Krishnamurti Subtitles home


SA83Q3 - 質疑応答会合、第3回
スイス、サーネン
1983年7月26日



1:21 私たちは、すばらしい天気に恵まれてきましたが、ちょっと暑いです。 昨日の雨以外は、 ずっと、すばらしいお天気でした。 私たちは、二十二年間、ここにいましたが、 これは、激しい雨に打たれなかった 初めての四週間か、三週間です。 みなさんが、すてきな休日を過ごされたことを、望みます。 これが、最後の講話です。 おそらく私たちは、来年、再び、会うでしょう。
2:04 ここには、幾つもの質問が、あります。 そして思い巡らすし、訊ねるのですが、あなたはどう、問題に接近しますか。 生は、多くの問題を持っています - 経済的、社会的、宗教的など、テクノロジーのを、です。 あなたは、問題にどう接近しますか。 接近という言葉は、近寄る、近づく、という意味です。 そして、問題(プロブレム)という言葉は、 何か投げつけられたもの、という意味です。 ギリシャ語、ラテン語、その言葉の根本的な意味ですが、 何か投げつけられたもの、挑戦です。 そして、あなたは、その挑戦を、どう受け取りますか。 私たちは、伝統の恍惚をもって、問題に接近するなら - それは、良い言い回しです。 伝統の恍惚です - そのとき、あなたは、けっして問題を、解決しないでしょう。 反対に、問題は残っています。 そしてあなたは、それへ、もっと多くの問題を、導入します。 それが、政治の世界などで、起きつつあることです。 または、あなたが、すでに出した結論をもって、 問題に接近する、近づく、近寄るなら、 そのとき明白に、自らは、挑戦に、または、問題に、答えません。 または、自らが、何かイデオロギー的な結論、信念を、持っているなら、 そのときあなたは、それをもって、問題に接近するなら、 またもや、同じことが、継続します。ですね? 私たちは、これについて、明らかですか。 すなわち、どの問題も、 それが、テクノロジーの問題であれ、 社会的な問題であれ、 個人的な問題などや、宗教的なのであれ、 自らが、何の動機もなく、それに接近するのでなければ - それが可能である、として、ですが - そのとき、問題は、ほとんど意義を、持ちません。 大事なことは、自らがそれにどう接近するのか、です。 なぜなら、接近が、その主題を規定しようとしているからです。 ですね? 私たちは、ここで、一緒にいますか。 私たちは、あなたに、何をすべきかを、語っていません。 私たちは、あなたの導師ではありません。 だから、語り手に従わないでください。 語り手は、重要ではありません。 が、彼が言うことは、重要です- そして、それが虚偽なのか、 真実なのかを、あなたが見出すことが、(重要)です。 で、自らが、懐疑的であり、疑いをもち、問う、大きな能力を、 持たなければなりません。ですね? それで、あなたの精神が、鋭く、明らかであるように、です。
5:53 私たちは、これらの質問の幾つかに、答えようとしています。 問題がありますし、 私たちは、何の個人的動機もなく、それに接近しようとしています - 伝統の押し殺す重みとか、 特定の偏見、先入観を持つことなしに、ですね。 それで、あなたの精神、あなたの頭脳が、 自由に、問題を見つめられるように、です。 それが明らかであってほしいと、望みます。 すなわち、問題を理解するには、自らの頭脳は、 それを新鮮に見つめられるよう、自由でなければならないのです。 さもないと、あなたは、反復し、反復し、反復するだけです。 それは、むしろ、厄介で、退屈で、役立たずになります。 それが明らかであるとき、 これらの問いを、ともに検討しましょう。 それは、語り手がそれらを検討しようとしている、ということではありません。 それは、彼にとって問題ではありませんが、 それは、質問者と、ほとんどの人々にとって、問題です。 私たちは、ともにそうしようとしています - それで、導く者と、導かれる者がないように、ですね。明らかですか。 演壇に座っている導師は、ありません。 幸運にも、私は顎髭を、生やしていません。 変わった衣と、それらの種類の戯言をも、持っていません。 で、私たちは、ともに検討しようとしています - 何の偏見もなく、何の伝統、先入観もなく、 この問題を、探究しようとしています、 すでに、とても暑いです。
8:10 第一の質問: 「欲望とは何ですか。 欲望は、外的な対象により、目覚めるのですか」。
8:23 「欲望とは何ですか。 欲望は、外的な対象により、目覚めるのですか」。
8:32 とても良い疑問です。 これには、これへの大変多くの探究が、必要とされます。 あなたは、準備ができていますか。 あなたが、暑さの中で、恍惚とそれらへ 入ってしまわれないことを、望みます。 あなたたちの精神が、新鮮であり、あなたたちが、 聞く能力があることを、望みます- 語り手を、だけではなく、 また、あなた自身の反応を、あなた自身の態度をも、(聞くの)です。
9:08 質問者は、訊ねます- 欲望とは何ですか。 欲望は、外的な対象により、目覚めますか。 で、初めに、ともに見ましょう- 欲望とは何ですか。 私たちの生における欲望は、とてつもなく有力に、なったのです。 私たちは、こうも多くの物事を、欲望します。 私たちは、天国を欲望します。 あなたは、ヒンドゥー教徒であるなら、解脱を、欲望します - 別の種類の天国、解放を、です。 または、あなたは、車、女や男を、欲望します。 または、あなたは、麗しい庭を、欲望します - あなたが、充分、お金を持っているなら、などなど、です。 欲望とは、何ですか。 それは、どのように目覚めますか。 欲望の裏の、目的、意図、衝動は、何ですか。 欲望(デザイア)という言葉が、何を意味するかを、理解されますね (フランス語の)「デズィレ」など、です。 どうぞ、これは、きわめて複雑な問いに、なろうとしています。 私たちはともに、それに入ろうとしています。 あなたが、それらを聞こうとしているなら - それの小さな端切れだけではなく、その全体を、です。
