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SA84T1 - すべての時が今であるなら、行為とは何か。
第1回公開講話
スイス、サーネン
1984年7月8日



0:23 神様! 多くの人々がいますね。 大きなテントなのが、うれしいです。 何とも麗しい朝ですね。 大いなる静寂。 特に、朝、きわめて早く ちょうど日が昇ってくるとき、です。 雪を被ったすべての山々、 深い谷、漠然とした影 そして、無量性の大いなる感覚。 それは、美しさです 美しさは、私たちの生においてとても重要です 単に、そのロマンチックな面、 想像力豊かな面だけではなく、 全くの静寂の感覚です 特に、朝に目覚めて、 窓の外を見て、 通りすぎる車が一台もなく、 人々のおしゃべりが、ない。 この大いなる無量性は、 自己がないとき、見られるか、堪能されるだけなのです。 自然と、大地の美しさとともに、 私たちの日々の生を、腐敗させるものは、 私たちの狭く小さな精神です - 私たちの利己性、私たちの残虐性、 暴力と、すべての腐敗と、 人間たちが準備している戦争、です。 そのすべてが、生の無量性、 生の善さ、 自由の善さを、否定します - そして、ロマンチックでない美しさ、 大いなるきびしさを要求する美しさ、 休んでいて、おしゃべりしていない 頭脳の感覚を要求する美しさを、です。 この美しさは、真理です。 この美しさは、善さです。 私たちはそれを、地球中でいろいろな形で、探求します - 様々な指導者、聖典に従い、 服従し、不服従し、 様々な楽しみを追求しています。 そのすべてが、確かに、 生の大いなる美しさと無量性を、否定します 私たちが、生のこの無量性を 縮減してきたのは、なぜですか。 生は無量です。 私たちがそれらを、こんなに些少に、個人的に、 破壊的に、全く無意味にしてきたのは、なぜですか。 この質問を自分自身にするのかどうかと、思われます。 これらすべての話の間に、あなたたちが、 こうしていることを、望んでいます - 私たちが、ともに 自らの生のあらゆる物事を、問おう、 自らの生のあらゆる物事を、疑おうとしていることを、です。
5:20 疑いは、とてつもなく重要なことです - 懐疑は、そうです。 自らがするあらゆる経験を、観察する。 まさにその経験を、疑う。 まさにその思考を、疑う。 まさにその感情を、疑う - それで、頭脳は、 とてつもなく浄化されるのです - 私たちのすべての蓄積した経験、伝統などより、です。 これが、私たちが、これらすべての講話の間に、しようとしていることです。 これは、個人的とか、個人崇拝とかではないのです。 どうぞ、これを理解してください 私たちはみんな、何かに縋りつきたい、崇拝したいとか、 誰か、人物と近く感じたいのです。 私たちは、それが慣習となっています。 私たちは言っています - これはまったく個人崇拝ではないのです。 だから、どうぞ、彼、話し手について、イメージを築かないでください。 話し手は、あまり価値がありません。 価値があること、意義があることは、 彼が言っていることです。 彼が言っていることを理解するには、あなたは、問わなければなりません - 何一つ受け入れないで、です。 それは、あなたが観察しなくてはいけない、という意味です。 自らが、自分の反応、自分の態度、 正当化、防衛などを、観察しなくてはいけません。 そのとき、私たちがどちらも、互いと意思疎通することが、可能です - 理論的に、ではなく 抽象において、ではなく、実際に、です なぜなら、私たちはともに、きわめて長い旅を、行おうとしているからです - まったく迂回はありません。 私たちはともに、生のこの現象全体を、見守ろうとしています - あなたは、それによっています。 また、これは娯楽でないことに、どうぞ、留意してください。 なぜなら、私たちは、娯楽で楽しむことに、慣れていて、 それは、私たちの習慣であるからです。 映画、テレビ、 本、小説 - 私たちは、娯楽で楽しみたいのです。 そして宗教もまた、そうなってきたのです - 一つの形の娯楽です。 で、どうぞ、これらの講話をとおしてずっと、留意してください - これは、どんな形でも、娯楽ではないのです。 語り手は、あなたを助けようとしていません。 どうぞ、きわめて真剣に、それに留意してください。 なぜなら、彼があなたを助けようとしているなら、彼は指導者になるからです - あなたを指導し、何をすべきかなどを、あなたに語る人に、なる。
9:59 で、これは、娯楽ではありません。 知的な饗宴でもありません なぜなら、私たちは、自らの知能を使わなければならないからです。 それは、私たちの日常の生活の一部です。 それは、私たちの生物学的な構造の一部ですが、 私たちの中の或る人たちは、むしろ、その知的な能力を、放置し、 全部を、一種のロマンチックな、理論的な活動として、扱います。 で、語り手は、あなたを、助けていません。 私たちは、一緒にいて、もしよろしければ、 考え、観察し、感じます - 日常生活のとてつもない複雑な現象全体を、です。 どうぞ、これについて、真剣であってください - すなわち、話し手は、けっしてあなたの案内役ではないし、 忌まわしき導師ではないのです。 それは、そのとき、あなたは単に、従う者になる、という意味です。 一般的に、従う者は、 真理であるものを、破壊します。
