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SA85Q2 - 第2回質疑応答会合 
スイス、サーネン
1985年7月24日 



1:30 私たちの問いを、つづけましょうか。 当分の間、(出された)質問を忘れましょう。 私たちはそれへ、戻ってくるでしょう。
2:00 私たちみんなに、何が起きているのでしょうか - この世界は、すっかりひどいのですが、そこに生きていて、です。 あなたは、そもそも旅行をしたことが、あるなら、 旅行することの危険が、見えるでしょう - 空港の爆破、テロリスト、その他すべて、です。 あなたは、それらを見つめるとき、 どのように世界に、向き合うのでしょうか。 私たちは、老いているかもしれません。 しかし、来たるべき世代、孫、子どもたちなど - 彼らに、何が起きようとしているのでしょうか。 あなたは、そもそもそれを、考慮するでしょうか。 来たるべき世代の未来は、何でしょうか - あなたは、その一部です。 私たちはどのように、彼らを教育するのでしょうか。教育の目的は、何でしょうか。 推測するに、私たちはみんな、教育を受けています。 私たちは、学校、専門校、大学へ行ってきました - 運が良ければ、です。 または、私たちは自分自身を教育してきました - 世の中で起きているこれらすべての出来事を見つめ、 それから学ぶことによって、です。 しかし、その学びは、とても制限されています - とても小さく、狭い。
4:12 もしも、子どもと孫たちや、 ひ孫、玄孫を持っていたなら、 私たちは彼らを、どのように扱うのでしょうか。私たちの反応は、何でしょうか。 私たちは、彼らについて、まったく関心がないのでしょうか。 アメリカでは、家出する子どもが 五十万人ほどいるのだと、思います - ニューヨークと、売春とそれらに終わるのです。 それらが何を意味しているかを、理解できますか。 このような国、残りの世界の一部には、 貧困がなく、スラムがない。 本当に文字通り、飢えている人々が、いないのです。 アメリカには、イングランドには、 スラムがあります。おそらくパリにもです。物乞い、 そして、インドとアジアの、あれらすべての人々、です。 それは、まったくおぞましい。 不面目です。 私たちは、自分たち自身と、来たるべき未来の世代を、見つめるとき、 彼らには、何が起ころうとしているのでしょうか。 その同じ様式が、反復されつつあるのか。 同じ冷淡さ。 何千何万を殺すため、そして殺されるために 軍隊で訓練されることの無責任。 私たちの責任とは、何でしょうか。 または、あなたは、それらについてまったく考えたくないのでしょうか。 または、私たちは、自分の楽しみ、自分の問題、 自分の自己中心的、 自己本位の活動に、関心があるのみでしょうか。
6:47 これは本当に、とても深刻な問いです - 脅かし、苦悩させます。 自らは苦々しくなり、怒るのか、 あるいはまた、お手上げです。 あなたが、このすべてを見つめるとき、 私たちの責任は、何でしょうか。 そのすべての苦悩。理解されますか。 私たちは何をしますか。 私たちは、適切な学校を持っていますか。 これらにおいて、知識はどんな持ち場が、あるのでしょうか。 それが、理論的でも、物理的な知識でも、です - 理論物理学者たちなど、です。 私たちは、これらへどういう関係を、持っていますか。 拷問 - あらゆる国が、他の人間たちの拷問に、耽溺してきました。 私の母が拷問されるかもしれない -理解されますか。 私の息子、私自身が- 私自身ではない - 何か情報のために、拷問されるかもしれない。 何か国家主義的、共産主義的、 何か民主主義的な理由のために、です。 北アイルランド、ベイルートなどで、アフガニスタンで 何が起きているのか。 私たちは、涙を流すのでしょうか。 または、何もできないので、冷笑的に、苦々しくなるのでしょうか。 そして、これらにお手上げでしょうか。
9:45 で、私たちは、これらすべてのことを、考慮しなくてはいけません - 単に、自分たちの前進、自分たちの幸せ、 自分たちの自己中心的な活動だけでなくて、です。
10:10 私たちは、(出された)質問を、つづけてもいいでしょうか。 たぶん、そのほうが、心地いいし、私たちのエネルギーと 頭脳の能力に対して、挑戦が少なく、要求が少ないでしょう。 頭脳は、とてつもない能力を持っています。 あなたが、テクノロジーの世界の前進すべてを、見守ってきたなら - 医薬の分野での エネルギーの量 - それが正しくても、間違っていても、それは私たちの関心事ではありません - テクノロジーの分野、コンピューター、 外科手術、眼の手術で、 ものすごい前進、 計算不能な前進です。 それは、ますます進んでいます。 他の方向には、頭脳はとても制限されています。 その制限は、テクノロジーの世界により、使用されつつあります。 私たちは、非情に搾取されつつあります。 アフリカには、飢餓をとおして意図的に 殺されつつある一部族が、あります。 人々全部が、自らの国から その国の他の地方へ、自らの故郷から はるか遠くへ移されて、です。 共産主義者たちは、それをやってきました。 彼らは、いまだにそうしています。 彼らの強制収容所です。 暴政の強制収容所だけではなく、 また、導師たちの強制収容所も、です。 ですね? 私がそう言うことは、気になさらないですか。 そして、世界の修道士、僧侶すべての強制収容所。 これは本当に、ものすごい問題です。
