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SA84T2 - 健康の、自由への関係。
第2回公開講話
スイス、サーネン
1984年7月10日



0:19 私たちは、一昨日の朝、止めたところから、 つづけてもいいですか。 私たちは、時について話していました - 過去としての時- 私が短く反復してもいいなら - 過去としての時、未来としての時、 今、この秒の時。 私たちはまた、すべての時、過去、現在と未来は、 今に収容されている、 とも言っていました。 私たちはそれへ、相当、徹底的に、入りました - すなわち、未来は現在です。 なぜなら、今の私たちなるもの、 私たちの振るまい、私たちの卑俗さ 私たちの・・・何? 私たちの残酷さ、獣性、 恐怖、その他すべて。 今の私たちなるもの、暴力的なのは、 明日もまた、暴力的になるでしょう - 今、根源的な変化があるのでなければ、です。 で、未来は、現在に収容されています。 未来は、修正されるが、やはり暴力です。 で、どうぞ、私たちが昨日、もっと詳細に指摘したように、 すべての時は、現在にある。今にある。 それの真理を悟るなら、 それは、ものすごい意義を持っています。 私は、「ものすごい」という言葉を、誇張なく、意図的に使っています。 それは、ものすごい効果を、持っています - 私たちの振るまいに、私たちの関係に、 私たちが一日のあらゆる秒に、実際にしていることに、です。 それは、大きな意義を持っています。 それを捉えるなら - それの真理を、です。 単なる言語表現だけや、 知的な論理的な説明、叙述ではなく、 それの実体、それの性質、 それの深さ、それの真理を、です。 そのとき、真実であることのその香りが、 私たちの存在の全体に、影響します。
3:48 私たちは今朝、また、時との関係において、 ともに探究したいと思います - ともに、というのです。 私が説明し、あなたはただ受け入れるとか、 あなたは拒否するとか、同意するとか、ではない。 ともに、詳しく究明するのです。 知的に、論理的に、健全に、理性的にも、 また、それを乗り越えるのです。 なぜなら、論理、理性は、自らの制限を、持っているからです。 なぜなら、それはやはり、思考の平野の中に、あるからです。 私たちは、それに入りました。今日、私たちは再び、それに入るでしょう。 で、私たちは、時の意義を捉えるなら、 また、自由とは何かを、探究すべきです。 健康とは何か、 エネルギーとは何かをも、ですね?
5:02 自由、健康と、 エネルギーの性質 - すなわち、すべての時が今に収容されているとの真理を、 捉えるか、見るか、知覚するとき、訪れるものを、です。 いいですか? 自由とは何ですか。 幾時代をとおしてずっと、すべての人間は、 或る種の自由を、探し求めてきました - 歴史的に、宗教的に、などです。 自由は今、自分が望むとおりのことを、することと、翻訳されています - あなたたちはみんな、そうしています。明白です。 選択 - 一つの所から別の所へ、一つの職から別の職へ、 行くことを、選択できる。 全体主義国家とは違っています - そこには、完全な独裁制があって、あらゆる物事が、管理されます。 あなたが考えること、感じることさえも、様式に沿って、枠に入れられます。 で、全体主義国家には、自由の否定が、あります。 ゆえに、全体主義国家は、退行しています。 理解されますか。 動かないで、戻っていく。
6:48 で、私たちは、探究しなければなりません - 自由とは何ですか。 自由は選択ですか。 二台の車の間、二枚の素材の間で、選択すること、 行きたいところへ、行くこと、 他のあらゆる人を犠牲にして、自分自身を充足させること - いいですか? これらに付いてきておられることを、願っています。 私たちのあるがままより、はるかに上になろうとすること - より良く、より尊く、より賢く、 もっと取得し、もっと多くの知識、です。 で、それは、なる過程全体です。 それは、充足することと呼ばれます。 私は充足しなければならない、 私はどこかに、根を持たなければならない、と。 よろしいですか? それらの含意は、なることです。 物理的に、なるだけではない - 従業員から所有者へ、 見習いから達人へ、というように、ですが、 私たちはまた、内的にも、なると、感じます。 私はこれだが、私はあれになるだろう。 私は、妬んでいて、貪欲で、暴力的です。 私たちは、「暴力的」という言葉を、用いるでしょう。それで十分です。 私たちは、暴力的です。 私は、いつの日か、非暴力を達成するでしょう。 おそらく、一年か、二年で、または、おそらく人生の終わりに、 私がちょうど死のうとしているときに、です。 いいですか? これらは、心理的に、なることを、含意しています。 それは明らかです。 なることに、自由はありますか。 質問を理解されますか。 または、自由は、全然違った何かですか。 どうぞ、ともに私たちは、究明し、探検しています。 