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SA83T3 - どこに、完全な安全を、見つけるのか。
公開講話、第3回
スイス、サーネン
1983年7月14日



1:25 私たちは、一昨日、話していたことを、 継続しましょうか。 私たちはそうすべきだと思いますが、私が真剣に指摘してもよろしいなら、 あなたは、語り手から助けを、探し求めていないのです。 私たち自身の外側に、助けは、ありません。 それが、明らかに理解されるなら - すなわち、政治的な体制や、宗教的な体系や、 自分の体系と理論をもった、あらゆる種類の導師が、 人々を助けよう、良いことをしようとしていることは、ないのです。 私たちは前に、それらすべてのものを、持ってきました - ここ幾千年に幾千年もの間に、です。 で、外側からの、助けは、ないのです。 その言葉を使っていいなら、 「救い」というキリスト教の言葉- それは、なかなか醜い言葉です。 外側、です。 誰をとおして、でも、 どの体系、体制をとおして、でも、 どの神学的概念をとおして、でも、 共産主義のでも、あるいは、民主主義などの、でも、です。 で、完全に、私たち自身に頼らなくてはいけません。 全的に、私たち自身に責任を持つ - 私たちがすること、私たちが考えることに、です。 私たちがすることすべてを、他の人たちのせいに、しないで、です。 または、環境や、遺伝や、遺伝子の過程のせいにしないで、です。 私たちは、それらすべての物事を玩んできました - いろいろな形で、果てしなく、です。 私たちは、あらゆる種類の哲学を、追求してきました。 そして、私たちは、大きな信を、持っています - 何らかのものに対して、です。 それは、いつも、外側の何かです - 象徴、人物、結論、観念、です。 それらは、すべて失敗してきました。 なぜなら、幾千年に幾千年の後、私たちは、 今の私たちなるものであるからです。 混沌とした世界を産出してきたのは、 過去の世代ではありません。 彼らは、助けてきましたが、 私たちもまた、それに付け加えています。
4:58 で、もしも私たちが、ともにそれに、留意できたなら - 書物はなし。 理論はなし。 人物はなし。 象徴はなし。 語り手を含めて、です。 私は、語り手を、除外していません。 なぜなら、自らは、きわめて気をつけなくてはいけないからです - 彼により影響されないよう、 彼により刺激されないよう、 おそらく、彼の解明へ、頼らないように、です。 それが、絶対的に、根源的に、明らかであるなら - すなわち、私たちが自らが何であるのかを、発見するために、 外側の助けが、ないことを、です。 これらすべての世紀の進化の後、 人間たちが、何になってきたのか、です - 残忍だ、暴力的だ、そうね、その事柄全体です。 あなたはそれを、誰のせいにも、できません。 または、はるか過去に戻って、 様々な原因を見出そうとできません。 そして、多数の原因が、あります。 私たちは、それら原因をめぐって、果てしなく、喧嘩をできます。 が、事実は、残っています。 私たちは、幾千年の進化の後、今の私たちなるものです。 何千年もの進化の後に、です。 で、それが明らかであるなら、 二人の友が、一緒に話し合っているように、です。 私たちは、二人の友だち、実際の友だちです。 それが、語り手が友だちについて感じることです。 私たちは、いろいろと話し合えます - 互いに影響し合ってもいないし、 互いに支配し合ってもいない。 互いに信頼し合っていない。 しばらくの間、互いに知り合ってきた二人の友だちとして、です 人間の問題について、議論し、話し合っている友だちです なぜなら、それは、テクノロジー的な問題より はるかに重要であるからです。 心理的な問題は、解消されるのでなければ、 いつも、テクノロジー的な主題、問題を、圧倒するからです。ですね? あなたは、すばらしいテクノロジー的な世界、機械的な世界、 コンピューターを、持っているかもしれませんが、 人間心理は、コンピューターに打ち勝ちます。 それは、一連の良い法律を、もたらすかもしれません - コンピューターは、 あなたは、こうすべきだ、ああすべきだなどと、ですが、 心理、私たちの一人一人は、圧倒したり、 超越したりできるし、コンピューターにもかかわらず、 自らがしたいことを、するかもしれません。 ですね? これはきわめて明らかであると、私は思います。
