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SA83Q2 - 質疑応答会合、第2回
スイス、サーネン
1983年7月25日



1:33 たくさんの質問が、ありました。 「あなたは、こう言うし、あなたは、ああ言う」。 「私は、あなたの伝記を読んだが、なぜあなたは、そう言うのか」、 「あなたのこれは、何ですか」、などと。 それらの種類のことについて、無数の質問です。 しかし、私たちは、見たところ、 私たち自身について、直接的な質問を、けっしてしません。 あなたたちは、いつも、他の誰かしらを、引用しています。 または、誰が、最も偉大なマハートマー(大聖)、 偉大なアヴァター(化身)であるとか、 そうね、それらの種類の未熟で、無思考なこと、です、 また、見たところ、私たちは本当に、 私たち自身に関心を持っているとも、思われません - 私たちの問題に、 私たちの嫉妬に、 私たちの憎しみと誹謗中傷と、 私たちの日々の生で進んでいく苦労のすべてに、です。 なぜかと思われます。 個人的に、私は、ブッダや誰が言ったことにも 興味を持っていませんが、 私は、自分が生きているさまを、知りたいと思います - なぜ自分がこのように生きているのか、 私の特異性、先入観、意見は、何であるのか、などを、です。 私たちはけっして、そういう質問をするように、思われません。 なぜ私たちは、自分の先入観、 自分の結論に、縋りつくのか、 そしてなぜ、私たちは誰かしらに従うのか、です。 私たちはけっして、自分自身の・・・ 大変尊敬をこめて、指摘していいなら、 私たちはけっして、自分自身の、より深い心配に、気づくように、思われません - なぜ私たちの頭脳は、こうも見かけ倒しになったのか、 明瞭で、利発で、生きて、活動的なのではなく、 いつも、「なぜあなたは、そう言うのですか」と、 「なぜあなたは、他のことを、言うのですか」と。 そのようにして、私たちは生きるのです。
4:39 それで、できるなら、 私は、あなたに質問をしたいと思います。 あなたが語り手に、質問をするのではなくて、です。 私はあなたに、質問をしたいと思います。 何が、あなたをして、変化させるのでしょうか。 何が、あなたの精神を、むしろ頭脳を、 とてつもなく活動的にし、 生きて、自由にするのでしょうか - それで、あなたが、とてつもない生の眺めを、持つように、です。 生の大いなる複雑さへ、です。 自分の人生ではない。 自然の生、 大地の生、樹々、海洋、 無量の空、 世界の美しさ、です。 もしもあなたに、その質問をすることに、なったとしたなら、 あなたは、何と言うのでしょうか。 私たちはなぜ、みんなこうも - その言葉を使うのを、お許しください - 鈍いのですか。 特定の路線を進んでいき、 けっして、変わらず、離れていかず、 けっして、本当の自由を、探し求めない。 なぜですか。 それは、恐れですか。 それが恐れであるなら、 それを取り扱って、済ませ、終了させましょう。 しかし、指摘してもよろしいなら、あなたが、 「なぜあなたは、こう言いますか」、 「あなたがいう、あれは、どういう意味ですか」と、訊ねつづけるなら、 そのとき、あなたは誰かに、依存しています。 で、どうぞ、今日と明日、 私たちには、二回の質疑応答会合だけが、残されています。 私たちは、自分自身に、訊ねられるでしょうか - あなたが聞いているなら、私たち自身に、訊ねるのです。 なぜ私たちは、今の私たちなるものであるのか、 - この幾千年に幾千年の進化の後に、です。 なぜ私たちは、暴力的なのか、 自分の生において、こうも無秩序なのか。 なぜ私たちは、他の一人へ、この敵対を、持っているのか。 なぜ私たちは、傷つくのか- 理解されますか - 生の、より深い主題です。 しかし、見たところ、自らは、それらのことに、興味を持っていません。 で、よろしければ、私は、普通の質問を、進めましょう。
8:28 第一の質問: 「正しい教育といったものが、ありますか」。 あなたが子どもを持っているなら、これが、疑問です。 「正しい教育といったものが、ありますか」。
8:52 親が、この質問をしたのか - なぜなら、彼は、多くの子どもを、持っていて、 世界がどうであるかを、知っているからです。 とてつもない残忍さと、低俗さ、 起きつつある、すべてのひどいことを、ですが、 彼らの未来とは、何ですか。 親は、ものすごい関心を、持つでしょう - もしも彼が、自分の子どもを愛していたなら、です。 それは、きわめて疑わしいと思いますが。 もしも彼が、本当に、自分の子どもを、愛していたなら、 もしも、彼がこういう質問をしたなら、正しい教育とは、何ですか。 そして、自らは、子どもをどうすることに、なりますか。 彼らは、すでに汚染されています。 - 私が、その言葉を使えるなら、です。 他の子どもたちによって、社会によって、 彼らが持っている友だち、 子どもがすでに用いる、ひどい言語によって、です。 よろしいですか。 これらです。 自然に親は、自分の子どもだけではなく、 世の中の子どもたちに、関心を、持ちます。 なぜなら、それらの子どもは、私の息子、私の娘を、 汚染しようとしているからです。 で、これが、疑問です - 私たちが、よく気をつけて、 探究しなければならないこと、です。 なぜ私たちは、教育されつつありますか。 教育(エデュケーション)は、何を、意味していますか。 (語源的に)普通の意味は、引き出すことです - (ラテン語の)エデュカーレ、引き出すこと(から)です。 しかし、それは、辞書の意味だけです。 言語学的に、それは、 子どもが成長するのを、助ける、という意味です 生きることの過程全体を、 理解する、了解するのを、(助けるの)です。 そして、子どもは、学校へ行きます。 そこで彼は、教えられます。 本当は、記憶するよう、学びます。 で、彼は次第に、記憶の構造全体を、築き上げます - 特定の線に沿って、です。 医師、工学、 哲学、心理学、物理学者など、です。 そして、コンピューターが、教師に取って代わりつつあります。 コンピューターは、普通の地元の教師より、はるかにうまく教えられます。 コンピューターには、特別の主題において、 トップの教師を、載せられます。 で、彼らは、コンピューターから、学べます。 そして、コンピューターは、人間の頭脳より、 ますます優りつつあります。 おそらくあなたは、それを幾らか、ご存じでしょう。 私はすでに、それについて話してきました。 だから、私たちは、それに入らないでしょう。