11:05 まず第一に、あなたは、対象を見ます- あなたを魅了するものを、です。 車、 最新のモデルの一つで、美しく磨き上げられています。 大きなタイヤがつき、良い線をもち、強力です。 あなたは、その車を走らせるお金を、持っているなら、 それを見つめます。 理解されますか。 あなたは、対象を見つめます。 そのとき、対象は、それを持ちたいとの欲望を、目覚めさせますね。 ここまで、付いてきておられますか。 すなわち、あなたは、何か美しいものを、見ます - 絵画、 邸宅、庭、車、男や女を、です。 そして、あなたは、魅了されます。 車を製造する人々は、 あなたに、それを買ってほしいのです。 それを所有したいとの、あなた自身の欲望です。 で、外側にある対象が、 それを所有したいとの欲望を、目覚めさせます。ですね? あなたは、そのお金を持っているなど、借りるなら、です。ご存じです。 で、私たちは、その質問を、しています。 対象なしに、欲望が、ありますか。 質問を理解されますか。 もしも、車がなかったなら、 女、男、邸宅がなく、 聖者や導師としての魅力的な地位が、なかったなら - あなたが、それらをどれも、持っていないことを、望みます - または、権力への欲望です。 それはすべて、外側です - それからそれが、欲望を目覚めさせます。 それからあなたは、その欲望を充足させるし、あなたは、満足します - 次の欲望まで、です。 それは、別の対象です。 車ではなく、他の何かです。 で、私たちは、訊ねています。 どうぞ、気をつけて、見出してください - あなたが進んで聞こうとするなら、ですが - 対象は、欲望を、創り出し、目覚めさせます。ですね? 外的な対象なしに、欲望が、ありますか。 それが、一つの問いです。
14:20 二つ目は、あなたが自分自身で、 イメージを創り出すかもしれません- それは、外在化されています。 あなたは、そのイメージを、充足したいと思います。 ゆえに、欲望が、あります - 思考が創り出したものを、達成したいとの(欲望)、です。ですね? あなたは、暴力的ですが、あなたは、非暴力を、創り出します - すなわち、非事実を、です。 そのとき、あなたは、非暴力的になりたいと、欲望します。 で、欲望を目覚めさせる、外側の対象が、あるだけではなく、 また、内的なイデオロギー、内的な象徴、 心理的な映像、イメージも、あります。 それを創り出しておいて、そのとき、あなたは、欲望します。 で、外的な対象や、内的な対象は、どちらも、同じです。 なぜなら、それらはどちらも、欲望を、目覚めさせるからです。
15:46 さて、私たちは、きわめて深刻、真剣な質問を、しています。 これらを見て、欲望が、すなわち、とてつもなく強いものが、ありますか - 外的な対象なしに、です。 または、心理的な思考の過程により、創り出された対象なしに、です。 ですね? 私たちは、見出そうとしています。 これらのどちらもなく、欲望が、ありますか。 明らかですか。
16:26 で、私たちは、ともに探究しようとしています。 私が探究し、あなたがただ聞くだけではなく、ともに、です。 なぜなら、それは、あなたの生であるからです。 欲望とは、何ですか。 なぜそれは、私たちの生において、 こうもとてつもなく優勢な力に、なったのですか。 私たちは、こうも多くの物事を、欲望します - 最も些少なものから、至高なものまで、です。 ですね? それが、私たちの生です。 で、自らは、探究し、ともに探検しなくてはいけません - 欲望とは、何ですか。 それは、どうして生じてきますか。 そして、それは、制御できるのかどうか、です。 そのとき、あなたが、それを制御しているなら、制御者は、誰ですか。 付いてきていますか。 あなたが、自分の欲望を、制御しているなら、 制御者は、別の形の欲望です。 すると、私たちは、一緒にそこにいますか。 私は、或る種のいわゆる霊的経験を達成したいと、欲望します。 私は、なぜなのかを、知りません。 私は、まぬけにちがいありません。 制御者は、「私は、自分の欲望を制御しなければならない」と言うのですが、 制御者は、それを達成したいと思います。 その種の可笑しな、ロマンチックな戯言を、です。 そのとき、制御者は、別の形の欲望です。 これを、お分かりになりますか。 で、制御者と、制御されるものは、 欲望の活動です。トレクレール(きわめて明らかです) これは明らかですか。私たちは、ここに一緒にいますね? なぜなら、これは、深刻な問いであるからです。 自らは、よくよく気をつけて、これに、入らなくてはいけません。
19:05 私たちは、あなたが欲望を制御、抑圧等 しなければならないと、提唱したり、述べたりしていません。 私たちは、欲望のとてつもない動きを、 理解しよう、それを覗きみようとしています。 欲望の動き全体を、理解するとき、 あなたは、他の何かが起きるのが、見えるでしょう - もしあなたが、一歩一歩、非伝統的に、 それに入ろうとしているなら、です。ですね? あなたが、「私は自分の欲望を制御しなければならない」と、言うなら、 そのとき、あなたは逸れてしまっています。 そのときあなたは、誰が制御者であるかを、検討してきていません。 そのときあなたは、自分の伝統的な恍惚へ、戻っています。 それは、明白に何をも、しません。 あなたは、自分の国は一番すばらしい国であると、言えるし、 それを反復しつづけられます。あなたは、自分自身に、催眠を掛けます。ですね?
20:10 で、欲望とは、何ですか。 それは、どうして生じてきますか。 原因が、あるにちがいありません。 私たちは、自分自身で、発見しようとしています - 原因が何であるかを、です。 すなわち、あなたは見ます。 私がこの直喩を続けていいなら、ですが、 あなたは、車を見ます。 最新のメルセデスを、です。 そして、見ること、感受、 接触、感受。ですね? それが、過程です。 見る、接触、感受。 ですね?それは、明らかです。 そのとき、何が起きますか。 そのとき、思考がイメージを、創り出します - あなたが車に乗って、それを運転しているのを、です。 理解されますか。思考が、イメージを創り出します - あなたがそれを所有し、それを運転しています。 見る、接触、感受。そのとき、思考が、引き継ぎます。 イメージが創り出される - あなたが車に乗って、それを走らせている。 で、間隔や隔たり、空きが、あります。 感受との間、ですね・・・見る、接触する、感受。 即座に思考が、イメージを創り出す - あなたが車に乗って、それを走らせている。 思考がイメージを創り出す瞬間、 それが、欲望の始まりです。 これを理解されましたか。 どうぞ、みなさんの頭脳を、働かせてください。 語り手が言っていることを、ただ受け入れたり、拒絶したりしないで、 気をつけて、それを見つめてください。ですね? あなたは、見ます - 車の知覚が、あります。 そのとき、それに触れる。 接触する。 その触れる、接触から、感受が、あります。 それは、自然で、健康的です。なぜなら、あなたは、麻痺していないからです。 そのとき、思考がイメージを、創り出します。 その秒に、欲望が生まれています。 これは、明らかですか。 ですね? 私たちは、これについて、明らかですか。ああ、お願いですから。 私たちは、これを、もっと探検しなければいけませんか。 はい、あなたは、それをもっと探検したいですか。 あなたたちの頭脳は、どこが具合が悪いのですか。 あなたへ差し出された何かが、あります。 きわめて単純ですが、あなたは・・・
