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SA83T6 - 宗教と冥想
公開講話、第6回
スイス、サーネン
1983年7月21日



1:39 今朝のほうが、涼しいと、思います - そうでないですか。 これは、最後の講話です。 日曜日、月曜日と火曜日に、 質疑応答の会合が、あるでしょう。
2:16 私たちが、自らの生に秩序を確立してしまったときだけ、 宗教とは何であるかを、訊ねられると、私は思います。 私たちは、無秩序の中に生きます。 混乱し、不確実であり、 様々な欲望に駆り立てられています。 私たちは一般的に、自らの無秩序の中で、もがいてゆきます。 その無秩序は、自らの秩序を、持っています - 西洋では、鉄道は、多かれ少なかれ、時刻通りに、走ります。 航空機は、時刻通りに、飛び立ちます。 電話は、地球の反対側へ直接、つなげられますが、 アジアの国々では、そうではありません。 列車は、七、八時間ほど、遅れているか、 丸一日、遅れています。 誰も注意を払いません。 それは、日常生活の一部です。 で、この世界には、無秩序の中に、秩序が、あります。 が、全的な秩序が、あるのでなければ - 無秩序の中から、ではありません。 それは、恐れから、すべての傷から 自由があるとき、訪れうるだけです - 子ども時代より受けてきた、すべての傷、 心理的なものとともに、物理的な負傷からも(自由なとき)、です。 そして、楽しみの意味と 追求を理解すること- なることの(それを) - と、 悲しみが終わること、です。 そのときだけ、自由と秩序が、あるところ、 そのとき、本当に訊ねられます - 宗教とは、何ですか。
4:56 自らが、「宗教とは何か」と訊ねるなら、 私たちは、無秩序で散らかった頭脳の生活を、生きるとき、 私たちは、様々な宗教を、創案するでしょう - 私たちが、そうしてきたように、です。 様々な既存の正統派の宗教、 書物に基づいた宗教を、 キリスト教とイスラム教の世界のように、です。 ところが、インドでは、 そこには、三千以上・・・いえ、三十万ほどの神々が、います。 一人の神を持つより、そのほうが、はるかに面白い。 そのときあなたは、それらすべてを、玩べます。 或る日、あなたは、楽しませてくれる一人の神を、選べます。 来週、別のを、などです。 あなたは、自分の神様を選んで、 二、三年間、一周、回ってゆけます。 そのすべてが、宗教と呼ばれます。 既存で、正統派で、 信仰に基づいています。 それら宗教は、それが、キリスト教でも、 ヒンドゥー教でも、仏教でも、イスラム教の世界でも、 私たちの日々の生とは、何の関わりも、ありません。 それらは、見せかけの世界、 ロマンチックな世界、 感傷的な、想像力豊かな、 表面的に慰めてくれる世界です。 私たちは、みんなそれを、知っています。 その混沌の無秩序の中から、 私たちは、とても慰めてくれる宗教を、 どうにか創り出すか、もたらします - それは、日常生活において、何の妥当性をも、持ちません。 それは、何の根源的な意味をも持ちませんが、 自らは、それへ行きます - あなたが、或る種の娯楽と感動へ、行くように、です。 そして、常なる儀式の反復、 お香、それらをご存じです。
7:31 で、語り手は、一般的に、(一連の)講話の終わりに、 宗教と冥想を、置きます。 なぜなら、私たちがここで、ともに行ってきた これら五回の講話すべての後で、 私たちは、生の構造全体と事柄を、 理解してきたからです。 おそらく、私たちの幾人かは、深く 恐れより自由であり、 もはや、様々な心理的な傷を、持ち運んでいません。 そしてまた、楽しみを追求することの 無益さをも、理解しました。 おそらく、幾人かは、苦しみの意義と、 苦しみが終わるのを、掴んできて、 それにより、愛と慈悲と呼ばれる とてつもないものを、持っています。 そのとき、私たちの生に秩序が、あるとき - 思考により誘引されたのではない。 思考は、けっして秩序を、もたらせません。 事実の知覚のみが、それをできます。 他の何もできません。 その秩序の中から - それは、明瞭な、先入観なく、 偏見ない頭脳を、持つことを、意味しています。 そのときだけ、私たちは訊ねられると、思われます - 宗教とは、何ですか。 理解されますか。 これは明らかにされたと、望みます。
9:48 なぜなら、自らが恐れているなら、 そして、その恐れより逃避することは - どれほど深くても、どれほど表面的でも、 それに気づいているなら、です。 恐れがあるなら、あなたは、何でも、好きなことを、考案できます - 大変慰められ、満足できるなどのを、です。 私たちのほとんどは、そうします。 そして、その考案は、 何か優れたものの、想像力豊かな、その構造は、 恐れの中から、生まれます。 ゆえに、宗教とは、宗教的な頭脳とは、 いかなる関わりも、ないのです。
