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SA84T4 - 無秩序を今、終わらせること。
第4回公開講話
スイス、サーネン
1984年7月15日



0:22 木曜日に止めたところから、継続してもいいですか。 残念ながら、彼らはみんな、そこに立っておられます。 見たところ、隙間がありません。 テントを拡張しますか。 それは今朝はできません。 それは、来年になるでしょう。
1:02 私たちは、自由について話していました。 私は今朝、再び、それらに入らないでしょう。 なぜなら、私たちには、あと二回だけ、講話があるからです。 で、私たちは、他の幾つものことに、入らなくてはいけません - たとえば秩序です。 秩序、無秩序の本性は、何ですか。 そして、変化するとは、どういう意味ですか。 私たちはまた、今朝、考慮すべきです - 恐れとは何なのか、 この地上に、五万五千年以上の間、 生きてきた人間たちには、 可能なのか・・・ なぜ人間たちは、けっして恐れから自由でなかったのか、です。 また、私たちは、ともに話し合うべきです - 苦しみの問い全体、 悲しみ、心配、さびしさの痛みと、 人間たちが引き継いでいる無数の苦労すべてについて、です。 私たちはまた、次の二日間、話し合うべきです - 愛とは何なのか、 慈悲と、智恵の本性は、何なのか。 また、私たちはともに、話し合うべきです - 死とは何なのか、宗教とは何なのか、 そして、冥想の本性について、です。 私たちは、及ぶべき地盤を、たくさん持っています。 それで、だいじょうぶですか。
3:22 で、私たちは、今朝、始めるでしょう - 秩序の本性とは、何ですか。 もう一度、ご注意を申し上げていいなら、 私たちは、どの種の宣伝もしていません - どの理論、 どの概念、新しい哲学をも宣伝したり、 これらの代わりに、 信仰などを代替したりしていません。 これはまた、個人崇拝ではありません。 また、ご注意を申し上げていいなら、 疑いが必要です。 あなた自身の経験を、疑う。 あなた自身が考えるのを、疑う、問う - あなたの意見、あなたの判断、あなたの評価を、です。 私たちは、世界と私たち自身を、全面的に非個人的に、 客観的に見つめられるのかどうかを、です。 それで、私たちは、物事をありのままに、見るのです - 私たちが、それらにあってほしいように、ではない。 そして、語り手は、権威ではありません。 なぜなら、私たちは、ともに議論しよう、話し合おうとしているからです -この秩序と権威や無秩序の問題について、です。 それらは、相伴います。 秩序の本性とは、何ですか。 私たちは、無秩序の中に生きます - 外的に、外面的にも、 世界で起きつつあることすべてとともに、です - 平和のためのデモ行進すべてと、 同時に、人類を破壊する新しい手段を 育成し、準備し、開発しています。 政治的な分割、宗教的な分割、 経済的な分割などが、あります。 で、外的に、この分割をとおして、何千もの戦争が、あったのです。 宗教は、この分割に、付け加えてきました。 そして、内的に、心理的に、心理の区域においてもまた、 私たちは、葛藤の中にいます。 で、私たちは、ともに話し合うべきです - なぜ、これらすべての幾千年の後、 なぜ私たちは、受け入れて、無秩序の中に生きるのか、です。
7:22 それは、問うことが重要な疑問です - 自らは、完璧な秩序の中に、生きられるのかどうか、です。 それを深く理解するには - 表面的に適応し、配置し、再組織するのではなく、 はるかに深く、なぜなのか。 葛藤、分割の原因は、何なのか。 なぜ人間たちは、幾千年に幾千年もかけて、 進化してきたと思われていて、 その頭脳、頭蓋骨の中にあるものは、 なぜ、まさにその中心に、こんなに無秩序が、あるのか、です。 矛盾があるところ、無秩序が存在します。 ですね? 私たちは、ともに話し合っています。 分割があるところ、 二元性の過程が、あるところ - 対立する要素、対立する欲望、 矛盾した思考が、です。 私たちが生きるところの、この分割 - あなたと私、我らと彼ら。 この分割は、無秩序の基礎的な原因です。 いいですね? 私たちは、これが見えますか。 単に言語的にとか、知的にだけではなく、 実際に、私たち自身の中で、 対立しあう、矛盾した追求を、見る。 愛があるところ、 見た目にまた、敵対、憎しみ、嫉妬が、あります。 