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SA83T1 - 平和に生きることは、可能なのか。
公開講話、第1回
スイス、サーネン
1983年7月10日



1:51 うるわしい朝です。みなさんが暑すぎないのを、望みます。 私たちはともに、多くのことについて、話し合おうとしています - 深刻なことについて、です。 それで、ここでのこれらの集会は、 娯楽ではありません - 知的でも、情動的でも、あるいは、ロマンチックでも、です。 それらは、真剣です。 そして、私が、講話をとおしてずっと、指摘してもよろしいならば、 私たちは、ともに探検し、 究明し、探究しつつあるのです。 語り手は、単に、幾つかの観念を、差し出しているだけではありません。 むしろ、私たちはともに、事実を観察しようとしています。 事実(ファクト)という言葉は、(語源的に、)以前にされてきて、 憶えられてきたことを、意味しています。 憶えられてきたことは、事実ではありませんが、 過去にされてきたことは、事実です。 そして、今、起きつつあることは、事実です。 「事実」(ファクト)という言葉は、(語源的に)それです。 過去の出来事 - 憶えていることなしに、と、 今、起きつつあること、です。 未来は、非事実です。 それは、望みです。それは、観念です。 それは、概念ですが、 実際に事実であるものは、 起きつつあることと、起きてきたことです。
4:07 私たちはともに、事実だけを、取り扱おうとしています。 概念、観念、推測を、ではありません - どれほど哲学的でも、 どれほど興味深くても、です。 私たちはともに、考慮しようとしています - 私たちが何であるかの事実、 私たちの回りで、世の中で、何が起きつつあるかの事実、 そして、私たちのほとんどが 自分自身に関心を持っているとの事実について、です。 そして、いかなる平和もない世界において、 こうも混沌、無秩序が、あります - 大きな危険、テロ、戦争の脅威、です。 これらは、すべて事実です。 そして、この世界において、 私たちの生の毎日を生きていて、 騒乱すべてが、ともない、 人がしなくてはいけない労働すべてが、ともない、 私たちが向き合わなくてはいけない問題すべてが、ともないますが、 平和に生きることは、そもそも可能ですか。 なぜなら、世界には、平和がないからです。 政治家たちは、それについて、話します。 カトリック教会の位階制度は、それについて、話します。 ヒンドゥー教徒と仏教徒もまた、そうです。 イスラム教徒すべてなども、そうですが、 実際に、平和はありません。 平和は、必要です - 成長するため、花開くため、理解するため、 あたりを見回す時間を持つため、 私たち自身を探検するため、 そこで見つけられるもののために、です。 私たちは、平和を持たなければなりません - 何かからの自由ではありません。 二つの戦争の間、 二つの喧嘩の間、 二つの問題の間の自由や、 身体的な寛ぎの感覚。 それは、平和ではありません。 平和は、何かはるかに根源的な、はるかに深いものです - 自分が持っているとか、自分が持っていると考える 表面的な自由より、です。
7:20 で、私たちは、ともにしようとしています - 今朝、午前の一部分、 二人の友として、一緒に話し合おうとしています - 平和に生きることが、可能であるのかどうかを、です。 内的、心理的にも、外的にも、です。 私たちは、平和がほしいかもしれませんし、 私たちは、平和を持つことの必要性が、見えるかもしれませんが、 私たちは、平和な生を生きません。 世界は、戦争の準備をしています。 イデオロギーが、互いに戦っています。 彼らは、人間を考慮しなくて、 権力の拡大などだけを、考慮します。 で、私たちは、平和のために、 政治家と政府を、とうてい頼みにできません。 それは、事実です。 彼らは、(ラテン語で)パーチェム・イン・テリス、 「地上の平和」について、話してきましたが、 地上の平和は、けっして、なかったのです。 反対に、宗教は、戦争をもたらすのを、助けてきました。 それについては、すっかりご存じです。 だから私は、それに入らないでしょう。 彼らは、拷問し、有罪宣告し、破門し、焼き殺してきました。 そのとき、次の瞬間、彼らは平和について、話します。 たぶん、仏教徒とヒンドゥー教徒、 古代の仏教徒とヒンドゥー教徒だけは、 彼らの宗教において、「殺すな」の格言を、 受け入れてきましたが、彼らは、殺すのです。 それは、またもや、観念だけです。 そして、イスラム世界は、彼らなるもので、満ちています。 それについては、すっかりご存じです。 書物の上に形成され、確立されている、それらの宗教は、 偏狭になります。 原理主義者です。 彼らはまた、世界のテロリストにも、なります。 そして、施設と財団、集団は、平和を、約束してきました。 が、それらもまた、平和を、与えません。