10:39 で、私たちは、今朝、ともに、 宗教とは何であるかを、 究明しようとしています。 また、その究明の中で、 私たちは、冥想が何であるかを、発見しようとしています。 何か私たちの日常生活の外側のものとしての、冥想ではない。 それはまたもや、とてつもなく表面的になります。 または、あなたは、正しい種類の冥想を行うことにより、 そのとき、その冥想は、私たちの日常生活に、影響するだろうと、 考えるかもしれません。 理解されますか。 ところが・・・ 冥想は、何かとてつもなく重要なことです - 自らが、冥想の意義を、知るなら、理解するなら、です 実践と、進んでゆくばかげた戯言すべてではなく、 それの深い意義です。 私たちは今朝、それについて、ともに話そうとしています。 いいですね。これは、明らかですか - ここまでは。 それで、私たちはともに、進んでゆけるのです。 語り手が話を進めていく、 あなたは、眠そうに話に付いてくるだけ、ではない。 ともに、です。 ともに責任を持つ - 宗教とは何であるか、それが、日常生活において、 どんな所を持つかを、見出すように、です。 それの過程において、 冥想の深さと美しさが何であるかを、 私たち自身で、発見する。 語られるのではなく、私たち自身で、です。 なぜなら、あなたたちは、今、様々な導師を、持っているからです - 自らの最新の冥想の体系を、持ってくる者を、です。 そして、一定の硬貨と引き替えに、です。あなたは支払います。 それから、あなたは学びますが、それはこうも、不条理に思われます。 それは、ビジネスの業務に、なります。
13:20 私たちは、宗教と冥想のこの問いに 入る前に、指摘してもよろしいなら、 私たちは、聞くとは、どういうことであるかを、 理解すべきです。 私たちは、私たちの一人一人は、聞きますか、聞こえますか - 私たちが互いに言い合うことを、です。 または、あなたは、話をしている。 あなたは私に、何かを語りたいし、 私はあなたに、何かを語りたい。 あなたが私に語りたいことは、私があなたに語りたいことより、 はるかに重要になります。 で、この戦いが、進みつつあります。理解されますか。 あなたは、言いたい - あなたは、ほとんどの時間、あなた自身に話しています。 そして私は・・・他の一人が、やってきて、あなたに何かを語りたい。 あなたは、聞くための時間や傾向や 意図を、持っていません。 それで、あなたは、けっして相手のやつに、聞きません。 それで、この常なる難聴が、あります - 難聴の中での、空間の感覚、です。 それで、私たちは、けっして互いに聞かないのです。 耳で聞こえることが、あるだけではなく、 また、言葉の意味を聞くことも、あります - 言葉の意義を、です。 また、言葉の響きをも、です。 響きは、とても重要です。 響きが、あるとき、空間が、あります。ですね? さもないと、響きはありません。 あなたが、空間を持っているのでなければ、です。 そのとき、あの空間の中にのみ、響きは、起こりえます。 で、聞くことの芸術は - 大変尊敬をこめて、ご指摘を申し上げていいなら - 耳で聞こえることだけではなく、 また、言葉の響きを聞くことでもあります。 言葉は、響きを持っています。 その響きを聞くには、空間が、なければなりません。 ところが、あなたが、言われつつあることを、いつの時も、 翻訳しつつ、聞くなら- 自分の先入観と、 自分の楽しめる過程や、楽しめないそれに(翻訳)、です - そのとき、あなたは、まったく聞いていません。 これは、明らかですか。 私たちは今朝、聞こうと試みられますか - 語り手が言っていることを、だけではなく、 言われつつあることへのあなた自身の反応をも、聞くのです。 あなたの反応を訂正するとか、 言われつつあることに、順応するように、ではない。 で、この過程が、進みつつあります。 語り手は、何かを、言っています- あなたは、それを聞いています。 またあなたは、言われつつあることへの自分の反応をも、聞いています。 そして、響きに、空間を与えます。 - すなわち、あなた自身の反応に、です。 また、言われつつあることにも、です。理解されますか。 それは、ものすごい注意を、意味しています - 或る種の恍惚に入ってしまうだけではない。 行ってしまい、「それは、すばらしい講演だった」と言うのではない - 「あの朝、とてもすてきだった。 それは、とても良い演説だった。 それはこれだ。それはあれだ。 私は、そこにいるのが、嬉しかった。 彼は私に、たくさんのことを、語ってくれた。 私は、それについて考えていなかった」とか、それら戯言を、です。 ところが、あなたが聞くなら、 そして、その聞く中に、奇跡が、あるのです。 奇跡は、あなたがこうも完全に、 言われつつあることの事実とともにいて、それを聞いている、 そしてまた、あなた自身の応答をも、聞いている、ということです。 それは、同時的な過程です。 あなたは、言われつつあることを、聞きます そして、言われつつあることへのあなたの反応を、です。 それは、同時的です。 そのとき、それの響き全体を、聞く。 それは、空間を持つ、という意味です。理解されますか。 で、あなたは、聞くことへ、注意全体を、注ぎつつあります。 これは、明らかになりつつありますか。 これは、芸術です - 大学へ行くことにより、学ばれるべきことではありません。 あなたは聞くのを学んだと、何かの学位に合格することによって、ではなく、 あらゆる物事を聞く - あの川が流れていくのを、 鳥を、航空機を、 あなたの妻を、あなたの夫を、です。 そのほうが、はるかに困難です。 なぜなら、あなたたちは、互いに慣れてしまったからです。 あなたは、彼女が言おうとしていることを、ほぼ知っています。 彼女は、あなたが言おうとしていることを、よくよく知っています - 十日の後、十年の後に、です。 で、あなたは、聞こえるのを、すっかり、閉ざしてしまったのです。 理解されますか。ここで私たちは、何か全然違ったことを、訊ねています
