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SA84Q2 - 第2回質疑応答集会
スイス、サーネン
1984年7月24日



0:16 またもや、たぶん百五十か、 それ以上の質問が、ありました。 それらすべてには、答えられません。 たぶん、それには、二ヶ月が掛かるでしょう。あなたたちは、 もう一ヶ月間、ここに座るのは、きっとお好きでないだろうと、思います。
0:43 いったい、最終的な問いが、 あるのかどうかと、思われます - すべての問いに答えるだろう、一つの問いが、です。
1:03 私たちは、それについて考えたことが、ありません。 私はちょうど、それについて考えました。ちょうど今です。 問いや探究は、ありますか - 経験、ではない。 なぜなら、経験は、いつも制限されているし、 経験は、自分の欲望、意図と制限により、 条件づけられるからです。 で、とうてい、経験には、頼れません。 それらは、世の中で、最も疑わしいものです - この、いわゆる霊的な経験さえも、です。 きっと、あなたたちのほとんどは、その種の経験がほしいのだと、思います - 自らを扶養し、自らにエネルギーなどを与えてくれるだろうものを、です。 ですが、あらゆる経験は、どれほど深くても、どれほど広くても、錯綜していても、 そういう経験は、制限されています。 なぜなら、いつも、経験者があるからです - 経験している者が、です。 いいですか? 経験者は、過去です - 過去の記憶、過去の彼の背景です。 その背景に応じて、 経験者は、経験を認識し、それでもって生きます - 自分は、より大きな経験をするだろうと、望んで、です。 ですが、より大きな経験や、より広い、より深いものも、 やはり、いつも制限されています。 なぜなら、経験者が、あるからです。
3:27 さて、問いが生じます - 私はそれを、あなたに出しています。 何か経験することが、いったいあるのかどうか、です。 生物学的、性的な経験など以外に、 それら物理的な反応などを別として、 いったい、経験がありますか。 私たちはなぜ、経験をほしがりますか。 どうぞ、私たちが言いましたように、私たちはともに、これを探究しています - 語り手が、何かを言っていて、 あなたが、それを拒否するか、受け入れるか、やり過ごすか、ではない。 ですが、もしも私たちは、このきわめて興味深い問いを、検討できたなら、 普通の生物学的な経験などを別として、 いったい、経験の必要性が、ありますか。 経験は、見たところ、自分を目覚めさせておきます。 経験や問題は、何かあなたに投げつけられたものです - 特に、その「問題(プロブレム)」という言葉の意味は、 何かあなたに、投じられたものです。 それは、問題(プロブレム)です - その言葉の意味、根本の意味です。 経験もまた、経てゆく、という意味です - あなたが経てきたことへ、取りすがるのではない。
5:46 で、頭脳は、自らが目覚めているために、問題が必要ですか 挑戦、危機、衝撃 - それは、自らが目覚めているために、これらのものが、必要ですか。 なぜなら、私たちは、こういう表面的な生を、生きるし、 私たちは、それで満足するからです - 少なくとも、私たちのほとんどは、です。 そして、すべての教育などにより、 私たちは、かなり機械的になり、怠けて、怠惰になります。 そして、私たちは、目覚めているために、 問題、圧力などが必要だと、感じます - 頭脳を鋭敏に保つために、です。 ですね? 頭脳は、何の薬物、問題、挑戦、衝撃もなく、 鋭敏であり、極度に見守っていることが、できますか。 私たちは、いったい、これを探究したことが、ありますか。 または、私たちは熱心に、何かもっと多くを、何かもっと良いものを、持とうとしていて、 いつも測量しています。 それにより、精神は、さらに鈍ります。 もっと多くを求めているのは、鈍い精神です。ですね? ですが、どうぞ、私たちは、冷笑的になっていません。 もしも、私たちが、何かを探究できて、 見出せたなら - 頭脳は、幾千年に幾千年の間、条件づけられてきて、 様々な事故、出来事、圧力、宣伝をとおして、 条件づけられてきて、 プログラムされてきましたが、 その頭脳は、自然に、どんな努力もなく、十分に目覚めていられますか。 それを見出すには、 経験すべてを、全的に拒絶しなければなりません - 物理的な経験以外、 心理的な経験は、全的に拒絶されなければなりません。 それで、依存しない - 圧力、印象、刺激に依存しないのです。 あなたは不幸にも、今、語り手により刺激されつつあります。 彼は、薬物として、作用するでしょう - コーヒー、お茶や、より強い薬物、アルコールなどのように、です。 頭脳を鋭敏にしておくために、これらの物事に、 刺激物として、依存するなら、 あなたは単に、機械的な過程を、維持しています。 頭脳は、私たちのほとんどにとって、機械的、反復的になったのです。
10:28 で、唯一つの挑戦もなく、生を生きるには - それは、眠りに就く、という意味ではありません - 外的にも、内的にも、唯一つの要求もなく、 それで、頭脳は、とてつもなく活動的であるように、です。 行為は、動きではありません - これがお分かりになるのかどうかと、思われます。 私はそれに、少し入ってもいいですか。 それに興味はありますか。
