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SA84Q3 - 第3回質疑応答集会
スイス、サーネン
1984年7月26日



0:12 これが、ここでの最後の会合です。 私たちは、きわめて多くの質問を、手渡されてきました。 それらの幾つかに、私たちは、今朝、答えようとしています。 ですが、私たちは、それに入る前に、 どうすれば、この世界に、自らは生きられますか - ますます複雑で危険になりつつある、現代世界に、です。
1:00 どうすれば、自らは全然、正直に生きられますか。
1:08 正直さとは、何ですか。 何か前もっての構想として、何か思想上の概念への正直さではなく、 何か夢想的で、想像力豊かで、ロマンチックで、感傷的な知覚へ、ではなく、 むしろ、どんな幻影をも持たないことです。 いかなる幻影も、ない。 幻影(イリュージョン)という言葉は - 私たちは、気をつけてそれを、辞書で調べました - 語源「ルーデレ」、遊ぶことから、来ています。 私たちは、幻影でもって遊びます - すなわち、私たちの日常生活と、いかなる関わりをも、持たないものと、です。 おそらく、自らが、想像力豊かであればあるほど、ロマンチックであるし、 この現代世界に、とうてい向き合えません - そこは、相当に腐敗しています。 「不道徳」という言葉を、使えるなら、 そこでは、お金と権力が、計り知れぬ役割を、果たしますが、 自らは、どうすれば、今、毎日、全的な正直さをもって、生きられますか。
3:24 私たちの一人一人が、この質問をしたことが、あるのかどうかと、思われます。 全的に、正直な真実の生を生きること。 少しそれへ入ると - 進める前に、多くの問いが、あります - (統合された)誠実さとは、何ですか。 誠実さは、正直さに関係しています。 誠実さは、頭脳や自らの存在の性質です - 全体的、全包括的であり、断片化していない性質です。 私たちの生は、断片化しています。 (私の前には、二人の若者たちが、います。かなり真剣です) (統合された)誠実さ - 何か、自らが真実だと概念化してきたもの、 真実だと構想し、考えぬいてきて、それに沿って生きる、のではない。 それは、断片化している一つの形の生き方です なぜなら、思考が、概念、理想を創案してきたからです - 自らがそれに沿って生きるところのものを、です。 そのとき、それが断片化を、もたらします。 自らは、何かを、真実だ、論理的だ、健全だと、構想します。 観念を構想します。 そして、それに添って生きようとします。ですね? それは自然に、断片化、亀裂を、もたらします。 あなたは、何かを真実だと構想してきました。想像し、経験してきました。 そして、それに応じて生きようとしますが、 それは、実際の事実とは、何の関わりも、ありません。 で、いつも、この断片があり・・・ 私たちの生において、断片化が、進みつつあります。 それは部分的に、不正直を、もたらします。 理想主義者は、本当に、全く不正直な人です。 こう言うのを、許してください。 なぜなら、彼は、予め構想された生き方に応じて、生きているからです。 「私は、あの様式に応じて生きなければならない」と。 それは、日常生活と何の関わりも、ありません。 で、葛藤があるのです。 それは、偽善を生み育てます。 で、全的な正直さ、(統合された)誠実さをもって、 この世界に、生きることは、可能ですか - 内的に正しいことをするとの感覚をもって、です。外的にでなく、初めに内的に、です。 自らの振るまい、自らの行い、自らの考え方が、 完全に幻影より、自由であるのを、見届けるように、です - 何か夢想的な概念とか、 人物などに、依存しないように、です。 それには、ものすごい(統合された)誠実さが、必要とされます。 それで、自分自身にとって真実でない何をも、けっして言わないのです。 自分自身に真実であることも、かなり困難です。 なぜなら、自分は、「それが、私の意見だ。 それは真実だ」と、言うかもしれないからです。 自分が、自分の意見に応じて生き、 ゆえに、同じく強い意見を持っている他の人々と 対立するなら、 闘いが、進みつつあるのです。ですね?これらはすべて、日常的な事実です。 そういう明瞭さを持つこと、 物事を、まさにありのままに見ることは、可能ですか。 自らの願いと欲望と、その他すべての事柄に 応じてではなくて、 そういう明瞭で論理的で健全な頭脳を、持つこと - 個人的な欲望、動機、依存により納得していない頭脳を、です。
9:37 それは要求する・・・私たちはまた、きわめて短く入るべきです。 それについて、私たちは、先日、話しました。時、です。 私たちは少し、それに入ってもいいですか。 私たちは、今、友だちです。 十日間の後、いや、三週間の後で、私たちは今、友だちです。 で、私たちは互いに、すっかり楽に、気軽に、話し合えます - 大きなユーモアの感覚と、友情の感覚をもって、 それで、私たちがどちらも、物事をともに見つめられるように、です。 私たちが先日、言っていましたように、 時は、過去です。 自らが蓄積してきたすべての記憶、 すべての経験などです - それは、背景です。 その背景は、今、作動しています - あなたがそこに座っているとき、です。 私たちは、そこ、ここに座っていますが、 言葉を聞くとき、あなたは、 それらの言葉を、一定の意味に、翻訳します。 その意味は、あなたの過去の知識などに、依存します。 で、現在は、過去を収容しています。 それについて、疑問はありません。 それは、健全です。 また、未来、明日も、今に収容されています。 