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SA84T6 - 死と生と一緒に生きること。
第6回公開講話
スイス、サーネン
1984年7月19日



0:23 私たちは、一昨日、話していたことを、 継続してもいいですか。 これが、最後の講話です。
0:44 私たちは、存在の問題全体について、話してきました - 私たちの日常生活の様々な様相、です。 私たちは、関係について話しました。 私たちは、恐れ、楽しみと、 人の終わらない苦しみについて、話しました - そして、恐れより全的に自由である可能性が、 あるのかどうか、です。 私たちは、よく気をつけて、それに入りました。 また、私たちは、知識について、話しました - 知識を持つことが、いかに重要であるのか。 それは、経験をとおして集められます。 頭脳の中に、知識と記憶として、蓄えられます。 その中から、思考が出てきます。 それは、そのとき、自然に、制限されています。 私たちは、先の五回の講話の間、それらに入ってきました。 これは、最後の講話ですから、 私たちは、なぜ頭脳がいつも、占有されているのかを、 ともに話し合うべきです。
3:32 私たちは、訊ねていました - なぜ私たちの頭脳は、 長い時の期間、四万五千年か、 五万年をとおして、進化してきたのに、 それら長い時の持続の間に、 頭脳は、見たところ、占有されてきました。 けっして静かでなく、果てしない占有の連続、連想です。 一つの思考は、もう一つの思考へ、つながります。 この終わりなき連鎖です。 私たちはそれを、自然だと受け入れてきました - 私たちの日常生活の一部として、です。 私たちはともに、これを問おうとしています。 私たちが言いましたように、そのことが反復されるのを、 あなたが気にされないことを望みますが、 私たちは、どの種類の宣伝をも、していないのです - どの種類の信念、信条や、何か哲学をも、宣伝していないのです。 むしろ、あなたと語り手は、ともに、 私たちの日常生活の究明へ、入ろうとしています。 残念ながら、私たちは、少しの間、待たなくてはならないと、思います。 航空機には、楽しんでもらいましょう!
6:27 私たちは、大変多くのことについて話してきました。 私たちはともに、今朝、 とても複雑な問題へ、入ろうとしています - なぜ人間たちは、自分自身たちの中で、平和に、 それで、世界と平和に、 生きることができなかったのか。 なぜ、私たちの日常生活は、こんなに混乱、 葛藤と悲惨の中にあり、時々、喜びの中にあるのか。 これら何千年すべての後で、 人が、平静さ、静けさ、平和の感覚を、 見つけたことがないのかは、なぜですか。 このすべては、大変多くの智恵を、必要とします - お互いと平和に生きるため、 また、自分自身の中で、それで、隣人と、 または、自分の親密な関係において、平和に生きるために、です。 私たちは、なぜ自分たちが平和に生きてこなかったのかを、 見出すことが、できませんでした。 私たちは、それについて、話してきました - なぜ人間たちは、いつも葛藤の中にいるのか、 その葛藤は、終わりうるのかどうか。 外的に、だけではなく、戦争、民族性の分割、 宗教の分割 - 分割。 言語的な違い、意味論的な違いと、 頭脳の様々な性質 - それは、あらゆる物事を、砕いてしまい、範疇へ入れる、などです。 この現代世界に生きて - その複雑さすべてとともに、です。 生計を立てなくてはいけなくて- 9時から5時まで、です。 自分の全人生を、事務所や研究室や 工場で過ごしたり、 畑を耕したり、 そのすべての終わりに、死があります。 残念ですが、私たちは、待たなくてはいけないだろうと、思います。 あの一つが、終わり、別のが、始まります!