13:05 第一の質問: 「何かを理解するとき、 この理解によって、行為しなければならないのですか。 または、理解が、それ自体で、行為しますか。」
13:21 「何かを理解するとき、 その理解によって、行為しなければならないのですか。 または、理解が、それ自体で行為しますか。」 いいですか。問いは明らかですか。
13:42 さて、私たちのいうt理解とは、・・・ 私は、この問いを見ていません - これらすべての問いを、です。 私は、自発的に、自然に、そこへ来たいのです。 私たちのいう理解とは、どういう意味でしょうか。 私たちはその言葉を、たやすく使います。 で、私たちは、その言葉の意味を、 究明し、探検しなければなりません。 私たちは、ともに議論し、探検しています。 語り手は問いに答えていません。 ともに私たちは、問いをのぞき見ています。 私たちはともに、初めに、言葉の意味を 究明しています。掘り下げています - 辞書によって、です。それは、言語の普通の用法です。 私たちがいう理解とは、どういう意味でしょうか - 何かを理解する、とは。 自分自身を理解する、 コンピューターがどう働くかを、理解する - それはすばらしいですが。 外科手術の過程全体を、理解する。 私たちがいうその言葉は、どういう意味でしょうか。 それは純粋に、知的でしょうか -「私は理解する」と。 それは、二人の人々の間の、すばやい疎通です。 または、半ダースの人々や、百人の人々との間、です - それは、大事なことではない。 その言葉の意味のすばやい了解、 頭脳へすばやく翻訳される。 即座に、頭脳へ伝達される。 知能は「ええ、私は理解する」と言います。ですね? すなわち、私は問題を持っている。 私はそれを、論理的に考えぬいた。 私は結論に到った。 私はそれを理解する。 または、私は、車の分解の仕方などを、理解する。 すなわち、理解は単に、知的な事柄、 理論的な事柄でしょうか -それについて、私が果てしなく話をできて、 それへますます観念を付け加え、自分は大きくなっている、成長している、 理解していると考えるところの、理論ですか。 その理解の中に、情動的な性質は、あるのでしょうか。 質問を理解されますか。 「これは、まだまだである。それにもっと付け加えなければならない」と、 言う何かが、あるのでしょうか。 すなわち、そのとき、知能がある。情動がある。 行為がある - ですね? 情動は存在します。 当然です。そう願います。 しかし、それら情動は、ロマンチック、感傷的になって、 きわめて表面的になったのか。 そして、感情は、頭脳により認識されなければなりません。 ゆえに、それは頭脳の一部です - ですね? 感じる感受の、想像の感受の部分 - 想像の感受、山と、それの美しさと静寂と 威厳と荘厳さを、見つめることと、 それをキャンヴァスへ表すことや、 それについて詩歌をかくことの感受。 それはやはり、頭脳の活動の部分です。 それら、です。
18:08 で、知能は「私は理解する」と言いますが、 それは、その残りより離れているのでしょうか。 または、知能は、判別し、区別し、 決定する能力であり、そして行為ですか。 いいですか? ゆえに、知能は、他のあらゆる物事を、支配します。 私はとても利巧である -私は、自分がそうでないことを、願いますが、 仮に、私はとても利巧であり、敏い、とします - 知的に、です。 それが、私の生全体を支配します - ついに、私は老齢に始めます。 そのとき、私は信じます。 そのとき私は、カトリック、プロテスタント、仏教徒になる - それが何であっても、です。 そのとき、私は、自分自身とゲームをします。 で、私たちは訊ねています・・・ 私たちは訊ねています - 理解は、全体的な動きでしょうか - 頭脳の行為だけ、知能の行為だけでなくて、です。 質問を理解されますか。 私たちは今、検討しなくてはいけないでしょう - 行為とは何でしょうか。 自らがすべきこととは、何でしょうか - 行為とは。 何が行為を決定するのでしょうか。 質問を理解されますか。 何が、行為をもたらしますか。 私たちがいう行為とは、どういう意味でしょうか - 行為するとは。 質問を理解されますか。 私は、あなたが理解されるのかを、訊ねないことにしましょう。もはや訊ねないでしょう。 私たちのいう「行為」とは、どういう意味でしょうか。 する。 その行為は、理想に基づいているのでしょうか。または、理論に、 結論に、歴史的な結論に、です。 その結論によって - 歴史的、ロマンチック、弁証法的、 または、想像力豊かなもの。 すなわち、それらを一つの言葉にまとめましょう - イデオロギー的な、です。 すなわち、私は観念によって行為します。ですね? で、観念とは何でしょうか。 私たちはなぜ、こんなに多くの観念を、持っているのでしょうか。 「観念(アイディア)」という言葉 - それは正しいとか間違っているとか、ではなく、 私たちは、観念という問いを究明しています。 科学者、物理学者や 科学的な理論哲学者 - 彼らは、観念(アイディア)を欲しがります。 さもないと、彼らは迷った感じがします。 彼らはいつの時も新しい観念を、ほしがります。 で、私たちは、検討しなければなりません。 私たちのいう観念は、どういう意味でしょうか。 