10:19 で、どこに平和を、見つけますか。 なぜなら、きわめて明らかに見えるにちがいないからです - すなわち、平和なしには、私たちは、動物に似ているし、 私たちは、互いに破壊し合っていることが、です。 私たちは、大地を、海洋を、大気を、破壊しています。 そして、政治的に、宗教的に、私たちは指導者を、頼みにします - 統合し、世界に平和をもたらすために、です。 が、彼らもまた、成功したことが、ありません。 政府、政治家、宗教者たち、 平和を探求している集団 - それらのどれ一つとして、人間たちに、 あなたと私、語り手に、平和を与えたことが、ありません。 で、私たちは、それをどこに見つけますか。 その根源的な必要性なしには、 私たちは、生のもっと大きな物事を、とうてい、理解できません。
11:48 で、ともに、私たちはこれに、入ろうとしています - 言語的に、ではなく、 知的に、ではなく、 人間として、私たち自身で見出すのです。 何の案内役もなく、何の指導役もなく、です。 なぜなら、それらはすべて、失敗してきたからです。 何の司祭者もなく、 何の心理学者もなく、 私たちは、世界に平和を、持てますか - 世界に、そして、私たちに、です。 初めに、私たちは、自分自身に平和を、持てますか。
12:45 「平和」という言葉は、なかなか錯綜した言葉です。 それへ、色々な意味を与えられます - 私たちの気分に、依存して、 私たちの知的な概念に依存して、 ロマンチックに、情動的に、 私たちは、それへ色々な意味を、与えられます。 しかし、私たちはともに、 色々な意味を、与えるのではなく、 その言葉と、その言葉の意義と深さを、了解する。 それは単に、何かからの自由だけではありません - 精神の平和、 物理的な平和だけではなく、 すべての葛藤が終わることです。 それが、本当の平和です。 私たち自身において、だけではなく、 私たちの隣人と、世界とも、です。 環境との平和、エコロジーと、 それら - 深く根づいた平和を、持つ。 揺るぎえなくて、表面的でなく、 過ぎゆくことでなく、時なき平和の深さ、です。
14:44 自らは、冥想をとおして、平和を探し求めてきました。 世界中で、それが、冥想の目的の一つであったのです。 しかし、冥想は、平和への探求ではありません。 冥想は、何かはるかに違ったものです。 私たちは、まもなくそれに、入るでしょう。
15:13 で、平和とは、何ですか。 私たちはどうやって、基盤を確立し、 敷くことができますか。それで、私たちが、その上に築くように、です - 心理的に言って、ですが。 理解されますか。 私たちは、ともに話し合っています。 私は、指摘していません。 語り手は、権威ではありません。 ともに話し合う中で、物事は、きわめて明らかになります。 私たちが、何の偏見もなく、 何の先入観もなく、話し合えるなら - 平和が何であるかの結論や概念を、持たずに、です - そのとき、私たちは、それにともに、入られます。 が、あなたが、平和について、意見を持っているなら - 平和が何であるべきかについて、です - そのとき、あなたの探究は、止まります。
16:39 意見は、何の価値もありません - 世界全体が、意見の上に営まれるのですが。 意見は、制限されています。 あなたの意見や、語り手の意見、 全体主義政府の意見や、 教会の人々と政府などの意見。 それらは、すべて制限されています。 あなたの判断と意見は、価値を与えますが、 それらはすべて、制限されています。 その言葉、制限されているとは、どういう意味かを、 私たちが理解することを、望みます。 あなたが、自分自身について、朝から夜まで、考えるとき - ほとんどの人々が、そうするように、です - それは、きわめて制限されています。 あなたが、自分はスイス人だ、と言うとき、 それは、きわめて制限されています。 または、あなたが、イギリス人であるのを、誇っているとき、です - まるで、自分たちは、神に選ばれた国民であるかのように、です。 それもまた、制限されています。