11:42 で、私たちは、ともに考えようとしています。 それは、なすのが最も困難なことの一つです。 なぜなら、私たちの一人一人が、意見を持っているからです - とても強い意見、とても強い結論、 偏見、先入観を持ち、 自分の特定の楽しみや経験に応じて条件づけられています。 それで、自らは孤立します。 そして、ともに考えることは、ほとんど不可能になります。 あなたがこれに注目なさったのかどうか、私は知りません - たとえ、妻と夫、 彼氏と彼女などとの間ですら、 彼らはけっして、一緒に考えません。 同じことを、ともに観察しません - 同じ反応、同じ強烈さ、同じ時に、です。 いつも、この分割が、あります - 「私は考える。あなたは考える」、 「それが私の意見だ。 私の判断だ」などと、です。 で、どうぞ初めに、それがいかに困難で難儀であるかを、見てください。 それは、大きな注意を、必要とします- ともに考えるには、です。 なぜなら、考えることは、私たちの生において、とても重要であるからです。 私たちの行為すべては、考えることに、基づいています。 今、私たちの一人一人は、分離して個人主義的に、感じます - 自分の神をもち、自分の経験をもち、 自分の先入観をもっている、などです。 そして、ともに考えることは - もしも私たちは、そうできたなら、 それは、すばらしいことでしょう。 もしも自らが、脇に置けたなら - 少なくとも、この時間に、私たちの先入観、 私たちの意見、 私たちの傾向、体質を、脇に置けて、 観察できたなら - あなたの観察や私の観察に沿ってではなく、 山々を、ともに観察するのです。 あれらの丘の美しさ、荘厳さ、 日の光の壮麗さ、 流れゆく水、 大地のとてつもない栄光を、 ともに、です。 私たちの困難はまた、 私たちが言葉に捕らわれていることです。 あなたは、言葉に一定の意味を、持っています。 または、語り手は、言葉に一定の意味を、持っています。 私たちは、伝達するために、言葉を使います - それは、しなければなりませんが、 また、私たちの頭脳が、言葉に捉えられ、 その罠にかかり、囚われていることを、 悟られるのかどうか、です。 自らがそれを悟るのかどうかと、思われます - 言葉が、いかに、とてつもなく重要になったのか、です。 それで、私たちが、常に言葉を使っているとき、 それは、きわめて表面的になります - それは、標語になったのです。 反復的で、機械的です - 私はイギリス人だ、私はフランス人だ、私はドイツ人だ、などと。 ですが、言葉を乗り越えてはるかに深く、行くには、 とてつもない鋭敏さが、必要とされます- 言葉の罠に掛からないように、です。 そのときだけ、ともに考えることが、可能です。 私たちは今朝、これができますか。 実際に、自分の先入観、意見、教義に、 自分の特定の態度に、気づく。 そして、それらすべてを、脇に置く- 少なくとも、しばらくの間、です。 あなたが、そうできるなら、です。 そのとき、私たちはともに考えられます。 そのとき、私たちはともに働けます。
18:11 また、これは、刺激の活動ではないことを、 悟ることが、重要です。 語り手は、あなたを刺激しようとしていません。 彼は、薬物として、作用していません - それで、あなたは、今朝の間、刺激されて、 昼間に、それをへたらせるのではない。 で、それは、刺激ではありません。 それは、宣伝ではありません - あなたに、一定の形で考えさせるものではない。 彼は、どの理想、どの理論、 どの信念をも、宣伝していません。 なぜなら、理論、理想、信念、教義は、 人間たちを分離させてきたからです。 全体主義的な理想が、あります。 そして、いわゆる自由世界の理想が、あります。 それらは、互いに戦争をしています。 私たちもまた、互いに戦争をしています - 私たちの生における、この永続的な葛藤です。 あなたは、一人の人物とやって行けないなら、 その人物より離れてしまう、 離婚するのか - 私たちの日常生活で、進んでいる それらすべての、とてつもない分割的な過程です。 どうぞ、言葉を聞いて、 それらが真実なのか、それらが現実なのかを、見てください。 それらが、私たちの日常生活に、何か意味があるのか、 または、これらの講話と集会は、何か分離したものであり、 私たちの存在と、私たちの日々の行いと全く連携していないのか。 もしこれが、可能であるなら- そうであることを、望んでいます - 私たちはそのとき、生のきわめて、きわめて複雑な問題へ、入られます。
