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SA83T2 - 頭脳の機能
公開講話、第2回
スイス、サーネン
1983年7月12日



1:27 私たちが日曜日に、止めたところから、つづけてもいいですか。
1:40 私たちは、平和について話していました - この地上に、何千年、何万年もの間、 生きてきた人間たちは、なぜ、 まったく平和を持ってこなかったのか、です。 無数の戦争が、あったのです。 たぶん、もっと多くの戦争が、あるでしょう。 そして、私たちが取得してきたテクノロジー的な知識すべてと、 平和についての宗教の抗議すべてを、もってしても - パーチェム・イン・テリス(地上の平和)、です - なぜ私たちは、まったく、平和を持っていないのか、です。 世界で外的に、あるいは、内的にも、です。 私たちが創り出してきた世界、 私たちが生きるところの社会は、 人により、私たちのみんなにより、組み立てられています - 過去の世代により、 そして、たぶん、未来の世代から、です。 私たちは、とても危険で、不確実で、 不安全な世界に、生きます。 地上には、平和がないように、思われます。 なぜですか。
3:35 私たちは、それに入りました。 ともに話し合いました。 ともに、と本気で申しています。 語り手が、何かを言い、 あなたが、それに同意、あるいは、不同意をするのではない。 むしろともに、です。 あなたと語り手は、 ともに探検します- なぜ人間たちは、 見たところ、こうも利巧で、 こうも智恵がありますが - 私は、それを疑います - なぜ彼らは、私たちみんなが平和に生きられる世界を、 創り出してこなかったのか、です。 私たちは、その質問をしたことがあるのかどうかと、思われます - 自分自身と、世の中に、 政治家、宗教などに、です。
4:47 それを、ともに話し合って、 私たちは、一昨日、一定の点に、来ました - 頭脳の根源的な機能は、何ですか。 それが、私たちが止めたところであると、思います。 なぜ頭脳は、幾千年に幾千年もの間、 進化してきましたし、 それは、あらゆる種類のものすごい経験を、してきました - 悲しみ、楽しみと、 不確実性、死、ですが、 なぜ、そういう頭脳は、この問題を、解決したことがないのか、です。 そして、誰が、問題を解決しようとしていますか。 指導者ですか。 新しい指導者ですか。 新しい政治家ですか。 新しい司祭者ですか。 新しいイデオロギーですか。 私たちは、そのすべてを試してきました。 人は、あらゆる道を、試してきました - 世界に、平和をもたらすために、 そしてまた、自分自身に平和を、もたらすためにも、です。 そして、頭脳は、 とても複雑な事柄ですが、 それは、とてつもないテクノロジーの前進の能力が、あります。 けれども、その頭脳こそが、とても原始的に、なってしまいました。 自らの問題のどれをも、解決したことが、ありません。
7:23 あなたが気にされないことを、望みます。
7:34 頭脳の機能は、何ですか。 ただ、このように生きつづけるためですか。 あらゆる分野で、 大変な知識を取得して、 互いに破壊し合うために、その知識を使う - 大地を、自然、そのすべてを 破壊するために、です。 私たちは、みんな、これをよくよく知っています。 そして、訊ねます - 自分がそもそも真剣であるなら、です。 そして、私たちは、ここにいます。 真剣である人々の集会、と私は望みます。 気軽な訪問客ではなく、 生を真剣に捉えている人たち、です。 彼らは、必然的に訊ねなければなりません - 頭脳の機能は、何ですか。 私たちのほとんどは、自分自身に、関心を持っているだけです - 私たちが、そもそも率直で、正直であるなら、です。 私たちは、自分自身に、関心を持っています。 自己利益(利己)です。 最高の範疇の人々、 知識人などから、 最も原始的な人々まで、 教育された者たちと、教育されていない者たち、 洗練された者たちと、宗教的な人々 - 彼らは、自分自身を、何か尊いものと同一視するかもしれませんが、 その同一視こそが、自己利益の一部です。 そして、頭脳、私たちの頭脳は、 それにだけ、関心を持っています - 個人的な問題、 数学の問題、 コンピューターの問題などです。 しかし、基本的に、私たちは、自分自身に、関心を持っています。 それは、事実です。 ですね? 私たちは、どれほど自己利益を、尊い仕事に、隠そうとしても - 冥想において、 様々な集団に所属する中で、ですが、 自己利益(利己)が、支配します - 意識的にか、無意識的に、です。 あなたが、正直であり、 私たち自身と、私たちの活動を、覗きみるなら - 政治的、宗教的などの(活動)を、ですが - 私たちは、基本的に、自分自身に関心を持っているだけです。 私たちは、そのように生きてきました - 時の始まりからです。 私たちは、いまだに、そのように生きています。 それで、頭脳は、きわめて小さな制限された分野で、機能するだけです。
