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SA85Q1 - 第1回質疑応答会合 
スイス、サーネン
1985年7月23日 



1:00 ちょっと早いですね! 私は、聞かされました - サーネン(集会)を去り、終わらせるのが 悲しい人々が、とても多くいる、ということです。 悲しいのなら、私たちはそろそろ、去ってもいい頃です! 私たちは去ろうとしていることが、発表されたように、 これは、サーネンでの最後の会合です。
1:56 (書面で)出されてきた質問が幾つも、あります。 それらの問いすべてに答えることは、とうてい期待できません。 それらは、あまりに多くありすぎます。 それらに答えるには、たぶん幾日も掛かるでしょう。 私たちはさらに数日も、堪えられるだろう、とは、私は思いません。 語り手は、これらの問いを、見ていません。 ですが、それらは、よく気をつけて選択されています。
2:38 あなたたちが出されたこれらの問いへ、入る前に、 私はあなたに、幾つか質問をしてもいいですか。 いいですか。すっかり確かですか。
2:56 なぜあなたは、ここに来るのでしょうか。
3:03 それは、良い問いです。 あなたが来られることの「存在理由」や原因は、何でしょうか。 私たちは、質問をしています。 それは好奇心でしょうか。 それは、語り手がここ八十年の間、 築いてきた評判でしょうか。 それは、この谷の美しさでしょうか。 すばらしい山々、 流れる川、大きな陰、 うるわしい丘の斜面ですか。 または、「チェア・リフト」ですか。 何が、私たちをここに、連れてきたのでしょうか。 それが真剣であるなら、 すなわち、私たちが、自らの日々の生に関心を持つなら - 私たちがそれを生きているさま、私たちが持っている問題に、です。 たぶんあらゆる種類の、です - 老齢、死、セックス。 そうですね、私たちの頭脳が慣れている、 諸問題の侵入全体です。 真剣に訊ねてもいいならば、自らは、どう生きるかを、誰かが 語ってくれるのを、期待するのでしょうか - どう検討するのか、何をすべきかを、です。 それが、あなたがここにおられる理由ですか。 または、それは、私たちがここに座っていながら、実際に 自らのあるがままを見たい それをつくづくと検討したい、 それを越えていけるかを見たい、ということでしょうか。 それが理由でしょうか。
5:44 あなたは、それらすべての問いに、とうてい答えられないので、 私が、語り手が、あなたに訊ねています -それは、どういうことなのでしょうか。 理解されますか。 語り手は、二十八年間、この谷に来ています。 このサーネンでは、二十五年間 事が、つづけられてきました。 私たちの生の、大変多くの時間です。 もし、あなたに質問をしてもよろしければ、 そのすべての終わりに、何が残っているのでしょうか。 私たちの生の内容は、何でしょうか。 様式が破られることが、あるのでしょうか。 または、様式や型枠は、何度も何度も反復されつつあるのでしょうか。 質問を理解されますか。 自らが持っている、常の集中した習慣は、 壊すことが、とても困難に見えます - 思考の習慣、自らの毎日の生の習慣は、です。 二十八年か、二十五年の後に、それらを見つめるとき、 私たちが生きている様式が、破られることが、あるのでしょうか。 または、ただ、来る日も来る日も、つづけていき、もう少し付け加え、 もう少し取り去って、 自らの存在の終わりに、 自らが違った生き方をしてこなかったことを、後悔し、罪悪を感じるのでしょうか。 これが、私たちが経ていきつつある過程でしょうか。 私は質問をしています。 ここには、あなたたちが(書面で)語り手に出した質問すべてが、あります。 それは、どういうことなのでしょうか- 私たちの生、 私たちのまわりで起きつつあることすべて、 アフガニスタンなどで起きつつあるおぞましいこと。 それはすべて、ただ向こうに、 このうるわしい土地から、はるか遠くに、あるのでしょうか。 私たちは個々人として、存在の この様式全体のなかで、どこにいるのでしょうか。 ですね?私はあなたに、訊ねています - 濾し器に残っている残滓は、何でしょうか。 あなたは、濾し器が何かを、ご存じですか。 野菜や米、他のものを、洗うとき(のもの)、です。 で、私たちには、何が残っているのでしょうか。
9:53 で、私は、質問をするのを、止めました。 あなたは、日々の思考で私たちへ何が起きているに、気づいていますか。 あらゆる情動、反応、応答、習慣に、気づいていますか。 または、それはただ、川のように、流れ去っていきますか。
10:41 これらの問いの中で、あなたは初めに、どれに答えたいと思うでしょうか。 第一の質問: 「あなたのいう創造とは、どういう意味ですか」 第二の質問: 「様々な教師、導師たちは、自分たちは本質的に、 あなたと同じ教えを与えていると、言います。 あなたは何と言いますか。」
11:07 これらの問いを理解されますか。 第三の質問: 「罪悪は何でしょうか。 自分は絶望的です。なぜなら、罪悪を引き起こした行為は、 けっして根絶できないからです。」
11:26 いいですか?私は、これらの質問を読みつづけられます。 あなたは初めに、どれに答えてほしいと、思うでしょうか。 導師たちですか。 創造とは何か、ですか。 ああ、私は忘れました。 罪悪ですか。 様々な教師たちから、始めていいですか。
11:59 「様々な教師、導師たちは、自分たちは本質的に、 あなたと同じ教えを与えていると、言います。 あなたは何と言いますか。」
12:13 「様々な教師、導師たちは、自分たちは本質的に、 あなたと同じ教えを与えていると、言います。」 あなたは、問いに、その発言にどう応答しますか。いいですか?
