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SA84T3 - 思考と分割的な過程。
第3回公開講話
スイス、サーネン
1984年7月12日



0:19 ありがたい。少し涼しいです!
0:41 私たちは、一昨日、話していたことから 継続してもいいですか。 私たちは、自由について話していました。 そして・・・ 私は忘れてしまいました! 私たちは、自由とエネルギーと、時について、話していたと、思います。
1:42 私たちは今朝、ともに考慮すべきです - 頭脳の能力とは、何ですか。 頭蓋骨の内側にある頭脳。 その頭脳は、きわめて気をつけて保護されています - 様々な骨の層、 空気、さらに骨、それから水、 で、それは、きわめて気をつけて保護されています。 語り手は、脳の専門家ではありません - ありがたい! ですが、頭脳がいかに作動するかを、自分自身で観察してきました。 頭脳は、とてつもない能力を、持っています。 テクノロジーの世界で、いかに発達してきたのかが、示されているように、です。 彼らは、テクノロジーの分野で、 信じがたいことをしています- コンピューターと、 世界中で起きつつある、信じがたい、 信じられないテクノロジーの物事すべてです。 内的に - 私は、静脈、骨、動脈、肝臓と心臓、 それら、という意味で、言っていません。 内的に、心理的に、私たちはきわめて制限されています。 それは事実です。 四万五千年か、それ以上の後で、 私たちはやはり、心理的、内的に、かなり原始的です。 私たちの頭脳は、信じがたい能力を、持っていますが、 心理的に、きわめて制限されています。 ゆえに、私たちは、テクノロジーの世界を、誤用しています - そして、人間たちがもたらしつつある発明すべてを、 無限の害をするため、また大きな善をするために、です。 ですが、心理的に、私たちは頭脳の能力を、 内的に、放置してきました。 ビャン?(いいですか)なぜですか。 どうぞ、私たちが先日言いましたし、もう一回、反復しなければなりませんが、 私たちは、ともに観察しています。 客観的に見ています - 単に、主観的に、先入観をもち、意見をもち、 一定の教義、信念、結論に取りすがるだけではなく、 ともに、きわめて詳しく観察しています - なぜ、心理的な世界、 すなわち、全平野- 思考、 情動、感受、 恐れ、楽しみ、喜びと、 人が通ってきた、計算不可能な苦しみの平野全体。 なぜ内的に、私たちはこう制限されていて、 自分自身に関心を持っているのか - 自分の前進に、 自分のいわゆる進歩に、 自分の野心などに、です。 私たちはともに、それの制限が、見えますか。
6:37 どうぞ、私は、この質問をしています。 それをともに、考慮しましょう。 心理学、精神の区域は、思考の平野に、あります - そして、思考が掲げてきた投影すべて、 イメージ、想像、象徴、神話と、 人間たちが子ども時代より受けてきた、様々な傷、 人が四万五千年の間、抱えてきた恐れと、 関係における楽しみ、 性的なのも、他の形での楽しみも、 そして、関係の痛み。 そしてまた、 個人的な苦しみだけではなく、人類の苦しみ、です。 人はまた、何かがあることを、考えてきました。または、望んできた、 願望してきた、願ってきました - 単なる物理的な活動以上の何か、 より大きな何か、神聖である何かが、です。 人は、時が始まってから、これらすべてのものを、探し求めてきました。 私たちは、いまだに、手探りしています。 私たちは、いまだに、探し求めていますどう逃避するかとか、 どう理解するかとか、どう、檻(おり)、牢獄を解消するか - 頭脳が、心理的に捕らわれているところを、です。 私たちは、互いに理解しあっていますか。 なぜ私たちは、それに注意を払ってこなかったのですか。 なぜ私たちは、制限を破ってしまい、 内的に、頭脳のとてつもない能力を、見出さないのですか。 なぜですか。 それは、私たちがいつも、安全を探し求めてきた、ということですか。 外面的にも、内的にも、です。 なぜなら、安全は、必要であるからです。 さもないと、頭脳は、自らの優秀さを発揮できません。ですね?
