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SA85Q3 - 第3回質疑応答会合 
スイス、サーネン
1985年7月25日 



1:08 あまりに多くの質問があって、それらすべてには答えられません。 質問の幾つかが、選ばれています。 語り手はそれらを見ていません。
1:26 私たちはそれら問いに入る前に、 私は、何かについて批評してもいいですか。 人々は、芸術が何かについて、大変多く話してきました。 私は、その言葉の根本の意味は、 あらゆることを、その適切な場所に置くことである、と思います。 私たちは初めに、それについて少し話せますか。
2:15 あなたは、何が最大の芸術、至高の芸術であると、考えますか。 それは、聞く芸術、 見えること、観察すること、 知覚することなどの芸術と、 学ぶことの芸術でしょうか。
2:49 聞こえる芸術、見える芸術、学ぶ芸術、 私たちのいう、見える、観察する、知覚するとは、どういう意味でしょうか。 私は訊ねています。 どうか、私たちはともに、これらの問いを究明しています - 語り手が自分自身へ話している、のではない。 私たちはともに、これらの問いについて、話し合っています - ほぼどこへ行こうと、直面している主題について、です。 私たちは、待たなくてはならないでしょう。
4:08 で、聞こえることの芸術から、始めましょう。 私たちは、耳で聞こえるだけではない。 言葉は伝えられ、振動するなど、頭脳へ、です。 確かにそれは、それよりはるかに多くのことです。 何かが聞こえる芸術。 とても良い物語を聞く、子どものように - 彼は、物語に没頭します。 彼は完全に、英雄や女主人公に関与しています。 彼は興奮しています。 彼は聞いています。 私たちは、いったい聞きますか。 私たちは何もできません。残念ですが。 私たちは、いったい誰にも聞くのでしょうか。 あなたは、妻や夫やガールフレンドに、聞きますか。 本当に、彼らが伝えていることを、 何かを言おうとしているのを、聞きますか。 または私たちは、言われていることを、 自分の用語法へ翻訳するのでしょうか - それを、すでに知られたことと比較し、 判定し、評価し、同意し、不同意する - あなたが他の人に聞くとき、起きている動き全体です。 それが聞くことですか。 語り手は今、話しています- 不運にも、です。 私たちは聞いていますか。 実際に、言葉へ、言葉の意味へ、 言葉の内容へ、注意を払っていますか。 翻訳、比較、判定、同意、不同意を しないで、ただ聞いていますか。 私たちは今、それをしていますか。 それは、最も重要なことの一つではないでしょうか。 どのように、どんな様態で私たちは、他の人に聞くのでしょうか。 他の人は、あまりに強い香水を、付けているかもしれません。 あなたは、それを嫌悪します。 または、それが好きです。 香水や他の要因へのこの好き嫌いは、 聞くのを、防止するかもしれません - 他の人物が言うべきことを聞くのを、です。
7:36 あなたは、この問いにかなり深く入ったなら、 それが、最も困難なことの一つであるのを、見つけるでしょう - 他の人に完全に聞くことが、です。 今、私たちはそれをしているでしょうか。 または、私たちはそわそわする、などですか。
8:02 で、聞くことには、芸術があるのです。 そして、学ぶ芸術があります - いいえ、見えることの芸術です。 聞こえる芸術、見える芸術 - 物事がありのままに見えることの、です。 あなたは、樹を見つめるとき、 即時にそれを言葉へ翻訳し、「樹」と言いますか。 または、あなたはそれを見つめ、 それを知覚し、それの形が見えますか。 木の葉への光の美しさが見え、 樹の性質が見えますか。 幸運にも、それは人が作ったのではない。それはそこにある。 で、私たちは、自分たち自身が、ありのままに見えますか - 非難なく、 判定、評価などなく、 ただ、私たちが何なのかが、見える - 私たちの反応と応答、 先入観、見解。 ただそれらが、見える -私たちが見解に耽溺することが、です。 それについて、何をするためでもない。 ただそれを観察する。 ですね?私たちはそれをできますか。
9:49 で、物事がありのままに見える芸術が、あるのです - 名づけることなく、言葉のネットワークに捕らわれることなく、 考えることの作動全体が、知覚に干渉することなく、です。 それは大いなる芸術です。