20:34 - 学ぶこと、です。明日ではなく、今、私たちがそこに座っていて、 聞くことの芸術を、学ぶことです。 すなわち、聞くこと、 あなた自身の応答に気づくことと、 あなた自身の鼓動の響きに、 空間を認めることです。 そして、聞くこと - それは、全的な過程です。 分離したのではなく、統一的な聞く動きです。 これは、お分かりになりましたか。 これは、芸術です。 これは、あなたの最高の注意を要求する芸術です。 なぜなら、あなたがそう注意するとき、 聞く者は、ありません。 ただこの事実だけが、あります。 または、事実の実在性か、 事実の偽りが、見られます。 ですね? 私たちが今朝、そうしているのを、望みます。 なぜなら、私たちは、何かきわめて複雑なことへ、入ろうとしているからです。 そして、もちろんあなたが、 何かロマンチックな恍惚へ、入ってしまいたいのでなければ・・・ それは、だいじょうぶですが、 あなたは本当に、頭脳の本性を、探査したいなら - すなわち、宗教的で、冥想的な頭脳、です - あなたは、あらゆる物事を、きわめて注意深く、聞かなくてはいけません - あの航空機を、です。 それで、あの雑音と、語り手が立てている雑音と、 あなたが立てている雑音との間に、 何も違いが、ないように、です。 理解されますか。 それは、ものすごい川が、動いているのに、似ています。 で、どうぞ、今朝、眠りに就かないでください。 または、一種の想像力豊かでロマンチックな恍惚へ、入ってしまわないでください。
23:31 私たちは、宗教が何であるかを、究明しています。 それは、思考の構造ですか。 または、それは、思考を越えていますか。理解されますか。 私たちが、これらの講話をとおしてずっと、言ってきたように、 私たちがどちらも、それを理解してきましたが、 思考は、 いつも、経験、知識、記憶に基づいていますが、 それは、きわめて制限されています。 それは、明らかです。 そして、何でも思考により投影される、 組み立てられるものは、いつも制限されています。 世界の様々な宗教は、 思考により、組み立てられてきました。 それは神聖な啓示である、 馬の口から(本人から)直に、だと、言えます。 その言い回しを、理解されることを、望みます - (馬の口から直に、という)英語の言い回しは、 それを、最高の者より直接的に得た、という意味です。 伝えられるべきそれは、思考に、表されます。 あなたは、それを紙に、記します - その紙が、二千年前のであっても、 五千年前のであっても、 それは、やはり思考の活動です。ですね? そして、すべての長話、すべての言葉、儀式 - よろしいですか - 宗教的な動きの構造全体は、 思考に、基づいています。 あなたは、思考が創り出してきたものを、神聖化でき、 それから、それを崇拝できます- 私たちのほとんどが、 それを宗教的と呼んで、そうするように、です。 それはただ、頭脳がいかに、幻影の過程に 捕らわれているかを、示すだけです。ですね? 私たちは、その点が、明らかであるなら、 そして、私たちは、宗教が何であるかを、見出そうとしています - 制限された思考により、組み立てられていないものを、ですね。 あなたが、自分の導師を受け入れ、彼が言うことすべてを、するとき、 それは、きわめて制限されています。ですね? 彼は、啓明について、話をし、 あなたを、真理とそれらへ導いているかもしれません。 それは、やはり、思考の活動です、 私たちは、それについて、考えています。 私たちは、「それは全く正しい。 それに従おう」と、言います。 あなたは、それらを見てきました。 ご覧になるのかどうかと、思われます。
27:02 で、自らは、どの導師にも、所属できません - どの体系にも、 どの方法にも、です。 ですね? なぜなら、それらはすべて、思考の産物であるからです。 ですね?同意されますか。 いいえ。 あなたは、あまりに参与しすぎています。 ゆえに、あなたは、本当に、宗教的な頭脳の、 ものすごい活動であるものを、 けっして理解しないでしょう。 さて、思考を越えているものを、検討することは - 理解されますか。 思考が検討するのではない。 それが、困難です。 思考の活動は、制限されていることが、私は個人的に分かります - 全面的に、どの方向でも、 それが、テクノロジーの世界にあっても、 コンピューターの世界などにあっても、 または、心理的にでも、 活動すべてをともなった思考は、制限されています。 ゆえに、葛藤が、あるにちがいありません。 それは、理解できました。 それが理解されるとき、 何か思考の活動ではないものを、 探査できる道具は、何ですか。 それは、可能ですか。 問いを理解されますか。 どうぞ、気をつけて。 私たちは、ともに働いています。皆さんの頭脳すべてを、これに注いでください。 思考は、自体の活動を、究明できます - 自体の制限を、自体の過程を、です。 物事を組み立て、それを破壊し、他の何かを創造することの(過程)を、です。 思考は、自体の混乱の中で、一定の秩序を、もたらしえますが、 その秩序もまた、制限された秩序です。ですね? ゆえに、それは、至高の秩序ではありません。 秩序は、存在の事柄全体を、意味しています。