8:53 で、どうぞ、私たちは、疑いをもって、始めなければなりません - 一定の懐疑の性質をもって、です。 それで、私たちは、人間存在においてあらゆる物事を、問うように、です。 物理的なものは、別として、です。 外科医が、あなたは癌を持っていると言うなら、あなたは、彼を問えません。 あなたは、それを問うてもいい。 あなたは、彼に訊ねてもいいが、 幾人もの医師が、あなたに告げるでしょう -「やあ、あなたはそれに罹っていますよ」と。 そのときあなたは、それを受け入れます。 あなたは、それを疑えません。 あなたは、様々な治療を、試せます。 世界中の藪医者があなたに、加わるでしょうが、 結局、あなたは、彼らの発言を、受け入れなくてはいけません。 しかし、心理的な世界は、はるかに複雑であり、 大きな敏感さが、必要です。 その大きな錯綜、微妙さ、です。 それは、きわめて明らかである精神、頭脳を、要求します - 混乱していなくて、自己中心的でないのを、です。 あなたは、自己追求の複合体全部を、 検討し、見つめられません - あなたが、それについて、批判的であるのでなければ、 あなたが、問い、疑い、訊ねているのでなければ、です。 ですが、西洋世界における現在の宗教は、 どの問いや疑いをも、拒否します。 あなたは、疑いを持ってはなりません。 信仰を持たなければなりません。 それで、疑いの性質は、 人間存在にとって、大変重大ですが、 それが、拒否されます。 ところが、仏教とヒンドゥー教の世界では、 疑いが、探究の柱の一つです。
11:28 で、どうぞ、 私たちは、ともに話し合おうとしています - ともに、です。これは、反復しつづけなければなりません。 なぜなら、人間の傾向が、あるからです - 受け入れる、導かれる、助けてもらう傾向、です。 何らかの本を読むことにより、 あなたは、それが、自分のためになろうと、考えます。 で、自らが誰にも頼れないことが、きわめて明らかでなければなりません - それは、自らが自分自身にとって、光でなくてはいけない、という意味です。 それは、自己主張的な態度、 自己にものすごい自信を持つ、 という意味ではありません。 それは、自分の欲望、自分の充足などの追求、 という意味ではありません。 自己にとって光であるとは、 心理的に、全的に一人で立つ、という意味です。 一人(アローン)という言葉は、すべて一つ(オールワン)、という意味です。 ラテン語、ギリシャ語などから、 その言葉は、すべて一つ、一緒、全体的だ、という意味です - 断片化していない。 が、私たちは、その一人ということを、孤立へ翻訳します。 私たちは、孤立するのを、恐れています。 ゆえに、私たちは、その言葉の意味と深さを、理解しません - 一人(アローン)であることを、です。 それは、時の全体を、含んでいます - 過去、現在、すなわち今を、です。 すべて一つ(アローン)です。 私たちは、今すぐそれらに、入るでしょう。 私たちがこれらにおいて一緒であるのを、望みます。
14:02 語り手が言っていることを、疑ってください。 また、語り手が言っているのを、あなたが聞くことへの、 あなた自身の反応をも、はるかに疑ってください。 疑い。疑いの種子 - あなたが何を疑うのか、ではなく、種子、です。 それをして、動かさせましょう。 それを、花開かせましょう。 それを成長させましょう - ついに、それが、何が真理であるかを、見つけるまで、です。 そして、一人(アローン)であること、 それの本性を探究すること、 それの真理を見出すこと。 - それの発言ではなく、発言の真理を、です。 理解されますか。 その発言が、聞こえる。 それから、その発言の言葉を受け入れるが、 自分自身で、その言葉の深さを、発見しない。 私たちはみんな、ここに一緒に来ているのを、望みます。 ここは、とても暑いです。
15:50 私たちが先日、言っていましたように、 私たちは、安全を探し求めてきました - 思考の物事に、 思考が組み立ててきた物事に、です。 すなわち、共同体に - 家族に、共同体に、 より大きな共同体に、など、です。 孤立の中での安全、 国の中、民族の中での安全、 何かに所属する中、 この集団やあの集団に所属する中、 あの教会に所属するか、しない中- よろしいですか。所属する。 私たちはそこに、安全を探し求めてきました。
17:01 で、自分自身で発見します - すなわち、孤立に、安全はないことを、です。ですね? さて、それは事実ですか。 または、理論だけですか。 それが理論であるなら、多数の理論が、あります。 が、あなたが、安全でありたいとの自分の欲望を、検討するなら、 あなたは、それを追求するなら、見出すでしょう - 自らは、孤立の中に、安全を探し求めてきたのです。 孤立は、甚大であるかもしれませんが、やはり、孤立です。 この孤立の過程は、断片化です。ですね? 私たちは、何かとてつもないことを、言っていますか。 または、私たちは、互いに付いてきていますか。 孤立の中で安全の追求が、あるところ - アラブ人や、ユダヤ人の中に、よろしいですか。 外的に、です。 孤立の追求と、その孤立の中で、 安全を探し求めることは、断片化です。 そのとき、問題が生じます - 諸断片は、どうすれば、まとめられますか。理解されますか。 それは、すっかり間違った問いです。 ですね? なぜなら、孤立の中での安全への探求が、原因であるからです。 自らが、その原因から自由であるなら、断片化は、ありません。 ゆえに、孤立の中での探求は、ありません。 家族の孤立でも、 あるいは、自己中心的な孤立でも、です。 これらを捉えられるのかどうかと、思われます。 誰かが、「はい」と言います。
