Krishnamurti Subtitles home


SA83T4 - 至高の智恵とは何なのか。
公開講話、第4回
スイス、サーネン
1983年7月17日



1:31 あなたたちが、暑すぎないことを、望みます。 私たちが木曜日に話していたことを、 継続してもいいですか。 私たちは、先の木曜日にこう言っていました - すなわち、世界中の人間たちは、 安全を探し求めてきたし、 彼らは、安全を持たなければならない、ということを、です。 生物的に、物理的に、だけではなく、 また、人間たちは、心理的な安全を、探し求めてきたのです。 彼らは、あらゆる種類のイメージ、理論、 仮説などを、考案してきました。 それらすべてに、人は、心理的な安全を、探し求めてきました。 物理的には、それは必要です- 明白です - すなわち、世界中の私たちのみんなが、 衣食住を持つべきであることが、です。 それは、様々な形の分割により、拒否されます - 人種的、民族的なもの- すなわち、部族主義です - そして、イデオロギー的な違いによって、です。 それらが、大変多くの戦争を産出してきました。 何千もの戦争、です。 歴史をとおして、戦争は、存在してきました。 で、人は、物理的に、ほぼ何の安全をも、持っていません - しっかりと安定している人、 たくさんのお金、伝統に従い、 保守的であるなどの人たち以外は、です。 が、心理的に、内的に、 私たちは、様々な幻影に、安全を、探し求めてきました - 神に、観念に、関係に、 概念と先入観、結論、確信に、です。 それらすべては、人に、内的な安全を、与えてきませんでした。 私たちは、かなり徹底的にそれに、入りました - 前回、私たちがここで会ったとき、です。
4:45 私たちは、こう言いました - 人間たちにとって、そもそも安全が、ありますか。 初めてここに来られた、あなたたちは、 どうぞ、留意なさってください - すなわち、これは講義ではないのです。 講義とは、特定の主題について、 話をすること、談話です - 教示され、情報を与えられるために、です。 で、これは、講義ではありません。 これは、何かイデオロギー的、哲学的なこと、 東洋からの異国風なことではありません。 私たちが言いましたように、私たちは、二人の友として、 人間存在について、一緒に話し合っています - なぜ人間たちは、幾千年に幾千年の後で、 やはり、心理的に、原始的であるのか、です。 テクノロジー的には、高度に前進しましたが。 彼らは、月へ行ったことが、あります。 彼らは、大変多くのものを、発明してきました。 高速な通信、 偉大な外科手術、医療 - あなたが、それらを信じているなら、です。 そしてまた、コンピューターも、です - それはおそらく、私たちの頭脳の活動全体を、引き継ぐかもしれません - すっかりではないが、そのほとんどを、です。 で、私たちは、ともに話し合っていました - 私たちがここで行ってきた、ここ数回の会合において、です。 なぜ人間たちは、今あるところのものであるのか、です。 進化と呼ばれる、長い時の期間の後に、です。 彼らはやはり、暴力的で、残忍で、原始的です。 部族的な戦争をします - それらは、民族的、国家的な戦争、 経済的な戦争などです。 見たところ、世界に平和は、ありません。 政府は、どの国のでも、 とうてい、平和をもたらせません。 私たちは、それについて大変多く、話してきました。 私は再び、それらに、入ろうとしていません。 なぜなら、私たちは、もう二回だけ会合を、行うからです - 次の火曜日と木曜日です。 で、私たちは、言ってきたことへ、何度も何度も、戻ってはなりません。
7:50 私たちは、二人の友として、話し合っています - 語り手が、一定の格言、一定の観念を、 定めているのではありません。 彼は、何の権威をも持っていません。 彼はただ、一緒に話し合っている友だちです - 人類の悲惨、人間の苦しみ、痛み、心配、 さびしさ、絶望、憂鬱、不確実さと、 生の騒動すべての問い全体について、です。 で、私たちは、先日、話していました - 心理的に、そもそも安全があるのかどうか、です。 私たちは、心理的な安全を、見つけようとしてきました - あらゆる形の、 幻影、執着、きずななどに、です。 それらすべての活動に、何も安全が、なかったのです - 安全とは、安定し、堅固で、変化不可能であることです。 流動していなくて、 変化していなくて、 安定性、着実さ、 大きな強さと活力の感覚、です。 私たちは、こう言いました - 全的な安全が、あるのは、 智恵の中だけである、と。
