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SA84Q1 - 第1回質疑応答集会
スイス、サーネン
1984年7月22日



0:15 たくさんの質問が、ありました。 たぶん、二百以上ほど、です。 それらの中から、これらの質問の幾つかが、選ばれました。 私は前に、それらを見ていません。 私たちは本当に、何に興味があるのかと、思われます - 私たちの一人一人が、です。 たぶん、健康、 たぶんあなたが、かなり年老いて、墓に片足を入れているなら、 死の恐れ、 また、私たちがきわめて若いとき、セックス、 あなたは、仕事を、天職を持たないなら - それは、ますます模倣になりつつありますが - 私たちは、何に、本当に深遠な興味を持っていますか - そのために、あなたが進んで、大変多く自らのエネルギー、 活力と真摯な意図を、注ごうとしているもの、です。
1:57 私たちは、生の中で、何かきわめて真剣なことを、 実行するか、追求する中で、どれほど、行くのでしょうか。
2:16 私たちはみんな、きわめて表面的になりつつありますか。 真剣で多くを要求する質問を、けっしてしないで、です - 世界全体が、いったいどうであるのか、 私たちは、なぜ今のように、振るまうのか、 なぜ世界に、平和がないのか、と。 私たちはきっと、これらすべての質問を、 たぶん自分自身にしたことがある、と思います。 私たちは、それらへ答えを見つけません。 または、私たちは見つけるなら、 何か教説、何か哲学に沿って、 体系の或る種の受け入れ、です。 これらを別として、 自らは本当に、何に興味を持っていますか。 私たちが、自分自身にその質問をするなら、 あなたはいったい、絶対的な答えを、見つけますか。 または、それはすべて、相対的ですか。 自分が不幸せであるなら、幸せになりたいと思います。 物理的、生物学的に、不安全。 そのとき、一つの形の安全を、探し求めます。 そして、階級差別との闘いです。 世の中で進んでいるそのことすべてを、ご存じです。 これらへの、私たちの答えは、何ですか - きわめて多くを要求するこれらの問題へ、です。
4:47 あなたはいったい、一つのことに拘って、それを最後まで追求しますか。 私たちは、先日、健康について、話をしました。 それは当然、とても重要です。 自らが、若いときから、濫用してきたなら、 身体は、どうして健康でいられますか - アルコール、タバコ、薬物。 健康の医学的な過程全体は、ご存じです - 身体を健康的に保つ。 または、あなたは、或る種の体操をします。 10マイルか、5マイルの間、ジョギングをしていきます。 または、或る種のヨーガをします。 私は、その言葉を使っていいですか。 そして、ヨーガに、かなり熱狂します。 かつて、インドで、 ヨーガは、きわめて、きわめてわずかな人にのみ、教えられました。 それは、お金儲けの関心事ではありませんでした。 今、それは、大きなビジネスになったのです。 私がこれらをお話するのを、気になさらないことを、望みます。 そして、自分の健康に、関心を持っています。 私は、自己がないとき、健康は来る、と思います - 自我が、ものすごく活動的でないとき、です。 それは、美しさに似ています - 自己がないとき、美しさがある。 自己が、その自己中心的な活動とともに、ないとき、 大きな良い健康が、あります。
7:26 また、私たちは、きわめて多くの心理的な問題を、持っています - 物理的な問題を別として、です。 私たちは、生活するための家を、持っていません。 町や、大都市で、(集合住宅の)フラットに、生活するだけです。 いわば、引き出しの中で、生活します。 それもまた、身体に、大きな緊張を掛けている、などです。 これらすべての経済的な問題は、 本当に世界を荒廃させています。 各国が、自分の経済問題に、関心を持っています - 自分の安全、軍備、その他すべてに、です。 各国がどうして、残りの人類より、分離できますか。 人類は今・・・人口は、百万ごとに、増加しています。 インドでは、毎年、千五百万の人々が、生まれています。 それは、オランダとオーストリアの人口です。 千五百万の人々が、失業し、貧困です。 これらを理解されますか。 確かに、これらすべての問題- 階級闘争、イデオロギー闘争 - は、 私たちがみんな、本当に文明開化するとき、終わりうるだけです。 すなわち、私たちは、国のどの部分にも、執着していないとき、 私たちが、民族的に、宗教的に分割されていなくて、 全世界を、私たちの世界として、取り扱うとき、です。 そのとき、障壁は、ないでしょう。 きっとそうだと思います。私たちは、科学者の何人かへ、話してきましたが、 人類の全体が、適切に食べられ、 住居をもち、衣服を着られる、その他すべてです - もし私たちが、戦争を、恐ろしい兵器すべてを、廃止できるなら、です。 ですが、残念ながら、私たちは、文明開化していないと、思います。 私たちは、あまりに野蛮です。 で、問題のどの一つも、物理的な問題も、 けっして解決されつつないのです。
10:35 そして、問いが生じます。 世界に、半ダースの人々が、いるなら - 本当に自己を超越し、乗り越えてしまった人が、です - それは、最高の形の文明、文化です。 彼らは、残りの人類に対して、どんな効果を、持つのでしょうか。ですね? これは、何度も何度も、訊ねられてきた疑問です。 あなたは、おそらく、根本的に、根源的に変化し、 人類の痴呆すべてより全く自由である - それは、残りの人類に、どんな効果を、持つのでしょうか。 いわゆる、大衆に、です。 それは、何か効果を持つのでしょうか。 あなたは、これらすべての質問を、しませんか。