19:39 聴衆: はい。はい。
19:45 K: 世の中で実際に、何が起きつつあるかを、見てください。 私は、自分の友だちに、何が起きつつあるかを、 つくづくと見るよう、頼んでいます。 家族、共同体、 より大きな共同体、民族、国家 - 孤立化の過程。 ゆえに、その孤立の中に、 最高権力への探求が、あります - 政治的に、宗教的に、です。 権力を獲得する感覚全体、です。 それで、ますます多くの混乱が、あります - ますます多くの問題、ますます多くの破壊が、あります。 これは、きわめて明らかです - あなたがそれに入るなら、です。 気軽に、ではなく、 読書をたくさんするのではなく、 自分自身に、それの事実を見出すのです。 で、はるかに探究しなくてはいけません。 私たちは・・・それがどうであるかを、見出すには、です - なぜ私たちが、安全を探し求めているのかを、です。 私たちは安全を持つべきでない、ということではない。 私たちが言いましたように、物理的に安全が、なければなりません。 赤ちゃんが育つには、安全が、なければなりません。 人が、少なくとも一時的に幸せに、生きるには、 人は、安全を持たなければなりません。 人は、衣食住を、持たなければなりません。 が、この孤立化の過程は、あらゆる人へのそれらを、拒否しています。 各政府が、自分自身に関心を持っています - 自分の経済に、自分の国民に、です。 戦争をとおして、自分の国民を救っています - 他の国民を、ではない。 あなたが先日、聞かれたのかどうか、私は知りません - 先の戦争について、(イギリスの)或る将軍が、話していました。 いや、はるか南の小島(フォークランド)をめぐる、この戦争です。 将軍は、こう言いました - 「私は、人々を殺したくないが、私たちは、彼らを殺さなければならない。 が、私たちは第一に、自分たちの国民を、救わなければならない」と。 彼らは、そのために、訓練されています。 で、尋常でない意義、事実、 真理が、見えます - すなわち、 孤立の中に、けっして安全は、ないことを、です。 いかなる安全も、ないのです。 私たちは、これが見えますか - 私たちが、少しでも先へ進む前に、です。 頭脳の条件づけを、崩してしまうことは、とても困難です - 孤立の中に、いるよう、生きるよう、 自分の充足を探し求めるよう、 教えられ、教育され、条件づけられている頭脳を、です。
23:27 さて、安全とは、何ですか - 物理的な安全は、別として、 安全であるとは、どういうことですか。 どうぞ、あなた自身に訊ねてください。 私たちは、ここに一緒にいます- 二人の友だちです。 静かな部屋に、座っていて、 すてきな谷を、見晴らしています。 うるわしい朝です。 同時に真剣であって、 互いに訊ねています - 安全とは、何ですか - 安全であるとは。 関係に、安全はありますか。 あなたは、自分自身にその質問をします。 自らは、関係の中に安全を、ほしがります。 さもないと、安全は、ありません。 それは、信用、信頼、愛とそれらを、含意しています。 けれども、私たちは、お互いにおいて、安全がほしいのです。 そして、お互いが、一人一人が、自分の孤立、 自分の自己中心的な活動を、追求しています。ですね? 私たちは、安全がほしい - 平和な生活をするように、です。ですね? 何も葛藤を持たないよう、何も厄介、問題を持たないよう、 ただ生きるように、です。 それもまた、可能ではありません。 で、私たちは、訊ねています- 安全とは、何ですか。 私たちは、それをどこに、見つけますか。 何か理論に、ではありませんね。 何か、思考が投影してきて、神聖にしたイメージに、ではありません。 思考の活動である、どの象徴にでも、ありません。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。