9:50 さて、私たちは、ともに探究しようとしています。 ともに、あなたと語り手は、 智恵とは何であるかを、究明します。 辞書によれば、その言葉の普通の用法は、 理解する、判別する、すばやく掴む、という意味です - 発言、観念を、何か差し出されたことを、です。 迅速に理解する。 そして、聡明である。 それは、即座に判別する能力を、持つことができる、ということです。 私たちの一人一人は、その言葉「智恵」を、聞くとき、 私たちは、それを翻訳するでしょう - 自分たちの条件づけに、自分たちの先入観に応じて、です。 私たちは、「あれは、智恵のある本だ」と、言います - 「あれは、智恵のある人だ」と。 すなわち、究明できる、観察できる、考えぬける 能力を、持っている人、です。 その言葉「智恵」(インテリジェンス)、根本的に、 その言葉の語源は、判別すること、 何かを捉えることができることだけではない - 差し出されることを、即座に、です。 それは、新しいのかもしれません。 またそれは、理解すること、 行間を垣間見ることをも、意味しています - 二つの思考の間、 一ページの行の間、印刷されていないことを、です。 そして、智恵(インテリジェンス)、その言葉こそは、 とてつもない響きを、持っています。 あなたは、その言葉が、聞こえるとき、 それは、私たちの一人一人にとって、何を意味していますか。 初めに私たちは、その言葉を聞きます。その言葉の響きを、です。 なぜなら、その言葉は、智恵ではないからです。 その言葉は、そのものではありません。 このテント - 「テント」という言葉は、その実際ではありません。 で、その言葉は、言語的に自体の意義を、持っていますが、 また、その言葉の裏に、その言葉の響きが、あります。 響きは、その言葉の、より深い意義を、収容しています。 私たちは、互いに出会っていますか。 なぜなら、響きは、とても重要であるからです。 音楽は、響きです。 急速に流れ下る、あの川は、響きを立てます。 私たちは、ほとんど響きを、聞きません。 私たちは、自分の先入観を、持っていますが、それらは、阻止します - 疎通するための言葉が聞こえることを、だけではなく、 また、その言葉の響きを捉えることをも、です。 それは、自らがよくよく気をつけて 聞かなくてはいけない、という意味です - それで、その言葉自体が、 その言葉の十分な意義を、解き明かすように、です。 そして、その言葉がもたらす響きが、あるとき、 あなたは、聞けるだけです。 響きは、雑音ではありません。 響きは、二つの音の間の、間隔ではありません。 響きは、大いなる深さを、持っています。 すなわち、きわめて明らかに聞くとき - 何の偏見もなく、 何の先入観、意見や、どの形の結論もなく、です - そのときあなたは、一言の甚大な意義を、捉えます。 「智恵」のように、その響きとともに、です。 私たちがともにこうしているのを、望みます。 なぜなら、私たちは、今朝、多くのことについて、 話し合おうとしているからです。 自らは、言葉でもって、疎通しなくてはいけないだけではない - なぜなら、私たちは、幸か不幸か、 英語で話しているからです。 そして英語は、一定の言葉に、一定の明確な意味を、持っています。 それらの言葉は、疎通するために、使われなければなりません。 「すてきな日ですね」、 「美しい朝ですね」と。 が、その言葉は、美しい朝ではありません。 言葉は、山ではありません。 しかし、あなたが、その言葉の響きを、聞くなら - 「美しい朝」を、です - あなたは、その朝の意義全体を、捉えます - そのとてつもない美しさすべて、 陰、澄んだ空気、山々とともに、です。 その響きに、すべての物事が、存在しています。
