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SA84T5 - なぜ私たちは、未解消の問題とともに、生きるのか。
第5回公開講話
スイス、サーネン
1984年7月17日



0:24 私たちは、日曜日に止めたところから、継続してもいいですか。
0:38 私たちは、生の様々な主題と問題について、話してきました たとえば、恐れ、 関係と、 日常生活で、自らが持つ葛藤のように、です。 自分自身に訊ねるなら、 私たちが、いつも問題を持っているのは、なぜですか - 関係の問題、経済的な問題、 社会的な問題、個人的な問題。 私たちは、きわめて多くの問題とともに生きているように、思われます。 私たちはけっして、それらのどれをも、解決できません。 一つを解決する中で、私たちは、 他の多くの問題を、もたらすように、思われます。 私たちは、死ぬまで、多くの主題、多くの未解決の危機などとともに 生きているように、思われます。 自らがそもそも、気づいていて、 そもそも、自分たちの日常生活に関心を持っているなら、 訊ねられますか - なぜ、私たちはこれら問題を、持っていますか。 なぜ、私たちは、こんなに多くの主題、多くの要求、 多くの未解決の問題とともに、 生涯ずっと、生きるのですか。 それは、私たちの頭脳が、問題へ条件づけられている、ということですか。 子ども時代より、学校、専門校、大学をとおして - 自らが、その過程を通っていくならば - あらゆる水準の教育が、 頭脳を、問題へ条件づけてきました - 数学の問題、技能の問題、 自らが通っていく様々な専門分野の問題、です。 それは、私たちの頭脳は、 生のまさに始まりから、 条件づけられている、ということですか。 私たちは、問題を持っています。 頭脳は、問題を解消することへ、条件づけられてきました。ですね? で、私たちの頭脳は、問題へ条件づけられています。ですね? 私たちは、ともに話し合っています。 語り手は、教示していません。 語り手は、情報を与えていません。 で、これは、講義ではありません。 むしろ、私たちは、ともに旅を行っています。 旅を行っています - 私たちが、外的な世界で行ってきたように、だけではなく、 また深く、内的に、心理的にも、です。 その旅を行うには、私たちは、どちらもともに行かなければなりません。 で、あなたもまた、その旅を行っています - 語り手だけではありません。 で、私たちはともに、これらの問いへ、入ろうとしています。 で、語り手は、権威ではありません。 むしろ、二人の友として、 自分たちの生の、きわめて多くの問題について、話し合っています。 それが、私たちがともにしていることです。
7:04 私たちは、なぜ自分たちが、自らの問題のどれをも、 けっして解消したことがないかを、訊ねています。 それは、私たちの頭脳自体が、 問題の解消へ、条件づけられているからですか。 ゆえに、頭脳自体は、問題より自由でないのですか。 問題を解決できるのは、自由である頭脳だけです。 ですが、頭脳自体が、条件づけられていて、 ゆえに、それ自体が、問題になったのなら、 ゆえに、どんな問題が生じても、それはけっして、それらを解決しません。
8:08 私たちは、なぜかを、訊ねています。 なぜ、頭脳は・・・ または、「頭脳」という言葉が、お好きでないなら、 なぜ、私たちの意識は - 私たちは、それについて今すぐ、話をするでしょう - なぜ、私たちの意識は、こんなに絡み合い、 こんなに多くの主題をもつのか。 そして、私たちの意識は、私たちなるものですが、 その意識が、こんなに複雑な実体であるとき、 まさにその複雑さが、何をも解決できません。 いいですか?それは、単純な事実です。 私たちは訊ねています - その意識は、その心理は、 いったい自由でありえますか。 なぜなら、生は、問題を持っているからです。 