自らが、平和に生きたいと思うところ、 私たちの中にまた、その対極があります - 暴力です。 人は、生きてきました - 人間たちは、この地上に、常なる暴力とともに、生きてきました。 私たちは、人間として、暴力的な、攻撃的な人々です。 見たところ、私たちは、暴力の問題を、一度も解決したことが、ありません。 たぶん私たちは、自らが暴力的であることに、気づいてすらいません。 私たちのほとんどは、そうあるべきですが、私たちは、気づいているなら、 暴力の対極であるものを、追求します。 それは、非暴力と呼ばれます。 それは事実です。 暴力は、何の対極をも持ちません。 それは暴力です。 たとえ、思考が、「私たちは、非暴力を追求し、 平和的に生きなければならない」と言っても、です。 で、私たちの中に、二元的な過程が、進みつつあります。 同意しますか。私たちはともに、これが見えますか。 私は暴力的です。 私たちは、暴力の本性へ入るでしょう。 同時に、私は理想を持っています。 私は、その理想を追求します - すなわち、私は暴力的であってはならない、と。 または、私は、自分の暴力を、合理化します。 今あるような世界では、それは必要だ、と言います。 社会的に、道徳的に、宗教的に、など、 私たちは暴力的でなければならない、私たちは攻撃的でなければならない、 私たちは野心的でなければならない。 さもないと、私たちは、滅ぼされてしまうだろう、と。 それが、暴力の一つの様相です。 また私たちは、同時にこう言います - あなたがそもそも、起きつつあることに、わずかでも、気づいているなら、 同時にか、おそらく少し後で私たちは、また、 暴力的でない追求が、なければならない、と言います。 で、私たちの中に、いつの時も、この二元的な過程が、進みつつあります。 ですね? 私たちは、これが見えますか。 いいですか? これに同意されるでしょうか。 同意する、ではない。 それの事実を見るのです。
13:48 ここに、何人か子どもがいるのは、うれしいです。 子どもたちを見るのは、とてもすてきですよね。 子どもたちを見るのは、美しい。 不幸にも、教育をとおし、 腐敗した道徳社会をとおして、彼らはそれへ、引き込まれます。 否応なく、教育をとおし、 社会的、経済的な環境をとおして、 彼らは破壊されます。 たぶん親たちは、これらを知っています。 彼らもまた、絶望しています - 親たちも、 自分たちの子どもたちが、 生の始まりに、とてもすてきで、やさしかったのに、 彼らが次第に暴力的になり、集団に順応するのを、見る - そして、生の悲惨すべてが、始まります。 それは、別の事柄です。 すなわち、子どもたちへのすべての圧力と生の醜さなしに、 彼らを教育することは、可能ですか。 社会は、あまりに強いのです。 彼らは、そこに吸い込まれます。 なぜなら、私たちは、 社会は、何か私たちより違ったものであると、考えるからです。 理解されますか。 あなたは、これらを見るとき、泣きたいです。 社会は、私たちがそこから作ってきたものです。 私たちの一人一人が、です。 社会は、私たちより、異なっていません。 なぜなら、私たちがそれを創り出してきたからです。 それは、奇跡的に生じてきたのではありません。 何かふしぎな偶然が、この社会をもたらしてきたとか、 それは、事実ではありません。 事実は、私たちの一人一人が、こんなに混乱し、不安定であり、 私たちの一人一人が、自分の安全、自分の充足を、 自分の野心を、探し求めているということです - 自分の特定の楽しみ、欲望を、満足させたいとの自分の衝動を、です。 私たちが、この社会を、創り出してきました。私たちは、それによっています。 私たちは、悟るように、思われません。すなわち、 私たち、私たちの一人一人が、根本的に、深く変化しないのなら - 私たちは、今すぐ、それについて、話すでしょう - 社会は、今あるように、進んでいくのです。 殺人的で、分割され、戦争を創り出す。 きっとあなたたちは、テレビの映像を見てきたと、私は思います - 戦争がもたらしてきた、恐ろしいことすべてについて、です。 ですが、見たところ、私たちは、むしろ、それらへ無頓着です。 なぜなら、内的に、私たちは、今あるように、続けていくからです - 混乱し、矛盾し、断片化しています。 それで、私たちは、世界で進んでいることの恐怖に、 いつも寄与しています。