12:01 すみません。 ご辛抱を。
12:22 それが、頭脳のすべての機能ですか - それ自身に、関心を持つこと、 自分の問題に、 自分の楽しみと悲しみと痛み、 野心、貪欲などに(関心を)、です。 それが、私たちが生きてきた道です。 そして、世界でのそれの結果は、混沌です。 一人一人が、充足したい、 達成したいのです - 啓明でも、覚りでも、 または、大実業家になることでも、です。 それは、同じことです。 で、私たちは、自らの頭脳を、縮減してきました - それは、とてつもない器具ですが、 何か、こうも些細なものに、されたのです。 私たちは、その頭脳を、還元し、きわめて制限してきたのです。 それは、テクノロジーの世界では、とてつもなく有能なのかもしれません - 彼らが創り出してきた、すばらしい道具、 戦争の兵器、外科手術の器具、 医薬、通信、コンピューター。 そこで頭脳は、とてつもない活力をもって、 とてつもない能力をもって、機動してきました。 まさにその頭脳は、 自分の自己保護的活動に、関心を持っているだけです。 これは、すべて、明白な事実です。 私たちは、事実を取り扱っているだけです - 理想を、ではなく、観念を、ではなく、 理論を、ではなく、事実を、です。 私たちが先日、説明しましたように、 事実(ファクト)は、何か過去になされてきて、 憶えられていること、 何か今、なされつつあることです。 それらが、事実です。 それらの事実から、私たちは観念を、抽象します - 結論を、 強い意見を、です。 それらは、事実とは、何の関わりをも、持ちません。
15:50 で、頭脳は、事実の上に、ではなく、記憶の上に、生きます。 これを理解することは、とても重要です。 私たちは、 頭脳の機能が何であるかを、 ともに探検しようとしているなら、 透徹できて、自らの深い機能を見出せる、 頭脳の深い性質は、何ですか。 私たちは、事実だけを、取り扱っています - すなわち、私たちは、 一連の記憶の動きであるのです。 私たちは先日、それについて、話しました。 記憶です。 すなわち、憶えておく能力です。 起きてきたことを憶えておくこと、 そして、今、起きつつあること、です。 それで、記憶は、とてつもなく重要になったのです - それは、事実とは、何の関わりも、ありません。 私の息子は、死にました。 彼は、逝ってしまいました。 私は憶えています。ただ憶えておくことだけが、あります。 それら憶えたことの上に、私は生きます。 それらの記憶の上で、 私たちが一緒にした、それらの出来事の上に、です 私は、それらの記憶を、大切にします。ですね? どうぞ、あなたは、これをしています。 私はあなたに、何かあなたがしていないことを、語っていません。
18:02 で、私たちは、一連の記憶と時の動きです。 記憶は、時です。 ですね? 記憶は、経験、知識の反応、 そして、自らが憶えてきたことの(反応)です。 これが、自己なるもの、私たちなるものです。
18:43 あなたが探究したことがあるのかどうかを、私は知りません - 現在とは何ですか、「今」とは何ですか。 それは、記憶の終止ですか。 または、私たちは、今がそもそも何であるかを、知りません。 私は少し、これに入ってもいいですか。
19:25 0は、すべての数を、収容しています - 数学的に、です。 0は、古代ヒンドゥーにより、創案されました。 0には、すべての数が、収容されています。 「今」は - どうぞ、聞いてください - 「今」は、 すべての時の総体ですか。 私たちは、さらにこれに、入るでしょう。 で、頭脳は、自己利益を養成してきました - それは、記憶の蓄積です - それで、頭脳は、 とても小さい心理的な道具に、なったのです。 明白です。 私が、一日中、自分自身について、考えているとき、 それは、とても小さい事柄です。 または、私が、全世界について、考えるとき、 それもやはり、小さな事柄です。 理解なさるのかどうか、私は知りません。 私たちは、一緒に動いていますか。そう望みます。 よろしいですか。