私が説明していて、あなたがただ受け取っているのではありません。 私たちはともに、探究しています - それは、あなたが自分の頭脳を行使することを、要求します - 何一つ、受け入れるのでなく、 何でも語り手が言うことを、受け入れるのではない。 ゆえに、探究は、語り手のではなく、あなたのでなければなりません。 語り手はただ、輪郭を描き、言葉に表すだけかもしれませんが、 その活動、透徹は、あなたの側に、なければなりません。 で、私たちはどちらも、これを分かち合っています。 いいですか?私が何かを差し出し、 あなたはそれに、同意や不同意をするのではない - それは、分かち合いがないことを、含意しています。 ですが、私たちはどちらも、探究し、探査し、訊ね、疑っているなら - 私たちが考え、感じることすべてと、 時へのその関係を、です。 そして、そのなることが、自由を阻止するのかどうかを、見る。いいですか? 私たちは、ここに、少し一緒にいますか。 私はそれを、もっと説明してもいいですか。
11:03 すなわち、自分が教師であり、 大学で、次第に教授になりたいと思うとか、 または、どの専門分野でも、見習いであるなら、 彼は、いつの時も、何かになろうと試みています - もっとなろう、もっと大きな熟達者になろう、 もっと大きな技能、もっと大きな知識、です。 一定の主題へ注がれたこの制限されたエネルギーは、 制限します。 ゆえに、それは、自由を拒否します。 理解されますか。 私たちは、ここに幾らか一緒にいますか。
12:09 そうね、私たちは本当に、自由を要求しないのです。 私たちはただ、制限された区域の中でだけ、要求します - すなわち、私は、自分が感じることを、しなければならない、 私は、自分の好き嫌いに沿って行為しなければならない、 その行為の中で、私は自由である、 私は、あなたと他の人との間で選択できる、などと、です。 で、そのすべての活動は、きわめて、きわめて制限されています。 まさにその制限こそが、自由を拒否します。 もちろんです。 私たちはまた、言語的にも制限されています。 言語的に - 私は、言語の問いに、入らないでしょう。 言語的に、私たちは制限されています。 言語が自由を制限するのかどうかを、見出しましょう。 これらを理解されますか。 言語 - それは、幾つもの言葉です。 語り手は、英語を使っています。 その言語、言葉は、頭脳を条件づける、 ゆえに、それは制限されるのかどうか、です。 言語は、頭脳を条件づけるのかどうか。 いいですか。 これは分かっていますか。 または、言語は、頭脳を制限しない、頭脳を条件づけないのですか。 あなたは、探究していますか。 どうぞ、ともに、それに入ってください。 私は、もしも・・・すみません。私は願いません。 もしも、あなたと語り手だけが、一緒であって、 こんなに大きな聴衆でなかったなら、よかったでしょう。 ともに、友と私自身と、です。 そのとき私たちは、それについて、議論できます - きわめて親しく、です。 私は、そうしようとしています。 いいですか? すなわち、あなたは、私の友を表示します。 私は、語り手を表示します。 語り手と友だちは、この問いについて、議論しています。 すなわち、 自由は、いつの時も、何かになるところに、ありますか。 自由は、自分の野心を表現するところに、ありますか。 自由は、自分の欲望を充足させようとするところに、ありますか。 そして、友だちは、こう言います-「私は本当に、 あなたがいったい何について話しているのかを、理解できない」と。 私たちは、これに慣れています。 私たちの条件づけ、私たちの習慣は、これです。 私たちはいつも、充足したい、なりたいと、思っています - 外の世界でも、また、内の世界でも、です。 私たちは、何かを達成しなければなりません。 さもないと、何も前進が、ありません」、 などと、友だちはこう言っています。 私が言っていること、 語り手が言っていることすべてに、反論しています。 語り手は、言います - それについてそんなに興奮しないでください。 ともにそれを見つめましょう。 あなたが野心的であるとき - 外面的な世界でも、心理的な世界でも、です - 野心は同じです。 あなたが、ものすごく豊かになろうと野心的であっても、 涅槃、天国や啓明に到ろうと野心的であっても、 静寂になろうと野心的であっても、 野心は、同じです。 語り手は、友へ言っています - その野心は、制限します。 自由ではありません。 私たちは、「自由」という言葉を、誤用してきました。 すなわち、各人物が、自分自身を主張しようとしています - 攻撃的に、です。 自分の意見、判断、評価、教義、信条などへ 取りすがっています。 このすべてを、私たちは、自由と呼びます。 それは、自由ですか。 いいですか? 友は、言います - 「あなたが何について話しているのかを、 私は理解しかけています。 同意します」と。 私はこう言います - 「同意しないで、それの事実、それの真理を、 見てください」と。 いいですか?