29:52 で、その言葉「探査する」は、おそらく、間違っています。 「究明する」は、間違っています。 なぜなら、あなたは、何か思考を越えているものを、 究明できないからです。 理解されますか。 あなたは、それについて本を書けるし、 そこから、たくさんスリルを得られますが、 あなたは、その種類のゲームを果てしなく、やれます。 神学者と、興奮した人々は、 これらの種類のことを、やれます。 しかし、理解するには - 思考の何の動きもなく、観察することは、 可能なのかどうかを、です。 理解されますか。 観察する - あの樹を観察する、 あの小川を聞く - それは、当然、観察の一部です。 その言葉の何の介入もなく、です。 樹、川。 過去の憶えたことが、 あなたの観察へ入る動きなしに、観察する。 それは、完全な自由を、必要とします - 観察者としての過去から、です。 そして、ただ観察する。 これを理解されますか。 私たちは、ここで、互いを理解し合っていますか。 もう少し、それに入りましょう。
31:54 私たちが見つめるとき- あなたの妻を、夫を、 友だちを、または、通り過ぎる列車を、です - 列車、妻、夫、樹は、 すべて、特定の名を持っています。 名は、記憶と連携しています- それは、時です。ですね? 記憶は、出来事と思い出の間隔に、 起こりうるだけです - それは、時です。 ですね? で、あなたは、見、聞き、観察できますか - 思考の動き全体なしに、です。 すなわち、時なしに、です。ですね? あなたは、それをできますか。 どうぞ、これを聞いてください。それは可能でないと、言わないでください。 または、「はい、それを得ましょう」とも、言わないのです。 自らは、観察しなくてはいけません。 あなたがいかに樹を見つめるのかが、実際に見えなくてはいけません - 朝のあの雲を、です。 朝日に照らされて、 深さと美しさと光と、 ものすごい活動に満ちている。 「雲」という言葉なく、あれを見つめる。 それは、相当に簡単です。 なぜなら、それは、私たちと何の関わりも、ないからです。ですね? あなたは、その言葉なく、その樹を、見つめられます。 または、列車や、川を、です。 「川」という言葉は、あの川ではないのです。 それは、川です。 世界の川すべて、ですね? ですが、あなたが、川を、一つの特定の川に、連携させるなら、 そのときあなたは、川々の動き全体をけっして理解できません。ですね? あなたは、ひどくたくさん見過ごしています。
34:18 で、あなたは、その言葉なしに、観察できますか。 それは、すべての思い出と連携なく、 観察する、という意味です - その言葉が含意し、収容しているものなしに、です。 あなたは、自分の妻を見つめられますか。 または、彼女や、夫を、 「妻」という言葉なしに、 その言葉が収容する、すべての思い出なしに、です。 理解されますか。これの重要性を、見てください。 それで、あなたが、彼女や彼や、川を、 まるで初回かのように、見つめるように、です。 そうね、あなたは、朝に目覚めるとき、 あなたは、窓の外を、見つめ、 これらの山々と、 谷と、樹々と、緑の野原と、 谷中に散らばった山荘を、見ます。 それは、驚くべき光景です - まるであなたが生まれたばかりかのように、それを見つめるとき、です。 それは、何の偏見もなく、観察する、という意味です。 ですね? 何の結論、先入観もなく、観察する。 私たちが話しているとき、あなたは、そうなさるでしょうか。 あなたは、半ば眠っているなら、これをできません。 これはまたもや、要求します- 注意を、ではない。 何が含意されているかを、見てください。 すると、ゆえにあなたは、楽にそうします。 私は、自分の妻を、すべてのイメージ、出来事、 記憶、傷とそれらから、見つめるなら、 私はけっして、彼女を見つめません。 私はいつも、彼女を、イメージ、過去の記憶から、見つめています - それをとおして、私は見ます。 あなたたちの何人かは、結婚しているか、彼女を、持っているでしょう。 それを見つめてください。 あなたの妻や夫を、見つめてください - 気をつけて、気をつけて。 どうぞ、私の前で、ではありません。 あなたは、まるで初回のように、見られますか - すべてのイメージ、記憶と、それらの戯言なしに、です。
37:21 で、私たちは、宗教的な頭脳の本性を、 観察しようとしています - 思考により汚染されていないものの(本性)を、です。 これは、とてつもなく、あなたの最大の注意を、要求します。ですね? それは、あなたが全的に自由である、という意味です - どの参与からも、完全に自由である。ですね? あなたの導師へ、あなたの教会へ、 あなたの観念へ、あなたの過去の伝統へ(の参与から)です。 観察できるよう、それより完全に自由である。 ですね? あなたが、そう観察するとき、 頭脳の本性こそに、何が、起きたのですか。 質問を理解されますか。 どうぞ、初めに、問いを理解してください - 私たちがそれに入る前に、です。 私はいつも、見つめてきました - 樹を、川を、空を、 雲の美しさを、 自分の妻、子ども、 夫、娘などなどを、 いつも、思い出をもって、イメージをもって、です。 それが、私の条件づけです。 そして、あなたがやってきて、私に告げます - 「言葉なく、見なさい - イメージなく、 過去の思い出すべてなしに」と。 私は、「私はそれをできない」と、言います。 初めの即時の応答は、「私はそれをできない」、です。 それは、あなたが、その人が言っていることを、 実際に、聞いていない、という意味です。ですね? あなたの応答は、こうも即時的ですし、 あなたは、「私はそれをできない」と言います。 