23:47 私は、店のウィンドウに、この青いシャツを、見ます。 私は、内へ入ります。 それに触れる。それが良い素材がどうかを、見る。 それが自分に合うなら、私は感受を持ちます。 「これは、すてきな青いシャツだ」と。 そのとき私は、それは自分にどう似合うだろうかと、言います。 で、私は、鏡へ行きます。 私は、これらすべてのことを、しませんが、それは、構いません。 私は、鏡へ行き、それを着て、自分自身を見つめます。 そのとき、イメージが、 創り出されます - その瞬間に、それを所有したいとの欲望、です。 これが、あなたたちがみんな、することです。 そのことが、こうも急速であり、こうもすばやい、というだけですが、 もしもあなたが、それをゆっくりさせてしまい、それを見守ったなら - 動きを見守る。 接触、感受の動き、 それを、ゆっくりさせてしまう。 そのときイメージが、 思考により創り出される。その秒に、欲望が生まれています。ですね? すみません。 この暑いお天気です。
26:00 で、問いは、制御のではなくて、 その過程がゆっくりしてしまうのを、見守ることです。 見る、接触、感受、 思考がイメージを創り出す - その瞬間に、欲望、などの過程です。 それを充足させるのか、欲求不満であるのか。ですね? さて、これらの過程を、ゆっくり見守る - 気をつけて、一歩一歩ですね。 で、そのとき、問いが生じます。 制御の、ではなく、 抑圧の、ではなく、欲望より逃避することの(問い)、ではない - 修道士、僧侶が、世界中で、してきたように、です。 彼らはそれを、制御してきました。 彼らはそれを、抑圧してきました。 が、彼らは、それで燃えさかっています。 ゆえに、彼らは、バイブルやギーターや何か他の本を、手に取って、 それを読みつづけます。けっして、すばらしい天空を、見つめません。 ですね? これらに、付いてきておられますか。
27:20 で、あなたは、私たちは、この過程全体を、ゆっくりさせてしまえますか。 それで、私たちが、あらゆる歩みを、よく気をつけて、見守るように、です。 あなたは、それを、そう見守るとき、 隔たりが、ありうることを、見つけます - 感受と、思考がそれを引き継ぐ瞬間との間に、ですね。間隔です。 付いてきておられますか。 これは、明らかです。 いいえ? これは、明らかでないですか。 ついに、或る若者が、同意します。 で、その隔たりを、拡大すると、 すなわち、私は、ウィンドゥに青いシャツを、見る。 内へ入る。それに触れる。 その品質を見る。 そして、待つ。 それで、思考が即時に入って、引き継がないように、です。 理解されますか。 それには、よく気をつけた注意、見守りが、必要とされます - あなたの反応すべてに、です。 それで、感受と、イメージをともなった思考の活動との 間に、間隔があります。 その隔たりを、拡大してください。 そのときあなたは、欲望が、ほとんど効力を持たないことを、見るでしょう。 ヴザヴェ・コンプリ?(理解されますか) それで、欲望はそのとき、主人にならなくて、 感受と思考が、ゆっくりしてしまう。分かりましたか。 それで、あなたは、とてつもなく鋭敏です。 欲望の奴隷であるのは、不注意な者です。 ですね? 問いは、今、明らかですか。 対象、車 - 見ること、接触、感受が それを所有したいとの欲望を、目覚めさせます。そのとき、戦いです。 私は、それを持つべきか。 それを持つべきでないのか。 私は、そのお金を、持っているか、等。充足したいとの欲望、 そして、それを持たないことの欲求不満など、です。 が、あなたが、理解するとき - 欲望は、外側の対象へだけではなく、 また、イメージの心理的な投影からも、です。 神、涅槃、天国 - 何か滑稽な戯言の何か高みへ、到ること。 それもまた、内側から、ですが、それは、外側に投影されています。 で、私たちは、この過程全体を、全的に観察できるなら - それは、あなたの注意、あなたの気づかい、あなたの見守りを、必要とします - そのとき、欲望です。 あなたは、車を見つめられるし、 あなたは、それがほしくなければ、何も反応を、持たないでしょう。 理解されますか。 いいです。
31:38 語り手は、一時間を、許されています。 今朝、進むために、一時間半、です。 あなたがそれを堪えられるのを、望みます。
31:52 第二の質問: 「あなたは、意見を持たないことが、 必要であると、言いました。」 そうね、またもや、あなたは、私に言及なさっています。 「あなたは、言いました」とね。 なぜあなたは、自分で、見出さなかったのですか。 私は、質問を読み上げて、後で訊ねましょう。
32:12 「あなたは、何についても、意見を持たないことが、 必要であると、言いました。 私は、ナチズム、共産主義、軍備の拡散、 政府による拷問の使用といった 深刻なことについて、意見を持つことは、 必要であると、感じます。 自らはただ、これらのことが起きつつあるのを、座視できません。 何かを言うか、おそらく何かをしなければならないのではないですか」。
32:48 質問を理解されますか。 もう一度、読み上げましょう。 「あなたは、何についても、意見を持たないことが、 必要であると、言いました。 私は、ナチズム、軍備の拡散、 政府による拷問の使用といった深刻なことについて、 意見を持つことは、必要であると、感じます。 自らはただ、これらのことが起きつつあるのを、 座視できません。 何かを言うか、おそらく何かをしなければならないのではないですか」。
33:36 あなたは、私を捕まえようとしていません。 私もまた、あなたを捕まえようとしていません。 これは、私たちがやっているのは、ゲームではありません。 なぜ、私たちは意見を、持っていますか。 私は、それが必要であるとか、必要でないとか、言っていません。 なぜ私たちは意見を、持っていますか。 意見は、何かまだ証明されていないことです。 先入観は、もう一つの形の意見です。ですね? で、なぜ私たちは、それらを、持っていますか。 彼らが持っていない、ということではない - ナチズムの拡散、 軍備の拡散と、 政府により拷問の使用- それは、進んでいます。 あらゆる政府が、これらに耽溺しています - 平和の名において、法律の名において、 愛国心の名において、神の名において、です。ですね? あらゆる宗教が、人々を拷問してきました - 仏教とヒンドゥー教以外は、です。 さて、これらは、事実です。 イギリスは、武器を売っています - (紛争相手の)アルゼンチンに、です。 それの滑稽さを、ご覧ください。 それは、事実です。 フランスと、他の国々が、です。 そしてあなたは、これは起きるべきでないとの 強い意見を、持っているかもしれません。 そして、あなたは、何をしようとしていますか。 集団に加わる、デモをする、 叫ぶ、警察によりボコボコにされる - 催涙ガス、ですか。 あなたは、それらが起きつつあるのを見てきました - テレビでか、 あなたが、そのサーカスの一部、その見世物の一部であるなら、です。 さて、あなたの意見は、何を、変化させてきましたか。 