21:21 それで、 なぜ頭脳は、自己のこの狭い円環に、捕らわれたのでしょうか。 自己、「私」、自我と、それらは、 言葉と記憶以外の何物でもありません。 ですね?そうなのです。 その自己は、こうもひどく重要になったのです。 自らが、自分自身に、関心を持っているとき、 私たちの行為すべてが、心理的に、制限されるにちがいありません。 そして、制限が、あるところ、葛藤が、あるにちがいありません。 私は、ユダヤ人です。 あなたは、アラブ人です。 それは、制限です。 制限されている部族主義です。 そして、私は、自分の制限に、縋りつきます。 あなたは、自分の制限に、縋りつきます。 ゆえに、永続的な葛藤です。 もしあなたが、常に、「私はロシア人だ」と、反復していて、 その特定の国と、同一視する - その国の伝統、言語とすべての文学と、同一視するなら、 それは、きわめて制限されています。 で、私たちは、頭脳を縮減してきました。 自己に安全を探し求めている頭脳は、 それ自体を、制限してきました- 心理的に、です。 で、矛盾が、あります - 心理的な制限と、 とてつもない無制限のテクノロジーの前進との間に、です。 これが、頭脳の機能ですか - 永続的に葛藤の中に、生きることが、ですか。 ゆえに、 けっして、解放、自由が、ありません。 これが、頭脳の機能ですか - 心理的に、小さな区域に、生きることだけが、ですか。 それは、可能ですか。 自らが、自己の本性を理解するとき - 私たちが、短く説明したように、です - この制限を崩してしまうことは、可能ですか。 そして、それを崩してしまうことになるのは、誰ですか。理解されますか。 この制限は、思考により、もたらされてきました。 制限の中に、安全を創り出してきたか、 探し求めてきた思考によって、です。 そして、思考自体が、制限されています。 なぜなら、思考は、広大な経験より、出てきたものであるからです。 - 蓄積された知識、 頭脳に、脳細胞こそに、蓄えられたものより、です。 語り手は、専門家ではありませんが、 よく気をつけて、見守ってきました。 そして、思考は、記憶より出てきたものです。ですね? 記憶は制限されているので、 知識は、いつも、制限されているでしょう。 そして、経験は、けっして完全ではありません。理解されますか。
26:53 で、頭脳は、たった一つの道具でもって、機能しています - 制限された思考でもって、です。 これは、明らかですか。 私たちは、一緒に動いていますか。 それで、私たちは、永続的に、葛藤の中に、生きています - 闘争の中、痛みと悲しみの中に、です。 なぜなら、私たちは、制限の中、記憶などの中に、 安全を、探し求めるからです。 それは、単純です。 で、それが、頭脳の機能ですか - 安全、生存、物理的な生存を、見つけることが、です。 物理的には、生存しなければなりません。 もちろん、自分が少し、気がふれていないなら、です。 そのとき、それは違った事態です。 が、自らは、物理的な安全を、探し求めます。 そしてまた、心理的な安全をも、です。 そもそも、心理的な安全が、ありますか。 どうぞ、これを受け入れないでください。 よく気をつけて、語り手とともに、それに入ってください。 ともに、私たちは、検討しています。 私たちは、あなたに、何一つ、賦課していません。 私たちは、あなたに、何をも説得しようとしていません。 私は本気で、こう言っています。 私たちは、あなたを、何か哲学へ、改宗させようとしていません - それは、恐怖です。 で、私たちは、ともに歩んでいます。 おそらく、手に手を取って、 小道を、です。 陰が多く、木漏れ日に満ちている。 そして、私たちのまわりの、大地の美しさ、です。 私たちは、真剣なことについて、話しています - 些細な小さなことについて、ではありません。 なぜなら、私たちは、どちらも真剣であるからです。 そして、私たちは、こう言います - これが、私たちが自分の生を、還元してしまったものですか - ただ、制限の中に、自分の安全を、探し求めるだけですか。 そして、物理的に、 何も安全は、ありません。 戦争のため、 人種的、部族的な抗争、 イデオロギー的な抗争のために、です - (共産主義の)ロシア人、全体主義者と、 いわゆる民主主義者、 西側と東側の間で、です。 彼らは、戦争の準備をしています- それらは、ご存知です。 もちろん、彼らは、聞き入れないでしょう。 あなたは、政治家に話せません。 なぜなら、彼らは、自分の地位を保全することに、 関心を持っているからです - そうね、その他すべて、です。