さて、気づくこと、注意深いこと、 「私はそれをできない」と言うこと。 それは、一つの形の抵抗です。 なぜなら、あなたは、自分の特定の導師のゴミに、 または、何かの形の宗教的教義に、参与しているからです で、あなたは、手放すのを恐れています。 ゆえに、あなたの即時の応答は、「私はそれをできない」です。 で、それに、注意を払ってください。いいですね? 「私はそれをできない」、そしてまた、 相手が言っていることをも、聞いてください。 すなわち、観察するには、 完全な自由が、なければならないのです - その言葉から、 その言葉の内容から、です。 そして、どちらをも、聞く。 で、この動き- よろしいですか - 抵抗と、聞くこと、聞きたがること、 そして、あなたは、抵抗しているなら、聞けません。 そして、気づいて、それより動かないでください。 「私は理解しなければならない」と言わず、ただそれを見守ってください。 それで、あなたは、全的な注意をもたらします。ですね? あなたは、これをしていますか- あなたたちの何人かは? あなたたちが、快適に座っていて、 言われつつあることへ、注意を払っておられるのを、望みます。 それで、あなたは観察できるように、 思考の動きなく、観察がありうるように、です。ですね? 明らかですか。あなたは、そうしていますか。 または、それはただ、もう一つの理論です。 もう一つの、何か冥想のようなことをしたがり、 「それをどうするかを、語ってください」と言いたがることです - 「方法は何ですか。 体系は何ですか」と。 それはすべて、なかなか子どもっぽい。 ですね? 私たちは、そこから、進めますか。
42:24 すなわち、 自己の動きなき、清浄な観察です。 その言葉は、自己です。 ですね? その言葉、思い出、 蓄積された傷、恐れ、 心配、痛み、悲しみと、 人間存在の苦労すべてが、自己です。 それが、私の意識です。 ですね? あなたが、観察するとき、そのすべてが、去りました。 そのすべては、あの観察に、入りません。 観察している「私」は、ありません。ですね? そのとき、日常生活の中で、あの観察に、 完璧な秩序が、あります。 何も矛盾がありません。 矛盾は、無秩序です。 その矛盾こそは、その無秩序とともに、 独自の制限された秩序を、持っています。 明らかですか。 私たちは、恍惚の中へ逸れていっていませんね?
43:43 で、進行しましょう。 そのとき、私たちは訊ねられます- 冥想とは、何ですか。 その言葉、「宗教」(レリジョン)の語源的な意味は、 それはまだ、あまり明らかにされていません。 様々な辞書で、探してください。 その言葉の始まりを、辿ることは、できていません。 色々な時に、様々な意味が、与えられています。 が、一般的にそれは、集める、という意味です。 あなたのエネルギーすべてを、集める。 私が、こう表しています - 辞書が、そう言うわけではありません。 で、冥想とは、何ですか。 どう冥想するのか、ではありません。 あなたが、「どう」と訊ねるとき、 あなたに、何をすべきかを語る人が、誰かいますね。 あなたが、「どう」を訊ねないで、 「冥想とは何ですか」と言うなら、 そのとき、あなたは自分の能力を、自分の経験を、 発揮しなくてはいけません - どれほど制限されていても、です。 あなたは、考えなくてはいけません。ですね? そしてあなたは、「冥想とは何かを、私に語ってください」と言います - 「私は、或る種のばかげた夢に、入ってしまうでしょう」と。 「冥想」(メディテーション)という言葉は、 熟考する、じっくり考える、 関心を持つ、という意味です。 それはまた、こういう意味です - 根本の意味は、「測量する」です。 サンスクリット、ラテン語でも、ギリシャ語などでも、 そして、英語でも、測量することです。 熟考する、じっくり考える、 関心を持つ、 専念するだけではない。 何かに対して、ではなく、 専念の精神です。 理解されますか。 そして、その言葉「測量」(メジャー)の意味を、理解する。 私たちは、測量により生きます。 測量は、時です。 ですね? 私は、自分自身を測量します - 今の私なるものと、私があるべきものを、です。 それは、測量です。 あなたが、聞いておられるのを、望みます。 或る種の冥想に、入ってしまおうとするのではない。 あなた自身で見出すよう、聞いておられるのを、望みます - そして、誰からでも、ありません。 誰も、あなたに、冥想が何であるかを、教えられません。 そのお方が、どれほど長い顎髭を生やしていても、 または、どんな奇妙な衣を、まとっていようとも、です。 あなた自身で、見出す。 そして、あなたが自分自身で見出すことの側に、付く。 そして、誰にも依存しない。