18:43 私たちは、秩序について、話していました。 そして私たちは、言いました。 無秩序の原因は・・・ - それは、秩序ではなく、事実が何であるか、です。 で、私たちは、事実を取り扱わなければなりません。 事実は、私たちが、私たちの一人一人が、無秩序の中に生きる、ということです。 この無秩序の原因は、何ですか。 それは、私たち自身の中の分割ですか。 私たち自身の矛盾ですか。 私たち自身への関心、ですか - 私たちは、そんなに自己中心的ですが。 私たち自身の自己中心性は、本質的に無秩序を、もたらしつつあります。 一人一人が、自分自身について考えているとき、 その自己中心的な活動より、生は、とても狭く小さくなります。 そのきわめて制限された頭脳の状態は、 必然的に、分割を引き起こすでしょう。 ですね? それが、無秩序の基本的な原因です。
20:46 私たちは、先日と、幾日もの間、 時の本性について、話しました。 どうぞ、辛抱してください。 私たちは再び、それについて話さなければなりません。 私たちは、時は過去である、時は未来である、 そして、未来は今である、と言いました。 未来は、今のあなたなるものです。 いいですか? 私は今、暴力的であるなら、未来は、明日です。 または、千の明日です。 私は今、根本的に変化しないなら、 未来は今です。ですね? ヴザヴェ・コンプリ(理解しましたか)?このことを、理解されましたか。 どうぞ、私に、自分自身へ話させないでください。 私たちは、これをともに、分かち合わなければなりません。 それは、私の真理とあなたの真理ではありません。 真理は、人物、道を持ちません。 これは、事実です。 これは、真理です - すなわち、すべての時、過去、未来と現在は、 今に収容されているのです。 それは、論理的で、理性的です。 それは、知的に、反論不可能です。 が、あなたは、それが好きでないかもしれません。 私たちのほとんどは、好き嫌いに、生きます。 私たちは、実際に何かに向き合いたくないのです。 私たちはむしろ、物事をごまかすでしょう。 私たちがそうであるように。 私は、私たちが真剣な人々であることを、願っています - 少なくとも、今朝の間は、です。 それは、悲劇です。 少なくとも、今朝の間は、ともにこのことを、見つめましょう。 すなわち、時、過去、現在と未来は、今にあるのです。
23:54 仮に、自分は自己中心的である、とします。 それは、きわめて、きわめて制限されます。 その自己中心性は、それ自体を、より大きな何かと、同一視するかもしれませんが、 それはやはり、自己中心性でしょう。ですね? 理解されますか。 よろしいですか。私と一緒に、来てくださるでしょうか。 私たちは、それに同意しますか。 私が自分自身を、自分の国と同一視するなら - 自分の民族と、自分の宗教と、自分の迷信などと、です - まさにその同一視は、 自己中心性の継続です。 ですね? 私は、一組の違った言葉を、使ってきただけですが、 本質的に、この同一視する過程が、自己中心性です。ビャン(いいですか)? 私たちは、一緒にここにいますか。 いいですか? これは、ふしぎな事柄ですね。 どうぞ、語り手は、何についても、あなたを、説得しようとしていません。 反対に、 疑い、問い、議論してください。 受け入れないで、 検討してください - 批判的な、鋭い頭脳でもって、です。 すなわち、自分は無秩序の中に生きます。 それは事実です。 それは、否定できません。 あなたは、それを覆い隠すかもしれません。 それより逃げ去るかもしれませんが、 私たち、人間は、無秩序の中に、生きます - 憎み、愛し、心配し、安全をほしがり、 不安全があることを、知っています。 なぜなら、私たちは常に、戦争の脅威とともに、 また、死の脅威とともに、生きるからです。 で、私たちは、無秩序の中に、生きます。 時は、その無秩序を、解決するのでしょうか。 理解されますか。 私たちは、この地上に生きてきました。 考古学者と生物学者など、彼らは、 私たちがこの地上に、四万五千年の間、 二足で歩く人間として、生きてきた、と言います。 それらの長い進化の期間に、 私たちは今、私たちなるものです- 葛藤の中、無秩序の中にいます。 時は、その問題を、解決したことがありません。ですね? この長い持続は、その問題を解決したことが、ありません。 で、私たちは、きっと・・・ 私たちは、時を、誤解していたかもしれません。 