18:07 で、意見は、制限されています。 それが明らかに見えるとき、 意見に縋りつきません。 または、意見が創り出してきた価値に、です。 なぜなら、そのとき、他の意見に反する、あなたの意見は、 平和を、もたらさないからです。 それが、世界で起きつつあることです。 別のイデオロギーに反する、一つのイデオロギー - 共産主義、社会主義、 民主主義の、などです。 で、どうぞ、もう一度、繰り返していいのなら、理解してください - 私たちは、ともに話し合っていることを、です。 そして、あなたが、あなたの意見に、固執していて、 私は、私のに拘っているなら、 そのとき私たちは、けっして出会わないでしょう。 で、意見とその価値からの自由が、なければなりません それは、明らかですか。
19:23 私たちは、そこから、進めますか。 すなわち、あなたは実際に、自分の意見を、差し控えていて、 互いに叩き合うため、互いに殺し合うために、 それらを、斧として使っているのではないのです。 私が持っている意見は、制限されています。 ゆえにそれらは、必然的に葛藤を、もたらします。 あなたが、あなたの結論に、取りすがるなら - あなたの結論も、また制限されています - 他の一人は、自分の結論、自分の経験を保ちますが、 それらは、いつも制限されています。 そのとき、葛藤だけではなく、 戦争、破壊と、その他すべてが、あります。 あなたは、それが、きわめて明らかに見えるなら、 そのとき、意見は、きわめて表面的になります。 それらは、何の意味もありません。 で、どうぞ、あなたが、平和が何であるかと、 自分が平和に生きられるのかどうかを、探究しているとき、 それについて、意見を持たないでください。 自由に探究してください。 そして、その探究の中で、行為してください。 探究こそが、行為です。 あなたが、初めに探究し、それから行為する、のではない。 探究の過程の中で、あなたは、行為しています。 またもや、これが明らかであることを、望みます - すなわち、自由がなければならないのです。 それは、まさに平和の基礎です。 自由が、なければなりません - 意見の価値すべてから、です。 それで、私たちがともに、実際に、 理論的に、でなく、事実において、あなたと語り手が、 何の意見をも持たないよう、見届けられるように、です。 それは、ものすごい要求です。 なぜなら、私たちは、意見の上に、生きるからです。 すべての新聞、雑誌、書物は、 意見に基づいています。 誰かが、それを言います。 あなたは、同意します。 それは、あなたの意見でもあります。 他の一人は、他の本を読み、意見を形成します。 で、どうぞ、見出すには- 平和の真の意味と、 それの深みと、それの美しさと、 それの性質を、です - 偏見が、あってはなりません。 明白に、それが、第一の要求です - あなたは、平和を信用しなければならない、とか、 平和に生きることを、自分の人生目標にする、とか、 平和とは何かを、書物から、他人から探求する とかでなければならない、ということではない。 あなたの全存在が、平和に生きられるのかどうかを、 きわめて深く探究することです。
23:27 行為は、知覚より、分離していません。 あなたは、何かを真実だと見るとき、 その知覚こそが、行為です。 あなたが、知覚するか理解し、それから行為する、ということではありません。 それは、知的な概念ですし、 あなたは、その概念を行為に、移します。 見ることが、行為です。 世界が砕けてしまい、部族主義になっていることを、見ること - イギリス人、ドイツ人、ヒンドゥー教徒、仏教徒、スイス人、です - それらは、部族です。 その事実を、見る - それらは部族であり、 民族、国家として栄達しているが、 この部族主義は、世界に荒廃を、創り出していて、 世界に戦争をもたらしていることを、です。 各部族が、自分の文化を、他の文化に対立していると、考えます。 ですが、部族主義が、その根です。 文化が、ではありません。 で、それを観察する中に- それの事実を、です - 頭脳を、解き放つ行為が、あるのです - 部族主義の条件づけから、自由にするものが、です。 それは、明らかですか。 私たちは、私たち自身の間で、これを、明らかにしていますか。 すなわち、あなたが実際に見るとき - 理論的にとか、観念的に、ではなく、 事実として、です - すなわち、部族主義は、一定の利益を、含んできましたが、 それが、栄達した民族、国家として存在するとの事実こそが、 戦争の原因の一つであることを、です。 それは、事実です。 戦争の原因は他にも、あります - 経済など、です。 原因の一つは、部族主義です。 