それは、元来のギリシャ語から来ている、と 語り手は思います - それは、観察する、観る、という意味です。 事実はある。 そこに時計はある。 それは、11時まで10分だと言う。 それは事実です。 そして、非事実がある。ですね? 非事実は、事実より全的に離れています。ですね? 距離です。 それで、事実と、事実についての観念がある。 それで、私たちは観念を追求します - 観念への究明ではなくて、です。 観念は、事実よりはるかに重要になるのです。 社会主義者、共産主義者、他の人たち、左、右、中道 - 彼らは、観念、理論、結論を持っています - 歴史的、弁証法的なのを、です。 レーニン、スターリン、 または、アダム・スミスのような哲学者と、アメリカの政治家たち。 彼らは人を、それら観念へ適合させようとします。 人たちを適合させるために、彼らは人たちを拷問します。 彼らは、「あなたはこれをできない。あなたはできない」と言います。付いてきていますか。 で、彼らにとって観念は、人間より、はるかに重要になるのです - そちら(人間)は、事実です。
24:22 で、私たちはこれをしますか。 私たちは、私たちの一人一人は、いつも動いて、事実を離れ、 その観念を追求し、その観念に沿って行為しますか - それは、たぶん事実とは、何の関わりもないのです! で、私たちがいう行為とは、どういう意味でしょうか。 あなたは、自分の過去の記憶、経験に沿って、行為するのか、 あるいはまた、未来のイデオロギー的な結論に沿って、です。 未来と過去。 で、あなたの行為は、過去に、または未来に基づいていますか。 ゆえに、それは行為ではない。 ですね? 私たちは、これを明らかにしつつありますか。 私たちが、一定の記憶、結論、経験、知識に 応じて行為するなら、 そのとき私たちは、過去から行為しています。 「行為」という言葉は、する、という意味です。 すること - 過去に沿ってとか、未来に沿ってとか、ではない。 で、問いはこうです - それに入ってください。これはとても深刻です - 時に基づいていない行為は、あるのでしょうか。 悩まないでください。 過去の意義、内容、深い意味を 捉えるならば - いかに過去が、修正されて、自体を未来へ投影するのかを、です。 私は、過去に沿って行為するなら、それは行為ではありません。 それは単に記憶です -一定の結論に到って、行為、です。 または、行為は、何か未来の概念に沿って、起こります。 で、それはいつも、時の分野に、時の循環に 捕らわれています。
27:13 今、私たちは訊ねています - 時に基づいていない行為が、あるのでしょうか。 考えぬいてください。 考えぬいてください。私が、 語り手が説明するのを待たずに、考えぬいてください。 それは、とても単純な問いですが、 ものすごい意味を、裏に秘めています。 すなわち、私はいつも、自分の伝統に沿って、行為してきました。 伝統は、一日の古さなのか、五千年の古さなのかもしれません。 私はいつも、その伝統に沿って、行為してきました。 伝統(トラディション)が何を意味するかは、ご存じですね。(語源は)トラダーレ、手渡すこと。 で、私の親、祖父母、親たち、千の親たちは、 一定の伝統を、手渡してきました - 彼らの思考、彼らの感情の帰結、 様々な世代をとおして次第に染み出てきたものを、です。 私はそれです。それの一部です。 それが私の背景です - バラモンとその他すべてです。 私はそれに沿って行為します。 または、私はそれらを拒絶し、「なんと愚かな!」と言い、 未来のほうを、見ます。 私はこれをしなければならない、それをしてはならない - レーニン、スターリンと 残りの彼らすべてに沿って、です。 私は従うでしょう。 私は、これらどちらをも、行為と呼びます。 そして私は問います - これら二つに基づいていない行為は、あるのでしょうか。 ですね? 時の過程ではない行為。 すみません - あなたは自分の頭脳を、使わなくてはいけません。
29:45 あなたはその質問をされるとき、何をすることになるのでしょうか。 時の輪に捕らわれていない行為が、あるのでしょうか。 自らの頭脳は、その問いへどのように反応するのでしょうか。 なぜなら、頭脳はそれへ条件づけられ、過去、未来に沿って、 形作られてきたからです。 すなわち、時の分野に、時のネットワークに、 捕らわれています。ですね? で、頭脳は当分、引き下がります。 それに答えることができません。 それは言います - 「それはあまりに面倒だ。 後生だから、私を一人にしておいてくれ。 私はこの様式に慣れている。 それは、その悲惨、苦しみをもたらしてきた。 でもまた、そこには、それを補償する別の面も、ある。 つづけていこう。 これらの問いをしないでくれ。 とても困難なこれらの問いを、しないでくれ」と。 それらは困難ではありません。 「困難」という言葉が、それを困難にするのです。 で、私はその言葉を、使わないでしょう。 私は、行為を見出さなくてはなりません。 ですね?私はそれに入っていいですか。 あなたは、私にそれへ入ってほしいですか。