10:15 また、学ぶことの芸術も、あります。 ありませんか。 私たちのいう学びとは、どういう意味でしょうか。 一般的に、学ぶことは記憶する、蓄積する、貯えることを、 意味すると、理解されています - あなたが貯えてきたものを、上手にか下手に使うこと。 それが一般的に、学ぶことと呼ばれます- 記憶すること、です。 学校、専門校、大学または、何かテクノロジーの主題、 または、言語を学ぶこと、読むこと、書くこと、疎通、通信など。 現代のコンピューターは、私たちができるのより、それらをうまくできます。 それらは、とてつもなく高速です。ですね? で、私たちとコンピューターとの間の違いは、何でしょうか。 私はあなたに訊ねています。 それは、学ぶこと、プログラムされることです。 私たちはまた、様々な形でプログラムされてきました - 伝統、いわゆる文化、知識。 私たちはまた、ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒、 チベット人等、共産主義者などであるよう、プログラムされてきました。 学びは、それがすべてでしょうか - ただ記憶すること、反復すること。 それが、学ぶことでしょうか。 私たちは問うています。私たちは、そうでないとは、言っていません。 車の運転の仕方を学ぶことは、必要です。 言語を学ぶことは、必要です - あなたが、言語などに興味があるなら、です。 私たちは訊ねています - それらが学ぶことですか。 または、学ぶことは、何かはるかに多くのことですか。 私たちはここで一緒でしょうか。 どうか、ただ私を見つめないでください。私に言ってください。 その人物は、あまり興味深くない。 私たちは、何かを訊ねています。すなわち、 学ぶことは単に、記憶することだけですか。 それがすべてであるなら、コンピューターは、私たちよりうまくできます。 学びは、何かはるかに多くのことではないでしょうか。 学ぶことは、常に学ぶことを意味しています - 蓄積することではない。 自らが見てきたこと、観察し、聞き、学んできたことを、 集めておくこと、それを貯えておくことではない。
14:12 学ぶことは、語り手にとって、常なる観察、聞くこと、動くことを、 意味しています -けっして立場を取らないこと、 けっして、立ち位置を取らないこと、 けっして、記憶に戻っていき、記憶に行為させないこと、です。 それは大いなる芸術です。
14:42 そして、修練の芸術です。 その言葉は、学ぶことを意味しています。 それは、語源の学徒(ディサイプル)から、来ています - 他の誰かから学ぶ者、です。 必ずしも教師から、導師からではない。 彼らは一般的に、かなり愚かです。 しかし、様式に沿って自分自身を修練すること - 兵士のように、修道士のように、 とてもきびしくしたくて、身体に規律を課す 人物のように - 理解されますか。 葛藤、方向づけ、従順、 追従の過程全体です。 そして、自分自身を訓練する。 それが一般的に、修練だと理解されます。 私にとって、語り手にとって修練はひどいものです。 なぜなら、あなたはどうすべきかを知るなら、鋭く聞こえることがあるなら - 耳でだけではなく、 また深く、あなた自身をも、聞く - 身のまわりで起きていることすべてを、 鳥たちを、川を、林を、 山を、です - 付いてきていますか- 聞くこと、 観察すること。 床の上の一番小さい虫をも、です - あなたはそれが見えるなら、良い眼を持っているなら、です。 学ぶこと。 そのすべてが、一つの形の生きることを、構成しています - それはそれ自体で、修練になります。 自分自身を修練する人物がいる、ということではない。 理解されますか。 常なる動きです。 これが、生きることの芸術です - その中には、いかなる葛藤もありません。 葛藤があるところ、その葛藤は・・・頭脳を痺れさせます。 頭脳を破壊します。 この生きることの大いなる芸術により、それは自由です。 その自由のなか、あなたは修練が要りません。 常に動きがあるのです。ですね?
18:08 (出された)質問に戻りましょう。 ここはかなり暑い! 私たちは、三週間、大変すばらしい日々を、送ってきました - うるわしい朝、美しい晩、 長い陰と、深い青い谷と 晴れた青空と雪。 私たちは、すばらしい三週間を、送ってきました。 語り手はここに、二十八年間、来ていました。 夏全体がこのようなことはけっして、なかった。 で、山々と谷、樹々と川は、 私たちに、さようならを告げます。 私たちの問いを、つづけてもいいですか。
19:16 第一の質問: 「私は、思考が自分の混乱に対して 責任があることは、分かります。 けれども、それに入る中、もっとそれに入る中で、 もっと多くの思考が発生します。 それには終わりがありません。 どうか、批評してください。」
19:43 「私は、思考が自分の混乱に対して 責任があることは、分かります。 けれども、それに入る中で、もっと多くの思考が発生します。 それには終わりがありません。 どうか、これについて批評してください。」