26:09 で、どこに、全的で完全な安全を、見つけますか。 頭脳は、安全が必要です。 ですが、現在、頭脳は、混乱しています。 一人の哲学者は、こう言います。 他の科学者は、ああ言います。 一人の導師、一人の教師、 位階的な教会は、他の何かを言う、などです。 頭脳は、これら何千年に何千年もの後、 実際に、混乱しています。 その混乱の中、それは、「私は安全でなければならない」と、言います。 で、そのときそれは、新しい幻影を、創案します。 理解されますか。 私は、この幻影を、落としてしまいました。 私はそこに、何も安全がないのを、見つけるからです。 そのとき私は、また別の幻影を、見つけます。 そして私は、その中に安全を見つけたいと、望みます。 これが、私たちがしていることです。 で、あなたは、どこに安全を、見つけますか。 頭脳は、完全に安全であり、 完全に確実で、無混乱であるのでなければ、 それは、騒動の中にあるにちがいありません。ですね? あなたが、自分の生を、検討するなら - 友よ、あなた自身の存在を、です - 私たちがいかに混乱していて、いかに不確実であるのかが、 分かるでしょう。 あなたは、何にも頼られません。ですね? で、あなたは、どこに安全を見つけますか。 明白に、外的に、ではありません。 あなたは心理に、安全を、見つけるのでしょうか。 理解されますか -「私」に、自己に、でしょうか。 いいえ。見出しましょう。「いいえ」と言わずに、見出しましょう。
28:44 そのとき私たちは、訊ねなくてはいけません - 自己とは何ですか。 「私」とは、何ですか。 心理的な構造全体 - 「私」とは、何ですか。 「私」 - それは、一連の結論ですか。 そうです。 私は、信じている。 私は、納得している。 私は、信仰を持っている。ですね? 私は、これである。 などと、です。 それを拡大してください。 で、それが、そこ、外側に見つかることにならないのなら、 内的に、安全を見つけることは、可能ですか。 どうぞ、これらの質問をしてください。 私は、自分の友だちに訊ねています。 私たちはどちらも、無防備です。 私たちは、互いに防衛していません。 ゆえに、互いに抵抗していません。 それは、そこ、外側に、ありません。 私は、それを、内側に見つけたいと、望みます。 どこか内的に、ですね。 それは、私が自分自身に、もっと自信を持たなければならない、という意味です。 それが、私たちがそれを翻訳するやり方です。 私自身に自信を持つとは、どういう意味ですか - 私の経験に、私の知識に、私の祈りに、とは? すなわち、「私」は、思考により、組み立てられています。 私は、何かに、信を持っています。 私は、何かを信じています。 私は、何かに所属しています。 そのすべてが、思考の動きです。確かに。ですね? どうぞ、この事柄について、きわめて明らかでありましょう。 思考が、外側のめちゃくちゃ、混乱を、創り出してきました - 世の中で起きつつある、ひどいことを、です。 また、思考は、「私」をも創り出してきました。 ですね?明らかですか。 私を創造したのは、 或る種の神聖な爆発ではありません。 子ども時代から、私は教えられ、教育され、 訓練されてきました - 「私」が、一番である、と。ですね? で、私たちは、「私」に安全があるのかどうかを、検討しています。 「私」は、思考により、組み立てられています。 私たちは、この点について、きわめて明らかでなければなりません。 私が、「私は神を信じている」と言うとき - 「私は、神への信仰を持っている。 神様の中での私の安全」と、です - 誰が、その神を創造しましたか。 どうぞ、事実本位であってください。 私は、攻撃していません。 私は、自分の友を、攻撃していません。 それは、あまりにばからしいでしょう。 彼もまた、私を攻撃していません。 ともに、私たちは、問い、疑い、訊ねています。ですね? 私の友は、「あなたは、神を信仰しているね」と、言います。 私は、おそらくそうだ、と言います。 私たちは、友だちなので、議論します。 私たちは、「私は信じている。私はそれに拘ろう」と、言いません。 私たちは、「ほら、誰が、この神の観念を、創造しましたか」と、言います。 そのとき、彼は訊ねます - 「でも、すべての存在は、どうして生じてきたのか」と。ですね? 科学的な答えのほうが、合理的です - すべての理論と推測、神への信念などより、です。 私たちは、海洋から来ました。 よろしいですか。 私たちは、幾千年に幾千年も、掛けてきました - 四百、五百、一千万年を、 現在の状態に、進化するために、です。 それは、一人の人間をもたらすには、 時間が掛かってきた、という意味です。 或る宗教的な人々による、 ここ四千五百年の中で、ではありません。 四千五百年前に、エジプト人は暦を、発明しました。 理解されますか。 それは、彼らが前に、 ものすごい進化をしていたにちがいない、という意味です。 暦は、その場ですぐに、発明できません。