すなわち、未来は、過去の一部です。ですね? 一緒ですか。 私たちは、一緒にいますか。 過去は、現在において修正され、 明日へ、進行します- それが未来です。 で、明日は今です。 私は、自分は、怒っています- 何の理由のためでも、です。 その怒りが、理解され、終わりにされないなら、 私は明日、再び怒っているでしょう。 または、おそらく明日ではなく、来週です。 で、未来は、今に収容されています。ですね? これは、明らかですか。 で、今は、すべての時を収容しています。 ですね? 私たちはここに、少し一緒にいますか。 未来、過去と現在は、今です。 今は、時と思考の両方です。 ですね? 思考は、知識などとして蓄えられた記憶ですが、 それは、過去です - 知識はいつも、過去です。 その過去は、現在を通りぬけて - 出来事、圧力を、です - それ自体を修正し、進んでゆきます。 で、過去は、未来です。 そして、未来は今です。ですね? 自らは、この過程全体、この動きを、理解できますか。 それは、動きなのでしょう。 過去から、現在をとおして、未来へ、 常なる動き、循環です。 その循環が、私たちの生です。 自らは、留まれますか・・・ どうぞ・・・私たちは、今朝早くそれについて、考えていました。 それを見つめていました - 自らは、今に留まれますか - それは、すべての時ですが、 何の動きもなしに、です。 理解されますか。 動きは時です。ですね? ここからそこに行く。または、言語を学ぶ、など。それは、時を必要とします。 どの動きも、どの方向にでも - 水平でも、垂直などでも、対称的でも - 時です。どの動きも、です。 全的に今に生きる、この感覚を、持つこと - 思考のも、行為のも、 どの動きもなしに、です - これらを理解されますか。 時、思考は、今に収容されているし、 それを離れる、どの動きも、再び、時と思考に捕らわれることを、見る - これらに付いてこられるのかどうか、私は知りません。
16:08 で、誠実さ、正直さと、 全体性の感覚は、 そこに何の動きもない頭脳の性質です - 頭脳が自らのリズムを持っているの以外は、です。 これはすべて、たぶんちんぷんかんぷんでしょう。 これは、とても深刻です。 なぜなら、私たちは、いつも行為していて、 ぐるぐると円周を回っているからです。 私たちは、けっして円環を破りません。 この、常にぐるぐる回ることは、 頭脳を、全く鈍くするだけではなく、 またそれは、機械的な生き方を、生み育てます。 機械的な生き方は、正直ではありません。 それは、反復的です。 で、深く長続きし、揺るがしえない正直さが、何であるかを、見出すことは - それは、誠実さ、全体性ですが - そこにまったく動きがない頭脳の状態を、 発見することです。 これは、もちろん、冥想の一部です - 私たちは、それについて、話してきました。 今朝は、それに入らないでしょう。
18:24 その、動かないことは、生において自らの行為を、持っています。 なぜなら、私たちにとって、行為は、何かをすること、 何かを達成すること 何かを充足させることであるからです - 何かにおいて、です。 それは、中心より周辺への動きです。 これらに、付いてこられるのかどうか、私は知りません。 それが、私たちが慣れていることです。 何も動きがないところ、 全体性があります。 その全体性より、行為があります。 それは、けっして葛藤をもたらしえないのです。ですね? あなたがこれらを、理解されるのかどうか、私は知りません。 理解されるといいと、願います。 私があなたを助けている、ということではない - それは、ひどいでしょう。 ですが、もしも、私たちは、ともに働き、このことを見られたなら、 それは根本的に、根源的な変化をもたらすでしょう。 というのは、頭脳は、こんなに条件づけられてきたからです - こんなに小さい。 それは、無際限の能力を失ってしまいました。 なぜなら、頭脳は、無際限の能力を、持っているからです。 テクノロジーの世界で、何がされているのかを、見てください。 何と、とてつもない能力がそれに、注ぎ込まれてきたのか - コンピューター、潜水艦、航空機、 そうね、とてつもないことが、なされています。 頭脳は、一方向に、そのものすごい能力を、持っていますが、 頭脳は、別方向に、自体を行使していません - すなわち、内的に、です。 理解されますか。 外的にも、内的にも、 それらの両方が、一緒に作動しているとき、何かものすごいことが、あります。
21:14 ビャン(よし)、進みましょう。
21:24 質問: どうすれば、動機、欲望なしに、このテントへ、来られますか - ここに来たい、お話を聞きたいと思うことなしに、です。 私は、ここに来るには、動機を持たなければなりません。 どうすれば、動機なしに生きられますか。
21:47 なぜ私たちは、動機なしでいたいのですか。 誰が私たちに、動機を持ってはならないと、語りましたか。 あなたは、語り手が、動機はとても破壊的であると言うのを、聞いてきたなら、 あなたは単に、彼が言ってきたことを、反復しているだけです。 ですが、私たちは、もしも一緒に、動機とは何なのか、 動機の意義は、何なのか、 なぜ私たちは、動機を持つかを、見出せたなら - 私たちはそれを持ってはならない、と言うのではない。 私たちは、その意味を発見するなら、 それらを持つことも、持たないことも、できますが、 あなたが、語り手は、動機を持ってはならないと、言ってきた、 ゆえに、私はどうすれば、 動機なしに生きることになるのか、と言うなら、 それは、すっかり間違った問いです。