13:13 そして、なぜ子どもは - どうぞ、初めに、ただ聞いてください - なぜ、子どもは、何かしらの科目について、 百科事典的な知識すべてを持ち運び、 自分の頭脳に、そのすべてを保持すべきですか。それが、教育ですか。 問いを理解されますか。 私たちは、本で、百科事典で、調べられ、 そこから、働けます。 よろしいですか。 自らが外科医であるなら、当然、あなたは、 人間の解剖学について、大変多く、知らなくてはいけません。 あなたは、学習しなくてはいけないし、それらを経ていかなくてはいけません。 それは、十年から十五年が掛かるかもしれません。 そして、テクノロジー的に、技術の世界全体へ、 とてつもない理解を持つには、です。 それが、私たちがますます養成していることです。
14:24 また私たちは、心理的な世界全体を、全面的に無視しつつあります - 心理(サイキ)の世界全体を、です。 ですね? これが、起きつつあることです。 一方で、あなたは、 テクノロジーに、とてつもない発達を、持っています - それが、科学、生化学でも、 遺伝子工学でも、 トップの外科医療でも、ですね。 あなたは、そのとてつもない分野を、持っています - 高度に養成されて、もっともっと多く、です。 そして、人間存在の他方には - そのほうが、はるかに重要です。 理解されますか - このほうが、はるかに重要です。 それは、無視され、拒否されています。 あなたは、それは重要ではないと、言います。理解されますか。 共産主義の世界、 イデオロギー的な共産主義者は - 私は、レーニン、マルクスや、そのどれも、読んだわけではありませんが - 私たちは、大変多くの共産主義者に、話をしてきました。 あなたは、それに怯えていますか。 私の友だちが、何人か、おられますが、 気にされませんか。 彼らは、大事なのは、心理(サイキ)ではなく、 環境であると、言います。 環境を、根源的に変化させなさい。 そのときあなたは、 人を変化させるでしょうが、それはけっして、起こりえません。 が、彼らは、その理論に拘ります。 なぜなら、レーニンは、それについて、話をしていたからです。 マルクスは、です。 よろしいですか。 で、彼らはそれに、取りすがります。
16:29 で、民主主義世界でも、 いわゆる全体主義世界でも、 そして、宗教的な世界でも、明白に、 教育は、学問的な訓練、学術的な優秀さを、 意味しています - 議論できること、就職すること、 教授になり、 あなた自身の、その特定の専門分野の世界に 生きること、などです。 そして、心理(サイキ)は、 いつも、外に打ち勝つのです。 理解されますか。 あなたたちは、すばらしい政府、規則、法律などを、 持っているかもしれませんが、 野心、権力、地位への衝動 - そのすべてが、他方に、打ち勝ちますね。 あなたは、これが起きつつあるのを、見てきました - 私たちのまさに目の前で、共産主義の世界で、です。 で、教育されるとは、どういうことですか。理解されますか。 親として - 私は、親ではありませんが - もしも私が、親であったなら、それは私のものすごい関心事でしょう。 一方での徴兵 - 軍隊での二年間か、四年間、 アメリカには、徴兵が、ありません。 または、イングランドにも、 インドにも、です。なぜなら、そこには、貧しい人々が、 こうも多くいるからです - 軍隊に入って、それでやっていける人が、です。 が、自らは、このような世の中で、何をすることに、なりますか。 質問を理解されますか。
18:37 で、正しい教育とは、何ですか。 それは、世の中で優秀に機能できる 頭脳の養成でもないですか。 そしてまた、心理的に、 存在の意味全体を理解できるもの、です - 自己、「私」、心理を、ですね。 これら二つは、相伴えないのでしょうか - たとえば、二頭の、よく調教された馬が、 協調し合って駆けてゆくように、です。理解されますか。 そして、見たところ、 一頭の馬は、高度に成長しています。 他方は、まだ赤ちゃん、子馬です。 正しい教育は、学問的な訓練だけではないと、思われます - あなたは、職を持たなくてはならないから、といって、です。 あなたは、職を持ち、二時間だけ、働くのかもしれません。 もしコンピューターが、ますます重要になるなら、 あなたは、ますます余暇を、持つでしょう。 それは、すでに起きつつあります。 その余暇は、娯楽の構造、産業により 使われよう、利用されようとしています。 ますます、それが、起きようとしています。 明白に、あなたは、それが今、起きつつあるのが、見られます。 で、自らは、どのように、学業は別として、 自らはどのように、良い人間に、なりますか。ですね? あなたが、質問を、しています。 私が、この質問を、していません。 私は、子どもを持っていませんが、 私は、世界中で、何百もの子どもたちと、会います。 私は、様々な学校へ行く、などです。 それは、あなたの子どもです。 私のではありません。 あなたは、これを聞き、見出さなくてはいけません - 或る博士が私に、何をすべきかを、語る、と言うだけではありません - 或る心理学者は、私は自分の子どもを、あのように、このように、 扱わなければならない、などと言う、と(言うだけではない。)ですね。
21:27 で、私は、わずかな子どもを、持ち、 彼らが、他の子どもたちにより、条件づけられようとしているのを、知り、 学校で、彼らはみんな、条件づけられようとしているのを、知って、です。 新聞、雑誌、 本、歴史書、 あなたの国に対立する、私の国。 私の王は、あなたたちの王より、良い。そうね、 進んでいく戯言すべて、です。 そして、私は、親として、どのように、 良い精神を、もたらすことになりますか - 良い頭脳、良い人間を、です。 「良い」(グッド)という言葉は、幾つもの意味を、持っています。 それは、古風な言葉です。 それは、古風であるとしても、私は、それは良い言葉であると、思います。 自らは、どのように、良い人間をもたらすことに、なりますか。 私の子ども - 私は、彼らに、良くあってほしいと、思います。 感傷的ではなく、 ロマンチックではなく、 だらしない頭脳を持つだけではなく、 私は、何をすることになりますか。理解されますか。 