10:38 私たちはともに、これらを探究しようとしています - 私たちが、ここ五回の講話の間に、してきたように、です。そう望みます。 私たちは、ともに、探究しようとしています - なぜ人間たちは、自分たち自身と、世界とともに、 平和に生きる能力がないだけではなく、 また、なぜ人間たちは、子ども時代から、傷つくのか、 心理的に負傷するのか。 この問いは、とても重要です。 なぜなら、それは、私たちの生全体に、影響するからです - 子ども時代から、学校をとおし、専門校、大学をとおして、 または、家で、他の少年少女たちと、です。 生きる過程全体が、 様々な形の心理的な傷を、生成します。もたらします。 それらが、頭脳にとって衝撃として、作用します。 それで、私たちは、神経症的になります。 そして、唯一つの傷もなく、生きることは、可能なのかどうか、 自らが傷ついているとき、 それは、自己中心的な活動全体を、強調するだけではなく、 またそれは、恐れを生み育てます。 自らが、傷ついているとき、壁、構造物、障壁を、 あなた自身と他の一人との間に、築きます。 それで、次第に、自らは引き下がります。 自らは孤立します - その同一視の問題すべてなどとともに、です。 私たちが持っている傷に、自らが気づいているのかどうかと、 私は思います。思われます。 そして、気づいているなら、 私たちは見たところ、けっして、それらを終わらせません。 傷が、完全に終わることは、ありません。 傷つきつつあるのは、何ですか。 どうぞ、私たちは、言いましたように、ともに、この問題を究明しています。 ともに、です。 語り手は、指摘したり、言語化したり、 鏡として、作用するかもしれません- その中に、自分自身が見えるのです。 それで、語り手は、導師ではありません。 あなたは、彼に従う人ではありません。 個人崇拝は、ありません - それらはすべて、恐ろしいことです。 で、ともに、私たちは、この問いを、見つめています。 それは、あなたの問いです。 それは、語り手が、あなたに課している問いではありません。 あらゆる人間が、傷つきます。 心理的に負傷します。 そして、生涯をとおしてずっと、それを運んでゆきます。 自らは、けっして危険が、見えません - 惨憺たる結果が、です。 すべての傷を終わらせることと、二度と傷つかないことは、可能ですか。 傷ついているのは、何ですか。 あなたが、「私は傷ついている」と言うとき、その「私」は何ですか。 傷つく実体の性質は、何ですか。 いいですか。 私たちは、一緒にいますか。 私たちは、互いに理解しあっていますか。
16:03 仮に、私は傷ついている、とします。 なぜ私は、傷ついていますか。 傷つく実体、 構造とは、何ですか。 私たちは、それを、「私は傷ついている」と呼びます。 その「私」は、何ですか。 それは、様々な出来事、経験、記憶ではないですか - すなわち、自分自身についてイメージを、創り出してきたもの、です。 どうぞ、言われていることを、拒絶しないで、 気をつけて、それを見つめてください。 自らは疑いを持ち、懐疑的であり、問わなければなりませんが。 語り手が言っていることを、何も受け入れないで、 疑いの性質を、持たなければなりません。 ゆえに、私たちは、訊ねています- 傷ついているのは、何ですか。 それは、あなたが自分自身について持っているイメージですか。 そのイメージは、様々な印象、圧力により、組み立てられてきました。 それは、コンピューターがプログラムされたのに、似ています。 そのイメージが、傷つきます。ですね? で、私たちは、「私は傷ついている」と言います。
18:14 自らは - これが問いです - 自らは、生を、日常生活を生きられますか。 何かロマンチックな、思想的な、感傷的な生ではなく、 実際に、私たちの日常生活において、 私たち自身について、唯一つのイメージもなく、生きられますか。 それは、そのイメージがあるときだけです - そのとき、そのイメージ、その映像、 すなわち、思考により組み立てられてきたもの、 それが、傷つきます。 誰かが、お世辞を言ったり、侮辱したり、 褒め称えたりなどするとき、頭脳は、なぜ記録しますか。 質問を理解されますか。 それは、あまりに困難ですか。 いいえ。それは、とても単純です。 記録しないことは、可能ですか。 心理的に、です。 もちろん、あなたは、記録する過程を、動かしておかなければなりません - あなたが車を運転しているときや、 自らがする、とても多くの物理的なこと - そこであなたは、常に記録している機構を、持たなければなりません。 そして、心理は、「私」の本性全体は - その世界において、記憶することは、必要ですか。 理解されますか。 で、記録しないことは、可能ですか。 私たちは、それを見出そうとしています- あなたが、興味があるなら、です。 たとえ、あなたが興味がなくても、それは、構いません。 なぜなら、私たちは、けっして自分自身に訊ねたり、要求したことが、ないからです - 全的に自由である可能性が、あるのかどうかを、です。 生の特定の様相から -私たちの悲しみから、 私たちの心配から、私たちのさびしさなどから、だけではない。 それは、きわめて表面的な自由だけです- 好きなところへ行くこと、 望む特定の職を選択することは、です。 ですが、全面的に、完全に自由であること。 それは、頭脳が記録していないときだけです - 物理的な世界以外で、です。 心理的な世界において、肌の内側の世界において、 記録しないこと。 それは、ものすごい注意、気づきを、必要とします。 それについて、私たちは、今すぐ話そうとしています。
22:10 私たちは、きわめて複雑な問題について、ともに話し合うべきです - それに、人類は、何千年に何千年もの間、向き合ってきたのです。 これは、美しい朝であり、光と輝きに満ちていて、 丘の美しさと、谷の暗い影だけれども、 私たちは、この問いについて、話すべきです - それは、陰鬱ではありません。 それは、死です。 いいですか。 それは、私たちの生の一部です。 心配、さびしさ、恐れと、 生のすべての苦労と騒動と葛藤のように、 死もまた、私たちの生の一部です。 自らが、きわめて若くて、生を楽しんでいても、 または、中年でも、老年でも、 これは、人間各々が向き合わなくてはいけない問題です。 私たちはみんな、死のうとしています。それは確実です。 それは、絶対的である一つのことです。 で、私たちは、ともに探究しようとしています - 死ぬことが何を意味しているかの、複雑性を、です。 これについて議論するのは、構いませんか。 いいですか。 それが、お好きでないなら、勝手にしてください!