17:45 で、自由は、何か全然違ったことであるにちがいありません。 それへ来ること、その自由を悟ることは、可能ですか。 すなわち、まったく野心的でないことは、です。 それに入ってください。 それは、することの愛を、阻止しません。いいですか? 世界中の科学者もまた、きわめて野心的です - 残りの私たちと似ています。 彼らは、何か最高の兵器を、達成したいのです - ロシア人などに対して、です。 それらのゲーム、その怖ろしいゲームを、彼らは、やっています。 で、世界のあらゆる人間は、どんなに無教育で、愚かでも、 ひどく知的でも、 いつも、この過程に捕らわれています。 それが、一般的に、自由と呼ばれます。 語り手は、それは自由ではないと、言います。 友は、言います - 言語は、阻止しますか・・・ または、頭脳の制限された活動を、助長しますか、と。 これらに、付いてきておられますか。 これに、興味はありますか。 あなたは、すっかり確かですか。 または、あなたは、私とともにゲームをやっている、ということですか。 言語は、頭脳を条件づけますか。 それは、頭脳を条件づけるのです - 言葉が重要になるなら、です。 言葉が、英語の言葉でも、フランス語の言葉でも、 ドイツ語やイタリア語やロシア語でも、です。 言葉が、その深さを失ってしまったとき、 言葉が何気なく使われるとき、 言葉が、一人一人にとって、特別な意義を持っているとき、 言葉が、頭脳のネットワークになってしまったとき、です。 理解されますか。 付いてきておられますか。 そのとき、言葉は、頭脳を条件づけます。 いいですか? しかし、言葉は単に、一定のことを伝えるために使われ、 伝達目的のために使われるとき、 あなたと私、語り手が - それには、一定の敏感さ、注意、 柔軟性、慈しみが、必要とされますが、 そのとき、言葉は、その制限する性質なしに、使われます。 そのとき、頭脳は、言葉により条件づけられません。 しかし、今、私たちがそうであるように、 言葉は、私たちの頭脳を、条件づけるのです。 あなたが、「全体主義国家」と言うとき、 即時に、私はその映像を、描きます。 あなたは即時に、世界の色々な地方の様々な独裁者を、見ます。 なぜなら、彼らの映像が、ここ五十年の間、あらゆる新聞に、載ってきたからです。 イメージが、跳び出てきます。 そのイメージが、頭脳を条件づけます。 これらに、付いてきておられますか。 私が、「導師」という言葉を用いるとき、 ほら、そのとおり。 あなたは即時に、反応をします。 または、「キリスト」のような言葉が、キリスト教徒へ、使われるとき、 即時に、です。 または、ヒンドゥー教徒へ、彼の特定の言葉でもって、 または、仏教徒へ、です。 どうぞ、言語的な条件づけの重要性を、見てください。 そして、その条件づけの中、あらゆる種類の紛糾が生じ、 あらゆる種類の葛藤が、生ずるのかどうか、です。 ヒンドゥー教徒の、イスラム教徒に対する葛藤、 イスラム教徒とアラブ人の、ユダヤ人に対して、 神を信ずるキリスト教徒の、 全体主義者に対して、です。 よろしいですか。 これが、進んでいます。 で、言語的な牢獄より自由であることは、可能ですか。
23:26 理解されますか。 あなたたちは、ご自分の精神を、これらに注がれません。 いいですか? あなたは、今、ここに座っていて、言葉のイメージより、全面的に 自由であることが、可能なのかどうかを、見てください で、自由があります - なることに、自由はありません。 人が野心的であるときや、 男や女が野心的で、貪欲で、妬んでいるとき、自由はありません。 人は、自分は自由であると、考えるかもしれません - なぜなら、彼は、自分の野心を表現するからです。 で、自由があります。 なることに、自由はありません。 頭脳が、言葉に捕らわれていたり、その牢獄に入っているとき、 自由はありません - それらのイメージをもって、です。