23:06 で、ともに見出しましょう - 動機とは何ですか、 なぜ私たちは、動機を持ちますか。 なぜですか。私たちは、私たちがそれらを持ってはならないと、言っていません。 私たちは、なぜ私たちは、それを持っているのかと、言っています。 その言葉「動機」の意味は、動作、動き、という意味です。 それは、私たちをして、動かすことです。 自らは、このテントに、動機をもって来ます。明白です。 すなわち、動機は、誰かに聞くことです。 それで、あなたは、来ますが、 あなたは、けっして問うたことが、ありません - 自分の動機は何なのか、 なぜ自分は、その動機を持っているのか、 なぜ自分は、その欲望を持っているのか。 あなたは、欲望と動機について明らかでないなら、 探究しなくてはいけません - ここに来る中で、私の意図は、何なのか、と。 助けてもらうためか - 私たちは、みんな、助けてほしいのです。 それは、私たちの痛み、心配、悲惨すべてです - 私たちがともに生きる、ひどい物事すべてです。 私たちは、かなり、それに深く入るのでなければ - ともに、です。私は・・・ ともに、です。 そうでないと、あなたは、いつの時も、動機を持つでしょう。 動機は、方向づけです。 ですね? 私は、ここに来る動機を、持っています。 私の動機は・・・様々な理由のためです。 それは何ですか。 私はすでに、頭脳を定めた・・・ 頭脳は、方向を定めたのです。 ですね? この人を理解する、または、「彼は愚かな人だ。 彼は、自分が何について話しているかを、知らない」と言う、 批判する、受け入れる、服従する、反論する - それらが、あなたの精神、頭脳を占有しつつあります。 ゆえに、あなたは聞いていません。 いいですか? 聞くことは、芸術です - 私たちが先日それについて、話したように、です。 誰かに聞くこと - あなたの全存在でもって、です。 彼が言うことを、解釈しないで、 あなたが聞くなら、それは、最大の奇跡です。 ところが、動機を持っているなら、あなたは、聞けません。ですね? さほどに単純です。
26:37 そして、欲望を持っているなら- それは、動機の一部です - なぜ私たちは、欲望の奴隷ですか。 そうね、私たちは、探究しません。 私たちは受け入れます - 私は、ここに来たいとの欲望を、持っている、と。 私たちは、「なぜ私は欲望を持つのか。 欲望とは何なのか」と、言いません - 理解されますか。駆り立てる、押す、探究する、疑うのです。 欲望とは何ですか。 私たちは先日、それについて話しました。 私たちは短く、それに入るでしょう。
27:20 欲望は、感受の中から生まれます。 いいですか? 私は、このテントに来たいと思います。 なぜなら、私は、友だちに会うだろうからです。私は一年間、彼らに会っていません。 それは、私が彼らに会う良い機会です。 私はまた、Kをも聞きたいと思います。 また、山々、風景。私は、良い時を、過ごすでしょう。 講話も、おまけで、付いてくるでしょう! それは、私たちの欲望の一部です。 欲望は・・・ いいえ。私は、あなたに語らないでしょう。 欲望とは何ですか。 私たちは、欲望を持つべきでないと、言っているのではありません - または、欲望を抑圧するとか、欲望を助長するとか、です。 充足したいとの欲望、 何かになりたいとの欲望- 外的にと、内的に、です。 で、欲望 - 欲望とは何ですか。 それに入るには、訊ねなければなりません - 感受とは何ですか。 いいですか? 感受は、どのように生じますか。 いいですか? 何かを見ることをとおして- 美しい山荘、 すてきな浴室、その他すべてを、です。 そして、うるわしい眺め。 眺め、山荘は、もたらします・・・ それを見ることが、感受を、もたらします。ですね? それは自然です。 また、そのとき思考は、「私は、あの山荘を持てたらなあ」と言います。ですね? それは何ですか。 思考が、感受に形を与えています。 思考は、あの邸宅の中でのあなた自身のイメージを、与えています。 明らかですか。いいですか。 その瞬間に - 思考が、あの邸宅でのあなたのイメージを、もたらすとき、 その秒に、欲望が生まれます。 いいですか。明らかですか。 私たちは・・・いいですか。 で、欲望は、形を与えられます・・・ いえ、感受・・・思考が感受に与える・・・欲望へ、です。 思考が、イメージを創り出す - あなたが、車に乗っている、あなたが、その絵を所有しているとか、 美しい男や女を見る、などです。 そのとき、思考は、その感受の中から、イメージを創り出す。 その秒に、欲望が、動きます。生まれます。 これは、全く単純です - あなたがこれをご覧になるなら、です。 それは、ものすごい頭脳を必要としません。
31:15 そのとき、問いは、こうです - 感受と、感受のイメージをともなった思考は、 しばらくの間、別に分けておけますか。理解できますか。 即時に、形を取るのではない。 理解されましたか。