あなたは、子どもを持っておられますね? いいえ? あなたたちは子どもを持っていないと、仰ろうとしていますか。 これは、あなたの問題ではありませんか。 まず第一に、「良い」(グッド)とは、 行為において、正確な行為、という意味だけではありません。 正義の行為ではなく、正確な行為です。 正義の行為と・・・ 精確な行為との間の違いを、見てください。 精確に、明瞭に話す。 自分が言いたいことを、他の一人へ、疎通する。 口ごもる、その他すべて、ではありません。 また、良い(グッド)とは、(語源的に)全体的だ(ホール)、という意味です。 私があの、すっかり擦り切れた言葉を、使っていいなら、 全包括的(ホリスティック)です。 私は、自分の娘と息子に、世の中全体への 眺めを、持ってほしいと思います。 人類の眺め - 彼の狭い視点からではなく、 人類、 人間世界の全体です。 また、自然と良い関係を、持つこと。 いろいろとものを、破壊するのではない。 鳥、動物、鯨- 理解されますか - 破壊しない。 そして、美しさの大いなる感覚を、持つ - 芸術の鑑賞ではなく、 美しさの感じを、持つことです。 そして、慈しみ、愛、慈悲の、あの大いなる感覚を、持つこと。 これらは、すべて言葉だけです。 さて、私はどのように、親として、ゆえに、教師として - 教師は、単に学校だけに、いません。 また、親でもあり、私は、教師でもあります。 で、どのように私は、彼が、これを持つよう、助けることになりますか。 質問を理解されますか。 どうぞ、この問いに、答えてください。 あなたはどのように - もしあなたが、これが、生きる道であり、 これが、関係において行為する道であることなどを、見るなら、 あなたは、どのように、これを学生に、あなたの子どもに、 もたらそうとしていますか。 あなたが、お手本であるなら - 親として、お手本です - 彼は、あなたに、背を向けるでしょう。ですね? 理解されますか。彼は、あなたに、聞こうとしないでしょう。 だから、お手本であるのではない。すなわち、 あなたがタバコを吸うなら、子どもへ、吸わないように、言わないでください。 なぜなら、彼は、こう言うでしょう - 「あなたは、タバコを吸うよね。 なぜ僕が、吸うべきでないんですか」 そのとき、論争すべてが、進んでいきます。 あなたが、そもそもお手本であるなら、 お手本であることの含意を、見てください。 あなたは、彼に、順応してほしいと思います。 あなたは、彼に、あなたのままを、真似てほしいと思います。 それで、あなたは、彼に、働き、考え、行為する自由を、拒否します。 ですね? これらを理解されますか。 これは、あまりに錯綜しつつありますか。
27:34 そして、彼は、条件づけられています - あなたによって、だけではなく、 あなたが使ってきた言語、気候、食べ物、 社会的環境、他の少年たちによって、です。 彼の祖母は、「ほら、神様を信じなさい」と、言います。 または、「この新しい導師を、信じてはいけない」と。 または、親がその子に語る戯言が、何でも、です。 で、その子は、次第に、条件づけられ、狭められつつあります。 私は親として、どのように、それを阻止することに、なりますか。 理解されますか。 それは、可能ですか。 それは、私にとって、可能ですか・・・ 私の息子へ話す中で、 私は、自分が条件づけられているのを、悟ります。 私はまた、彼が条件づけられつつあることをも、悟ります。 で、私は、彼に、語ります - 「ほら。 私は、条件づけられているし、君も、条件づけられつつある。 それについて、話そう。 私たちがそれより自由でありうるのかどうかを、見てみよう」と。 理解されますか。それは、「私は親だ。私のほうが、 おまえより、はるかに知っている」ということではありません。 むしろ、この関係に、 上下は、ありませんね。 この関係において、私は彼に、話します。 私は、「私もまた条件づけられている」と言います。 「私は、カトリック、プロテスタント、仏教徒として、育てられたきた」と。 戯言が何であっても、です。そして、「君は、条件づけられつつある。 それが世の中で、何をするかを、見てみよう」と。 私は、彼とともに、それに入るでしょう。 私は、来る日も来る日も、それに当たります - 色々な形で、彼を、退屈させないように、です。 が、外側からの圧迫のほうが、はるかに強い。 これらを理解されますか。 ものすごく強い。 そして、たぶん、彼はそれに、屈服するでしょう。 ほとんどの子どもが、そうするように、です。 例外は、ほぼ、ほぼいません。 私は、自分の息子が、例外になることを、望みますが、 私はまた、彼が、そうなろうとしていないことを、よくよく知っています。
30:08 で、それは、常なる観察です。 常に助けること、導くこと、導かないことです。よろしいですか。 私たちの間に、愛があるときだけ、それは、起こりえます。 彼が、私を尊敬するし、私が、彼を尊敬するなら、です - 尊敬です。 で、私はあなたに、訊ねています - あなたは、誰かを尊敬していますか。 尊敬していないなら、子どもへ、あなたの息子へ、 尊敬をするよう、話をすることが、何になりますか。 その言葉(尊敬、リスペクト)は、どういう意味ですか。 その意味は、(語源的に)顧みることです。 私は、当面、その言葉の意味に、入らないでしょう。 尊敬(リスペクト)は、愛の一部ですか。 または、愛があるなら、他の何も、大事でないのですか。理解されますか。 愛には、(気前のいい)寛大さが、あります。 同情、憐れみが、ありますが、憐れみは、愛ではありません。 同情は、愛ではありません。ですね? で、私は、彼へ愛について、話すとき、私の存在に、愛を持っていますか。 または、それは、言葉だけですか。 私が言っていることを、理解されますか。 あなたは、これに興味がありますか。 または、あなたは、涅槃に、到りたいのですか。 どうぞ、お分かりになりませんか。 私たちが、自らの生に 基盤を敷くのでなければ、あなたは、あまり遠くに行けません。 あなたは、一定の姿勢で、果てしなく座り、冥想するかもしれません。 インドに、或る人がいました - 二十五年間、冥想した人です。 来る日も来る日も、です。 彼は、或る日、私たちに会いに来ました。 何についても、正気に、彼へ話せませんでした。 なぜなら、彼は、やはり冥想しつつあったからです。 それで、私たちは、そもそも何かを、愛していますか。 あなたは、自分の妻、夫や彼女を、愛していますか。 または、それが何であっても、です。 どうぞ、私たちは愛していますか。 あなたは、もしも、お子さんを愛していたなら、 すべての戦争を止めるでしょう。 世界のあらゆる親が、もしも、自分の子どもを、愛していたなら、 あなたは、自然に何が起きるだろうかを、ご存じですか。 あなたは、誰をしても、彼を殺させたり、 彼をして、他の人たちを殺させたりするのを、許さないでしょう。 理解されますか。 が、世界中の私たちの政府は、 権力、立場、地位に基づいていて、 ゆえに、それらを保護することになっています - 銃砲で、です。 その他すべてを、ご存知です。私がそれらに、入らなくてもいい。