11:11 行為は、動きではありません。 動きは、時を含意しています。ですね? ここからそこへ行く、などです。 どの種類の動きも、時と思考の領域に、あります。 ですね? すべての動きは、物理的でも、心理的でも、 すべての思考は、時の平野に、収容されています。 いいですか? 行為は、時のではありません。 行為は、してきたのではなく、 されてきたことの思い出や、 経験や、解決された問題の思い出でもない。 それはすべて、背景です。 それは、時です。 未来もまた、時です。 ゆえに、行為は、即座です。 それのまさに生きること、無媒介で、即時に、です。 私たちは、それを幾らか伝えていますか。
12:48 で、私たちはともに、頭脳の問いについて、話し合っています - そんなに台無しにされて、 衝撃を受けて、負傷してきたものについて、です。 どの衝撃も、負傷です- どの傷も、です。 傷つく可能性がないそういう頭脳を、持つこと - 心理的に、です - あなたは、階段から落ちるとき、衝撃を受けるかもしれません。 それは、違った事柄です。 あなたが、階段から落ちないことを、願っていますが、 悪い知らせをめぐって受ける衝撃や、 突然に医師が、「あなた、癌に罹っていますよ」と言う。 または、誰かが、あなたから去って行くことの衝撃。 それらすべての種類の衝撃は、当然、頭脳を負傷させ、 それで、頭脳は、いつも緊張の中にいるのです。 ですが、境遇により触れられない精神を、持つには - 理解されますか。 そういう頭脳は、何かとてつもないものです。 それは、冥想の一部です - 進んでいる、ばかげたことすべて、ではない。
14:57 で、私たちは、訊ねてきました - すべての問いに、答えるだろう問いが、ありますか。ただ一つの問いが、です。 私たちは、それに答えてきました。 ですね?
15:20 質問: 芸術は単に、思考の産物であり、 ゆえに、創造ではないとのあなたの発言は、 多くの芸術家、詩人、音楽家を、悩ませてきました - ここにいて、自分たちは創造者であると、考える人たちを、です。 創造は、思考の活動を含められませんか。
16:01 それは単に、思考の産物だとのあなたの発言は・・・ いや、ここには、何か欠けているものが、あります。 すべての芸術は単に、思考の産物・・・ ちょっと待って。ここで、何かが間違っています。 芸術は単に・・・ いえ、これは、すべて間違っています。 ああ、はい。 芸術は、単に・・・ 芸術は単に・・・ああ! 芸術は、単に思考の産物であり、 ゆえに、創造ではないとのあなたの発言は、 多くの芸術家、詩人、音楽家を、悩ませてきました - ここにいて、自分たちは創造者であると、考える 私たちを、含めて、です。 創造は、思考の活動を含められませんか。 ですね?問いは、明らかです。
17:42 語り手は、言ってきました - 思考は、思考の本性すべてとともに、 けっして創造的ではありえない、と。 思考は、また、芸術家、詩人、音楽家の 表現でもありますが- 私たちのみんなを、含めて、です - 思考はいつも、制限されています。ですね? で、初めに私たちは、探究しなければなりません - 思考とは何なのか、 なぜそれは、制限されているのか、 それは、世界の最大の詩人や最大の芸術家や、 ちょうど始めかけた芸術家により、表現されるのかどうか、です。 芸術家は達成しているのではなく、いつも始めているのを、私は望みます。 私は、それはゴヤか、ヴェラスケスだったと思います。私は、誰かを忘れましたが、 彼らの一人は、「私はいつも学んでいる」と言いました。 ゴヤですか。ベーネ(よし)! 彼は、それを言ったとき、九十二歳でした- 「私はいまも学んでいる」と。
19:26 で、私たちは、幾つものことを、探究しなくてはいけません。 まず第一に、創造とは何ですか。 創造。 世界は、どのように生じてきたのか。 それは、創造の一部です。 私たちはまた、思考と、 生きることの芸術をも、探究すべきです。 それは、はるかに最大の芸術、至高の芸術です。 そして、絵画の芸術、音楽の芸術、 ことばの芸術。 なぜ私たちは、芸術家に、こんなにとてつもない重要性を、与えますか。 先日、或る絵画が、1千万ドルで売られました。 それは、たぶんとても良い投資でした。 で、私たちは、これらを探究しなくてはいけません - ただ非難したり、「なぜあなたは、そう言いますか」と言うだけではなくて、です。
21:09 で、初めに、生きることの芸術とは何であるかを、探究しましょう。 なぜあなたは、それは最も偉大な芸術であると、言いますか - 世界の、他のどの芸術よりも、偉大だ、と。 飾り棚を組み立てる、すばらしい大工と、 偉大な芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチなど、 偉大な古典派の芸術家と偉大な詩人と、 いわゆる芸術家ではない私たちの中の人たちよりも、ですが、 私たちは、山々を見つめる敏感さを、持っているかもしれません - 苦しんでいる誰かへの敏感さ、 自然に対して、樹を見つめる敏感さを、です。 道路沿いに、すばらしい樹が、あります - 唯一本、全体的で、一本の大きな幹は、きわめて多くの枝をつけ、 木の葉に満ち、風の中で、ひらめいています。 あなたが、あの美しさを見つめるとき、 または、日の光が照った雲の美しさを、です。 で、私たちはそのとき、また、美しさとは何かをも、探究しなくてはいけません。 いいですか?