すなわち、私たちは、さらに四万年を、望みます - 大変多くの知識を取得し、 知識をとおして向上し、 私たちは結局、抜け出すだろう。 葛藤なしに、無秩序なしになる、と。ですね? これを理解されますか。 で、私たちは、時の意味を、誤解してきたかもしれません。 なぜなら、私たちは、時に頼るからです。 私はこうだった、とか、私はこうである。 変化するための時を、私に与えてくれ、と。 私たちは、四万か五万年の時を、持ってきました。 私たちはいまだに、とても原始的です。 で、時の中でのその種類の考えは、間違っているかもしれません。 理解されますか。 それへの新しい見方が、あるかもしれません - この問題全体への、新しい接近が、です。 すなわち、時は、持続ではない。 これからあれへの動きではない。ですね? あなたは、ここから自宅へ行くなどに、時が必要ですが、 心理的に、内的に、 あなたが、心理学をお好きでないなら、内的に、です。 あなたが、それをお好きでないなら、肌の内側、ですが、 私たちは、時を、持続として受け入れてきました - その中で、私たちは結局、 とてつもなく真っ当で、理性的で、健康的で、 葛藤なしの人間として、出現するだろう、と。 時は、それを示してきませんでした。 あなたは、四万年を過ごしてきましたが、 あなたは、さらに四万年、待つのなら、 あなたは、まさしく、同じになるでしょう。 これは、論理的です。
30:35 で、時の意味全体を見つめましょう。 時は、過去です - 私たちの意識の内容全体です。 あなたが、「意識」という言葉が、お好きでないなら、 反応の世界全体です - それは、過去です。 記憶すべてをともなった、過去 - 継承され、取得された、人種的、環境的な記憶、 それらを、私たちは、何千年もの間、集めてきました。 その時、その過去は、今です。 あなたは、過去です。ですね? 同意しますか。 いいですか?あなたは、過去です。 あなたは、蓄積された過去の記憶すべてです。 あなたは、記憶です。 その記憶は、蓄積するために、時が、必要です。 未来、明日と、千の明日は、 今のあなたなるものです。 明らかですか。明白です。 で、未来は、今です。 そして - どうぞ、これを理解してください。 私たちは、葛藤の中に生きますが、 古い時が介入するのを許さないことは、可能ですか - 今、すべての時の、この新しい感覚です。 私が何について話しているのかを、理解されますか。 これを理解できますか。 私は、無秩序の中に生きます - 仮に、私は、無秩序の中に生きる、とします それに、私は気づいてきました。 私は、自分自身に言います - 私は次第に、それに取り組むだろう、それについて考え、それに入るだろう、と。 それは、すべての時、という意味です。 それは、明日です。ですね? 私は、それに取り組み、それに入るだろう。 私はそれを探検し、その原因を見出すだろう。ですね? そのすべては、時が掛かります。ですね? 少なくとも、それに同意してください。その事実を、見てください。 私は、それが、時へ接近する誤った道であることが、分かります。 で、私はそれを、完全に脇に置きます。 それは、私は破っている、という意味です - 事実が、頭脳の条件づけを、破っているのです。 頭脳は、時の古い様式を受け入れてきました。 分かりますか。 これを理解されますか。
34:21 私は、それについて、つづけられません - あなたが、それを理解されないなら、それは、あなたの案件です。 私は、これを反復しつづけられません。 それは、かなり無益になります - 多くの説明の後で、それが、お分かりにならないなら、です。 で、私は、時ということに立った古い考え方を、脇に置いてきたので、 私は今、時を、ありのままに、見つめます。すべての時は、今です。 私は今、完全に変化するのか - それは、頭脳の条件付けを解くことです。 頭脳は、古い時が、慣習となってきたのですが、 私は、それを破ります。 なぜなら、私は、その事実とそれの偽りが、見えるからです。 まさにその知覚の中で、 私は、もたらしてきました - 根本的な変化が、あったのです。 すなわち、私は、まさに知覚の中で、即座に行為しなければなりません。 これを理解されますか。 私は、時なく、行為します。 すなわち、考える過程が、起きません。 ヴザヴェ・コンプリ(理解しましたか)?これは・・・ああ、やれまあ!