31:44 行為は、愛に関係しています -記憶に、ではない。 記憶、憶えていること、イメージは、愛ではない。 感受によってか、それをとおして、私は行為しますが、 感受は愛ではありません。 ゆえに・・・ 愛の、行為への関係は、何でしょうか。 付いてきていますか。 愛は記憶でしょうか。 私たちは、ともに出会ってきました。 私たちは、ともに眠ってきました。 私たちはともに、あらゆる種類のことを、してきました。 ともに、歩いて山を登り、 谷を降り、丘を回り、 チェア・リフトに乗りました。 交友、けんか、 すべての事柄。 それが、交友、愛情、 愛、手を取ること、それらと呼ばれます。ですね? それのほとんどは、感受、イメージと 執着に、基づいています。 執着なしには、私は迷っています。 私は、ひどくさびしく感じます。 さびしく感じ、私は絶望的です。 私は苦々しくなる、その他すべてです。 それらは愛でしょうか。私たちはそれに入りました。明白にそれはそうではない。 で、愛と行為との間の関係は、何でしょうか。 さあ、どうぞ。 愛が時の分野にあるのなら、それは愛ではありません。 で、愛は行為です。 あなたがこれを捉えるのかと、思われます。 初めに愛が、後で行為があるのではない。 または、記憶とそれらが、です。 で、語り手にとって- どうか、受け入れないでください - 語り手にとって、知覚、あの愛の性質の間に、 分割はありません。 あの性質があるとき、それは行為です。 それは、決意や選択の、知的な過程ではありません。 私は、より錯綜したことへ、入らないでしょう。 それは、即時の知覚の行為 -行為です。 いま、私たちは進まなければなりません。 昨日、私たちは三つの問いに、答えただけです。 それらが多くあります。
35:16 第二の質問: 「あなたは、暴力について多くのことを、言ってこられました。 あなたは、目の前で、自分の友達の一人が攻撃されるのを、許すのでしょうか。」
35:31 「あなたは、暴力について多くのことを、言ってこられました。 あなたは、目の前で、自分の友達の一人が攻撃されるのを、許すのでしょうか。」 それは、古き良き問いです。 あなたは、もしも目の前で姉妹が攻撃されたなら、どうするのでしょうか。 ですね?同じ問いです。 あなたは、どうするのでしょうか。 彼を叩きのめしますか。 銃で撃ちますか。空手ですか。 「空手」というその言葉の意味を、ご存じですか。 それは、私に説明されました。 自己がない、私がない。 自分自身を防衛する武術ではない。 で、あなたは、どうするのでしょうか。 見出してください。 あなたはそこにいます。夫とともに、ガールフレンドとともにとか・・・ それらをご存じですね。 誰かがやってきて、 あなたの妻や夫に暴力を働きます。 あなたは本能的に、何をするでしょうか。 あなたは攻撃するでしょう。 当然です。あなたは、彼を殴るでしょう。 もしもあなたが、空手とか、或る種のヨーガの芸当を知っているなら、 彼を転ばせるでしょう。 で、この問いが、私に出されました。語り手に、です。 私たちは、人々の通常の反応を、知っています - 暴力、です。 あなたが暴力的であるなら、私は暴力的になろう。 あなたが、私に怒るなら、 私はあなたに、二倍怒るだろう。 あなたが、私をバカだと言うなら、 私は、あなたのほうが私よりもっとそうだと、言う、 などなどです。 この問いが、私に、語り手に出されています。 これは、古い問いでした。 語り手がそれに親しんでいる、ということではなく、 それは、新しい問いです。 私は、すべての問いを、何か新しいこととして、扱います。 私は何をすべきでしょうか。 あなたは、私を待っていますか。
38:50 私は暴力的ですか。 私は生涯ずっと、暴力的な生を生きてきたなら、 そのとき私の応答は、自然と暴力的になるでしょう。 しかし、私がそうであったように、暴力なく生きてきたのなら - 物理的な暴力だけではなく、心理的な暴力も、です。 それは、攻撃、競争、比較、 模倣、順応です。 それはすべて暴力の一部です。 Kはそのように生きてきたように、 私の友だちや姉妹や妻が、攻撃されるとき - 彼らは、いずれにせよ、みんな死んでいます。特に姉妹は、です。 で、私は生きてきたように、行為するでしょう。理解されますか。 それは、私がどのように生きてきたかに、依存します。 生きることの芸術は、最大の芸術です - 絵画、詩歌すべてではない。 それは芸術の一部です。 しかし、最大の芸術は、生きることの芸術です - 誰かに沿ってではなく、自分自身で、至高の芸術を 見出すことです。 もし私が、生涯に 一回、二回を癇癪を起こしたなら、それはだいじょうぶです。 騒音とそれらのせいで苛立つかもしれません。それは・・・ しかし、暴力の実際の感じ - 暴力とともに生きてきたなら、暴力的に行為するでしょう。 暴力でない生を、生きてきたなら、 彼は、それらが起きるとき、境遇に出会うでしょう。 彼の行為は、彼がいかに生きてきたかに、依存するでしょう。 単純な答えです。ですね? あなたは、これについて悩んでいないでしょうね?ええ。
41:27 第三の質問: 「智恵とは何でしょうか。」
41:36 「智恵とは何でしょうか。」 あなたは、智恵は何であると、考えますか。 その言葉の意味は、 もしも良い辞書を、語源辞書を 覗いてみたなら、 それは(語源的に)「インテルレジェレ」を指摘します - 行間を読むことです。 理解されますか。 二行の間に、空間があります。 行間を読む。それが一つの意味です。 他の意味は、あらゆる種類の情報を集めることと、 様々な情報の中で、何が正確な情報かを 判別することです。 それは、選択に、自らの教育に、 自らの生の道などに、依存しています。 で、智恵があります・・・ 身体の智恵があります - ですね?