24:48 また私たちは、探究すべきです - 健康とは何ですか。 これに、興味はありますか- 健康に。 さて、あなたたちはみんな、目覚めます! 健康とは、何ですか。 常なる葛藤、抗争が、あるとき、 健康な組織体が、ありえますか - 生物学的な有機組織が、です。 お互いの間に、 一つの意見が、別のへ対立していて、 一人が、他の人たちの欲望に対して、自分の欲望を十分に表現するとき、です。 この常なる格闘、緊張、葛藤 - その中に、人間たちは生きますが - それは、健康に寄与しますか。 いいえ、と言わないでください。 そのときそれは、それらが不健康の要因である、という意味です。 心因性の病気、です。 これらを理解されますか。 で、知的な健康が、ありえますか。 そして、健康的な情動が、ありえますか - ロマンチックな感傷癖と、それら、 不健康へ導くものではなくて、です。 あなたが、これらに付いてきておられるのかどうか、私は知りません。 で、私たちは、きわめて深く探究しなければなりません - 健康的であるとは、本当にどういうことなのか。
27:27 この探究は、あなたが死の床で、 死へ到ろうとしているときだけではありません。 あなたが、きわめて若いときからずっと、 探究しなければなりません- または、中年であっても、 老いていても、です。 語り手がそうであるように、です。 健康とは何ですか。 健康は、エネルギーを、含意しています- ものすごいエネルギーを、です。 私たちは、そのエネルギーを、消散します - 葛藤をとおし、 緊張をとおし、あらゆる種類のタバコ、飲酒をとおして、です。 その事柄すべては、ご存じです。 「食べ物への熱狂」にならずに、 「食べ物への熱狂」 - それが、どういう意味かを、ご存じですか。 食べ物について、熱中する。 自分の食べるものにのみ、関心を持ち、他には、何も持たない。 食べ物への熱狂にならずに、 頭脳が、単一の葛藤もなく、生きられるのかどうかを、見出す。 それは、どの種の情動的な緊張や、 知的な緊張もない、という意味です。 これらを理解されますか。 私たちが話しているとき、あなたは、そうしていますか。 または、ただ聞いて、同意しているだけで、 おそらく一日の終わりに、あなたは、それについて、考えようとするでしょう。 質問を理解されますか。私たちはともに、こうしていますか。 いかに、不健康がもたらされるかを、見る - 心臓病と、その他すべてが、です。 仮に、私は、自分は大いに知的である、としましょう - ほとんどの人々は、そうではありませんが、 仮に、自分は大いに知的である、としましょう。 知能と呼ばれる、頭脳の部分を、使っているだけです - すなわち、新しい観念、新しい表現、 その新しい表し方、新しい概念を 発見することに、関心を持っているだけで、 自らの存在全体、生物学的と他の生き方を、 軽視するもの、です。 完全にそれに捕らわれている。ですね? そのとき、それは、当然、健康に影響します。 自らが、大いに情動的、ロマンチックで、感傷的であるなら - ほとんどの人々は、そうですが - それもまた、様々な形の葛藤を、もたらします。 それが、不健康の効果をもたらします。 健康は、エネルギーを、意味しています - ですね? 薬物をとおして、ではなく、アルコールをとおして、ではなく、 ああ、私は、これらばかげたことを、説明しなくてはいけませんか。 ですが、いかなる葛藤もないとき、 ものすごい健康が、あるのです。 私たちは、自由があると、言いました。 私たちは、話をしました - 健康とエネルギーについて、です。
31:50 知的なエネルギーが、あります。ですね? 彼らが月にロボットを置いたとき、知的なエネルギーが、あります - それは、ものすごい知的なエネルギーを必要とします。 理解されますか。 怖ろしい武器すべてを、考案するには、 大きな知的な能力とエネルギーを、必要とします。 いいですか? それ自体で、情動的なエネルギーが、あります。 おそらく、知能により、かすかに修正されていますが、 私たちが感傷的、情動的であるとき - 一種の・・・醜い卑俗な感傷癖、 それもまた、エネルギーを剥奪します。ですね? 私たちはここに、一緒にいますか。 あなたがそうなのか、私たちがそうでないかを、私は知りません。 私は自分自身に話していないことを、願っています。