11:49 それはどんな効果を持つだろうかと、訊ねるのは、正しい疑問でしょうか。 私たちは、効果のために、変化しつつありますか。 または、私たちは、深く、深遠に変化しつつありますか。 まさにそのもの、それ自体のため、 それ自体の美しさのため、それ自体の強さのため、 愛と慈悲とそれらのため、ですか。 私たちが、そうであるなら - おそらく、世界の半ダースか、1ダースの人々が、です - 確かにそれは、人類の意識全体に、影響するでしょう。 ナポレオンが、世界の全体に影響した、などのように、です。 そして、宗教的な教師たちは- 真の宗教的な教師、です。 まがいものではない - 人類の意識に、影響してきました。 私たちは、自分自身に、「私が変化するなら、それはどう、 私の隣人に、大衆の人々に影響するのだろうか」と言うとき、 これらを、気に留めておくべきです。 私は、それは、問いへの間違った接近であると、思います。 自分は愛しています - 何かのせいではない。 自分が、世界や隣人に影響しようとしているからではない。 その香りの性質こそ、 それの深さと、それの美しさが、 それ自らの結果を、持つでしょう - 一人一人が、結果をほしがらないで、です。
13:49 で、私たちは、これらの問いに、取り組んだほうがいい。 今朝、それらが七つ、あります。 私たちが、それらのすべてに答えられるのかどうか、私は知りません。 なぜ私たちは、質問をしますか。 私たちは、そうすべきですが、 誰に対して、あなたはこれらの質問を、していますか。 私は知っています・・・つまり、語り手は、知っています。 なぜなら、彼は世界中より、たくさんの手紙を、受け取ってきたからです。 彼らは、誰かに話したいのです。 彼らは、自分の妻や夫に、話せません - または、自分の親しい誰かに、です。 が、彼らは、誰かに話をしたい - 自分たちの問題、自分たちの職、自分たちのけんかと、 生を全く悲惨にすることすべてについて、です。 で、手紙を書きます -長い手紙を、です。 あなたが、語り手に手紙を書くべきでない、ということではなく、 ともに話し合うことは、可能でないので - 私たちの一人一人が、個別に、です - 私たちは、自分を助けてもらうよう他の一人を頼れませんが、 その強さ、その性質を持てます - 私たち自身の問題を解消するそれを、です。 誰かへ話をするのが、すてきであることを、私は知っています - 自らの痛み、自らの憂鬱、 自らの心配、自らの野心について、語ることが、です。 その話の中、その会話の中で、 それは、自分を助けてくれるかもしれません。 私たちは、質問をするとき、 どのように、問いに接近しますか。 私たちが自分自身で訊ねる問いに、だけではなく、 またあなたは、これらの質問をするなら、どのように、問いに接近しますか。 あなたは、どのように問題に接近しますか。 「接近」という言葉は、きわめて近くに来る、という意味です - 問いへ、問題へ、可能なかぎり、近くに来る。 どんなさまで私たちは、接近しますか。 あなたは、英語のその言葉の意味を、理解されますか。 きわめて近くに来る。 私は、あなたに接近する。 私たちは、どのようにこれらの問いに、接近しますか。 語り手に出されてきた問いだけではなく、 また、私たちが持つ、どの問題、どの問いにも、です。 私たちは、それにどのように、近づきますか。 私たちは初めに、問題の解決に、関心を持っていますか。 質問を理解されますか。 仮に、私は問題を持っている、とします。 私の関心事は、そのとき、問題への解決を、見つけることです。ですね? ですが、解決は、問い自体に、潜んでいるかもしれません。 理解されますか。 私たちは、これに入るでしょう。
18:28 私たちは、かりそめに、ためらいつつ、問題に接近すべきでないですか。 あなたは、動機を持っているなら、 動機が、問題を、方向づけます。明らかですか。 いいですか。 これは、明らかですか。 私たちはともに、これについて議論しています - その問い、その問いへどう接近するのか、です。 私たちは、初めに、動機なく、それに接近できるのでしょうか。 なぜなら、あなたは動機を持っているなら、 それはすでに、問題への方向を、定めたからです。ですね? 理解されますか。 それは明らかでしょう。 私たちは、どの種の方向づけをも持っているなら - それは解決ですが - そのとき私たちは、すでにそれを制限したのです。ですね? で、私たちは、動機なく、問題に接近できるでしょうか - それへの解決を探し求めたり、 自分の楽しみと痛みに応じて、問題が解決されるのを、望んだりせずに、です。 私たちは、何の反応もなく、問題に、接近できるでしょうか。 それは、きわめて困難になろうとしています。 なぜなら、私たちは、問題を持つとき、それへ即座に反応するからです。ですね? で、私たちは、隔たりを持てるでしょうか - 何の動機、何の方向づけも、好きや嫌いを、持たない感覚を、です。 そのとき、あなたは、問題を見つめられますね。ですね? 自分の願い、自分の欲望を投影するのではない。ですね? そのとき、あなたは、問題を見つめられます。 問題を研究でき、問題に入られます。 そして、問題を理解する中で、 解決は、そこにある。 問題の外側に、ではない。ですね? 私は、私たちは、これについて、政治家の幾人かに、話しました。 私は、彼らが最もそうしない人々であるのを、 知っていますが、私たちは、彼らに話しました。 彼らは、これらはあまりに長く掛かりすぎると、言いました。 「私たちは、自らの問題を、即時に解消しなくてはいけません。 なぜなら、彼らは飢えていて、 テロリストなどである人々が、いるからです」と。 彼らは、けっして、物事の原因へ、行きません。 理解されますか。 彼らは、すばやいのを、望みます。私たちのみんなが、そうです。政治家だけではない。 私たちのみんなが、すばやい、即時の、便利な答えを、ほしがります。 頭痛があるなら、ほとんどの人々が、見たところ、そうであるように、 私たちは、なぜそれが生ずるか、その原因が何であるかを、けっして見出しません。 私たちがすることは、すばやく錠剤を飲むことです。 ですが、原因は、そこにある。 で、原因を究明し、きわめて深く、それに入るには、 すべての時、反応していない頭脳が、必要とされます - 防衛し、攻撃し、侵略的でないのが、です。よろしいですか。 それは、柔軟性、すばやさの性質を、持たなければなりませんが、 すばやさは、辛抱があるとき、来るのです。 辛抱は、時ではない。 辛抱は、見ていて、眺めている頭脳の性質です。 これらがお分かりになるのかどうかと、思われます。いいですか?
