、それは、苦悩になったのですか。 苦悩です。 原因、根や、 動機は、何ですか - 愛されたいことの、です。 質問を理解されますか。 私は、あなたに愛されたい。 とんでもない! が、私は、あなたに愛されたいと思います。 なぜですか。 それは、私はさびしい、ということですか。 それは、 私が愛されないなら、生きるための存在理由を 持たないと感じる、ということですか。 それは、私が愛されるなら、 私は、自分が花開ける、成長できると感じる、ということですか - 幸せでいられるとか、それらだ、と。 それは、私は自分自身では何物でもないが、 あなたが、私を愛してくれるとき、私は何物かになる、ということですか。 これらに付いてきておられますか。 どうぞ、これは、あなたの生です。 私の生ではありません。 だから、これを聞いてください。 で、原因が、あります - 私をして、「私はあなたの愛をほしい」と 言わせるものが、ですね。 原因が、あります。 動機が、あります。 背景が、あります - 「私は、あれを持たなければならない」と言うものが、です。 ですね? で、私たちは、原因の幾つかを、見てきました。 私は、絶望的にさびしい。 みなさんは、それをご存じでしょう。 結婚していても、結婚していなくても、 あなたが、集団の中にいる、などでも、 人間たちは、自らの自己中心的な活動をとおして、 さびしさを、もたらします。ですね? それが、愛されたいとの欲望の原因の一つですか。 原因が、あるかぎり、 結果は、あなたは私を愛すべきだと要求することですね。 で、私は、原因を理解し、原因より自由でありえますか。 私が言っていることを、理解されましたか。 どうぞ、これは、あなたの生です!
1:07:29 私は、さびしい。 憂鬱です。 孤立しています。 そして、絶望的に不幸せに感じます。 そして、あなたが私を愛しているなら、私は、こう言うでしょう - 「おやまあ、あらゆるものが、こうも美しい」と。 で、私の要求、私の欲望、私のあこがれは、 さびしさに、基づいています。 仲間づきあいへの要求に、です。 私が話し合えて、打ち明けられる、その他すべての人へ、です。 で、原因があります。ですね? さて、私は、実際に原因が、見えますか。 原因は、私がさびしい、ことです。 私はその一例を、取り上げています。 私は、さびしい。 私は、あなたに、私を愛してほしい - 後生です。 あなたは、愛してくれません。 あなたは私より、そっぽを向きます。 私は、自殺を遂げるのか、 あるいは、私は、心配に充たされますね。 憂鬱です。 かつてないほど憂鬱です。 そのとき、私は私自身より、逃避します - フットボール、教会、新しい導師や、 最新の文学や、最新の絵画。 それについて、話をする。ですね? で、さびしさの原因が、見られますか。 さびしさは、孤立の感覚です。ですね? 孤立は、生じてきます - 私は、自己中心的であり、 私自身について考えているかぎり、です。 私は、不幸せです。私はあなたに、私を愛してほしい。 よろしいですか。私は、人生すべてを、還元してきました - それは、とてつもないものですが - 小さな事柄に、です。 すなわち、 あなたは私を愛してくれる、と。 理解されますか。 そういう些細な小さな事柄に、私は生を、還元してきたのです。 そして、孤立しているので、私は不幸せであるし、 私は、あなたが私を愛してくれるのを、願い、渇望します。
1:10:19 この特定のハエは、私が大好きです!
1:10:36 理解されますか。 とても単純な問いの、ものすごい複雑さを、見てください。 私は、愛されたい。 そして、私は、愛されていない。 ゆえに私は、心配に満ちています。 質問者は、「私は何をすることになるのか」と、仰います。 精神・・・頭脳が、そういう心配、そういう苦悩に、捕らわれているとき、 それは、明らかに考えられません。ですね? それは、聞くこともできません。 それは、こうも自分の心配、 自分の絶望の感覚に満ちています。 さて、あなたが聞くところの間隔が、ありえますか。 理解されますか。 そこで、あなたが 「それについて、私に語ってください」と言う、短い期間が、です。 そのとき、あなたは、聞くでしょうか。 またはあなたは、こう言うのでしょうか - 「いいえ。私は、聞きたくありません。なぜなら、私は まだ、ものすごい心配の状態にいるのを、愛しているから」と。 私が言っていることを、理解されますか。 ほとんどの人々は、そうです。 その苦悩の感覚なしには、あなたは、何物でもありません。 その苦悩の感覚は、あなたを、生かしつづけます。いいえ? さあ、みなさん! これは、すべて普通の心理学、子どもっぽい心理学です。 で、あなたは、そういう苦悩の中に、いるなら、 二、三分の間、言われつつあることを、聞くのでしょうか。 または、あなたは、自分の苦悩を、愛しているので、聞きたくないのです。 で、私たちが先日、言っていましたように、
1:13:06 あなたが本当に、聞くなら - あなたの心でもって、精神でもって、 あなたの存在すべてでもって、です そのとき、あなたは空間を、持っています。 あなたの頭脳は、静かになります。 そのときあなたは、聞きます。 そのとき、その聞くことこそが、 種子が播かれつつあるのに、似ています。 そのとき、あなたは、何一つ、しなくていい。 そのとき、それは、成長します。繁茂します。 そして、あなたが、愛が、何か 求められるものではないことを、理解するとき、 あなたは、愛されるために、手を、差し出しません。 それは、あなたが誰かに依存している、という意味です。 それは、あなたが本当にまったく愛していない、という意味です。 あなたが、愛されるよう、他の一人に、頼んでいるなら、 あなたが、他の一人から愛されるよう、求めているなら、 それは、あなたが、自分自身に愛を持っていない、という意味です。 それは、こうも明白です。 あなたは、愛を持っているなら、自分が愛されることを、誰にも頼みません。 そうね、私たちは、自分自身を乞食にしつつありますよ。 それが、起きつつあることです。 あなたが、教会へ行って、祈るとき、私たちは、乞食です。 私たちは、誰かに、私たちを助けてほしいとき、私たちは、乞食です。 または、私たちが、書物に依存するとき、私たちは、乞食です。 乞食であることは、だいじょうぶなのかもしれませんが、 それの帰結を、見てください。 あなたは、いつも、他の誰かに、依存しています。 そして、あなたを助けてくれるだろう、あれらすべての人々が、います - あなたの鉢を、充たしてくれます。 彼らのゴミで一杯に、です。
1:15:27 で、私たちは、この問いが、聞こえるとき、 何が起きてきたのかを、見てください。 私は、愛されたいが、愛されていません。 私は、大きな苦悩の中に、生きます。 私は、何をすることに、なりますか。 それは、自分自身に愛を持っていない、という意味です。 そのとき、どうして他の一人が、あなたを、愛せますか。 理解されますか。あなたが、愛を持っていないなら、 あなたはそのとき、愛を受け取る能力が、ありません。理解されますか。 愛は、真空、空っぽの感覚ではありません。 反対に、 あなたが、あのものすごい感じを、持っているなら - 感じを、ではありません。 性質、深さ、美しさを(持っているなら)、です。 そのとき、あなたは誰にも、愛を求めません。 それは、満ちているコップに、似ています。ですね? あなたが、よく気をつけて、これを、聞いてきたなら、 そのとき、問題は去っています。
1:16:58 今朝は、終了ですか。 私たちは、明日の朝、また会うでしょう- あなたがそうしたいなら、です。 どうぞ、立ち上がっていいですか。