34:14 で、正しい教育は - 私は、こう言っていません。 あなたが、見出すべきことです - 正しい教育は、その方向でそれが優秀であるように、 学問的な訓練を行うためだけではないと、思われます また、良い全体的な人間存在であるためにも、です。 断片化していない。 砕けてしまい、矛盾して、 常に自分自身と、他の人たちと戦いの中に生きている、のではない。 それは、心理への大変多くの探究を、必要とします - ユングやフロイトや誰かに沿って、ではありません。 語り手のそれをも、含めて、です - 自分の応答、自分の行為、 自分の振るまいを見守るのです。 その中から、とてつもない自由の感覚が、出てきます。 そして、自由(フリーダム)、その言葉は、(フレンドと同じく) その根本の意味を、「愛」(ラヴ)に、持っています。 それは、それで十分です。 やれまあ、一つの問いに、長い時間が、掛かりますね。
35:43 第二の質問: 「私たちは、頭脳と精神について、語られるでしょうか」。
35:55 それが、たくさんあります。 私はそれを、短く読みましょう - 二回、です。 あなたが、かなり長い疑問を、理解されるだろうのを、望みます。 私は前に、それを読んでいません。
36:08 「私たちは、頭脳と精神について、語られるでしょうか。 考えることは、物質的に脳細胞の中で、起きます。 考えるのが、止まって、 思考なく、知覚があるなら、 物質的な頭脳の中で、何が起きますか。 あなたは、こう言うように思われます - 」 またもや、「あなたは、こう言うように思われます - 精神は、頭脳の外側に、居所を、持っている、と。 が、頭脳の中のどこかに、ではないなら、 清浄な知覚の動きは、どこで起きますか。 清浄な知覚が、頭脳に関連を持たないのなら、 変異が、脳細胞に起きることは、 どうして可能ですか」。
37:02 問いを理解されましたか。 もう一回、読んでもいいですか。 それは、良い問いです。だから、どうぞ、それを聞いてください。 私もまた、それを聞いています。
37:18 「私たちは、頭脳と精神について、語られるでしょうか。 考えることは、物質的に脳細胞の中で、起きます。 すなわち、考えるのは、物質的な過程です。 考えるのが、止まって、 思考なく、知覚があるなら、 物質的な頭脳に、何が起きますか。 あなたは、こう言うように思われます - 精神は、頭脳の外側に、 居所を、持っているが、頭脳の中のどこかに、ではないなら、 清浄な知覚の動きは、どこで起きますか。 清浄な知覚が、頭脳に関連を持たないのなら、 変異が、脳細胞に起きることは、どうして可能ですか」。
38:29 問いを、分かりましたか。 で、初めに、彼は、質問者は、こう仰ります - 精神と頭脳の間で、区別する、 分離する、判別する、などのことを、です。 それから、彼はこう訊ねます。 知覚が、清浄に頭脳の外側に、あるのなら - それは、思考は知覚の動きではない、という意味です。 そして、彼は、こう訊ねます 知覚が、頭脳の外側で起きるなら - すなわち、考える過程、憶えておく過程の(外側で)、です - そのとき、脳細胞自体に、何が、起きますか - 過去により条件づけられているものに、です。よろしいですか。 そして、脳細胞に、変異が、あるのでしょうか - 知覚が、外側にあるなら、です。 ヴザヴェ・コンプリ?(理解されますか)これは、明らかですか。 それが明らかであるのは、確かですか。
39:47 で、頭脳と精神から、始めましょう。 頭脳は、物質的な機能です。 それは、心臓と同じように、筋肉ですね。 そして、脳細胞は、記憶すべてを、収容しています。 どうぞ、私は、脳の専門家ではありません。 また、私は、精通者と研究したことも、ありません。 が、私は今や、長い時を生きてきたし、大変多く、見守ってきました。 他の人たちの反応を、だけではない。 彼らが言うこと、彼らが考えること、彼らが私に言いたいこと、だけでなく、 また私は、頭脳がどう反応するかを、見守ってきた、などです。よろしいですか。 私は、自分の頭脳が何であるかに、入らないでしょう。それは、重要ではありません。 あなたたちが、それをお好きだろうことは、存じていますが、 それは、重要ではありません。 で、頭脳は、時をとおして進化してきました。ですね? 一番の・・・単細胞から、 長年を、何百万年に何百万年を掛けて、 ついに、それが類人猿に到り、 さらに百万年、進んで、ついに、立ち上がれるまで、です。 それで、究極的に、人間の頭脳です。 人間の頭脳は、殻の中、頭蓋骨の中に、収容されています。 ですね? それは、そこにあります。 が、それは、それ自体を乗り越えられますね。 あなたは、ここに座って、自分の国や自分の家について、考えられます。 あなたは、即座にそこに、いますね - 物理的に、ではなく、思考において、です。あなたは、ここにいますが、 即座に、あなたは、自分の家や、 はるか遠くの自分の国に、います。 頭脳は、とてつもない能力を、持っていますね。 テクノロジー的に、それが、何をしてきたかを、見てください - 彼らがしている、最もとてつもないことを、です。 あなたが、彼らの幾人かに、訊ねてきたなら、 そして、幸か不幸か、 私は、しょっちゅう、彼らに会います。 彼らは私へ、それについて、すっかり語ってくれます。