47:47 で、そのために、よく気をつけて、 その言葉の意味を、理解しなければなりません。 それは、基本的に、測量する、という意味です。 それは、何を含意していますか。 古代ギリシャ人から、現代まで、 工学における測量は、本質的ですね。 西洋の、テクノロジー的な世界全体、 むしろ、西洋の北部は、 測量に基づいています。 ですね? 測量なしには、とうてい橋を組み立てられません。 または、すばらしい百階建ての高層ビルは、 測量なしには、建設できません。 また、内的に、私たちはいつも、測量しています。 私は、ずっとそうだった。私は、そうなるだろう、と。ですね? 私は、これである。 私はずっと、これだった。 私は、あれでなければならない、と。ですね? それは、測量だけではなく、比較でもあります。 測量は、比較です。 あなたは、背が高い。私は低いか、私は、背が高い。あなたは低い。 私は、色白だ。あなたは、褐色だ。 よろしいですね。測量です。 で、測量の意味と、二つの言葉 「より良い」と「より多く」を理解する。 これら二つの言葉を、理解する。 そして、それら二つの言葉、 「より良い」と「より多く」を、けっして内的に使わない。 これらを理解されますか。 私たちがともに話し合っているとき、今、あなたは、そうしていますか。 あなたは、その言葉「冥想」(メディテーション)の意味を、理解しました。 ともに考慮する - 私はもはや、それに、入らないでしょう - ともに考慮する。「私は考慮するし、私は正しい」、ではありません。 ともに考慮する。 それは、あなたと私が進んで、私たち自身の先入観を手放して、 考慮しようとしている、という意味です。 またそれは、ともにじっくり考える、そして、 「測量」(メジャー)という言葉の深さを見る、という意味です。 私たちはそれに、短く触れてきました。 私はそれに、はるかに入られます。 私は、詳細に入りたいとは思いませんが、 それの意味を見る。 で、頭脳が、測量より自由であるとき - 理解されますか。 なっていくことは、測量です。 で、頭脳が測量より自由であるには・・・ 理解されますか - あなたが、自由であるとき、何が起きたのか、 - 頭脳が、測量より自由であるとき、です。 測量に慣れてきた、測量により条件づけられてきた 脳細胞こそが、突然に目覚めたのです - 測量が心理的に、破壊的であるとの真理に、事実に、です。 ゆえに、脳細胞こそが、変異を遂げたのです。 分かりますか。これを理解されるのかどうかと、思われます。
51:53 あなたが明らかでないなら、私はそれを反復してもいいですか。 自らの頭脳は、一定方向へ行くことが、慣習になってきました。ですね? 私たちの頭脳は、北へ、北東へ行くのが、 慣習になってきたとしましょう。 そして、あなたは、それがたった一つの道であると、考えます - 何であれ、それの終わりにあるものへ、です。 それの終わりにあるものは、当然に、あなたが考案するものです。 が、あなたがやってきて、私にこう語ります - その方向、北東は、あなたを、どこにも導かないだろうことを、です。 私は抵抗します。 私は、「いや、あなたは、間違っている」と言います - 「すべての伝統、すべての偉大な作家、 すべての偉大な聖者、何とかかんとかが、 あなたは間違っていると言う」と。 それは、あなたが本当に、究明したことがなくて、 あなたは、他の誰かを引用している、という意味です。ですね? それは、あなたが抵抗している、という意味です。 で、その人は、私に言います - 「抵抗しないで、私が何を言っているかを、聞いてください。 あなたが何を考えているか、あなたの反応が、何であるかを、聞いてください。 そしてまた、私が何を言っているかをも、です」と。 で、どちらをも聞いてください。 どちらをも聞くには、あなたは注意を、注がなければなりません - それは、空間、という意味です。ですね?
53:25 で、あなたが、日々の生を生きられるのかどうかを、見出すには - 特異な冥想の瞬間に、ではなく、 あなたが、日々の生を測量なく、生きられるのか どうかを、見出す。 それの含意が何であるかを、理解されますか。 「より良く」、「より多く」という言葉を、けっして使わない。 私は、より多く・・・私は、昨日、私がそうだったのより、良い、と。 ばかげた戯言です。 私は、より怒らない。私は、今日、もう少し自分自身を、修練してきた - 理解されますか。これが、様々な範疇で私たちがみんな、していることです。 で、どの測量の感覚もなく、生を生きること、 それが、冥想です。 ともに考える- ですね? - ともに熟考する、 ともに関心を持つ。 ともに、何も測量を持たない - 理解されますか。 もちろん、あなたがスーツを買うときや、 あなたが、車を買うとき、測量しなくてはいけない、 様々なモデルを、見なくてはいけないなど、以外は、です。
54:55 で、冥想(メディテーション)は、その言葉こそへの 深い理解の感覚を、含意しています - そして、その言葉へのまさに理解、知覚、洞察が、 測量を終わらせることである行為、です - 心理的な測量を(終わらせるの)です。 私たちは、こうしていますか。 または、あなたはこれを、玩んでいるだけですか。 まず第一に、私たちは、測量しませんか。 私たちは、自分自身に正直であるなら、いつも測量していませんか。 明白です。 私は貧しかった。 今、私は豊かだ。 私は今、理解した。 私は前に、理解していなかった。 ですね? それは、こうも戯言です。 あなたは、始まりに注意を、払わなかったから、 今、あなたは、注意を払うよう、強いられつつあります - よろしいですか - など、とです。 日々の生を、比較なく、生きること、 心理的に、測量なしに、ですね。 それは、こういう意味です- 脳細胞は、生涯ずっと、 測量が慣習になってきましたが、 それは、突然に、測量を終わらせた、と。 ゆえに、脳細胞に、変異が、ありますね。 あなたは、そうしないかもしれませんが、その事実を見てください。 論理的な、知的な事実を、です。 それは、たとえば、あなたの頭脳は、機械的です。 明白に、それについて、疑問は、ありません。 様々なプログラム、様々な宣伝などに、応答して、 あなたの頭脳、自らの頭脳は、 機械的に、課業になってしまったのです。 9時半から5時までオフィスへ行く。 または、9時から5時までオフィスへ、などなどです。 で、あなたの頭脳、その細胞は、条件づけられてきました。 その条件づけを、即座に破ることは - 進化、時をとおして、ではない - 何か全然新しいことを、聞くことです。 すなわち、測量がない - 心理的に、です。 ゆえに、あなたが、その事実への何の抵抗もなく、見るとき、 その知覚こそが、根本的な変化を、 細胞の構造こそに、もたらします。理解されますか。