33:05 で、まったく消散されないエネルギーとは、何ですか - 消散され、むだにされない。 なぜなら、これを理解することは、重要であるからです - エネルギーの性質、すなわち、大いに智恵があり、 大いに推理する能力があり、 大いに分析し、見つめ、観察できる能力があり、 自己批判的に気づき、 ゆえに、常に、動きの中で、どの障害をも、取り除いている。 それは、大変多くのエネルギーを、必要とします。 人々は、純粋に・・・純粋に、ではない。 その半物理的なエネルギーは、使えません。 そうね、あなたたちは、世の中でそれらを、豊かに持っています。 彼らのエネルギーは、制限されています - 当然です。 彼らのエネルギーは、すべての思考を、制御します。理解されますか。 私が言っていることを、理解していますか。 私は、愚かなのかもしれませんが、 私は、ものすごいエネルギーを、持っています。 正しいと私が考えること -それは、私を駆り立てます。 そういう人々が、世界中に、見られます - とてつもない量のエネルギーを、もっています。 そして、きわめて、きわめて利巧な人々 - 彼らのエネルギーは、計算、その他すべてに、注がれます。 さて、葛藤によってか、葛藤をとおして、汚染されていない、 汚されていないエネルギーが、ありますか。 これらを理解されますか。 いいですか? 私たちは、ここに一緒にいますか - 少しは? そのとき私たちは、探究しなければなりません - 私たち人間は、なぜ 自らの進化の、過去四万年か五万年の間 - それは、生物学者と考古学者が、言っています。 すなわち、私たちはこの地上に、両足で歩く人間として、生きていましたが、 なぜ、その時から、今まで、 私たちは、永続的な葛藤、抗争の中にいるのか、です。いいですか? なぜですか。 それは、同意と不同意ですか。 それを見てください。 私は、何かに同意しますが、あなたは、それに不同意します。 葛藤の始まりが、あります。 私は、一定のことを信じています - 語り手、または自分は、理想を信じています。 相手は信じていません。 即時に葛藤です。 自分は好きですが、相手は好きでない。 自分は、わずかな者を保護しますが、 わずかな者は、他のみんなと対立しています。 お互いの関係には、葛藤があります - 男、女。葛藤です。 そして、導師と弟子との間には、葛藤があります。 これらに注目しませんか。 弟子は、導師のようになりたいと思います。 それは、どんなに、ばかげているのか。 ですが、導師自身が、たぶんかなりばかげています。 で、この永続的な闘争、葛藤が、あります。 自分は、何かへ取りすがります。 自分自身を、その何かと同一視します。 そして自分は、どんなつけを払っても、抵抗します。 男と女の間に、性的な葛藤が、あるだけではなく、 また、各人間、女と男や、 男と女の子などなど、 各々が、自分なりの形で、色々と表現したいと思います。 彼は野心的ですし、彼女は野心的です。 ゆえに、葛藤があります。 いいですか? なぜ、私たちは、このように生きますか。 それは、無量のエネルギーのむだです。ですね? ですが、なぜ私たち、人間は、経験、知識、戦争、苦しみ、 永遠の心配などの、この長い継続の後、 なぜ私たちは、このように生きますか。 私たちは、こんなに利巧ですし、 こんなに多くの知識を持っていて、 学識がありますが、 なぜ、私たちは、このように続けてゆきますか。 どうぞ、この質問をしてください。 見出すのを待たないでください。 それを訊ね、要求してください。 見出すように、裏に熱情を秘めてください。 それは、私たちの頭脳が、葛藤をとおして進化したのですか。 いいですか?自然との葛藤、 空中での葛藤、あらゆる物事での葛藤、です。 で、私たちの頭脳は、それが慣習になったのです。 慣習となったので、頭脳は、それが生きる道である、 それが前進する道である、と言います - もしも競争が、なかったなら、 前進は、ないだろう、と。 それで、一定の環境の中で生きることが、慣習となり、 慣れてしまった頭脳は、 それが生きる道である、と言います。 あなたは、その立場にいますか。 あなたは、そこに座り、「まあ、私はこれに慣れている」と言いますか。 そして、それに慣れているから、あなたは、それを合理化します。 「ええ、自然の中では、あらゆるものが、格闘する」と言います。 「小さな木、小さな植物は、光に向かって格闘している。 虎は鹿を殺す」と。 いいですか? 「だから、それは、私たちの自然な本性の一部だ」と。 暴力的であること、葛藤の中にいること、 互いと戦争をしていること、 ゆえに、はるかに大きな意義のある戦争。ですね? 私たちは、そのように生きてきました。
41:45 歴史的に、五千年の間、戦争があったのです。 実質的に毎年、戦争があったのです。 私たちは、戦争の状態に、生きています。ですね? あなたは、「それは自然だ」と言います - 「私たちは五万年の間、そうしてきた。いいんじゃないか」と。 政治家たちは、これにより利得を得ます。ですね?