生は、常に、問題を放り上げています。 頭脳、意識、私たちの本性全体が、自由でないのなら、 私たちはどの問題をも、けっして解消することができないでしょう。明らかですか。 私たちは、互いに聞きあっていますか。 お訊きしてもいいなら、友があなたに訊ねているように、ですが、 あなたはいったい、完全に、全体的に聞きますか - 今、そこに座っていたり、ともに森を歩いていたりするとき、です。 あなたはいったい、全体的に聞きますか。 または、部分的に、だけですか。 部分的に、散漫の状態で 聞いているなら、 あなたは、自らの注意全体を、聞くことへ、注ぎません。 あなたはいったい、自分の妻や夫に、完全に聞きますか。 または、あなたはすでに、彼が言おうとすることや、 彼女が言おうとすることを、知っていますか。 なぜなら、私たちは、彼女や彼などとともに、生きてきたからです。 それで、あなたは、彼女の声や彼の声に、慣れてしまっています - 彼の言葉の使用、彼の反復的な応答に、です。 それで、彼が話しはじめる前に、あなたは、 彼が言おうとすることを、ほとんど知っています。 私たちは、そのようですか。 あなたは、語り手に聞くのでしょうか。 あなたが前に、語り手について聞いたことがある、ということではなく、 あなたは、初めて、彼に聞いています。 あなたは、それを試したことがありますか。 鳥を聞く - 夜や早朝に、さえずっているのを、です。 あなたは、木の葉のささやきを、聞いたことが、ありますか。 あなたは、聞いたり、雲を見つめたことが、ありますか - 青空に浮かんでいるのを、です。
12:54 で、聞くことは、芸術です。 それは、大いなる芸術です。 あなたが、注意深く、十分に聞くとき、 障壁はありません。 なぜなら、そのときあなたは、自らの注意全体を、 聞いているものへ、注いでいるからです。 部分的に聞くことがあるのは、 不注意があるときだけです。 そのとき、あなたと他の一人との間の意思疎通は、止まります。
13:47 で、私たちはともに、聞く芸術を、学べますか。 聞く芸術。 外の耳で聞こえるだけではなく、 また、内的な耳をも聞く芸術です。 あなた自身を、だけではない。 あなた自身の反応、 あなた自身の応答が聞こえるだけではなく、 また、他の一人が言っていることをも、聞くのです。 それで、あなた自身の反応と、あなたに聞こえているものが、合致するのです。 何も分割が、ありません。 それは、学ぶべき、大いなる芸術です。 あなたが、クラシック音楽を聞くとき - ベートーヴェンやモーツアルトやバッハなどを、です。 あなたが、そう完全に聞くとき - 自分が前にそれを聞いたことを、憶えていて、 聞いたときに得たロマンチックな楽しみすべてへ、 戻るのではなく、 今、実際に聞く。 私たちが言いましたように、それは芸術です。 見ることが、芸術であるように、です - 雲、過ぎ去る列車、 大きな雲の美しさを、見る。 美しさへのその全的な知覚が、あるとき、 介入している自己は、ありません。 その問題すべてをもった自己、意識は、ありません。 で、聞く芸術と、 見る芸術が、あるところ - この美しさや、ガタゴトと行く列車の音 - 完全に聞くのです。 そのとき、まったく自己が、ありません。 あなたはただ、聞いています。見ています。 これは、何かロマンチックなことではなく、 あなたは、実際にそうするなら、 それらがいかに単純であるかが、分かるでしょう。
17:09 で、私たちは、訊ねています - あの音を、聞いてください。 あの航空機の轟き。 本当に聞いているとき、あなたはいません。そうでしょう。
17:51 それで、戻りましょう。 私たちは、究明しなくてはいけません。 あなたが、あの航空機を、完全に聞いているとき、 あの音への抵抗が、ありません。 抵抗や、防御的な過程が、あるとき、 自己が生じてきます。 ですね?