9:59 で、物理的に、外面的に、 私たちは、或る種の安全を、見つけてきたのです - 家族の中での安全、共同体の中での安全、 より大きな共同体の中と、民族性、国籍の中での安全。 物理的な、心理的な安全が、あったのです - 私たちは探し求めてきました。 それは、明白な事実です。 なぜなら、私たちは朝食を摂っていなかったなら、 食べ物を摂らず、衣服を着ていなかったなら。 とうてい、きわめて明らかに考えたり、無私に行為したりできません。 で、安全は、物理的に必要です。 それは、民族性、国籍、民族主義により拒否されつつあります。 なぜなら、それは、戦争を生み出すから- その原因の一つであるからです。 フランス、ロシア、イギリス、スイス - 許してくださるなら、ですが、 ベルギー、アメリカ、インドと、その他すべての事柄です。 それは本当に、一つの形の部族主義です- 私たちはみんな、それを知っています。 そして、心理的、内的に、 私たちは関係に、安全を探し求めました。ですね? どうぞ、私たちは、ともに考えています。 あなたはただ、語り手に聞いていて、 ただ何か観念を受け入れたり、拒絶しているだけではなく、 気をつけて、頭脳の機能、 複雑な思考を、観察しています。 生きることの過程全体を、観察しています - 外的にも、内的にも、です。
12:19 私たちは内的に、安全を探し求めてきました。 神を、私たちは創り出してきました。 思考が、創り出してきました。 あなたは、それに衝撃を受けるでしょうか。 思考が、それを創り出してきました。 思考が、様々な儀式を、組み立て、まとめてきました - 様々な教義、信念、信仰、儀式を、です。 これは、宗教すべての共通の要因です。 そして、思考は、心理的に安全を見つけなくて、 神の概念を投影しました - 古代(ギリシャ、ローマ)の日々より、ジュピター、ゼウスより、です。 アジア人たちは、自分固有の古代の神々を、持っていました。 心理的な安全といったものが、そもそも、ありますか。 質問を理解されますか。 自らは、他の一人に従う - 特に、いわゆる・・・ 語り手は、「霊的」というあの言葉が、好きではありませんが、 いわゆる「霊的な」世界で、自らは、安全を探し求めます。 導師に従い、様々な伝統的な概念に、従う - カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教、仏教、イスラム教、 そしてまた、導師。 そして、知識における安全- いいですね? 技能における、様々な形の活動における安全。 慰めて、動揺させて、破壊的ですが、 これらすべての手段をとおして、安全を見つけようとします。 頭脳は、とてつもない安全が、必要です。ですね? さもないと、それは、明晰に機能できません。
14:55 それで、問いますが、物理的な安全は、別として - それも、ゆっくりと拒否され、破壊されつつありますが - 心理的な安全が、いったいありますか。 いいですか? どうぞ、よく気をつけて、それを究明しましょう。 なぜなら、私たちのほとんどは、自らの関係において、 或る種の安定、或る種の安心が、ほしいからです - 家で寛ぐ感覚が、です。 住宅の中で、ではなく、内的に、寛いでいること - 誰かと、男、女とともに、 または、何か象徴でもって、何か概念でもって、です。 または、キリスト教徒は、そうなのでしょうが、信仰に、です。 なぜなのか、それが何を意味するかは、神しか知りませんが、 彼らは信仰に、安全を見つけます。 アジア世界では、特にインドでは、 疑いが、彼らの宗教の主要な教説の一つであったのです。 すなわち、自らは、まさに最高の権威を、問わなければならない、 疑わなければならない、と。 で、その疑い、問い、探査する中で、 きわめて深く、そうしてきたなら、訊ねます - いったい安全が、ありますか。 質問を理解されますか。 物理的な安全は、持たなければなりません- それは理解されています。どうぞ・・・ それは、民族主義をとおし、戦争をとおし、 分割をとおして、破壊されつつあります。 国際連合(連合国)と呼ばれる、独特のものが、行われつつあります。 それは、用語の矛盾です。 国々は、連合できません。 それらはいつも、分離的、分割的です。ですね? それらはけっして、連合できないし、ゆえにそれらは、いつも戦争をしています。 もっと多くの軍備を得ている、などなど、です。 私が、それらに入らなくてもいい。 私たちはみんな、それを知っています。 誰も、「これらを止めよう」と言うように、思われません。 宗教は、それを奨励します- この分割を、です。 カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー教、仏教と、 私にとっては、そのすべての戯言が、です。 この分割、分割的な過程は、 世界中で進んでいますが、 それが、大きな葛藤、抗争をもたらしつつあります。 内的にもまた、私たちは、分割的です。 私たちは、人間として、砕けてしまっています。ですね? 断片化していて、けっして全体的、全包括的ではありません。 そして、自らが、もっと深く探究しはじめるなら、 いったい安全が、ありますか。 自らは関係に、安全を見つけようとします - その「関係」という言葉を、見つめましょう。
19:11 関係とは何ですか。 関係していること、接触していること、 もう一人との意思疎通を、完全にしているので、 分割的な過程が、進みつつないこと。 理解されますか。 この関係は、何ですか - 世界中で、ほぼあらゆる人において観察されるように、 それは、常なる葛藤です。 結婚した人々や、結婚していない人々に、 私が、そう言うことは、正しいのでしょうか。 私たちがみんな、少なくとも、それについて同意するのが、 私は、うれしいです。 語り手は、うれしいです。
20:24 なぜ、この分割が、ありますか。 頭脳は、安全を探し求めています。 けれども、その頭脳こそが、分割を創り出しています。いいですか? それは、思考ですか。 思考が、関係に、分割を創り出していますか。 いいですか?