20:17 思考は、他の思考と連係しています。ですね? 単独の思考はありません。 それは一連の動きです - 私たちはそれを、考えることと呼びます。ですね? 私は、自分の靴について、考えます - それから、それをどのようにきれいにしておくかを、です。 私はそれを磨きます - 私はそうします。 私は、物事を世話するなどです。 で、思考は、それ自体では存在できません - それ自体で、すべての連係、連想なしに、です。 その一つの思考と連結しての(連想)、です。 思考は動きです -それによって、私たちは生きます。 それは、私たちのまさしく生です- 考えることは、です。ですね? それは明白です。 もしも私たちは、それについて考えていなかったなら、 あなたは、ここにいられないでしょうし、語り手は、ここにいられないでしょう。 私たちは、それについて考えてきました。 なぜなら、以前の連想、 評判、書物と、何やらかんやらがあったからです。 そして、あなたは来るし、語り手は来る。 で、それ自体で、単独の思考はないのです。 これをあばくことは、重要です。 それはいつも、他の何かとの関係にあります。 一つの思考を追求する中で、他の思考が生じます。 語り手は、自分の靴を磨いています。 そして、窓の外を見ます。 山々が見えます。 彼は離れてしまいます! 彼は戻ってきて、自分の靴を磨かなくてはいけません。 で、それがいつの時も、つづいています。 私は何かに集中したいが、 思考は、別の方向へ逸れてしまいます。 私はそれを引き戻します。 集中しようとします。 これはいつの時も、つづいています- 子どもの頃から死ぬまで、です。
23:24 そして、私が思考について考えれば考えるほど、 思考がある。理解できますか。 私はそれらの線で考えるべきでない、私は正しく考えなければならない、 正しく考えることがあるのか、間違って考えることがあるのか、 目的をもって考えることがあるのか、 私の生の目的は何か、などです - 考える過程全体が、始まります。 それに終わりはありません。 それは、最もとてつもないことをもやってきました。 テクノロジー的に、それは最もすさまじいこと、怖ろしいことを、 やってきました。 それは、あらゆる宗教の儀式すべてを、築いてきました。 それは、人間たちを拷問してきました。 それは、人々を、世界の一地方から他へ、追放してきました。 などなど、です。 思考は、東洋の考えでも、西洋のでも、やはり考えることです。 それは、東洋の考えることと西洋の考えること、 二つの分離したものではない。 なぜなら、思考は糸であるからです。 ですね?私たちは一緒です- そう願います。
25:01 で、問いはこうです - 思考に終わりはあるのでしょうか。 あなたの考え方や私の考え方、ではない。 または、私たちはみんな一緒に考えている、私たちはみんな 同じ方向へ動いている、と言うことではない。 で、私たちは訊ねています - 思考はいったい止まりうるのかどうかを、です。 すなわち、時に終わりがあるのでしょうか。 すなわち、考えることは、知識、記憶の結果です。 知識を取得するには、時が要ります。 とてつもないコンピューター、現代のコンピューターさえも、 それに、何分の一秒かを与えなくてはいけません - それが駆ける前、それが大急ぎで、言いたいことを出す前に、です。 で、思考は時です。ですね? で、私たちは訊ねています - 思考がいったい終わりうるかどうかを、です。 私たちはまた、同時に訊ねています - 時に止まることがあるのかどうか、です。 それはなかなか、興味深い問いです -あなたがそれに入るなら、です。
26:36 すなわち、時の動き。 時 - それは、私たちにとって何を意味しているのでしょうか。 心理的にだけではなく、外的にも - 日の入り、日の出、言語を学ぶことなどなど。 ここからそこへ行くには、時が要ります。 一番速い列車さえ、ここからそこへ着くには、時が要ります。 または、航空機なども、です。 で、・・・それはとても興味深いのです。 どうか、これに付いてきてください。 間に距離があるかぎり・・・ 「有るもの」と、 「有りうるもの」との間に、距離があるかぎり - 今有る私と、私がなるであろうものとの間 - それは、距離です。 それは、とても短い距離であるかも、数世紀の距離であるかもしれません その距離は、時により渡りうるのみです。 で、時は、進化を含意しています。 あなたは、大地に種子を植えます。 成熟するには、成長するには、季節丸ごとが、掛かります。 または、樹になり、充分になるには、一千年です。 成長し、なるものすべてには、時が要ります。 あらゆるものに、です。 で、時と思考 - それらは、二つの分離した過程ではありません。 それらは、一つの堅実な動きです。 私たちは訊ねています - 思考と時に、終わりが、止まることがあるかどうか、です。 理解されますか。 私は、それを言うまいと言いました。 私はそれを言わないでしょう。 あなたは、どのように見出すでしょうか。 これは、人が直面している問題の一つでした - 時の始まりからです。 人はこの問いを、訊ねてきました - 思考、時は、終わりになりうるのでしょうか。 人はそれを訊ねてきました。 なぜなら・・・この時の動き - それは円環です。ですね? 時は束縛です。 望み - 私は望む。 そこには、時が関与しています。 で、人はこの問いを訊ねてきました。 時のないことがあるのか、ではなく、 むしろ、時に終わりがあるのか、です。 違いを理解されますか。 私たちは一緒に泣きましょうか。