変化をもたらしてきましたか。 武器の販売は、幾世紀もの間、進んできましたね。 彼らはみんな、「私たちはしてはならない」と言うけれども、大きなビジネス、 巨大産業は、「私たちは、武器を売らないと、存在できない」と言います。 で、あなたは、税金を払うのを、止めるのでしょうか。 あなたは、そうするなら、監獄へ送られますね。 まず第一に、これらの論理を、見てください。 あなたは、これらすべての物事について、何をするのでしょうか。 彼らは、みんな、間違っています。残酷です。 彼らは、大変多くの暴力を、もたらしますね。それは、事実です。 (南米)チリ(の軍事政権)は、今、人々を、拷問しています。 そして、(北アイルランドの)ベルファストなどなどなども、です。 どの政府も、それより自由ではありません。 彼らは、より微妙に、より明瞭に、それをしますが、それは、進んでいます。 さて、自らは、何をすることになりますか。 あなたは、ナチズムに、強く反対するかもしれません。 彼らは世界で、ひどいことを、してきました。 ヒットラーとその仲間は、です。 そのすべてを、見守ってください。 ドイツは、ヨーロッパで、最も文明化した国でした。 哲学を研究し、そうね、発明。 彼らは、一時、偉大でした。 あれら、きわめて偉大な文化的な人々が、一人の狂人に、乗っ取られました。 みなさんは、これをご存じです。
38:14 さて、意見とは、何ですか。 私はこれらに反対するとの意見。 その意見は、どんな価値を持っていますか。 私は、自分の意見で、何をできますか。 それは、武器の販売を止める効果が、あるのでしょうか。 それはナチズムを、阻止するのでしょうか。 それは拷問を、阻止するのでしょうか。 または、全部が、単に意見を持つことより、はるかに深いのですか。 ヴザヴェ・コンプリ?(理解されますか) 私たちは、互いに出会っていますか。 私は、法を敷いていません。 または、私は、これについて、何の意見をも、差し出していません。 が、問題は、意見より、はるかに深い。 もっと深刻で、もっと深い問いは、こうです - なぜ人は、他の一人の人に、対立していますか。 その質問を、してください - 私の意見が正当化されるのか、されないのか、ではなくて、です。 なぜ、これらすべての世紀の文明と、いわゆる文化の後、 人は、人に対立していますか。 なぜですか。 もしも私たちが、それに入れたなら - それは、はるかに多くの真剣な探究を、必要とします。 意見に取りすがることや、意見を持たないことより、です - そのとき、私たちは、入るでしょう - 私たちが、何かをするかもしれない区域の中に、です。ヴザヴェ・コンプリ?
40:30 なぜあなたは、人間として、他の一人の人に、対立していますか。 他の一つのイデオロギーに、対立していますか。 あなたは、自分のイデオロギーを、持っています。 あなたは、他の一つのイデオロギーに、対立しています。 民主主義のイデオロギーと、全体主義のイデオロギー、 彼らは、戦争中です。 なぜ人たちは、イデオロギーにより、生きますか。 イデオロギーは、実在していません。 思考が創案してきた何か、です。ですね? または、思考は、大変多くの研究の後 - 歴史的な唯物論哲学ですが - 一定の結論に、到ります。ですね? そして、それが、彼らにとって、法になります。 彼らは、他の人たち、みんなに、それを、受け入れてほしがります。 反対側は、違った形で、全く同じことを、します。ですね? そこで、民主主義の世界では、いわゆる自由世界は、 あなたを、監獄に入れません。 私たちは、座って話し合えるからです。 全体主義の国家では、たぶんそれは、可能でないでしょう。 ですね? これは、起きつつありますよ。
41:57 で、私たちは、はるかに根源的な問いを、深い主題を、訊ねています - なぜ人は、人に対立していますか。 あなたは、誰かに対立していませんか。 あなたは、暴力的ではないですか。 あなたは、人類の全体です。 私たちは、自分たちが分離した個々人、分離した私的な魂であると 考えたいのを、私は存じています。 それへ私たちは、以前に入ってきました。 私は、それらに入らないでしょう。 なぜなら、あなたは、そうではないからです。 あなたは、残りの人類です。 なぜなら、あなたは、苦しむからです。 あなたは、苦悶の中にいる、あなたは、さびしい、 あなたは、憂鬱であるからです。 残りのみんなのように、です。 で、あなたは基本的に、根源的に、残りの人類です。 あなたは、人類です。 ですね? あなたが、人類であるなら- あなたはそうです。 あなたが、それを好きでも、好きでなくても、です。 犬さえも、そちらへ向かいます。 そして、あなたが敵対的で、暴力的で、攻撃的で、愛国的であり、 「わが国のほうが、おまえの国より良い」、 「わが文化は、最高の文化である」と、それらの戯言ならば、 そのとき、あなたは武器を、売っています。 あなたは、人々を拷問しています。 なぜなら、彼らはそこで、そうしているからです - あなたはそれの(存在)です。 あなたは、人々を拷問するのを、助けてきました。 なぜなら、あなたは、カトリックであり、あなたは、プロテスタントであり、 あなたは、ヒンドゥーであるからです。ですね? で、分割があるところ、葛藤が、あるにちがいありません。 そして、その他すべても、です。 で、あなたは、全体的に行為していますか。理解されますか。 または、小さな「私」が、行為していますか。 理解されますか。そのとき、あなたは、対立しています。人が人に対立しています。 ヴザヴェ・コンプリ? それは、理解されますか - その問いは。
44:50 第三の質問: 「私たちが読むことから、 あなたは、ふしぎで神秘的な経験を・・・」 「私たちが読むことから、あなたは、ふしぎで神秘的な経験を、してきました。 これは、クンダリニーですか。 または、もっと大きな何かですか。 そして、あなたが経てきた、いわゆるプロセスは、或る種の意識の拡大だと、 あなたが考えることを、私たちは読みます それは、代わりに、緊張により引き起こされた、 自己誘導した、心因性のものでありうるのでしょうか。 Kの意識は、思考と言葉により、組み立てられていませんか」。
45:53 誰かがこれに、興味を持っています。だから私は、それに答えなければなりません。 「私たちが読むことから・・・ 私たちが読むことから、 あなたは、ふしぎで神秘的な経験を、してきました。 これは、クンダリニーですか。 または、もっと大きな何かですか。 そしてまた、あなたが経てきた、いわゆるプロセスは、 或る種の意識の拡大だと、あなたが考えることをも、私たちは読みます それは、代わりに、緊張により引き起こされた、 自己誘導した、心因性のものでありうるのでしょうか。 Kの意識は、思考と言葉により、組み立てられていませんか」。