31:45 先日、山荘があり、私は見ました。自らは見ました。グシュタードで、ですが、 とてもすてきで、美しく、楕円形で、内は現代化されていました。 あらゆるものが、あるべきとおりでした。 それを見つめました。 あなたは、大都市の一つの(集合住宅の)フラットに、生活します。 あなたは、「やれまあ、私はあの山荘を、持っていたならなあ」と言います。 私は個人的に願っていませんが、願います。 そのとき欲望は、あの山荘に到達するよう、あの山荘を買うよう、働きます。 または、妬みます。 進んでいく過程すべてを、ご存じですね。 さて、あの山荘を見ることは、感受です。ですね? 良い蛇口、浴槽、シャワー、ダイニング・ルームを見る。 そうね、現代のキッチン全体です。 あなたは、皿を洗わなくていい。 それを置く。そうね、それらが、進んでいきます。 そのとき、思考が来て、言います - 「私は、そこで生活できたら、いいなあ」と。 または、「そこを貸せば、私は もっとたくさんお金が得られる。特に、(スキー・シーズンの)冬には!」と。 そのすべては、即時です。 理解されますか。 感受と、思考がその感受に形を 与えるのとの間には、何も間隔が、ありません。ですね? さて、しばらくの間、それらを分けておくことは、可能ですか。 理解されますか。 それは、大きな注意を、必要とします - 感受を見る、そして、 思考が即時に取り、それへ形を与えるのを、見るには、です。 そして、思考を、思考の速さを、見守り、 その思考をゆっくりさせるには、です。理解されますか。 で、ゆっくりさせることと、感受は、 気をつけて見守るなら、 欲望は、その所を持っています。ですね?まあ、私はそれに入ってきました。
34:24 さて、私たちは、動機を持っています。 豊かになりたいとの動機、幸せでありたいとの動機、 充足したいとの動機、自らの根を持ちたい、 自分自身を何かと同一視したいとの欲望。 これは、自らの生の毎日の事柄です。 動機は、いつも変化しています。 ゆえに、動機は、私たちの生へ形を与えます。ですね? 欲望。 欲望、動機などが、です。 で、過去は- 見てください - で、過去は、私たちの生へ形を与えつつあります。ですね? 動機は過去です。 理解されますか。 で、過去 - それは、動機です。 それは、方向づけを与えています。 私たちの生の枠組みを、与えています。 ですね? ゆえに、私たちは過去です。 ビャン(いいですか)?もちろんです。 過去は記憶です。ですね? それは、伝統、その他すべてです。 で、私たちは、過去です。 私たちは、記憶です。 一連の記憶全体、記憶の束です。 それが、自己、自我です。 意識的なのと、他のものは、無意識です。 無意識は、ありません。 ただ全的な意識だけが、あります - それを、無意識と意識に、砕いてしまわない。私はそれに入らないでしょう。
36:45 で、この循環を破ることは、時を理解することです。 理解されますか。 それに、私たちは入りました。 ですが、私たちは、動機を持っています。 それは、私たちの生において、ほとんど、規準になったのです。 自らはどうすれば、動機なしに、生きられますか、と。 私たちは、動機を受け入れてきました。 私たちは、けっして自分の動機を、問いません。 または、新しい動機を創案するか、 または、自分の動機を正当化するか、です。理解されますか。 が、私たちは、欲望、動機と充足のこの問い全体へ、 入ろうと、けっして言いません。 ですね? で、それは、私たちをその点へ、運んできます。 自らは、そう完全に、他の一人に聞けますか - 相手の人やその女が言っていることを、解釈するのではなく、 完全に聞くのです。 耳で聞こえるだけではなく、 また、いわば、内の耳でも聞こえる。 それで、あなたは全的な注意を、注いでいます。 注意があるところ、あなたは動機を持たなくていい。 ですね?
38:41 質問: 初めに、私たちのほとんどは、意識的に、注意深くなければなりません。 ですが、この注意は、 常なる自発的な行為の状態に、なりますか。
38:56 そこには、欲望、動機が、あります。 理解されますか。 これが見えますか。 私はどうすれば、この注意を常に維持できますか - 継続的に、です。 それは、あなたがすでに、動機を持っている、という意味です。 いいですか? で、探究しましょう。 注意とは何ですか。
39:25 また、注意していないこと、不注意とは、何ですか。いいですか? 不注意と注意。 注意とは何ですか。 注意の、気づきへの関係は、何ですか。 いいですか? 理解されますか。 私たちは、テントに、人々などに、気づいています。 その気づきは、全部を見ることです - あなたは、テントに入って来ると、見ます。 その注意の中、その気づきの中に、選択があります。 ああ、そこの彼らは、私の友だちだ。 そこのあれらの人々を、私は知らない、と。 私は、友だちに、手を振りますが、他の人たちには、振りません。 その気づきの中で、私は、言います - 「あれは、すてきなシャツだ。 あれは、かなり醜いものだ。 彼は、かなりすてきな顔をしている。 彼女は、全くすてきで、智恵があると、見える。 私は、彼女がここにいるので、驚く」と。 それは、まったくおかしい。 で、その気づきの中、選択があります。 いいですか? 選択があります。 それらは、ここ、そこにあります。 で、その選択は、全的な気づきを、阻止します。 選択なしに、気づけますか。 理解されますか。 私たちが話しているとき、今、そうしてください。 どうぞ、私を見つめないで、あなた自身を見守り、 あなたが、何の選択もなく気づけるのかどうかを、見てください。 あなたは、選択しなくてはいけません - 良い素材と悪い素材の間で、ですね? あなたは、良い車と悪い車との間で選択しなくてはいけません - 中古車などなど、です。 私たちは、それに入らないでしょう。 あなたは、選択しなくてはいけません。 ですが、気づきの中で、 すっかり選択より自由でありえますか。 ただ気づく。 そして、「私はこのシャツが、好きでない。 私は、あのシャツが好きだ。彼は、私に良くしてくれる」と言わない。いいですか。 そのすべての活動が、進んでいます。 選択なく完全に気づくことが、注意です。ですね? それは明らかですか。私たちはここに一緒にいますか。 