24:21 人間たちが、こんなに死に怯えているのは、なぜですか。 人間たちが、死を、自らの生より 可能なだけ、はるか遠くに置いてきたのは、なぜですか。 死が、こんなに 恐ろしいことに見えるようなのは、なぜですか。 書物が、博士と他の人たちにより、書かれてきました - 幸せな死に方、です。 私は見ました。 その本の題名を、見ました。 それは、アメリカでは、すっかり有名です。 「優美な死に方」。 幸せに、寛いで、です。
25:48 で、私たちは、この問いについて、ともに、話し合おうとしています。 あなたは、終わるとはどういうことかを探究したことが、ありますか。 何かを終わらせることの意義は、何ですか。 継続ではなく、終わらせる。 理解されますか。 私たちは、継続に慣れてきたか、 条件づけられてきました。 ですね? 継続する。 継続するとは、どういう意味ですか。 継続的な記憶の、長い持続。 いいですか? 或る所へ、或る人物へ、或る観念への、継続的な執着。 自らは、理想を完全に終わりにしてしまうことを、実験したことが、ありますか。 私が終わらせるなら、何が起きるだろうか、ではなくて、です。 ヴザヴェ・コンプリ?理解されましたか。 終わらせることの問いは、理解することが、きわめて重要です。 習慣を終わらせる - 生物学的な習慣も、心理的な習慣も、です。 あなたは、終わらせるなら、「何がもっとあるのか」と訊ねるでしょう。 それは、あなたがやはり、継続ということに立って、 考えていることを、意味しています。いいですか? 私が、怒りや利己性を、終わらせるなら、 そこに何が、ありますか。 いいですか? で、私が終わらせるなら、私たちの頭脳は、いつも、他の何かを、頼みにしています。 ビャン(いいですか)? 私たちは、ゆえに、何をも完全に終わらせたことが、ないのです。 理解しましたか。 進んでもいいですか。 で、終わることの本性を、そして、
29:04 継続したいとの衝動、欲望を、理解するなら、 継続したいとの欲望が、あるとき、 終わることの恐れが、あるのです。ですね? 終わることを、ゆえに、継続がないことを、理解するなら、 何の恐れも、ありません。 これらを理解されますか。 私たちは、一緒に考えていますか。 実際に、一緒に考える。 語り手が言っていることを、受け入れるのではない。 それは、重要ではありません。 私たちの精神、頭脳を、ともに注ぐのです。 あなたの頭脳と私の頭脳ではなく、 考える頭脳の性質、 「私は行って、探究し、見出さなければならない」と言う頭脳の性質、 疑い、問い、訊ねる頭脳の性質、です。 そのとき、私たちは一緒にいます。 そのとき、私たちの頭脳は、互いに出会っています。 ゆえに、互いの間の意思疎通が、きわめて楽で、単純になります。 ですね? 私たちは、こうしていますか。 半々です。 それが、私たちの困難があるところです。 ここの或る人々は - 私は彼らへ、無礼にしていません - 彼らは、長年の間、これらを聞いてきました。 たぶん退屈し、 彼が何を言おうとしているかを、知りつつ、です。 彼らは、その言葉が、慣習になってしまいました。 が、彼らは本当に・・・私たちはともに、学んでいますか。 記憶しているのではない。 違いは、分かりますか。 私たちは、記憶します。私たちは記憶するよう、教育されます - 私たちの知識を、巧みに使用できるように、です。 私たちは、授業を記憶します - フランス語、ロシア語、何の言語でも、です。 私たちは、様々な歴史的な経緯を、記憶します。 私たちは、科学的な事実を記憶します。 いいですか? 私たちは、どの分野でも、巧みに行為するために、知識を蓄積します。 しかし、学びは、動きです - それは、けっして・・・それは、流れている川に、似ています。 けっして静止していない。 知識は、静止しています。 なぜなら、あなたは、もっともっと多くを、付け加えているからです。 学びは、大きな河に、似ています - その裏に、ものすごい嵩(かさ)を、秘めていて、 すばやく、急速に動いていて、 何もそれに、立ちふさがりません。 それが、学びの行為です。 で、私たちは、ともに学んでいますか。 または、私たちの頭脳は、コンピューターのように、プログラムされてきました。 コンピューターについて話をすることはなかなか興味深い。構いませんか。