46:43 これに、興味が、おありですか。 もちろん、これには、欲望より、はるかに興奮させられます。 あなたが、これらについて単純であろうことを、願います。 Kは、見たところ、様々な経験を、してきました。 それらは、心因性であり、緊張により誘引されたのかもしれません。 または、彼自身の欲望の楽しめる投影などかもしれません。 インドでは、クンダリニーという言葉は、大きな意味を、持っています。 彼らは、それについて、本を、書いてきました。 幾人も、自分はそれを目覚めさせたと、主張します。 私は、それらに入らないでしょう。 この言葉の催眠術に、掛からないでください。 一種のエネルギーの解放、 それで、そのエネルギーは、無尽です。 それが、その言葉の意味です。 が、それは、他の意味を持ち、違った種類の・・・ 事実だけが、エネルギーを目覚めさせることになり、 それを完全に機能させることに、なります。 そして、 いわゆるプロセスもまた、想像などなのかもしれません。 これらすべてのことが、大事ですか。 自らは、他の人々の思考を、読むことが、できます。 (ソビエト・)ロシアで彼らは、それを実験しています。理解されますか。 (共産党書記長)アンドロポフは、(米大統領)レーガン氏の思考を、読めます。 または、レーガン氏は、アンドロポフ氏の思考を、読めます。 そのとき、ゲームは、済んでいます! あなたが、私の思考を読めるし、私が、あなたの思考を読めるのなら、 そのとき生は、ひどく複雑に、かなり厄介になります。 アメリカのデューク大学では、これを、実験してきました。 彼らは、テレパシーが存在することを、証明しました。 すなわち、思考が物質を制御できることなどを、です。 これは、古いインドの伝統です。 おそらくKは、これらのことの幾らかを、してきましたが、 こればかりが、重要ですか。 それは、良い入浴をすることに、似ています。 ですね? 暑い一日の後、良い、清潔で、健康的な入浴を、する - 清潔なタオルと、良い石鹸でもって、です。 その終わりに、あなたは、清潔です。 大事なことは、あなたが清潔であることです。ですね? これらを、その水準に、置いてください。理解されますか。 これに、これらの重要性を、与えないでください。それは、重要ではありません。 Kは、これらを経てきました。 彼は、これらについて、大変多く、知っています。 突然に目覚めないでください! しかし、彼は、これらを不必要と、扱います。 私たちにより誤用されてきたエネルギーが、ありますね - 戦いにおいて、けんかにおいて、ふりをすることにおいて、です。 「私のは、あなたのより、良い。 私は、この演壇に到ったのだ」 と言おうとすることなどにおいて、です。 それを探究するほうが、はるかに重要です - なぜ人間たちは、今しているように、振るまうのか、です。 これらの些細なことではない。 これは、些細なことです。 私たちは、この事柄について、議論してきました - これらの目覚めを主張する、すべての人々と - 幾らかの人々と、です。 私は疑います。そうね、あなたは、小さな経験を、します。 それからあなたは、店を構えます。理解されますか。 それがどういう意味かを、ご存じですか - 店を構える、とは。 私は、この種の小さな経験を、しています。 そのとき私は、導師になります。 そのとき私は、営業しています。 私は、弟子を持っています。私は彼らに、何をすべきかを、語ります。 私は、金銭を持っています。私は、或る姿勢で、座ります。私はきわめて・・・ よろしいですか。それらのばかげたことです。
52:45 で、自分の小さな経験に、ひどく気をつけなくてはいけません。 ですね? 重要なのは、本当に重要なのは、 健全に、理性的に、論理的に見出すことです - あなたがいかに、自分のエネルギーをむだにするのかを、です。 葛藤により、喧嘩により - よろしいですか - 恐れと、ふりをすることによって、です。 むだにされつつある、そのすべてのエネルギーが、むだにされないとき、 あなたは、世界のエネルギーすべてを、持ちます。 あなたの頭脳が、衰退しつつないかぎり - 葛藤をとおし、野心をとおし、 闘争、さびしさ、憂鬱と戦うこと、その他すべてをとおして、です。 私たちは、それらに入ってきました。 頭脳が、そのすべてより自由であるとき、 あなたは、豊富なエネルギーを、持っています。 が、あなたが、或る種の小さなエネルギーを、解放するなら、 そのときあなたは、他の人たちへ、無限の害を、加えます。ですね? この問いは、答えられましたか。 私たちは、次へ進んでもいいですか。
54:21 で、どうぞ、罠に、嵌まらないでください - 「私は知っている。あなたは知らない。私が教えてあげよう」と言う導師たちの、です。 アメリカには、様々なセンターが、あります。 たぶんヨーロッパとインドにも、です。 そこで、一人か、二人の人々が、こう言っています - 「私は、この奇妙なものを、目覚めさせた。 私があなたに、それについて、すべて語ろう。私が教えてやろう」と。 そうね、古き良きゲームです。 それはすべて、こうも些細になります - 人が人と闘っていて、 世界が退廃しつつあり、崩壊しつつあるとき、 あなたは、取るに足りない小さい経験について、話しています。
55:26 そしてまた、質問者は、こう言います - Kの意識は、思考により組み立てられていませんか。 あらゆる意識が、その内容とともに、 思考の動きの結果であるように、です。ですね? あなたの意識は、 その、恐れ、信念、さびしさ、心配、悲しみの内容とともに - 誰かに従うこと、信仰を持つこと、 「私の国は、最高の文化である」と言うこと、それらの事柄ですが、 それは、あなたの意識の部分です。 それが、あなたなるものです。 ですね? あなたが、それより自由であるなら、 そのとき、あなたは、全然違った次元に、います。 それは、意識の拡大ではありません。 それは、意識の内容を否定することです。ですね? 拡大すること、ますます自己中心的になること、ではありません。 次の問いへ行きましょう。
56:38 第四の質問: 「あなたにとって、死とは、どういう意味ですか」。
56:43 「あなたにとって、死とは、どういう意味ですか」。