21:26 複雑な問題に、接近するには - なぜなら、私たちの生は、きわめてきわめて複雑であるからです。 社会は、きわめて複雑です。 関係は、きわめて複雑です。 私たちの労働、事務所へ行くこと、そのすべて - 社会的、外的な存在とともに、心理的なもの全体が、 とてつもなく複雑です。 すばやい答えは、ありません。 自らがまさに始まりから、これを通り抜け、それがはっきりと見えるなら、 すばやい答えが、あります。 私たちの生は、複雑です。 ゆえに、私たちはそれへ、 きわめて単純に、接近しなければなりません。 それが、私たちの困難になるでしょう。 なぜなら、私たちの頭脳は、きわめて複雑であるからです。 それらは、幾千もの経験をしてきたし、 大いなる知識を蓄積してきたのです - 生物学的にも、心理的にも、外面的にも、です。 私たちは、ほとんどあらゆる物事について大いなる知識を、持っています。 あなたが近頃、テレビで、子どもの誕生を、 見たのかどうか、私は知りません - いかに子どもが受胎されるのか、細胞の複雑さすべてなどを、です。 で、私たちの頭脳は、きわめて複雑な機構です。 それを理解するには、私たちは、 きわめて、きわめて単純に、それに接近しなければなりません。 ですが、私たちは、きわめて複雑な精神を、持っています - 頭脳を、です。 私たちはけっして、直接的に単純ではありません。 単純さは、単に、一日一食をとるとか、 わずかな衣服を着るなど、だけではありません。 それもまた、きわめて複雑です。 単純さは、先入観、好き嫌いを持たないことを、 意味しています。 どんな個人性も、そこに入りません。 夕方の美しい空を、見つめる - 日は、ちょうど丘の上にあり、 光輝、とてつもない光と明瞭さ。 それらを観察するには、頭脳の大いなる単純さが、必要とされます - 果てしなく、しゃべっているのではなくて、です。 それは、あの静寂の感覚を、必要とします - 日の入りの大いなる無量性を、観察するには、です。
24:58 で、このすべてが、私たちの間で、相当に明らかであるなら、 私たちは、進行できます。 ですが、どうぞ、これは、基盤だけです。 初めの二個の煉瓦だけです。 私たちは、きわめて深い基盤を敷かないなら、 あなたは、あまり遠くへ行けません。 初めの動きが、尋常でなく大事です。 その動きが、精密であるのかどうか - それが、煉瓦です - 精密で、正確で、非個人的であるのか。 あなたが、生の全体を考慮しているとき、それは、非個人的になります - 客観的で、非ロマンチックで、感傷性なし、です。 それが、私たちが今、していることです- 初めの煉瓦を敷くのです。 それを敷いておいて、あなたはその気があり、それを追求しているなら、 私たちは、きわめて複雑な問題を、探究しなければなりません - それは、時です。
26:50 私たちは一緒です - 私は、語り手は、あなたに語っていません。 私たちは、ともにそれを観察しています。 観察するのは、言葉をとおして、ではなく ただ見るだけです - 初めに、あなたの目で、見る。 それで、知覚は、きわめて明らかです。 あなたが、問題を持っているとき、 その知覚は、否定されます。 あなたは、問題を持っているとき、明らかに見られません。 いいですか? で、ともに、少なくとも今朝の間、自由でありましょう - 時の内容全体、意義を観察できるように、です。 なぜなら、私たちは、時により生きるからです - 日の出、日の入り、晩の星と、朝の光、 闇と明るさ。 昨日の時が、あります - 明日としての時、今としての時が、です。 あなたが、そこに座っていながら、時は、今です。 で、距離を行くための時が、あります - ここからそこへ、です。 言語を学ぶための時、 手紙を書くための時、 技術を習得するための時、 経験するための時が、あります。 で、私たちは時により、生きます - 外的、外面的にも、内的にも、です。 どうぞ、これを理解することは、とても重要です。 なぜなら、私たちは、何かへ入ろうとしているからです。 私たちのどちらも、本当にそれを理解しなければなりません - 理論的に、だけではなく、 抽象的な意味において、ではなく、実際に、です。 なぜなら、私たちは、時の本性を理解するなら、 おそらく、時を越えたものを、理解する可能性が、あるからです。 それは、はるかに複雑です。 それへ跳びつかないでください。 初めに、私たちは、有るものを、理解しなければなりません。 - 実際に有るものを、です。 ゆえに、私たちは、時とは何かを、探究しています。 あなたもまた、探究しています。 私たちが言いましたように、距離を行くための時 - ここから、あなたの家へ、です。 優秀な大工になるには、 偉大な科学者になるには、 偉大な小説を書くには、時が、必要とされる、 などです。 また、内的にも、時があります - 私は、なるだろう、私は、ならなければならない、 私は、覚りを達成しなければならない。 それが、何を意味していようと、です! 私は、神、天国へ到らなければならない。そうね、 そのすべてが、時を含意しています - 私はこうだ。暴力的だ。 が、私に時間をくれ。私は、暴力より自由になるだろう、と。 どうぞ、あなた自身において、この実際の事実を、見てください。 語り手は、単に鏡として、作用しています - その中に、あなたは自分自身が、見えるのです。 あなたは、自分自身が明らかに見えるとき、鏡を、投げ捨てられます。 鏡は重要ではありません。 重要なのは、あなたが鏡に見るものです。 鏡は、明らかであり、何も歪曲なしであるなら、 それは、あなたの顔を、そのとおりに示します - あなたの見た目、などを、です。