42:55 いいえ? 私は、自分自身に話していますか。 あなたは、加わるでしょうか、ともに、です。 身体の智恵があります -それを放っておくなら、です。 たくさんワインを、そうね、アルコール、薬物をとり、 味、趣味、感受に沿って生きないなら、です。 そうすると、身体は、自らの智恵を失います。 身体は、とてつもない道具です。 神経すべてがいかに、頭脳へ連結されているのか、 肝臓がいかに働くのか - 付いてきていますか。 心臓 - 生まれた瞬間から、死ぬまで、 心臓は、鼓動しつづけます。 それは、とてつもない機械です。 それは、百万年の産物です。 ですね? ものすごい - それに入るなら、です。 もし、あなたが、身体を見せるテレビ(番組)で、画像、写真を 幾つか見たことがあるなら、 それは驚くほどです - 百万年か、二百万年をかけて 自然がしてきたことは、です。 私たちは、身体の生来の智恵を、破壊します - あらゆる種類の突飛なことをすることによって、です。 飲酒、セックス - それにはその持ち場があります。その主題全部をご存じでしょう。 野心的、貪欲で、闘い、格闘し、 身体へのものすごい緊張、 心不全、 大手術の後のバイパス - そのすべてが、頭脳、神経、身体組織に、影響します。 ゆえに、物理的、生物的な道具は、次第に破壊されます。 次第に朽ちて、その活力、エネルギーを失います。 もしも、味、趣味に依存せず、それを自然に放っておいたなら、 それはそれ自体の世話をします。 あなたは、何一つしなくていい - Kのような人物以外は、です。 彼は九十歳です。で、それは少し気をつけなくてはいけません。
45:47 で、智恵とは何でしょうか。 身体の智恵があります。 想像してください - いかに心臓、肝臓、神経が・・・すべての緊張、 構造。頭脳自体がそれ自体を防御できるのか。 何か危険があるなら、それは反応します - 一定の腺。 私は、それについてすべてを知りませんが、あなたはそれを見られます - それがいかに、すばやくそれ自体を、防衛するのか。 で、身体の智恵があります。 それは今、放っておきましょう。
46:25 それから、利巧な内科医、技術官僚、 科学技術者の智恵は、何でしょうか - または、きわめて複雑な機械を組み立てる人の、です。 幾千もの人々がまとまって、月へロケットを送ります - それは、智恵、協働を必要とします。 あらゆることが完璧であるよう、見届けます。ですね? それは、大きな智恵と協働を、必要とします。 それは、大きな智恵、一定種類の智恵を、必要とします。 - その智恵は、とてもずるくて、計算しています。 それは、世界の儀式全体を、組み立ててきました - 寺院、神殿、モスク、教会を、です。 それもまた、とても利巧で、とても智恵があります - 自らの使徒的継承をとおして、人々を制御するため、です。 すみません。あなたがカトリックなら、私が言っていることを、忘れてください。 それらです。インドにもまた、それを表すサンスクリットの言葉が、あります。 それを手渡していくこと、元来のもの、 彼の祝福や使徒的な継承を手渡していくことです。 それもまた、まったく利巧な動きを、要求します。ですね? それもまた、とても智恵があります -人々を制御すること、 何か存在するか、しないかもしれないものを人々に信じさせること、 信仰を持つこと、洗礼を受けること。 それの全体が、とても利巧です。あなたが見守ったのなら、とても智恵があります。 それを、共産主義者はしています。 彼らは、自分たちの神、レーニンを持っています。その下にスターリン、 ずっと下ってきて、現在の紳士へ、です。 で、それは同じ動きです。 それらもまた、とても智恵があります - 部分的にです。 科学者、理論物理学者たちは、 みんな、とても部分的に智恵がある。
49:32 それから、全包括的な智恵とは、何でしょうか - それは全体的であり、それは断片化していません。 私は、その方向ではとても智恵があるが、 他の方向では、私は気にしない。私は鈍い。 私は、物理学、科学がとてもうまい。 そうね、それらです。 で、生の様々な局面に、部分的な智恵があります。 私たちは訊ねています -