42:32 で、頭脳は、とてつもない能力を、持っています。 その頭脳は、条件づけられてきました。ですね? そのとおりです - 言語の制限によって、です。 言語自体ではなく、言語の制限によって、です。 違いを、理解されますか。私はそれらに、入らないでしょう。 それは、条件づけられてきました - 自らが生きているところの気候により、 自らが食べる食品により、食べ物により、 社会的な環境、 自らが生きるところの社会によって、です。 その社会は、頭脳により、創り出されてきました。 理解されますか。 で、その社会は、頭脳の活動より、異なっていません。 これらに付いてきておられるのを、望みます。 そして、千年、百万年の経験、 数百万年の蓄積された知識 - その経験に、基づいて、です。 それが、伝統です。 私は、イギリス人だ。 あなたは、ドイツ人だ。 彼は、ヒンドゥーだ。 彼は、黒人だ。 彼は、これだ。 彼は、あれだ - すべての民族主義的な分割です。 それは、部族的な分割ですね。 そして、宗教的な条件づけ。 それで、頭脳は、条件づけられています。ですね? 条件づけられているので、それは、制限されています。 頭脳は、とてつもない能力を、持っていますが、 それは、条件づけられてきたし、ゆえに、制限されてきました。ですね? それは、テクノロジーの世界では、制限されていません。ですね? コンピューターなど、ですが、 それは、心理に関して、きわめて制限されています。 人々は、「あなた自身を知りなさい」と、言ってきました - ギリシャ人から、古代ヒンドゥーなどから、です。 彼らは、他の一人の心理を、研究します - 理解されますか。 しかし、彼らはけっして、自分自身の心理を、研究しません。 心理学者、哲学者、 専門家 - 彼らは、けっして自分自身を、研究しません。 彼らは、ネズミ、ウサギ、鳩、猿、などなどなどを、研究しますが、 彼らはけっして、「私は自分自身を見つめよう」と、言いません - 「私は、野心的だ。私は、貪欲だ。 私は、妬んでいる。 私は、隣人と、他の科学者たちと、競争する。 私のほうが、良くなりたい」と- よろしいですか。 それは、何千年の間、存在してきた、同じ心理です - テクノロジー的には、あなたは、すばらしい外側の人物でありますが。 理解されますか。で、内的に、私たちは、きわめて原始的ですね。 で、頭脳は、制限され、原始的です
46:29 - 心理の世界では、です。 さて、その制限は、崩れてしまえますか。 質問を理解されますか。 その制限は、自己、自我、「私」であり、 自己中心的な関心ですが、 そのすべては、拭い去られますか。 それは、そのとき頭脳が、条件づけを解かれている、という意味です。 私が言っていることを、理解されますか。 そのとき、それは恐れを、持ちません。 今、私たちのほとんどは、恐れの中に、生きます。 私たちのほとんどは、心配しています。 何が起きようとしているかに、怯えています。 死、そうね、その他すべての1ダースの物事に、 怯えています。 心配です。 そのすべては、完全に拭い去られて、新鮮でありえますか。 理解されますか。それで、頭脳が自由であるように、です。 そのとき、精神へのその関係は、全然、違っています。 精神は - ここで私は、私たちがこの事柄について 議論してきたことを、言わなければなりません。 あなたが、それを受け入れなければならない、ということではありません。 語り手は、この事柄について、幾人もの科学者と、議論してきました。 政府にお仕えする地元のやつではなく、トップの人たちと、です。 彼らは、語り手が行ったほどには、行こうとしません。 彼らはそのとき、理論的に行きます。理解されますか。 ですが、実際に、です。 違いが、分かりますか。 すなわち、自らが、自己の影を持たないように、見届けるのです。 それは、とてつもなく難儀です - 「私」がどの分野にも入らないよう、見届けることは、です。 私が言っていることを、理解されますか。 いいえ?いいえ。 自己は、多くの形で、隠れます。 あらゆる石の下に、です。 自己は、慈悲の中に、隠れられます - インドへ行き、貧しい人々の世話をします。 なぜなら、自己はそのとき、何かの観念、 何かの信仰に、執着しているからです - 何かの結論、何かの信念に、です。 理解されますか。 それが私を、慈悲深くさせます。なぜなら、私は、 イエスやクリシュナを、愛していて、私は、天国へ昇るからです。 自己は、多くの、多くの仮面を、持っています。 理解されますか。 冥想の仮面、 最高のものを達成することの仮面、 「私は覚りを開いた。 私は、自分の語ることについて、 知っている」との仮面。 そうですね? または、人類についてのこの関心 - それは、もう一つの仮面です。 で、自らは、とてつもなく微妙な精神、すばやい精神を、 持たなくてはなりません - 精神ではなく、むしろ、すばやい頭脳を、です。 それがどこに隠れているかを、見るように、です。 これを理解されますか それは、大いなる注意を、必要とします - 見守り、見守り、見守りを、です。 あなたは、これらを、しないでしょう。 たぶんみなさんは、あまりに怠けています。 または、あまりに年老いていて、「後生だから。 これらは、その甲斐がない。私を放っておいてくれ」と、言います。 が、自らが本当に、これにきわめて深く入りたいのなら、 鷹のように、見守らなくてはいけません - 思考のあらゆる動き、反応のあらゆる動きを、です。 それで、頭脳が、自らの条件づけより自由でありうるように、です。 私は、語っています。 語り手は、 自分自身のために、語っています- 他の誰のためでも、ありません。 彼は、自分自身を、欺瞞しているかもしれませんね。 彼は、何らかのものであるふりを、しようとしているかもしれません。 理解されますか。彼は、そうかもしれません。あなたは、知りません。 で、大変に懐疑的であり、疑い、問うてください - 他の人たちが何を言うのか、ではなく、あなた自身を、です。
52:25 で、頭脳の条件づけが、何もないとき、 それは、もはや退廃しません。ですね? あなたが、年老いれば老いるほど - おそらく、あなたが、ではないが、 人々は一般的に、ますます年老いていくし、 彼らの頭脳は、擦り切れはじめます。 彼らは、自分の記憶を、失います。 彼らは、大変奇妙な形で、振るまいます。 それらは、ご存じです。 退廃は、単にアメリカにだけ、ありません - ジャズと、低俗さですが、 退廃は、初めに、頭脳に起こります。 頭脳が、完全に自己より自由であり、 ゆえに、もはや条件づけられていないとき、 そのとき、私たちは訊ねられます - 私たちは今、訊ねようとしています - 頭脳、ではない。 そのとき、精神とは、何ですか。