あなたは、それを見る、それを知覚するとき - それは、平和をもたらしえないのです - その知覚こそが、頭脳を、 部族主義の条件づけから、自由にします。 私たちは、一緒に、ここにいますか。 私たちは、ともに話し合っています。 語り手は、あなたを説得していません。 彼は、何についても、あなたを説得しようとしていません。 彼は、どの種類の宣伝をも、していません。 ですが、私たちは、ありのままの物事に、向き合っています - 真っ向から、です。 そして、世界中で、争いの要因の一つは、宗教です。 あなたは、カトリックです。私は、アラブ人、イスラム教徒などです。 二千年の観念、宣伝に基づいて、です。 ヒンドゥー教徒と仏教徒は、 三千年以上、五千年まで、ですが、 私たちは、コンピューターのように、プログラムされてきました。 どうぞ、事実を、見てください - すなわち、プログラムすることが、偉大な建築、偉大な絵画、 偉大な詠唱、音楽を、もたらしてきたことを、です。 が、それは人類に、平和を、もたらしてきませんでした。 それの事実を見るとき、あなたは、 どの宗教にも、所属していません - あなたは、ヒンドゥー教徒でも、仏教徒でも、 キリスト教徒でも、何物でもありません。 また、あなたが、分割が起きることを、見るとき - 同じ所に、半ダースの導師が、いるとき、ですが - 彼らが何をしているかを、ご存じでしょう。 彼らは、悲惨、矛盾、葛藤を、もたらします。 「あなたの導師のほうが、私のより、良い」。 「私の集団のほうが、あなたのより、神聖になっている」。 「私は、イニシエーションを受けたが、あなたは、受けていない」と。 進んでいる戯言すべてを、ご存じです。 で、このすべてを、実際の事実として、見るとき - それは、あなたのまわりで、そうなのです - そのとき、あなたはどの集団にも、所属していません - どの導師にも、どの宗教にも、 どの観念の政治的な参与にも、です。 どうぞ、これは、きわめて深刻です - あなたが本当にそうしたいなら、です。 そして、平和に生きたいとの切実さ、です。 このすべてからの自由が、なければなりません なぜなら、それらは、不和、分割の原因であるからです。 真理は、あなたのや、私のではありません。 それは、どの教会にも、どの集団にも、 どの宗教にも、所属していません。 それを発見するには、頭脳は、自由でなければなりません。 そして、自由があるとき、平和は、存在できるだけです - この誤謬からの(自由が)、です。 私たちはここまで、一緒にいますか- 知的にさえも、です。 そうね、私たちのほとんどにとって、 物事について、こうも徹底的であることは、 とても困難ですね。 なぜなら、私たちは、幻影の物事に安全を、得てきたからです - 事実でない物事に、です。 それらを手放すことは、とても困難です。 それは、意志を行使する事態ではありません。 「私は何にも所属すまい」と判断を下すことの(事態)、でもありません。 それは、もう一つの誤謬です。 私たちは、何かへ参与します - 集団へ、観念へ、宗教的ないかさまへ、です。 なぜなら、私たちは、自分たちにとって、 或る種の安全があると、考えるからです。 これらすべての物事に、安全は、ありません。 ゆえに、平和は、ありません。 頭脳は、安全でなければなりません。 自らの思考をともなった頭脳は、 幻影である物事に、安全を探し求めてきました。
32:31 で、それからの自由、です。 あなたは、それをできますか。 あなたは、自分が、平和の中に生きなければならないことを、 ほしがったり、渇望したり、要求したりするほど、真剣ですか。 または、今朝だけ、 おそらく、語り手により説得されて、 あなたは、「はい、私はそれらを理解しますが・・・」と言います。 「でも、でも、でも・・・」と。
33:20 で、私たちは、二人の友人として、ともに話し合っているとき、 それが、二人の友人として、起きつつあることです。 あなたたちは多いけれども、 私たちは、友だちです- あなたと語り手は。 二人の友として - 賛成や反対の説得をしていない、 互いに、何らかのことへ参与するよう、頼んでいない者として、です。 (頼んでいる)それなら、彼らは、友だちではありません。 二人の友だちとして、 互いに訊ねています - 自らが平和に生きることは、可能ですか - 自らの生の全存在にとって、です。 折々に、ではなく、 あなたが、何もすることがないとき、 あなたが、管により、仕切り席により、テレビにより、 捕らわれているときに、ではないのです。 それらは、すべて表面的な息抜きです。 が、単一の葛藤もなく、単一の問題もなく、生きる。 問題がない、ということではない。 それらは、あります。 しかし、それらの問題は、解決されつつありません。 なぜなら、私たちが、それらの問題を作る者であるからです。 これらを理解なさるのかどうかと、思われます。