32:10 で、私たちは、ともに、時を探究しています。 私たちは、外側の時を叙述してきました - 時計によっての、です。 私たちは、ちょうど10時30分に、ここで会いました。 私が演壇に座ったとき、それはぴったりでした。 また、内的にも、時があります。 自分は見習いです。 次第に、自分は達人になります。 それには、時が掛かります。 あなたは、或る組織の事務員です。 あなたは、それが上手であるなら、次第に管理職になります。 その態度、その考え方が、こぼれでて、 心理的な世界の中へ、拡大してきたのです - 私はこれだ、私はあれになるだろう、と。いいですか? 私たちは、互いに理解し合っていますか。 で、外側に、時があります - 時計によって、です。 内的に時、今と死との間の時。 いいですか? さて、私たちは、時の本性を、はるかに深く探究しようとしています。
34:01 まず第一に、見出すには、私たちの頭脳を、使わなければなりません - ただ受け入れるのではなくて、です。 知能の機能は、判別すること、 判定し、評価することです。 ですが、あなたが、知能を、 あまりに偏っていると、払い除けるなら - 知能は、私たちの構造の一部です。 情動のように、私たちの存在の一部です。 ですが、あなたが単に、自分の情動へ縋りつき、 知能は大事ではないと、言うだけなら、 または、あなたが単に知的であるだけなら - で、私たちは、その全体を見つめる能力を、持たなければなりません - 私たちの頭脳でもって、知能でもって、感情でもって、 神経でもって、私たちの全存在でもって、です。 ですね? あなたがそうできるなら、です。 そういうわけで、それには、大きな注意が、必要とされるのです - 思考のあらゆる動きを、見守ることが、です。 あなたがかつて、そうしたことがあるのかどうかを、私は知りません。 あらゆる思考を、歪曲しようとせず、見守る。 唯一つの思考をも、逃さない。 それには、注意、見守り、大きな自己の気づきが、必要とされます。 で、そこで時は、過去、 現在と未来として、あります。 いいですか? 過去としての時 - 蓄積された知識、経験すべて、出来事すべて、 私たちがしてきたが、後悔すること、 私たちがしたいと思うこと - それは、未来です。 今、されつつあること。ですね? で、現在、今は、過去です。 もちろんです。 現在と、また未来でもあります。 いいですか? 私たちは、互いに、これを理解しあいますか。 なぜなら、それを、理解することは、重要であるからです - 私たちがさらに言おうとしていることを、伝達するには、です。
37:16 私たちは、こう言っています。 語り手は、こう言っています。 すべての時は - すべての時が、です -今に収容されている、と。 すなわち、過去は、今に収容されています。 それは単純です。 あなたは、それが分かります。 あなたは、あなたの過去です。 いいですか? あなたの記憶、あなたの出来事、あなたの経験、あなたの失敗、 あなたの後悔、あなたの呵責、あなたの罪悪、 あなたが育てられてきたところのすべての伝統 - 宗教的、宗派的なものも、 過去の全体が、時です。 いいですか? 私たちは、この地上に人間として、 四万五千年以上の間、いたと、考えられています。 私たちが持ってきた、広大な蓄積された知識について、考えてみてください。 4万5千年の闘争、葛藤、悲惨、不幸せ、喜び、悲しみ。 いいですか?そのすべてが、過去です。 明らかですか。 そのすべてが、今です。 あなたがそこに座っているとき、そのすべてが、今のあなたなるものです。 そして、今はまた、未来をも収容しています。 私はそれを、お示ししましょう。 そうね、私はそれを、お示ししています。私は・・・ 理解されますか。あなたは、それに出会っていませんね。 木陰の道を歩んでいき、これらについて話している 二人の友だちのように、です。 しばらくの間、互いに知り合ってきた二人の親友です。 彼らの間に、敵意はありません。 防衛はなく、攻撃はありません。 長年の間、互いに知り合ってきて、一緒に話し合ってきた 二人の古い友だち、です。 おそらく、同じクラブに入っていて、同じネクタイで、 同じ話し方です。 彼らは、互いを、とてつもなくよく知っています。 彼らは、互いに、何をも説得しようとしていません。 彼らは、この質問をしています - 時は何ですか。今とは何ですか。 一人は相手に言います - 今は、すべての時を、収容しています。 なぜなら、今のあなたなるものに、明日、あなたはなるだろうからです。 ですね? で、明日は今です。 理解されましたか。 私は今、先入観を持っています。 私は、人々を好きだし、好きでない。 明日、私は、先入観を持っているでしょう。 私は、やはり、好きだし、好きでないでしょう。