56:49 なぜ、私にとって、ですか。 それは、あなたにとって、どういう意味ですか - はるかに重要です。 理解されますか。生、生きることと、その終わりに来ること - それは、あなたにとって、どういう意味ですか。 あなたが、輪廻転生を信じているなら - それがどういう意味かを、ご存じですね - あなたが、輪廻転生を信じているなら - すなわち、あなたは来世に生まれる、と - そして、あなたが正しく、正確に、幸せに生きてきたなら、 あなたは、来世で、もっと良い機会に、恵まれるでしょう - より上の梯子へ到るように、ですね。 理解されますか。 ですが、輪廻転生を信じている人々は、 他の普通の人々のように、生きます - 戦い、喧嘩し、攻撃的で、さもしい。ですね? 悪質で、暴力的です。 輪廻転生へのその信念は、ほとんど、意味を持ちません。 が、それは、とても慰めになります。 さて、それを探究してください。 生まれ変わろうとしているのは、何ですか。 理解されますか。 仮に、あなたが、輪廻転生を信じている、としましょう - あなたたちの幾人かは、信じているかもしれませんが。 なぜなのか、私は知りません。それは慰めになるのかもしれませんが、 あなたが、生まれ変わることになるものを、検討しはじめるとき、 それは何ですか。 それは、恒常的な魂ですか。 恒常的な何か、時を越えているものですか。 それが、時の(何か)であるなら、それは恒常的ではありません。ですね? で、生まれ変わろうとしているのは、何ですか。 あなたの傾向、あなたの体質、あなたの経験ですか。 Kは死にます。来世、彼は再び生まれます。気の毒に。 そして、そのKとは、何ですか。 それは、何ですか。あなたは、誰ですか。あなたは、何ですか。 一連の・・・ 私たちはあの犬に、しばらくの間、静かにしてくれるよう、頼めるでしょうか。 あなたは、誰ですか。 実際に、です。理論的に、たくさんの観念を、玩ぶのではない - あなたは、アートマンであるとか、あなたの中に、神がいるとか、です。 それはすべて、思考の活動ですね。 で、あなたは、何ですか。 あなたは、あなたの経験です。ですね? あなたは、あなたが知識として取得してきたものです。 あなたは、記憶の動き全体です。 そうでないですか。 または、あなたは、それが好きではない。 または、あなたは、自分の中に、何かすばらしいものが、あると、考えたい - そのすべては、不条理です。私はそれについて、議論さえしないでしょう。 事実は、あなたが何物でもない、ということです。 私は、「何物でもない」と使ってはなりません。それは、間違っています。 あなたは、一連の記憶の動き全体です。ですね? それを検討してください。どうぞ、同意しないで、それを見つめてください。 あなたは、記憶を持っていないなら、ありません。ですね? 一定の手術が、頭脳に行われるなら、 あなたは、自分の記憶を、失います。 あなたは、植物状態になりますね。 語り手は、カリフォルニアで、アメリカで病院へ行ったことが、あります。 そこでは、これらが行われていました。 私は、それを見守りました - 怖ろしい!
1:02:09 で、あなたは、伝統、集合的な記憶です。 地域社会の、家族の伝統、国の伝統 - すべての記憶です。 ですね? あなたは、そのすべてです。 そして、あなたが死ぬなら、 あなたは、それらすべての記憶に続いていってほしいですか。 記憶とは、何ですか。 去ってしまった物事です。 何か幸せで、楽しめた、憶えていることや、 何かあなたが、あこがれていることです。ですね? それはすべて、記憶としての過去の動きです - 修正されて、進んでゆきますね。 で、死とは、どういう意味ですか。 あなたは、個人として、終わりになる。ですね? 物理的に終わりになるが、心理的に、あなたは、こう言います - 「いや、それは、そのとおりでもない。 私は、自分の身体以上のものだ。 私は、自分の思考以上のものだ。 私は、反応以上のものだ」と。ですね? あなたは、そうですか。 伝統が、あなたはそうだと言うのを、私は知っています。 あなたもまた、その観念が好きなのです - 自分は、これらの事柄以上のものだ、と。 で、あなたは、それに縋りつきます。 そして、あなたは、「以上のもの」が来世に生まれるだろうと、望みます - より良い住宅、より大きな権力、より大きな地位に、より神の近くに、です。 理解されますか。このすべては、信念と思考の事態です。ですね? 思考はまた、信念をも創案してきました。 なぜなら、何かへの信念は、あなたに大きな慰めを、与えてくれるからです。 ですね? で、その種のことをお好きなら、続けてください。 何百万人もが、そうします。ですね? それら他の人たちは、「生は、けっこう良かったよ」と、言います - あなたが成功を収めているなら、です。 または、「生はひどく、悲惨で、不幸せだった。 私は死ぬのが、うれしい」とね。 そして、死ぬ前に、病気の苦悶すべて、 長い、長期化した病気の年々。 生きつづけるために、医師たちにより、維持されて、です。 ですね? これが、私たちの生です。 これが、私たちみんなが生きる道です。 そして、私たちは、死に、怯えています - 終わりになることに、です。 あなたは、輪廻転生を信じているけれども、 あなたは、けっこう死に、怯えています。 あなたは、あらゆる物事を、持ち運べませんが、 あなたは、最後の瞬間まで、それを持っていたいのです。理解されますか。 あなたは、たくさんのお金を、持っているなら、 最後の瞬間まで、それを持っていたいのです。 自分がそれを持ち運べないのを、知っているけれども、です。
1:06:14 で、これが、私たちが、生きることと死ぬことと呼ぶものです。ですね? なぜ私たちは、あの世へ、死後に起きることへ、 こうも多くの重要性を、与えますか。なぜですか。 死の前に起きつつあることのほうが、はるかに重要ではないですか。 理解されますか。私が言っていることを、理解されましたか。 後で何が起きるのか、ではなく、 長年、生きる間に、何が起きつつあるのか、です - 格闘、痛み、心配、憂鬱、苦しみ、さびしさ。 あなたたちがみんな、経てゆくこと、ですね。 それを考慮するほうが、重要ではないですか - そのすべてが変化させられるのか、 そのすべてが、終わらされるのかどうかのほうが、 死の後に、何が起きるかについて、話しつづけるのより、むしろ(重要)です。 理解されますか。
1:07:28 仮に、私は、自分の家族に執着している、とします。 仮に、です。私は家族を持っていません - ありがたい! 仮に、私は、自分の家族に執着している、とします - 自分の妻、自分の子ども、自分の住宅、自分の家具に、です。 死がやってきます - 事故、病気や、自然な疲れをとおして、です。 死がやってきて、「あなたは、それを持ってゆけないよ」と、言いますね。 理解されましたか。 私は、執着しています - 観念に、信念に、概念に、理想に、です。 または、私は、家具に、住宅に、家族などに、執着しています。 死は、それらが終わることを、意味しています。 私は、自分に来世があるだろう、兄弟とともに、姉妹とともに、と それらを信じているかもしれませんが、 生きている間、それらを終わらせることは、可能ですか。 ヴザヴェ・コンプリ? 私が言ってきたことを、理解されましたか。 私が生きている間に、 唯一のものにも執着しないことは、可能ですか。 自分の家具へ、自分の住宅へ、自分の経験へ、自分の書物へ、 自分の評判へ、自分の戯言へ- よろしいですか - それらです。 それらを即座に終わらせる。 それが、死です。 ですね?