35:36 まず第一に、頭脳は - 私たちは、それについて話すでしょう。 私は、語り手は、専門家ではありません。 彼は、多くの科学者と、この事柄について、議論してきました。 科学者たちが言うことをも、また受け入れないでください。 自分自身で発見するほうが、はるかに重要です - 自分の頭脳が、いかに行為しているかを、です。 熟達者、専門職、科学者から、 頭脳が何であるかを、言われるのより、です。 私たちが持っている、たった一つの道具は、思考をともなった頭脳です。 自らの思考をともなったその頭脳は、 世界に平和を、もたらしてきませんでした - 世界にも、自分自身にも、です。 それは、またもや、事実です。 思考であるその道具は、 その繋ぎ縄の端、その終わりに、到ってしまったのです。 私たちは、今すぐそれに、入るでしょう。
37:10 それで、どこを探検しますか。 また、探検するには、 私たちは、探検者が誰であるのかも、きわめて明らかでなければなりません。 そして、探検されつつあるものが(何であるかも)、です。 これは、明らかですか。 私が、平和は何であるかを、探検しているなら、 そのとき、「私」は、探検されつつあるものより、分離しています。 それで、分割があります。 探究自体に、分割があるところ、 葛藤があるにちがいありません。 私たちは、それを明らかにしつつありますか。 どうぞ、これは、知的なゲームではありません。 本当に、平和の深さを、見出すことです - そして、それの大いなる意義すべて、 それの分岐、それの拡大を、です。 それは、私たちがまさに始まりから 理解するときだけ、見つけられます - すなわち、探検者は、探検されるものであることを、です。 探検者は、彼が探検しつつあるものより、異なっていないのです。 これは、私たちのほとんどにとって、受け入れることが、困難です - 知的にか、あるいは、実際に、です。 なぜなら、私たちの条件づけは、こうも強いからです。 子どもの頃から、この分割は、存在します - 観察者と観察されるもの、 検討者と検討されるもの、 究明者 - 自分は、自分が究明しつつあるものより、 分離していると、考える者、です。 これが、私たちの条件づけです。 このとおりです。 これは、事実です。 それで、私たちは、永続的な葛藤の中に、生きます。 なぜなら、分割が、あるところ - カトリック、プロテスタントの間、 イスラム教徒、仏教徒の間、 アラブ人、ユダヤ人、その他すべての間に、です。 どこでも、分割があるところ- 内的にでも、外的にでも - 葛藤が、あるにちがいないのです。 あなたが、葛藤の中に生きたいのなら、 それは、あなたの用件です。 良い時をお過ごしください。 それを楽しんでください - その面白さとその痛みを、です。 ですが、あなたが、どう平和に生きるかを、発見したいなら、 あなたは、この基礎的な事実を、理解しなければなりません - すなわち、探検者は、自分自身の中で、探検している - 自分自身の外側の何かを、ではないのです。 彼は、自分の構造を探検しています - 自分の活動、自分の思考の動き、 自分の記憶を、です。 彼は、そのすべてです。 あなたが、自分は記憶の動きであることを、 観察したことがあるのかどうかと、思われます。 理解されますか。 記憶は、憶えておく能力、 時の機能です。 それは、出来事の持続です - すなわち、五十年前か、 昨日、起きたかもしれないこと(の持続)です。 その出来事は過ぎましたが、 その出来事を憶えておく機能が、記憶です。 私たちは、記憶にのって生きます - 動きが変化し、反応し、 常にそれ自体を形作っています。 私たちは、それです。 それを悟られるのかどうかと、思われます。 私たちは、前進は記憶の拡大であると、考えます - それの継続、それが高まることである、と。 コンピューターのように、です。