33:41 彼らは、コンピューターの世界で、 最もとてつもないことを、しています。 語り手は、彼らの多くと、議論してきました - いわゆるトップの人たちと、です。 それらコンピューターは、人間の思考がしてきたことを、 ほとんど、何でもできます。 それらは、トップの数学者、生物学者、 科学者、技術者により、プログラムされてきました - どの特定科目を取るにしても、です。 そして、専門職でトップの教授が、 プログラムを与える。いいですか?これについて、すべてご存じでしょう。 私たちの頭脳もまた、プログラムされてきました。 あなたは、二千年の後で、プログラムされています - 自分自身をキリスト教徒と呼ぶように、信念です。ですね? ヒンドゥー教徒は、おそらく三千年から五千年、 信じるように、プログラムされてきました- その過程全体は、ご存じでしょう。 イスラム世界もまた、プログラムされています。理解されますか。 そして、コンピューターが、プログラムされつつあります - 超機械知能と、それは呼ばれます。 それはほとんど、人より良く、より急速に、考えられます。 アメリカでは、 100万のメモリを保つチップが、発明されました。 で、人へ、あなたの頭脳へ、何が起きようとしていますか。 質問を理解されますか。 機械的なものが、一定の領域以外では、人より、うまくできるのなら - 私は、それらに入らないでしょう。 あなたは、それを研究できます - 人に、何が起きようとしていますか- あなたに、あなたの子どもに、 あなたの孫たちに、です。彼らに、何が起きようとしていますか。 機械的な知能が、一定の面で、人を上回れるとき、 それは、ロボットを使って、車を組み立てられます。 一定の失業などなどが、あることに、なります。 そのとき、人間の頭脳に、何が起きるでしょうか - ずっと活動的であったものに、です。理解されますか。 一定のことをするのに活動的であった - 大工仕事、 数学、機械の組み立て、などに、です。 それらを、コンピューターとロボットは、できるのです。 これらに、付いてきておられますか。 私たちの頭脳に、何が起きようとしていますか。 私たちは、コンピューターの専門家たちに、この質問をしました。 彼らの返事は、「私たちは気にしない。私たちは知らない」、です。 それは、大事ではありません。 彼らの興味は、発明することです。 ますます多くを得ることです。 コンピューターは、あらゆる種類のことを、します。
37:46 どうぞ、聞いてください。 真剣に聞いてください。 それは、冗談ではありません。私たちがやっているのは、ゲームではありません。 娯楽産業、 スポーツなどなどが- 宗教を含めて、です - それはすべて、娯楽産業です。 頭脳は、それに捕らわれていくのか - あなたが、注目したことが、あるなら、 いかに娯楽がますます成長しているのか、 子どもたちが、娯楽で楽しみたがるのか、です。 頭脳は、それに捕らわれていき、 果てしなく、娯楽を探し求めているのか、 あるいは、内的に向かおうとするのか - 利己的に、ではない。 自己中心性の世界に、ではない。 - それは、とても小さな事柄です - はるかに深く行くのか、です。 頭脳は、とてつもない能力を持っています - テクノロジーの世界で示されるように、です。 その同じ頭脳は、見守り、きわめてきわめて深く行けます。 その深さは、際限がない。 で、あなたは、これに向き合っています。
39:37 で、戻ってきましょう。 死とは何ですか。 私たちが言いましたように、私たちは、終わることの意味と、 継続の本性を、深く理解するなら - それを、私たちのみんなが、ほしがります。 なぜなら、私たちは、継続の中に、安心、安全があると、考えるからです。 ですね? よろしいですか。 国と同一視されること、一定の所に、根を持つことや、 何か象徴、理想などに執着すること - それは、一連の継続です。 その中に、安全を見つけたいと望むので、 私たちは、継続へ縋りつきます。 その継続こそが、大きな災難をもたらしつつあります。 なぜなら、それは、戦争をもたらしつつあるからです。ですね? 私たちは、民主主義に縋りつきます。 それが何を意味するにしても、です。 また、(ソビエト・)ロシアの全体主義諸国の集団全体も、あります - 「我々は、人間たちの管理者である。 我々は、彼らを制御する」と。ですね? 独裁制と、進みつつあるその他すべての恐怖です。 で、安全はどこにありますか。 質問を理解されますか。 私たちは、安全を探し求めてきました - 家族に、妻に、夫に、 共同体などなどに、民族に、民族間に、ですが、 人にとって、安全は、なかったのです。 文明が成長し、ますます複雑になるにつれて、 安全が、ますます少なくなろうとしています。 継続は、私たちが安全を持つだろうとの望みを、与えてくれます。 安全は、どこにありますか。 そもそも、安全がありますか。