58:35 で、今、そこから、動きましょう。 さらに、冥想とは何ですか。 私たちは、その言葉の意味を、ともに理解したのです - 関心、熟考、 じっくり考える、ともに見る。ですね? そして、その言葉「測量」(メジャー)の意味を、理解するには、 「私は背が低い。私は高い。 私は鈍い。あなたのほうが、利巧だ」 などと、けっして言わないでください。 あなたが、そうするとき、 あなたは、あなたなるものです。 そこからあなたは、動けますね。 私は常に、あなたを模倣しているなら- あなたが利巧であるから、 私は、模倣しています - それは、利巧さではありません。 なぜなら、比較の中で、私は、鈍いからです。 私は、利巧であるあなたと、まったく、比較しないなら、 私は、私なるものです。 私はそのとき、自分自身を鈍いと呼びません。 私は、私なるものです。 そこから、私は始められます。 しかし、私はいつもあなたを、追求しているなら、 私は、どこにも、始めるところを、持ちません。 私はあなたを、追求しています。 理解されますか。
1:00:10 で、冥想において、次は、何ですか。 私たちは、注意の本性を、理解したのです - 完全に聞くこと、です。 聞くには、空間がなければなりません。 その空間には、響きがあるにちがいありません。 そして私たちは、言っています- 何か神聖なもの、 何か聖なるものが、ありますか。 ありますか - 私たちは、あるとも、ないとも、言っていません。 思考により、けっして触れられないものが、何かありますか。 私が、何か思考を越えたものに到った、のではありません。 それは、ばかげた戯言です。 思考を越えているものが、何かありますか - 物質ではないもの、です。 理解されますか。 思考は、物質的な過程です。 私はそれらに、入らなくてもいい。 私たちはそれに、入ってきました。 で、思考により組み立てられるものは、何でも、 制限されています。ゆえに、それは、完全ではありません。 それは、全体的ではありません。ですね? で、完全にこの思考の世界の外にあるものが、 何か、ありますか。 質問を理解されますか。 私たちは、ともに探究しています。 私は、語り手は、それがあるとは、言っていません。 または、それがないとも、です。 私たちは、探究しています。 あなたの注意を注ぎ、聞いています。 それは、どういう意味ですか。 思考の活動すべてが、終わったのです - ですね? 世の中、物理的な世界において、以外は、です。 私は、一定のことを、しなくてはいけませんね。 私は、ここからそこへ行かなくてはいけません。 私は、手紙を書かなくてはいけません。 私は、車を運転しなくてはいけません。 私は、食べなくてはいけません。 私は、料理しなくてはいけません。 私は、皿を洗わなくてはいけません。 あらゆる種類の物事です。 そこで私は、思考を使わなくてはいけません。 どれほど思考が、制限されていても、 どれほど思考が、そこで課業であっても、です。 が、内的に、すなわち、心理的に、 思考が完全に終わりになったのでなければ、 さらなる活動は、ありえません。 ですね? 明白です。 質問を理解されますか。 思考を越えた何を、観察するにも、思考は終わりにならなければなりません。 どう思考を終わらせるのか、 思考を終わらせる方法は、何であるのか、ではない。 すなわち、集中、制御、誰が制御者であるのか、です。よろしいですか。 制御の葛藤 - そのすべての、子どもっぽい、未熟なことです。
1:03:41 それで、 探究するには、 さらなる洞察を持つには、 何か越えたものが、あるのかどうかを、観察するには - 思考により、組み立てられていないものが、です - 思考は、完全に終わらなければなりません。 見出す必要性こそが、思考を、終わらせます。 ヴザヴェ・コンプリ?理解されましたか。 私は、一定の山に、登りたいと思います - ユングフラウに、です。 私は登れませんが、仮に、私は登られる、とします。 私は、訓練しなくてはいけません。 私は、働かなくてはいけません - 来る日も来る日も、ますます多く登って、ですね。 私は、自分のエネルギーすべてを、そこに、注がなくてはいけません。 で、何か思考以上のものが あるのかどうかを、見出す必要性、 その必要性こそが、そのエネルギーを、創り出します。 そのとき、それが思考を、終わらせます。 これを理解されましたか。
1:05:14 さらに観察するために、思考を終わらせることの重要性 - その重要性こそが、思考が終わることを、もたらします。 それは、さほどに単純です。 それを、錯綜させないでください。 理解されますか。私たちは、この事柄について、明らかですか。 私は、泳がなくてはいけないなら、学ばなくてはいけません。 泳ごうとの意図のほうが、泳ぐことの恐れより、強い。