22:46 で、ここに、幾つか質問が、あります。 幾人かの友人が、これらの質問を、選びました。 彼らは、私に、質問すべてを見せてくれましたが、 彼らが、これらを選びました。 私は、それらを見ていません。 また、あなたたちも、それらを見ていません。ですね? で、私たちのどちらも、それに接近しましょう - 動機なく、 どの種の反応も、好きや嫌いもなく、 初めに、問いを、ただ聞きましょう。 それで、あなたの答えか、むしろ、解決が、真実であって、 ただの夢想や、想像力豊かで、幻影だけではないように、です。いいですか? で、あなたと語り手は、ためらいつつ、 この問いへ、接近しようとしています - 何の動機もなく、何の反応もなく、ですね。
24:12 質問1: 私たちは、どうやって違いを、言い当てますか - 私たち自身を観察すること- あなたが言いたい意味での - と、 単に、私たち自身について考えることとの間で、です。
24:29 私たちは、どうやって違いを、言い当てますか - 私たち自身を観察すること- あなたが言いたい意味での - と、 単に、私たち自身について考えることとの間で、ですね。
24:51 あなたは、答えを持っていますか。 私たち自身について考えることと、私たち自身を観察すること。 この質問によれば、それらは、二つの違ったことです。 自分自身について考える。 私たちはみんな、そうします - 私は前進している。 私は、昨日より良い。 私は、自分の問題を持っている- それは、考えることです。 私は、もっと良い食べ物、良い衣服、良い住居を持っていたらと、願うとか、 私は、もっとセックスをしたならと、願う- よろしいですか。もっとお金を、と。 いつの時も、自分自身について考える- 私たちのほとんどは、そうします。 きびしい修道士、僧侶さえも、自分自身について考えるのです - ですね? ただ、神の名において、です。 いいですか? そして、質問者は、こう言います - それ - 自分自身について考えること - と、 自分自身を観察することの間の、違いは、何ですか。いいですか? いいですか。それが、疑問です。
26:20 さて、私たちは、自分自身について考えるとは、どういう意味かを、知っていますね? それは本当に、ぐるぐると円周を回ることです。 自己、自我を拡張するのか、あるいは、自己を収縮させるのか、ですね? 私は世界である。 私は神である。 私は、もっと親切でなければならない。 私は、愛さなければならない。 私は、もっと智恵を持たなければならない。 私は、達成するために、冥想しなければならない - 彼らが、何を達成したいにしても、です。 で、私たちは、みんなそれに捕らわれています。 自分自身を観察することは、何か全然違ったことです。ですね?
27:20 それから、見出しましょう - 観察するとは、どういう意味ですか。 質問を理解されますか。 私たちは、ここに一緒にいますか。 さあ、みなさん!
27:39 まず第一に、私たちは、言葉なしに、何かを観察しますか。 私たちは、山を観察し、それを山と呼ばないのですか。 私たちは、雲に照る夕日を、観察しますか - そのとてつもない色、美しさと、何か無量のものを、もっていますが、 私たちは、それらの雲と山を、見つめられますか - 唯一つの言葉をも使うことなしに、です。 私たちは、それをできますか。 質問を理解されますか。 麻痺したようすをしないでください。 すなわち、私たちは、何かを客観的に見つめられますか - 樹々、自然、水面、 空と、夕べの星と、朝の静寂、 私たちがそこに生きる、このとてつもない世界、自然の世界を、です。 私たちは、唯一つの言葉もなく、何かを、見つめられますか。 それを見出すには、私たちは、見つけ、問いに、入らなくてはいけません - なぜ頭脳は、言葉のネットワークに捕らわれているのか、です。 質問を理解されますか。 私たちは、一緒にここにいますか。
29:46 私たちは、訊ねています - 私たちは、何かを見つめられますか。 自分の妻、夫、娘、 政治家、様々な導師と、司祭者と、 宗教の名で進んでいるサーカスすべてを、含めて、 私たちは初めに、そのすべてを、反応なく、見つめられますか。 それから、私たちはそれらを見つめられるかを、見出してください - 言葉のネットワークが、私たちの観察に介入することなしに、です。 私たちは、それをできますか。 あなたはいったい、それを試したことが、ありますか。 自分の妻や夫を見つめるとき、 あなたは、彼女や彼を、イメージすべてなしに、見つめられますか - あなたが彼女や彼について、蓄積してきた物事すべてなしに、 ただ見つめられますか。 あなたは、それができますか。 あなたたちは、並外れて静寂です - 私が、夫と妻と、彼女と彼氏について、話をするとき、です。 で、見出さなくてはいけません - なぜ頭脳は、こんなに言葉に、捕らわれているのか、です。 あなたが、彼は共産主義者や全体主義者である、と言うとき、 あなたは、それを拭い去ってしまいました。ですね? あなたは、彼を、範疇の中、籠の中へ、入れてしまいました。 それで、それは終わりです。 または、彼はイギリス人だ、とか、 彼はフランス人だとか、彼はインド人だとか、彼は、これやあれであるとか、です。 私たちの頭脳に、何が起きつつあるかを、見てください。 言語的に、頭脳は、言葉でもって捕らわれてきました - 言葉の意義と深さではなくて、 ただその言葉に、です。 これは、気をつけた見守りを、必要とします。 見守ることは、観察することです。 今朝、風船が、上がって行きつつありました。 あなたたちはみんな、それを見たにちがいありません。 あなたは、見守りました - きわめてゆっくりと、それが、上へ、上へ上がっていくのを、です。 ゴンドラが、吊り下げられていて、あなたは、全部が見えました。 そのとき、あなたは、「おやまあ、私はあそこにいたら、よかったのに」と 言うかもしれません。 または、あなたは自分自身に、「何と危険な」などと、言います。 私たちはけっして、何をも見つめません。 言葉なしに、反応なしに、見つめる。