19:23 私たちは、問題について、話していました。 そして、頭脳は、問題自体より自由でありえて、 それで、問題を解決するのだろうかどうか、です。 それを理解するには、 私たちは、意識の問いへ入らなければなりません。 意識は - あなたは、その「意識」という言葉を、使いたくないかもしれません。 その言葉に反対する心理学者が、幾人か、います。 あなたが、その言葉に反対するのなら、 反応すべてが、あります - 生物学的、情動的、知的な反応です。 これら反応は、頭脳に登録されています。 頭脳に記録されています。 で、反応は、生物学的な、 すなわち、物理的な、情動的な、知的な、 それらすべての反応は、頭脳に収容されています。 頭脳に記録されています。 あなたは、痛みがあるなら、それは、記録されます。 記録、記憶は、意識の一部です。 その意識は、あなたの信念、 あなたの反応、あなたの信条、あなたの恐れ、 心配、疑惑、憂鬱、 さびしさ、痛み、楽しみ、悲しさと、 想像力豊かなロマンチックな、神、宇宙の概念すべてです。 そのすべてが、あなたなるものです。 いいですか? そのすべてが、あなたの意識です。 で、私たちの意識は、自らの反応と永続的に、葛藤になっています。 いいですか? これに付いてきておられますか。明白です。 私は、それらに入らなくてはいけませんか。
22:48 一つの欲望が、他の欲望に対立しています。 一つの意見が、他の意見に、対立しています。 一つの結論が、後で他の結論へ、変化します。 自らは、一つの信念を、脇に置き、別の信念を、取り上げます。 いいですか? 一つの楽しみと、その楽しみでの退屈と、 別の楽しみを要求すること。 で、私たちの頭脳は、常に、騒動の中にあります。ですね? それは事実です。 誰も、それを否定できません。 で、私たちの意識、私たち、一人一人なるものが、 私たちの意識の内容全体です。 ですね? あなたが学んできたこと、 それが技能であれ、 自らが科学的に蓄積してきたこと、 自らが、知識として、経験として、蓄積してきたこと、 そのすべてが、あなたです。 あなたの魂 - あなたが、魂を信じているなら、です。 または、あなたは、アジア人であるなら、 何か他の形の信念などを、 信じています。ですね? 私たちは、これらの事柄についてはっきりしていますか。
24:50 で、この意識は、何ですか - それは、あなたのとして、特殊化されています。ですね? 質問を理解されますか。 あなたは、言います - 「それは、私の意識です。あなたのではない。 私は苦しむ。 その苦しみは、私、私のです。 楽しみ、それは私の楽しみです。 私の教義、 その教義は、何百万とか、何千の人が分かち合っているかもしれないが、 それは、やはり私のです」と。 いいですか? さて、私たちは、問おうとしています - それは、そもそもあなたのかどうか、です。 私たちは、教育されます - 生物学的にも、社会的にも、宗教的にも、 自分たちは、他の一人より、全然分離していると考えるように、です。 ですね? あなたは、男です。 他の一人は、女です。 子どもと、老人、 ちょうど片足を墓に入れた人、 その違いは、ありますが、 意識において、私たちは、違っていますか。 質問を理解されますか。 どうぞ、これを、考慮してください。 ただ聞かないでください。 私は問うています。ゆえに、あなたは、答えを待とうとしていますが、 ともに私たちは、この問いを分かち合っています。 私たちはこれまで、私たちの意識、 私たちの知性、私たちの感情、私たちの概念は、すべて、 私のである、私である、と受け入れてきました。 語り手とあなたは、その事実を、問うています。 それは、あなたが懐疑的に、疑いをもって、それを探究している、という意味です。
27:51 あなたが、世界をずっと回っていくとき - 世界の、小さな集落の様々な部分、 相当に大きな村々、大きな街を、です。 そこであなたは、人間すべてが苦しむのを、見つけます。 彼らはみんな、笑います。 彼らはみんな、涙を流します。 あなたのように、彼らはみんな、自分の心配事を、持っています。 彼らはみんな、自分の感情を持っています。あなたのように、です。 彼らは、洗練されていなくて、学識がなくて、 世界が何であるかを知らないのかもしれませんが、 彼らはみんな、恐れ、心配、憂鬱、 この深いさびしさの感覚、悲しさを、持っています。 そして、このすべての悲惨を越えた何かがあることを、望んでいて、 自分の神を持っています。あなたが自分の神を持っているように、です。