42:59 あなたが、コンピューターの問いに 入ったことがあるのかどうか、私は、知りません。 あなたたちの何人かは、それが、あるかもしれません。 それは、なかなか興味深い。 コンピューターは、憶えておく機械です。 それは、記憶するでしょう。 すなわち、 それは、専門家によりプログラムされつつあります。 何百万のメモリが、保たれるのか、私は知りません - 爪の大きさに、です。 彼らは、とてつもないことを、しています。 私は、彼らの何人かに、話をしてきました。 これを理解されますか。 それらは、人の活動に、取って代わろうとしています。 それらは、車を製造するでしょう。 それらは、発明するでしょう。 次々、代替わりする世代が、前のより、良い。 それらは、詩歌を書かないかもしれません。 たぶん書くのでしょう。 それらは、ベートーヴェンの音楽を書かないかもしれません。 たぶんそれらは、ジャズを、とてもうまくやるでしょう。 で、コンピューターと呼ばれる、この機械でもって、 あなたの頭脳に、何が起きようとしていますか。 どうぞ、これを真剣に考慮してください。後生ですから。 これは、脅迫ではありません。 私たちは、コンピューターの偉大な開発者の何人かと、 これについて、話してきました。 そして、彼らの進歩について、です。 彼らは、人間の頭脳に、何が起きようとしているかを、考慮しません。 彼らはただ、進歩に、関心を、持っているだけです - コンピューターの速さ、速度に、です。 私たちは、いつか他の時、それについて、話すでしょうし、 私たちは、それに入るでしょう。
45:25 しかし、私たちは、こう言いました- 記憶があるかぎり・・・ それは、前に起きてきたことを憶えておく機能ですし、 テクノロジーと物理的な世界において、それは必要ですが、 私たちは、自分たちがそうであるのを、発見するので・・・ すみません。私は、ひどい風邪を、引きました。 私たちは、自分たちが時の中の動きであることを、発見するとき - すなわち、記憶の動きであるのを、です - 平和は、記憶にありますか。 質問を理解されますか。 自分は、日々、夜、朝を、憶えていられます - 平和のとてつもない深さと美しさを、見たときを、です。 その知覚、一分間の、その気づきは去ってしまいましたが、 それを憶えています。 憶えておくことは、非事実です。 それで、私たちは記憶の中に、生きています - すなわち、死んだ、去った、終了したものに、です。ですね? どうぞ、それは、憂鬱とか、不条理なこと、 あなたがこれらに、背を向けるべきことではありません。 記憶が私たちに、何をするかを、見てください。 記憶は、私がヒンドゥーとして、プログラムされていることです - 進んでいる、そのすべてのばかげた戯言をともない、 自分の文化は、他のどの文化より、良い。 なぜなら、それは、三千年以上ほども、あるから、と考えて、です。 私は、大きな誇りを持ちます。 そして、あなたたちのは、相当に近頃の(文化)です。 あなたは、条件づけられています - 語り手が、条件づけられているように、です。 彼が条件づけられているなら、です。 すなわち、条件づけは、記憶です。 非事実です。 それで、私は自分の記憶に、拘ります。 すなわち、死んだものに、です。 そして、あなたは、自分の記憶に、拘ります - キリスト教徒として、ヒンドゥー教徒として、です。 そうね、アラブ人やスイス人としてとか、他の何でも、です。
49:05 そしてまた、 私たちは、記憶を持たなければなりません。 もしあなたが、記憶を持っていないなら、 ここから、あなたの自宅へ行けません。 あなたは、車を運転するなら、記憶を、持たなければなりません。 あなたが、テクノロジーの世界に、いるなら、 あなたは、自分の記憶において、最高に有能でなければなりません。 さもないと、あなたは職を、失うでしょう。 ですが、私たちは、心理的な記憶について、話しています - 快と不快の、痛いとか 喜ばしい経験、 心理的なことについて、です。 で、記憶は、条件づける要因です。ですね? どうぞ、それの事実を、見てください。 事実についての私の説明を、ではない。 私たちの困難の一つは、私たちが、 事実より、むしろ説明が好きであることです。 なぜ一定の政府は、そのように振るまっているのか。 そして、ジャーナリストなどは、それを説明します。 私たちは、説明、論理、理由などを、受け入れます。 叙述は、事実ではありません。 山の絵は、絵がどれほど美しかろうと、 山ではありません。 美術館の絵画すべては、 それらの幾つかは、とてつもなく美しいが、 それらの絵画は、彼らが表示したいもの、 何か、彼らが見てきたものではありません。 あなたは、小説を読みます。 それは、名作です- そうであるなら、です。 そして、すべての想像、ロマンチックな事柄、セックスなど、 優秀な有名な著者により、書かれています。 またもや、それは、あなたの生ではありません。 あなたの生は、ここにあります。 で、どう平和に生きるかを、見出す。 方法ではなく、体系ではない。 あなたが、「どうやって」と言うとき、それは、間違った問いです。