33:21 今、あなたたちはみんな、そこに座っています。 あなたは、不幸にも、語り手を見ています。 あなたはすでに、彼を範疇の中へ、入れたのです。 あなたはすでに、彼についてイメージを、持っています。 あなたはすでに、彼はこれである、彼はあれであるとか、彼は或る種の白痴である、 と言います - または、彼について、何でも言いたいことを、です。 で、あなたは、けっして・・・ (列車の機関士)彼は、汽笛を鳴らすのを、忘れてしまいました! で、あなたはけっして、まるで初めてかのように、彼を見つめません。 理解されますか。 あなたはかつて、この種のことを、したことが、ありますか。 ただ一分間や、一時間や、一日間だけではなく、 精神、頭脳の新鮮さ- 理解されますか - 言葉、反応に捕らわれていないそれ、です。 あらゆる物事を、見つめてください - まるで初めて、世界を見つめているかのように、です。 その観察は、自分自身を見守ることです - けっして、唯一つの思考も、逃れるのを、許さない - それを見守ること、それに気づくことなしに、です。 あなたの注意全体を、あの一つの思考に、注ぐ。 そのとき、もう一つの思考、です- それを続けてください。 それで、あなたの頭脳は、ものすごく注意深いのです。 理解されますか。 それで、見守ることは、自我中心的な動きではありません。 ところが、あなた自身について考えることは自我本位の、自己中心的な活動です。 それは、明らかでしょう。
35:57 さて、ちょっと待ってください。 私たちはどのように、これからあれへ、動きますか。 いいですか? あなたは、当然、訊ねています。 あなたは、その質問をしなければなりません。 または、私が質問をしていて、あなたは、それを受け入れていますか。 理解されますか。 仮に、自分は自己中心的である。私は、自己中心的、自我中心的である、とします。 私の見通しすべてが、個人的です - 私は愛されていない。 私は、愛さなければならない、と。 そうね、進んでいるその種の騒動、ばからしさです。 私はあれだ。自分はあれだ。 そのとき、私はどうやって・・・他へ動くのは、どのようにですか。 いいですか? あなたが、質問をしていますね? それは、正しい問いですか。 ここからそこへ動く。それは、間違った問いです。明白です。 なぜなら、あなたがここから、あれへ動くなら、 あれは、これと同じであるからです。 ヴザヴェ・コンプリ(理解しましたか)? そうね、動く。 これを理解されますか。 私が、自分は利己的である、と言うなら、 今、私は、利己的であってはなりません。 私は、観察しなければなりません。 「なければならない」は、やはり、自分自身について考えるのと、 同じ範疇や同じ動きに、あります。ですね? 私たちは、これらに一緒にいますか。 少なくとも、私たちの幾人かは、そうであってほしいと、思います。
38:03 で、そのとき、問いは、答えられます。 答えは、問いの外側にあるのではない。 答えは、問いにある。 ですね? それは、問い自体を観察することです - それが何を開示するかを、です。 それは、ものすごく多くを、開示します。 なぜなら、そうね、観察することは- 私がそれを、違うように表せるなら - 観察すること、知覚することは、何も時を持ちません。 他は、時に捕らわれています - 私自身について考えることが、です。私は・・・ 私は、或る日、充足するだろう。 私は今、根を持っていないが、 私は、いつの時か、根を確立するだろう。 私は、アイデンティティを持っていない - よろしいですか。 それらすべては、時に縛る性質です。 時に縛る性質は、本質的に自己です。 あなたが、それらに入りたいのかどうか、私は知りません。 私は、自分が話しながら、これらを見つけています - ですね? ところが、見守ること - あなたが、あの鳥を見守るなら、そこには、まったく時がありません。 ただ見守る。ですね? で、言葉と思考が、時を創り出します。 私は、それらに入りたくありません。 分かりましたか。
39:54 質問2: 他の一人との関係には、記憶があります。 記憶を侵入させない行為は、何ですか。 それは、それが生ずるままに、その存在を見て、 即座にそれを落とすことですか。 または、記憶が必要でないのなら、 自らは、それが頭をもたげない状態に、 いるべきですか。
40:30 私は、もう一度、質問を、もっとゆっくり、読みましょう。 他の一人との関係には - どうぞ、私たちは、問いを聞いています。 あなたの関係に、反応していません。 あなたの奥さんは、あなたの隣に座っていますが、反応しないでください。 それは、とても困難です。 へんてこりんな世の中ですよね。 他の一人との関係において記憶があります。 記憶を侵入させない行為は、何ですか。 それは、それが生ずるままに、その存在を見て、 即座にそれを落とすことですか。 または、記憶が必要でないのなら、自らは、 それが頭をもたげない状態に、いるべきですか。 いいですか?問いは、分かりましたか。 問いは、分かりましたか。 もう一回、それを読みましょうか。 もう一回、それを読んでほしいですか。ベネ(よし)。 他の一人との関係には、記憶があります。 記憶を侵入させない行為は、何ですか。 それは、それが生ずるままに、その存在を見て、 即座にそれを落とすことですか。 または、記憶が必要でないのなら、自らは、 それが頭をもたげない状態に、いるべきですか。
42:56 問いは、何ですか。 問いは、こうです - 私たちの、互いとの関係において- 親密でも、そうでなくても - 記憶がある。ですね? それは、いつも、そこにある。 なぜなら、その人物とともに、生きているからです - 料理、セックス、皿洗い。 語り手は、たくさん、皿洗いをしてきました。 彼は、どこに行っても、皿洗いをします! インド以外では、です。そこでは、それを許してもらえません。
44:04 さて、私たちの、他の一人との関係において、実際の状態は、 記憶の活動です。 それへの論駁は、ありえません。 そのとおりです。ですね? みなさんは、それに同意されますか。いいえ? あなたは、はっきりしません。 私たちの関係は、認識、言葉に基づいていませんか - 私の妻、私の夫、と。 今朝、彼女が言ったこと、彼は不機嫌だった。 あなたは、新聞を見ただけで、けっして、私を見なかった。 彼の自分の職への関心、など。 それが、作動中の記憶です。 誰も、それを拒否できません。 行為とは何ですか、と質問者は、訊ねます - 記憶を侵入させない行為、です。 記憶は、そこにある。 ですね? それは、記憶が侵入する、という問いではありません。ですね? その問いは、間違って表されています。 すなわち、別の結論が、あるのです - 記憶は、関係に侵入すべきではない、と。 よろしいですか。 あなたはすでに、その結論に、到っています - 語り手に聞いて、「ええ、まったくそうだ。 記憶は侵入すべきでない」と言うことからです。 そのとき、あなたは、私に言います、その質問をします - 「それはどうやって可能ですか」と。 あなたは、間違った問いを、出したのです。 そのとき、あなたはそれに、間違って答えます。 ですね? それを明らかにしましょう。