30:42 で、これは本当に、とても深刻な問いです。 気の毒なお母さん! 私たちは、時のないものを、探究していません。 私たちは、時に止まることがあるかどうかを、探究しています - すなわち、思考に、です。 さて、あなたはそれを、どのように発見するのでしょうか。 分析をとおして、ですか。 いわゆる直観をとおして、ですか。 その「直観」という言葉は、大変危険なのかもしれません。 それは、私の願望なのかもしれません。 私たちは言っていました - その「直観」という言葉は、 最も危険な言葉なのかもしれません。 その言葉は、とても多く使われてきました。 スイスには、とても多くの谷があります。 なぜ特別に、この谷なのか。
33:36 語り手は、かつてカリフォルニアで、十機の航空機を見ました。 日は沈んでいました。 十機の航空機が丘を越えてきました - 排気ガスを出し・・・それを何と呼ぶにしても、です。 私は当面、それの名を忘れてしまいました - 沈む日に照らされて、 それは、最も美しい眺めでした。 空全体が照らされていました。 騒音はありませんでした。それらはちょうど、山を越えて来ようとしていました。 私たちは、「直観」という言葉は、かなり 危うい言葉である、と言っていました。 なぜなら、それは、私たちの隠れた願望なのかもしれないからです。 それは、私たちの無意識的な 根深い動機なのかもしれません -私たちが気づいていないもの、です。 それは、私たち自身の傾向、私たち自身の体質の 促しなのかもしれません。 それは、私たち自身の特定の知識の蓄積なのかもしれません。 で、私たちは訊ねています -あなたが、それらを脇におくなら、 時に、止まることがあるのでしょうか。 私たちは訊ねました - あなたは、どのように見出すのでしょうか。 あなたは、です。 語り手や、他の誰でもない。 なぜなら、他の人たちが言うことは、何の重要性もないからです。 あなたは、言葉の響きが好きかもしれません。 あなたは、その人物が好きかもしれません。 または、あなたはこう言うかもしれません - 「まあ、私たちの集団全体は、一緒にいるよ」と。 そのすべては、かなり幼稚です。 しかし、あなたが自分自身に、この質問をするとき、 どんな様態で、あなたは、見出すことになるのでしょうか。
36:03 で、私たちは時の本性を、きわめて深く 探究しなくてはいけません - 先のわずかの講話の間、私たちはそうしました。 また私たちは、考えることの本性にも、とても深く入りました。 で、そのすべては、終わりになりうるでしょうか。 または、それは、段階的な過程でしょうか。理解されますか。 それが段階的な過程であるなら、まさにその段階性こそが、時です。 で、それは、段階的ではありえません。 それは、「結局は」ではありえません。 それは、次の秒でもありえません! 理解されますか。 それは、次の週末や明日や、 数分後ではありえません。 それらは、時を認めます。 本当にそれらを掴むなら - 思考の本性、時の本性、修練、 生きることの芸術などを深く了解する。 それとともに静かに留まる。 あらゆる種類の動きにより、それを覆いかくすのではなく、 それとともに留まる。 そのとき、それの一瞥、それへの洞察が あるのです - それは、記憶に関係していません。 何とも、です。 ですね?見出してください! 語り手は、「ええ、あります」とたやすく言えます。 それは、あまりに子どもっぽいでしょう。 しかし、頭脳が自らの動きを理解するには、 私たちは実験するのでなければ -理解されますか。 ただ、「はい、はい」と言ったり、同意するだけではない。 私たちは実際に、それを究明し、実験し、押し込み、 それに深く入るのでなければ、 あなたは、そうするのでなければ、 時がないふしぎな感覚に、出くわすことができません。 ですね? 彼らが昼食に行くだろうことを、願っています。 第二の質問は、こう言います -
41:58 「どうか、時と死について、さらに語ってください。
42:05 私たちは、時、思考について、大変多く話をしました - そして、時は死へ、どんな関係を持っているのか、 思考、考えることは、死と呼ばれる、このとてつもないものと、 どんな関係を、持っているのか。 自らが死に怯えているなら、 そのとき、死の威厳、美しさと深さは、 けっして見えないでしょう - あなたが怯えているなら、です。 恐れは、思考と時により引き起こされます。 私たちは、よく気をつけてそれに入ってきました。 恐れは、それ自体では、存在しません。 安全への要求があるとき、恐れは存在します - 生物学的、物理的な安全だけではなく、 はるかに心理的に、です。 人間たちは、見たところ、 心理的に安全であることを、 主張し、要求し、必要とします。 一つの雑音が止まり、別のが始まる!