21:00 そのとき私たちは、思考とは何なのかを、きわめて深く、探究しなくてはいけません。 あなたたちの幾人かは、語り手が思考の動き、思考の起源を 説明するのを、聞いたことがあるかもしれませんが、 彼らは、語り手が言うのを、前におそらく千回、聞いてきたことを、 脇に置いて、新たに始めてくださるなら、ですが、 思考の起源は、何ですか。 思考は、テクノロジー的に、最もすばらしい世界を、創り出してきました。 いいですか? 信じがたいことを、思考は、してきました - 医療、外科手術の世界において、ホメオパシーにおいて、いいですか? 兵器を生産することなど、コンピューターにおいて、です。 私たちは、コンピューターについて少し後で話すでしょう。 それは、大いにおもしろい!
22:19 思考はまた、分割を創り出してきました - あなたと私、妻と私の間に、です。 よろしいですか。 この分割の過程全体は、生をとおしてずっと、進んでいます。 思考が、それの原因ですか。 どうぞ、気をつけて、見つめてください。見出しましょう。 思考が、この分割的過程の原因であるなら、 私たちは、はるかに深刻な質問を、しなくてはいけないでしょう - 思考はいったい、一つの区域において、完全に機能できるが - 物理的な世界において、日常的な世界において、です - 心理的な世界では、完全に終わられるのかどうか、です。 ヴザヴェ・コンプリ(理解できますか)?私が言っていることを、理解されますか。 私たちは、見出そうとしています。 ゆっくり行きましょう。
23:32 私が言語を学ぶとき、思考が機能しています。 私が学ぶとき、自らが様々な技能を学ぶとき、 自らがスキーをするとき- いいですか? 様々な船を建造するとき、思考はそこで、とても活動的です。 思考はまた、心理的に、とても活動的です。ですね? 私たちは、訊ねています- 思考は・・・ どうぞ、聞いて、これに注意を払ってください。 あなたがよろしいなら、あなたが、あまりに疲れていないなら、ですが、 思考は、この分割的な過程の起源ですか。 キリスト教の神、ヒンドゥー教の神、イスラム教の神、などなどなど、です。 神は、一つの神でなければなりません - いいですか - そもそも、神であるには、です。 ですが、思考は、その哀れなやつを、分割してきました!
24:53 で、よく気をつけて探究しましょう - 思考とは何ですか。 なぜ思考は、私たちの生において、こんなにとてつもない役割を、果たしますか。 そして、考えるとは、何ですか- それは思考と同じです。 考えるとは、何ですか。 記憶がないのなら、あなたは - 自らは考えることができないでしょう。 明らかですか。 それは、記憶喪失の状態でしょう。 で、記憶は、思考にとって必要です・・・ ここは、小さな国です。 思考は、記憶の応答です。 記憶は、蓄積された知識から出てきたものです。ですね? 知識は、経験をとおして集められます - いいですね? 科学的な世界でのその知識は、 ちょっとずつか、一足跳びに、集められます。ですね? 常に蓄積しています。 その知識は、経験に基づいています。 経験は - どうぞ、気をつけて、ともに、それに入ってください。 経験は、制限されていますか。 いいですか? いったい、完全な経験が、ありえますか。 その言葉「経験」は、どういう意味ですか。 私はただそれを、声に出して、考えているだけです。 経験する - あなたは、車を運転しているなら、 自らは車を運転していて、事故があるなら、それは経験です。 その経験から、あなたは、学んできました。 自らは、もっと見守るよう、学んできました - 道路すべて、300ヤード先などを、観察するよう、はるかに多くを、です。 さて、私たちは訊ねています - 経験は、制限されていますか。 そして、経験している経験者は、誰ですか。いいですか? 神様!