ですね? で、明日、未来は、今です。 これは明らかですか。 私たちは、互いに理解しあっていますか。 どうぞ、これを理解することは、きわめて重要です。 語り手は、とてつもない、或る種の異国風、 東洋的な戯言を、出しているのではない。 東洋人たちが、何かをもたらすとき、それは、戯言でしょう。 ですが、あなたは、この点を、自分自身で見られます - すなわち、すべての時、過去、現在と未来は、 今、収容されています。 いいですか? 私は、ずっと私であったものです。 私がなるであろうものは、今の私であるものです。 私は今、変化しないなら、 明日、まさしく、今の私なるものに、なるでしょう - 明らかですか。 私たちは、ここに一緒にいますか。 言語的にではなく、理論的にではなく、実際に、です。 すなわち、私たちは今、すべての時を、収容しているのです - 言語を学ぶ、技能を学ぶのを、別として、です。 理解されますか。 手紙を書く - それには、時が必要とされます。 一つの所から別へ来るには、時が必要とされます。 ですが、心理的、内的に、すべての時は、今です。 いいですか? それの危険が、見えますか。 それの困難が、見えますね - すなわち、明日はない。 今だけが、ある。 それは、なることがない、という意味です。いいですか? 心理的な進化は、まったくないのです。 さて、これは・・・理解されますか。 それは、「私は何かを達成しようとしている」、ではありません。 - それは、時を意味しています。 理解されますか。 仮に、私は啓明を得たい、とします - それが何を意味しようと、です。括弧付きです。 私は真理を見つけたい - その他すべて、です。 それは、未来において、という意味です。 いいですか? 明らかですか。 未来は今です。今の私なるものです。ですね? 私は根源的に変化しないなら、 未来は、明日、今の私なるものです。 いいですか? 明日、今の私なるものです。 明らかですか。
44:39 そのとき、そこから、私たちは、進めます - 何かきわめて複雑なことへ、です。 私たちは、これの真理が見えるなら - すなわち、心理的な進化は、まったくないということを、です。 なることが、ない。 今の私なるものは、なくて、 私がなるだろうものが、ある。 未来は今です。 私が今、根本的に変化しないなら、 私は明日、まさしく、今の私なるものに、なるでしょう。 いいですか? それは、真理が見える、という意味です - 心理的に、なることがない、ということが、です。 心理は- それは、自己の本質ですが - なる、ということに立って考えます。 いいですか? これらに、付いてきていますか。 これは、知的な芸当ではありません。 これは、単純で明白な事実です。 キリスト教は、それを表現する一通りの道を、持っています - 復活、神へ到る、 天国に到達する。 それは、アジア世界では、違ったように表現されますが、 それは、同じ動きです。 いいですか? すなわち、私はこれだ。 私は次第に、あれになるだろう。 すなわち、次第に、ということに立ってけっして考えない - 段階的なことに、です。 これらを理解されますか。 私は、次第に技能を学ぶために、時が必要です。ですね? 私は、バレエで上手に踊るのを学ぶには、長年が必要です - 子どもの頃から、私は始めなければなりません。 ヴァイオリンを演奏するには、私はきわめて幼いとき、始めなければなりません - 私が才能を持っているなら、私がその裏に、熱情を秘めているなら、です。 また私は、同じ動きが、心理的な領域へ、 持ち越されることを、感じます - 私は、或る日、到らなければならない、と。いいですか。 そういうわけで、あなたたちは、様々な集団、様々な導師に所属するし、 様々な衣服や衣を着るのです- 違っているために、です。 あなたは、何かを達成したいからです。 で、あなたは、真理が、絶対的な真理が、見えるなら - すべての時が、今に収容されていることが、です。 その深さを悟ることには、かなり怯えます。 あなたが、「明日、あなたにお会いしたいと、願っています」、 「明日、私はあなたを愛するでしょう」と言うとき - 理解されますか。 で、その愛は、その全体が、今、あるのか、 あるいは、まったくないのか、です。 これが、きわめて明らかであるなら - その、絶対的な明瞭さ、です - すなわち、心理は、未来を持たないのです。 - 理解されます。 すなわち、あなたは未来を持たないのです。 それは、今のあなたなるものに、あなたは、なるであろうからです - 根源的な変異が、ないなら、です。 それは、生物学的な言葉ですが、用いるには、良い言葉です。 今、根源的な変異がないなら、 あなたは、明日、あなたなるものに、なるでしょう。