42:51 私たちが、安全を探し求めているとき- それは、継続において、ですが - そのとき、本当の死の恐れが、あります- すなわち、終わりの、です。 いいですか? アジア世界は - 特にインドは、アジア中に拡大してきました。 心理的にと、宗教的に、です。 彼らは、「輪廻転生」という言葉を、創案しました。 すなわち、一連の継続です。 いいですか? 私は、現世で死ぬだろうが、来世、と。 それで、来世と、来世の後- よろしいですか - ついに人間たちが、あの最高の原理や最高の状態に到るまで、です。 で、それは、きわめて慰めになる継続の観念です。 いいですか? これらに、付いてきておられますか。 ですが、私たちは、けっして自分自身で、訊ねません - 終わりとは何ですか。 実際に終わるのです。 自らは、それにも怯えています。 例えば、心理的に、すべての執着を、完全に終わらせる。 なぜなら、私たちは、とても多くの物事に、執着しているからです - 人々へ、観念へ、知識へ、概念へ、 様々な形の観念論、理想主義へ、 お金へ、自分の知識と記憶へ、 または、自分の経験へ、です。 「ああ、私は、すばらしい霊的な経験をしてきた」と。 私はそれに、取りすがります。 いいですか? で、私たちは、とても多くの物事へ、執着しています。 そして、死が、やって来て、言います - 「友よ、あなたは、何にも執着できない」と。ですね? あなたは、去ろうとしています。 あなたは、あらゆる物事を、後に残していこうとしています。 いいですか? あなたの家族、あなたの観念、あなたの知識、 あなたの知識、地位、権力の虚栄すべて - そのすべてを、あなたは、離れていきます。 それは、終わることです。 それが、私たちが怯えていることです。 それが、私たちが死と呼ぶことです。 恐ろしい終わり - 後で何が起きるのかを、知りません。 もしも、後で何が起きるのかを、知っていたなら、あなたは継続します。ですね? で、私たちの頭脳は、ずるがしこく、微妙であり、 それは、何をする前にも、知らなければならないのです。 私が終わるなら、何があるのかを、それは、知らなければならないのです。 私は、空虚の中に生きられません。 私は、何もない状態、何でもないことに、生きられません。 いいですか?
47:51 で、そういうわけで、継続の本性と、 全的に終わることの性質を、理解することが、 とても重要なのです- 未来の動きなしに、です。 で、死は言います - 「何にも執着するな」と。 初めに、心理的に、です。 それから、あなたは、物理的に、いかに執着しないのかを、見出すでしょう。 もしもあなたが、自分の妻や夫に、「ダーリン、 私はもうあなたに、執着していない」と言ったなら、 たぶん彼女は、あなたへ煉瓦を投げつけるでしょう。 または、あなたは、逃げるでしょう。 重要性を見てください。 それは、おかしく聞こえますし、 それは、なかなかおかしいです - なぜ私たちが、こんなに執着していて、 私たちが、けっして手放さないのかは、です。 で、問いは、こうです - あなたは、自由に生きられますか。 それは、執着がない、 毎日、あらゆる形の取りすがり、 何かを握りしめるのを、終わらせる、という意味です。 それは、あなたは、毎日、生を、終わること、 すなわち、死とともに、生きられるのか、という意味です。 質問を理解されますか。 あなたは、それを試したことがありますか- 理論的に、ではなく、実際に、です。 それは、あなたは、どこにも根を持たない、という意味です。 あなたは、何とも同一視されていないのです - あなたの国、あなたの家族とも、です。 私たちは、心理的に、話しています。 それで、頭脳は常に、空っぽです。 しゃべっていません。 理解されますか。 なぜなら、私たちは、これらすべての一連の葛藤をとおして、 自らのエネルギーをむだにしつつあるからです。 そして、恐れがあるところ、それは、むだの典型です。 それは、むだの総和です。 私たちは、エネルギーが必要です- ものすごいエネルギーが、です。 あなたは、お金を稼ぎたいとき、ものすごいエネルギーを、持つように - あなたは、有名になりたいとき、 性的な欲望、要求を持つとき、 あなたは、ものすごいエネルギーを、持っています。 ですが、見たところ、 そのものすごいエネルギーが、心理的な世界で、必要であるところ、 そのエネルギーは、恐れ、葛藤、混乱により、むだにされます - そうね、その他すべてによって、です。
51:40 で、私たちは、訊ねています。 日常生活を生きることは、可能ですか - 何かロマンチックな、イデオロギー的な、ユートピア的な戯言ではなく、 実際に、私たちの日常の存在において、 死と生と一緒に、生きることは、可能ですか。 あなたは、それの美しさが、見えません。 あなたは、そのとてつもない性質の本性が、見えません。 ですが、あなたが、それに深く入るなら、そういう深みに、出くわします。