30:48 で、私たちは、訊ねています。 それが、頭脳のたった一つの機能ですか - 制限の中に、安全を探し求めることが、です。 それが、私たちがしていることです。 そして、制限の中での安全への探求の中で、 私たちは世界に、荒廃をもたらしつつあります - こうも大きな無秩序、混乱を、です。 それは、またもや明白です。
31:30 さて、 思考の機能は、何ですか。 なぜなら、それは、頭脳が持っている、ただ一つの道具であるからです。 私たちは、ここに一緒にいますか。どうぞ。 思考の機能とは、何ですか。 思考とは、何ですか。 考えるとは、何ですか。 私たちは、みんな考えます - あなたが、高度な教育を受けて、洗練されていても、 または、最も無教育な人物であって、 空腹で、ほとんど食べ物がない、その他すべてでも、 彼もまた、考えます。 洗練された人、教育ある人、 いろいろと明らかに表現できる、高度な教育を受けた人物 - 彼は、考えます。 そして、そうでない人物- 彼もまた、考えます。 で、考えることは、私たちみんなにとって、共通です。ですね? それは、あなたが考えることではありません。 あなたは、違ったように、考えて、それを表現するかもしれません。 あなたは、芸術家であるかもしれません。 あなたは、数学者、生物学者などであるかもしれません。 私は、素人であるかもしれませんが、私たちはどちらも、考えます。 で、考えることは、あなたのではありません。 考えるのは、個人的ではありません。 どうぞ、これは、理解すべき根源的なことです。 けれども、これが、私たちがしていることです。 「これが、私が考えることだ。 私の意見、私の判断、私の意見の評価だ」と。 私たちに何が起きつつあるのかを、見てください。 私たちは、考える広大な過程全体を、私のに、還元してしまいました。ですね?
34:03 また私たちは、探究すべきです - あなたの頭脳が、他の一つより分離しているのかどうかを、です。 どうぞ・・・私たちはゆっくり、それに、入るでしょう。 辛抱強くあってください。 または、自分の特定の視点に、縋りつかないでください。 頭脳は、時をとおして、進化してきました - 何千年に何千年に何千年の経験、知識をとおし、 世の中の思考の活動すべてをとおして、です。 テクノロジー的に、人格的に、それらです - 考える。 そして、私たちは、「それは、私の頭脳です - それをとおして、私が考えるものです」と言います。 そのとおりですか。 あなたの頭脳は、あなたのですか。 または、それは、何千年の進化の結果ですか。 で、それは、あなたの頭脳や、私の頭脳ではありません。 それは、頭脳です。 これの深さを、ご覧になるのかどうかと、思われます。 そして、頭脳は、私たちの意識の中心です。 ですね? 私たちの意識とは、何ですか。 専門家に沿って、ではなく、 あなたが、自分自身にその質問をするとき、です。 あなたの意識 - それは、何ですか。 あなたの信念、 あなたの結論、 あなたの意見、 あなたが二千年、プログラムされたこと - キリスト教徒として、です。 または、ヒンドゥーとして、五千年などですね。 あなたの意識は、反応、反射、 恐れ、楽しみ、悲しみ、痛み、 嘆きと、人間たちの悲惨すべてです。 ですね? それが、あなたの意識です。 あなたの意識は、他の一つより、異なっていますか。 または、あなたの意識は、 人類すべての意識に、似ていますか。 なぜなら、彼らは、苦しむからです - ロシアでも、インドでも、シナでも、です。 彼らは、違った外的な衣類を、纏っているかもしれません。 環境は、違っているかもしれませんが、 心理的に、 私たちの意識の内容は、共通しています。 それは、すべての人間が分かち合っています。ですね? で、あなたの頭脳と、あなたの意識は すべての人間が分かち合っています。 で、あなたは、残りの人類です。 あなたは、ドイツ人、スイス人、 誇り高いイギリス人であるかもしれませんが、 あなたは、残りの人類です。ですね? それは、知的な概念ではありません。 それは、観念ではありません。 ロマンチックな、感傷的な何かではありません。 それは、事実です。 それが、深く本当であるとき、 それが真理であるとき、 そのとき、生に対する、あなたの見通し全体が、変化します。 そのとき、あなたは、人類すべてに、責任があります。 それには、なかなか怯えさせられますが、そのとおりです。