12:36 なぜ彼らは自分自身を、語り手と比較するのか、と思われます。 なぜ彼らが、「語り手が言っていることは、 私たちもまた言っていることである」と、 考えることさえするかは、疑問です。 なぜ彼らは、これらのことを言うのでしょうか。 私は、これが事実であるのを、知っています - インド、ヨーロッパでも、アメリカでも、 様々な、でっち上げられた導師たち、 様々な集団が、います - 「ええ、私たちもまた、あなたが行っているのと、 同じことへ行っています。 同じ川沿いに」と言うものが、です。 これは、語り手当人へ述べられてきましたし、 私たちは、これら導師とともに、この事柄について議論してきました - これら地元や外国の、 何と呼ぶのかな、指導者たちとともに、です。 私たちは、この問いに入ってきました。
14:07 まず第一に、 なぜ彼らは、自らが言っていることを、Kと比較するのでしょうか。 なぜ彼らは、それを主張するのでしょうか。理解されますか。 その裏の意図は、何でしょうか。 それは、(パレードで)同じ楽隊車に乗ることでしょうか。 理解されますか。 それは、彼らが、自分たちは「そこそこ」でないかもしれないが、自分自身を Kと比較することにより、自分たちは、 「そこそこ」になるかもしれないと、考えるからですか。
14:54 で、彼らとともに、彼らの何人かとともに話し合う中で、 私たちはそれに入りました。 まず第一に、私は、彼らが言っていることを、疑います。 私は、語り手自身の経験を疑います。 疑い、不信があります - 「ええ、まったくそのとおり。私たちは同じ舟に乗っている」と言うのではなくて、です。
15:32 で、もしも私たちが、疑いをもち、一定の懐疑の感覚をもって この問いに接近できたなら -双方の側に、です。 「私たちは同じ川で、同じボートを 漕いでいる」と言う人たち - おそらく、彼らははるか先にいて、語り手は、はるか後にいるのでしょう。 でも、それでも同じ川である、と。 で、彼らとともに話す中で、 彼らが、疑い、問い、要求するにつれ、 そして、あなたが、さらにさらに、深く深く押すにつれて、 彼らは、終わりへ来るのです。 それの終わりに、 語り手は、彼らの多くが言うのを、聞いてきました - 「あなたが言うことは、真理です。 あなたは真理を体現しています」と、それらの事柄を、です。 で、彼らは言う、等です。 彼らは敬礼して、去っていきます - 「私たちは、普通の人々に対処しなくてはいけません。 だから、これは、エリートのためだけです」と言って、です。 私は、「二重の戯言だ!」と言いました。 理解されますか。
17:10 で、なぜ私たちは、そもそも比較するのでしょうか - 様々なものの間、 「私の導師のほうが、あなたの導師より良い」、だけではなくて、です。ですね? なぜ私たちは、物事をありのままに、見つめられないのでしょうか。 問うこと、疑うこと、訊ねること、要求すること、探検すること。ですね? 「私たちの側のほうが、あなたの側より良い」とか、「こちら側のほうが、 あちら側より良い」とか、「私たちはみんな、同じことをしている」と けっして言わないこと。 先日、私は聞きました - 「あなたが語っていることを、私も語っています。 違いは何ですか」というのを、です。 私は、「まったくない」と言いました。 私たちは、同じ言語を使います- 英語か、フランス語か、 少しのイタリア語。 私たちは、同じ言語を使います。 しかし、言葉の向こうに潜んでいる内容、深みは、 まったく違っているかもしれません。 私たちは、たやすく説明に、叙述に、 満足します - そうね、光輝すべて、 栄光すべての感覚、道具立てすべてに、です。 私たちは、それらに感銘を受けます。 私たちの頭脳は、ごく単純に働きません。 それが、私たちの問い、私があなたに訊ねたいと思うことの、一つです。
18:57 あなたは、自分の頭脳がどのように働くかを、見守ったことがありますか。 外部者として見守り、自分の頭脳が作動するのを、見守る。 理解されますか。あなたはそうしたことが、ありますか。 または、頭脳は、その古い習慣、信念、教義、 儀式、ビジネスなどの中で、つづけていっているのでしょうか - ただ機械的に、つづけていっている。 訊ねてもよろしければ、あなたの頭脳は、そのようですか。 静寂。 あなたは、一つの思考がもう一つの思考を追いかけているのを、見守ったことがありますか - 一連の連想、一連の記憶、 自分の経験に取りすがること。 先日、アメリカで、 私たちがしばらく知っていた人物が、 その人物は、自分の経験に沿って生きる、と言いました - 自分の経験が教えてくれた、 自分の経験は本当で、現実で、とても深い、と。 その経験のみが、彼にとって重要でした。 私たちは、あれと競争できません! 私たちは言いました - なぜあなたは、自分の経験を疑わないのですか、 それは・・・ それは現実なのかもしれないし、想像上かもしれないし、 ロマンチックで、感傷すべてと その他すべてなのかもしれません。 なぜあなたは、自らが言うこと、「私の経験が教えてくれる」そのことこそを 疑わないのですか、と。内的に、です。 その人物には再び会っていません。 理解されますか。