1:06:00 で、これは、重要です。 なぜなら、 思考は、制限されていますし、 そこでの制限は、自らの空間を、持っているからです。ですね? 理解されますか。それは、もちろん、自らの秩序です。 制限された思考の活動の終止が、あるとき、 空間があります。 ですね? 頭脳の中だけではない空間。 空間です。 自己がそれ自体のまわりに創り出す空間ではなく、 制限を持っていない空間です。 理解されますか。 思考が、それ自体で自らの制限を、発見し、 自らの制限が、世界に荒廃を創り出していることを、見るとき、 その観察こそが、思考を終わりにします。 なぜなら、あなたは - よろしいですか - 何か新しいものを、発見したいからです。 すなわち、ですね、 工学と、内燃機関、すなわちピストン(・エンジン)の理解が 慣習になり、訓練されてきた人 - 彼は、長年、それに取り組んできました。 そして、彼は、「私は、それ以上の何かを、 発見したい」と、言います。 で、彼は、何か新しいものを、見るには、 そのすべてを、脇に置かなくてはいけませんね。 彼は、いつの時も、そのすべてを持ち運んでいるなら、 彼は、何も新しいものを、見られません。理解されますか。 そのようにして、 ジェット・エンジンは、発見されたのです。 それを発見した人は、完全に、 内燃機関を、完全に理解しました - すなわち、ピストンと、その他すべて、プロペラを、です。 そして彼は、それ以上の何かが、あるにちがいない、と言いました。 彼は、見守り、待ち、聞いていました。 そして、彼は、何か新しいものに、出くわしました。 理解されますか。 同様に・・・ もう五分間、長くすれば、構わないでしょう。 同様に、思考が制限されていることが、見えます。 そして、何でもそれがすることは、いつも、制限されるでしょう。 明白です。なぜなら、その本性こそにおいて、 それは、条件づけられていて、ゆえに制限されているからです。 それは、あの機構を使うのをとおして、さらに行けません。 ゆえに、それは、「私は、さらに行きたい衝動を、持っているなら、 その機構が終わりにならなければならない」と、言います。 明白です。 そのとき、思考が終わることが、始まります。理解されますか。 そのとき、空間と、 静寂が、あります。 すなわち、冥想(メディテーション)は、その言葉、 測量の意味を、理解することと、 測量が終わることです - 心理的に、です。すなわち、なっていくことが、です。 それが終わることと、 制限された思考を見ること - 思考は、永久に制限されています。 それは、無制限のものについて、考えるかもしれませんが、 それはやはり、その制限より生まれています。ですね? で、それは、終わりになります。 で、頭脳は、ずっとおしゃべりしてきて、 ごた混ぜで、制限されていますが、 それが突然に、静寂になったのです - 何の強制もなく、何の規律もなく、です。 なぜなら、それは、それの事実、真理を、見るからです。 そして、事実と真理は、 私たちが先に指摘したように、時を越えています。 それで、思考は、終わりになります。
1:11:10 そのとき、頭脳には、絶対的な静寂のあの感覚が、あります。 思考の動きすべてが、終わったのです。 それは、終わったのですが、それが必要であるとき、 活動を始められます - 物理的な世界において、です。 理解されますか。 それは、静かです。 それは、静寂です。 静寂が、あるところ、空間が、あるにちがいありません。 無量の空間です。なぜなら、自己がないからです・・・理解されますか。 自己は、自らの制限された空間を、持っています。 あなたは - あなたが、自分自身について、考えているとき、 それは制限されているし、それは、自らの小さい空間を、創り出しますね。 ですが、自己がないとき、 - すなわち、思考の活動がないのです - そのとき、頭脳には、広大な静寂が、あります。 なぜなら、それは今、自らの条件づけすべてより、自由であるからです。 そして、空間と静寂があるところ - 新しい何かが、すなわち、時、思考により触れられないものが、 来られる、ありうるのは、そのときだけです。 それは、最も聖(ホーリー)なるもの、 最も神聖なものであるかもしれません - かもしれません。 あなたは、それに名を、付けられません。 それは、おそらく、名づけられないものです。 それがあるとき、 そのとき、智恵と慈悲と愛が、あります。
1:13:13 で、生は、断片化していません。 それは、単一的な過程全体であり、動いて、生きています。
1:13:28 私たちは、死について一度も、話しませんでした。 私たちは、時間を持っていません。 私たちは、今、それを始めようとしていません。 私たちは、他の時に、それについて、充分に話してきました。 が、死は、生ほど、生きることほど、重要です。 それらは、相伴います。 生きることは、死ぬことを、意味しています。 それは、生きることは、困難すべてである、という意味です。ですね? - 痛み、心配。それを終わらせることが、死ぬことです。 で、それは、一緒に動いていく二つの川に、似ています。 その裏に、ものすごい水の量、です。 そして、これらの講話のまさに始まりから、今まで、 このすべては、冥想の一部です。 なぜなら、私たちは、人間の本性に、入ってきたからです。 そして、その中に、根本的な変異を、もたらすこと、です。 誰も、それをできません。 あなた自身以外に、です。 終了しました。 立ち上がってもいいですか。