46:40 私たちは、記憶とともに生きます - 私たちの、他の一人との親密な関係に関して、だけではなく、 また、長い記憶の連続、 すなわち、私たちが、時をとおして蓄積してきたもの、です。 人種的な記憶、言語的な記憶、 社会的な記憶、法制的な記憶、 読書をしてきた記憶。 子ども時代からの、この記憶の蓄積全体と、 人種的な記憶 - すなわち、私たちに刻印されてきたものなど、です。 で、私たちは、記憶を持っています。 私たちは記憶です。ですね? はっきりしてください。 この点を、はっきりしてください。 私たちは、過去と現在の記憶です。 また、未来の記憶です - 何か、カタルシス(浄化)や、 危機などが、起こらないのなら、です。 で、過去、現在と未来の記憶が、 私たちなるものです。 伝統的に、宗教的に、社会的に、など、 階級、経済。 私は、それらに入って、何度も何度も反復しないでしょう。 で、私たちは、記憶です。 彼女は、その記憶に付け加えます。 または、彼は、その記憶に付け加えます。 で、私たちは、いつの時も、記憶を蓄積しています。 その記憶が侵入するのではない。 ですね? あなたが、記憶は侵入すべきでない、と言うとき、 それは、別の形の記憶です。 タンピ(まあ、いいか)、私たちは理解しましたか。 なぜなら、あなたは、語り手が言うのを、聞いてきたからです - 関係において、知識は危険である。 知識は障害である、と。それをあなたは、受け入れてきたのです。 または、あなたはそれが、分かります。 そして、あなたは、こう言います - 「さて、私はどのように、その記憶が侵入するのを、防止すべきか」と。 ですが、あなたは、記憶の束です。 あなたは、自分の妻や夫とのあの特定の記憶に、 侵入してほしくないのです。 そこで、あなたは、良い関係がほしい。 が、他のところでは、構わない。いいですか?
50:00 質問者は、訊ねます - それは、それが存在すること、すなわち、記憶が生じているのを、見ることですか。 そして、それが生ずるままに、それを即座に落とす。 関係において、です。 理解されますか。 あなたは、理解されましたか。 さあ、みなさん! 誰かが、はいか、いいえを言います - あなたは、理解するのかしないのかを、です。 または、記憶が、必要でないなら、 それが頭をもたげない状態に、いるべきですか。 それは、とても錯綜した問いです。ですね? そして、錯綜した頭脳を、必要としません。 きわめて単純な頭脳がこれを観察できます。 私は一分で、それをお示ししましょう。
51:11 私は記憶ですし、あなたもそうです- 記憶の束です。 たとえ、あなたが、私の中に神がいる、光が、霊性の感覚がある、 と言うとしても、それはやはり、記憶です。 で、私は、自我、「私」の構造全体です。 私の知識すべては、記憶です。 さて、私は、妻や夫や子どもたちや隣人との関係に、 これらの記憶が、 いつも含まれているのが、分かります。 妻の記憶 - 彼女が、何か嫌味なことを言ったり、私をいじめたり、 何か気持ちよいことや、わくわくすることを、言ったりしたこと - それはやはり・・・私は、その記憶を集めてきたのです。ですね? で、問いは、こうです- これらに付いてきておられますか - 問いは、こうです - なぜ頭脳は、これらすべての記憶を、保持しますか。ですね? あなたは、その質問をなさるのでしょうか。よろしいですか。 なぜ頭脳は、彼女が私に語ってきた何か気持ちいいことを、保持しますか。 そして、彼女が昨日言った何か気持ちよくないこと - それもまた、記録されます。 気持ちいいのも、よくないのも、記録されます。 それが、記憶になります。 ですね? なぜ頭脳は、記録しますか。 それが問いです。 理解されますか。
53:10 四十年前に、戦争がありました- 四十年近く前に、です。 彼らは、それについて、本を書きます。 彼らは、それについて、話しています。 彼らはテレビで、戦争について、様々な興奮する場面を、 様々な破壊兵器を、映します。 そうね、保っておく。いつの時も、これを、つづけておく。なぜですか。 理解されますか。 私たちは、それに入るでしょう。
53:41 で、私たちは、はるかに深刻な根源的な質問を、しています - なぜ頭脳は、あらゆる物事を、記録しますか。 なぜそれは、気持ちよくないことと、気持ちよいことを、記録すべきですか。 それは、常に記録する状態に、あります。 ですね? 私たちは、これに同意ですか。 これは、事実です。 語り手の創案ではありません。 さて、問いは、こうです - どう車を運転するのかを、記録することは、必要です。ですね? どう手紙を書くのか、道具使いが巧みであること、 車の解体と組み立ての知識を持つこと - それを、語り手は、したことがあります。 で、そこでは、それが必要です。ですね? さて、なぜそれは、心理的に、内的に、記録しますか。 あなたは、その問いが、分かりましたか。 私たちは、この質問をしています。 気持ちいいこと、気持ちよくないこと、 お世辞、侮辱を、記録することは、必要ですか - そうね、その他すべての感覚を、です。 それは、必要ですか。 または、心理的な記録は、 強さを与え、自我、「私」、人格を築き上げます。理解されますか。 それを見てください。 記録することは、必要です。 さもないと、私たちは、物理的な世界で何をも、できないでしょう。 あなたは、ビジネスマンであるなら、かなり多くを、知らなくてはいけません。 あなたは、銀行家であるなら、大変多くを、知らなくてはいけません。 あなたは、外科医や医師、眼の専門医 - よろしいですか。 または、コンピューターの設計者であるなら、 あなたは、大変多く知らなければなりません。 そこでは、それが、絶対的に必要です - ですね?