あなたが、そうしてこそ、私たちは、ここに一緒にいます - あなたが、自分が選択すること、自分が好き嫌いを持っていること、 自分が動機を持っていることに、完全に気づいて、 いかに、これら動機、好き嫌い、私の友だちと、友だちでないもの・・・ そうね、進んでいるそれらのことを、です。 そのとき、あなたは、十分に気づいていません。 あなたは、選択を持たないとき、 十分に気づいています。 当然です。ですね? その気づきの状態は、注意です。ですね? その気づきの状態は、その最中に、「私」を持ちません。 明らかですか。選択はいつも、中心を持っています - そこから選択を行うところを、です。ですね? それは、自我、「私」、自己とそれらです。 ところが、あなたが、観察して、選択なく気づいているなら、 その気づきは、全的な注意へ拡大します。 その注意の中に、自己はありません。 「私」はありません。 私は好きだ、好きでない - よろしいですか。それらの事柄が、です。
44:54 で、さて、不注意とは何ですか。 不注意は、散漫ですか。 理解されますか。 私たちは、騒音により、列車により、散漫になります - そうね、様々な形の散漫です。 なぜ私たちは、それを散漫と呼びますか。 これらに付いてきておられますか。 私たちはここに、一緒にいますか。 なぜ私たちは、それを散漫と呼びますか。 なぜなら、私は、これより散乱したくないからです - 自分がしていることより、です。 ですね? ところが、することが、注意です。 そして、私が・・・ 不注意があるところ、注意があるなら、 不注意は、注意です。ヴザヴェ・コンプリ(理解しましたか)? ああ、神様! なぜ私たちは、それを不注意と呼びますか。 私は、不注意といったものが、あるとは、思いません。 または、散漫が、です。 ただ、完全な注意があるか、注意がないか、だけです。 それで、すべてです。 ですね? 私は、個人的に・・・ 私たちは、散漫があるとは、言わないでしょう。 列車が通り過ぎつつあります。 私は、あれに気づいています。 選択はありません。 私は、あの人に聞きたいと思う- 理解できますか。 私はただ、あの音を聞いているだけです。 で、ただ、注意だけが、あります。 なぜ、不注意が、あるべきでないのですか。何がいけませんか。 私たちは、昼中、働いています。 私たちは、夜に眠ります。ですね? あなたは、眠りを不注意と呼ぶのでしょうか。 理解されますか。 自らは、散歩に行きます。 樹々、山々すべてを、見つめます。 晴れた日の、松の樹々の香り、 流れる川、その響き。 それは、すべて注意です - あなたが注意しているなら、です。 なぜ、注意がないのでしょうか。 あなたは、一休みします。 よろしいですか。 私たちは、いつの時も、何かでありたいと思います。 私たちは、何かの継続を、持ちたいと、思います - 正しいと、私たちが考えるものの(継続)、です。 ゆえに、継続性を持つものは、正しくない。 いいですか? これを理解されるのかどうかと、思われます。 ヴザヴェ・コンプリ(理解しましたか)。 私たちは、ここに一緒にいますか。 私たちは、継続性がほしいのでしょう。 幸せの継続、関係の継続、 きわめて、きわめて多くの物事の継続 - それは、何ですか。 記憶の継続。ですね? 継続がないなら、私たちは迷った感じです。 私たちは、空っぽに感じます。 なぜ、私たちは、しばらくの間、空っぽであるべきでないのですか。 なぜ、私たちは、何物でもないべきでないのですか。 二、三分の間でさえも、です。 ですが、それは、私たちを、怯えさせます。 なぜなら、私たちは、継続を知っているからです。 いいですか? で、注意は、継続を持ちません。 ただ注意だけが、あります。 「私は継続的に、注意深くなければならない」とは、言いません。 すると、それは、機械的な過程です。 注意は、何か生きているものです - 私が注意深くなければならないとの結論ではない。 それは、あまりに子どもっぽくなります。ですね? 質問: あなたは、この広大な智恵について・・・
50:40 あなたは、この広大な智恵について語りますが、 それについて、もっと語ってくれるでしょうか。 それは、頭脳の中の、未開封の能力ですか。 またはそれは、何か具体化されていない力 - 私たちがそれへ 開かれるかもしれないもの、ですか。すてきな問いですね。
51:08 あなたは、この広大な智恵について語りますが、 それについて、もっと語ってくれるでしょうか。 それは、頭脳の中の、未開封の能力ですか。 またはそれは、何か具体化されていない力 - 私たちがそれへ開かれるかもしれないもの、ですか。
51:33 普通の智恵が、あるでしょう。 あなたは、もしも智恵がなかったなら、ここに座っていないでしょう。 座っているでしょうか。 あなたは、列車に乗りました。 歩きました。車で行きました。 あなたは、バスなどで行きました。 ここに来ることは、智恵の行使です。 なぜなら、あなたは、来たかったからです。 または、良い手紙を書くのは、智恵です。 コンピューターを組み立てるのは、智恵です。 人を月へ立たせてきたのは、智恵です。 あそこに旗を掲げるのは、智恵ではありません! いいですか? コンピューター、ミサイル、原子爆弾、中性子爆弾、 水素爆弾を作ってきたのは、智恵です。 そして、彼らが、癌 - よろしいですか - 肝臓障害などなどなどについて 究明していることすべて、です。 それはすべて、智恵を必要とします。 その智恵は、思考より出てきたものです。ですね? いいですか? ですが、その智恵は、制限されています。 なぜなら、それは、よく気をつけ、論理的で、実験的で、体系的に、 それを解き明かすことより、出てきたことであるからです - それは、思考です。ですね? 思考は、制限されています。 ゆえに、測量 - すなわち、テクノロジーですが - そのすべては、制限されています。 彼らは毎年、もっともっと多くを付け加えています。ですね? 「もっと多く」があるところ、それは、制限されています。ですね? 私たちは一緒にいますか。 または、もっと良くは、制限されています。 私は、昨日よりもっと良い。 それは、きわめて制限されています。