23:06 で、この問いは、大変多くの物事を、含意しています - ただ一つのことだけではない。 物理的な形は別として、美しさは、何ですか - くっきりとした顔、健康的で、きらめきに満ちた眼と 微笑みと、威厳の感覚ですか。 山の、樹や、流れる水の美しさが、ある。 そういう大いなる美しさは、いつ、見られますか。 あなたは、世界の美術館すべてへ、行くかもしれません。 語り手は、きわめて多くの美術館を、訪れてきました。 あらゆる人が、「あれは、何とすばらしい絵画か」と、言います - 「色、形、グループ分けは、何と美しく均整しているのか」と、 その他すべてを、です。 で、私たちは、多くの形で、「美しさ」という言葉を、使います。 美容室! などです。 あなたが本当に、それを探究するなら、美しさとは、何ですか。 美しさは、眼に、心に、精神に、ありますか。 または、自己、自我がないとき、美しさは、ありますか。 理解されますか。 自我 - その問題すべてとともに、その苦労すべてとともに、 その混乱すべて、不安定、悲惨、幸せとともに、そうね、 それが、自己です。 その自己が、「それは何と美しいのか」と言うとき、 それは、ほとんど意味がありません。 おそらく、あなたたちは、アリゾナのグランド・キャニオンについて、 聞いたことがあるでしょう。 それは、最もとてつもない峡谷です - 何マイルもあり、川がそこを、切り抜けてゆきます。 そこは本当に、大変とてつもない光景です。 誰かが、本の中、ホテルの本の中で、言っていました - 「私は、この輝かしい光景を、見てきた。 私は、お茶を飲もうとしているのが、うれしい」と。 で、何かを見つめることは、可能ですか -
26:42 樹々、山、谷、 あなたの妻や夫か、何かを、 自己なしに、 あなたが、それとあなたの知覚との間に入ってこないで、です。 理解できますか。 大いなる美しさの感覚を、堪能することは、可能ですか。 あの美しさは、自己があるとき、 とうてい存在できません。 あなたは、偉大な芸術家であり - その言葉の、現代的な意味でも、です。 そして、ものすごく自我中心的で、ものすごく野心的であり、 お金を掴んでいるのかもしれません。ですね? そして、とてつもない絵画を、描くかもしれません。 私たちは、それを偉大な芸術家と呼びます。
27:58 で、私たちは、訊ねなくてはいけません- 生きることの芸術とは、何ですか。 それは、地上で最も偉大な芸術です。 なぜなら、私たちはけっして・・・ 偉大な詩人、偉大な彫刻家、 ミケランジェロと、残りの彼らすべては、 彼らは、理解したのですか。 私は、彼らを、見くびったり、彼らに失礼にしたりはしていません または、芸術家、詩人、音楽家としてここにいる、あなたに対しても、です。 初めに、生きることの芸術を、発見できますか。 そのとき、あなたがすることすべてが、芸術です。 生きることの芸術とは、何ですか。
29:05 「芸術(アート)」という言葉は、 生へ、正しい均整を与える、という意味だと、私は思います - 生の中の、すべての物事を、それらの秩序に、収める。 どの一つのことをも、誇張しない。 生きることの芸術を見出すには、ものすごい・・・ 知的な能力だけではなく、また、大きな敏感さも、必要とされます。 生きることの芸術は、全的な自由があるとき、来られるだけです - 私たちの些細な小さな悩み事すべて、 私たちの意図すべて、 私たちの問題、恐れすべてからの自由です。 そして、このとてつもない全体性の感覚が、あるとき、です。 すなわち、あなたが、何でもないとき、です。 何でもないことが、全体性です。 これらを理解されるのかどうかと、思われます。 なぜなら、私たちは、いつも何かでありたいと思うからです。 あなたは、事務員であるなら、管理職、経営者になりたいと思います。 あなたは、科学者であるなら、もっともっと探検したいと思います - そして、名声、世間の注目、そうね、その他すべて、調査研究、です。 生物学への調査。 あなた自身の精神、あなた自身の存在への調査ではない。 それは、世の中では、勘定されません。 それは、何の重要性もありません。 ですが、科学者であり、原子を探検していることは、 ものすごい重要性を与えられます。