22:42 で、これらすべてのことに気づくことが、 必要ではないですか - なぜ彼らは比較するのか、 なぜ彼らは、「私たちはみんな同じ舟に乗っている」と言うのか。 私たちは、同じ舟に乗っているかもしれません。 たぶんそうでしょう - 私たちのみんなが、です。 しかし、なぜ、私たちはあなたと同じ舟に乗っていると、想定するのですか。 理解されますか。 それは、願望でしょうか・・・ ああ、私は知りません。あなたは、それについてすべて、ご存じでしょう。 で、私たちは、どの導師、どの指導者をも、受け入れないで - 特に、語り手を含めて、です。 けっして、何をも、心理的に受け入れない - 私たちが、自分たちの関係において、自分たち自身を見守ってきたこと以外に、です。 私たちは、自分たちの話し言葉、声、 声の調子、使う単語を、見守ってきました - それらを、です。 一日中、または、一日の幾らかの時間、 それらに気づきうるのでしょうか。 そのとき、おそらくあなたは、どの導師、どの指導者、どの書物も要りません - 語り手のそれを含めて、です。 そのとき、何か全然違ったことが、起きているのです - 本当に注意しているとき、です。 ですね?
24:37 次の質問へ行ってもいいでしょうか。 やれまあ!
24:58 罪悪か。
25:01 私は、問いを読まなくてもいい。 それはすべて、ここでかなりごたまぜになっています。
25:18 なぜ私たちは、罪悪を感じるのでしょうか。 その言葉が何を意味するかを、ご存じですね。 罪責、罪。 なぜ私たちは、罪悪を感じるのでしょうか。 多くの人々はそうです。 それは、彼らの生を苦悩させます。 そのときそれは、甚大な問題になります。 罪悪は、きわめて多くの人々における背景です。 信じないことでの罪悪。 集団の残りでないことでの罪悪。 罪悪 - そうね、罪悪の感情です。 言葉ではない。その言葉の裏の感情 - 自らが何か間違ったことをした、というもの、 そして、悔恨について罪悪、 心配を感じ、ゆえに怯えて、不安定です。 この罪悪は、私たちの生においてきわめて歪曲する要因です。 これは明白です。 で、なぜ私たちは、この感情を持つのでしょうか。 ブロックウッドには、列車がない! 航空機がない。 私たちはともに、静かに話せます。 しかし、あなたたちは、これらの山々を、惜しむでしょう。 たぶん、そういうわけで、あなたたちは悲しいのです。
27:35 私たちは訊ねています - なぜ私たちは、この悔恨の感情を、持つのでしょうか。 それは、私たちが、何か正確なことを、してこなかった、ということでしょうか - それは、実用的ではないし、 環境により組み立てられていないし、 私たちがそれに逆らわなくてはいけないこと、です。 感じる人や感じる女の罪悪 - 彼は、自分の国の戦争を、支持してきませんでした。 あなたは、罪悪の様々な形と、それの原因を、知っています。 私たちは訊ねています -なぜこの感情は、存在するのでしょうか。 それは、私たちが責任を持たないからでしょうか。 理解されますか。 私たちは責任を持っていない、 自分たち自身に優秀さを要求していませんね? あなたは、私の言葉に付いてきて・・・
29:07 さて、ちょっと待ってください。 語り手は、訊ねています - それは、私たちが怠けて、怠惰で、不注意である、 ゆえに、わずかに無責任である、ということですか。 その無責任に向き合って、私たちは、罪悪を感じるのでしょうか。 私は、誰かに従ってきました。 仮に、私は誰かに、自分の導師に従ってきたと、します - あらゆる種類のこと、セックスなどに耽溺してきた人に、です。 彼がしてきたように、私もしてきました。 しかし、彼は心変わりをします。 彼は老いてしまった。彼は、「もういい」と言います。 彼の弟子たちは、「もういい」と言います。 理解されますか。 自らは、その導師に従うために、これらすべてのことを、してきました。 導師は、かなり年老いてしまい、「もういい」と言います。 私は感じます - 「なんとまあ、私はこれをすべきでなかった。 私は間違っていた」と。 付いてきていますか。 罪悪の主題全体です。 なぜか。そして、私たちはそれを、どのように取り扱うのでしょうか。 そちらのほうが、重要です。