34:54 で、彼は私に、言います - 気をつけて、見てください。 あなたが創造してきたもの、 思考が創造してきたもの - 安全を探し求めて、 死に怯えて、などです。 あなたがそれを、創造してきました。 思考がそれを、創造してきました。 それから思考は、それを崇拝します。 そこに安全を、見つけようとします - あなたがしていることに反して、あなたの生に反して、です。 これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 私は、最もとてつもない物事を、信じているかもしれません - 神、至高の智恵、最高原理のように、ですが、 それは、私の生における実在でなくてはいけません。 さもないと、それは、何の価値もありません。 どうぞ、私は、説教していません。 無神論を提唱していません。 私は問うています。 私たちは、互いに、根源的な主題を、問い合っています - すなわち、安全への衝動、要求、必要性を、です。 私たちは、自分たちが幻影の中に、 安全を探し求めてきたのを、見つけます。 さて、何が起きますか。どうぞ、気をつけて、それを見つめてください。 あなたが、何か偽りのことを、見るなら - 実際に、事実として、偽りであると、です。 そして、あなたがその偽りに、取りすがるなら、 あなたに、智恵はありません。 私の話が明らかになっているのかどうか、私は知りません。 私が友だちに、こう語るなら- 「ほら、これは現実ではない。 これは、発明だけだ。 その種の発明、考案、幻影、 何かロマンチックな、感傷的な戯言の中に、 そこに、何も安全は、ない」と。
37:14 で、どうぞ、理解してください。 偽りを、偽りと見ること - それは、あなたがすでに、何が真実であるかを、発見した、という意味です。 これは明らかですか。 私は、何かを偽りだと、見るなら - 何か幻影を、幻影として、です。 幻影(イリュージョン)という言葉は、英語で、 何かと遊び戯れる、という意味です- (語源)「ルーデレ」は。 実在でない何かと、です。 で、私は友だちに語ります - 「ほら。 あなたは、偽りの物事とともに、生きるよ。 そして、彼が、偽りの物事を、偽りだと見るとき、 彼の頭脳には、何が起きたのですか。 質問を理解されますか。 頭脳は、幾世紀もの間、 何か現実的でないことを、受け入れてきました。 すなわち、人類の大多数は、神を信じています。 なぜなら、神は、彼らの安全であるからです。 ですが、神は、考案物であり・・・ その他すべて、です。 私の友が、それを見て、私が、それを見るとき、 頭脳の条件づけが、壊れたのです。分かりますか。 私は、生涯ずっと、北へ進んでいきました。 あなたが、やってきて、私に指し示します - 北は幻影であることを、です。 北はあります。 私が話しているのは・・・ それは、幻影です。彼は、私にそれを、示してくれます。 私たちは、友だちなので、それについて話し合います。 そして私は、「おやまあ、それは正しい」と、言います。 私は、向きを変えて、東へ行きます。 それは、どういう意味ですか。 私は、体制、習慣を、破ったのです - 一方向に進んできた頭脳の条件を、です。 突然にそれは、それより離れてしまい、別の方向へ進みます。 ゆえに、条件づけが壊れることが、あります。 これを理解されるのかどうかと、思われます。
39:54 私たちは、条件づけ全体に、入ろうとしています。 私たちは、少し後に、それに入るでしょうが、 私は、幻影を追求する習慣を、破ってしまったのです。 ゆえに、細胞自体が、変化したのです。 理解されますか。脳細胞は、それら自体が、変化したのです。 なぜなら、それは、習慣を落としてこなかった、追求してきたが、 習慣を壊してしまったからです。 力尽く、実行をとおし、意志をとおし、どの行為をとおして、でもなく、 清浄で、論理的で、正気であり、 事実を見るのです。 ですね? 私は、あなたたちのために、一生懸命働いているのでしょう。
40:52 で、どこに、安全がありますか。 確かに、経験にはないですね。 これらについて、全く明らかであってください。 知識にはない。 なぜなら、知識は、けっして完全ではないからです。ですね? 知識は、経験に基づいています。 科学的な経験、仮説、理論、 そのとき、その理論、仮説を、真実か、虚偽だと証明する - 科学的世界において、ですね。 で、どこに、安全がありますか。 どうぞ、それに入ってください。 すみません。 退屈なさっていないことを、望みます。 そうであるなら、それは、あなたの事柄です。 それは本当に、きわめて深刻な問いです- 私たちが訊ねているのは、です。 気軽な何かではありません。 安全であることは、頭脳の要求です。 それは、そこに、外側に見つかってきませんでした - 外側の機関、外側の神々に、です。 または、それは考案できます- 「私の中に、神がいる」と。 たくさんの人々が、そうします。 数百万人が、そうします。
42:53 聴衆: 私は、そうします。
42:56 K: 自分はそうすると、仰る方が、おられます。 彼は、それに取りすがろうとしています。 それは、議論ではありません。 講話すべてが、済んだとき、私たちは、そうするでしょう。