29:34 で、この意識は - どうぞ、語り手が言っていることを、受け入れないで、 それを問い、それを疑い、動いてください。 で、この意識を、私たちは、自分のであると考えますが、 それは、すべての人間により、分かち合われています。ですね? 地上のあらゆる人により、分かち合われています。 で、この意識は、私たちのみんなに、共通しています。 それの帰結は、 私たちの意識すべて、感情、応答は、 いかに微妙でも、いかに粗野でも、いかに生硬でも、 この地上の、あらゆる人間により、分かち合われています。 で、それは、私の意識ではありません。 それは、あなたの意識ではありません。ですね? これは、あなたが受け入れまいとしているところです。 ゆえに、私たちは個々人ではありません。 あなたは、それを受け入れますか。 それが見えますか。 初めにそれを、論理的に見てください。論理は、必要です。 理性は、必要です。 論理、一歩一歩 - 私たちがしてきたように、合理的に一歩一歩、究明することは、です。 あなたが、それを悟るとき- 事実を、です。 仮説や、ロマンチックな理想を、ではない。 私たちがみんな、これを分かち合う、 私たちがみんな、同じ地盤に立つとの事実を、です。 私たちはみんな、痛み、悲しみ、楽しみ、憂鬱、心配の、同じ動きを、持っています。 あなたは、それの真理が見えて、それの実在性を感じるとき、 あなたは、すべての人類です。 あなたは、人類です。 あなたは、分離していて、「私はスイス人だ。 私は、自分特有の育ちをしているよ」と、言わないのです。 もちろん、あなたは、特有の育ちを、しています。 あなたは、これらのすばらしい山々に、囲まれています。 繁栄し、しっかり食べて、「教育」されています - 括弧つきで、です。 おそらく、はるか遠く、外国で、小さな村に生きている少年は、 彼は、教育されていないかもしれません。彼は、ただ生きて、格闘し、 一日一食をとっているだけかもしれませんが、 あなたが考えるように、彼は考えます。 考えることは、私たちのみんなに、共通しています。 その考えの表現は、違っているかもしれません。 あなたは、詩人であるなら、詩を書くかもしれません。 あなたは、画家であるなら、これとあれをするかもしれませんが、 考えることは、私たちのみんなに、共通しています。
34:22 で、あなたはそれの真理が、見えるなら - それの深さ、それの感じ、それの微妙さが、です - そのときあなたは、あなたが人類であることを、悟ります。 ゆえに、あなたは、ものすごい責任を、持っています。 あなたは、他の一人を殺せません。 なぜなら、そのとき、あなたは自分自身を、殺しているからです。
35:07 で、この意識を理解する中で - それは、私たちが言いましたように、過去の記憶全体です。 経験です。頭脳に記憶として蓄えられた知識とともに、です。 この記憶は- それの表現ではなく - 記憶は、共通しています。 あなたは、自宅への道を、憶えています。 何千マイルも離れた、あの小さな村の男も、そうです。 自分の畑から小屋へ、憶えています。
36:03 で、私たちは、訊ねています - その意識は、頭脳の中に、反応などとして 蓄えられていますが、 その頭脳が、騒動の状態、問題の状態に、あるかぎり、 それは、けっして、どの問題をも、解決できません。 それは、妨げられたのではなく、制限されたのではなく、 自由な頭脳だけです。 そういう頭脳だけが、問題を解決できます。 で、私たちは、自分自身に訊ねています - その頭脳、その意識は、 すべての内容とともに- いいですか? 内容が、意識を作ります。 もしも、内容がなかったなら、 私たちが今、知っているような意識は、ないかもしれません。明らかですか。 私は、語り手は、一つの講話に、たくさんのことを、入れていますか。 そうであるなら、すみません。 それが、そのありようです。 なぜなら、私たちは、時間があるなら、悲しみ、 熱情へ、入ろうとしているからです。 それは、情欲とは違っています。 そして、悲しみとは何か、です。 また、私たちは今朝、時間があるなら、 死の無量の問い全体に、入り、究明しなければなりません。 なぜなら、私たちは、もう一回だけ講話を、行うからです - 次の木曜日、です。
38:25 で、私たちは、訊ねています - この意識は、その内容とともに、 いったい自由でありえるのかどうか、です。 意識は、ではなく、この意識を保つ頭脳は、です。いいですか? この頭脳は、記憶すべてを保持しています - 過去、現在、未来を、です。 それは、保ちます。 その頭脳は、その意識は、すっかり空っぽでありえますか。 質問を理解されますか。 どうぞ、あなた自身にその質問を、してください。 あの列車は、かつて、汽笛を鳴らしたことが、ありません。 たぶん、私たちを励ましているのでしょう。 私たちが、この質問をしているとき - 頭脳の内容は、 日常生活の知識と技能が、ではなく、 すべての心理的な保持、記録は、 全的に自由でありえますか。 これは、本当に、きわめて真剣な、深刻な問いです。 なぜなら、私たちは、この意識とともに、 四万年か、五万年の間、生きてきたからです。 私たちは、あらゆる種類の神、あらゆる種類の救い主、 あらゆる種類の宗教書を、創案してきました - 古代エジプト人から、現在の日まで、です。 で、私たちは、考慮しなくてはいけません - 頭脳は、必要な区域では、知識を保持し、 他のどの区域でも、それを保たないことが、 可能なのかどうかを、です。 それは、心理的なところ、 憶えている心理の状態です。 それは、すべての過去と現在を収容しています。ですね?