31:55 で、私たちは、私たち自身で、生きることの芸術を、見出せますか。 それに入るには、私たちは、思考の本性を、見出さなければなりません。 思考は、知識より生まれます- ですね? - 記憶としての、です。 思考は、記憶、知識、経験です。 何も経験、知識、記憶がないのなら、 考えることは、ありません。 あなたは、感情を持つかもしれませんが、それは、能動的に考えることではありません。 どの方向でも、私たちが考えるのは - 水平でも、垂直でも、直線的でも、全体的でも - やはり制限されています。 なぜなら、知識はいつも、制限されているからです - 今も、未来においても、です。 それは、明らかですか。そうなのです。 それは、語り手が言っていて、主張していることではない。 それは事実です。 なぜなら、私たちの経験すべては、制限されているからです。 それが制限されているとき、もっと多くへの要求が、あります - もっと多くの知識へ、です。 分かることですが、知識は・・・ 生物学者と科学者の幾人かは、 知識をとおして、人は向上すると言うけれども - あなたたちは、それらを聞いたにちがいありません - 人は、知識をとおして、向上する。 たぶん物理的には、ね。 理解されますか。 彼らは、もっと大きな住宅を、築いています - もっと良い家、もっと良い暖房、もっと良い道路、もっと良い通信、 もっと良い、人の殺し方、などなどなどです。 で、思考は、制限されていますが、 私たちが生きるところの、この世界、この社会を、創り出してきました。 明白です。 思考は、儀式すべてと、宗教的組織すべてを、創り出してきました。 思考は、神々を創り出してきました- 恐れの中から、 慰め、快適さ、安全への欲望の中から、です。 思考は、物質的な過程です。 なぜなら - 理解されますか - それは、頭脳に収容されているからです。 語り手は、頭脳の専門家ではありませんが、 彼は、自分の頭脳がいかに働くのかを、見守ってきました - その反応、そのリズムなどを、です。 私は、それらに入らないでしょう。 で、思考は、何をしようとも、制限されています。 制限されているので、それは、創案できます。 新しい自転車の製造法を創案し、より良いやり方、 新しい内燃機関などを、発明できます。 そうね、ジェットなどを、です。それはあらゆる物事を、創案できますが、 創案は、創造ではありません。 ですね? 自らは、美しい詩を書いて、 それは、私の創造であると、感じるかもしれませんが、 それはやはり、思考の区域の中に、あります。 いいですか? 必ずそうです。 自らが詩を書くなら、 どれほど荘厳で、どれほど美しく、 どれほど・・・言葉の深みとリズムと、それらでも、 それはやはり・・・ 感情は、違っているかもしれませんが、 それの表現は、やはり思考の平野の中に、あります。
37:23 で、思考が何をしても、制限されています。 創案は、制限されています。 自らは、何かを創案しますが、誰かがやってきて、 同じものを、創案します - はるかに良い、などなどなどです。 で、創造とは何ですか。 これは、古代ヒンドゥーが、 訊ねてきた疑問だったのです - 後のギリシャ人が、です。 私たちは、「神がこれらを創造した」と言います。 それは、物事からのきわめて便利な抜け道です。 ですが、これらすべての主張を脇に置き、自分自身で訊ねるなら、 創造とは何ですか。 それは、知識の中より生まれえますか。 ゆえに、創造は、制限されていますか。 または、創造は、すべての知識を越えた何かですか。 それは、知識とは、いかなる関わりをも、持っていません。 理解されますか。 あなたが、見出すように、きわめて真剣に、これに入るなら - 私が見出し、あなたに語るのではなく、自分自身で見出す。 それは、思考とは、いかなる関わりをも、持っていないからです - 記憶と、知識と、経験とも、です。 で、私たちは、それらを伝えるために、それらを一つの言葉「知識」に、表しましょう。 私たちが言いましたように、 知識は、いつも制限されています- 今も、未来においても、です。 創造は、何か無制限のものでなければなりません。 「私が詩歌を創造する」ではない。 それは、まさにその言葉の誤用です - 指摘してもいいなら、ですが。 私たちは、芸術家や画家等を、見くびっていません。 私たちは、きわめて深く、この問いを探究しています - 思考により創り出されていないもの、 宇宙・万物の無量性を、見出すように、です。 望遠鏡をとおして、宇宙を見つめられ、 様々なガスなどを、見られますが、 創造の甚大さ、 言葉により測量可能でないもの - 私たちは、あらゆる物事を、言葉により測量します。 知識より自由であるが- 理解されますか - なおも、知識を、その所に持つこと。 それを見出すこと - 頭脳はいったい、知識と言葉より自由でありえ、 なおも、知識を、その所に保てるのかどうか。理解されますか。 運転をする、話をする、手紙を書く、 様々な形の技能と専門分野。 そこでは、知識が、絶対的に必要です。 さもないと、あなたと私、語り手は、ここに座っていないでしょう。 ですが、無量性の感覚、 思考により測量可能でない創造の感覚。 ゆえに、創造は・・・ で、創造は、何か、 知識と何の関係をも持たないものです。 質問: 私は、助けを求めて、叫びたいと思いますが、 自らはどうやって、自由へ「助け」られますか - 括弧付きです。
42:54 私は、助けを求めて、叫びたいと思いますが、 自らはどうやって、自由へ「助け」られますか - 括弧付きです。