30:46 私たちは、どのように悔恨を知るのか、感じるのか、持つのか - ・・・、自らのありのままでいないことに、です。 ゆえに、自分たちへ損害を引き起こすことを、やることに、です。 ゆえに・・・ 山々のほうが、騒音がこだまします。 それらのほうが、騒音を立てます。 で、私たちは、それをどう取り扱うかを、見出しましょう。 それについて何をするかを、見出しましょう。 それの原因を究明するのではない- 私たちは知っています。 私は、何か適切でないこと、 正確でないこと、真実でないことを、してきました。 私は後で悟ります - それを産出した行為が、 かなり遺憾で不運であり、他の人たちへ 不幸せを、引き起こすことを、です。 そして私は、罪悪を感じます。 異なった原因を持った 同じことの様々な形 - ですね? で、私たちは、罪悪を持つとき、何をするのでしょうか。そして、 それをどのように取り扱うのか。ですね? あなたはそれを、どのように取り扱うのでしょうか。 それへの、あなたの接近は、何でしょうか。 質問を理解できますか。 あなたはどのように、問題に近づきますか。 それは、あなたはそれを解消したい、ということですか - あなたはそれを拭い去りたい、それで あなたの頭脳がもはや、それに捕らわれていないように、ということですか。 で、あなたはどのように、それに接近しますか。 それを解消したいとの願望をもって、ですか。 理解されますか。 罪悪から自由になりたい。 あなたはどのように、それへ来ますか。 それが、とても重要なのでしょう - あなたがどのように、問題に接近するかが、です。 もしあなたが、その問題のための方向を持っているなら、 - それは、あのようにとか、あのように解決されなければならない、と - 方向が、いいですか?または、動機があるかぎり、 そのとき、その動機や方向が、主題に指図します。 理解されますか。 で、私たちは、何の動機もなく、問題に接近するのでしょうか - この罪悪のような、です。 質問を理解されますか。 または、いつも動機をもって、どの問題にも接近しますか。 私たちはこのことに、一緒に出会っているのか、と思われます。 どの背景知識の感覚もなく- それが動機です - 問題に接近し、まるで初めてかのように、それを 見つめることは、可能でしょうか。 私たちはそれをできるでしょうか。 理解されますか。
35:16 で、二つのことが、関与しています - あなたがどのように接近するのかと、問題は何なのか、です。 あなたは、問題を持っているでしょう- それらを多くです。なぜでしょう。 金銭、セックスの問題だけではない。 うるわしい朝です。 雲一つない、晴れた青空です。 彼らは楽しんでいます! 問題とは何でしょうか。 私たちは問題を非難しているとか、 それはこのようにとか、あのように解決されなければならないと 言っているとか、ではありません。 私たちは、問題自体を問うています - その言葉、 その言葉の内容、主題、 何か答えなくてはいけないこと、です。 それが、ビジネスの問題でも、 家族の問題でも、性的な問題でも、霊的な問題でも - すみません、引用符つきの「霊的な」問題です - 誰に従うべきか、指導者の問題。 政治的に、です。 それは問題です。 なぜ私たちは、問題を持つのでしょうか。 私たちは彼らに、他のどこかへ行くよう、頼めるのでしょうか。 いいです。
37:26 で、初めに、「問題(プロブレム)」という言葉を、検討しましょう。 辞書によれば、 問題(プロブレム)は、何か投げつけられたものを、意味しています - 何か、あなたに対して推進されたもの、です。ですね? 挑戦、あなたが答えなくてはいけないこと、ですね? その言葉の意味は、何かあなたに投げつけられたものです。 いいですね? 私たちはそれを、問題(プロブレム)と呼びます。 なぜ私たちの頭脳は、問題を持つのでしょうか。 質問を理解されますか。 少しそれに入っていいですか。 いいですか? どうか、語り手が言うことを、何も受け入れないでください - 何をも、です。 ともにそれを検討しましょう。 この問い、問題を探検しましょう。
38:54 子どもの頃から、あなたが初めて・・・ 私たちはみんな、彼に、消えてしまえと、叫んでいいですか。 子どもの頃から、女の子や男の子が学校へ送られるとき、 その子は、読み書きの仕方を学ばなくてはいけません。 読む、書く。 その子は一度も、読んだり、書いたりしたことが、ありません。 で、書くこと、読むことが、その子にとって、問題になります。ですね? 彼が成長するにつれて、彼の頭脳は問題へ訓練されてきました。 明白です。 学校 - 私は、数学、化学、生物学、理科、物理学を、 学ばなくてはいけません。それから、 高校、専門校、大学。 それの過程全体 - それらを学ぶことは、問題です。 それで頭脳は、諸問題に条件づけられるのです。ですね? これは事実です。 私の妻は問題になる。 彼女にとって、私は問題になる。 ビジネス、神 -あらゆる物事が、問題です。 どう生きるのか、何をするのか、等々です。 で、私たちの頭脳、あなたの頭脳は、問題とともに生きるよう、 条件づけられ、教育されるのです。 これは事実です。 語り手による創案ではありません。 それはそのとおりです。 で、私たちの生、生きること全体が、問題になるのです。 