42:22 で、私たちは、互いに訊ねています。 唯一つの葛藤もなく、生きることは、可能ですか。 で、そこから、私たちは探究しなくてはいけません - なぜ私たち人間は、問題を持っているのか、です。 問題は、葛藤という意味です。 ですね? なぜ私たちは、問題を持っていますか。 なぜ頭脳は、問題を受け入れますか。 頭脳自体が- 理解されますか。 私は、何かを訊ねようとしています。 どうぞ、聞いてください。 私はちょうど、それを発見しつつあります。 頭脳自体が、問題の状況にありますか。 ヴザヴェ・コンプリ?(理解しましたか) 頭脳自体が・・・ 私たちは、航空機と競争しないでしょうね! 頭脳自体が、問題に捕らわれていますか。 頭脳自体が、 進みつつある活動すべてとともに、 その頭脳自体が、問題ですか。 理解されますか。 やれまあ。この騒音が止まるだろうことを、願います。 私たちの頭脳は、子ども時代より、条件づけられます。 あなたは、学校へ行きます。 あなたは、数学に解答する問題、どう書くのかの問題を、持ちます。 かわいそうな小さな子どもは、学校へ行きますが、 書くことが、問題になります。 ここは小さな国ですが、 これらの騒音が、あります。 私たちは、頭脳自体が、問題であるのかどうかを、訊ねています。 質問者は、頭脳の一部です。 理解されますか。 「頭脳が問題なのか」と言う質問者 - 質問者もまた、頭脳の一部です。当然です。 ですが、質問者は頭脳に、訊ねています - なぜあなたは、葛藤の中にいますか、と。 それは、こう言います - 私は、子ども時代から、問題を解決するよう、訓練されてきました。 私は、子どもの頃、学校へ行っていました。 彼らは私に、書き方を教えてくれましたが、それは、私にとって、問題になりました。 そして、読み方 - その読むのが、どんなに快かろうと、それもまた、問題になってきました。 なぜなら、私は初めに、Aが何を意味するか、 それがどう見えるかを、知らないからです。 で、私は学校、専門校、大学を通って行きます - 私が運がいいなら、です。 知識を取得するその動き全体は、どの専門分野においても、 私の頭脳を、条件づけてきました。 で、頭脳は、問題解決の機構です。 理解されましたか。 「問題(プロブレム)」という言葉は、 あなたに投げつけられた何かを、意味しています。 問題は、あなたへの挑戦を、意味しています。 子ども時代から、かわいそうな子どもに、何かが投げつけられます。 いいですか? 彼は、ABCを学ばなければなりません。 彼は、数学などを、知らなければなりません。 で、頭脳自体は、問題を創り出し、 問題を解決しようとする機構に、なってきました。 これを理解されますか。さあ、どうぞ、動いてください。ええ?
49:05 で、自分は、何をすべきですか。 いいですか? 頭脳は、頭蓋骨の内側にあるものは、 問題を創り出す機構であるなら、です。 そうなのです。 数学の問題、技術の問題、 男と女の間の問題、政治での問題、 汚染での問題。いいですか? 有毒物質すべての保管所すべて- よろしいですか。 過程全体 - それが、すべて問題になりつつあります。 問題は、頭脳ゆえに、生じてきたのです。 いいですか? ちょっと待ってください。私たちはさらに進もうとしています。 それで、頭脳が、問題に対して、責任があります - そして、それら問題の解消に対して、です。ですね? 私たちは、この事態について、明らかですか - 幾らかは? 私は、もっとそれに、入らなくてはいけませんか。 あなたは、私に、もっとそれに入ってほしいですか。 なぜですか。 それは、単純でしょう。
50:37 宗教的に、それを見てください。 あなたは、キリスト教徒として、訓練されてきました - 信仰を持つように、です。 救い主と信仰。 そして、それはすべて戯言であると言うのは、仏教徒です。 それは、西洋の司祭者たちの創案でである、と。 たぶんそれは、真実です。 彼らは、救い主といったものは、ないと、言います - 仏教徒は、です。 または、信仰を持つとかは、です。 彼らは、「疑え、問え、探究しろ。 けっして受け入れるな」と、言います。 で、二つが、あります。 キリスト教徒は、「それはすべてごみだ」と、言います。 教皇は、信仰が重要だと、言います。 私の家族、私の教育は、カトリックだったのです。 それで、私はプログラムされています。 アラブ人がプログラムされているように、です。 コンピューターのように、などです。いいですか。 で、私たちの頭脳は、一つの形の、プログラムされたコンピューターです。 私たちがそうであるように、頭脳が、プログラムされるとき - 言語的に、宗教的に、 きわめて、きわめて多くの問題でもって、です - 頭脳は、「私は疲れている」と言います - 「私は考えられない。あなたが、それについてすべてを、私に語ってくれ」と。 それが、ここで起きつつあることです。 で、あなたの頭脳は、次第に萎みつつあり、 次第に萎縮していきます - すなわち、問題でもって、です。 クリシュナムルティは、何かを言いますが、それは問題になったのです。