43:09 私たちが助けてほしい瞬間、 日、期間が、あります。 私たちは、医師へ行くとき、助けてほしいのです。 私たちは、病気に罹っているとき、助けてほしいのです - 私たちは、困ってきたとき、 訊ねることにより、誰かと話し合うことによって、です。 私たちは、いつも世界にいます - ここでも、アジアでも、世界の違った地方でも、 私たちはいつも、助けてほしいと思っています。ですね? そして、あなたに助けを与えてくれる人たちが、います - 司祭者、地元の村の教区牧師、 教皇、 「私があなたを助けよう」と言う導師たち。 世界には、他の人たちを助けようとしている、それらすべての人々が、います。 なぜなら、人々は、助けをほしがっているからです。 これは、見たところ、彼らの苦労すべてへ、 彼らの悲惨、不幸せへの自然な応答です。 たぶん、あなたたちのほとんどは、 大変尊敬をこめて、指摘してもよろしいなら、 あなたたちはみんな、おそらく助けてほしいと思っています。 おそらく、ね。 幾らかの人は、そうでないかもしれません。 なぜあなたは、助けてほしいのですか。 誰が、自分を助けてくれることになりますか。 これは本当に、まったく深刻な問題です。 私たちは、指導者たちにより、助けられてきました - 括弧付きの「指導者」、司祭者により、心理学者により、療法者により、 様々な文学、文献により、助けられました。ですね? 渇望、人間的な渇望、 助けてほしいとの、この叫び。 なぜですか。 これは、進んできました - 私たちの生涯の間だけではありません。 これは、人の始まりより、進んできました - 助けてほしいのです。 または、他の一人から、他の一人により助けてほしいだけではなく、 また、神へ祈る - 何か象徴へ、 何かへ、助けてほしいと叫ぶ。 私たちは、何千年に何千年もの間、こうしてきました。 政治的指導者、社会的指導者など、 愚劣さをともなった導師たち。 このすべてが、進んできました。 私たちは、助けられてきませんでした - いいですか? 助けられるとは、強くなる、という意味です - 誰にも依存しない、 物事を、個人的にではなく、客観的にきわめて明らかに見る、ということです。 なぜなら、私たちは、むしろ怠惰であるからです。 私たちは、たやすく満足します。 私たちのほとんどは、不満であるからです。 不満は、炎に似ています。 私たちは、それを揉み消したいのです。 私たちは、その炎を、生かしつづけません。 なぜなら、それは、あまりに厄介であるからです。 それは、破壊をもたらしかねません - 破壊 - 革命での、物理的な破壊ではなく、 自分の些細さ、 自分の不安定さなどの破壊です。 で、私たちは、助けてほしいのです。 そして、私たちを助けている人々が、います。 ゆえに、彼らは、私たちを永続的に、 自分自身を助けられない状態に、保っています。ですね? 他の一人を頼みにしないこと、 書物を、何をも、頼みにしないことは、可能ですか。 なぜなら、あなたなるものは、助けられることの結果であるからです。 あなたは、「私は自分自身を理解しようとしている。 私は自分自身を見守ろう、私が何なのかを正しく 見ようとしている」と、自分自身に言うなら - 自分が何であるかを見て、憂鬱になったり、 昂揚したりしないで、ただ観察する。 この観察は、とても単純です - あなたが本当に、それを望むなら、です。 あなたは、誰からも助けを求めていません。 ゆえに、あなたは、全面的に自分自身に、頼らなくてはいけません。 それは、ものすごい責任を、意味しています。 私たちは、責任を持ちたくないのです。 これが、世界で起きつつあることの一つです。 私たちは、ますます責任を持たなくなりつつあります。 なぜなら、私たちは、政治家たちがそれを見届けるだろう、 経済学者たちがそれを見届けるだろう、と言うからです - 私たちが悩んでいるなら、心理学者、 療法者、その他すべてが、と。
51:33 ですが、いつも流れゆく生活、 自己と呼ばれるこの動きの深さと理解を、持つ - それは、関係の鏡において、 きわめて明らかに知覚できます。 ですね? よろしいですか。 あなたは、あなた自身をあなたの妻とともに、 その関係において、きわめて明らかに見られます。 あらゆる反応、あらゆる思考、あらゆる感情 - 一つの思考をも逃さず、見守る。 そのときあなたは、無量の強さを持ちます。 そのときあなたは、誰にも頼りません。 なぜなら、あなたは全的に、責任があるからです - 自分自身へ、自分の行為へ、です。 それは、大変多くのエネルギーを、要求します - エネルギーをむだにし、しゃべりに、しゃべり、しゃべるのではない。 よろしいですか。それら、です。 ほとんどの人が、これらをしないでしょう。 不幸にも。 なぜなら、私たちはみんな、かなり、弛んでいるからです。 語り手が「弛んだ」という言葉を使っても、許してください。