39:33 で、この究明の中で、それを理解しなくてはいけません - 私たちは、自己中心的でいない。 私たちは、自己を、もっともっと養成していないのです。 私たちは、自己に、智恵を増やしつつありません。 が、私たちは、残りの人類に、似ています。 その中から、慈悲が出てきます。 理解されますか。 で、頭脳は、単に安全に、
40:23 関心を持っているだけの道具ですか - 物理的とともに心理的(な安全)に、です。 そうでないなら、 頭脳の機能は、何ですか。 理解されますか。 私が、果てしなく、自分自身に関心を、持っていないなら - 自分の冥想において、いかに・・・です。 そうね、それらの種類のばかげたことです。 そのとき、思考は、どんな所を、持っていますか。 そして、すっかり新しい道具が、ありますか - 思考の活動ではないものが、です。 私の話は、明らかになりつつありますか。 私たちは、思考が世界で、何をしてきたのかが、見えます - テクノロジーの世界と、人間の世界で、です。 そして、思考は、 最もとてつもなく美しいものを、築いてきました - 建築、絵画、 すばらしい詩歌、偉大な小説を、ですが、 また、思考は、人々を分割してきました。 そして、思考はまた、自らの分割をとおして、 戦争を創り出してきました。 ゆえに、思考は、平和の道具ではありません。ですね? これが明らかなのかどうかと、思われます。 私たちは、互いに出会っていますか。 私たちは、ともに歩んでいますか。 ここまでは? すなわち、思考は、それ自体が分割的で、制限されているので、 それはとうてい、世界に平和を、もたらせません。 それは、示されています - 国際連盟と国際連合。よろしいですか。 ナポレオンは、ヨーロッパを征服しよう、統合しようとしました。 哀れなヒットラーなども、そうしました。 で、思考の活動は - 思考は、人間の問題を、とうてい、解消できません。 あなたは、それがきわめて明らかに見えるなら、 そのとき、何ですか。 理解されますか。
43:51 仮に、私は、思考が世界で、何をしてきたのかが、 きわめて明らかに見る、としましょう。 私は、思考が、自分の心理の領域で、 何をしてきたのかが、きわめて明らかに見えます。 安全への探求が、 思考の動きの基礎です。 ですね? そして、思考をとおして、そもそも安全が、ありますか。理解されますか。 または、安全は、こういうときだけ、ありますか - 思考が、自らの智恵とともに、 自らのずるさとともに、 自分の所を悟り、 心理の区域に入らないときだけですか。 ヴザヴェ・コンプリ?(理解されますか)私たちは一緒に、ここにいますか。 私は、もう少しそれに入るでしょう。
45:12 私たちは、自分自身では、生きられません。 生は、関係における動きです。 その関係には、無数の問題が、あります - 性的、心理的なもの、 仲間付き合い、さびしさ- よろしいですか - 関係の問題全体、です。 で、関係とは、何ですか。 あなたが、自分の妻に関係しているとき - または、父親、夫などに、です - あなたが、「私は関係している」と、言うとき、 その言葉は、どういう意味ですか。 それの辞書の意味ではありません - それを、私たちはみんな、知っていますが、 その深さ、 その言葉の意義、です。 私は、妻に関係しています。 この関係には、永続的な葛藤が、あります - それは、たぶん私が知るより、あなたのほうが、はるかにご存じです。ですね? なぜですか。 私たちは、その質問をするとき、 この葛藤が終わりうるのかどうかを、見出そうとしています。 終わる。 で、それが終わりうるのかどうかを、見出すには、 私たちは、他の一人への私たちの関係が何であるかの実際の事実に、 向き合わなければなりません - それが、いかに親密であろうとも、です。 私たちの関係は、思考に基づいていますか。 どうぞ、私はあなたに、この質問をしています。 あなたは、あなた自身に、それに答えなくてはいけません。 私たちは、一緒にいろいろと話し合っている、二人の友だちです。 一人の友だちは、もう一人に、訊ねます - 私たちの関係に、なぜ葛藤が、ありますか。 私たちの関係は、思考に基づいていますか - 記憶に、 過ぎ去ってきた出来事に、ですか。 それらは、起きてきました。 気持ちよくても、わるくても、です。 そして、それらを憶えておくこと、 それらの記憶が、あります。 私たちの一人一人が、それらの記憶の上に、生きます - すなわち、思考の上に、です。 私は、野心的です。 彼女もまた、野心的です。 彼女は、自分の形で充足したいと思います。 私は、自分の形で充足したいと思います。 彼女は、何か断定的な結論に、到ったのです。 私もまた、そうです。 で、いつも、この分割が、ありますね。 そして、分割があるところ、葛藤が、あるにちがいありません。 ですね?これは、単純です。 で、葛藤の本性を理解するには、