49:55 で、それを、現実だと悟り - 理論ではなく、仮説ではなく、 何か理想、それらの戯言ではなく、 事実、です。 そのとき私たちは、探究しはじめなければなりません - 行為とは何なのか、 関係とは何なのか、 変化とは何なのかを、です。 いいですか? 変化、行為と関係。 いいですか? 私は、すべての時が今であるとのその真理を、理解するなら、 そのとき、私の行為は、何ですか。 そのとき、行為は何ですか。 どうぞ、探究してください。 眠らないでください。 すみません。お許しください。 語り手が強調しているなら、どうぞ、 それは、彼が攻撃的である、ということではありません。 語り手は、これらの事柄について、とても強く感じます。 人類は、自らを破壊しつつあります。いいですか? 世界中で、ひどいことが、起きています。 人々は、あらゆる種類の恐怖を、準備しています - 世界中の科学者が、です。 毒ガス戦、細菌戦、 これらのひどいミサイル、 原子爆弾、中性子爆弾。 これらすべてを準備しているセンターの一つに、私たちは行っていました - 最高の科学者たち、です。 私たちは何気なく、人生の毎日をつづけていきます - それらに、何の注意も払いません。 あなたは、世界で起きつつあるすべてのことに、気づくとき - 世界は、あなたです。 あなたのまわりで、です。 あなたは、まったく責任を感じます。 あなた自身へ、ではなく、この人類全体へ、です。 スイスへ、だけではない。 これが、私たちのほとんどにとって、何の意味もないのを、私は知っています。 なぜなら、私たちは、ただつづけてゆきたいからです - 私たちの古い伝統、古い習慣、 古い防衛機構などを、です。 で、私たちは、すべての時が今であることを、悟るとき - 何とすばらしい真理か - そのとき、行為は何ですか。
53:31 私たちの現在の行為は、何ですか。 本当の行為が何かを、見出すには、私たちは、 現実より、始めなければなりません- その行為は、未来を持ちません。 私が言っていることを、理解されますか。 私たちの現在の行為は、何ですか。 行為、することは? それは、記憶に基づいているのか- 過去に、ですね? 様々な実験、経験をとおして、蓄積されてきた記憶に、です。 それで、過去が、行為を指令します。ですね? 付いてきていますか。 さあ、進んでください。 または、未来が、行為を指令します - 共産主義者たちの理想、理論的な概念、 弁証法。 それらをご存じですね。 で、行為は、過去の記憶に沿って、なのか - 過去の思い出、過去の憎しみ、過去の嫌い、 過去の先入観、過去の個人的な態度に、沿ってです。 それは、すべて過去です。 その過去に沿って、行為がある。ですね? 科学的な世界においても、心理的な世界においても、です。 そこで行為は、創案です。 ですね? 理解されますか。 私たちは一緒に、これらにいますか。または私は、自分自身で離れて行っていますか。 一定の所に、最高の科学者たちの集団が、います - アメリカのニューメキシコの、ロス・アラモスです。 彼らは、講話をするよう、語り手を、招待しました。 アメリカの最高の科学者、700人が、いて、 戦争のためのものすべてを、創り出していました。 彼らは訊ねました - 科学における創造とは、何ですか、と。 理解できますか。 科学における創造とは、何ですか。 私は、科学に創造はない、と言いました - 考案だけがある、と。 私たちは、別にそれに入るでしょう。 語り手が説明したいことは、 過去は、恐るべきだ、強い。 で、それは、私たちの行為を導き、制御し、形作る、ということです。ですね? または、あなたは、 未来の理想、未来の理論を、持っていて、 それら理論に沿って、行為します。 可能なだけ、近似させて、ですね? 過去の記憶と、未来の理論、 理想、概念、教義、信条。 で、行為は、これら二つの原理に、基づいています。 ですね? 明らかですか。 もちろんです。これは単純です。 ですが、すべての行為が今であることを、悟るとき、 未来の行為は、ありません。 理解されますか。 なぜなら、未来は、今であるからです。 私は、それを調べなければなりません。 それが、明らかでないなら、です - すべての時が、今であり、今に収容されることが、ですね? あなたたちは、二分前に同意しました。 少なくとも、頷きました - あなたたちの幾人かは、です。 あなたたちは、付いてきていること、それの事実が見えることを、標示していました。 さて、未来がないのなら - なぜなら、未来は今であり、過去は今であるからです - そのとき、行為は何ですか。 私たちは、今、私たちが知っているような行為は、 過去に基づいていると、言いました - 記憶、後悔、罪悪、経験に、です。 それは、すべて知識です。 または、未来、理想、概念、理論、信条に、です - あなたは、それに沿って行為します。 で、あなたは、過去に沿ってか、未来に沿って、行為しています。 ですが、過去と未来は、今です。 いいですか? で、行為とは何ですか。 質問を理解されますか。 どうぞ、あきらめないで、そうしてください。 行為とは、何ですか - もし・・・ いや、すべての時が今であるとき、行為は、何ですか。 あなたの答えは、何ですか。 あなたの深い誠実な答えは、何ですか。 頭脳が・・・ 聞いてください。 頭脳が、過去に沿ってとか、未来に沿って、 行為するよう条件づけられているとき、 真理が、すべての時は今であるとき、 ゆえに、未来がなくて、今がある。 未来は、今に収容されています。 過去は、今に収容されています。 これらを理解されますか。 で、行為とは何ですか。