ですね? で、私たちはこれを、事実として見つめられるでしょうか - 観念や理論として、ではなく、事実として、です - そして、私たちが何をできるかを、見られるでしょうか。 頭脳は自由であって、問題を解決できるのかどうか - すでに諸問題で曇っている 精神でもって、接近するのではなくて、です。 質問を理解できますか。いいえ? 私は学校へ行っていました。 私は学校へ行っていました。 そこで私は、教師が言っていることの何にも、興味を持っていません。 私は窓の外を見ていて、楽しんでいます。 彼は私の頭を、バンと叩いて、私は、はっとします。 彼は、「書きなさい」と言います。 彼は、私の手を取って、導き、私は、「なんとまあ、 私は学ばなければ」と言います- 付いてきていますか。 それは、私にとって問題になります。 私は学ばなくてはいけません -読み書きだけではなく、 数学、地理、歴史、政治、そうですね。 で、私の教育全体が - 私は教育に反対していません。 私は指摘しています - 私の教育全体が、ものすごい問題になるのです。 私は、博士号に通り、何者かになれるなら、 それはやはり問題です。 で、頭脳は子どもの頃より、諸問題とともに生きるよう、 条件づけられます - ですね?
43:23 さて、私たちの問いは、こうです - 諸問題から自由であり、それから 問題を攻めることは、可能でしょうか。 理解できますか。 問題はあります。 しかし、頭脳が自由であるのでなければ、私はそれらを解消できません。 それは自由でないのなら、 一つの問題の解決の中、他の問題が創り出されます - 政治のように。 あなたがそれに気づいているのか、私は知りません。 哀れな人らは、一つの問題を解決しますが、 そこには、一ダースもの問題が、関与しています。 彼らは、一ダースもの問題を取り扱えません。 彼らは、それから離れ去り、他の何かに取り組み、 これをつづけていきます。ですね? で、語り手は訊ねています - 私たちは、初めに諸問題から自由であり、頭脳の条件づけを 解けるでしょうか - すなわち、諸問題とともに生きるよう、 教育されてきたものを、です。 いいですか?明らかですか。やっと!
44:36 さて、前進しましょう。 それは可能でしょうか。 あなたが私に答えてください。 自由であり、それから問題に取り組むことは、可能でしょうか。 おやまあ!ここは何と騒がしいところでしょうか! あなたは、どのようにその問いに答えますか。 それは可能であると、言いますか。 または、それは不可能であると、言いますか。 あなたは、それは可能であるとか、不可能であるとか言うとき、 すでにあなた自身を阻んでいます。 ですね? あなたはすでに、扉を閉めてしまいました。 あなたは、自分自身が究明するのを、 問いに入るのを、妨げてしまいました。
45:48 で、私たちは言っています - 頭脳を、その教育された諸問題の世界から、自由にするには・・・ それは条件づけられています。 その頭脳は、条件づけを解かれうるでしょうか。 初めに私は、問いを、理解しなければなりません - 問いに何が関与しているかを、です。 それを究明する。 それから要点に来ると、それは、自らの条件づけから、自由でありうるでしょうか。 理解されますか。 あなたは、何をしますか。または、しませんか。 どうか、眠らないでください。 あなたは、何をしますか。 または、しませんか。 すなわち、あなたはどのように、あの列車の雑音を、聞きますか。 ガタゴトという音 - あなたはそれを、どのように聞きますか。 それはそこにある。 あなたは、それをどのように聞きますか。それに抵抗しますか。 または・・・私はもはや、あなたに告げないでしょう。 あなたは、それに抵抗しますか。 または、「それは生の一部である。 過ぎ去らせよう」と言いますか。 理解されますか。 あの雑音は、つづいています - ガタゴトいう音、卑俗さ、すべての音楽、いわゆる音楽。 それは注がれています。ですね? あなたは、それらに抵抗しますか。 または、それを流す、流れ去らせるでしょうか。 理解されますか。
47:54 で、ここに問いがあります。 頭脳を、この教育の条件づけより、 自由にすることは、可能でしょうか - 頭脳がそこに条件づけられている 状態を、もたらしてきたものより、です。 そして、その条件づけより、自由であることは、です。 私はそれに入っていいですか -いいですね? 語り手は、それに入ろうとしています - あなたに何をも確信させるためではない。 ただ示すように、です。 あなたは、ウインドウを通り過ぎます。 そして、ウインドウ、お店を、見つめます。 衣服すべてと、その中にあるものすべてを、見つめます。 あなたは、そこから去ってゆき、もう一つのお店を見つめます。 あなたは、ウインドウ・ショッピングをしています。 あなたは、何をすべきでもありません。彼が何を言っているかを、ただ見出してください。 