16:39 で、私たちは、ともに話し合おうとしています - 智恵とは、何ですか。 そのような問いへ、どのように接近しますか。 私たちの一人一人が、それに、異なった意味を、与えるでしょう - 私たちの能力に応じて、です。 もしあなたが、大変多く読書し、 大変多くの本を、読んできて、 大変多くの言語を話し、様々な方向で、才能に恵まれているなら、 あなたはそれを、智恵と呼ぶでしょう。 他の誰かは、あなたは能力を持たなければならない、 と言うかもしれません - 選択なく、判別できるように、です。行為です。 誰かは、こう言うかもしれません- コンピューターの複雑な 機構全体を、組み立てることは、智恵である、と。 で、一人一人が、自分の贔屓に応じて、 自分の先入観、偏見、結論に応じて、 「これが智恵だ」と言うでしょう。 しかし、本当に智恵が何であるかを、究明するには、 私たちは、何が智恵でないかを、否定しなければなりません。ですね? 私たちは、智恵でないものを、究明しなければなりません - 智恵が何であるかを、見出すために、です。 が、智恵が何であるかを、究明するには、 あなたは初めに、何がそれでないかを理解しなければなりませんね。 これが、幾らか明らかであるのを、望みます - すなわち、私たちは、何が智恵でないかを、究明しつつあることを、です。 否定をとおして、あなたは、肯定的なものに、来ます。 が、あなたは、肯定的なものでもって、出発するなら、 否定に終わってしまいます。 あなたが、子ども時代から、信じて出発するなら - 何かの形の幻影などに、信を持って、です - あなたは、成長するにつれて、 間違いなく、何をも信じないことに、終わってしまうでしょう。
19:24 で、私たちは、今、出発しつつあります - 何が智恵でないかを、見出そうと、です。ですね? すなわち、私たちはともに考えています。 語り手があなたに、何が智恵でないかを語っているのではない。 ともに、あなたと語り手は、 二人の友だちとして、この甚大な問題、そして、 とても複雑な問題を、究明しています。 何が智恵であるかを、自分自身で見出すように、です。 そうするには、 智恵でないものの否定が、なければなりません。ですね? 私たちは、この事柄について、明らかですか。 そうであるなら、私たちは、進行できます。
20:19 何が智恵ではないのですか。 戦争は、智恵ですか。 すべての獣性、嫌らしさ、 醜さ、騒音、残忍さ、流血、 他の人たちを殺すこと - それは、智恵ですか。 地上のものすべてを、殺すこと - 海中の動物、鯨、 私たちは、永続的に殺しています - 自然だけではなく、私たち自身をも、です。 私たちの頭脳は、退廃しつつあります。 あなたがこの問いに、そもそも入ったのかどうか、私は知りません。 私たちは、戦争は、智恵がないのを、見ます。 けれども、私たちはそれを、追求しています。 私たちの一人一人が、それに、責任がありますね。 あなたが、そういう責任を、認知するだろうかどうか、私は知りません。 (レバノンの)ベイルートでは戦争が、進みつつあります。 現時点で世界には、四十の戦争が 進みつつあると、私は思います。 観念、理想のために、殺し合っています - 民族、国家として、自分の地位、権力を主張するために、 そして、侵略、包囲されないために、です。 そうね、そのすべてが、進んでいます。 それは、智恵の行為ですか。 長い時の経過をとおして、進化してきた人間たちは、 近頃、二つのおぞましい戦争を、行ってきました。 けれども、彼らは、戦争の準備を、しています。 それは、大いなる愚かさの行為です。ですね? 明白です。 それの原因、それの原因の一つは、 民族主義です - それは、栄達した部族主義です。 私の国、私の空間、私の国民、 私の伝統、私の神。 そういう活動すべてが、愚かしさの行為です。 それは、智恵ではありません。 みなさんが、それに同意されると、思います。 が、私たちは、それの事実が、見えますか - それは愚かであるとの、言語的な主張だけではありません。
23:55 で、私たちの責任とは、何ですか。 私たちは、まさにぐさりと、行くでしょう。 このことが進みつつあるのを、見るとき、私たちの責任は、何ですか。 私が、民族主義と呼ばれる一定の部族、 一定の宗派に、所属しているなら - それは、分割を、もたらします。 ゆえに、葛藤を、です。 私は、その葛藤を、受け入れて、普通の伝統的な道に、従うのか、 あるいは、私は、もはやどの国にも、所属していません。 実際に、どの国にも、どの部族にも、どの集団にも、どの派閥にも、です。 ですね? または、どの宗教にも、です。 なぜなら、それらは、分割の要因であり、 ゆえに、葛藤の要因であるからです。 そして、頭脳の衰退は、 私たちのみんなに、起きてきましたが、 私たちが、生まれて、幼いとき、それはすでに、衰退しつつあります。 すみません。 葛藤は、頭脳での衰退の要因の一つか、おもな要因です。 葛藤。 そして、人間たちは、子ども時代から、死ぬまで、 永続的な葛藤の中に、います - 何らかのことについて、です。 矛盾があるとき、その葛藤は、生じてきます - あなたが、何かを言い、全然違ったことを、するとき、です。 それは、偽善です。 あなたは、友として、聞くでしょうか。 私たちは、互いに聞いていますか。 または、あなたは、ただ、「はい、そのとおりです。 私はあなたに同意します」と言って、続けていくだけです。