43:48 で、私たちは、安全を探究しなくてはいけないだけでなく - それは、安全で、保護されていることです。 安全があるとき、自らは明らかです。 安全は、保護を意味しています。ですね? 私は、自分に安全を与えてくれるものを、保護しなくてはいけません - それが、地位の安全でも、 権力の安全でも、 大変多くの所有物の安全でも、です。ですね? 安全 - 自らが安全であると感じること。 銀行に豊富に何百万も持っていることは、 大きな安心感を、与えてくれます。 良い山荘を所有することは、安全を与えてくれます。 安全はまた、仲間を持つ、ということをも、含意しています - 自分に寄り添ってくれるだろう人- ですね? - あなたを手助けしてくれる、あなたを慰めてくれるだろう人、 あなたの欲しいものや、彼女の欲しいものを与えてくれるだろう人、です。 で、私たちは家族に、安全を探し求めます。 私たちは、共同体に、それを探し求めます。 国家、民族に、部族主義に、私たちは、それを探し求めます。 まさにその部族主義、民族主義が、 その安全を阻止します。 なぜなら、戦争があるからです。 一つの部族は、もう一つの部族を殺します。 一つの集団は、もう一つの集団を破壊します。 で、物理的に、安全であることは、ますます困難に なりつつあります。 テロリストが、このテントに入ってきて、私たちみんなを、吹っ飛ばすかもしれません。 私は彼らに頼むでしょう -「一分間、待ちなさい。すべて終了させましょう。外側でやりなさい!」と。
46:18 で、私たちは、物理的な安全だけではなく、 また心理的な安全も、要るのです。 心理的な安全が、最大の要求です - 物理的なものだけではない。ですね? で、私たちは訊ねています - そもそも心理的な安全が、あるのでしょうか。 どうか、あなた自身に、この本当にきわめて深刻な問いを、訊ねてください - 内的、主観的に、心理的に、 いわば肌の内側に、 そもそも安全が、あるのでしょうか。 私は、聴衆としてのあなたたちに、頼るかもしれません。 あなたは、語り手としての私に、頼るかもしれません。 もしも語り手が、あなたに安全を探し求めたなら、 そして彼は、誰も話をする人を、持たないなら、 彼はひどく不安全に感じます。 で、そもそも心理的な安全が、あるのでしょうか。 心理的な安全がないのなら、 物理的な安全は、何でしょうか。
48:02 世界は常に、日に日に、変化しています。 それは、ものすごい流動です。 それは明白です。 物理的にもまた、自らは少し安全が、要るのです - ここに座り、ともに話し合うには、です。 ですが、それは次第に、制約されつつあります。 共産主義諸国では、これをできません。 で、事実を認識するなら - すなわち、心理的に、何も安全がないことを、です。 ですね? それは真理です。心理的な安全は何もないのです。 私は信じられます。 私は信を置くかもしれません。 ですが、あなたがやってきて、それをバラバラに引き裂きます。 それはありえます -私が聞く気があるなら、です。 で、私は信念を強めれば強めるほど、 その信念がバラバラに引き裂かれることが、可能です。ですね? 私は何かへ、象徴へ、人物へ信を置くかもしれません。 論争、論理、健全さにより、それはバラバラに引き千切られるかもしれません。 で、心理的な安全は、まったくないのです。 私たちはそれを探し求めてきたけれど、 私たちは、そこで自己を充足させようとしてきたけれども、 私たちが心理的に、安全であるために、してきたことすべて - それの終わりに、死があります。 ですね?死があります。 死は、最もとてつもないことです。 長い継続性を、終わりにする。 その継続性の中に、私たちは安全を見つけたいと望みます。 それの過程全体を、見てください。 なぜなら、頭脳は、完全に安全であるとき、 抜群に機能できるだけだからです。 ですね? テロリストのように、テロでの安全。 私の信念での安全。 私の知識での安全などなど。 死があるとき、そのすべては、終わりになります。ですね? 私は、来世とそれらの種類のことを、望むかもしれません。 しかし、それは本当に、長い継続が終わることです。 私は、自分自身をその継続性と、同一視してきました。 その継続性は、私です。 死は言います - 「すまないね、それで終わりだよ」と。 ですね? 自らは、死に怯えていない。 本当に怯えていない。 それは、あなたが常に死とともに生きている、という意味です。 それは常に終わることです。 継続して、終わるのではない。 毎日、終わらせる - あなたが集めてきたものを、 あなたが記憶してきたことを、 あなたが経験してきたことを、です。
52:12 で、あの終わる感じをもって、毎日、生きる - 単に、知的な終わりだけではなく、 実際に終わること -心理的に、です。 すなわち、時は私たちに望みを与えます。 思考は、私たちに慰めを与えます。 思考は、私たちに継続を保証します。 あなたは、「まあ、来世だな」と言います。 私は来世、今の私と同じぐらい、ばかでしょう - 私が今、このばかなのを、終わらせないなら、です。 愚かさ、幻想とその他すべて - 私は今、それを終わらせないなら、私は来世、そこにいるでしょう - もし来世があるなら、です。