50:15 完全であり、部分的ではなく、 断片化していない智恵が、あるのでしょうか。 ですね? あなたは、見出そうとしていますか。 または、私が、見出そう、そしてあなたに語ろうとしていますか。 どうか、私がその問いに答えようとしていますか。 または、あなたがそれに、答えようとしていますか。 腐敗不可能である智恵が、ありますか - 境遇に基づき、実用的で、自己中心的で、 ゆえに砕けて、断片化していて、全体的でないのではないものが、です。 非の打ちどころがなくて、そこに穴を持たなくて、 人の分野全体に及ぶ 智恵が、あるのでしょうか。 それを探究してください。 それを探究するには、 頭脳は、どの結論からも、どの種の執着、 どの種の自己中心的な動き、利己からも、 完全に自由でなければなりません。 ゆえに、恐れ、悲しみから全的に自由である頭脳 - 悲しみの終わりがあるとき、その裏に熱情(パッション)があるのです。 「悲しみ」という言葉こそが、語源的に、 単に涙を流す、痛みと嘆きと心配より、 深い意味を、持っています。 熱情(パッション)は、何かに対して、ではありません。 熱情そのもの、それ自体、です。 私は、信念への熱情を、持っているかもしれません - 信念は私の中に、熱情、象徴、共同体、 献身、想像を、喚起するかもしれません。 それらはやはり、とても制限されています。 で、初めに、この熱情を、発見しなくてはいけません。 出くわさなくてはいけません - すなわち、 欲情でもなく、何の動機をも持たないものを、です。 理解されますか。 そういう熱情が、ありますか。 または、単なる感受、感受等ですか。 悲しみに終わりがあるとき、そういう熱情があります。 悲しみに終わりがあるとき、愛があります。そして、慈悲が、です。 慈悲があるとき - これやあれのためではなく、慈悲が、です。 そのとき、あの慈悲は、自らの至高の精髄、智恵を、持っています。 それは、時のでもなく、またそれは、どの理論にも、 どのテクノロジーにも、誰にも所属していません。 その智恵は、人格的とか普遍的とかではありません - そのまわりの言葉すべて(でないの)です。 ああ、神様!
55:05 第四の質問: 「身体的な病気には、 人間にとって、何か利益があるのでしょうか。」
55:15 身体的な病気には、人間にとって、 何か利益、報酬、利得、利益があるのでしょうか。 私はこの問いを、明らかにしましたか。 私はそれを、フランス語に翻訳しましょうか。 それなら、私はそれをイタリア語で、やらなくてはいけないでしょう。 よく聞いてください。 (問いをフランス語とイタリア語に翻訳する) 「身体的な病気には、病気であることには、 人間にとって、何か利益があるのでしょうか。」 今、私はあなたに、その質問を出しました。
56:30 私たちのほとんどは、きっといつかの時に病気であったと、私は思います。 精神的に病気か - すなわち、頭脳が、です。頭脳の病気、 それは神経症で、精神病であるなどです。 または、身体の病気。 何か器官が、適切に機能していない。 ゆえに、大きな病気です。 あなたは、癌を持っているかもしれません。末期のか、 または、手術を受けようとしているなど、それは病気です。 今はただ聞いてください。 病気と健康との間の違いは、何でしょうか。 健康とは何でしょうか。 とてつもなく元気であるとは、どういうことなのでしょうか。 病気と健康 - ですね? 問いはこうです - 病気、人間の病気から 何か利益、利得があるのでしょうか。 あなたは、どう思いますか。 その問いへ、語り手は、ある、と言うでしょう - すみません! しかし、あなたが病気であるとき、 頭脳はどのように作動していますか。いいですか? あなたの反応、応答は、何でしょうか。 自らが病気であるとき、痛みを回避したいとの願望 - すばやく錠剤をとる。 または、即時に医師へ行く。 そうですね、あなたはお金を持っているなら、 支払って、彼は、何をすべきかを言ってくれます。 あなたは、ベッドに戻ります。 そして、それを乗り越えます。 ですね? で、病気であることから、利益があるのでしょうか。 語り手は、あると、言います。 それは、身体の浄化であるのか - あなたは熱を出すとき、それは、一定の物事を焼き払います。 あなたは、その熱を止めるために、錠剤をとります。 あなたは、それを阻みます。 それをすばやく、乗り越えたいと思います。 なぜなら、あなたは仕事を、失うかもしれないから等々です。 で、あなたの意図は、可能なだけすばやく良くなることです。 それは、見たところ、自然です。 分かりましたか。理解しましたか。私はこの子へ(イタリア語、フランス語で)話しています。
1:00:16 で、あなたが病気を、恐れていないなら、 病気は、まったく違った意味を、持っています。 語り手は、もし私はわずかに私的になっていいなら、 北インド、カシミールで一ヶ月間、麻痺していました。 様々な理由で、です - 彼らは、こいつめに抗生物質を、 投与しすぎました。 ものすごくたくさんです。 で、二、三日後、彼は麻痺して、一ヶ月間そうでした。 私は、それが最終的であると、考えました。 私は考えました - さあ、そうだ。 私は、語り手は、怯えていませんでした。 彼は、「ええ、いいよ。余生の間、麻痺していよう」と言いました。 これは実際に起きました。 私は誇張していません。 彼らは私を運んで行き、身体を洗う、その他すべてをしてくれました。