1:00:27 私はあなたに語れますが、そうね、 あなたは、私が語ってくれるのを、待っています。 残念です。あなたは本当に、それに入っていっていません。 あなたは、誰かがこれらを説明するのを、待っています。 仮に、あなたに説明してくれる人が、誰もいない、としましょう。 あなたは、何をするのでしょうか。 あなたは、何かの真理を見たのです - すべての時、過去、未来は、今にあるとの真理、です。 あなたは、それが見えます。 あなたは、或る人に出会います - 彼は、「さて、行為とは何ですか」と言い、去って行きます。 あなたは、見出さなくてはいけません。 なぜなら、あなたがひとたび、すべての時が今であるとの真理を、見たとき、 その真理は、けっして、あなたを去って行かないでしょう。 理解されますか。 それは、あなたの身体に刺さった刺に、矢に、似ています - それは、摘出、引き抜くことが、できないでしょう。 で、あなたは、それに答えなくてはいけません。 あなたは、それに答えないでしょう。なぜならそれに答える能力が、ないからです。 なぜなら、私たちの頭脳は、過去の行為に条件づけられているからです - 過去に沿ったり、未来に沿ったりの行為に、です。 で、初めに、その問題に取り組まなくてはいけません - 頭脳は、過去より自由でありうるのかどうか、です。 今、気をつけてください。 私は、世の中で機能するには、記憶が必要です - ですね? 自分の事務所へ行くには、研究所や工場で働くには、 または、何かの技能には、 私は、大変多くの時、大変多くの知識が、必要です。 そこには、なることがある。 ですね? 私は知らないが、私は知るだろう、と。 その同じ動き、同じ・・・それが、拡張されます。 その同じ思考が、心理的世界の中へ、拡張されます。 私はこれである。私はあれになるだろう、と。いいですか? さて、あなたはおそらく、自分自身できわめて明らかに見たのです - すべての時が今であるとの真理を、です。 そして、語り手は、見出しなさい、と言います - 行為とは何ですか。 いいですか? あなたの行為は、過去の記憶、過去の訓練、過去の経験に沿ってであったのです - それが、頭脳を条件づけてきました。 また、頭脳を、未来の観念、理想、概念に、条件づけてきました - 私はそうでなければならない、などと。 頭脳は、これら二つより、自由でありえますか。理解できますか。 あなたは、これらに付いてきていますか。 質問を理解されますか。

聴衆: はい。
1:04:01 K: 頭脳は、過去の記憶に沿って、行為するよう、 条件づけられてきました。 または、思考は、概念、理想、理論を、投影してきて、 それに沿って、あなたは、行為しています。 頭脳は、そのように条件づけられています。 頭脳は、それより自由でありえますか。 さもないと、あなたは、今の行為が何であるかを、 けっして見出さないでしょう。 理解されますか。 私は - 誰かは、説明できますが、それは、 あなた自身の理解の深みではないでしょう。 明らかですか。 私は、それを説明するでしょう。 私は、それに入るでしょう。 これは、言語的な説明になるでしょう - 当然です。 それは、何かあなた自身が発見したことではないでしょう。 ゆえに、真理ではなく、ゆえに、それに沿って生きないでしょう。
1:05:20 私たちは、知覚とは何かを、探究しなくてはなりません - 見る、知覚すること。 すべての時が今であるとの事実を、実際に知覚する。 それは事実です。 取消できない事実です。 他のどの利巧な人も、やってきて、 「そのようではない」とは言いません。 あなたが発見したことが、真理であるなら、 あなたは、どの挑戦にも、出会えます。 あなたは、打ち倒されないでしょう。
1:06:06 質問者: 私は、答えを知りませんが、私が感じられる・・・
1:06:11 K: マダム、聞いてください。 あなたは、この質問をできます。 ご自分の質問を、書き留めてください。 私たちはそれに、答えるでしょう - 今ではない。気になさらないことを、願っています。
1:06:30 行為とは、何ですか - すなわち、全然、過去と未来に依存していないものは、です。 いいですか?過去や未来に依存していない 行為とは、何ですか。 いいですか? 今、完全であり、 断片化していない行為が、 ありますか - 理解されますか。 それが、私の行為です - 人間の行為は、過去や未来に、基づいています。 ゆえに、それは断片化しています。 いいですか? それは、壊れてしまっています。 で、私たちは、訊ねています - 全的に断片化より自由である行為が、ありますか。 あなたが、その問い自体の美しさが、分かるのかどうか、私は知りません。 ゆえに、語り手は、そういう行為がある、と言います。 その行為は、見ることです - 見ることが、することです。 見ること、知覚すること、理解することと、 することとの間に、時の間隔はありません。 