彼が何を言っているかを、聞いてください。 受け入れたり、拒否したりせず、ただ見る、聞く。 頭脳は、この諸問題の文化・養成全体へ、条件づけられています。 それは、それへ条件づけられています。 それは、すてきな言葉です - 諸問題の文化・養成とは。 条件づけられた頭脳は、観察者より異なっているのでしょうか。 質問を理解されますか。 頭脳、私の頭脳は、分析している私より、異なっているのでしょうか - 見つめ、引き裂き、検討し、受け入れ、 受け入れないでいる私より、です。 その観察者は - 「私はそれを見つめている」と言う人物、 彼は、頭脳より異なっているのでしょうか。 質問を理解できますか。 それは、とても単純な問いです。 錯綜させないでください。 怒り、貪欲、妬みは、私より異なっているのでしょうか。 または、私が怒りです。 怒りは私です。貪欲は私です。 その性質は私です。 何の違いもありません。 しかし、文化、教育が、私たちに、その二つを 分離させてきました - ですね? 妬みがあります。 私は、それより異なっている。 私は、それを制御しなければならない。 または、それに耽溺しなければならない。 それにより葛藤があります。あなたが付いてきているのか、私は知りません。 または、暴力は私でしょうか。 暴力は、何か私より異なったものではありません。 私は暴力です - 「私」は、です。 これが見えますか。 私たちはこれが見えますか。 ひとたび、この事実を悟るとき - すなわち、その性質と私との間に、何の違いもないのです - そのとき、全然違った動きが、起きつつあるのです。 何の葛藤もありません。 理解できますか。 何の葛藤もありません。 分離があるかぎり、私には葛藤があるのです。
51:58 今、私は、これを悟りました -すなわち、私はその性質である、 私は暴力である、 私、「私」が、貪欲で、妬み、 嫉妬深い、その他すべてです。 で、私は、自分の中のこの分割を、すっかり廃止したのです。 私はそれです。 私は至高のものである、ということではない - サンスクリットで、ね。 私はそれに入らないでしょう。 私はその性質です。 で、私の頭脳は、その事実とともに留まれるでしょうか。 その事実とともに、居られるでしょうか。 質問を理解されますか。 私は、私の頭脳は、 とても活動的で、とても生きていて、 考え、見守り、聞き、試し、努力していますが、 その頭脳は、私がそれであるとの事実とともに、留まれるでしょうか。 逃げ去らず、制御しようとせず、それとともに居る。 なぜなら、あなたが制御する瞬間、 制御者と制御されるものが、あるからです。 ゆえに、それは努力になります。 どうか、それはとても単純です。 あなたは、本当にこの真理を、この事実を掴まえるなら、 努力をすっかり消去します。 努力は、矛盾を意味しています。 努力は、私はそれより異なっていることを、意味しています - そうですね、それらの事柄を、です。 で、ひとたび、実際の事実が見えるなら - 観念ではなく、あなたは、あなたの性質であるとの実際が、です。 あなたの怒り、あなたの妬み、あなたの嫉妬、 あなたの憎しみ、あなたの不安定、あなたの混乱 - あなたは、それなのです。 言語的に認知したり、言語的に合意したりではない。 そのとき、私たちは互いに出会いません。 ですが、あなたが実際にこの事実が見えて、それとともに留まるなら - それはできますか - あなたがそれとともに留まるとき、そこには、何が含意されているのでしょうか。 注意、ですか? それを離れる何の動きもない。 ただそれとともに留まってください。 激しい痛みがあるとき、それとともには留まれません。 しかし、心理的にそれとともに留まり、 内的に「ええ、そのとおりです」と言うなら - それは、何の動きもない、という意味です。ですね? 事実より離れる、何の動きもない。 で、事実より離れる何の動きもないとき、 本質は、何の葛藤もないのです。 そのときあなたは、頭脳の様式を破ったのです。 なぜなら、それは、「私は何かをしなければならない」と言うからです - 「何が正しい すべきことなのか。誰が私に、正しいすべきことを、教えてくれるだろうか。 私は精神科医へ行かなければならない」と。 それらの、起こることを、ご存じでしょう。 しかし、ひとたび、あなたが宝石を持っているとき・・・ それは、宝石を持っているのに、似ています。 驚くほどに組み立てられ、刻まれています。 あなたは、それを持っています。 あなたは、それを見つめています。 内側、外側すべてが見えています -それがいかに組み立てられているのか、 プラチナ、金、ダイアモンド、それらです。 あなたは、それを見守ります。 なぜなら、あなたがその宝石であるからです。 あなたが、これらの中心です。 大変複雑で微妙な宝石 -あなたは、そこからです。 その事実が見える瞬間、 全体のことが、違っています。ですね?