29:45 この質問をすることは、かなり重要です。 私たちはみんな、経験したいのです。 あなたが若いとき、 性的な経験です。 あなたは年を取るにつれて、宗教的な経験です。 そして究極的に、啓明の経験です。 または、あなたがそれを、どう呼びたいと思うにしても、です。 さて、経験している経験者は、誰ですか。いいですか? 質問に、付いてきていますか。 自らは、働き、実践します -一定の形のいわゆる冥想を、です。 それは、冥想ではありませんが、私たちは後で、それに入るでしょう。 来る日も来る日も、来る日も来る日も、それを実践する。 彼は、その過程において、一定の想像力豊かな状態や、 何か幻影を、経験しつつあります。 そして、経験しつつある経験者が、あります。 さて、経験者は、誰ですか。 経験者は、彼がしようとしている経験より、異なっていますか。 質問を理解されましたか。 私は - 自らは・・・私は、私自身で通しましょう。 私は、神を経験したいと思うなら、 または、聖なる状態を、です。 どうぞ、私はそれを、貶していません。 私は、冷笑的になっていません。 その神、その啓明、啓明の概念 - 思考がそれを、投影してきました。ですね? 私は、思考が差し出してきたものを、経験したいのです。 何が起きつつあるかを、見てください。 私は、何かを投影します。 それから、その何かを経験します。 いいですか。 これは明らかですか。 すなわち、私は、何か想像上の神を、投影します。 私は、働き、実践します - 思考が創案してきた、その神の境地を、達成するか、経験するために、です。 で、私は、きわめて明らかでなければなりません - 経験者は誰ですか。 いいですか? 確かに、経験者は、すべての蓄積された記憶です。ですね? 蓄積された知識、です。 彼が、何かを経験するとき、彼がそれを認識しなければなりません。 さもないと、それはまったく経験ではありません。ヴザヴェ・コンプリ(理解されますか)? 彼が認識するなら、彼はすでに、知っています。 これらを理解されますか。 で、かくして、経験は、きわめて、きわめて制限されます。ですね? 科学的な世界では、 知識が、少しずつ、少しずつ付け加えられます。ですね? または、ここ百年の間に、それは、飛躍してきました。 ですが、それは、やはり制限されています。 ゆえに、完全な経験はけっして、ありえません。 なぜなら、経験は、いつも制限されているからです。 明らかですか。 私たちは、理解しますか - それは、言語的な説明ではなく、それの事実、真理を、です。 すなわち、経験者は過去です。 その経験者は、どの種類の経験をも、するとき、 彼はそれを、何か自分が経験していることとして、認識しなければなりません。 それは、彼は、前に起きていたことを、すでに知っている、という意味です。ですね? で、経験は、いつも制限されています - 神の経験でも、 特定のキリスト教の神や象徴や人物の経験でも、 自らの神々をもったアジア世界においても、です。 どの種類の経験も- 科学的なのや、心理的なのも - いつも、制限されているにちがいありません。それは明らかです。 ゆえに、知識はいつも、制限されています - 今でも、未来にも、です。 ですね? あなたが、それを観察するなら、それは、とても明らかです。 で、思考と記憶は、制限されています。 で、思考は、制限されているので、分割的であるにちがいありません。 何でも制限されているものは、分離的であるにちがいありません。ですね?
35:47 私は自分自身について、考えているなら- 私の前進、私の野心、 私の達成、私がいかにすばらしいのかとか、 私がいかに愚かなのか、などについて、です。 私自身について考えることは、きわめて小さな事柄です。 ですが、その小さな事柄は、拡張できます - 私は、「私は宇宙・万物について考えている」と言います。 それは、やはり制限されています。ですね? で、思考は、どの分野で、何をしようとも、 テクノロジーの世界でも、心理の世界でも、 制限されているにちがいありません。 ゆえに、その行為は、いつも制限されるでしょう。ですね? それは、なかなか・・・
36:41 で、思考の、時への関係は、何ですか。 いいですか? あなたは、その質問をしていますか。 私は、それを訊ねています。 私たちは、時は、過去、未来と現在であると、言いました - 今に収容されている、と。 いいですか? それは、明らかですか。 思考と時は、過去です - 過去の記憶、過去の知識、過去の経験であり、 頭脳に、記憶として蓄えられています。 そして、未来は、その記憶より、投影されます。 その未来は、今です。 ですね? それは明らかですか。 いいえ、そうではないと思います。
37:47 私たちは、過去の結果です。 ですね? 明白です。 生物学的にも、長い進化の期間をとおして、 そして、心理的にも、です。 私たちが持っている、蓄積された記憶すべて、です。 いいですか? で、過去は、記憶です。 ですね? 未来は、過去の記憶より、投影されます。 で、未来は、すでに過去です。なぜなら、それは、過去の一部であるからです。 未来は、過去の一部です。 いいですか?明らかですか。いいえ?