56:17 さて、私たちは、内的に、いわば、肌の内側で、訊ねています - すなわち、心理(サイキ)、心理的な区域です - なぜそこに、記録があるべきでしょうか。 それは、外の物理的な必要の、 心理的な必要への、拡張ですか。 それは、その拡張ですか。 それは、その拡張ですか。 理解されますか。 それは、必要な外の知識の継続であり、 私たちは、心理的にもまた、それは必要である、と言いますか。 私たちは、けっしてそれを問いません。 私が言っていることを、理解されますか。 私たちは、幾らかここで一緒にいますか。 確かに、あなたは、麻痺していないでしょう。 で、どうぞ、私は、あなたを催眠に掛けていません。
57:38 で、私たちは、記録過程全体を、問うています。 私は、 彼女が今朝、言ったことは、重要でない、 それは必要でないことが、分かるとき - 彼女は明日、何か違ったことを言うでしょう。 私は彼女へ、何かを言うでしょう - 何か全然違ったことを。 ですね? 私たちはどちらも、このゲームをします。 それは、何が大事なのですか。 それは必要ですか。 それは、私が彼女についてイメージを築きつつある、 彼女は、私についてイメージを、私について映像を、築きつつある、という意味です。 映像、イメージ、象徴は、とても強くなります。ですね? これらは、ご存じでしょう。 それは、ものすごく強くなります。 ゆえに、私は、「彼女は、あのようだ」と言います。 そして、彼女は、「私は、あのようだ」と言います。 そして、私たちは、離れています- おそらく、ベッド以外は、です。 分割は、もっと広く、広く、広く成長します。 私が別れるか、彼女が別れる。 私は、別の女を追求し、 そこで、再び、古い同じゲームを、始めます。 彼女は、まさに同じことを、します。ですね? あなたは、これらに同意しますか- 多くの結婚をした人々は。
59:39 で、これが、進んでいます。 私たちは、こう言っています - 問いを検討する中で、回避不可能な問いが、生じます。 心理的に、記録しないことは、可能ですか。 それは、どういう意味ですか。 これは、起こりえますか。 この機械的な過程は・・・それは、機械的な過程です。 頭脳は、それが慣習になってきました。 それは、その伝統の一部です。 それは、それ自体を自己として維持する その継続の一部です- ですね? で、私たちは、訊ねています- それは可能ですか。 それが絶対的に必要なそこで、記録するが、 心理的に、まったく記録しないことは、です。 あなたは、これの美しさが見えませんか。後生です。 それは、こういう意味です - まず第一に、心理的に記録することの危険を、見てください。 私は、ヒンドゥー教徒です。 あなたは、キリスト教徒です。 ですね? あなたは、仏教徒やチベット人です。 または、何か、いかれた小さな導師に、所属しています。 彼は、たくさんのお金、たくさんの権力、地位を、持つかもしれませんが、 それはやはり、きわめていかれた小さな事柄です。 で、あなたは、これらを見ます。 で、私たちは訊ねています - 内的に記録しないことは、可能ですか。 あなたの答えは、何ですか。 私は、あなたに質問をしました。 あなたたちは、私に幾つか質問をしましたが、 私は、あなたに、質問をしています。 心理的に記録しないことは、可能ですか。 それは、傷つかないとか、 おだてられない、という意味です。 それは、同じことです。 あなたは、それは可能だと、言うかもしれません。 または、それは可能でないと、言うかもしれません。 あなたは、それらのことのどちらかを、言うなら、 自分自身を妨げています。ですね? あなたは、「私は、あの山へ歩いて上がれない」と言うなら、 歩くのを、止めます。 ですが、あなたが、「まあ、私は歩こう。 何が起きるかを見てみよう」と言うなら、 そのとき、全然違った行為が、起きます。
1:02:46 で、あなたの答えは、何ですか。 質問者の答えは、こうです。
1:03:08 あなたは、何かに気づいていますか。 このテントの形に気づき、 このテントに幾つ区分が、あるのか、 そこの、テントの所有者の印刷された言葉 - あなたは、これらに気づいていますか。 その均整、その長さ - 測量するのではなく、その長さ、です。 あなたは、まわりに座っている人々に、気づいていますか - 様々な色、顔と顔。 異なった顔、 若い、老いた、白い髪の、黒い髪など、 あなたは、これらに気づいていますか。 または、あなたは、一度も見ていませんか。 あなたは、気づいていないなら、 あなた自身の反応に、気づかないかもしれません。 あなた自身の応答に、気づかないかもしれません。 あなたは、自分の身体に、気づかないかもしれません。 なぜなら、あなたは、恐ろしく知的であり、すべてあそこに生きているからです。 または、あなたは、とてもロマンチックです。 あなたは、これらに気づいていますか -感傷的だ、執着している、などと、です。 あなたは、気づいているなら- 気づく。 「まあ、私は気づいているが、あのシャツは好きでない。 それは青すぎる」と言うのではない。 私は今朝、そう言われました。 で、私たちは、その意味で、選択することなく、気づいていますか。 選択なしの気づき。 そのとき、あなたは、選択なく気づいているなら、 注意しています。 理解されますか。 選択なしの気づきは、注意を、意味しています。 養成されて、「私は注意しなければならない」と言うのではない。 樹々、鳥たちに、気づく- 昇っていく風船、 山々、雲に照る光、 夕べ、月の光、などに、です。 見守り、見守る。 これらに気づく。 そして、これらへのあなたの反応に、です。 応答しない、選択しないことによって、です - 「私はこれが好きだ。 私はあれが好きでない。 それは私のだ。それはあなたのだ」と。 よろしいですか。ただ気づく。 この選択なしの気づきから、注意が、ある - いいですね? あなたの眼でもって、あなたの耳でもって、 あなたの神経でもって、あなたの全存在でもって、注意する。 そのとき、彼女が私に、何かを言うとき、私は、十分に注意しています。ですね? 彼女は、「あなたは、けだものだわ」と、言います。 私は注意深いから、反応がありません。理解されますか。 反応があるのは、不注意があるときだけです。分かりますか。