53:19 で、時、思考は継続性を与えるし、 私たちは、その継続性へ縋りつく。 ゆえに、恐れがあるのです。 恐れは愛を破壊します。ですね? で、愛、慈悲、死 - それらは、分離した動きではありません。
53:55 で、私たちは訊ねています -死とともに生きられるでしょうか。 そして、思考と時は、止まることがあるのか。 それらはすべて、関係しあっています。 時、思考、死を、分離しないでください。 それはすべて、一つのものです。
54:33 第三の質問: 「他の者たちが飢えている間、 物理的な安全を持つことは、暴力と腐敗ではないですか。」
54:43 「他の者たちが飢えている間、 物理的な安全を持つことは暴力と腐敗ではないですか。」 誰がこの質問をしていますか。 どうか、語り手は、あなたに訊ねています - 誰がこの質問をしましたか。 物理的な安全を持っていて、 貧しい者、飢えている者を考慮している人ですか。 または、飢えている者が、この質問をしていますか。 私の問いを理解されますか。 あなたと私が快適であるなら、私たちはこの質問を訊ねられます。 あなたと私が本当にとても貧しいなら、 私たちは、この問いを訊ねるでしょうか。 そうですね、世の中には、とても多くの社会改革者が、います -良いことを行う人たちが、です。 私たちは今、それに入らないでしょう。なぜならそのための時間を、持っていないからです。 あなたは気をつけて、見つめるなら、 彼らは、社会事業で、自己を充足させているのでしょうか - 貧しい人たちのために何かをすることで、でしょうか。 この問いは、語り手がインドにいるとき、彼に出されてきました - あなたは、貧しい者たちのために何をしていますか。 彼らは、飢えています。あなたは、十分に食べているように、見えます。 あなたは、何をしますか。 これらの問いを理解されますか。 で、私は訊ねています -誰がこの質問をしますか。 私たちは、この問いを回避とか忌避とかしていません。 私たちは - 語り手は - 貧困の中、育ってきました。 若いとき、貧困の中、生きていた語り手が、 この問いを訊ねていますか。
57:31 で、世界には、貧困があるのです - スラム、おぞましい状況が、です。 見たところ、スイスにスラムはありません。 ありがたい! スラム、ゲットーはあります -きわめて貧しい者たち、 一日一食とそれらです。 私たちは、それについて何をしますか。 それが本当に、問いなのでしょう。 あなたは、十分食べているかもしれない。 私は、十分食べていないかもしれない。 しかし、問いはこうです - 私たち、人間たちは、これらを見て、 何をするのでしょうか。 私たちの責任は、何でしょうか。 私たちは関心がありますか。 どうか、私たちは問いを回避していません。 私たちは、貧しさに関心がありますか。貧しさ - それは、どういう意味でしょうか。 どこで、ですか。 物理的な貧しさですか。 または、心理的な貧しさですか。 理解されますか。 心理的な貧困、心理的に貧しいこと - 心理について、たくさん知識を持っていようとも、 あなたはやはり貧しい、という意味で、です。 分析者 - 彼は貧しい。 彼は、同じく貧しい他の人物を、訂正しようとしています。
59:11 で、貧しさとは何でしょうか。 貧しい。 洗練されていない、無知である。 理解されますか。 で、無知とは何でしょうか。 それは、本、書物を読むことの欠如でしょうか。 一日一食で、衣服が着たきりなことですか。 または、貧しさは最初、心理的に始まり、 それから、外側のあらゆるものを砕きうるのでしょうか。理解できますか。 私は、内的に豊かであるなら、何かをできます。 私自身が内的に貧しいなら - 貧しさは、外側に何もないことを、意味しています。そのとき私は、手助けしたいのです。
1:00:14 で、私たちは、貧しさは何かを理解しなくてはならないだけではなく、 貧しい者、同情、寛大さ、 そのすべてが、ここに関与しています。 あなたは、一枚シャツを持っているなら、それを与えます。 かつて語り手は、インドで雨の中を、歩いていました。 小さな男の子が近づいてきて、言いました - 「ぼくにお金を恵んでください」と。 語り手は、お金を持っていませんでした。 で、彼は、「ぼくにあなたのシャツをください」と言いました。私は、「いいよ」と言いました。 土砂降りでした。で、私はそれを彼に与えました。 すると彼は、「あなたの肌着をください」と言いました。 私は言いました -「一分間、待ちなさい。 私と一緒に家へ来なさい。 君は、何でも好きなものを得られるよ。 食べ物、衣服、何でも好きなものを、 もちろん、限度の中で、ね」と。 で、彼は私と一緒に来ました。私の手を取って、です。彼はとても貧しく、汚れていました。 私たちは一緒に、家へ歩きました。 語り手は、彼を置いておき、 その子のために、幾つか衣服を得るために、二階へ上がりました。 その子は、家中を回っていきました - あらゆる戸棚、いたるところを覗きこんで、です。 語り手が一緒に泊まっている人物が、彼を捕まえて、 「君は家のこの部分で、何をしているんだ?」と言いました。 「ああ、彼が、ぼくに入ってくるよう、言いました」と、彼は言いました。 「でも、彼は君に、二階へ来て、これらを覗くよう、頼まなかった。 で、なぜ君は、そうしているんだ?」 男の子は、かなり怯えて、「ぼくの父さんは強盗だよ」と言いました。 彼は、家の下見をしていました。 その語句を理解できますか。