52:07 で、私たちはもっと、それに入ろうとしています。 葛藤の原因は、何ですか。 それを、私たちのみんなが、持っています。 それの根は、何ですか。 すべての問題の根は、何ですか。 それが、宗教的な問題でも、 冥想の問題、関係の問題、 政治的な問題、宗教的な問題でも、です。 「問題」(プロブレム)という言葉の意味は - その言葉の根本の意味は、何か、あなたに投げつけられたものです。 たぶん、何か、あなたに、放りつけられたものです。 問題は、挑戦です。 ですね? あなたが、問題と呼ばれる、そのものに、 自分の記憶から、応答するなら、 そのとき、あなたの記憶は、問題に答えないでしょう。 なぜなら、あなたの記憶は、生きていない。 それらは、死んでいるからです。 これの意義を、理解されますか。 すなわち、私たちは、死んだものとともに生きるのです。 私の息子、兄弟、おば、おじの、または何であろうと、 その写真が、(暖炉の)マントルピースの上に、あります。 彼は、死んで、逝ってしまいました。 彼はけっして、戻ってこられません - 物理的に、彼は去ってしまいました。 火葬されたか、埋葬されたか、何がされるにしても、です。 しかし、私は、その写真を、持っています - 去ってしまった何かを、常に憶えている。 私は、そのロマンチックな、幻影の、追憶の関係を、保ちつづけます。 どうぞ、このすべての重要性を、見てください。 で、私たちの頭脳は、けっして、明らかではありません。 それはいつも、記憶の分野の中で、機能しています。 そして、大いなる豊富さ、 流れる平和の感覚をもって生きるには、 過去からの自由が、なければなりません。 すなわち、記憶から、ですね。 記憶は - どうあなたの家へ帰るのかとか、 言語を学ぶ、話すのかとか、ではない。 もしも私が今、英語の記憶がなかったなら、私はあなたに話せないでしょう。 あなたは、こいつが何を語りかけてくるかを、理解できないでしょう。 こいつが何を語りかけているかをも、理解なさるのかどうかと、思われます。 なぜ頭脳は、記憶として死んだものに、取りすがるのか。
55:43 頭脳の機能とは、何ですか。 科学者たちは、それについて幾つものことを、言っています。 一方は、この種類の活動です。 他方は、まだ、目覚めていません。 または、目覚めていて、他方に影響している、などです。 が、あなたが自分自身を、健全に探究するなら - 神経症的に、ではなく、自己中心的に、ではなく、です。 あなたが、自己中心的であり、それを探究しているなら、 あなたはやはり、頭脳を、自己中心的であるよう、条件づけるでしょう。 で、頭脳の機能は、何ですか。 それの主要な機能の一つは、 物理的なものに、生きることであり、 物理的な世界を整備することであるのは、分かります。ですね? ですが、その頭脳こそは、世界に混沌を、もたらしてきたのです。 すなわち、頭脳の活動は、 思考の根と始まりですが、 それは、私たちが作動するための道具です - 思考が、です。 それが、頭脳の主要な機能です。 その機能は、世界に、こうも、とてつもない荒廃を、 無秩序を、創り出してきました。 また、その頭脳こそが、保健、通信、 その他すべてを、もたらしてきました。 医療、大きな外科手術を、です。 インドから、世界の裏側に、 カリフォルニアに通信するには、 交換手が、怠けすぎていないなら、 二、三分が、掛かります。 そして、接続されます。 もちろん、それは、思考ほど急速ではありません。 で、テクノロジーは、駆け足で前進しつつあります - ものすごい速度で、です。 そのテクノロジーこそもまた、世界に荒廃を、創り出しつつあります - 原子爆弾のように、です。 これらを理解されますか。 二つの大国は - なぜ、それらが大国と呼ばれるのかを、私は知りません。 (アメリカとソ連)それらは、二つの白痴的な大国ですが、 話しています・・・そうね、互いに殺し合おうとしています。 最新の爆弾でもって、ですね。 それは、思考がしてきたことです 頭脳の能力の一つであって、です。 また、思考は、すばらしい、壮麗な大聖堂を、 創り出してきました。 また、その内側にある、あれらの物事すべてをも、です。 それらは、神が授けたとか、神秘的にもたらされた何かではありません。 すべての衣装と司祭者たちの罠は、 思考の結果です - 古代エジプト人などからずっと、真似しています。 