53:30 古代のヒンドゥーは - 私は、何人かに、話してきました。 私は、暑くなりつつあります。 あなたは、そうでないですか。 私たちは、インドで、いわゆる学識者たちの幾人かに、話してきました。 彼らは、学識はあるが、それらは、実際の実在ではない。 彼らは、他の人々が言ってきたことに、通暁しています。 彼らは、精神を探究してきました。ですね? 彼らは、様々な陳述をしてきましたが、 そのすべてを拭い去り、 誰かに依存しない - どれほど古代のでも、どれほど伝統的でも、です - 精神とは、何ですか。 キリスト教の理論によれば - 創世記ですが - 人は、紀元前四千五百年に、突然、生じてきたとのことです。 そうね、それは、かなり不条理に思われます。 なぜなら、紀元前四千五百年に、 古代エジプト人は、暦を発明したからです。 私が言っていることが、正確であるのを、見たいのなら、あなたは調べられますよ。 が、その発明は、世代に次ぐ世代の、 ものすごい調査、探究の後で、できたにちがいありません。 だから、その時に、インド、エルサレム、 イスラエルとエジプトの間に、連関が、ありました。 私は、それらに入らないでしょう。 私は、歴史家ではありません。
55:25 で、精神とは、何ですか。 (創世記での)生成は、無秩序、混沌であると、私は言います。 その中から、秩序が、出てきました。ですね? 理解されますか。そこには、二つのものが、関与していました - 無秩序は、自らの秩序を持っていますね。 私たちは、これについて、明らかですか。 列車は、時間通りに走りませんね - 一日遅れ、二時間遅れです。 あなたが東洋にいるなら、おそらくそれは翌日、来るでしょう。 機関士は、途中で、自分の妻に会い、何人かの友だちに、話をするために、 行ってしまいました。 そうね、のんびりとやります。 が、そのきわめてのんびりの、たるんだやり方は、自らの秩序を、持っています。 それは、今日の代わりに、明日、到着しますが、 少なくとも、それは到着します。 それは、秩序です。ですね? あなたが、タバコの煙がまっすぐ昇っていくのを、 見守ったことがあるのかどうか、私は知りません。 風通しのない部屋では、 それは、まっすぐ昇っていきます。 一定の点に届いた後、それは、消えてしまいます。 その消えてしまう中に、秩序が、あります。 彼らは、それを探究しています。 それは今、私の用件ではありません。 それで、 私たちは、無秩序の中に生きます。ですね? 私たちの頭脳は、無秩序の中で、機能します。 私たちの頭脳は、常に葛藤の中にあります。ゆえに、それは無秩序です。 そういう頭脳は、精神が何であるかを、理解できません。 精神が、見られるのは - 私の精神や、あなたの頭脳や、私の頭脳ではない。精神です。 万物、宇宙を創り出してきた精神、 細胞を創り出してきた精神。 それで、精神は、清浄なエネルギーと智恵です。 あなたは、これらを信じなくていい。 で、その精神は、頭脳が自由であるとき、 その精神は、頭脳へ関係を、持てます。 しかし、頭脳が、条件づけられているなら、それは、関係を持ちません。 で、智恵は、その精神の本質です - 思考の智恵ではありません。 無秩序の智恵ではありません。 それは、清浄な秩序、清浄な智恵です。 ゆえに、それは、清浄な慈悲です。 頭脳が自由であるとき、その精神はそれと、関係を持ちます。ですね?
58:35 さて、私は進まなければなりません。 私は、もっとたくさん、これに入られるでしょうが、私は、そうしないでしょう。 あなたは、疲れつつありますか。 または、聞いていますか。 あなたは、自分自身を、聞いていますか。 または、私の話を聞いているだけですか。 あなたは、どちらも、していますか。 そのとき、あなたは、自分の反応を、見守っていますか - あなたの頭脳がどう働くのかを、です。 すなわち、行為、反応(作用、反作用)、 行ったり来たり、行ったり来たり、ですが、 それは、あなたが聞いていない、という意味です。 この行為、反応が、止まるとき、あなたは、聞いているだけです。 ただ清浄に聞いている。 理解されますか。 これに付いてきておられますか。さあ! ご覧ください。 海は、常に動きの中に、ありますね - 潮が満ちてくる。 潮が引いていく。 これが、その行為です。 そして、人間たちもまた、この行為の中に、あります - 行為、反応(作用、反作用) その反応が、別の反応を、産出します。 私の中のその反応が、別の反応を、産出します。 それで、行ったり来たり、です。 ゆえに、その行き来の動きが、あるとき、 当然、静けさは、ありません。 その静けさの中、あなたは、聞こえます - ですね? - 真理や虚偽が、です あなたが、行ったり来たり、行ったり来たりのとき、ではありません。 ですね? 少なくとも、それを知的に、論理的に、見てください - 常なる動きが、あるなら、あなたは、聞いていません。 どうしてあなたは、聞けますか。 しかし、絶対的な静寂が、あるときだけ、あなたは、聞けます。 ですね? それの論理を、見てください。 そして、この行き来の動きを、止めることは、可能ですか。 私は、それは可能であると、言います。 語り手は、それは可能であると、言います - あなたが、自分自身を研究してきたとき、 あなたが、自分自身に、きわめて深く入って、 あなた自身を理解するとき、です。 そのときあなたは、その動きが本当に止まってしまったと、言えます。
1:01:12 そして、質問者は、訊ねます - 精神は、頭脳の外側にあるので、 精神は、頭脳に収容されていなくて、外側にあります。 私たちは、これについて、幾人かの科学者と議論してきました。 彼らは、「はい」と言います。 おそらく、気軽に私を喜ばせるためか、理論的に彼らは、見ます。 が、語り手は、自分自身としては、事実本位で、話していますね。 彼は頭に、穴が開いているかもしれませんが・・・ で、彼は、こう言います - どうすれば、この知覚は、 思考の活動がないときだけ、起きるのですが、 そのとき - 脳細胞は、物質的な過程ですが、 どうやって、変異をもたらしますか。 それが、問いです。 ですね? あなたは、問いを聞いてきました。 私はそれを、反復してもいいですか。 いいえ。私は、問い全体を、反復しなくてもいい。