1:02:16 で、私たちは、貧しさを、外的に取り扱わなくてはいけないだけではなく、 また、内的にも、です。 たぶん、もしも、すべての国の、すべての科学者が、まとまって、 「私たちはこの問題を解決しなければならない」と言ったなら、 世界に貧しさは、ないでしょう。 彼らは、それをできるでしょう。 しかし、民族性、国籍が、彼らを分割します。共同体が、彼らを分割します。 宗教的な信念が、彼らを分割します - ですね? そして、縁故主義、「私は誰かを知っている。 私はあなたを手助けしよう」が、です。 で、全世界が、この種の行為に、反対しています。 それは、私たちの民族性、国籍、信念、宗教すべてを、脇に置いて、 助けること、本当に、一緒に働くことです - 外的な貧しさのこの問題を解決するように、です。 しかし、誰もこれをしないでしょう - ですね? 私たちは、政治家たちへ、上の人々へ、話をしてきました。 ですが、彼らは興味を持ちません。 で、初めに、私たち自身で始めましょう。
1:04:03 第四の質問: 「私たちの制限された頭脳は、 どうすれば、無制限のものを、すなわち、美しさと真理を、 掴まえられるでしょうか。 慈悲と智恵の基盤は、何でしょうか。 それは本当に・・・ それは本当に、私たちの一人一人にありうるでしょうか。」
1:04:39 「私たちの制限された頭脳は、どうすれば、無制限のものを、 すなわち、美しさ、愛、真理を、掴まえられるでしょうか。 慈悲と智恵の基盤は、何でしょうか。 それは本当に、私たちの一人一人に訪れうるでしょうか。」 いいですか?問いは明らかですか。
1:05:11 私たちの制限された頭脳は、どうすれば、無制限のものを、掴まえられるでしょうか。 掴まえられません。 なぜなら、それは制限されているからです。 ひとたび私たちが、頭脳の性質の 意義、深さを掴まえ、 事実を認識するなら -観念ではなく、事実を、です。 私たちの頭脳は、制限されている、という事実 - 知識により、専門性により、 特定の修練、領域により、 或る集団、民族主義、その他すべてに 所属することによって(制限されているの)です。それは基礎です。 それは利己です。 あらゆる種類の物事において、偽装され、 隠されています -衣、冠、儀式に、です。 本質的に、利己があるとき、 この制限が生じてきます。 それはとても明白です 私が、自分の幸せ、自分の充足、 自分の成功、その他すべてに、関心を持つとき、 まさにその利己こそが、頭脳の性質と、頭脳のエネルギーを、 制限します。 ですね?
1:06:40 私たちが説明したように - 語り手が頭脳の専門家である、ということではない。 彼はそれについて、幾人もの人々、職業的専門家に話をしてきましたが。 ですが、それはやはり頭脳です。 彼らの頭脳ではない。 やはり、あなたのと私の、です。 その頭脳は、幾千年、百万年をかけて、 進化してきました -時、死、思考の中で、です。 それは、進化してきました。 進化は、一連の時の出来事全体を、 意味しているのでしょう。 私たちは、類人猿でした。 私たちは今・・・ それには、多かれ少なかれ、二百五十万年が、掛かりました。 宗教的な儀式すべてを組み立てるには、時が要ります。 で、頭脳は、条件づけられ、制限されてきました - 自らの意志により、自らの安全を探し求め 自らの背景を守っていることによって、です。 「私は信じる」、「私は信じない」と言う。 - 「私は同意する」、「私は同意しない」、 「これが私の見解です」、「これが私の判定です」と。 利己性です。 それは、宗教の高い位階制度にあるのでも、 善、平和、その他すべてについて話している きわめて有名な政治家たちの間にあっても、 それは、利己の一部です。 金銭をとおして権力を探し求める人 - 利己。 ものすごい学識をもった教授、 などなど、 そして本質的に、導師たち。 これらに向き合ってください。
1:09:00 で、私たちの頭脳は、きわめて小さくなったのです。 それの形が、それの大きさが、ではない。 私たちは、頭脳の性質を、縮減してきたのです - それは、無量の能力を持っています。無量です。 テクノロジーの世界は、改善してきました。 またそれは、内的に行く無量の能力を、持っています - きわめてきわめて深く、です。 しかし、利己が、頭脳を制限します。 どこに利己が隠れているかを、自分自身で発見する - それはとても微妙です。 それは、嘘をつくかも、幻想の裏に隠れるかもしれません - 神経質に、見せかけに、 何か家族の名前、その他すべてに、です。 あらゆる石を、あらゆる草の葉を 取り外して、見出す。 あなたは、見出すために、時を掛けるのか - それはまたもや、束縛になります。 あるいはまた、あなたは、ものが見えて、それを掴まえる。 それへ洞察を持つ - 即座に、です。 あなたが、完全な洞察を持つとき、それは、分野全体に及びます。 ですね?