理解する、知覚する、見ることが、行為自体です。 例えば、です - 私は、しっかり働いています。さあ! きわめて明らかに、客観的に、 何の偏見もなく、知覚します - 世界中のすべての組織的な宗教、 それらのすべては、迷信、信仰、信念、伝統に、 基づいている、ということを、です。 明白です。 それらの様々な形の儀式、衣装、 凝った服装、などなどなどをもって、です。 それは思考により、組み立てられていることが、分かります - それが、古代の思考や現代の思考でも、 それは、思考により組み立てられています。ですね? ゆえに、思考は、制限されているので、それは、制限されているにちがいない。 なぜなら、思考は - 私は手短に、ご説明しましょう - 思考は、記憶から出てきたものです。 記憶は、知識の部分です。 知識は、経験から出てきたものです。ですね? 完全な知識は、ありません。 科学的な世界では、知識を付け加えつつあります。ですね? 少しずつ、少しずつ、少しずつ、です。 千人や、十万の人々が、それに付け加えています - 来る日も来る日も来る日も、ですね? ゆえに、もっと多くは、制限されています。ですね? で、経験は、制限されています。 「私は神へ到った」と言う人の経験は、制限されています。 いいですか? で、知識は、今でも、未来にでも、制限されています。 ゆえに、思考は制限されています。 いいですか? で、思考が組み立てた物事は、何でも、 外的でも、内的でも、制限されています。ですね? で、思考に基づいた行為は、制限されています。 分かりますか? 後生ですから、初めて聞いてください。 すべての行為は、それが思考に基づいているなら、 いつも制限されているでしょう。 ゆえに、制限されているものは、 間違いなく、葛藤を創り出すにちがいないのです。 私は、一日中、自分自身について考えているなら - ほとんどの人々は、そうですが - それは、きわめて小さな事柄です。ですね? 私は、実践しなければならない。 私は、冥想しなければならない。 私はこれをしてはならない。私はあれをしてはならない - よろしいですか。 私は、探し求めなければならない。 私は、葛藤を持ってはならない。 私は冥想しなければならない、と。 それはすべて、きわめて自己中心的な活動ですし、 ゆえに、それは、きわめて制限されています。ですね? で、思考は制限されています。 思考に基づいていない行為が、ありますか。 思考は過去です - すべての記憶、すべての伝統、それらです。 思考はまた、未来を投影してきました - 理想、共産主義の理論を、です。 それは、やはり制限されています。 で、私たちは、過去か未来に沿って、行為しているなら、 それはやはり、制限されています。ですね? ゆえに、甚大な葛藤と混乱を生み育てています。明白です。 で、過去や未来に基づいていない 行為が、ありますか。 なぜなら、すべての時は、今であるからです。 今、完全である行為は、ありますか。 理解されますか。 それは、こういう意味です - 何かを明らかに見ることは、即座に行為することです。 私は、きわめて明らかに見ます。 語り手は、きわめて明らかに見ます - どの組織にも所属することは - 特に、霊的な組織、ですが - 全く有害であり、制限されている、と。 ゆえに、何にも所属しないのです。 そうです。 なぜなら、何かに所属することは、私たちに、安全を与えてくれるからです。 私たちは、安心を感じたいのです。 導師は知っている。私は知らない。 ゆえに、私は彼に従おう。 それは、一つの形の自己欺瞞、不安全です。 いいですか?
1:14:09 で、それを知覚するし、即座の行為です。 全部 - あなたは、いわゆる霊的な指導権全体より、自由です。 それが必要とする・・・理解されますか。 それは、強さではありません。 「有るもの」を見る、単なる知覚です。
1:14:35 12時まで15分です。 1時間と15分です。 あなたたちが疲れていないことを、願っています。 私たちは、火曜日の朝に継続するでしょう。 どうぞ、ご注意を申し上げていいなら、 生は、複合体です。 あなたは、その部分を取って、 「理解した」と言い、去ってしまえません。 それは、その部分だけではなく、その全体を、必要とします。 私たちは、ちょうど始めつつあります - そのきわめて小さな部分を、です。 私たちは、恐れ、関係、冥想、悲しみについて、 話そうとしています - 私たちの日常生活の複雑な問題全体、です。 あなたは、本を読むなら、第一章(だけ)を読みません。 あなたは、その最後まで、読み通さなければなりません。 私たちが、すべての会合に来るよう、あなたを招待しているわけではない。 あなたが来るのか、来ないのかを、 私は気にしません。 語り手は、気にしません。 ですが、重要なのは、こうです - あなたが始めるなら、まさにその最後まで、行ってください。 その途中で、止まらないでください。いいですか? あなたのエネルギーすべてを、それに注いでください。
1:16:02 もう立ち上がってもいいですか。