57:10 で、罪悪 - すみません。私たちはそれから離れてしまいました。そうせざるを、えませんでした。 罪悪。 それは問題ではありません。 今、理解されますか。 それは事実です。 それは、何か解消されるべきこと、 何か乗り越えられるべきことではありません。 あなたは、何かをしてきました。 それは事実です。 あなたは罪悪を感じます。それは事実です。 あなたは、それとともに留まります! 宝石のように、それとともに留まります。 なかなか不快な宝石です。 しかしそれは、やはり宝石です。 で、あなたはそれとともに、留まります。 あなたがそれとともに留まるとき、それは・・・どうか聞いてください。 それは、花開きはじめます。 そして、萎れはじめます。 理解されますか。 花のように、もし、根が適切に働いているかを 見るために、引っ張りつづけるなら、 花はけっして、咲かないでしょう。 しかし、ひとたび、事実が見えて- それが種子です - それとともに留まるなら、そのときそれは、自体を充分に示すのです - 罪悪の意味合いすべて、 その微妙さの意味合いすべて、それがどこに隠れるのかを、です。 それは花に似ています。咲いています。 あなたが行為せず、「私はしなければならない、してはならない」と言わずに、 それに花咲かせるなら、それは萎れはじめ、死ぬのです。 どうか、これを理解してください。 あらゆる主題について、それができます。 神について、何についても、です。 そのときあなたは、それらへ洞察を持ちます。 それは洞察です。単に思い出、付け加えだけではない。 これは明らかですか。 あなたはそれを発見するなら、これがそのとおりであるなら、 それは、何か心理的に尋常でないことです。 あなたを、自由にしてくれる要因です- すべての過去の格闘と、 現在の格闘と努力から、です。
1:00:06 「あなたのいう、創造とは、どういう意味でしょうか。」
1:00:10 私たちは、それに入りましょうか。 それは、かなり複雑な問題です。 私はもう一度、問いを読みましょう。 「あなたのいう創造とは、どういう意味でしょうか」 - 語り手がいうのは、どういうことなのか。 私はむしろ、その問いを、あなたに出したいようにも、思います。
1:00:34 たくさんの人々が創造について、話をします。 彼らはみんな、それについて話しています - 天体物理学者と哲学者と 理論哲学者たち。ですね? 神が創造なさった、などと。 これは、とても深刻な問いです。 古代のヒンドゥー、古代のヘブライ人は、この問いを立てました。 単に近頃の科学者だけではない。 これは、ものすごい問題でした - 彼らが理解したい主題でした。 これに入っていいですか。 これに興味がありますか。
1:01:25 創造とは何でしょうか。 あなたは、その問いを訊ねるとき、また、問いを訊ねなければなりません - 創案、発明とは何でしょうか、と。 創案、発明は、創造でしょうか。 理解されますか。 研究室の科学者は、実験しています。 彼は、何か新しいものに、出くわします。 彼は、それの特許を得て、 そこからお金を稼ぐ、その他すべてです。 創案、すなわち、何か新しいものを発明すること、 それは創造でしょうか。 どうか、気をつけてください。同意や不同意をしないで、ただそれを見てください。 創案、発明は、知識に基づいています。ですね? これに付いてきていますか。 それは、他の誰かの以前の実験に、基づいています。 それらすべての実験は、現在における知識です。 あなたは、それに付け加えます。 これはそのとおりです。 プロペラなしのジェットを 発明した人 - 初めに彼は、プロペラについてすべて知りました - 内燃機関とプロペラ、です。 そのとき、その知識は十分でありませんでした。 彼はその知識を脇に置いて、待ちました。 それから、知識からアイディアを得ました。 初めに彼は、プロペラ、内燃機関について、知識を 持たなくてはいけませんでした。 それから、新しいアイディアが、入ってきました - それが、ジェットです。ですね? 私はそれを、不正確に、または誇張して、表しているかもしれませんが、 これはそのとおりです。 すなわち、理論物理学者や、 あらゆる種類の科学者は、 初めに知識を持つ - 微細な知識さえも、 または、大変多くの知識を、です。 そこから、新しい霊感が来ます。 その霊感が、創案、発明です。 で、私たちはいつの時も、付け加えています。 それは創造でしょうか - それは、知識に基づいています。 そして、知識の帰結です。 理解されますか。 それが創造でしょうか。 または、創造は、知識とは何の関わりもないのでしょうか。 質問を理解されますか。 創造は、一連の創案、発明であるのか - 宇宙では、ブラックホールとか、何か新しいものが、発見されます。 彼らは、以前のその知識へ付け加え、付け加えています。 明白に、彼らが火星、水星、 金星、土星を見て、彼方へ行くとき、 彼らは、金星が何でできているかを、知ります - 様々なガスなどなど、です。 しかし、彼らがガスとして解釈したもの、それは金星ではありません! 理解されますか。さあ、どうぞ! 「金星」という言葉は、金星ではありません。 作りあげられたガスが、金星を構成しますが、 それは、朝早くとか、遅く晩に見える あの美しいものではありません。ですね?