54:09 さて、制限されていない智恵が、ありますか。 私はあなたに、訊ねています。私は・・・私たちは、互いへ語っていません。 私たちは、普通の智恵を認識します - お金を稼ぐ、ビジネスをする、工場へ行く、 朝に起きる。 そうね、その他すべてです。 それは、一定の智恵を、必要とします- それは、制限されています。ですね? なぜなら、それは、思考より出てきたものであるからです。 思考は、知識より生まれますが、 知識は制限されているので - 未来においても、今でも、いつも、です。 で、思考は、いつも制限されています。 思考の智恵は、制限されています。 それは単純です。 制限されていない智恵が、ありますか。 いいですか? さて、誰が、見出そうとしていますか。 あなたはどのように、見出すのでしょうか。 どのように - どのように、ではない。 あなたはどのように、探究しますか。 質問を理解されますか。 あなたは、これをどのように探査しますか - 思考が、制限された智恵を、創り出してきたことを、知って、です・ 芸術家、詩人、偉大な彫刻家、 偉大な文学者、画家など、 彼らすべてのものは、制限されています - 当然です。 芸術家たちは、それを受け入れないかもしれませんが。 科学者たちは、それを受け入れてきました。 なぜなら、彼らは毎年、もっともっと多くを、付け加えているからです。 生物学について、あらゆる物事についてもっともっと多くの知識を、得ています。 で、付け加えでない智恵は、ありますか。 その言葉を理解されますか - それに付け加え、付け加える。 どうすれば、これを探査できますか。
56:45 ともに、それへ入る・・・私は、何をすべきかを、あなたに語っていません。 どうぞ、私は、あなたの導師ではありません。 私は、あなたの指導者ではありません。 私は、あなたの助け人ではありません。 それは、残酷なことではありません。 なぜなら、私たちは、多くの人々により助けられてきたからです - 何千年にわたって、です。 この助けは、私たちを弱くしてきました。 探し求めることから・・・多くの方向からの、この助けは、 私たちを、ひ弱にしています。 私たちは、自分の足で立ち、観察し、責任を持つことができません。 ですね? あなたは、助けを探し求めているなら、どうして責任を持てますか。 または、あなたは、依存しているなら、どうして責任を持てますか。
57:51 で、どうすれば、私たちは・・・ これを探査することは、可能ですか - 制限されていない智恵を、です。 その智恵を、私たちは知りません。ですね? それは、語り手がそれについて話してきた、ということではない。 彼は、それを知っているかもしれないし、それを知らないかもしれない。 それは、不適当です。 ですが、私たちは、どのようにそれに、出くわすのでしょうか。 それを探究するには、 私は、自分の存在全体を、探究しなければなりません。ですね? それは、私の存在、日々の存在、という意味です - 別の水準で、別の次元などでの、 何か幻影の存在、 超自我、超意識、それらイデオロギー的な戯言ではありません。
59:19 で、私は、自分の生を探査しなければなりません。 明白に、初めのことは、こうです - 葛藤があるところ、智恵はないのです。 いいですか? 私はいつの時も、葛藤の中にいるなら - 人々と、 観念と、理論、意見と、ですね? で、葛藤に、終わりがありますか。 それは、葛藤と、他の問題に、終わりがありますか、という意味です。 それで、頭脳が自由であるように、です。 いいですか? 私たちはここに、一緒にいますか- 少なくとも言語的に、です。 あなたは、それの論理、それの健全さが、見えます。 頭脳は、条件づけられています。 葛藤へ条件づけられています。 私は、その一つの主題を、取り上げています。 頭脳は、葛藤の中にあります。 葛藤があるところ、物事を明らかに見ることは、不可能です。 いいですか? 私は物事を、きわめて明らかに見ます- 思考は制限されているし、 それは何をしようと、制限されていることを、です - テクノロジー的に、とか、霊的に、いわゆる霊的に、 制限されています。 また、葛藤が生の道であるのが、見えます - 格闘、何者かであること、 何かを達成すること、などなどが、 葛藤です。 葛藤は、知覚を歪曲します。ですね? 私が、妻や夫と、または隣人と、けんかしているなら、 私は、物事が、ありのままに、見えません。 私は、それには、もう入らないでしょう。
1:01:49 で、私は、それの真理が見えるなら、 まさにその真理が、頭脳を葛藤より、自由にします。 それが智恵です。 ですね? 何かの真理を見て、その真理に行為させる。 いいですか? 私は、きわめて明らかに見ます- 頭脳に葛藤があるかぎり、 物事を明らかに見ることは、可能ではないことを、です。 その知覚こそが、葛藤を終わらせます。ですね? なぜなら、そうであるからです。 そうなのです - 蛇は危険です。 野生動物は、危険です。 そうなのです。それについて、二つの道は、ありません。 いいですね?