理解されますか。世界で思考が、何をしているのかを、見てください。 そして、私たちは、私たちの頭脳は、時をとおして、 進化してきました - 果てしなく世代に次ぐ世代、です。 その頭脳が、これらをしています - 創造し、破壊しています。ですね? 私たちは、この生きる道を、受け入れます。 私たちはけっして、見出すように、自分自身に挑戦したことが、ありません。 私たちは、自分自身に訊ねたことが、ありません - なぜ私たちは、外側で、この混沌の世界に、生きるのか、 そして内的に、内的な混沌に(生きるのか)、です。 外側の世界に秩序を持つには、私たちに、秩序が なければならないことを、私たちは、けっして悟りません。 私たちの家は、初めに、きれいにすべき、最も重要なものです - 私たちの回りの世界ではなくて、です。 一定の物事は、必要です - 鯨を殺さないため、自然を保護するための組織、 もっともっと多くの石油を探し求めて、 大地を破壊しないための組織のように、です。 何が起きつつあるかを、ご存じです。 腐った政府 - 私たちはみんな、それらに責任が、あります。 で、頭脳の深い、根源的な機能は、何ですか。
1:02:22 あなた自身にこの質問を、してください。 私は、もう五分間を、持っています。 もしもあなたが、自分自身にその質問をしたのなら - 他の人たちが言うことに、 彼らの答え、彼らの観念と仮説と理論に、依存しないで、です。 あなたが、根源的な活動を、きわめて深く 探究しはじめるとき- それは、本質的です - それは、何をしているのか、それは、何がほしいのかを、です。 理解されますか。 それは、生存だけですか。 ここで、この国では、あなたたちは、きわめてよく生存します。 それは、生存だけですか。 この永続的な葛藤、分割、喧嘩の中に、生きるためだけですか。 それは、自体の条件づけの中で、行為し、機能するためですか。 それは、何かの形の幻影の中に、永続的に、生きるため、 ゆえに、いつも、わずかに神経症で、不均衡であるためですか - ほとんどの人々が、そうであるように、です。 それが、これらの物事のどの一つでもないなら - 明白にそうです - そのとき、その機能は何ですか。 どうぞ、私たちは、自分自身にこの質問をしています。 私は・・・語り手は、あなたにその問いを、出していません。 そして、あなたは、彼の答えを、待つのではありません。 私たちは、それに入るでしょう。 私たちは、きわめて深く、それに、入るでしょう。 が、あなたは、彼が自分に語ってくれるのを、待てません。 そのとき、それはまるで・・・そのときそれは、何でもありません。 それは、他のどの観念とも同じです。 ですが、あなたが本当に、 頭脳の深い機能が、何であるかを、見出したいのなら - そして、頭脳は精神より、異なっているのか。 または、それらは、どちらも同じですか。 または、頭脳が、徹底的に、完全に、条件づけを解かれるとき、 そのとき、精神は、頭脳に対して、行為できます。 これらに、私たちは、入るでしょうが、 自らは、きわめて明らかでなければなりません - その物理的な、必要な活動がどこで、存在しなければならないのか。 テクノロジー的な、物理的なこと、 生計を立てることなど、そこでは存在しなければなりません。 それは、その大いなる活動の一つです。 しかし、他の活動が、それに反対しているなら、 そのとき、永続的な不均衡が、あるにちがいありません。
1:06:38 で、初めのことは、頭脳が条件づけを 解かれうるのかどうかを、見出すことです。 私たちは、先日、幾人かの科学者、博士と その他すべてに、話していました。 神様、世界には、何と多くの専門家が、いるのでしょうか。 自分がそうでないことが、ありがたいです。 自分は、普通の人物だけですし、 その他すべて、です。 私たちは、この事実について、議論していました。 二ヶ月前に、ニューヨークで、です。 脳細胞は、条件づけられていますが、 それらの脳細胞は、それら自体に変異を、もたらしうるのかどうか、です - 遺伝子的に、とそれらのことではなく、 生きる中、日々生きる中で、 脳細胞に、変異がありえますか。 ないなら、私たちは永遠に、自分の条件づけの中に、 ゆえに、永続的な葛藤の中に生きるよう、宣告されています - ゆえに、平和が、まったくないのです。ですね? で、どうぞ、私たちは今、止めなければなりません。 私たちは明日、つづけて、 頭脳の深い機能が、何であるかを、探究するでしょう。
1:08:56 立ち上がってもいいですか。