38:52 ごらんください。それをはるかに単純にしましょう。 私は、すべての私の記憶です。 ですね? 私は、すべての私の記憶です。 私は、記憶です。 たとえ私が、私は神だと、言うとしても - 内的に何かがある、と - それはやはり、記憶です。 で、私の存在全体が、記憶です。 あなたが、それに論駁するか、それに同意しないだろうことは、知っていますが、 事実を見てください。 記憶を持たないなら、あなたは、ありません。 ですね? で、あなたは、記憶の束全体です。 その記憶、それら記憶は、未来を投影します- 「私はそうでなければならない」、 「私はそうであってはならない」、「私は暴力的であってはならない」と。 で、それは、過去の、未来へ向かう動きです。 ですが、その未来は、現在です。 私はこれを、つづけられません。 いいですか?
40:20 で、現在、今は、すべての時を、収容しています。 さて、思考の、時への関係は、何ですか。 理解できますか。 私たちの頭脳を使うことが、必要です - ただ眠り込んで、誰かがあなたへ、それについて、すべてを語るのではない。 私たちは、私たちのどちらも、行為しています。 私たちの頭脳の能力を、行使しています。 私たちは、質問をしています。 私たちは、よく気をつけて、時とは何であるかを、 互いに説明してきました - 時の動き全体が、今にあります。 私たちはまた、思考の本性を説明してきました。 思考の、時への関係は、何ですか。 ヴザヴェ・コンプリ(理解されますか)?それらはどちらも、同じではないですか。 で、思考は時です。 すなわち、私は、知識、経験を持つために、時が必要です。 で、時と思考は、一緒にあります。 それらは、分離した動きではありません。ですね? 私たちは、これが事実として、見えますか - 或る人物により説明された観念として、ではなくて、です。 私たちは、それが事実として、見えますか。 あなたが持っていることを、抽象化して - 事実から観念へ - そして、観念を追求するのではない。 ヴザヴェ・コンプリ(理解されましたか)? 私たちは、一つの講話に、あまりに多くを、入れすぎていますか。 タンピ(まあ、いいか)。 なぜなら、これを理解することは、重要であるからです。 時は、思考より分離していますか。 または、思考が時ですか。 もちろん、そうです。 で、何が起きるのかを、見てください。 思考が時であり、思考が今であるなら、 思考が時であるなら - 私たちは、思考は時である、と言いました。ですね? そのとき、関係は何ですか。 理解されますか。 自らの、他の一人との関係は、何ですか。 私たちは、それに、違った接近を、するでしょう。 私たちは、生きます。 生は、関係です。 関係なしに、生はありません。 大地への関係、水へ、 あらゆる物事へ、自然へ、 大地のすべての物事へ。 私たちは、それに関係しています。 私たちは、女や男と、はるかに親密に関係しています。 その関係には、葛藤があります。ですね? 男は、自分の野心を追求します。 男は、自分の充足を、性的にと他の形で、追求します。 女も、同じことをします。 ですね? 彼らはおそらく、性的に出会いますが、すべての時に、分離しています。 何が、この分離を、もたらしてきましたか。 私たちは、思考が、と言っています。 いいですか? それは明らかです。 で、どうぞ、気をつけて、これに付いてきてください。 私たちは、思考は時である、と言いました。 男と女の間などの、この分割は、 思考により、もたらされています- 愛ではない。
45:52 で、その問いへ、入らなくてはいけません。 とても多くがありますが、その問いへ、です。 愛とは何ですか。 愛は、時ですか。 それへ入ってください。 働いて、見出してください。 愛は、時ですか。
46:17 愛は、思考ですか。 あなたが誰かへ、「私はあなたを愛している」と言うとき - 私は、あなたが本気でそう言ってほしいと、望みますが、 その愛は、表現ですか。 または、あなたの自己充足より出てきたものですか - それが、性的であっても、その他であっても、です。いいですか? すると、では、なぜこの分割が、ありますか。 私は、愛の問いへ、さらに入らないでしょう - あなたが望まれるなら、私は今、それに入るでしょうが。 神様!すでに、11時20分です。 よろしいです。 それに入りましょう。 愛は、思考ですか。 思考の動きですか。 理解されますか。 それは、こういう意味です - 愛は、時の産物ですか。 どうぞ、気をつけて、あなた自身の中で、それを見守ってください。 または、愛は、楽しみですか。 楽しみは、生において、とてつもなく重要になったのです - 娯楽、スポーツの産業全体、 宗教的な娯楽、ですね? そうね、教会 - あなたは、娯楽で楽しむために、そこへ行きます。 新しい種類の感動を得るために、です。 で、愛は、思考、時、楽しみですか。 そして、愛は、欲望ですか。 愛は、所を持っていますか・・・ いえ、思考は、愛に所を持っていますか。 はい、進んでください。 思考が、愛に所を持っているなら、 その愛は、制限されています。 制限されているものは、葛藤を創り出すにちがいありません。ですね? これは、論理的です。 健全さです。
49:05 で、あの香りを持つことは、可能ですか - 愛と呼ばれる、あのとてつもないものを、です。 それは、自らの生における、大いなる炎です - このすべての苦労なしに、 このすべての分割なしに、です。 理解されますか。 それは、自らが、きわめて、きわめて深く理解するか、 即座に知覚しなくてはいけない、という意味です - 思考、時、楽しみと欲望の本性を、です。 いいですか? それらは、すべて、相互に関係し合っています。 それらは、分離したものではありません。 思考、時、楽しみ、欲望は、一つです。 それらは、相互に関係し合っています。ですね?