42:13 で、それに入るには、私たちは、また時を、考慮しなければなりません - 四万五千年としての、今までの時、 あの無量の時の持続、です。 また、あの長い時の期間に、 多くの神々、多くの聖典、多くの残酷さの表現が、あったのです - 戦争、絶望、涙、笑い、心配、不安全が、です。 それが、私たちなるものです。 すなわち、過去は、現在に収容されています。 それは明らかです。 過去は、現在にあります。 未来は、現在にあります。 私たちは、四万五千年を過ごしてきたから、 私たちは、また四万五千年を、過ごすでしょう - もし、私たちが今、根源的に変化しないなら、です。 ですね? これは論理的です。
44:12 で、この意識が、全面的に停止することは、可能ですか - すべてのその紛糾、騒動と、その他すべてとともに、です。 さもないと、それらの停止が、ないのなら、 あなたは、明日か、千の明日、修正されて、 まさしく、今のあなたなるものに、なるでしょう。 明らかですか。いいですか。 で、それが死です。 私たちは、それに、はるかに多く入るでしょう。
45:14 私たちは今、愛とは何か、 慈悲とは何か、痛みをともなった悲しみとは何かの 問いに入るべきです。 人類は、時の始まりから、 涙を流してきました。 彼らは、互いに殺し合ってきました - おそらく、一時に、数人を、 矢でもってか、棍棒でもってか、剣でもってか、です。 そして、何千と何百万の人々が、苦しんできました。涙を流してきました。 彼らは、自分の息子、夫、恋人、 その他すべてを、失ってきました。 人は、始まりから、このようであったのです。 四万五千年の間に、私たちは、いまだに、つづけています - 前と同じです。 ただ、今私たちは、一発で数百万の人々を破壊する すばらしい手段を、持っているだけです。 私たちは、無量の前進をしてきました。ですね? これが、前進と呼ばれます。 で、それらすべての四万五千年の間に、 人類は、涙を流してきました- 悲しみ、です。 彼らは、自分の息子、夫、妻を、失ってきました。 大都市を破壊して、 古い敷地に、新しい都市を築いてきた、などです。 で、人類、人間たちは、 無量に苦しんできました。 私たちは、いまだに、無量に苦しんでいます。 これは、ロマン主義ではありません。 これは、情動癖ではありません。 これは、事実です。 私たちは、まったく止まろうとしていません。 私たちは、同じ道路を進んでいます - 同じ動きです。 私たちは、泣いています。 で、人類は・・・ 無量に苦しんできました。 私たちが今、苦しんでいるように、です。 苦しんでこなかった人間は、 この地上に、唯の一人も、いません - 物理的にか、生物学的にか、情動的にか、知的にか、です。 彼らは、私たちが大好きなように、思われますね。
49:50 私たちは、悲しみに終わりがあるのかどうかを、 けっして訊ねたり、探究したことが、ありません。 その質問をし、要求する代わりに、私たちは、 他の誰かが、私たちの代わりに、苦しんでくれるだろうと、言ってきました。 キリスト教徒が言うように、です。 アジア人たちは、おもにインド人を含めて、 彼らは、それは業(カルマ)の一部であると、言いました。 そのサンスクリットの言葉を、ご存じですね。 その業(カルマ)の意味は・・・ その言葉の根本の意味は、行為することです。 蒔いたものを、刈り取る - 現世にでも、来世でも、です。 それが、彼らの観念です。 蒔くもの、今のあなたなるものに、 あなたは、来世、なるでしょう - おそらくわずかに修正されて、来世です。 で、私たちは、慰めを得てきました。 私たちは、慰めを得てきました - 理論に、思索に、信仰に、 来世に、などなど、ですが、 私たちはけっして、そのことに、向き合ったことが、ありません。 私たちはけっして、そのこととともに、留まったことがありません。 自らはけっして、「私は苦しい。 私は、それとともに生きるだろうし、 なぜ私が苦しむかを、見出そう」と言ったことが、ありません。 それより逃避しないで、逃げ去らないで、 どの形の慰めをも、探し求めない。 それは、苦しみは宝石に似ている、という意味です - 大きな宝石です。 そうね、あなたは、自分の手に大きな宝石を、持っているなら、 それを見つめます。それに驚嘆します。その美しさを、見ます。 