35:49 私はそれに、入るでしょう。 あなたが、これに入るなら、それは、とても魅力的です。 時 - 思考は、時です。 ですね? 同意しますか。あなたは、その事実が、見えますか - 思考は時であることが、です。 なぜなら、思考は、蓄積された記憶の応答であるからです。 その記憶は、時をとおして、蓄積してきました。 その記憶は、知識から出てきたものです。 知識を蓄積するには、時が必要です。ですね? あなたは、知識を蓄積するには、時が必要です。 あなたは、注意を払っておられません。 私は、あなたの時間や自分の時間を、むだにしたくありません。 で、どうぞ、よろしければ、注意を払ってください - そうなさりたいなら、です。
37:34 私たちは、記憶を蓄積するには、時が必要である、と言いました。 知識を蓄積するには、時が必要です。 そして、知識は、経験の蓄積から、来ます。 いいですか。経験は、制限されています。 だから、知識は、制限されています。 記憶は、制限されています。 だから、思考は制限されています。 さて、私は、思考は時であると、言いました。 私たちは、今の私なるものを変化させるために、 時を行使するなら - すなわち、思考を、です。 それは、無益になるでしょう。 理解されますか。 ですが、私は見るなら - もし知覚があるなら、 私が見るのではない。 事実への知覚が、あるなら - すべての時は、今に収容されていることへ、です。 そのとき、何が起きますか。 命題を理解されますか。 私は暴力的です。私は、無秩序の中に、生きます。 そして、私はその無秩序を、知覚します。 私はまた、事実、真理をも、見ます -すなわち、すべての時は今である、と。 で、私の知覚は、鋭く、明らかであるにちがいありません。 その明瞭さは、時の産物ではありません。 で、私たちは、知覚とは何かについて、議論しなければなりません。 明らかに見るとは、どういうことですか。 私たち自身を、ありのままに、だけではなく、 また、世の中で起きつつあることを、明らかに、見る。 世の中で、明らかに起きつつあることは、 この分割の伸長です - 諸々の国家、民族、宗教、派閥、導師など、それらの全部です。 政治的に、宗教的に、彼らは平和、統合について話をしますが、 彼らは、それらすべてを、自分の統合へ、加わらせたいのです。 理解されますか。 私は、それらに入らないでしょう。
40:35 で、外的に、この無量の無秩序が、あります。 その無秩序の究極的な表現が、戦争です。 互いに殺し合うことです。 私たちはまた、無秩序の中に、生きます。 その無秩序は、時をとおして、もたされています。 私たちは、それとともに、幾世紀もの間、生きてきました。 で、古い意味での時は、それを解決しようとしていません。 で、知覚とは、何ですか。 あなたは、先入観を持っているなら、何かを、きわめて明らかに見られますか。 明白に、見られません。 いいですか? あなたが、個人的であるなら - 私は傷つきます。どうぞ、私に何も言わないでください。 私の意見は、とても強い。 私は、これを考えぬいてきました。 私は、自分が考えぬいてきたことに、拘ります。 これらすべての要因- 個人的であり、 客観的で明らかではないこと。 それらが、知覚を阻止します。 いいですか? それは、色眼鏡を掛けるのに、似ています。 あなたのレンズ、写真用レンズ - それらは写真を撮り、それをフィルムに写しますが、 フィルムが、画像を保持するなら、 それは、もはや見られません。ですね?それは、もはや写真を撮れません。 これを理解されましたか。 それは、単純な事実です。 で、私たちがすることは、それを保持することです - すなわち、あなたは、もはや見られません。 が、あなたがそれを保持し、見つめ、それを戻して、終了させるなら、です。 それは、あなたが、きわめて明らかで強く活動的な頭脳を、 持たなくてはいけない、という意味です。 それで、個人的な先入観がなく、 何一つへも執着がないように、です。 で、そういう知覚があるとき、 その知覚は、時の要因ではありません。 ゆえに、無秩序があるとき、あなたはそれを、即座に見ます - 原因と、その他すべてを、すなわち、分割を、です。 即時に、それの終わりが、あります。 それは、それが再び継続し、翌日、跳び出てくるだろう、 という意味ではありません。 あなたが、ひとたび危険を見るとき - 毒蛇を、です - あなたは、それと遊び戯れません。 それが、それの終わりです。 ですが、私たちは、危険を見ません。 なぜなら、私たちは、先入観を持ち、私たちは、狭い精神をしているからです。 私たち自身の関心事、です。
44:35 で、無秩序は、明日ではなく、今、終わりうるのみです。 あなたが、そこに座っていながら、自分の無秩序を、観察してください。 あなたはその無秩序を見られるのか、 それを明らかに知覚できるのかどうかを、見てください - その無秩序の分岐すべてとともに、です。 あなたが、それを完全に知覚するとき、それの終わりが、あるのです。 あなたが先入観を持っているなら、あなたが個人的であるなら、 その知覚は、可能ではありません。