26:45 私たちが先日、言いましたように、これは、深刻な会合です。 娯楽ではなく、 知的な刺激とか、何かロマンチックな、感傷的なことと、 それらの戯言ではありません。 これは、きわめて真剣、深刻な集会です。 生は、ほとんどの人々にとって、大変危険になったのです。 そして、生は、見たところ、いかなる意味も、ありません。 私たちは、生を深刻に、真剣に取ることになるなら - 私たちは、智恵があるなら、そうしなければなりません - 私たちは、このすべてに、関心を持たなければなりません - ただ、それの一面だけに、ではありません。 私たちは、人間存在全体に、関心を持っています - 私たちが生まれた瞬間から、死ぬまで、です。 或る種の不条理な冥想に、入ってしまうとか、 或る導師に従うとか、 理論や理想を、受け入れて、繋がれるのではない。 これは、考慮すべき深刻な事態です。 それは、自分の頭脳を行使する、という意味です。 何が真実であるかと、何が幻影であるか、 幻影である物事を、自分自身で見出すように、です。 そして、どの種類の民族主義も、 戦争、分割をもたらしていて、 明白に、智恵の行為ではありません。 で、あなたが、何かを、真実であると見るとき、 偽りは、抜け落ちてしまいます。 もはや、葛藤は、ありません。 または、民族主義者であるまいとの決意も、ありません。 あなたは、パスポートを、持っているかもしれませんが、パスポートは・・・ 不幸にも、それは、旅行するために、必要です。 で、民族主義は、葛藤の要因の一つです。
29:31 また、先入観に取りすがることも、です。 先入観(プレジュディス)という言葉は、予め構想された意見、という意味です。 ですね? 私たちは、先入観に満ちています。 他の一人物の意見に反する、あなたの意見。ですね? そして、政治的な意見が、あります。 そして、世界中で、人々を分割することが、です。 私たちの意見は - 意見とは、提案を意味しています- 証拠を欠いていて、 何か情動的な反応に、 結論への強い固執に、基づいています。 これもまた、人々を分割しています。 ゆえに、葛藤が、あります。 私たちは生きられますか・・・どうぞ、友よ、聞いてください。 私たちは、意見なしに生きられますか - 先入観なしに、です。 結局のところ、あなたが、或る種の神を信じているとき、それは、先入観です。 あなたは、キリスト教徒として・・・ 他の誰かは、ヒンドゥー教徒や仏教徒として、 救い主を信じていないが、 あなたは、きわめて強く救い主を、信じているし、 他のやつは、信じていないなら、 それはただ、信念、信仰の事柄です - 何の証拠もなしに、です。そして、或る人物への、あなたの信念は、 世の中に、平和をもたらしてきていません。 あなたが、このすべてを見るとき - いかに信念、先入観、結論、理想が、 人々を分割し、ゆえに、葛藤を生み育てるかを、です。 そういう活動は、明白に、智恵ではありません。 で、あなたは、それが聞こえるとき、 あなたの先入観すべてを、落としてしまうのでしょうか。 自分が何であるのか、自分が何でないのか、あなたが何であるべきか などについての、あなたの意見すべてを、です。 あなたは、それらすべてを、落としてしまうのでしょうか - それで、 自由な精神、取り散らかっていない精神を、持つように、です。 もしあなたが、「それは可能でない」と言うなら、 あなたは、けっして、自分自身で見出さないでしょう。 私たちは、友として、話しています - あなたは、智恵を持つとは、どういうことかを、けっして見出さないでしょう。 ゆえに、あなたは、 いつも幻影に、安全を探求するでしょう。 けっして、安全を見つけないで、 ゆえに、大きな騒動、混乱、神経症的な活動の中に、いて、 感傷癖とロマンティズムへ または、官能性の中へ逃避します。 これが、起きつつあることです。ですね?