1:06:50 やれまあ。これらを語るには、長い時間が、掛かりますね。 それは、分かりましたか。 完全な注意が、あるとき、記録することが、ありません。 ですが、私はそこで、完全に注意しなければなりません - 車を運転する中で、私はものすごく注意深くなければなりません。 そことここに、注意がある- 注意、です。 ですが、彼女が言っていることへ、私が不注意である瞬間に、 それは、記録されます。 当然です。 分かりましたか。 あなたは、そうするでしょう。 それが、おもしろさです - ただたくさんの言葉を聞くだけではない。 しかし、実際に、そうね・・・行為に移すのではなく、 それの真理が見えるなら、 記録することが、何もありません。 ですが、あなたが記録するなら、不注意に記録するなら、 あなたは、即座にそれを取り扱えます。 が、私たちがそうであるように、あなたが、常に不注意であるなら - 私たちの、他の一人との関係において、です。 なぜなら、それが、私たちの習慣であるからです。 私は彼女を、四十年の間、知ってきました。 後生です。または、十日間です。 理解されますか。 で、注意の性質と、 不注意 - 注意しないこと - の性質は、二つの別々のことです。 不注意があるところ、選択がある - 気づかないこと、注意の欠如が、です。 そのとき、記録過程が、進んでいます。 古い習慣が、確立されます。 ですが、注意があるとき、古い習慣は、破られます。 分かりましたか。 第3の質問: どのように和解させられますか・・・ ああ! すみません。 質問3: 私は、内の静寂が
1:09:23 実践されたり、追い求められたりできないことを、理解しますが、 それが訪れるかもしれないところの基盤は、何ですか。
1:09:34 私は、内の静寂が実践されたり、追い求められたりできないことを、理解しますが、 それが訪れるかもしれないところの基盤は、何ですか。 明らかですか。 質問は明らかですね。
1:09:58 質問者は、静寂は、冥想をとおして達成できない、 実践できないことを、理解します。 いいですね? 制御できない、と。 あなたたちがなぜ、それを受け入れるのかを、私は知りませんが、 見たところ、あなたはそれを受け入れます。 ですが、それが訪れるかもしれないところの基盤は、何ですか。
1:10:43 あなたが、何かを観察するとき - 雲、山、川、樹や、あなたの妻や隣人、 この背の低い、教育を受けていない人物を、です - あなたは、生の現象すべてを、静寂に、観察できますか。 「ええ、私はそう思う」と言うのではない。 すなわち、意見の反応なしに、見る、観察する。 なぜなら、私たちは、あらゆる物事について、意見に満ちているからです。ですね? なぜ私たちは、意見を持っていますか。 進んでください。 私に言ってください。 なぜ人間たちは、こういう深く根づいた意見を、持っていますか。 または、きわめて表面的な意見を、です。私は信じています。 なぜですか。 私の導師は、正しい。 あなたのより、良い。 私は、すぐに闘おうとしています。 で、これらの意見、結論、 概念、理想は、 人間たちを分割します。 これは、明白です - 全体主義の理想論と、民主主義の理想論のように、です。 ですね?それらは、人々を分割しています。 理想は、人々を分割します。 質問者は、訊ねます - 私は、内の静寂が実践できないことを、理解します。 彼が、「私は理解します」という言葉を、使うとき、 彼のいう「理解する」とは、どういう意味ですか。 理解されますか。私はあなたに、質問しています - あなたがいう「理解する」とは、どういう意味ですか。 私は、このテントがいかに組み立てられるか、 それがいかに解体されようとするかを、理解します。 私は、こことジュネーヴの間の距離を、理解します。 私は、誰かが言ったことを、理解します。ですね? 私は、(自動車の)内燃機関を、理解します、などと。 その理解は、知的で、言語的ですか。ですね? それは、ただ理解することです。 あなたが、何かを言ってきたから、 私は、言葉の意味を、理解します。 または、本当の理解は、いつ起きますか。 すなわち、私は何かを即座に分かります。 真理へのその知覚こそが、私の存在全体を、変化させます。 それは、どちらですか。 なぜなら、「理解する」という言葉の意義を、 理解することは、重要で・・・掴むことは、重要であるからです。 私は、知的に何かを理解します。 または、私はそれを、情動的に、感傷的に、ロマンチックに、 想像力豊かに、掴みます- それらです。 または、私は本当に、言葉の深さと意義を、分かるだけではなく、 また、互いとの意思疎通において、 私は、あなたが言っていることの真理を、見ます。 それの真理を見る - あなたが言っていることの結論や観念を、ではない。 それの真理、それの香り、深み、味を、です。 そのとき、その理解は、革命です。 ですが、何気なく、「ああ、はい、私は、Kが言っていることを、 理解します」と言うこと、それは、戯言です。 語り手は、言います -私は、内の静寂は実践したり、 追い求めたりできないことを、理解します。 ですが、あなたたちは、みんな或る種の内的な静けさ、 或る種の平和を、ときどき、探し求めませんか。 あなたたちは、みんな、探し求めています。 「私たちは探し求めていない」と言わないでください。 私たちは、食べ物、快適さを探し求めています - 自らが生きるところの、このひどい騒動からの逃避を、です。 ですが、「私は、内の静寂は、実践したり、追い求めたり できないことを、理解します」と、何気なく言うことは - お許しいただけるなら、です。 語り手が言うのを、許してください - あなたは本当は、ご自分が言ってきたことを、理解しないのです。 ですが、それが訪れるかもしれないところの基盤は、何ですか。 それが、本当の疑問です。 ですね?