一ヶ月間、です。 それがどういう意味なのかを、ご存じですか。 ご存じない。幸運にも、ご存じない。 しかし、もしも私が、それに対して格闘し、「とんでもない。医師たちは 何と愚かだ。私は抗生物質に反対だ!」 などと言ったなら、 私は、この病気と格闘しています。 で、それはもっと悪くなります。 私は、それから何を、学ばなかった。 それは、私の身体を浄化しなかったし、利益しなかった。 しかし、私はそれとともに戯れるなら -私はそうしました。語り手はそうしました。 彼は、幾度も病気でした。重病です。 私はそれに入らないでしょう。 しかし、それとともに留まることを、それとともに居ることを、恐れていないなら - 即時に医師へ、錠剤へ駆けつけるのではなくて、です。 あなたは、それを後でとるかもしれません。 しかし、それには、ゆっくり、 辛抱づよく取りかかります。 自分の反応が何なのか、 健康になりたい、痛みを持ちたくないとの この狂乱は何なのかを、観察します。 そのときあなたは、全体のことに抵抗しています。ですね? この利己性は、病気の要因の一つであるかもしれません。 それは、病気の真の理由なのかもしれません。 理解されますか。
1:03:33 で、病気、身体的な病気は、一定の自然の利得、利益などを、 持っています。 明らかですか。ですね?
1:04:09 第五の質問: 「なぜあなたは、頭脳と精神の 間を区別するのでしょうか。」
1:04:20 「なぜあなたは、頭脳と精神の 間を区別するのでしょうか。」 残念ですが、これが最後の問いでなくてはならないと、思います。 幾つも残っていますが、これが、最後のものでなくてはなりません。
1:04:41 まず第一に、頭脳とは何でしょうか。 私たちは職業的専門家ではないことを、憶えておいて、です。 私たちは、頭脳の専門家でない普通の人々です - 語り手を含めて、です。 彼は、頭脳の専門家たちに話してきましたが。 ですが、彼らはそこまで行く -それは放っておいてください。 が、語り手は、頭脳の専門家ではない- 下線付きです。 で、私たちは互いに訊ねています -頭脳は何でしょうか。 頭脳の構造 - 頭脳の 物理的、生物学的な構造、右側、左側ではない。 左側は、右側より、はるかに多く使われてきた。 右側は、新しい頭脳であり、 それは、新しい情報を受け取れる、などです。 私はそれについて、何も知りません。そうであるかもしれないし、そうでないかもしれない。 しかし、私たちがともに生きているこのものは、何でしょうか - すなわち、私たちの日々の生において、作動しているものは、です。 私たちの日々の生における頭脳のこの機能は、何でしょうか - 上の意識、下の意識ではない。 上の意識を、下の意識へ下ろしてくる - そのゲームを、ご存じですか。 それが、そのゲームが、導師たちのやることです。 彼らは、あなたが、高い意識を低い意識へ 降ろしてくるのを、手助けします。 または、低い意識を、冥想をとおし、 従うことをとおし、一定の実践をすることをとおして、 高い意識へ到らせる。 私たちは、それらの種類のことをしていません。 私たちはまもなく、後で、意識とは何かへ、来るでしょう。 これらに入るのは、構わないでしょうか。
1:06:54 私たちの頭脳の機能、日々の機能は、何でしょうか。 あなたの頭脳 - 私の頭脳ではない -あなたの頭脳、人間の頭脳、 あなたがスイス、アメリカ、ロシアなどや、 インドや極東に生きていても、 私たちの日々の生で起きていくこと、 それは、頭脳の行使です - 思考の行使、選択の行使、 判断と行為の行使です。私たちは、 行為について話していません。私はそれについて説明したからです。それは外してください。 で、私たちがどこに生きていても、頭脳の活動は、 私たちの生において、大きな役割を果たします。 で、この頭脳は、何でしょうか。 私たちは素人、アマチュアです。 私たち自身の頭脳を、見つめてください。 作用と反作用(行為と反応)。ですね? 感受。過去から条件づけられている - 私はヒンドゥー教徒だ、あなたはキリスト教徒だ、 私は仏教徒だ、あなたはイスラム教徒だ、などと。 私はこの国に所属している。 あなたはあの国に所属している。 私はカトリックだ。あなたはプロテスタントだ、またはイスラム教徒だ、 または仏教徒だ、あれやこれだ、と。 私はとても強く信じている。 私は一定の結論に到っている。 私はそれに拘る。 私の先入観は、強い。 見解は、強い。 私は、執着している。 私は充足したい。 私は何かになりたい -付いてきていますか。 それが、私たちの日々の課業ですし、さらにもっと多く、です。 心配の苦悩、 心配の苦々しさ、 心配の実用主義、 さびしさ、ものすごく憂鬱だ、 そのさびしさから、テレビ、書物、儀式、寺院、教会、 モスクをとおして、逃避すること。 