53:12 で、責任は、自分自身に、ではなく、他の人たちにある。 あなたは、助けを求めるなら、 あなた自身を、ますますひ弱にしています。 あなたは、頭痛があるなら - 残念ながら、ほとんどの人々は、或る種の神経痛などを、 持っていると、思います - あなたは即時に、錠剤を飲みます。 ですが、なぜそれが来るのか、それの本性は何なのか、 なぜかに・・・入りません。 見出し、そのために働くのです。 理解されますか。それが起きないように、見計らう。 あなたは、間違った食事をしている、等々かもしれません。 私たちは、けっして物事の原因へ、行きません。 原因があるところ、それに終わりが、あります。 理解されますか。 ものすごくたくさん飲んでしまう。 翌朝、あなたは、二日酔いです。頭痛がします。 その頭痛を乗り切るために、あなたは、錠剤を摂ります。 翌日、あなたは、続けてゆきます。よろしいですか。これが、私たちの生き方です。 私たちが生きるところの、高度に洗練された世界です。 ゆえに、助けを求めることは、自分自身を、もっとひ弱に、 もっと無責任にし、もっと依存させることです。 ところが、あなたが全的に、自分自身に責任を持つなら - 自分がすることすべてに、です。 または、自分がすると約束したことすべてに、です。 けっして、言い訳を見つけない、など。理解されますか。 それで、あなたは、自分の足で立ち、そして、尊厳と責任、です。 質問: 私たちはどうすれば、今日の世界において、自らの子どもたちを、 智恵をもち、自由であり、なおかつ、責任をもつ人間であるよう、教育できますか。
55:51 質問: 私たちはどうすれば、今日の世界において、自らの子どもたちを、 智恵をもち、自由であり、なおかつ、責任をもつ人間であるよう、教育できますか。
56:10 あなたは、これらに入りたいですか。 見たところ、これは、 世界のあらゆる親が訊ねる疑問です。 子どもたち、 そして、私たちはどうすれば、今日の世界において、彼らを 智恵をもち、自由で、責任をもつ人間であるよう、助けられますか。 親たちは、智恵をもち、自由ですか。 教師たちは、智恵をもち、自由で、責任をもっていますか。 社会は、教育制度は、彼らが 自由であり、責任をもち、智恵があるよう、助けていますか。 で、よろしければ、私たちは探究しなくてはいけません - なぜ私たちは、教育されつつありますか - 数学と生物学、科学、化学、歴史、 自らが学ばなくてはいけないすべてのことを、です。 そして、大学、専門校を出て、学位をもち、良い職につく。 少なくとも、そう望みます。 この世界では、そうではない。 そこには、無限の人口増加と、失業が、あります。 で、もしも自分が、息子や娘を、持っていたなら、 もしも、語り手が、息子や娘を、持っていたなら、 彼らに、何が起きようとしていますか。 学校 - そこで彼らは、書き方、読み方を、学び、 科目すべてを、詰め込めなくてはいけません。 そのときそれは、ものすごい問題になります。理解されますか。 あなたは、数学を経ていかなくてはいけません。 それを好きではないが、良い技術者になりたいのなら、そうしなければなりません。 で、それが問題になります。 そして、社会は、「技術者になりなさい。 私たちは、あなたにもっと多くを支払うでしょう」と、言います。 理解されますか。 で、私たちは、見出さなくてはなりません -
59:10 私たちがいう「教育」とは、どういう意味ですか。 それは単に、生活の技術を学ぶこと、 特定の専門分野で、技能を習得することだけですか。 理解されますか。 医師になるには、十年か、十五年の間、勉強し、学習しなくてはいけません。 優れた外科医になるには - よろしいですか -それは、時間が掛かります。 などなど、です。 このために、私たちは自らの子どもたちを教育しているのですか。 それは必要であるけれども- 理解されますか。 教育はまた・・・ それは、人間を教育する、という意味ではないですか。理解されますか。 単なる技術、技能を取得するだけではなく、 人間を、大いなる芸術をもって生きるように、教育することです。 それは、テクノロジーの知識だけではなく - いいですか? - また、心理の無量の、制限なき平野をも、意味しています - それを乗り越えるのです。 それは、全包括的な教育です。 理解されますか。
1:01:07 で、これらは、教育者は教育が必要だ、 親は、教育が必要だ、という含意です- 子どもたちだけではない。 もし親が、自分の子どもを愛しているなら - 愛している。 彼らを、玩具と、そうね、それらの種のものとして、持っておくのではない。 もしも、親が本当に、子どもを愛していたなら、 彼らは、子どもが殺されたり、殺したりするのを、許すでしょうか。 理解されますか。 政府は、要求します - おそらく、アメリカや、イングランドでは、そうではないが、 この国(スイス)、フランス、ヨーロッパでは、 あなたたちは、二年間、軍隊に入らなくてはいけません - どう銃を持ち運ぶのか、どう撃つのか、どう他の人間を殺すのか、です。 これを - 母親と父親たちは、これを受け入れます。 彼らは、「私たちは、何もできない」と言います - 「政府がこれを要求する」と。 どうぞ、私は、あなたが政府に反逆することを、提唱していません。 それは、あなたしだいです。