1:02:46 ご覧ください。それを、きわめて単純にしておいてください。 それが、私たちの困難の一つです。 私たちは、複雑なものを、けっして、きわめて単純に、見つめません。 ですね? これは、きわめて複雑な問いですが、 自らは、きわめて単純に、始めなければなりません - きわめて広大な何かを、理解するには、です。 で、単純に始めましょう。 伝統的に、あなたは、一定の道を、追求してきましたね - 宗教的に、経済的に、 社会的に、道徳的に、など、 あなたの生涯ずっと、一定の方向を、です。 私は、そうしてきました - 仮に、私はそうしてきた、としましょう。 あなたがやってきて、言います - 「ほら、その道、 あなたが進んでいる道は、どこへも、繋がらない。 それは、あなたを、はるかに多くの難事へ、導くだろう。 あなたたちは、果てしなく互いに殺しつづけるだろう。 あなたたちは、ものすごい経済的な困難を、持つだろう」とね。 そして彼は、あなたに、論理的な理由、実例 などを、示します。 が、あなたは、言います - 「いいえ、すみません。これが、私の物事のやり方です」と。 あなたは、そのように進みつづけます。 ほとんどの人々は、そうします。ですね? ほとんどの人々、99パーセントの人々は、 その道を、進みつづけます- 導師たちを含めて、 哲学者たちを含めて、 新しく覚りを成就した人々を、含めて、です。 そして、あなたがやってきて、言います - 「ほら、 それは、危険な道だよ。 そこへ行かないで、 向きを変え、全然、他の方向へ進んでください」とね。 あなたは、私を納得させます。 あなたは、私に、それの論理、 理由、真っ当なことを、示してくれます。 私は、向きを変え、全然違った方向へ、進みます。 何が、起きたのですか。 質問を理解されますか。 私は、生涯ずっと、一方向へ、進んできました。 あなたがやってきて、言います-「そこへ行かないでください。 それは危険です。それは、どこにも繋がりません。 あなたは、もっと多くの難事、多くの苦痛、多くの問題を、持つでしょう。 別の方向へ、行ってください。物事は全然、違っているでしょう」とね。 私は、あなたの論理を受け入れます - あなたの発言を、健全に、論理的に、それら、ですね。 そして私は、別の方向へ、動きます。 頭脳に、何が起きたのですか。 理解されますか。それを、単純にしておいてください。 その方向へ進み、突然に、別の方向へ動く。 脳細胞自体が、変化したのです。 理解されますか。 私は、伝統を壊したのです。 これに付いてきておられますか。 理解されますか。 それは、さほどに単純です。 が、伝統は、こうも強い。 それは、自らの根すべてを、私の現在の存在に、持っています。 そして、あなたは私に、何かをするよう頼んでいます - 私が反抗することを、です。 ゆえに、私は、聞いていません。理解されますか。 ところが、私は、聞きます。あなたが何を言っているかを、見出します。 それが真実なのか、虚偽なのかを、です。 私は、事態の真理を、知りたいのです - 私の願い、私の楽しみ、ではなく、私は、それの真理を、知りたいのです。 ゆえに、真剣なので、私は、自分の存在すべてでもって、聞きます。 私は、あなたが全く正しいのを、見ます。 私は、動いたのです。ですね? その動きの中で、脳細胞に、変化が、あります。 それは、さほどに単純です。 これを、お分かりになりましたか。 あなたたちの何人かは?ああ、そんな顔をしないで・・・
1:07:01 ご覧ください。私は、カトリックや、信心深いヒンドゥーであり、 実践的なカトリックなどであるなら、 あなたが、来て、私に語ります - 「ほら、ばかなことを止めなさい。 そのすべては、戯言です。 それらは、伝統、言葉だけです。 あまり意味のない言葉です」。 言葉は、意味を、蓄積してきたけれども、です。理解されますか。 で、あなたは、「指摘してください」と、言います。 私は、あなたが言うことが、真理であるのが、分かります。私は動きます。 私は、その条件づけより自由です。 ゆえに、頭脳に、変化、変異が、あります。 ご覧ください。私は、恐れとともに生きるように、 育てられてきました。私たちはみな、育てられてきました。 ですね? 私たちはみな、育てられています - 何かへの恐れだけではなく、恐れ、です。 私は今、それに入らないでしょう- 恐れの本性に、です。 あなたは私に、それは終わりうると、語ります。 私は本能的に、こう言います - 「ともに行きましょう。 見出しましょう」と。 ですね? 私は、あなたが言っていることが、 真実なのか、虚偽なのかを、見出したいのです - 恐れが本当に、終わりうるのかどうかを、です。 で、私は、時間を使います。 私は、あなたと議論します。 私は、見出したい、学びたいのです。 で、私の頭脳は、活動的で、見出そうとしています - 何をすべきかを、語られるのではなくて、です。 で、私が探究しはじめた瞬間、 働き、見つめ、恐れの動き全体を、見守ります。 そのとき、私はそれを受け入れ、「まあ、私は、恐れの中に生きたいな」と言うか、 または、動いて、それより離れます。 あなたが、それを見るとき、脳細胞に、変化があります。 それは、さほどに単純です - もしもあなたが、このものを、きわめて単純に見つめられたなら、です。 変異が、あります。それを、もう少し複雑にすると、 脳細胞こそに、どの努力をとおして、でもなく、 意志をとおして、でもなく、また、どの動機をとおして、でもなく、 知覚があるとき、です。 知覚は、観察があるとき、あります - 思考の動きなしに(観察が)、です。ですね? 記憶の絶対的な静寂が、あるとき - すなわち、時、すなわち、思考の(静寂が)、です。 過去なしに、何かを見つめること。 そうなさってください。 語り手を、見つめてください - あなたが、彼について、蓄積してきた思い出すべてなく、 彼の身振りを、ではなく、彼を見守る。 または、あなたの父親、母親、 あなたの夫、妻、彼女などを、見守ってください。 それが何でも、構いません。 過去の何の思い出もなく、見守ってください - 傷と、罪悪と、それらが生じてくることなしに、です。 ただ見守る。 そのとき、あなたが、何の先入観もなく、そう見守るとき、 ありつづけたものからの自由が、あります。
1:11:05 私は、もう五分間を、持っています。 私は、次の質問を進めましょうか。 きっと、あなたたちは、私に進んでほしいのだと、思います。 が、あなたは、活動的ではありません。 あなたは、疲れるでしょう。