52:28 さて、私たちは、ともに話し合うべきです - 宗教とは何ですか。 すべての文明は、新しい文明の誕生は、 宗教から出てきたものであったのです。 司祭者たちが、宗教を何にしまったのか、ではない。 組織されている宗教 - 資産をもち、金銭をもち、 権威、上下関係の権威をもち、寺院、神殿、モスク、 教会をもったものではない。 それは、宗教ではありません。 それは、すべて思考の大きな活動です。 ですね? どうぞ、それを拒絶しないで、検討してください。 儀式すべては、思考により組み立てられてきました。ですね? すべての衣装、奇抜な衣服 - それはすべて思考により組み立てられています。 すべての大聖堂は、思考により、組み立てられてきました。 象徴、原罪、救い主 - そのすべては、それらを考え出してきた人々の結果です。 彼らは、それは直接的な啓示である、と言うかもしれません。 啓示すべては、思考により翻訳されます。 で、今あるような宗教は、 目的をもち、一方向へ、方向づけられた活動です。 人を助けるためだけではなく、 人を制御するためだけではない - それ(マン)は、女などを意味しています。 人を文明開化させるためだけではない。 また、それらをしようとする試みの中、 彼らはまた、戦争をも、創り出してきました。ですね? 百年の宗教戦争など、です。 すべての宗教は、互いに戦争をしています。 ですね? あなたは、これらに注目したことが、ありますか。あるにちがいありません。 あなたたちは、みんな、いわゆる文明開化した人々です。 あなたは、これらを読んできました。 彼らは、戦争をしています - 西洋世界の集団全体が、一つのことを、信じています - 教義、儀式、です。 アジアの全体は、彼らの仏教とヒンドゥー教があり、 そして、イスラム世界、です。 そのすべては、宗教ではありません。明白に、です。 なぜなら、それは、思考に基づいているからです。 思考は、記憶です。 記憶は、知識です。 知識は、経験から出てきたものです。 ゆえに、思考は、いつも制限されています - 知識は、いつも制限されているだろうからです。
56:31 で、すると、宗教とは何ですか。 いいですか? 頭脳のあの宗教的な性質が、ありますか - どの導師にも、どの宗派にも、どの認知された正統的な、 しっかり確立された宗教にも、所属しないものが、です。 それで、そのすべてが、完全に脇に置かれるように、です。 それは、見出すための恐れがない、という意味です - あなたを引きとめる背景の感覚が、ないのです。 で、宗教的な精神、頭脳とは何ですか。理解されますか。 幾千年に幾千年をとおして進化してきた 頭脳の性質とは、何ですか。 どうぞ、これらを聞いてください- あなたが興味があるなら、です。 なぜなら、それは、あなたの生であるからです。 時をとおして進化してきた頭脳、 そして、長い幾つもの年代をとおして、多くの宗教が、あったのです。 いつも司祭者が、トップに、です。 なぜなら、或る時に、司祭者たちは、 読み書きをできる唯一の人々であったからです。 彼らは、相談役でした。 彼らは、賢人でした。 彼らは次第に、権威を任じました。 そうね、いいゲームです! で、その宗教の性質を持っている頭脳とは、何ですか - 私たちは今すぐ、「宗教(レリジョン)」という言葉を、定義しようとしています。 この性質を持っている頭脳、です。 私たちは、ともに見出そうとしています。
59:16 「宗教(レリジョン)」という言葉は、語源的に、明確ではありません。 私たちは、こう言います - なぜなら、様々な辞書で、 その言葉の起源を、見たからです。 そこでは、その言葉の語源的な意味について、 結論はない、と言われています。 それは、一つの形の縛りである、と言われています - あなたの最高のものの概念へ、縛る、 あなた自身を、それへ縛る。 それさえ、疑わしいのです。 で、その言葉の語源的な意味、起源は、確定されていません。 で、私たちはその言葉を、玩べます。 で、私たちはともに、見出そうとしています - 宗教とは何ですか。 なぜなら、私たちは、進化の一定段階に、到ったからです - テクノロジー的に、私たちは、ものすごく前進しています。 それには、限界がありません。 心理的に、私たちは、表面を引っ掻いてきただけです。 頭脳は、そういう無際限の能力を、持っていますが、 その頭脳が、プログラムに捕らわれているなら - 理解されますか - コンピューターのように、プログラムに捕らわれている。 イギリス人、ヒンドゥー教徒、その他すべてのばかげた戯言として、です。 そのとき、それらは、生の最もとてつもないことを、 とうてい、探究できません。
1:01:40 これが、冥想が入ってくるところです。 理解されますか。 いかに冥想するか、ではない。 「いかに」という言葉こそが、体系、実践を、意味しています - 何をするかを、教えてくれ、 私はそれを、来る日も来る日も、来る日も来る日も、実践しよう、 一定の姿勢で座り、一定の形で呼吸しよう、と。 ごまかしすべてを、ご存じですね。 それらを、ご存じないですか。 あなたたちの幾人かは、きっとそれらを玩んできたと、私は思います。 インドと呼ばれる、あの不幸な国からの、導師たちは、 ここへ渡ってきて、あなたたちに、冥想について、すっかり語ります。 あなたたちはそれを、真に受けます。 なぜなら、あなたは、騙されやすいからです。 それは、あなたが、疑い、問いを持たない、という意味です。