49:44 そして、関係において葛藤を終わらせることが、 可能であるかを、見るには、 私たちは、思考が関係を支配するのかどうかを、探究しなくてはいけません。 そのとき、思考は、愛ですか。 どうぞ、これは、同意とかをするには、はるかに深刻です。 あなたたち自身で、それに入ってください。 関係において、思考は、 私たちを、一緒に束ねてきました - 記憶をとおし、反応をとおし、 性的とその他の楽しみをとおして、です。 思考は、関係における要因です。 彼女は私に、何かを言ってきました- それが、私を傷つけてきました。 私は、彼女を傷つけてきました。 その傷は、続けられつつあります- それが、記憶です。 それは、けっして出会わない平行線に、似ています。 これを、私たちは、関係と呼びます - それが、あなたの導師に対して、であっても、 それが、女や男に対して、であっても、 あなたの政治指導者に対してや、司祭者に対しての関係でも、 それはすべて、思考と記憶に基づいています。 で、憶えているのは、愛の活動ですか。 どうぞ、この質問をなさってください。 そのとき、そうであるなら、私たちは、死んだ記憶の上に、生きています。 記憶は、未来にはありません。 記憶は、過去です - 憶えている能力、です。 さて、関係において葛藤なく、 生きる道は、ありますか。 記憶がそこに入らない、生きる道が、 この関係において、ありますか。 自らは、これらの質問をするかもしれませんが、 単に質問をすることは、問題の解決ではありません。
53:17 で、他の一人について、記憶の蓄積なしに、 相手と生きることは、可能ですか。 それは、思考が終わることです。 理解されますか。 それで、愛は、思考の活動ですか。
54:02 私たちは、この世界でどう平和に生きるのかを、 見出そうとしているので、 思考と記憶の深さと本性を、 理解しなくてはなりません。 私たちのほとんどは、 子ども時代の始まりから、今まで、 多くの傷の重荷を堪えます - 多くの心理的な負傷と それらの負傷の記憶と、 それらの傷の継続を、です。 そのすべては、拭い去られますか。 私は、傷ついているなら、どうして他の一人を、愛せますか。 ですね? どうぞ、これは、教会やどこかでの、 説教ではありません。 これは、本当の探究です。 それで、あなたが、自分自身で見はじめるように、です - 直接的に、葛藤を終わらせる可能性が、あることを、です。 その可能性は、 それの真理は、 あなたが、本当に深く探究したときだけ、存在します - 自己の本性全体を、 自己利益を(探究したとき)、です。 それは、褒賞と処罰に、基づいています。 そのとき、あなたは、自分自身で見出しはじめます - すなわち、思考は、問題の解決において、道具ではないことを、です・ 人間の問題(の解決)において、です。 テクノロジーの問題においてさえ、 あなたは、大変多く考えて、 問題を解いてしまうかもしれませんが、 あなたは、そこでもまた、或る状態に、到ります - 思考が休止しているとき、あなたは、何か新しいものを、発見します。 あなたが単に、いつの時も知識の平野で、継続するだけなら、 何も新しいものが、ありません。
57:11 で、頭脳が平和に生きられるのかどうかを、探究する中で、 ゆえに、 おそらく、それは、社会に影響するでしょう。 そうならないかもしれません。 私たちは、効果を探し求めていません。 私たちの一人一人が、思考の活動を、見つけるなら - 思考の制限と、 記憶の活動すべてを、です。 ゆえに、きわめて分割的であり、 結果的に葛藤、と。 あなたが実際に、それの真理を見るし、 そのように生きるなら、そのときあなたは、 「広大な公衆に対して、これは、どんな効果が、ありますか」と言います。 何もありません。 それが大事ですか。 あなたは、社会に、関心を持っていますか - 社会を変化させること、 それを、もっと秩序正しくすることに、ですか。 あなたは本当に、実際にそうではありません - 事実に向き合うなら、です。 ゆえに、それは、間違った問いです - 私の頭脳に、根源的な変異が、あるなら、 それは、社会に対して、どんな効果を持つのかと、言うことは、です。 理解されますか。 指摘してもよろしいなら、それは、間違った問いです。 あなたは、事実をとおして、真理を、探し求めています。 その真理が、行為するでしょう。 あなたが行為するだろう、ではない。