50:21 で、あの香りを捉えるには、 それが、自らの生すべてに、留まるには- 何も分割なしに、です - 欲望を、理解しなければなりません。 いいですか? 欲望は、私たちのほとんどにとって、とてつもなく重要です。 神への欲望、新しい家への欲望、 自分が一緒に、もっとうまくやってゆける、誰かへの欲望、 もっと多くの富への欲望、もっと大きな平和への欲望、 そうね、欲望です。 私たちのみんなの中で、猛烈に、燃えさかっているものです。 欲望は、私たちの生において、きわめて顕著であったのです。 思考のように、です。 そして、様々な宗教は、 「欲望を抑圧しなさい」と言ってきました。 あなたが、修道院、僧院へ入るとき - あなたは、修道院へ入っていたことが、ありますか - あなたたちの誰かは? 私は、一個所へ入っていました。 語り手は、一個所へ入っていました。 それは、大事なことではありません。 そこでは、修道院、僧院の中、 そして、何の組織もなく、地上を彷徨っている僧侶たちの中では、 彼らは、欲望を持っています。 欲望は、危険なものなので、 彼らは、「女を見るな」と言います - 「神に傾倒するだけにしろ」とか、あなたが傾倒するのが、何であっても、です。 人はいつも、欲望を抑圧しよう、制御しよう、形作ろうとしてきました。 いいですか? 若いとき、あなたは、何かばかげた小さなことを、欲望します。 それから、年を取るにつれて、あなたは、地位、権力、お金、身分を欲望します。 あなたは、はるかに年を取るにつれて、そのとき、何か平和を欲望します。 そのとき、あなたは、不滅を欲望します- そういうものがある、としてですが。 そのとき、あなたは、死の恐れより、闇より、逃避したいと欲望します。 生の始まりから、生の終わりまで、 自らは、欲望により苦悶します - その楽しみでもっても、です。ですね? そして、私たちが言いましたように、愛は、欲望ですか。 愛は、楽しみですか。 楽しみは、自らの欲望の充足に、あります。 私は、車を欲望します。 それを得るとき、私は幸せです。 私は満足しています。 全くそうでもない。なぜなら、私は、もっと大きな車が、ほしいからです! などと、です。 欲望は、その充足において、満足をもたらします。 その満足、満悦より、 大きな楽しみの感覚が、あります。ですね? 私たちは、自分の欲望を十分に表現するために、 想定可能なことすべてを、やってきました - それは、自由と呼ばれます。 あるいは、別の極端へ行き、欲望を抑圧します。 これが、人の、常なる動きであったのです。 いわゆる霊的な世界においても、 外部世界においても、です。 欲望の拡張と収縮です。 今、私たちは、見出そうとしています - 欲望の起源、始まりは、何ですか。 私たちは、私たちは抑圧しなければ、とか、 充足しなければならないとか、言っていません。 私たちは、しようとしています- しようとしているのではない。 私たちは、欲望の動き全体を、観察しています - まさに始まりから、まさに終わりまで、です。いいですか? 欲望とは何ですか。
56:31 私は、あの列車が通り過ぎるのが、聞こえます。 そして私は、あなたが言っていることを、聞きたいと思います。 私は、あの列車が、あんなに大騒ぎせずに、 すばやく動き、去ることを、欲望します。ですね? すなわち、騒音が聞こえる。 あの騒音から、感受。 そのとき、その感受より、欲望は、「どうぞ、私はあの列車が、 そんなにしょっちゅう通り過ぎないだろうことを、願う」と言う。 さあ、来ました! 聞こえるのは、感受です - 気持ちいいのか、よくないのか。 それが、気持ちいいなら、私はそれを、保ちたいと思います。 それが、気持ちよくないなら、私はそれを、押しのけたいと思いますが、 それはやはり、感受です。 いいですか? その感受は、必要です。 さもないと、私は聾唖です。 で、感受があります。 そのとき、思考が入ってきて、「私は、列車がしょっちゅう 通り過ぎなかったらいいのと、思う」と言います。 理解されますか。 感受は、正常で、健康的で、自然です。 そのとき、思考は、イメージを作り、「それが起きなかったら、いいのに」と 言う。または、それに起きてほしいと思う。 で、思考が、感受を形作ったり、制御したり、それに意図を与えるとき、 その瞬間に、欲望が生まれます。 それは、明らかですか。 私たちは、この事態について明らかですか。 すなわち、あなたは、男であるなら、女を見ます。 それを、あなたはよくよくご存じです。 または、あなたは、大きな権力、地位、身分に就いている誰かを、見るなら - あなたは、彼を見ます。 そして感受が、そこにある。 見ることは、感受です。 そのとき、思考が来て、 「私が、あの権力、あの地位を、持っていたならいいのに」と言う。ですね? 思考が、イメージをとおして、感受に形を与えるとき、 その瞬間に、欲望が生まれます。 明らかですか。