1:02:59 で、私たちはともに、見出そうとしています - 冥想とは何ですか。 すなわち、宗教とは何かとの関係において、 そして、存在の全体、私たちの日々の存在との関係において、です。 理解されますか。 日々の存在、すなわち、騒動等、などと、 死、自由、そして、 そういう、とてつもない能力を持っている頭脳 - 無際限の能力を、です。 私たちが、冥想とは何かを、訊ねるとき、 それは、体系、方法を、求めることではありません。 なぜなら、あなたが、体系、方法を実践するなら、 それは、機械的になり、 あなたは、その体系に、その方法に、捕らわれるからです。 それの論理を見てください。後生です。 それの真理を、見てください。 それで、あなたは、けっして体系に捕らわれないのです。 なぜなら、頭脳は、安全を要求しているだけではなく - 理解されますか - それは、安全を持たなければなりません。 物理的にも、心理的にも、完全な安全を、です。 さもないと、それは、明瞭に、客観的に、熱情的に、機能できません。 いいですか? で、冥想とは何ですか。
1:05:00 「冥想(メディテーション)」という言葉は、 しっかり考える、物事をじっくり考える、という意味です。 それが、辞書の意味です。 またそれは、測量する、という意味です - サンスクリットでも、語源的に、測量することです。 ですね? それが、その言葉の意味が何であるのか、です。 テクノロジーの世界は、測量があるとき、 存在できるだけです - いいですか? センチメートル、メートル、インチ、フィートなど、それは測量です。 その測量が、可能でないなら、測量がないなら、 テクノロジーは、動けません。 それは、相当に明らかです。 心理的に、内的にも、私たちはまた、測量を持っています。 私はこれである。私はあれになるだろう - それは、測量することです。 それはまた、あるものを、あるべきものに、比較する、という意味です。 どうぞ、あなたたちの精神を、見出すように、これに注いでください - 測量なしに、生きられますか。 いいですか? その質問をしてください - あなた自身を何とも比較しないで、です。 比較は、未来を含意しています。ですね? 私たちは、時の問いへ、入りました。 時は、過去です - 私は再び、それを反復しましょう。 時は、過去です。 その過去は、今です。 あなたは、そこにいます。 今のあなたなるすべては、過去です。 未来は、今のあなたなるものです。 明らかですか。 あなたは、今日、嫉妬深いなら、明日、嫉妬深くなるでしょう。 それは、事実です。 または、千の明日、または、多くの年、です。 あなたは、今、変化しないのなら、明日、嫉妬深くなるでしょう。ですね? で、時は、今に収容されています - 過去、未来と現在が、です。 これは、本当に重要です - 単にその言葉だけではなく、 その深さを理解することが、です。 時の本性を理解する。 測量は、時を意味しています。 比較は、時を意味しています。 で、あなたは、いつも自分自身を、何らかのものと、比較しているなら、 あなたは、あるべきものを、投影しています - ですね? - その、あるべきものを、現在から、です。 ゆえに、未来は今です。 私は、それについて十分に、話してきました。 他の講話で、これへ、きわめて深く入ってきました。
1:09:19 で、頭脳が、比較を持たない、 まったく比較しないとき - ただ聞いてください - 比較がないとき、それは、今あるものです。ですね? 理解されますか。それは、今、それであるものです。 今あるものとともに、留まり、 どの方向にも、唯一つの動きをも持たない。 - 理解されますか -
1:10:04 で、冥想は、時の深みを理解することです。 私たちは、講話のまさに始まりから、 基礎を敷いてきたので - それは、日常生活を取り扱うことです。 そこに、全的な秩序が、なければなりません。 無秩序、ではない。私たちは先日、それについて、話しました。 すなわち、あなたは、自らの家に秩序を、もたらさなくてはいけません - 物理的な住宅において、だけではなく、 あなたが内的に生きるところの家に、 完全な秩序を、です。それは、恐れがないことを、意味しています。 無秩序を創り出すのは、恐れです。 執着が、無秩序を創り出します。 私は、何かを、築いてきました。 私は、それに執着しています。 私は、何かを考案してきました。 それは、私のです。 で、頭脳は、秩序を確立してきたので - 自己中心的な活動からの全的な自由の感覚を、です。 それを持つことは、はるかに困難です。 それは、それに入らなくてはいけません。 私たちは、そうしてきました- ずっと、です。 講話は、私たちの自己中心的な活動を、指摘することでした。 ゆえに、その活動は、制限され、とても小さいのです。