33:29 で、私たちが言いましたように、 頭脳の衰退のおもな要因の一つは、 この常なる分割です - それは、葛藤を生み育てます。 なぜ私たちに、分割、断片化が、ありますか。 私たちが互いに、この質問をしているのを、望みます。 私が・・・語り手が、質問をしていません。 私たちは、互いにこの質問を、し合っています。 あなたが、その質問をしています。 なぜ世界中で、人間すべてに、この矛盾、 この断片化が、あり、 ゆえに、断片すべてをまとめたい、 充足したいとの衝動が、ありますか。 で、私たちは、検討しようとしています。 なぜなら、私たちは、智恵が本当に何であるかを、見たいからです - 至高の智恵です。 思考の智恵ではなく、 知識の智恵ではなく、 経験の智恵ではない。 なぜなら、その智恵は、制限されているからです。 なぜなら、経験は、制限されていて、知識は、制限されているからです。 ゆえに、何でも制限されているものは、智恵ではありません。 私たちが互いに出会っているのを、望みます - 小道を歩いて行く、二人の友として、です。 静かに、ベンチに座り、鳥たちを聞いていて、 流れゆく小川を、聞いていて、 美しい山々を見て、 静かで、止まり、理解に対して、 自らの究明を交換し、確立しています - 単に知的に、言語的に理解するだけではなく、 自らの生において、この智恵の性質を、確立しています。
36:36 なぜ、私たちには、この二元性、これら対極が、ありますか。 ほしい、ほしくない。 あるものと、あるべきでないものや、 あるものと、あるべきもの。 これらに、付いてきておられますか。 貪欲だ。自分は、貪欲であるが、自分は、貪欲であるべきではない。 自分は、暴力的であるが、自分は、暴力的であるべきではない。 自分は、鈍い、愚かであり、順応するか、模倣する。 自分自身を比較する- 自分の愚かさを、 愚かでない誰かと、です。 で、私たちは、この常なる格闘を、持っています。 それは、明白な事実です。 あなたは、これらに興味を、持っていますか。 本当に確かですか。
37:40 聴衆: はい。
37:43 K: で、あなたたちが、眠りに就かないだろうことを、望みます。 あなたが本当に、それに興味を持っていて、 それを終わりまで追求し、それを落としてしまうなら - 「私は、気軽な興味を持っている」と、言うだけではない。 あなたは、お金儲けに、気軽な興味を、持っていません。 あなたは、セックスをすることに気軽な興味を、持っていません。 あなたは、職を持つことに、気軽な興味を、持っていません。 あなたは、職を持たなくてはいけません。 あなたは、お金を持たなくてはいけません。 で、このほうが、職、セックスや、 他のどのことより、はるかに重要です。 なぜなら、その智恵があるとき、 それは、私たちの生の分野すべてに、作動するだろうからです - 私たちの存在の区域すべてに、です。 ですが、私たちは不幸にも、けっして、その最後まで行きません。 そういうわけで、私たちはみんな凡庸であるのです。 そう言うのを、お許しください。 凡庸(ミーディオーカー)という言葉は丘を途中まで、登る、という意味です - けっして、丘のまさに頂上へ、行きません。 私たちは、智恵の生を、理解しよう、生きようとしています。 そうするには、葛藤の原因が何であるかを、見るだけではなく、 原因を終わらさなくてはなりません。
39:49 何が、事実であり、何が、事実でないのですか。ですね? 事実があるだけのとき、事実は二元性を、持ちません。 理解されますか。 事実は、対極を、持ちません。 愛は、憎しみとしての対極を、持ちません。 で、事実(ファクト)とは - 前に起きたこと、それは、事実です。 または、今、起きつつあること、それは、事実です。 が、私たちは、前に起きたことから、結論を引き出し、 その結論に、取りすがります。 その結論は、事実ではありません。ですね? または、今、起きつつあること、それは、事実ですが、 私たちは、けっしてその事実を、見つめません。 が、いつも、事実を、観念として、抽象化するのです。 それから、観念を追求します - それは、非事実です。ですね? これは、明らかですか。 または、私は自分自身に、話していますか。 で、私たちは、ただ事実にのみ、留まられますか。 私は、妬んでいる。 それは、事実です。 私個人が、ではありません。私は妬んでいません。私は気にしません。 仮に、自分は妬んでいる、とします。 それは事実です。それは、起きつつあることです。 妬みと呼ばれる反応です。 その事実の中から、私たちは結論を、引き出します - すなわち、私たちは妬んではならない、と。 で、私たちは非事実を、追求します。 で、「有るもの」への対極を、創り出します - 明らかですか。 で、あなたが、非事実を追求しないで、事実に留まるなら - そして、その事実は、あなたです。 あなたは、事実より分離していません。ですね? あなたがこれを見ることは、困難です。 なぜなら、私たちのほとんどは、こう言うからです - 「私」は、行為(作用)より異なっている。 「私」は、反応(反作用)より異なっている。 「私」は、私の怒りより、私の妬みなどより、異なっている、と。 それが、私たちが条件づけられてきたことです。 それは、私たちが、葛藤に条件づけられてきた、という意味です。 さて、誰かがやってきて、「ほら」と言います - 「頭脳の衰退を、終わらせること - そのときだけ、頭脳は智恵を持ちうる」と。 その衰退要因を、終わらせることは、 事実に取りすがり、非事実すべてを片付けてしまうことです。 理想主義、観念論はなし。 結論はなし。 先入観はなし - 理解されますか -ただ事実だけです。 事実は、自分が妬んでいることです。 さて、あなたが、事実に取りすがるなら、そこには、何が含意されていますか。 他のもの - あなたが、非事実を追求するとき、時が、関与しています。 これを理解なさるのかどうかと、思われます。 私はこれを、困難にしていますか。 私が、暴力的であるとき、非暴力を追求するとき、 非暴力を達成する追求は、時を、必要とします。ですね? 非暴力的になることは、時を、必要とします。 ところが、あなたが事実に、留まるなら、 そこに、関与した時は、ありません。 これをご覧になるのかどうかと、思われます。 どうぞ、これは、重要です。 で、私は今、探究しなくてはいけません - 時とは、何ですか。 あなたは、進んで、これらに入ろうとしていますか。