53:15 で、頭脳は、問題より自由でありえますか。 理解されますか。 すなわち、生には、諸問題があります。 それは避けられません。そうなのです。 ですが、問題を持たない頭脳でもって問題に出会うこと - 理解されますか。 少なくとも、私の発言を理解されますか。 あなたは、語り手の前に、問題を出します。 彼の頭脳もまた、問題で満ちているなら、 彼は、あなたの問題を解決し、 その中から、もっと多くの問題を、創り出すでしょう。 いいですか? あなたは、それに注目したことが、ないですか。 それが、政治家たちがやっていることです。 経済的な問題は、専門家たちにより解決されますが、 他の専門家たちが、やってきて、「すみません。 それはすべて間違っている」と言います- ですね? などなどなど、です。
54:27 で、あなたが、機械的な頭脳でない頭脳を、 持ちうるのかどうかを、見出すこと - 問題を解決している機構でない頭脳を、です。 それは、何も問題を持っていない、という意味です。 それは可能です。私は、それを一分後に、お示ししましょう - あなたが、気をつけてそれに入るなら、です。 あなたが時を理解するときにのみ、それは可能です。
55:15 私たちが言いましたように、時は、過去、現在と未来です。 そのすべての時、すべての過去、現在と未来は、 今に、保たれています。ですね? 理解されますか。 問題は、未来を意味しています。 分かりますか。 さあ、みなさん。 理解されますか。 どの問題も、それの解消を、含意しています - すなわち、未来にあるものを、です。 いいですか?そういうわけで、 すべての時が今であることを、理解することが、とても重要であるのです。 それの美しさを、ごらんください。 で、あなたは、問題を出します。 問題が、あります - 幾つもの問題が、あります - 私は知っています。私は気づいています。 私が行く所すべてに、私が行く様々な学校に、です。 自分が出会う様々な政治家、自分が出会う科学者たち - 彼らはみんな、訊ね、要求し、問うています。 あなたの頭脳もまた、問題、心配、不安定さで満ちているなら、 あなたの答えは、彼らのと同じく、ごたまぜになるでしょう。ですね? それで、私たちは、訊ねています - 頭脳は、問題より、自由でありうるのかどうか、です。 そして、その自由の本性を理解するには、 あなたは、時を探究しなくてはいけません。ですね? すなわち、何もない・・・ 今は、未来を持ちません。 今は、未来にあります。ですね?これを理解されるのかと、思われます。 で、どの問題も生じますが、 解決は、時を意味しています。 ですね? ゆえに、あなたは、きわめて明らかに理解するなら - 私は、きわめてゆっくりと、それに入ろうとしています。 私もまた、進みながら、学んでいます。 これは、魅力的です。 一息、つかせてください。
58:06 幾つも問題が、あります。 生は、問題を持っています。 なぜなら、人間たちは、 こんなに頑固で、傲慢であり、 自尊心に満ちているからです。 私は、これをしてきた。 私は、それに拘ろう。 それらは、問題を創り出します。 語り手は、それらに出会わなくてはいけません。ですね? もし彼もまた、問題で満ちているなら、 彼はそれを、めちゃくちゃにするでしょう。ですね? で、問題から自由であるとは、時への探究を、含意しています。ですね? なぜなら、問題とその解決は、本来的にその中に、時を含意しているからです。 いいですか?私は、問題を持っています。 私は、それについて考えなければなりません。 私は、それについて議論するでしょう。 私は、それに入るでしょう。 私は、それについて、本を読むか、 導師に相談するでしょう。 よろしいですか。 そのすべてが、進んでいます。 で、問題とその解決は、本来的にそれ自体が、時なのです。 明らかですか。
59:33 そのとき私たちは、以前に言いました - 時は、今に収容されている、と。 問題と時との間の関係を、見てください。 それが見えますか。 ゆえに、私が出会うどの問題も、時を持ちません。 それは、即座に解決されなければなりません。 これを理解されましたか。 それは、意味合いとして・・・ 私は進めてもいいですか。 あなたが、語り手のように、わくわくなさっていることを、望んでいます。 なぜなら、彼は、何か新しいことを、毎回、発見しつつあるからです。 それは、問題の知覚、という含意です。 あなたの先入観に沿ったり、あなたの判断に沿ったり、 あなたの意見に沿ったりなどの知覚ではなく、 あなたの頭脳でもって、心でもって、 あなたの存在全体でもって、知覚するのです。 ですね? 見ること - その中に、歪曲はありません。 動機がある瞬間、歪曲があります。 で、動機、方向づけを片付けてしまい、絶対的に、ありのままに知覚する。 そして、解決を遅らせるのを、一秒間も、許さない。 これを理解されますか。あなたがこれを理解されるのかどうかと、思われます。