1:12:00 で、冥想は、 秩序があるとき、 それは、とてつもなく静かになる。 観察すること、何かを全的に知覚することは、 混乱があるとき、可能ではありません。 で、頭脳は、何かを全的に知覚できます - それが、絶対的に静かであるとき、です。 私たちは、こうしていますか。 私たちの頭脳は、けっして、静かではありません。 私たちが、講話の始まりに言いましたように、 それは、いつもしゃべっています。 それは、いつも、何らかのことに、占有されています。 で、頭脳は、機械的になり、制限され、 それ自体の中に、軋轢を創り出します。 で、けっして、絶対的な平穏と静寂の性質が、ないのです。 あなたが、あれらの山々と、あれらの雲を、見つめるとき、 その美しさを堪能するには、 あなたの頭脳は、静かでなければなりません。 ですが、あなたは、いつの時もおしゃべりしていて、 けっして見ないで、話して、話して、話しているなら、 あなたは、山の美しさの十分な深さが、見えません - または、夕日が照った雲のそれを、です。 で、論理的に、健全に、頭脳は、絶対的な静けさが、必要です。
1:14:24 そのとき、創造とは何ですか。 そして、考案とは何ですか。 理解されますか。 宗教は、この創造です。 考案ではありません。 考案は、蓄積された思考です - その中に、隔たりがあり、 そのとき、何か新しいことが、発見されますが、 それは、やはり思考の領域の中にあります。ですね? あなたが、理解されたのかどうか・・・ 語り手は、この事柄について、 科学者と、専門家などと、議論してきました。 創造とは何ですか。 赤ちゃんを細胞より創り出すこと、 その他すべて、だけではなく、 それらをはるかに越えて、創造とは何ですか。 誰が創造したのか、ではない- 理解されますか - あなたが、それは神である、と言うなら、それは終了しました。 あなたの神と、私の神と、イスラムの神と、 ヒンドゥーの神と、あなた自身の特定のお気に入りの神。 それは、安易な説明の仕方です。 ほとんどの人々は、それに満足しています。 ですが、あなたが、そのすべてを振り捨て、脱ぎ捨てるなら、 創造とは何ですか。 それは、知識より生まれますか。 それが、知識より生まれるなら、それは、創造ではありません。 なぜなら、知識は制限されているからです。ですね? なぜなら、私たちは、もっともっと多くの知識を、付け加えているからです。 もっと多くが、あるところ、制限があります。ですね? それは、測量になるでしょう。 もっと多い、もっと良いは、測量です。 で、知識があるところ、考案があります。 創造は、知識に関係していません。 ゆえに、世界の絵画すべては、 偉大な創造だと考えられているのですが、 思考の活動です - 異なった方向へ方向づけられたのです。 偉大な芸術家、偉大な詩歌、すばらしい音楽。 それはすべて、思考の活動などです。 私は、それらに入らなくてもいい。
1:17:34 で、創造 - それが、宗教です。 - 理解されますか - 精神は、頭脳は、必要であるところで、知識を持っています - 物理的な世界において、書く、話す、運転する、などです。 そして、知識は、心理的な世界において、何の所をも持っていません。 なぜなら、知識は制限されていて、 ゆえに、分割、葛藤、その他すべてを創り出しているからです。 「私は自分の妻を知っている」と言うとき、あなたは、すでに妻を破壊したのです。 これを理解されますか。 あなたは、これに衝撃を受けませんか。 なぜなら、そのとき、あなたの、他の一人との関係は、 知識に基づいているからです- すなわち、思考に、です。 そして、思考は、愛ではありません。 あなたの欲望、食欲、感受すべては、思考です。 ゆえに、それは、愛ではありません。 愛があるところ、慈悲があります。 全的な自由が、ないとき、慈悲は、生じてこられません。 私は、自分の文化に執着しているなら - 自分の伝統に、自分の宗教に、ヒンドゥーとして、です - それはただ・・・そして、慈悲について話をするなら、それは、子どもっぽい。 慈悲があるところ、智恵があります。 そうなんです。 その智恵は、至高です。 それは、あなたのや、語り手のや、他の誰かのではない。 それは、智恵です。 その智恵には、絶対的な安全が、あります。 他のどこにも、ありません。 で、宗教、冥想は、知識より自由です。 ゆえに、宗教的な頭脳は、創造しています。 創造の状態に、あります。 これらを理解されますか。 たとえ論理的に、知的にでも、これを見てください。 あなたが、本当にそれを理解するなら、 それは、何か、あなたの日常生活を、全的に革命するであろうものです。 私たちは、新しい宗教の始まりでしょう - それは、現在の宗教とは、何の関わりも、ありません。 それは、創造です。 すみません。 講話は、終わりました。 立ち上がってもいいですか。 どうぞ、ご自身のために、拍手してください。