Krishnamurti Subtitles home


SA85T1 - なぜ人は葛藤の中に生きるのか
第1回公開講話
スイス、サーネン
1985年7月7日



1:16 私が認識できる古い顔が、幾つか見えます。 私たちは何について、話しましょうか。 もしできるなら、指摘したいと思います - 私たちは、自らの日々の生に関心を持つ、 真剣な人々の集会であるということを、です。 私たちは、信念、イデオロギー、仮説、 理論的な結論や神学的な概念に、 いかなる関心をも、持っていません。 また私たちは、宗派を創設しようともしていません - 誰かに従う人々の集団を、です。 私たちは軽薄ではない - そう願います。 むしろ私たちは、みんなともに、世の中で起きていることと、 それへの私たちの責任について、 関心を持っているのです - 悲劇のすべて、全くの悲惨、貧困に、です。 この国にではありません。 (スイスに)スラムはありません。 私たちは先日、このすばらしい気候風土には、 スラムはありえないことを、言われました。 来る日も来る日も雨が降っていましたが、 これらの会合の間に、 相当に良い天気になるよう、望みましょう。
4:05 また、よろしければ、あなたと私、語り手は ともに、歩んでいる、旅を行っていることを、 指摘したいとも思います - 航空機で3万1千フィートや 4万フィートの高さを、ではなく、 静かな道路を、世界中で 長い果てしない道路を、歩んでいます。 そこには、おぞましいテロが、 目的もなく人々を殺すことが、見られます -ただ彼らを脅迫するため、 人々を恐怖させるためだけです。 人々を誘拐し、ハイジャックし、殺害し、 他の人々を殺害する準備をしています。戦争 - アフガニスタン、ベイルートと南アメリカだけではなく、 世界中で、です。 おそらく、あなたたちのほとんどは、これらを知っています。 私たちは、あまり気にするように見えません。 私たちは、かなり無頓着です。 私たちが関心を持ち、悩み、怖れるのは、 それが、私たちのごく近くで、起きるときだけです。 それが私たちから、私たちの一人一人から はるかに遠いところでは、私たちは無頓着です。むしろ、もっと無頓着です。 これが世界で起きていることです - 経済的分割、宗教的分割、政治的分割と、 すべての宗教的、派閥的分割など、です。 大変多くの危険、危害があります。 未来に何が起きようとしているかは、分かりません - 私たち自身の生涯の時にだけではなく、 また、私たちの孫、子どもたちなどにとっても、です。 全世界が、大きな危機にあります。 危機は、向こうにだけではなく、また私たちの一人一人にも、あるのです - あなたがそもそも、これらに気づいているなら、で す。 それらに対する私たちの責任は、何でしょうか - 私たちの一人一人の側で、です。 自分自身にこの問いを、しばしば訊ねたことがあるにちがいありません - 自らは何をすべきでしょうか。 どこで始めるべきでしょうか。 政党に加わりますか。 共和党、保守党、民主党、共産党 - マルクスとスターリンに従う。 そのすべての集団ですか。 みなさんは、どこで始めるのでしょうか。 私たちの一人一人は、何をするのでしょうか - 私たちが生きるこのひどい社会に、向き合って、です。 各々が、自分自身に、自分の充足に、 自分の悲しみに、自分の悲惨、経済的闘争などなどに、 関心を持っています。 私たちの一人一人が、自分自身に関心を持っています。 私たちは、何をするのでしょうか。 神に祈りましょうか。 何度も何度も何度も、祈りを反復しますか。 または、何か派閥に、何か導師に所属し、彼に従い、 世の中から逃避しますか。 何か中世の衣装や、 奇妙な色の現代の装束、その他すべてを、着ますか。 私たちはそもそも、世の中から引き下がれるのでしょうか - インドでもここでも僧侶、修道士のように、です。