1:01:29 ごらんください。 男と女の間に、問題があります。 他の問題は、あります。私はただ、その一つの問題を、取り上げているだけです。 男と女。 彼らは、けんかをします。 これは、関係に起きる不幸なことの一つです。 彼らは、けんかをしますが、何についてかは、誰にも分かりません。 地上の、あらゆる些細な小さなことについて、です。 彼らは、けんかをします。 彼らはけっして、けんかを、解決しません。 理解されますか。彼らは、続けます。 それが耐えがたくなって、 彼らの一人が、「すまない。もう出て行ってくれ」と言うまで、です。 それにより彼らは、自分は問題を解決したと、考えます。 それから、彼らは、別の男や女と結婚し、 ゲーム全体を、再び始めます。 あなたたちは、みんな、これに親しんでいるにちがいありませんね。 そういうわけで、あなたたちはみんな、これに同意しているのです。分かります。 で、これは進んでいきます。
1:02:51 さて、もしも、男や女が、時の本性を理解したなら - それの真理を、です。 理解されますか。 すなわち、けんかが進んでいくのを、見る - 葛藤が進んでいくのを、です。 そして、見る、知覚する。 あなたはそれを知覚します- 即座に、原因を、です。 そして、即座に、原因を取り除きます。 なぜなら、あなたは、時が、問題の解決に介入するのを、 まったく許していないからです。 これを理解されますか。 さあ、どうぞ。 これは幾らか、明らかですか。 すなわち、時が、生で最も重要なことになるとき - それの理解です。 その単なる言語的な叙述、 それとの同意だけではなく、 あなた自身が、それの真理を、深遠に見るのです。 そのとき、頭脳にとって、まったく問題がありません。 あなたは、問題を持つかもしれませんが、 問題に出会う頭脳のみが重要です。 あなたがいかに、問題へ接近するのかが、です。 もしあなたが、すでに問題への解決を持っていて、 問題に接近するなら、 それは、解決可能ではありません。 ですね? あなたは、自分の様式に沿ってそれを解決します。 ですが、あなたが、何の偏見もなく、 何の心配の感覚もなく、それに接近するなら - あなたは、時の深さと強さと活力を、理解するとき、 それをできるだけです。 それは、いいですか、明らかですか。 で、あなたの頭脳は、
1:05:12 もはや、言語的な制御、言語的なイメージの 奴隷ではなくて、 自由の本性を理解したのです - 本当の自由を、です。 その中には、何かより離れてしまうとの感覚が、何もありません。 あなたが、離れてしまうなら・・・たとえば あなたが、心配より離れてしまうなら、 その動きは、時です。 ゆえに、その動きは、安全に見えるかもしれません - 安全だ、と。 が、その動きは、本来的にそれ自体が、不安定さです。 いいですか?それを分かりつつありますか。 これは、あまりに知的にすぎますか。いいえ。 それは、ほんの常識です。
1:06:27 で、自由を探究する、 健康とは何かを、探究する。 なぜなら、あなたは、健康的でないなら、自由を持ちえないからです。 なぜなら、それは、あなたを妨害するだろうからです。 私は、麻痺しているかもしれませんが、それでも私は、健康的です。理解されますか。 私は、はっきりと見る目を、一つだけ持っているかもしれませんが、 それは、私を、私の健康を、阻止しません。 健康は、この常なる葛藤によって、破壊されます - 達成、成功、野心、 不安定、混乱、生の痛みすべてによって、です。 そして、エネルギー。 けっして消散しないエネルギーです。 理解されますか。 おしゃべり、論争、自分がしてきたことへ取りすがることによって、です。 「これは正しい。私はそれへ拘ろう」と言う。 理解されますか。 エネルギーは、常なる動きを、含意しています - 何か新しいことを、常に発見することを、です。 テクノロジー的に、ではなく、心理的に、です。 それで、あなたの頭脳は、とてつもなく活動的になり、 そのエネルギーを消散しないのです。 あなたは、そのエネルギーを持つとき、問題を見つめられます。 理解されますか。 そして、時を理解するのです。 それらはすべて、ぴったり収まります。 それらはすべて、まとまります。 それらは、分離していません。 理解されますか。 それは、一つの長い着実な動きです。
1:08:36 また、私たちは、ともに話し合うべきです - なぜ、人間たちは傷ついているのか、 心理的に負傷しているのか、 なぜ人間たちは、自らの関係において、 けんかをするのか、などです。 今朝、そのための時間があるとは、私は思いません。 今、12時まで20分です。 で、私たちは、今朝、止めて、 木曜日の朝に、継続してもいいですか。 それで、だいじょうぶでしょうか。