43:19 が、私たちは、見出さなくてはいけません - 完全な安全が、あるのかどうかを、です。 私たちは、思考の過程について、きわめて明らかでなくてはいけません。 思考は - 私は再び、それに入るでしょう - 思考は、制限された過程です。 物質主義的な過程です。 なぜなら、思考は、経験に基づいているからです - 経験は、感覚的です。 ですね? 反応、反射、 そこから、経験が生じます。 その経験は、制限されています。 その制限から、知識です。 で、知識は、いつも制限されています - 科学的な世界においても、心理的な世界においても、ですね。 そのとおりです。 つまり、それは、こうも単純です。 それで、記憶は、制限されています。 なぜなら、それは、時に、基づいているからです - 時の持続に、です。 私は今すぐ、時の問いに、入るでしょう。 そして、思考は、制限されています。 記憶なしに、思考はありません。ですね? あなたの記憶、憶えているのは、小さく、制限されています。 あなたは、自分の子ども時代より、物事すべてを、憶えているかもしれません - そうでないことを、望みます。 そのとき、あなたの頭脳は、記憶にすぎません。 ゆえに、それら記憶は、制限されています。 それで、思考は、間違いなく制限されています。 それで、それが何をしようとも、制限されています。 あなたの祈りは、制限されています。 教会の中の物事すべてと、それらは、制限されています - 思考により、組み立てられています。 ですね? それは、こうも明白です。 みなさんは、何のためにこれに、抵抗していますか。 なぜあなたが抵抗しているかは、存じています - きわめて単純です。 あなたは、怯えています。 それだけです。 あなたは、自分の職を失うかもしれません。 私たちは先日、或る司祭者に、話をしていました。 私たちは、良い議論を行っていました。 私たちは、仲良しでした。 そして彼は、こう言いました - 「いいですよ。私は、あなたに 同意しますが、私は、どうやって、生きることになりますか」と。 どうぞ、それを笑わないでください。 私たちのほとんどにとっても、そうです。 どうぞ、このとても単純なことを、理解してください。 あなたが、何か偽りのことを、見るとき、 あなたが、思考の制限された活動と、 それが世界で何をするかを、見るとき - なぜなら、制限が、あるところ、葛藤があるにちがいないからです。ですね? もし私が、「私はキリスト教徒だ、 私は仏教徒だ。私はこれだ。 私はあれだ」と、 反復しつづけるなら、それは、きわめて制限されています。 その制限こそが、葛藤をもたらすにちがいありません。 葛藤には、明白に、何も安全が、ありません。 あなたが、葛藤を愛していて、「いいよ、それは、 自分の存在の一部だ」と言うのでなければ・・・ そのときそれは、何かが・・・あなたの頭に、穴が開いている、という意味です。
48:21 で、私たちは、この点に戻ってこなければなりません。 あなたが、偽りを偽りと見て、偽りを放棄するとき - ただ、「はい、私は偽りが偽りと見えます」と言って、 ただ留まるだけではない。 あなたが、真実ではなく、実際でないものを、見るとき - 偽りで、幻影であるものを、です。 あなたがそれを見るとき、それは、その幻影が終わることです。 あなたが、それを終わらせようと結論するだろう、ではない。 事実を見ることこそが、 事実を見ることこそが、その幻影を終わらせることです。 で、偽りへ条件づけられてきた頭脳に、 何が起きてきたのか - そのとき、それが壊れるとき、 脳細胞自体に、変異が、あるのです。 これをご覧になるのかどうかと、思われます。 理解されますか。 仮に、私は、とても強い習慣を、持っている、とします。 習慣は、色々な種類です。 「私は信じている」は、習慣です。 私が拘る結論は、習慣です。 私たちは、習慣の問いに、入らないでしょう。 私が習慣を破るとき、 習慣の無益さを見ることが、あるとき、 それを破ることが、あります。 そして、頭脳の構造こそに、変化が、あります。 で、何が起きたのですか - 私が、偽りであることを、偽りだと見るとき、です。 そして、それが終わることこそですが、何が起きたのですか。 あなたは、そうしていません -私たちが進んでいくときに、です。 私たちが進んでいきながら、友よ、あなたがそうするなら、 そのとき、何が起きたのですか。 どうぞ、私と議論しないで、ただ見出してください。 頭脳は、明らかになりましたか。 それは、偽りである重荷を、片付けてしまいましたか。 偽りであることを、見る。 見ることが、行為することです。 あなたは、何か危険なものを、見るとき、行為します。 で、見ることが、行為です。 さて、見る頭脳に、何が、起きたのですか。