ですね?そして、神。 葛藤、葛藤、葛藤。 それが、頭脳が捕らわれていることです - いつの時も、です それは、誇張されていません。 私たちは、事実に向き合っています。 ですね?それはそのとおりです。 で、頭脳は、このすべての中心です。 神経、記憶、神経の応答、 好き嫌い、私は憎む、私は傷ついた、 それは、私たちの存在すべてのまさしく中心です - 情動的に、想像力豊かに、芸術、科学、 知識の、です。 で、その頭脳は、きわめて制限されています。 けれども、とてつもなく有能です。 テクノロジー的に、信じがたくそれはやってきました - 五十年前には、想像不可能なことを、です。 で、そのすべてが、頭脳の活動です。 条件づけられ、その条件づけの中で生きている - 宗教的、政治的、ビジネス、外科手術の、などです。 それはすべて、とても制限されています。 自分自身に関心を持っています。 神の名、その他すべての名においての 利己性、私利。 ですね?私たちは明らかですか。 これは明白です。 それは、「私は唯物的だ」と言います。またそれは、 「いや、いや、私はそれよりましだ。 魂がある」とも言います。 サンスクリットを使うと、「アートマンがある」などなどと。 で、意識はそれです。ですね? 人々は、意識について、幾つもの書物に書物を、書いてきました - 職業的専門家、非専門家。 私たちは、職業的専門家ではありません。 私たちは、有るものを、取り扱っています。
1:12:17 意識はその内容です。 それが収容しているものが、意識を作ります。 それは、心配、信念、信仰、苦々しさ、さびしさ、 嫉妬、憎しみ、暴力を、収容しています。そうですね、 人間の性質、経験すべてを、です。 それが意識です。 その意識は、あなたのではありません。なぜなら彼らは、それらを分かち合っているからです。 これが困難です - あなたが困難だと見るであろうところです。 この地上のあらゆる人間は、 最も貧しい者で、無知で、堕落していても、 最も高く洗練され、教育されていても、 これらの問題を持っています。 彼らは、衣と冠を着けるかもしれません- サーカスすべて、です。 でも、それらを取り除いてください。 彼らは、あなたと私に似ています。 葛藤、迷惑。ですね? で、私たちは、世界のあらゆる人間の意識を、分かち合っています。 あなたがそれを受け入れないだろうことを、私は知っていますが、それは大事でない。 これは事実です。なぜなら、あなたは苦しむし、インドの村人、 一日一食、二枚の衣服で生きる人、 彼もまた苦しむからです。 あなたが苦しむように、ではない。 それはまた、彼が苦しむようにでもない。 ですが、それはやはり、苦しみです。 それはやはり、苦しみです。 あなたの記憶は、他のより異なっているかもしれません。 でも、それはやはり記憶です。 あなたの経験は、もう一つのより異なっているかもしれません。 でも、それはやはり経験です。 で、あなたの意識は、あなたのではない。 それは、全人類の意識です- 心理的に、です。 あなたは、背が高いかもしれない。色白かもしれない。私は黒かもしれない。紫かもしれない。 でもやはり、その意識は、私たちのみんなに、共通です - 心理的に、です。
1:15:04 で、あなたは、全人類です。 スイス人とそれら戯言ではない。 あなたは、全人類です。 それが何を意味するかを、ご存じですか。 それを、観念として受け入れるなら、あなたは離れています。 あなたは動いて、事実から、それの真理から、離れています。 それの実在、実体からです。 その実在、真理があるとき - すなわち、あなたは残りの人類である、ということ、 あなたは残りの人類です。 理解されますか。そのとき、生の動き全体が、変化します。 あなたは、他の一人を殺さないでしょう。 すると、あなたは、あなた自身を殺しています。 或るアメリカ人がいました- ああ、私は忘れてしまいました - 戦争中の将軍です。 彼は、戦争に行こうとしていました。 彼は、敵に向き合います。 彼は、上司へ報告します - 「私たちは敵に会った。 私たちが敵である」と。 理解されますか。 「私たちは、平原の向こうの敵に会った。 だが、私たちが敵である。 敵は私たちである」と。
1:16:53 で、あなたが全人類であるとのこの真理があるとき - それとともに眠り、それに入り、手探りで入ってください。 それを拒否したり、受け入れたりしないでください。 川が流れるように、それに入ってください。 あなたは、何と深い変容が起きるのかが、分かるでしょう - それは、知的ではなく、想像力豊かでもなく、 感傷的、ロマンチックでもない。 その感覚には、ものすごい慈悲、愛の感覚が、あるのです。 それがあるとき、 あなたは、あの至高の智恵に沿って、行為します。
1:18:32 立ち上がってもいいですか。