1:02:49 で、教育は、生への全包括的な接近、という意味です。 頭脳をテクノロジー的に養成し- 理解されますか - また、頭脳を、自身の些細な小さな自己より自由であるようにも、養成する。 それは、これを理解する教師、 参与し、責任を持っている教師を、必要とします。 親たちは、自らの子どもを愛さなければなりません。 今、何が起きますか - 親は、子どもたちを抱きしめます。膝の上に載せます。 子どもたちにキスします。 彼らが二歳、五歳になるまで、です。 その後、親は、子どもを狼へ、投げやります。ですね? これが、教育と呼ばれます。 どうすれば、智恵がありえますか - あなたの頭脳が、条件づけられているとき、です。理解されますか。 一方で、知識により条件づけられ、 あなた自身の恐れ、心配、さびしさ、絶望、 その他すべての人間の醜さにより、条件づけられている。 それから、その上に、 寺院、神殿、教会、モスクが、ある。 で、宗教は、何か全面的に違って、離れたものです。 それは、あなたの生と何の関わりも、ありません。 そして、生計を立てることに、全面的に参与している。 これは、ますます深刻になりつつあります - この二分法、この分離が、です。 そして、教育は、何かそこに これらに、尊敬、愛、慈しみが、なければならないものです。
1:05:22 で、親、教師と 学生たちは、これらに同意するのでしょうか。 あなたは、これに責任能力が、あります。 あなたは、親であるなら、責任があります - あなたの子どもが、何になろうとしているか、です。 或る親がこう言っているのを、聞きました - 「私は自分の生を、 犠牲にしなければならないのか。 すなわち、飲酒、ドラッグの使用、 女たちと寝ることなどを、私の愚かな小さな子どものために、か」と。 私が言っていることを、理解されますか。 で、世界は、このように進んでいきます。 それは、幾千年もの間、進んできました。 なぜなら、私たちは、親として、人間として、 全包括的な、完全な生を生きたくないからです。 私たちは、断片化しています。ゆえに、私たちは、その断片化を受け入れます。 その断片化に、智恵は、ありません。 慈悲は、ありません。 自由は、ありません。
1:06:59 最後の質問です。 質問: 私たちへの、あなたの関係は、何ですか。
1:07:17 私たちへの、あなたの関係は、何ですか。 あなたは、その問いに答えるでしょうか。 あなたの、語り手との関係は、何ですか。 あなたが、その質問をしてきて・・・ 語り手が、あなたにその質問をしているなら、 あなたの、語り手との関係は、何ですか - 私の、あなたとの関係は、何ですか、ではない。 理解されますか。私は問いを、反転させています。 私は後で、問いに答えるでしょう - 私の・・・語り手の、あなたとの関係は、何なのか。 それは、少し後に、答えられるでしょうが、 あなたは初めに、ご自分の、語り手との関係が何かを、訊ねなくてはいけません。 それは、なぜあなたは、ここにいるのか、という意味です。 あなたの意図は、何ですか。 あなたがほしいのは、何ですか。 あなたは、刺激されるために、ここにいますか。 大きな集団と同一視されるため、ですか。 語り手が言っていることの真理を、見出すため、ですか。 または、ただそれを受け入れる - 何気なく、一時間かそこら、です。 それから、前のように、自分の道を進みつづけますか。 または、あなたは、物理的に語り手に、魅了されていますか。 語り手は、これはまったく個人崇拝でないことを、 ずっと言ってきています - 人物は大事ではない。 大事なのは、彼が言っていることです。 疑い、問い、訊ねてください。
1:09:56 で、あなたの、語り手との関係は、何ですか。
1:10:01 その問いを、違ったように表すと、 光と闇との間の関係は、何ですか。 葛藤と無葛藤との間の、関係は、何ですか。 平和と戦争との間の、関係は、何ですか。 この質問を理解されますか。 それは、こういう意味です - 善と悪との間の関係は、何ですか。 善は、悪より出てきたものですか。 どうぞ、私たちは、ともに働いています。 善は、悪より出てきたものですか。 または、善は、悪より全的に、離別していますか。 悪が善に関係しているなら、それは、善くありません。ですね? それは関係しているなら、善がその根を、悪に持っているなら、 それは、部分的に善い。 ゆえに、それは、善くありません。 いいですか? で、自分自身で、発見しなくてはいけません - 善は、悪より全的に自由です。 全的に離別していて、互いに何の関わりも、ありません。 暴力と、暴力より自由であること。 人間たちは、暴力的です- 不幸にも。 それは、生物学的に暴力の起源へ、辿られます - 動物などに由来します。私たちはそれらに、入らないでしょう。 人間たちは、暴力的です。 彼らは、暴力的にならないように、考えぬいてきました。ですね? で、彼らは、暴力的です。 彼らは、非暴力と呼ぶ対極を、創り出してきました。 で、非暴力は、暴力に関係しています。 ゆえに、それは、暴力より自由ではありません - 理解されますか。 私たちは、ともに働いていますか。 で、善は、悪に全然、関係していません。 愛と憎しみ。 自らが、憎しみ、敵対、好き嫌い、嫉妬を知っていて - いいですか? それから、「私は愛している」と言うなら - いいですか? - そのとき、その愛は、やはり憎しみに関係しています。 いいですか? やはり、好き嫌い、敵対、その他すべてに、 関係しています。