51:54 私たちは、違ったように、それに接近しましょう。 私たちのほとんどは、何かになりたいのです。 物理的な世界で、私たちは、何かでありたい、 何かになりたいと思います。 私は、大きな事務所の、会社の中の、ただの事務員です。 そして、次第に私は働いて、上がっていきます。 私が良くて、有能であるなら、私は、課長になります。 課長から、私は、一歩ずつ昇っていきます - ついに、私は、重役と社長になるまで、です。 私は、時をとおして、社長になったのです。 これが、物理的な過程です。 さて、私たちは、同じ動きを、心理的領域の中へ、拡張します。 「私は、これであるが、私は、あれになるだろう」と。 それは、同じ動きです。 それは、異なっていません。 どちらも、時を必要とします。 なる(ための)時。 ですね?なるとは、何ですか。 私は、物理的な世界では、理解できます。 私は、もっと多くお金を、稼げます。 もっと良い車、もっと良い住宅、もっと多くの絵画。 私は、お金を持っているなら、レンブラントを買うか、 - よろしいですか - 私はもっと、酒を飲みます。 そうね、それの事柄全体、現代の文化です。 私たちは今、文化の問いに入ってはなりません。 私たちは、別の時、そうするでしょう。 私は、そこで何かになります。 私は、同じ動きを、拡張します - その同じ動きを、何かへなることに、です。 或る日、私は、覚りを開くだろう。ですね? 覚る。最高原理、神に、なる、到る - あなたがそれを、何と呼ぼうと、です。正しき振るまいによって、 一歩一歩、また一歩一歩、私は、何かになるでしょう。 ですね? それが、宗教的思考の体系全体ですね。 私は、導師へ行きます。 ばかな導師が、私に教えてくれます。 私は、いつの日か、彼のように、なるでしょう。 それは、権力という意味です。 私は、弟子を持つでしょう。
55:02 で、よく気をつけて、これらに付いてきてください。 私は、友に語っています。 で、なっていきつつあるのは、何ですか。 私が、心理的に、こう言うとき - 「私は次第に、覚りを経験するだろう。 次第に、それを築き上げるだろう」と、です。それは、どういう意味ですか。 なっていくことが、ありますか。 それを問うてください。 私は心理的に、何かになるべきだ、ではなく、 私たちは、問わなければなりません。 何か、なるものが、ありますか。 私自身、私の経験、私の記憶、 私があるべきものについての私の投影 - それは、私がこれらのために、時を 持たなければならない、という意味です。理解されますか。 で、人は、言ってきました- 賢明になる、 覚りを開く、なる・・・それらですが、 それは過程である、と。 ですね? 私たちは、正反対のことを、言っています。 私は、友に言っています - それは、戯言に聞こえます。 そうね、仏教の概念全体です。 仏教を、ご存じないでしょう。 構いません。私はそれに、入るでしょう。 ブッダは、一連のことを、経てゆき、 ついに究極的に、彼は覚りを開きました。 私はそれを問います。 覚り、理解、知覚は、時の事柄ですか。理解されますか。 時とは、何ですか。 時は、動きです。 ですね? ここから、あなたの家へ行くための時 - あなたの山荘へ、あなたのフラットへ。 それが何であっても、です。 モンテレーやローザンヌへ行くため、または、どこであっても、です。 それは、時の中の動きです - 距離を行くための、ですね。 あなたは、物理的な時を、持たなくてはいけません - ここから、あなたの家へ行くには、です。 それは、時です。 何かになることは、時を必要とします。 あなたは、自分自身のために目標を、立ててきました。 物理的な世界で、あなたは、自分自身のために、目標を立ててきました - 課長になるように、です。 あなたは、時を必要とします。 またあなたは、何かになる目標を、立ててきました。 ですね?非暴力的になる、と。 それを例に取りましょう。 ですね?あなたは、暴力的です。 私の友と私、私たちは、こう言っています- 私たちはどちらも、そうしています。 おそらく、あなたはそうでないが、私はそうかもしれません。私たちは暴力的です。 暴力から自由になるには、時が、掛かります。 非暴力的になるには、時が、掛かります。ですね? 私たちは、それを問うています。 それを疑っています。 よろしいですか。 非暴力的になる、とのこの観念全体を、 あなたは疑わなくてはいけません。 インドでは、それが、大変多く、説教されてきました。 事実は、暴力です。 ですね? 私は、怒っている。 私は、嫉妬している。 私は、激怒している。 私は、誰かを憎んでいる。 私は、もっと権力のある誰かに、なりたい。 それは、事実です。 が、非暴力は、非事実です。 で、私は、何をしていますか。 非事実を、追求し、養成しています。 非事実を達成するには、時が、必要とされます。 それの不条理を、見てください。 何百万に何百万の人が、これを、信じています。 彼らは、こうも強力であるから- 何百万もの人です - 彼らは、政治家すべてを選挙します。