1:02:55 で、どこに葛藤はありますか・・・どこに葛藤の根は、ありますか。 何により、頭脳は、終わりなき葛藤の中に、生きますか。 それへの治療法は、ありますか。 薬物ではなく、アルコールではなく、 或る種の夢想的な想像ではない。 知覚が、ありますか - すなわち、頭脳を、葛藤より自由にするものが、です。 ゆえに、その頭脳は、今、動いていて・・・ 全く違った状態に、生きています。ですね? その状態は、何ですか。 付いてきておられますか。 私たちは、分析していません。 私たちはただ、観察しています。
1:03:54 ごく手短に - 私たちは、ほとんど時間を持っていません - ごく手短に、分析者は、分析されるものです。 今、分析されているものより分離した分析者が、います。 私は、私自身を分析しています - 仮に、です。 私は、自分が観察しているものより、 自分自身を分離してきました - ですね? 私は、怒っているか、嫉妬しているか、神経症です。たぶんもっと神経症です。 私は神経症です。 そのとき私は、「なぜ私は神経症なのか」と、言います。 まるで、それは、何か私の外側のものであるかのように、です。ですね? 私は神経症です。なぜなら・・・頭脳が神経症です。ですね? 私の全存在が、神経症です。 それは・・・私は、神経症より異なっていません。 で、観察者、分析者は、分析されるものです。明らかですか? 経験者は、経験されるものであるように、です。 もちろんです。 それは、かなり困難です。私はこれに、入らなくてはいけませんか。 思考者は、思考です。 ですね? それは明らかです。 「私は思考より分離している」と言う思考者、 ゆえに、彼は、思考を制御し、形作ります。ですね? ですが、思考者は、思考自体です。 で、思考者は、思考です。 分析者は、分析されるものです。
1:05:51 さて、次の一歩へ動きます。 すなわち、 経験者は、経験より異なっていません。 彼は、自分が異なっていると考えます。 ゆえに彼は、「私は経験しなければならない」と、言います。 経験するには、あなたは、それを認識しなければなりません。ですね? さもないと、それは経験ではありません。 ですが、それを認識することは、それをすでに知っていることです。 これをお分かりなのかどうか・・・ で、経験者は、経験です。 思考者は、思考です。 分析者は、分析されるものです。 いいですか? たぶん、(精神)分析家と療法士などは、 これに同意しないでしょうが、それは構いません。 たぶんと、私は言いました。 彼らは同意するかもしれません。
1:06:53 で、ずっとあった・・・ 葛藤がないのなら、それは、ただ事実だけがある、という意味です。ですね? ですね? 葛藤が終わることだけが、ある。 それは、事実です。 または、事実ではない。 そのとき、関係に、何が起きますか。 理解されますか。 すなわち、私の頭脳の内側、頭脳の内側に、葛藤がないとき、です。 それは、私の頭脳ではない。 それは、私たちみんなの頭脳です。 当分の間、私たちは、それに入らないでしょう。 この頭脳は、今、葛藤なしです。ですね? なぜなら、私はそれを見守り、働き、見つめてきたからです。 ゆえに、私の関係に、葛藤がありません - 女と、男と、です。ですね? そのとき、関係に、葛藤がないとき、それは何ですか。 それは、愛ではないですか。 いいですか? 葛藤がないとき- 理解されますか。 あなたたちは、みんな、これらについて、ぼんやりしています。 あなたと私の間に、葛藤がないとき - 理解されますか - あなたと私の間に、違いがないとき、です。 あなたは、女であるかもしれない。 私は男である、などです。 あなたは、背が高い、低い、黒い、白い、紫なのかもしれません。何であっても、ですが、 葛藤がないとき、 あなたと私には、全的な関係が、ある。 それが愛です。いいですか? 愛は、嫉妬ではない。 愛は、欲望ではない。 愛は、楽しみではない。 楽しみは、葛藤を意味しています。 欲望は、葛藤を意味しています。 私は、何かをしたいと思います。 あなたは、そうしたいかもしれない・・・私の妻は、他の何かをしたいと思います。 愛があるところ、 彼女は、自分のしたいことをできますが、愛がある。理解されますか。 変容全体が、起きたのです。 愛があるところ、慈悲がある。 愛と慈悲があるところ、それは、智恵です。 その智恵は、与える・・・ その智恵には、絶対的な安全が、ある - 相対的な安全ではない。 理解されますか。 それが、智恵です。 ですが、ものすごく見張っていなくてはいけません - 私たちは今、そうであったのです。 その智恵は、無限です。 それは、あなたのや私のではない。 それは、智恵です。 愛は、私の愛とあなたの愛ではない。それは、愛です。 そうです。 その愛は、一人のためかも、 多くの者のためかもしれません。 それは、やはり愛です。 愛があるところ、憎しみはない。敵はない。 これらを、ご存じないですか。
1:10:53 で、それが智恵です。 あなたは、そうするのでなければ、それについて、果てしなく話せません。 私はそうしてきたので、私は、自分は、それについて、話せます。 あなたが、それにはるかに深く入るなら - そのための時間があるのかどうか、私は知りませんが。
1:11:21 そうね、あなたは、考えたことがありますか- 太鼓を見つめたことが、ありますか。 太鼓は、最高に優秀に調律されます - 正しい音調に、です。 あなたがそれを叩くとき、それは、正しい音色を出します。 ですね? それは、調律されています。 で、頭脳は、調律されているとき、 正しい音色を、出します - 正しい応答を、です。 あなたがこれらを捉えるのかどうかと、思われます。 それは、調律されていません。 太鼓がそうなっていないように、です。 それは、葛藤の中にあるとき、弛んでいます。 で、頭脳を調律する。 あなたが、頭脳を調律するのではない。 なぜなら、あなたは、頭脳の一部であるからです。よろしいですか。 私は、それらへ入らないでしょう。 で、太鼓が、最高に優秀に調律されるように、 頭脳を調律することは、可能ですか。 それで、それがいつの時も、正しい音色を出すように、です。 そうです。