45:23 まあ、それは、あなたしだいですが、私は、進もうとしています。 どうぞ、留意してください - 私たちは、ともに話し合っている友だちであるのです。 あなたは、言われつつあることを、単に聞いていません。 あなたは、言われつつあることを、分かち合っています。 それが、友の活動です。 あなたは、見知らぬ人へ話しません。 たぶん、彼は興味を持ちません。 が、友だちとして、私たちは、この事態について、話し合っています - 時とは、何ですか。 なぜなら、私たちの生すべては、時に、基づいているからです。 百万年の経過の進化は、時です。 私たちがそうであってきたものは、時を、必要とします - ここからあなたの家へ行くために、必要とされる時だけではありません。 何かになるための時だけではありません。 事務員から、最高責任者になる - それは、時を必要とします。 あなたは、技能、能力を持っているなら - ひねくれたことと、その他すべてを、です - そのときあなたは、頂上に到ります- あなたが、そうしたいなら、です。 そのすべてが、時を必要とします。 言語を学ぶことは、時を、必要とします。 で、一定の区域での時は、必要です。 あなたは、一定の列車に間に合いたいなら、 一定の時に、そこにいなければなりません。 そして、そもそも、心理的な時が、ありますか。 明日が、です。 どうぞ、気をつけて、これを理解してください。 さもないと、私たちは、あらゆる種類の有害な観念を、創り出すでしょう。 時。 時は、望みです - 心理的に、です。 時は、心理的に、何かになるために、必要とされます。 自分は、妬んでいます。妬まなくなることは、時を必要とします。 で、私たちの頭脳は、時へ、そして、時により、条件づけられています。ですね? 明らかですか。 私たちは、千年の経験をしてきました - そのすべての経験を、蓄積することは、時を必要とします。 大変多くの知識を、取得することは - 心理的な知識を、です - 時を、必要とします。 記憶の経過は、時ですね。 それで、記憶は・・・ 思考は、記憶の応答です- それは、時です。 で、思考は、時です。 これは、すべて・・・いいえ? ああ、神様!
49:19 さて、これが、私がいう意味です - これを即座に捉える(能力)、 それの真理を見る能力を、持つ。 すなわち、 経験は、いつも制限されていますね? あなたは、完全な経験を、持ちえません - 何についても、です。 で、経験は、制限されています。 ゆえに、知識は、制限されています。 それは、事実です - あなたが、それを好きでも、好きでなくても、です。 それで、記憶は、知識に基づいています。 ゆえに、記憶は、制限されています。 あなたは、自分の若い頃から憶えているかもしれません - すべての物事、長い時の経過、 過去の物事の思い出を、です。 そのすべてが、制限されています。 それで、思考は、間違いなく、 いかなる境遇のもとでも、制限されています。ですね? で、思考が創り出してきた物事すべては、制限されています。 世界の、すべての宗教的な構造は、 思考により組み立てられて、制限されています。 これを理解されるのかどうかと、思われます。 あなたが、インドに生まれたなら - 私は、あなたたちのキリスト教世界について、話をしないでしょう。 なぜなら、あなたは、うろたえるかもしれないからです。 あなたが、インドに生まれたなら、 または、仏教国に、なら、 ブッダや、ヒンドゥー教の誰かが、言ってきたことが、 完全であり、終了しています。 彼らは、イメージ、像を、崇拝します - それが、絶対的、永続的で、果てしなく続く真理であると、考えて、です。 あなたたちが、ここで、自分なりのやり方で、やるように、です - 私があなたに、それを指摘するのを、気にされないなら、です。 そのすべてが、思考の活動です。 彼らはみんな、それが、真理の直接的啓示であると、言います。ですね? - あらゆる宗教、組織が、それは、真理の啓示であると、言います。 が、真理は、書物をとおして開示できません - 人物をとおして、観念をとおして、 式典や、信仰を持つことをとおして、です。 真理は、見つけられなくてはいけません - それについて、語られるのではなくて、です。 ゆえに、完全な自由が、なければなりません。 完全な自由があるときだけ、 葛藤が、ありません。 頭脳が、そのただ一つの道具 - すなわち思考 - とともに・・・ その思考は・・・ その思考は、私たちの生のただ一つの道具です。 考えるすべてが、制限されていることを、悟らなければなりません。 ゆえに、間違いなく葛藤をもたらすことを、です。 私が、自分のひどい小さな自己について、一日中、考えているとき - ほとんどの人々が、そうするように、です - それは、確かに、きわめて制限された業務です - いいえ?