59:51 さて、私たちが言いましたように、感受は、正常で、健康的で、自然です - 自らが麻痺して、聾唖で、まったく反応がないのでなければ、です。 さて、それは正常です。 そのとき、思考が即座に来ます。 その感受に、形を与えます。 その瞬間に、欲望、です。 さて、どうぞ、これを見守ってください。 感受と思考は・・・ 思考は、緩やかであり、感受を捉えないでいられますか。 質問を理解されますか。 理解されますか。 いいえ、神様! 語り手は、働いていますが、あなたは、そうではない。
1:00:59 私は、美術館へ行きます - 私はめったに、そうしたことが、ありません。 なぜなら、樹々の美術館、山々のほうが、 世界のどの美術館より、はるかに美しいからです。 あなたは、美術館へ行って、絵画を見ます - すばらしい絵画です。 あなたは、その美しさを見ます。 そのとき、思考は、「何ともまあ、私がそれを持てたらなあ」と言います。 「私は、自分の部屋に、空間があるところに、それがほしいな。 私は、それをそこに掛けておいて、毎日、それを見たいな」と。 あの絵を見ることは、正常ですが、 思考がそれに入るとき、欲望が、それを所有するよう、生まれます。 さて、感受と思考は、しばしの間、別に分けておけますか。 質問を理解されますか。 そこで、あなたは、ものすごい鋭敏さが、必要です。 いいですか? これらを別に分けておく。 それは、鋭敏さが、自らの大きな修練を持っている、という意味です - 順応の、服従の従うこと、実践することの 修練、規律ではなくて、 その、感受を見ることは、必要ですし、正常です。 欲望は、思考の動きです。 これら二つを、別に分けておく。 あなたは、そうするなら、 思考がいかにとてつもなく速いのかが、分かるでしょう。 あなたが見る瞬間、思考がそこにある。 で、ものすごく鋭敏であること。 で、思考と感受は、別に分けておかれています。 そのとき、抑圧も、充足もありません。 その鋭敏さだけが、あります。 その鋭敏さ、その見守り、 それの強烈さは、それ自らの修練です。 理解されますか。 「修練(ディシプリン)」という言葉 - それは、「学徒(ディサイプル)」という言葉から、来ています。 学徒は、学ぶ人です。 学ぶ - 師匠が言っていることを、学ぶのではなく、学んでいる。 あなたはそれを理解されるのかどうかと、思われます。
1:04:00 私たちは、学びについて考えます - あなたは、これらに入りたいと思いますか。 私は、進むでしょう。 それは、あなたしだいです。 学びは、とてつもない機能です。 知識の蓄積だけではない。 理解されますか。 あなたは、学校、専門校、大学へ、行きます。 もしあなたが・・・または、工場で、です。 そこで、あなたは、知識を蓄積しています。 また、あなたは、自分自身について、知識を蓄積しています。 あなたは、「私は記憶です」と言うとき、 あなたは、それを学んでしまったし、それを反復します。ですね? ですが、学びは、何か全然違ったことです。 あなたが行き詰まっている瞬間が、けっしてありません。 で、いつも動いています。 それにより、頭脳は、とてつもなく活動的になります。 知識は、関係において、 最も破壊的なものであるかもしれません。 これを捉えておられますか。 なぜなら、知識があるところ - 「私は妻を知っている」 - 何と、ひどい言いぐさですか。 あなたがそう言うとき、それは、あなたが結論に到った、という意味です - あなたは、彼女についてイメージを築いてきたのです。 そして彼女は、あなたについて、イメージを築いてきたのです。当然です。 あなたが、「私は妻を知っている」と言うとき、 その知識は、分割的な要因になります - あなたと妻との間で、です。 で、それは、きわめて根源的な疑問を、喚起します。