1:14:30 で、私たちは、自分自身に訊ねています - 私たちの、互いとの関係は、何ですか。 自由である人と、牢獄の中で生きる人の 関係は、何ですか。 理解されますか。 私たちは、牢獄の中に生きます - 看守と、そうね、それらをともなった実際の牢獄ではなく、 私たちは、自分の牢獄を持っています。 私たちは、自分の牢獄を作ります。 私たちは、それらの中に生きます。ですね? そして、その外側にいる誰か。 牢獄の中に生きる人は、 その外側にいる人にとって、何なのでしょうか。 質問を理解されますか。 彼は、あなたに、牢獄の中の人に、何か関係を、持っていますか。 または、牢獄の中の人は - 語り手がいう牢獄とは、どういう意味かを、理解されますか - 私たちの恐れ、私たちの心配、私たちの望み、私たちのさびしさ、 人間たちが持っている物事すべて、です。 それが、私たちの牢獄です。 私たちの神々、私たちの信仰、 私たちの教義的や表面的な意見など、それが、私たちの牢獄です。 その人は、あの牢獄の中に、いません。 あの牢獄の中の人との、彼の関係は、何ですか。 そして、牢獄の外側にいる人、です。 牢獄の中の人は、 その外側の人と、何か関係が、ありますか。 当然、ありませんが、 その外側の人は、 牢獄の中の人と関係を、持っています。 理解されましたか。
1:16:42 私は牢獄の中にいます- 仮に、です。 あなたは、牢獄の外側にいます。 私は、あなたへ、何の関係をも、持っていません。 私は、関係を持ちたいと思いますが、私はやはり、閉じ込められています。 ですが、あなたは、私へ関係を持っています。ですね? なぜなら、あなたは、智恵を持っている、その他すべて、であるからです。 あなたは、愛しています。あなたは、慈悲、智恵を持っています。 あなたは、あそこで、全く責任を持っています。
1:17:24 で、理解されますか。 初めに、私たちは、思考により、神を創り出します - 万能で、まったく情け深く、 全能で、すべてご覧になり、すべて、何とかかんとかです。 私たちは、あれがある、と言います。 私は、彼の一部であるよう、祈るでしょう。 理解されますか。同じ事柄です。 私は、牢獄の中にいます。 あそこで、あなたは自由です。 そして私は、祈ります。私がやっている、ごまかしを、見てください。 私は、何か自分が創り出してきたものへ、祈っています。 私は、創り出したのではなく、組み立てたのです。すみません。 思考により、組み立てられました - イメージ、構造、象徴、 救い主、導師、その他すべて、 - 理解されますか - などです。 私たちはいつも、何かとの関係を、ほしがります - 全然、私たちの外側のものと、です。 ですね? 何か無量のものと、です。 無量のものは、私たちに、関係を持っていますが、 私たちは、それに、関係を持っていません。 私たちは、それを認識するなら、それの真理が、見えるなら、 私たちは、牢獄を破るでしょう- 何を支払っても、です。 私たちは、それが見えるなら - 私たちの頭脳は、微妙に、すばやくなる。 私たちは本当に、牢獄に捕らわれています。 牢獄の中の人は、窒息しつつあり、泣き叫び、望んでいて、 あれを捉えよう、自由になろうとしています。 彼は、牢獄の中にいて、あれに祈ります。 それは、どんな価値を、持っていますか。理解されますか。 それは、あれらの人々、世界中の修道士、僧侶と尼僧が、 平和を祈っているのに、似ています。ですね? 他方で、 世界は、武器を準備し、集めています。 そうです。これらの不条理を、理解されますか。
1:20:04 で、私たちのどちらもが、自由であるときだけ、 他の一人との関係が、あります。ですね? ですが、私たちは・・・自分は牢獄の中にいて、相手はいません。 そのとき、私たちは、困ったことになっています。 そのとき、私たちは、自らのエネルギーを、むだにします - あれに関係しようとして、です。 自らは自由であるのか、あるいは、そうでないか、です。 あの自由の深さ、それの美しさを、認識するには、 あの自由の無量性が、見えるには、 自己が、あってはなりません - 自分の頭脳の奥底の、違った空間に、違った部分に 隠れている自我が、あってはなりません。 いいですね。
1:21:09 私たちは、今朝は終了しました。 どうか、立ち上がってもいいですか。