53:51 で、時は、思考の動きです - 物理的にも、心理的にも、です。 時は、過去だけではありません。 未来と現在も、ですね? 過去からの、この動き全体が、 現在をとおして、それ自体を修正し、 さらに進行していく。 その動き全体が、思考と時です。ですね? これに付いてきておられますか。
54:32 で、そのとき、訊ねます - それが、時の過程であり、それが、制限されているなら - これらに付いてきておられるのを、望みます - それが制限されているとき、それは、葛藤を創り出すにちがいありません。 ゆえに、頭脳の衰退の要因の一つです。 そのとき、頭脳がそもそも衰退しえないのかどうかを、 探究するには、 「今」が何であるかを、理解しなければなりません。 これらを理解されますか。 あなたにとって、「今」は、何ですか。 「今」は、あなたがそこに座っていて、 聞いているときですか - 参加していて、分かち合っている。 それが、「今」ですか。 気をつけて見て、それに、入ってください。 「ええ、それは、その一部です」と仰らないでください。 「今」は、過去だけではなく、現在も、です。ですね? 過去とは、あなたが、ここに来ようと結論をしたことです。 ゆえに、あなたはここに、座っています。 未来は、あなたが、テントを去り、行ってしまうときですね。 で、「今」は、過去、現在、未来を、収容しています。 過去は、あなたが、ここへ来て、 こいつの話を聞こうと、決断したことです。 そして、あなたは、そこに座っています。 また、「今」は、あなたがここで終了して、行くとき、です。 で、「今」は、過去、現在、未来を、収容しています。 すなわち、「今」は何の時をも、持ちません。
56:58 で、あなたは、「今」に留まるとき、過去を理解します - 人間の経験すべてとともに、です。 あなたは、それの(存在)です。ですね? あなたの意識は、その内容とともに、 過去、現在、未来です。 ですね? あなたの意識は、それです - あなたが信じていること、 あなたが信じていることを、あなたは、語られてきました。 あなたは、専門家により、プログラムされてきました - 政治において、宗教において、教育において、などです。 それは、過去です。 ですね? これらに付いてきておられますか。 過去は、今、そこにあります。 そして、未来は、その過去から、出てきたものです。ですね? - それは、すでにここに、あります。 で、「今」は、すべての時を、収容しています - 過去、現在、未来として、です。 これを深みにおいて、理解する - それで、「今」が、全部を、収容しているように、です。 すべての存在は、今です。 ゆえに、「今」を離れた動きは、ありません。 事実を離れた動き・・・と非事実は、ありません。 事実を離れた、非事実への動き - それは、終わってしまいました。 ゆえに、葛藤が、ありません。 これらを理解されるのかどうかと、思われます。 言語的に、ではありません。どうぞ、言語的に取らないでください。 それの真理を、見てください。 それで、頭脳は、何千年の間、生きてきましたが - それは、あなたの頭脳ではありません。 それは、あなたの思考ではありません。 それは、人類の全体の思考です。 私たちは、ここ数日前に、よく気をつけて、それに入りました。
59:57 で、事実は、「今」です。 そして、事実は、すべての過去、現在、未来を、収容しています。 ですが、その事実を、聞く- 理解されますか - 事実が、内容を開示するように、です。 あなたが、事実へ、その内容が何であるかを、語るのではない。 これらを理解されるのかどうかと、思われます。 私たちは、ともに考えていますか。 または、あなたは、単に、語り手の言葉を、幾つか聞いていて、 ゆえに、混乱していますか。 私たちは、ともに考えていますか。 すなわち、私たちは、今です。 過去だけではありません。 すべての記憶、すべての活動、 痛み、心配、傷、 さびしさ、苦しみ、痛み、恐れ。 あなたは、今、それらです。ですね? そして、未来は、今、あるものです。ですね? 明白です。 で、未来と過去は、今、存在しています - 今のあなたなるもののせいで、です。ですね? これは、こうも信じがたくも・・・何が困難ですか。 