45:25 私たちはまた、恐れの問いについても、ともに話し合うべきです。 きっと、これには興味がおありだろうと、思います。 私たちが言ってきたことは、あなたが考慮することかもしれません・・・ 言われてきたことすべては、本当にとても知的だ、と。 あなたが、こう仰るだろうことを、私は知っています。 それは、知的ではありません。 知能は必要です - 情動が必要であるように、です。 ですが、一方が他方を支配するとき、紛糾が始まります。
46:11 で、私たちは、ともに恐れについて、話し合うべきです。 ともに、です。 理解されますか。 ともに探検します - 原因は何なのか、 本性は何なのか、 それは、完全に終わりうるのかどうかを、です。 または、私たちは、残りの人生の間、恐れの中に、生き続けなければなりませんか。 自らがそもそも、気づき、意識しているなら、 私たちは、きわめて多くの恐れを、持っています。 闇の恐れ、生きることの恐れ、 世論の恐れ、隣人が何を言いかねないかの恐れ、 自分の妻や夫、彼女や彼氏への恐れ、 不安全の恐れ、 あなたが、経済的に安全を持っているときの恐れ、 自分がそれを失いかねないとの恐れ、 恐れ - 私たちは、とても多くの恐れを、持っています。 私たちはなぜ、これらの恐れを、解決してこなかったのですか。 あなたたちは、戦争の問題を、解決してきました - それは、戦争を継続することです。 あなたは、戦争の準備をするために、自分の頭脳を適用してきました。 両側や千の側の、多大な将軍すべて - 彼らはみんな、戦争の準備をしています。 計画、潜水艦、航空機、その他すべて、です。 彼らは、それらを生産するために、自分の頭脳を、行使してきました。 なぜ、その同じ頭脳は、適用してこなかったのか。 この甚大な恐れの感覚へ、適用しないのか - 人が、日々の始まりより持っているものへ、です。 なぜですか。 それは、なぜあなたと、私、語り手は、この問いへ、 真剣に入ったことがないのか、という意味です - あなたが、空腹であるとき、野心的であるとき、 もっとお金がほしいとき、とても真剣になるように、です。 あなたは、それを目指して働きます。 なぜ私たちは、この恐れの問いへ入ったことが、ないのですか。 心理学者、療法者たちは、 その原因を、様々な形で説明してきました。 私たちは、もしも、彼らが言ってきたことすべてを、脇に置けたなら - なぜなら、結局それはすべて、彼らが言ってきたことであるからです。 それは、単に言語的であるかもしれません。 彼らは、あなたと同じように、怖がっているかもしれません。 たぶん彼らは、そうなのです! 私は、彼らの幾人にも、会ってきました。 私は、彼らがあなたのように怖がっているのを、知っています - 何らかのことについて、です。 なぜ私たちは、この問いを解決したことが、ないのですか。 そして、恐れを終わらせることは、可能ですか。 私たちは、それに入ろうとしています。 あなたの感情、情動と頭脳を適用して、これを目指して働くだけでなく、 それより逃避しない、それを合理化しようとしないで、 なぜ私たちは、無能力であるのかとか、 自分自身が無能力になるのを許したのかを、見るのです。
51:11 恐れとは何ですか。 あなたは知っています - 恐れがあるとき、その本性、それがいかに沸き立つのか、 自分の身体組織がいかに縮むのか、 自分の頭脳が、いかに乱れて、ほぼ麻痺するのか。 これらを、ご存じないですか。 私は、何か異常なことを、叙述していますか。 それは事実です。それは、あなたの眠りに、影響します。 それは、あなたの日常生活に、影響します。 それは、疑惑、心配、憂鬱を、もたらします。 あなたは、何かへ縋りつきます。 そして、それは変化しないだろう、それは恐れをもたらさないだろうと、望みます。 私たちは、恐れの根を取り扱うのか、あるいは、 恐れの枝を刈り取るのか、ですね? よろしいですか?どちらを、なさりたいですか。 恐れの枝々を、刈り取るか。 どうぞ、真剣に、これを訊ねています。 語り手が訊ねていることを、放置しないでください。 あなたは、恐れの枝々を、取り扱いたいですか。 千の恐れが、あります - 麗しい樹のように。 最も美しいものである樹、地上で最も美しいものの一つです。 それは、多くの枝、多くの葉を、持っています。 同じく、恐れも、です。 それは、とても醜い。 それもまた、多くの枝々、多くの葉、多くの表現を、持っています。 あなたは、それを取り扱いたいですか - 外側の、表現、表面を。 または、私たちは、ともにその根へ、行きますか。 個人的に、語り手は、枝々を刈り取りたいと思いません - それは無益です。 で、ともに、恐れの原因が何であるかを、見出しましょう。 私たちは、恐れの表現すべてを、知っています。 で、私たちは、その根を見出せるなら、表現は、萎れてしまえるのです。 で、恐れの原因や因果は、何ですか。