1:09:23 聴衆: それは、すばらしい。
1:09:26 K: 何がすばらしいですか。 あなたがそうするなら、すばらしい。 あなたがそうしないなら、たくさんの言葉だけです。
1:09:42 で、私たちが言っているのは、こうです - 死は、身体について、 蓄積された記憶すべてについて、終わりにします。 もちろんあなたが、他方を、輪廻転生を信じているのでなければ、です。 あなたは、何か恒常的なものであり、それが、転生しようとしています。 そのすべてが、思考の創案です。 で、私が生きている間に、終わることは、可能ですか - 生きている間、すべての執着より、全面的に自由であることは、です。 あなたの導師への執着、 あなたの観念、経験への執着、ですね? なぜなら、それが、死がしようとしていることであるからです。 で、生きている間に、終わることは、 死とともに生きることを、意味しています。 私が言っていることを、理解されますか。 いいえ、理解されません。 終わること。あなたが喫煙を終わらせるなら - 仮に、あなたが、タバコを吸う習慣を持っているなら、それを終わらせる。 身体は、ニコチンとそれらの種類のものを要求するけれども、それを終わらせる。 なぜなら、あなたが死ぬとき、それが、起きようとしていることであるからです。 あなたが、何かの経験に、何かの記憶に縋りつくのを、終わらせる。 それで、あなたの頭脳は、新しく、新鮮で、 明瞭です。このごみ、がらくたすべての重荷を、負っていません。 記憶は、がらくたです。 私は存じています。 で、生きることは、いつの時も死とともに、生きることです。 理解されますか。 そうしてください。 あなたが一番大切にしている一つのものを、そうしてください。 それを終わらせてください。 「私はそれを終わらせなければならない。 私はどうやって、それを終わらせることになるのか。 それを終わらせる道を、教えてくれ」とか、それを終わらせる薬物を摂るとか、ではない。 あなたは、死がそれを意味するのを、見るから、それを終わらせます。 で、生を生きることは、可能ですか。 それは、自由の生を、意味しています。 ゆえに、愛の生を、意味しています。 なぜなら、愛は、執着ではない、 愛は、嫉妬ではないからです。 あらゆる種類のものの重荷を負っている精神、 あらゆる種類の問題を持っている頭脳は、 慈しみ、愛の能力が、ありません。
1:13:35 で、それの美しさを、理解なさってください。 生きることと、あなたが執着している物事が、終わることです。 それで、あなたが本当に、自由の深さを、理解するように、です。
1:14:01 第五の質問: 「お話を聞いて、 これらの事柄を自分自身で考えた後、 私はどうやって、本当に、自分の問題を解決するだけではなく、 根本的に私の生に、変化をもたらすことに、なりますか。
1:14:21 問いは、ごく単純に表すと、 問いは、こうです - 私は、自分の存在全体に、 根本的な変異をもたらすために、何をするか、しないことに、なりますか。 それが、問いです。 ですね?
1:14:40 さて、あなたは、どのようにその問いに、接近しますか。 あなたは、どのように、それに近づきますか - それで、あなたが、問いと、問題と、接触するように、です。 まず第一に、自らは、私たちの頭脳が いかに条件づけられているかに、気づいていますか。 あなたは、気づいていますか。 ああ、いいえ、後生ですから。 私たちは、気づいていますか。 あなたは、自分が条件づけられていることに、気づいていますか。 二千年の着実な宣伝、 洗礼、ミサ、常なる反復、反復、反復の後、 あなたは、カトリックになったのです。 または、他の常なる反復は、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒に、なることです。 それは、同じ過程です。 あなたは、自分の頭脳が、条件づけられていることに、気づいていますか。 はい、そうです。気づくことは、困難ではない - 私は条件づけられています。 あなたが、「私はイギリス人だ、イギリス人だ、イギリス人だ」と 言うとき、あなたは、条件づけられています - ドイツ人、ロシア人、ヒンドゥー教徒、です。 ヒンドゥー教徒は、「私は最大の文化を持っている」と考えるかもしれませんが、 その文化は、去ってしまったのです。 インドで、彼らは、完全に迷っています - 無秩序などです。私は、それに、入らないでしょう。
1:16:34 で、あなたが条件づけられていることに、気づくなら、 その気づきは、観念ですか、実際ですか。 理解されますか。 あなたは、自分の反応に、実際に気づいていますか。 悩まないでください。それは、何も、悩むことではありません。 あなたは、自分が誰かに出会うとき、彼を嫌っているか、 彼を好いていることに、気づいていますか。あなたは、 自分の先入観に、気づいていますか。よろしいですか。 あなたは、自分の怠け、 明瞭に考えられない自分の無能力に、 自分は何かであるとのふりすべてに、気づいていますか - ああ、自分は、何かとてつもないものに、到った、と(いうふりに)。 あなたは、これらに気づいていますか。 あなたが気づいているなら、そして、あなたが、 「私はこの種類のことが、好きだ」と言うなら、それを生きてください。 誰もそれへ、あまり注意を、払おうとしていません - 少なくとも、智恵ある人々は、そうしていません。 あなたは、たくさんの神経症の、無思考の人々を、収集するかもしれません。 それもまた、だいじょうぶです - あなたが、その種類のことを、望むなら、です。 が、あなたは、気づいた瞬間 - あなたの反応すべてを見守って、ですが、 自分の反応を訂正することは、或る実体を、含意しています - 彼もまた、反応です。 理解されましたか。 あなたは、反応します - 私は、あなたを叩くし、あなたは、私を叩きますね。 私は、あなたを叩きます。なぜなら、あなたは前に、何かを言ったからです。 それへ私は、反応します - あなたを叩くことによって、です。 そして、あなたは、反応します。あなたは叩かれるのが、好きでないからです。 で、どちらの反応も、同様ですね。 私はそれに、入らないでしょう。 それは、明らかです。
1:18:49 で、自らが条件づけられていることに、気づいていて、 それを見つめるとき - 覗きみている外部者として、ではない。 自らは条件づけられていることを、観察しているか、 気づいている実体こそが - その実体は、その条件づけの一部です。 ああ、眠りに就かないでください。 いいですね?