1:11:20 第三の質問: 「私はかつて、或る人を、大いに傷つけました。 なぜ、罪悪の感じは、あらゆることにも関わらず、持続する、 こうも深い強固なものなのですか」。
1:11:37 「私はかつて、或る人を、大いに傷つけました。 なぜ、罪悪の感じは、それより自由であろうとするあらゆる努力にも関わらず、 持続する、こうも深い強固なものなのですか」。 いいですね? 質問を理解されましたか。
1:12:03 あなたは、罪悪を感じますか。 ここの、あなたたちのほとんどは、何らかのことについて、 罪責感を、持っていませんか。 いいえ? または、あなたたちは、みんな、清浄な人間ですか。 で、罪悪が、あります。 私たちの一人一人にとって、その言葉は、どういう意味ですか。 すべきでないと感じる何かを、することですか - きわめて単純な水準で、です。 心理的に、他の一人を傷つける。 そして、その相手は、自殺をします。そして、あなたは、 「神様、私は、何てひどいことをしてしまったのか」と、感じますね。 または、あなたは、悔恨します。 それは、同じことですね。 理解されますか。私たちは、罪悪について、話しています。 カルパ(罪)、メア・カルパ(私の不徳の致すところ)。
1:13:33 人々はあなたに、罪悪を感じさせます。 それが、彼らのごまかしの一つです。 なぜなら、そのとき彼らは、あなたについて自分が好きなことを、できるからです。 私たちもまた、よくよく、その立場にいたのです - 私たちのみんなが、です。 父親、母親、大きないじめ役、 または、誰かがあなたを、いじめます。 そして、あなたは、自分が何かひどいことをしたと、感じます。 そのとき、彼らは、あなたの首根っこを押さえたし、あなたを強請っています。 これらを理解されますね。 これらを、ご存じないですか。 なぜ自分は、罪悪を感じますか。 なぜあなたが、私に、罪悪を感じさせるのかを、私は理解します。 なぜなら、あなたは、私に対して、権力が、ほしいからです。 そのとき、あなたは、私の尻尾を掴まえています。ですね? で、それは、全く違った事態です。 が、あなたは、不親切だったのです。 あなたは、他の一人へ何かを、してきたのです - 物理的にか、心理的にか、です。 そして彼は、橋から、飛び降ります。 そしてあなたは、「神様、私は、何をしてしまったのか」と、感じます。 私は、自分があれをしなかったら、よかったと、思いますね。 そして、あなたは罪悪を、感じます。 その言葉を、理解されますね- 私たちのみんなが、です。 で、私は、その言葉に、その言葉の意味に、入らなくてもいい。 なぜですか。 私は、自分ができることを、すべて、してきました。 あなたは、私に、あなたをもっと、愛してもらいたい。 そして、私は、心から、あらゆることを、するでしょう。 自分自身を忘れて、です。あなたが私をもっと、ほしがるからではない。 理解されますか。これらに付いてきておられますか。 それは、あなたの生です。 私のではありません。 私は、あなたの母親、父親です- それが何であっても、です。 私は、あらゆることを、してきました。 私は、あなたを愛してきた。 あなたの世話をしてきた - そのすべてを、私の側で、ですが、 あなたは、私に、もっと多くしてほしい - 排他的に、です。 私は、できません。私は、あなたに、心を捧げてきましたが、 あなたは、心全部を、ほしがります。 しかし、私は、その少しを、他の誰かのために、したいと思うのです。 そして、あなたは傷つきます。ですね? そのとき、あなたは飛び降りるか、自殺をします。 あらゆる種類の怖ろしいことを、します - 私を傷つけるように、です。 そのとき、私は罪悪を、感じます。 これらは、実情です。 私は一例を、取り上げています。 これは、ありふれています。 あなたはそれを、きわめて小さくするのか、大変多く、ですが、 この強請は、進んでゆきます。
1:17:03 で、民族的に、彼らはそうします。 あなたは、政府全体を妨げます。 なぜなら、あなたは、断食しようとしているからです。 彼らがやっている、ごまかしすべてを、ご存じでしょう。 で、なぜ自分は罪悪を、感じますか - そのすべての心配とともに、その恐れとともに、 その一種、この縮みあがる感じとともに、です。理解されますね。 「神様、私は、あれをしなければよかった。 私は、もっと与えておけばよかった」との感じ、です。 が、私は、持てるすべての中で、一番良いものを、与えてきました。 しかし、あなたは、もっと多くの何かを、ほしがりますが、私は与えられません。 が、あなたは私に、罪悪を感じさせたいと思います。 なぜなら、私はもっと与えられないからです。 あなたは、湖へ飛び込むことにより、私にもっと罪悪を、感じさせます。 または、薬を飲んで、自殺することによって、です。 で、私は、強請られようとしていません。理解されますか。 私は、可能なものすべてを、与えてきました。 または、私は、それを与えたくありません。理解されますか。 私は、罪悪を感じたくありません - あなたの行為によって、です。 が、あなたは、私に罪悪を、感じさせたい。 そのとき、あなたは私を、抑えています。 私は、その立場に入れられるのを、拒否します。理解されますか。 私は、罪悪を持たないでしょう。つまり、私は、それの不条理を、見るのです。 これは、私に対して、仕掛けられてきた、ごまかしだったのです。 それは、異なった事柄です。 私は、きわめて明らかに見ます - すなわち、 私は、人間ができる可能なことをすべて、してきたことが、です。 そしてあなたは、もっとほしがりますが、私は、もはや与えられません。 それは、あなたの用件です。 あなたが、自殺したいとしても、私は、何もしてきませんでした。 理解されますか。 なぜ私たちは、これらについて、賢明でいられませんか。
1:19:55 私たちは、生涯ずっと罪悪を持ち運んだ人々を、多く多く知っています。 それは、けっして癒えない傷に、似ています。 なぜなら、彼らは、いつも憶えているし、 それが、彼らの生を、破壊するからです。 自分は、可能なことをすべて、してきました。 譲った、嘘をついた - よろしいですか - 与えてきましたが、 いじめ役は、もっとほしがります。 責任は、あなたのではなく、いじめ役のものなのです。ですね? フィニトゥ(終わりました)。 どうぞ、立ち上がってもいいですか。