54:40 あなたに、その質問をするなら- 原因は何ですか、と - あなたは、それに答えるでしょうか - 原因です。 または、あなたは、誰かがその原因を説明するのを、期待しますか。 説明は、事実ではありません。 ですね? あなたは、山のすばらしい絵画を、描き、 世界の美術館すべてに、掛けるかもしれませんが、 その絵画は、その山ではありません。 「恐れ」という言葉は、恐れではありません - ですね? ですが、「恐れ」という言葉は、恐れを喚起するかもしれません。 で、私たちは、叙述、言葉を取り扱っていません。 恐れの深さと強さを、取り扱っています。 私たちは、ともに見出そうとしています - 私が説明し、あなたが受け入れる、のではなく、 ともに、私たち自身で見出すのです。 それで、それを発見するのは、あなたなのです。 ゆえに、それは、あなたの真理です。 他の誰かの真理ではない。 あなたは、他の誰かの真理でもって、生きられません。 あなたは、真理でもって、生きられるだけです。 で、それの原因は、何ですか。 それの原因 - 私は、それに入るでしょう。 それは、思考ですか。 それは、時ですか。 それは、思考ですか。 それを見つめましょう。 私は生きています。 自分は今、生きています。 そして思考は、「私は明日、死にかねない」と言います。 または、「私は、職を失いかねない」、 「私は、銀行にお金を持っているが、銀行は破綻するかもしれない」、 「私は、妻とはだいじょうぶだが、 彼女は、明日、誰かの方を向くかもしれない」、 「私は、本を出版したが、私は、それが大成功するだろうことを、望む」と。 それは、恐れを意味しています。 「私は有名になりたい」と。 それは、世界で最も子どもっぽいことです。 「私は有名になりたいが、 誰かは、すでに私より、はるかに有名だ」と。 で、この考えが、あります - すなわち、私は失いかねないと、考える。 私は、得をするかもしれない。 私は、さびしくなりかねない。 で、考えることが、恐れの要因の一つです。ですね? 私は、自分の友だちと、妻と子どもたちとは、だいじょうぶですが、 私はまた、この絶望的なさびしさの感覚を、 知っています。 経験してきました。 それをご存じないですか。 深く怯える、さびしさの感覚。 そして、私は怯えています。 あなたは、さびしさが何なのか、 なぜそれは、その原因を持っているかを、検討したことが、ありますか。 ご存じでないですか。このさびしさの感情を、お持ちでないですか。 私は、何か異常なことを、話していますか。 何か異常なことを、言っていますか。 はあ? あなたたちは、みんな、聖人にちがいないですね。 で、原因となる、このさびしさは、何ですか - 理解されますか - 何かへの執着、取りすがりの原因になるもの、です - いかに幻影でも、いかに虚偽でも、いかに無意味でも、です。 私は、自分の妻に取りすがります。 私は、自分のクラブ、自分の神、自分の儀式、 自分の友だちに、取りすがります。 なぜなら、私は手放すなら、私は、全くさびしいからです。 あなたは、その問いへ、入ったことが、ありますか。 なぜ人間たちは、さびしさに、こう怯えているのか。 彼らは、集団とともに生きるかもしれません。 彼らは、或る導師に、従うかもしれません。 その他すべての戯言に、ですが、 彼らより、装飾すべてを剥ぎ取ってください。 彼らは、彼らなるものです。 さびしいのです。 なぜですか。なぜ彼らは、そうですか。さびしさは、何ですか。 何とも、何の関係をも持たないこと - 自然とも、他の一人とも、 友だちや女や男 - 私が一緒に生きてきた人と、です。 そのすべてが、どうやら、退いてしまいました。 私は、全く空っぽで、さびしく取り残されています。なぜですか。 この、全くの絶望感は、何ですか。 私は説明するでしょうが、 説明は、事実ではありません。 言葉は、そのものではありません。 それが、きわめて明らかになるなら - 言葉は、そのものではないことが、です。 あなた、スミスさんは、スミスさんではありません。 言葉は、あなたではありません。 あなたが、「私の妻」とか「私の夫」とか言うとき、 それは・・・理解されますか。 あなたが少なくとも、それを理解なさるのが、うれしいです。
1:02:46 で、説明は、実在、真理ではありません。 で、それを見つめてください。 言葉なく、それを見つめましょう。 「さびしさ」という言葉なしに、です。 あなたは、それをできますか。 あの感じを、「さびしい」とか「絶望」とかいう 言葉を使わずに、見つめる。 私たちの日々すべてが、自己中心性に使われるとき、さびしさが、来ます。 自己中心性の活動こそが、 さびしさを、産出しています。ですね? なぜなら、それは、私の生全体、または、 広大な、とてつもない生の存在を、 小さな「私」へ、狭めつつあるからです。 その感情があることを、悟るとき - 「神様、私は何とさびしいのか!」と。 そして、それに向き合う。 それより離れ去るのではなく、完全に、それとともにある。 そのとき、根本的な変化が、あります。
1:04:08 で、私たちは、この恐れの問いへ、戻ってこなければなりません。 私たちは、思考が、恐れの原因の一つである、と言いました。 明白です。 私は、死について、考えています。 なぜなら、私は年寄りであるからです。 または、若くても、です。 または、何か霊柩車が通り過ぎるのを、見ます - すべての花、馬、車とともに、です。 ここは、何と文明化した国でしょうか - 死の雑音すべてとともに、です。 私は、思考が死の原因の一つ・・・いや、 恐れの原因の一つであることが、分かります。ですね? これが分かりますか。 明白な事実ですね? よろしいですか。 さて、また、時も、恐れの要因です。ですね? 私は、何が起きかねないかと、恐れています。 私は、何か自分がしてきたことを、恐れています - それを、他の人たちは、ゆすりとして使っています。よろしいですか。 私は、それを恐れています。 で、時と思考は、恐れの根です。 時と思考。 思考と時の間に、分割は、ありません。 思考は時です。ですね?