あなたの困難を、表明していただけるでしょうか。 どうぞ、きわめて単純に、です。 それを錯綜させないでください。 あなたは、過去ではないですか。 あなたの教育、 あなたの、プログラムされたこと- スイス人として、イギリス人として、 ドイツ人として、ヒンドゥーとして アメリカ人、ロシア人などとして、あなたは、プログラムされてきました。 そのプログラムは、過去です。ですね? で、過去は、あなたの蓄積された記憶です。ですね? それらの記憶は、頭脳に蓄えられています。 で、過去は、今です。 ですね? そして、今はまた、未来をも、収容しています。 根源的な変異が、あるのでなければ、です - 理解されますか。 すなわち、頭脳のまさに細胞こそに、 完全な変異が、あるのでないと、 あなたは、過去の記憶です。 そして、記憶として、未来に継続します。 未来は、今です。 ゆえに、過去は、今です。 それは、明らかですか。 根源的な心理的変化が、あるのでなければ、です。 すなわち、人間の頭脳の、この条件づけが、あるとき、 その条件づけは、記憶です - 私は、カトリックだ。 私は、プロテスタントだ。 私は、ヒンドゥー教徒だ。 私は、仏教徒だ。 私は、神を信じていなくて、私は、マルクス、レーニンを信じている。 それは、違った言葉での、同じことです。 私の導師のほうが、あなたの導師より、良い。 その他すべての事柄です。 で、私たちの一人一人の頭脳は、条件づけられ、プログラムされています - それは、過去の広大な蓄積です。 それは、十分に単純です。 で、私たちは、記憶です。 あなたは、自分が、記憶より優れた何かであると、考えるかもしれませんが、 あなたは、そうではありません - あなたが、自分は優れていると、考えるときさえ、です。 その思考こそが、記憶です。ですね?
1:04:40 で、記憶は、時の動きです。 現在における未来としての時です。 で、あなたが、その事実に留まり、それより動いて離れないなら - すなわち、あなたは今である。 あなたは、残りのすべての時です。 ですね? そのとき、あなたが悟るとき、 事実が開示されるとき - すなわち、あなたがそれであることが、です。 そして、あなたが、自らの完全な注意を、注ぐなら - それより逃避しないで、です。 よろしいですか - その記憶は、あなたです。 あなたは、その記憶より異なっていません。ですね? で、あなたとその記憶の間に、分割が、ありません。 分割が、あるとき、葛藤が、あります。 で、観察者は、観察されるものです。 経験者は、経験されるものです。 分析者は、分析されるものです。 などです。 そのとき、葛藤は、終わります。 分割が、あるときだけ、葛藤は、存在します。 ゆえに、そのとき、頭脳は、何も葛藤を、持ちません。 ゆえに、頭脳の衰退が、ありません。 しかし、私たちの頭脳のほとんどは、衰退してきました。 または、衰退しつつあります。 それは、事実です。 それで、なぜかを、発見しなくてはいけません - 衰退の原因は何であるのかを、です。 本質的に、葛藤です。 怯えている精神、恐れの中に生きる頭脳 - 私たちは次回、それについて、議論するでしょう - 恐れと、その他すべて、です。 そういう頭脳は、衰退するにちがいありません。 常なる官能性、性行為を探し求めている頭脳は、 衰退するにちがいありません。 これらは、事実です。
1:07:25 で、生きる道を、見出すこと - そこに葛藤の影もない、生きる道を、 見出すことは、可能ですか。 そのとき、あなたの頭脳、頭脳は、とてつもなく生きています。 そのとき、その活動は、全体的です。 なぜなら、それは自由であるからです。 自由(フリー)という言葉は、また、(フレンドと同じく)愛を意味しています。 愛は、対極を持ちません。 愛は、欲望ですか。 愛は、思考の活動ですか。 私たちのほとんどにおけるように、そうであるなら、それは、愛ではありません。 関係において思考が - 親密な関係においても、 思考の活動が、あるなら、そのとき、愛はありません。 それに入ってください。私たちは、別の時、それに入るでしょう。 立ち上がってもいいですか。 立ち上がってもいいですか。どうぞ。