それが、いかにプラチナ、金、銀の中に、填まっているのか - そんな繊細さ、洗練をもち、そんな美しさをもっている。 あなたは、それを持って、見つめます。 けっして、それから逃げ去りたいとは思いません。 同じように、 もし、あのものを、悲しみを、保てるなら - 陰鬱になるのではなく、それから逃げ去るのではなく、 ただ、それを保って、見つめます。 それを見つめている観察者として、ではない。 数年前に、或る友人が、大変にとてつもない宝石を、持っていました。 それは、最も美しい宝石の一つでした。 彼は、「一分間、それを持ってください」と言いました。 私は、それを持ちました。語り手は、それを持って、見つめました。 それは本当に、最もとてつもないものでした。 きわめて古く、とても豊かで、価値があり、値段が付けられない。 あれは、何かあなたの外側のものでした。 その宝石は、あなたの一部ではない。 それは、そこにある - あの時計のように、 あのマイクロフォンのように、あのカメラのように。 ですが、悲しみは、あなたです。 あなたは、悲しみより分離していません。 いいですか?あなたは、悲しみです。 ですが、私たちは、「私はどうすればそれより自由になるのか」と、言います。 ゆえに、あなたは、「私はどうすれば、それより自由になるのか」と言った瞬間、 あなたが悲しみであるとの事実より、自分自身を分離します。 これを理解されますか。
55:11 あなたが、怒るとか、貪欲であるとき- あなたは、貪欲でしょう。 あなたは、貪欲より分離していません。 あなたが貪欲です。 ですが、「私は、貪欲を取り除かなければならない」とか、 「私は、貪欲を保たなければならない」とか、 「それは・・・」などと言う。 理解されますか。 あなたが、その感情より自分自身を、分離した瞬間 - 痛みより、心配より、です - そのとき、その分離が、葛藤を引き起こします。 ですね? で、悲しみは、あなたです - あなたの自己憐憫、 あなたの喪失感、 あなたのさびしさの感覚、 あなたの失敗の感覚、 あなたの呵責、後悔、罪悪の感覚、その他すべて、 あなたが、いわゆる愛してきた誰かの、大きな喪失感は、です。 私たちが、その悲しみをあなたより分離するとき - 自分は悲しみより異なっていると、考えて、です - そのときあなたは、それより逃避したい、それからの慰めを、探したいと思います。 ですが、あなたはそれであるとき - なぜなら、あなたはそれであるからです - そのときあなたは、それを保ちます- それより離れた動きなしに、です。 それに介入する思考なしに、それを保ちます。 あなたはただ、見守っています。 そのとき、あなたは、言うでしょう - あなたが、自らの注意全体をそれに注ぐなら - 悲しみは終わる、二度と戻ってこないことを、です。
57:39 悲しみの終わることでもって、熱情がある。エネルギーがある - 計算不可能なエネルギー、すなわち、熱情が、です。 欲情は、過ぎ去るもので、反復されます。 ですが、熱情はけっして、反復されえません。それは、そこにある。 なぜなら、悲しみが終わることが、あったからです。 私たちのほとんどは、この熱情を、持ちません。 なぜなら、私たちのほとんどは、楽しみに、捕らわれているからです。
58:34 で、悲しみが、終わることでもって、愛が、あります。 もしあなたが、苦しんでいるなら - 物理的に、だけではなく、もっと内的に、です - どうしてあなたは、他の一人を愛せますか。 あなたは、憐れみを持てます。 あなたは、同情を持てます。 あなたは、親切、寛大でありえますが、 それは、愛ではありません。 ですが、愛は、そのすべてを含んでいます。 なぜなら、私たちは、愛とは何かの問いへ、 入らなければならないと、言ってきたからです。
59:30 それは、悲しみが終わることだけではなく、 また、嫉妬が終わること、 野心が終わることでもある。 それを聞く。 どうぞ、聞いてください。 野心が終わること。 あなたはどうして、他の一人を愛せますか。または、心に愛を持てますか - あなたが、野心的になりつつあるなら、 あなたが、野心的であり、達成したい、充足したいと思うなら、です。 物理的な世界においても、心理的な世界においても、です。 あなたは、野心的であり、覚りを開きたいと思うとき - そういう、ばかげた発言です。 あなたは、冥想するとき - あなたたちの幾人か、たぶん、冥想について話す多くの人々、 彼らは、野心的です。 なぜなら、彼らは、どこかへ到りたいからです。 ゆえに、それらの人々は、まったく愛を持っていないからです。 なぜなら、彼らはいまだに、自分の利得について、考えているからです。