1:19:19 それを別の形で、表しましょう。 経験する観察者 - 観察者は、観察されるものより、異なっていません。 思考者は、自らの思考より、異なっていません。ですね? 分析者は、自らが分析するものより、異なっていません。 ただ、彼が、自分自身を分離してしまっただけです。 私は、自分自身を検討します。 「私」は、思考により、分離されています - もう少し博識であり、 もう少し累積的な、過去の記憶として、です。 その実体が、観察しています。 その実体は、観察しているものの一部です。 まあ、私はそれに、入らないでしょう。 あなたがそれを、理解しなかったなら、 読む、格闘する、眠りに就く、何でも好きなことを、してください。 それについて怠ける - たぶんあなたは、そうでしょう。
1:20:21 で、見たところ、外在的か、内在的な何も、人を変化させません。ですね? 宗教は、人を制御しようとしてきました。 人を拷問し、人に無理強いしてきました。 すべての洗礼と、すべてのサーカスを、経てゆく。 またインドでは、それは、彼らなりの形で、やられます。 そして、世界の色々な地方で、です。 彼らは、あらゆる物事を、試してきました。 あなた自身も、変化をもたらそうとしてきました。ですね? そうではないですか。 あなたがそうしてきて、結果が、怠慢であるなら、 そのとき、あなたは、何をしますか。 あなたは、指導者たちを、試してきました。 あなたは、導師たちを、試してきました。 あなたは、様々な哲学者を、試してきました。 あなたは、様々な宗教を試してきました。 けれども、私たちは、今あるままに、留まっています。 怠けて、怠惰で、無頓着で、冷淡で、 愛の閃きもなく、 暴力、その他すべてです。何が私たちを、変化させるのでしょうか。 何もない。 外側からの何も、ない。または、あなた自身の、変化したいとの欲望も、です。 で、何も変化させようとしていないと、出発してください - 内的か、外側の、どの機関も、あなたを変化させようとしていません。 その事実でもって、出発してください。ですね? どうぞ、眠りに就かないでください。
1:22:34 そのとき、あなたは、何か実際のこと、 何か実在のものでもって、出発します。 そのとき、あなたはそれに、食いつけます。 外側の誰も、あなたを助けようとしていないからです。 諸々のブッダは、あなたを助けてきませんでした。 キリスト教の宗教すべては、あなたを、助けてきませんでした。 あなたは、今のあなたなるものです。ですね? そこから、出発してください。 外側からの何物も、 あなた自身の欲望も、あなたを変化させようとしていません。 で、あなたは出発します。 そのとき、あなたは、こう言います - 「さあ、私は本当に、基本的に、変化したいのか」と。 私たちのほとんどは、そうではありません。 で、あなたは、続けてゆきます。 しかし、あなたが本当に、変化したいのなら、それは単純です。 あなたの恐れを、変化させなさい。 あなたの恐れを、完全に終わらせなさい。 「どうやって」と言わないでください。 私たちは、それらを通ってきました。 あなたが、自分を助けてくれる、あらゆる形の外側の機関を、 全的に拒否するのでなければ - または、あなた自身の意志、あなた自身の欲望、あなた自身のやる気を、です。 それもまた、機能してきませんでした。 だから、それらを脇に置いてください。 そのとき、あなたは、あるがままの自分から、出発します。 そして、そのものが、根本的に変化させられないのかどうかを、見ます。 それは、あなたしだいです。
1:24:40 私は、もう七分間、許されています。 最後の問いです。
1:24:47 第六の質問: 「霊的な生とは、何ですか」。
1:24:56 「霊的な生、宗教的な生とは、何ですか - すべての宗教ではなく、僧侶、修道士とそれらではない。 彼らは、宗教的ではありません。 私がそれを言うとき、彼らが、私を嫌悪するだろうのを、私は知っています。 私はそれをあなたに、論理的に示しましょう- なぜそうでないかを、です。 それはすべて、思考により組み立てられています。 神の考案は、思考によりそこに置かれています。 それは、単純です。 このすべては、明らかです - あなたが、思考の活動を理解するとき、です。
1:25:38 で、霊的な生とは、何ですか。 私はあなたに、訊ねています。 あなたは、変わった衣を、着ています。 教会、ミサへ出席します。 または、インドで、或る種の供養を行ったり、寺院とモスクへ行ったりします。 宗教的な生・・・霊的な生とは、何ですか。 「霊的」という言葉は、気持ちよくないが、私たちは当面、それを使いましょう。 霊的な生とは、何ですか。 あなたは、霊的な生とは、全的な自由の生であると、仰るのでしょうか。 悲しみからの自由、恐れからの自由、 条件づけすべてからの自由、 ですね?自由であること。 私たちのほとんどは、監獄の中に、います。 私たち自身が作った、観念や、他の人々の概念、彼ら自身の先入観、 彼ら自身の経験の、監獄です。 それらは、私たちを監獄に留めおく鉄格子に、似ています。 私たちのほとんどは、伝統の奴隷です。 或る種の信念、信仰の(奴隷)、または、経験の奴隷です。 そのすべてより、全的に、完全に自由である。 自由(フリーダム)は、私たちが前に言いましたように、 その言葉こそが、(語源的にフレンドと同じく)愛を、含意しています。 自由がないなら、愛は、ありません。 あなたは、何かの人物像、象徴、人格、観念をとおして、 その自由を、とうてい達成できません。 自由は、終わることを、意味しています。 自己、「私」が終わる、 私が自分自身について、持っているイメージが、(終わるの)です。 そのとき、精神、頭脳が自由であるとき、 そのときだけ、あの至高の智恵が、あるのです。 すべての儀式、すべての、そうね、些細なことではない - 後生です - 或る姿勢で座って、冥想し、呼吸すること(ではない)。よろしいですか。 それは、霊的ではありません。 その言葉を使えるなら、ですが、 それは、それらではありません。 それはすべて、記憶と思考の動きです。 思考は制限されているので - 私たちは、それに入ってきました。 私は、今、入らないでしょう。 で、私たちは、自らの生を、 きわめて小さな些細な事柄に、還元してしまったのです。 全面的にそれより自由であること、そして、それは可能です。 私の言葉を、真に受けないでください。 私は、それは可能であると、言います- 見出し、そうしてください。 それで、宗教的な、いわゆる霊的な生は、 そのとき、あなたと他の一人との間に、分割が、ありません。 あなたは、他の一人を、殺さないでしょう。 あなたの国は、世界の国です。 世界は、あなたの国です。 世界は、あなたの宗教です。 あなたは、自分がどの宗教にも所属していないのを、見るとき、 霊的な生、聖なる生を、生きる - それは、何かエリートのため、わずかな者のためのものではありません。 それが、必要なものであるなら、あなたは、それに取り組みます - ふりをするとか、それらの種類の戯言ではなくて、です。
1:31:21 で、宗教的な精神、宗教的な人間、 どの宗教にも所属していない者、 真理とともに(機能し)、ゆえに、 大いなる智恵と慈悲でもって機能している頭脳、です。 そうです。
1:32:15 どうぞ、立ち上がってもいいですか。