1:06:06 で、私たちは訊ねています - 創案、発明は、創造より全然違っているのでしょうか。 それは、創造は、知識といかなる関わりをも持たない、という意味です。 あなたは、これをかなり困難だと見ようとしています - もし気になさらないなら、 もし、よろしければ、もし、疲れすぎておられないなら、 もし、まだ、究明するエネルギーを、お持ちであるなら、 私たちはそれに入るでしょう。 私たちは訊ねています - 私たちは、創案、発明が何かを、知っています。 語り手が言っていることを、受け入れないでください。 それはひどいでしょう。 それは、あなたを破壊するでしょう。 単に、「はい、はい」と言うだけ - それは、あなたの頭脳を破壊するでしょう。 他の人たちによって破壊されてきたように、です。 語り手は、あなたの頭脳を破壊しようとか、または、 すでに損傷された頭脳へ付け加えようとかの意図を、持っていません。 いいですね? で、彼は言います -懐疑的であり、問うてください。 受け入れたり、拒否したりせず、ただ見出してください、と。 私たちは、創案、発明が何であるかを、知っています。 少なくとも、語り手にとって、それはきわめて明らかです。 それは、あなたにとって明らかである、という意味ではありません。 私たちは訊ねています -創造とは、何でしょうか。 私たちは十分間で、この問いに答えなくてはいけません!
1:07:48 創造とは何でしょうか。 それは、人の尽力に関係しているのでしょうか。 それは、人の経験すべてに、関係しているのでしょうか - 百万年の時の継続に、です。 どうか、これらを検討してください。 それは、こういう意味です -それは、戦争に、殺すことに、ビジネスに、 人が蓄積してきた記憶すべてに、関係しているのでしょうか。 取得し、蓄積し、集めてきたそれらへ。 そうであるなら、それはやはり、知識の一部です。ですね? ゆえに、それは創造ではありえません。 で、創造とは何でしょうか。 それは - どうか、聞いてください。 それについて何もしないで、聞いてください。 あなたは何もできません。 それは、愛に関係しているのでしょうか。 すなわち、愛は憎しみ、嫉妬、心配、不安定ではない。 あなたの妻への愛ではない - それは、あなたが、自分の妻や夫やガールフレンドについて、 築いてきたイメージへの愛です。 または、あなたが自分の導師について、築いてきたイメージへの、です。 彼に対して、あなたは大きな信心を持っています。 または、寺院、モスク、教会の中のイメージ、像へ、です。 で、私たちは訊ねています - 創造のために、愛は必要でしょうか。 または、愛は、慈悲でもありますが、 その愛、慈悲は、創造でしょうか。 そして愛は、死に関係しているのでしょうか。 これらすべての問いを、理解されますか。 理解されますか。 「理解されますか」と言うのは、すみません - 私はそれを取り下げます。あなたは、聞いているだけです。
1:10:39 で、愛は、自由 - その言葉に特定の意味を、 与えてきた人間たちすべてから自由、 そのすべてから自由でしょうか。 愛は、死に関係しているのでしょうか。 愛、慈悲と死、 そのすべてが、創造でしょうか。 死なしに、創造がありうるでしょうか -すなわち、終わりなしに、です! 知識すべてを終わらせること - ヴェーダンタ。 あなたは、その言葉を聞いたことがきっとあると、私は思います。 「ヴェーダンタ」という言葉は、知識の終わりを、意味しています - すべての理論、注釈とそれらではない。 それではなく、 知識の終わりです - それは死です。 それは、時がない、という意味です。 時がない - それが愛です。 理解されますか。 すみません。私はそれを反復しないでしょう。 反復するとは、私は愚かです!
1:12:22 それで、愛、死。 愛は、慈悲を意味しています。 愛、慈悲は、至高の智恵を、意味しています - 書物と学者の知性や、経験ではない。 それは、一定の水準では必要です。 しかし、その智恵、 すべての知性の精髄は、 愛と慈悲があるとき、です。 死なしに、慈悲と愛はありえません - それは、あらゆることが終わることです。 そのとき、創造があるのです。 それが、万物(ユニヴァース)です - 天体物理学者と科学者たちによる、宇宙ではない。 万物(ユニヴァース)は、至高の秩序です。 もちろんです。日の出と日の入り。 至高の秩序。 その秩序は、至高の智恵があるとき、 存在しうるだけです。 その智恵は、慈悲と愛と死なしに、 存在しえません。 これは、冥想の過程ではありません。 深く、深遠な探究です。 大いなる静寂でもっての探究です - 「私は究明している」ではありません。 大いなる静寂、大いなる空間。 本質的に愛と慈悲と死であるもの - 創造である智恵があるのです。 他の二つが、死と愛が、あるときだけ、 創造はあるのです。 他のあらゆるものは、創案、発明です。