1:00:53 で、このとてつもない香りを、持つことは、可能ですか - そこに、嫉妬がなく、 比較がなく、 敵対状態などが、ないもの、です。 愛があるところ - あの愛が、です - 慈悲が、あります。 すなわち、悲しみからの自由があるとき、慈悲はありうるだけです。 あなたは、或る国に、宗教に、集団に、派閥に所属するとき、 慈悲を持てますか - あなたが、指導者であるとき、あなたが、導師であるとき、です。 これらを理解されますか。 あの慈悲が、あるところ、智恵があります。
1:02:12 私たちは、この智恵の問いへ、本当に入るべきです。 智恵は、興味、関心より異なっています。 智恵は、思考の活動より、全面的に異なっています - その活動は、きわめて利巧になったのです。 自らは、人々を操作することにとてつもなく利巧であって、 それを、愛と呼ぶかもしれません。ですね? これを理解されますか。 あなたは、智恵が何であるかを、探究したことが、ありますか。 あなたは、大変多くの智恵が、必要です - モーターを組み立てるには、ですね? あなたは、大変多くの智恵が、必要です - 月まで行くには、おそらく、 三十万の人々が関与して、です。 あなたは、驚くべき利巧な智恵が、必要です - 中性子爆弾を創り出すには、 潜水艦を建造するには、航空機を建造するには、です。 しかし、その智恵は、制限されています。 ですね? それは、機械的でありえます。 それは、記憶、知識、経験、思考より、生まれています。 自らの活動を、持っています - 思考はそれを、智恵と呼びます。ですね? ですが、その智恵は、制限されています。 なぜなら、思考は、制限されているからです。 私たちは、思考の問いへ、入りました。 すなわち、思考は、記憶に基づいています。 記憶は、知識の蓄積です。 知識は、経験から出てきたものです。 私たちは、何千に何千も、 おそらく、何百万の経験を、してきました - 人間たちは、です。 が、されるべき経験が、もっとあります。 ゆえに、蓄えられた、あらゆる経験は、知識になります。 ゆえに、その知識は、制限されています。 それは明らかです。 その制限された知識は、頭脳に、記憶として保持されます。 記憶の応答が、思考です。 ゆえに、思考は、いつも制限されています。 あなたは、無制限の状態を、想像できますが、それはやはり制限されています。 あなたは、神を全能だと、想像できます - すべての憐れみ、すべてのこれと、すべてのあれだ、と。 ですが、それは、やはり制限されています。 で、智恵は、何か全然違ったものです。 愛と慈悲が、あるところに、それは、来ます。 あの智恵は、理性的で、真っ当で、健康的です。制限されていません。 私たち人間は、この地上に生きていて、 日々の面倒で退屈か、魅力的な仕事をしながら、 慈悲深くあることは、可能ですか - このとてつもない愛の香りを、持つことは、可能ですか。 あれがあるところ、至上の智恵が、あります。
1:07:21 もう、止める時間です。 で、私たちは、死の問いについて、議論しなくてはいけないでしょう - そして、死の無量の意義と、 死の強さについて、です。 それは、愛ほどに強い。 私たちはまた、ともに話し合わなくてはいけないでしょう - 木曜日の朝、明後日の朝に、 宗教とは何であるのかと、 冥想とは何であるのかについて、です。 語り手は、死、宗教と冥想を、 講話の終わりに、置きます。 なぜなら、先の五回の講話において- この講話を含めて、ですが - 私たちは、基盤を敷いてきたからです。 その基盤が、しっかり確立され、強く築かれなくては - それは、恐れを持たない、幻影を持たない、 葛藤なく、他の一人とこの関係を持つ、という意味です。 悲しみが終わること、それが、基盤です。 そのときだけ、私たちは、冥想とは何かの問いへ、入られます - いかに冥想するのか、ではなく、 冥想の現実、宗教的な生の現実と、 死の大いなる意義です。
1:10:07 私は立ち上がってもいいですか。