1:17:04 頭脳の状態が、全く静寂であるために、何が、必要ですか。 あなたはなぜ、静寂でありたいと思いますか。 あなたが、何かを観察し、知覚するとき、 あなたは、それへの反応、それへの応答を、持たないなら - ですね? ただ観察する。 その観察自体が、静寂です。 ですね? 理解されますか。当然です。 私は、あなたたちを見守っています。 あなたたちは、私を見守っています。 もし私が、もし語り手が、見守る中で、反応を持っているなら、 彼は本当に、応答していません。ですね? 彼は、あなたの反応、あなたの感情、その他すべてを、見守っていません。 あなたは、語り手を見守っていて、反応を持っているなら、 あなたは、彼を見守っていません。 あなたは、自分の反応を、見守っています。 単純です。
1:18:24 で、静寂が訪れうるところの基盤は、 実践をとおして、ではない。 決意をとおして、ではない。 意志や欲望をとおして、ではない。 それは、自由があるとき、自然に来ます - 葛藤からの自由、です。 で、あなたは、葛藤を理解しなくてはいけません。 「私は静寂を持たなければならない」と言うのではない。それは戯言です。 で、基盤 - その上に、自然な、明らかな、美しい 無量の静寂の深みは、 完全な自由があるとき、来ます。 で、自らは、静寂の性質、それがどう訪れるか、ではなく、こう訊ねるべきです - 自らは、自由でありえますか。 葛藤から自由であり、傷つくことから自由であり、 恐れ、心配、さびしさ、そうね、悲しみとそれらから、自由です。 そのとき、静寂の家は、無量です。
1:19:57 今、12時です。 今朝は、それで十分ですか。 または、もう一つ質問をほしいですか。 私が働いていますか。あなたもまた、働いていますか。 私たちは、ともに働いていますか。 または、あなたは単に、たくさんの言葉を、聞いているだけですか。 あなたが本当に、能動的に、協働していて、 能動的に分かち合い、それのまさに終わりまで、行こうとしているなら、 あなたは、疲労困憊するでしょう。 ですが、あなたは、何気なく・・・ それは、あの川が、音を立てているのに似ています。あなたは、それに慣れます。 ともかく、今、12時ですが、私たちは、最後のものを、するでしょう。
1:21:00 質問: どうやって、自らは、社会の要求を、 全的な自由の生と、和解させられますか。
1:21:10 どうやって、自らは、社会の要求を、 全的な自由の生と、和解させられますか。
1:21:21 社会の要求とは、何ですか。 社会の要求とは、何ですか。 どうぞ、私に言ってください。 あなたが、9時から5時まで、事務所へ行くこと、 あなたが、9時から5時まで工場へ行くこと、 あなたが、事務所の退屈すべての後、 ナイトクラブへ行くこと、そこでの興奮、 日当たりのいいスペインやイタリアで、二週間か三週間の休日を取る。 社会の要求とは、何ですか。 あなたは生計を立てなければならないこと、 あなたは、余生の間、 国のその特定の地方で生きなければならないこと - そこで、法律家として、または、医師や外科医として、開業する。 または、工場で、組合の指導者として、などなどです。いいですか? ゆえに、また、質問をしなければなりません - こんなに多くを要求する社会とは、何ですか。 社会とは、何ですか。 誰が、そのひどいものを、創り出しましたか。 誰が、これらに責任がありますか。 教会、寺院、モスク- よろしいですか - その内側で進むサーカスすべて。 誰が、これらに責任がありますか。 社会は、あなたより異なっていますか。 または、あなたが、社会を創り出してきましたか - 私たちの一人一人が、 私たちの野心をとおし、私たちの貪欲をとおし、 私たちの妬みをとおし、私たちの暴力をとおし、 私たちの腐敗をとおし、私たちの恐れをとおし、 共同体に、民族、国家に、私たちの安全をほしがって、です。よろしいですね? 私たちが、この社会を創り出してきましたが、 それから、それが要求することに対して、社会を責めます。 ゆえに、あなたは訊ねます - 私は、絶対的な自由に、生きられますか。 私は、社会と、自由を求める私自身を 和解させられますか - そのほうがいい。 それは、とても不条理な質問です。 理解されますか。 すみません。誰がその質問をしたにせよ、私は失礼にしていません。 なぜなら、あなたが、社会であるからです。 私たちは本当に、それが見えるなら - 観念や概念として、受け入れなければならない何かとして、ではない。 あなたが、この地上の私たちの一人一人が、 ここ四万年以上もの間、 私たちが、自分たちが生きるところのこの社会を、創り出してきたのです。 宗教の愚かしさ - いいですか? 各国が武装していることの愚かしさ。 後生です。私たちが、それを創り出してきたのです。 なぜなら、私が、自分はアメリカ人だとか、 フランス人だとか、ロシア人だとか主張するからです。 私たちは、自分はカトリックだ、プロテスタントだ、ヒンドゥーだ、 仏教徒だなどと、主張します- イスラム教徒だ、と。 それは、こう呼ぶことにより、私たちに、安全を与えてくれます。 そして、安全への探求は、私たちの分割により、破壊されつつあります。 それは明らかです。 私は知りませんが・・・
1:25:41 で、社会とその要求と、 あなたの自由への要求との間に、和解は、何もないのです。 要求は、あなた自身の暴力から、 あなた自身の醜い、有限な利己性からです。 それは、最も複雑なことの一つです - 利己性がどこにあるのか、自我がどこにきわめて、きわめて微妙に隠れるのかを 自分自身で見出すことは、です。 それは、政治的に隠れられます - 国のために良いことをして、です それは、宗教世界に、隠れられます- 大変美しく、です。 「私は神を信じている。 私は神に仕える」と。 または、社会の手助け、です。 私は、社会の手助けに反対している、ということではない。 その結論に跳びつかないでください。 それは、そこに隠れられます。 それは、結婚に、愛に隠れられます - ですね? それは、きわめて注意深い、 分析的でなく、観察する精神、頭脳を、必要とします - 自己の微妙さが、利己性が、どこに隠れているかを、見るには、です。 そのとき、それがないとき、社会は存在しません。 あなたは、それへ和解しなくていい。 「私は、自由のために働いているとき、 どうやって、社会に応答すべきか」と言うのは、 不注意な者、無思考の者、気づかない者だけです。理解されますか。
1:28:07 指摘してもよろしいなら、 私たちは、再教育されなくてはなりません - 専門校、学校と大学をとおして、ではない。 それもまた、私たちの頭脳を、条件づけます。 または、私たちが工場などで働くとき、です。 気づくこと - 私たちが、いかに言葉に捕らわれているのか、などを、 見ることにより、自分自身を教育するのです。 私たちは、これをできますか。 それをできないのなら、私たちは、 永続的に戦争をしようとしています。 私たちは、永続的に泣いているでしょう。 いつも、葛藤、抗争、悲惨、その他すべての中に、いるでしょう。 語り手は、楽観的でも、悲観的でもありません。これらは、事実です。 あるがままの、観察されるままの事実とともに生きるとき - コンピューターや世論調査が与えるデータではなく、 あなた自身の活動、 あなた自身の自我本位の追求などを、見守る。 その中から、すばらしい自由が、成長します - このすべての大いなる美しさと強さとともに、です。
1:30:00 長く話をしてしまって、すみません。 どうぞ、立ち上がってもいいですか。