59:32 あなたが、この問いに、入ったことがあるのかどうか、私は知りません - 智恵とは何であるかについて、です。 私は、残り三分間を、持っています。 それは、とても錯綜した問いです。 今、語り手は、あなたに訊ねます - 智恵とは何ですか。 ですね? あなたは、その問いをどう受け取りますか。 あなたは、その問いに、どう接近しますか。 私たちの頭脳は、問題を解決するよう、訓練されています。 それは、子ども時代から、問題を解決するよう、訓練されます - 数学、歴史、そうね、試験、 それらすべてが、問題を解決することの表示です。 で、私たちの頭脳は、問題を解決するよう、訓練されています - 建築の問題、 工学の問題、 モーターをどう組み立てるのかの問題です。 で、私たちは、問題を解決しようとしている頭脳でもって、 生に接近します。 あなたがこれを悟るのかどうか、私は知りません。 で、あなたは、生を問題として、取り扱います。 それから、問題に解決を、見つけようとします。 で、語り手は、あなたに、このような質問を、します - 智恵とは、何ですか、と。 あなたは、それを問題にします。 当然です。 そのときあなたは、その問いを解決しようとします - 解決するよう、訓練されている頭脳をとおして、です。 さて、自らは - 友だちとして、私は、訊ねています - 自らは、この問いを、見つめられますか。 智恵とは何ですか、と。 問題として、ではありません。 ですね? あなたは、それをできますか。 あなたが、そうするなら、それが、智恵の始まりです。 それは、頭脳がすでに、自らの条件づけから、 自由になりつつある、という意味です。 が、あなたが、この問い、「智恵とは何か」に、接近し、それから、 それを解決しようとするなら、あなたは古いごた混ぜに、戻っています。 ですが、自らの頭脳が、問題を解決するよう、 条件づけられていることを、悟るとき - ゆえに、あなたがどの問いにも、 「私はそれを解決しなければならない」と言う精神をもって、 頭脳をもって、接近することを、です。 で、私たちは、けっして新鮮に、挑戦に出会いません。 問題に、どの問題にも、新鮮に、出会うことが、 智恵の始まりです。
1:03:36 で、私たちは、人類が平和に生きられるのかどうかを、 訊ねることから、出発しました。 なぜなら、人類が平和に、生きられないなら、 あなたは、花開けません。 そうね、生は、ひどく小さく、些細になります。 そして、その探究の中 - 人間たちは、すなわち、 あなた、私と、残りの世界、です。 そして、あなたは、残りの人類です。 あなたは、そうです - あなたがそれを、好きでも、好きでなくても、です。 あなたは、自分は個人であるとの条件づけに、拘るかもしれませんが、 あなたは、そうではありません。 あなたは、違った身体、違った名前、 違った色を、持っているかもしれません。 あなたは、長い髪、短い髪を、持っているかもしれません。 あなたは、ドイツ語やロシア語を話すかもしれませんが、 あなたは、残りの人類と同じ地盤に、立っています。 そして、私たちは、頭脳は自らの機能を持っていると、言いました。 その機能の根は、何ですか。 その機能の基礎は、何ですか。 それは、葛藤の中で生きることではない。明白です。 そのとき、その問いが、出されます。 そして、あなたは、「さあ、私はそれを解決しなければならない」と言います。 そのとき、あなたは、「私はどうやってそれをすることになるのか」と言います。 そのとき、あなたは、体系、方法、 弁解、その他すべてを、得ます。 論争、賛否を、です。 しかし、頭脳が、自らの古い訓練された条件づけをもって、 挑戦、主題に接近していないとき、 そのとき、あなたは、その問い、その挑戦を、 全的に新たに、新鮮に、見つめられます。 それが、智恵の能力ではないですか - 何かを、明らかに見ることが、です。 それを解決しようとするのではない。
1:06:32 で、私たちは、明後日、会うとき、 さらにそれに、入ろうとしています - 全的に新しい何かを、見つける可能性が、あるのかどうか、です - すなわち、思考の活動ではないものを、(見つけられるのか、)です。ですね?
1:07:05 立ち上がってもいいですか。