1:13:03 質問: あなたが差し出す教えは、なぜ私たちに、ほとんど効果を持たないのですか。
1:13:19 いわゆる教えは - 私は、「いわゆる」という言葉を、付け加えています - なぜ私たちに、ほとんど効果を持たないのですか。
1:13:32 あなたは、語り手に質問をしていますか。 または、あなた自身に、質問をしていますか。 多くの人々が、語り手に、この質問をしてきました。 語り手は、あなたに言います - あなたは、自分自身にその質問をしたことが、ありますか。 なぜ真理は、あなたに、私たちにほとんど効果を持たないのですか。 なぜですか。 一ダースの理由は、示せます。ですね? 怠け、無頓着、疲れ、退屈、 自分の習慣に取りすがること、条件づけられていることと、 条件づけを取り除くのは、ひどく困難だと言うこと。 私は、それについて何をすべきか、それについて、私に言ってくれ、 などなどなど、です。 で、あなたはけっして、自分自身にこの質問を、していません。 なぜ、あなたたちの幾人かは、 何年も何年も何年もの間、語り手に聞いてきたのに、 なぜ、あなたは変化していないのですか。 語り手が、あなたに質問をしています。 あなたが、語り手に訊ねているのではありません。 私は、反転させています・・・ 語り手は、テーブルを、あなたのほうへ、反転させています。 彼は、あなたに挑戦しています。 もしあなたが、どうぞ・・・ その挑戦は、厚かましくなく、尊敬を込めています。 で、彼は言います - なぜあなたは、変化していませんか。 聞いて、聞いて、聞いて、読んで、ビデオや何やらかんやら、ですが、 なぜあなたは、変化していませんか。 もっと苦しむことが、変化するよう、あなたを助けるのでしょうか。 私たちは、百万年の間、千年の間、 苦しんできたから、 一日の苦しみで、十分です。 で、苦しみが、あなたを助けるのでしょうか- もっと多くの苦しみが? 明白に、そうではない。 ですね? もっと多くの圧力ですか。 明白に、そうではない。あなたは、ものすごい圧力を、受けてきました - 環境的、金銭的、 あらゆる種類の圧力、印象と、 もっと多くの脅威。それが、あなたを変化させるのでしょうか。 地獄と天国 - 脅威です。 それは、私たちを変化させてきませんでした。 もっと多くの指導者、もっと良い指導者、もっと賢い指導者、 古い導師より、もっと良い導師! 何が、私たちを変化させるのでしょうか。 何もない。 あなた自身の知覚以外は、です。 ですね? 外側からの何も、けっして私たちを変化させられません。 共産主義者は、これを試してきました。 全体主義者は、こう言ってきました - 外側をすばらしく組織しよう、等と。 そうね、その他すべてです。 あなたが、すべての共産主義の理論などに、従ってきたなら - 外的な配置により、心理は変化するだろうと望んで、です。ですね? それは、彼らの深い教説の一つです。 それは、起きたことがありません。 正反対です。
1:18:16 で、何が、私たちの一人一人を、変化させるのでしょうか。 表面的に、何か言葉と何か観念に適応するのではない。 それは、まったく変化ではありません。 何かが、深遠に、根本的に、変化します。 あなたは、外に頼らないなら、 全面的に、あなた自身に頼らなくてはいけません。 私たちは、自分自身に頼られないから、 助けを探し求めます。 私たちは、導師すべてを探し求め、 本を読む、その他すべてです。 なぜなら、私たちは、けっして、自分自身を見つめること 自分自身でこれを解き明かすことが、できなかったからです。 それは、私たちがもっともっと利己的になる、という意味ではありません。 正反対です。 これは、大きな責任を要求します- 理解されますか。 あなたが全的に、自分自身に責任を持つ、ということです - 何をするにしても、です。 環境、遺伝を責めても、何にもなりません - 私の母と父は、このようだった。 ゆえに私は、そのようだ、と。 社会は醜い。それで、私は社会に捕らわれている、と。よろしいですか。 これは、あなたが働くことを、要求します。 あなたは、しっかり働くのか - あなたは、お金を稼ぐために、一生懸命、働きます。ですね? 何年も何年も、使います。 来る日も来る日も、来る夜も来る夜も、 年がら年中、お金を得るために、です。 あなたは、いかにみんなが働くのか、すべての人間が働くのかを、悟りますか。 私たちは、そのエネルギーの極小をも、内的に働かせません。 私たちは、ひ弱に、無責任になってしまったのです。 で、私たちは、変化しません。なぜなら、私たちは単純に、そうしたくないからです。 あなたは、何かをしたいなら、そうします。
1:21:32 みなさま、私たちは、質問のほとんどに、答えてきました。 今、十二時近くです。 本当に、問いはまったくありません。 問いは、まったくありません。 ゆえに、答えはありません。 あなたが、問題なのです。 あなたが、罠なのです。 自らが、この牢獄に捕らわれています。 あなたは、働かなくてはいけません - まるで・・・ 私は、「むちゃくちゃ」と言おうとしていました。 あなたは、働き、観察しなくてはいけません - その他すべてが、あなたの心と精神より、来なければなりません。 そのとき、あなたは全的な人間です。自由です。 自由があるところ、恐れはありません。 あるいは、むしろ、恐れがあるところ、自由はありません。 自由があるとき、あなたは何の神も要りません。 いいですか? よろしいです。 立ち上がってもいいですか。