1:10:55 で、質問者は言います - 頭脳は、条件づけられていますが、どうすれば、 無制限のものを、掴まえられるでしょうか。 すなわち、美しさ、愛、真理を、です。 慈悲と智恵の基盤は、何でしょうか。 それは、私たちに訪れうるのでしょうか - 私たちの一人一人に、です。 あなたは、慈悲を招いていますか。 あなたは、智恵を招いていますか。 あなたは、美しさ、愛、真理を、招いていますか。 あなたは、それを掴もうとしていますか。 私はあなたに訊ねています。 あなたは、掴もうとしていますか - 智恵、慈悲の性質、 美しさの無量の感覚、 愛の香り、 そこへの道を持たない真理が、何かを、です。 それが、あなたが掴まえていることですか。 それが住する基盤を見出したいと思って、ですか。 制限された頭脳は、これを掴まえられるでしょうか。 質問を理解されますか。 あなたは、とうていそれを掴まえられません。保てません。 あなたは、あらゆる種類の冥想を、できます - 断食し、苦行する。 これはすべて、なされてきました。 ひどくきびしくなる。 一枚の布や一枚の衣を、着る。 フランシスコ(修道)会の頃に、 すなわち、フィレンツェの頃に、 彼らは、大変優雅に、美しく衣服を着ていました。 そしてアッシジ、アッシジの聖フランチェスコは、 「いいえ」と言い、白い紐のついた褐色の衣を、着ました。 あなたは、それらに注目したことがないですか。 そういうことです。 豊かな者は、真理に至れない。 貧しい者も、です。 清純、沈黙、きびしさなどなどの 誓いを立てた人々も、です。 また彼らも、至れません。それはすべて、思考により決定されます。 すべて、連続的に組み立てられます- 「何かをするために」です。 これはすべて、意図的な思考、故意の意図の、 養成です。 或る人物が語り手へ言ったように、です - 「私に十二年をください。私はあなたに、神を見させましょう」と。
1:14:27 で、頭脳は制限されているので、あなたが何をしようとも、 足を組んで座り、蓮華座で、トランス(状態)へ入ってしまい、 冥想し、逆立ちや、片足立ちとか、何をしようとも、 あなたは、けっしてそれに出くわさないでしょう。 慈悲は、あなたに訪れません。
1:14:58 ゆえに、愛とは何かを、理解しなければなりません。 愛は、感受ではありません。 愛は、楽しみ、願望、充足ではありません。 愛は、嫉妬、憎しみではありません。 愛は、同情、寛大さ、機転などを、持っています。 すべての性質は、愛ではありません。 それを理解する、それへ至るには、 美しさの堪能の大いなる感覚が、必要とされるのです。 女や男の美しさではありません。 または、映画俳優でもない - その他すべてをともなって、です。 美しさは、山にない。空に、谷に、 流れる川にない。 美しさは、自己がないところに、存在します。 あなたは、大きな古い樹々が、見られます - カリフォルニアで、三千年から五千年の、です。 その樹の荘厳さが、見られ、 「何とすばらしい」と言えます。 しかし、自己は、その樹の裏に隠れます - ですね? で、愛があるところだけに、美しさは、存在します。 そして、美しさ、愛は、慈悲です。 慈悲のための基盤は、ありません。 それは、あなたの都合に留まりません。 その美しさ、愛、真理は、 最高の形の智恵です。 その智恵があるとき、 行為、明晰さ、 ものすごい威厳の感覚が、あるのです。 それは、何か想像不可能なことです。 そして、想像されることにならないものや、 制限されていないものは、 言葉に表されません。 それは叙述できます。 哲学者たちは、それを叙述してきました。 しかし、それを叙述した哲学者たちは、 彼らが叙述してきたものではありません。
1:18:17 で、この大いなる感覚に、出くわすには、 「私」、自我、自我中心の活動、なりゆくことの 欠如が、なければなりません 自らに、大いなる静寂がなければなりません。 静寂は、あらゆる物事が空っぽなことを、意味しています。 そこには、広大な空間があります。 広大な空間があるところ、無量のエネルギーがある - 利己的なエネルギーではなく、 制限されていないエネルギーです。
1:19:17 立ち上がってもいいですか。