1:06:06 さて、問題は、こうです - すみません。私は、「問題」という言葉を、使わないでしょう。 問いは、こうです - 思考は、必要です。 時は、必要です。ですね? ここからそこへ行くには、時が必要です。 思考は、必要です - 車を運転するには、 バスに乗る、列車に乗るには、です。 その水準では、思考は、必要です。時は必要です。 いいですか? 今、私は、言っています - 思考と時は、恐れの根であるので、 思考と時は、必要ですか。 ヴザヴェ・コンプリ(理解されますか)?そこで、それは必要ですが、 心理的に、思考と時は、必要ですか。 いいですか? そうですか。 時と思考は、あなたが必要であると考えるなら - 心理的な世界で、自己の世界で、 心理の世界で、肌の内側の世界で、です - そのとき、あなたは、永続的に恐れの中に、いるでしょう。 いいですか? あなたは、それを知覚するなら、 もし、知覚があるなら - 思考が、恐れの根であることへ、そして、時も、です - 受け入れではなく、知覚がある。 そのとき、思考と時は、物理的な水準では、必要です。 内的に、それは必要でない。 ゆえにあなたは、そのとき見守っています。 あなたは、見守っています。 頭脳は、毎分、活動的に、それ自体を、見守っています - 思考と時が、その領域へ入らないように、見張るのです。 これは、必要とする・・・理解されますか。 これは、大きな注意、気づきを、必要とします。 それで、頭脳は、 幾世紀もの間か、一日の間、 恐れを蓄積してきましたが、 その頭脳は、それがどこで必要なのか、 それがどこで必要ないのかを、見るのです。 ゆえに、それは、鷹のように、見張っています。 それで、思考と時は、 生きる過程全体へ、入ってこないのです。 理解されますか。 これが、真の修練です。 これが、学びです。 私たちが、先日、説明しましたように、 修練・規律(ディシプリン)、その言葉の根本の意味は、 学徒(ディサイプル)です。 学徒は、学ぶ人、 いつの時も学んでいる人です。 彼はけっして、「私は学んできた」と言って、留まりません。 で、頭脳は、いつの時も、それ自体を見守っています。で、それは活動的です。 それで、それが、動いたり、変化したりする時は、ないのです。 何かを理解されましたか。 今、12時まで15分です。 私たちは、止めなければなりません。
1:10:18 そうですね、みなさま、 私たちの困難は、私たちが、たくさんのことを、聞くことです。 私たちは、大変多くを知っています。 私たちは、探求し、訊ね、読んできました。 私たちは、他の人たちの助言を、求めてきました。 私たちは、見出すために、地上を、さすらってきました - それはいったいどうなのかを、見出すために、ですが、 私たちは、けっして自分自身に訊ねません。 私たちは、けっして自分自身に、真剣で深い問いを、要求しません。 私たちは、いつも表面的な質問を、します。 で、私たちは、自分たちの生を、きわめて表面的にします。 ですが、もしも、あなたが質問をしたなら - あなた自身より答えを要求する問いを、です。 それで、あなたは、自分の頭脳、感情を、行使します。 あなたの注意全体が、その問いに、注がれます。 そのとき、あなたは自分自身で、発見しはじめます。 語り手を含めて、誰からも語られることなく、です。 それで、恐れからの自由が、あるとき、 あなたは、神をほしがりません。 あなたは、世の中の誰からも何をも、ほしがりません。 そのとき、あなたは、本当に自由な人です。
1:12:39 私は立ち上がってもいいでしょうか。