1:06:26 頭脳は、あらゆる物事を記録する機能を、持っています。ですね? 記録する。 あなたはそこに、座っています。 語り手は、この上に、座っています - 権威のためではなく、ただ、便宜のために、です。 演壇は、彼に権威を与えません。 私は、あなたたちに、物語をしなければなりません - かなり、おもしろいです。 私たちは、インドに、ボンベイにいました。 或る導師の数人の弟子たちが、私たちに会いに来て、 こう言いました - 「あなたは、彼に会わなければなりません。 彼は、とてつもない人です。 彼は達成しました。 彼は、あなたに会いに来てほしいんです。 私たちは、彼に会いに来るよう、あなたを促します」と。 私たちは、「すみません。 私は、導師を追いかけて、 出かけていきません」と言いました。 私は、もっと礼儀正しかった。 三日か四日の後、彼らは、来るように、導師を説得しました。 私たちはたまたま、二インチほどの厚さの敷物の上に、座っていました 五十センチメートルとか、それ以下ではなくて、です。 彼が入ってきたとき、私たちは、当然、立ち上がり、 彼に敷物を、勧めました。 彼は、そこに座り、脚を組んだ姿勢を、取りました。 そして、あの小さな高さゆえに、権威になりました! 理解されますか。 ヴザヴェ・コンプリ? それが生です。
1:08:17 で、私たちが言っていましたように、 関係における知識は、本当に、大変危険な要因です - すなわち、関係を破壊するものです。 あなたは、彼女について、イメージを築きます。 彼女は、あなたについて、イメージを築きます。 あなたが、そのイメージを持って、彼女が、そのイメージを持っているとき、 彼女は知っています - 「私は夫を知っている」と。 あなたもまた、反復します -「私は妻を知っている」と。 で、自らは - どうぞ、これに付いてきてください - 自らは、関係において、唯一つもイメージを創り出さずに、生きられますか。 それを見出すには - それが可能であるのか、ないのかを、です - 記録するこの過程全体を、 はるかに深く探究しなければなりません。 理解されますか。 頭脳は、記録しています。 今、頭脳は、あなたが聞いているなら、言われつつあることを、記録しつつあります。 関係において、記録する過程が、進んでいます。 彼女は或る日、私に、「あなたは馬鹿よ」と言います。ですね? それが、記録されます。 それは、印影を残してきました。 それは、私を傷つけてきました。 または、或る日、彼女は、 「あなたはずっと、すばらしかったわ」と言います。 そうね、「ダーリン、あなたは昨日、私にとてつもなく すてきだったわ」と。 それは、記録されます。ですね? で、私たちの頭脳は、外的にも、内的にも、記録しています。 そのとき、問いはこうです - 物理的に、一定の物事を記録するが- 理解されますか - 心理的に、何一つ、記録しないことは、可能ですか。 すなわち、自分の妻が、「あなたは、ひどい人ね」と言うとき、 それを記録しないのです。 彼女が、「あなたは昨日、私にすごく親切だった」とか、 「あなたは私に、こんなに楽しみを与えてくれた」と言うとき、 記録しないのです。 いいですか。 それで、頭脳は、記録しています - 物理的に、日常生活で、必要なとき、です。 そして内的、心理的に、けっして記録しないのです。 そうです!その記録は、知識です。 その記録は、イメージです - あなたと私、彼らと我ら、彼女と私や、 私と彼を、分離するもの、です。 理解されますか。 さて、その記録は、関係において、けっして起こりえませんか。
1:12:06 もう止める時間ですが、 これらを聞くことは、何になりますか。 あなたは、これらより何を学びますか。 あなたは、聞いて、去って行き、古い様式を反復しますか。 そのとき、聞くことの価値とは、何ですか。 あなたは、強烈さをもち、見出したい、 違った種類の生を生きたいとの熱情をもって、聞くのか。 あなたは前に、間違ったことをしてきたかもしれません。 あなたは、他の一人へ、何か害を加えてきたかもしれません。 悔恨、罪悪、その他すべて、 それは去ってしまい、それとともに生きない。 で、そうね、熱情的に見出すには - あなたが、お金をほしいように、あなたが、セックスをほしいように、 あなたが、空腹であるように、あなたは、ものすごく活動的です - この記録が終わりうるのかどうかを、 あなた自身で見出すように、です。 それで、あなたと私の間、あなたの妻とあなた自身の間に、 何の葛藤もないように、です。 分割的であるのは、この記録です。 記録が、私です。自己です。 そして、冥想は、その記録が終わること、 - 理解されますか - 全的に終わることです。 脚を組み、眼を閉じて座り、或る種の芸当をすることではない。 それはすべて、戯言です。 これには、甚大なエネルギー、熱情が、必要とされます - それは、自らのものすごい修練を、もたらします。 それは、学ぶ、という意味です。
1:14:56 12時まで15分です。 止めてもよろしいですか。