1:00:22 で、戻ってきましょう。 で、事実は、私が暴力的であることです。 が、非事実を達成するには、時が、必要とされます。 で、暴力に留まることに、時は、要りません。 暴力の本性、構造と因果を、理解するには、 観察するには、知覚するには、時は、要りません。 それは、事実であるからです。 私が気をつけて、それを見つめるなら、 それは、全部を開示するでしょう。 が、私は、非暴力を追求しているなら、観察していません。ですね? で、どうぞ、何かを理解してください。 知覚は、時を必要としません。 お示ししましょう。 私は暴力的です。 私は、友に言います 「仮に、私は本当に暴力的である、としましょう」と。 彼は、こう言います - 「あなたのその言葉は、どういう意味ですか。 あなたは、物理的に暴力的ではありません。 私は、これらすべての年に、あなたが誰かを叩くのを、見たことがありません。 私は、あなたが怒ったのを、見たことがありませんが、 あなたは、暴力的な人です」と。 彼は言います - 「暴力的であるとは、 どういう意味かを、私に語ってください」と。 私に矛盾があるときだけ、暴力は、存在できます。 どうぞ、これらを理解してください - 二つの分離した活動、 互いに矛盾し合ったものが、あるとき、です。 理解されますか。 私は、一つのことを、言い、別のことを、します。 一つのことを考え、事実より全然違った行為を、します。 それは、矛盾です。 それは、対極を創り出します。 で、彼は私に、語ります - 「ほら、あなたは、何かを発見したよ。 矛盾、対極があるところ、 葛藤があるにちがいない、と。 その葛藤は、暴力を表示します。 暴力 - 私は、暴力のもっと詳細には、入らないでしょう。 それは、模倣、順応です。 比較は、本質的に暴力です。ですね? 私が、自分自身を、はるかに利発なあなたと、比較するとき - はるかにこれと、はるかにあれです - 私は、あなたを妬んでいます。 私は、あなたに敵対的です。 私は、あなたに嫉妬しています。 嫉妬、順応、敵対は、暴力です。 なぜなら、それは、明らかであるからです - 私が、非実在、非暴力を片付けてしまったとき、 私は、これが、きわめて明らかに見えます - 暴力の暗示、複雑さのすべてが、です。 これの知覚があるとき、 それの終わりが、あります。 その暴力は、私より分離していません。 理解されますか。 私は、これに入らなければなりませんか。
1:04:12 あなたが怒っているとき、怒りは、あなたより、異なっていますか。 あなたが、性的に興奮しているとき、 その興奮は、あなたより異なっていますか。 で、暴力、比較は、あなたより異なっていますか。 または、あなたは、それらですか。 私の友は、子ども時代より、比較するよう、訓練されてきました。 彼は、自分の学校へ行きます。 そこで、彼は、点数を付けられます - 比較する。 その過程をとおしてずっと、大学まで - 彼が運が良いなら、または、運が悪いなら、です - そのとき彼は、就職します。 彼はやはり、比較しています。 戦い、格闘しています。 ですね? そのすべては、一つの形の暴力であると、私たちは言います - もちろんです。 攻撃などです。 さて、それの事実を見て、 暴力の非事実、すなわち非暴力を、ではありません。 が、私が暴力的であるとの事実、です。 暴力の全部を、見る。 私は、それを見られるだけです・・・ それの知覚が、あります - 非事実が、完全に片付けられるときだけ、です。 どの種類でも非暴力の追求が、ないとき、 私の注意全体、 注意全体は、事実に対して、です。 そのとき、事実は、動きます。 それが何であるかを、開示します。示します。 その知覚こそが、それが終わることです。 なぜなら、葛藤がないからです - 私より分離している暴力として、です。 暴力は、私です - 怒りとして、あなたの反応として、です。 あなたが、お腹が痛かったり、歯が痛かったり、 頭が痛かったりするとき、それが、あなたであるように、です。 あなたは、それらより分離していません。 分離が、あるところ、葛藤が、あるにちがいありません - アラブ人、ユダヤ人、ヒンドゥー教徒、仏教徒として、です。
1:07:15 で、智恵にのみ、安全があります。 私たちは、智恵が何であるかの問いに、入らないでしょう - 私たちの時間は、切れたからです。 それは偽りであると言うのは、智恵です。ですね? なぜなら、あなたは、それを検討してきたし、それを見つめてきたし、 それを疑ってきたし、それを問うてきたからです。 が、あなたが、「私は、偽りを真理として受け入れる」と、言うなら、 あなたに、智恵はありません。 ですが、あなたが、物事の偽りを、見つめて、 偽りが偽りと明らかに見えた瞬間、 その知覚が、智恵の始まりです。ですね? さて、その智恵へ深遠に入ること - 私たちは進みながら、そうするでしょう - それが、安全です。 その種類の智恵が、至高の安全です。
1:09:01 私たちがまだ、友だちに留まっていることを、望みます。