9:52 これらを見て、親密に観察して - 新聞での何かとしてではなく、 または、何か読んだり言われたりしたこと、 ジャーナリスト、小説、テレビと 情報産業すべてをとおして、 通知されたことではない - 私たち一人一人の役割、責任は、何でしょうか。
10:46 私たちが言いましたように、これは娯楽ではありません。 私たちは娯楽で、あなたを楽しませようとか、 あなたが、私たちの一人一人が、何をすべきかを、 告げようとか、していません。 私たちは、たくさん指導者たちを、持ってきました - 政治的、宗教的なのを何百も、です。 「私たちは覚りを開いた(啓明を得た)。 私たちは達成した」と言う人たち、です。 彼らが何を達成したのでも、です。 私たちは、幾千もの指導者を、持ってきました - 政治的、経済的、宗教的、派閥的なのを、です。 彼らは、まったく救いようがなかったのです。 彼らは、自分の理論を、自分の道を持っています。 そして、彼らに従っている何千、何万の人々が、 世界中に、います。 大量の金銭、本当に莫大な富。 ローマ・カトリック教会の富だけではなく、 また導師たちの富も、です。 それはすべて、お金に終わるのです。
12:18 で、お訊きしていいなら、私たちはともに、何をするのでしょうか。 または、私たち、単独の人間は、何をするのでしょうか。 私たちは、そもそも関心を持っていますか。 または私たちは、自分自身のために、 何か奇妙な満足、喜悦を、探し求めていますか。 または私たちは、一定の象徴へ、参与していますか - 宗教的、その他のへ、です。 私たちは、それに縋りつきます。 その象徴が、 その象徴の裏にあるものが、助けてくれると、願って、です。 これは、とても深刻な問いなのです。 それは今、はるかに深刻になりつつあります。 というのは、戦争の脅威があるからです。 全的な不安定があるのです。
14:10 私は、語り手は、自らがXさんと行った会話について、 お知らせしてもいいでしょうか - 幾日もの間、継続的に、 このXさんと語り手との間の会話、です。 このXさんは、多かれ少なかれ世界中を、旅してきた、と 彼は語り手に言いました。 彼は、相当読書をしていて、 様々な施設へ行ってきました。 時には彼は、それらに加わりましたが、 慌てて彼は、それらを抜け出しました。 彼は、一人か二人の導師に従い、彼らを、あきらめました。 二、三週間、彼は僧侶になろうとしましたが、 それもまた彼は、あきらめました。 彼は、様々な政党を見つめました - 極左、極右、中道と、 政治活動の色々を、です。 ついに彼は言いました - 私はあなたと話をしに来ました。 私は、あなたと会話をしたいようにも思います、と。 私がいるのと同じ水準で、です。 あなたが、うぬぼれている、とか、あなたの本当の立場は、ということでない。 私は、あなたが何なのかを、知りません。 私は、あなたについて、何かを読んだことがあります、と。 私はこの会話をつづけていいですか。 繰り返していいですか。あなたはそれに興味がありますか。
16:33 彼は言いました - 二人の友のように、 あなたと私は、物事について二人の友のように、 一緒に話し合いましょう、と。 世の中でという意味で、ともに生きてきた、 あらゆる種類の苦労を経てきた、二人の友のように、です。 彼は、語り手に言いました - いったい、どういうことなのでしょうか、と。 なぜ人は、このように生まれるのでしょうか。 なぜ人は、幾千、幾万年もの後に、今ある人に、なったのでしょうか。 この進化の長い期間、 長い時の期間をとおして、 苦しみ、心配し、さびしく、 絶望し、病気、死と、 いつもどこかに神々、です - オリンポスの山々や、ナイル川や、 インドのベナレスの古都に、です。 それら神々についてはすべて忘れて、 ともに話をしましょう - この世界に、生きている二人の人間として、です。 このすばらしい国に、とても美しい大地に、です。 それは、すべてのものの母親です。 ですね? これらに付いてきていますか。 母親は崇拝されました。 なぜなら、大地は母親であるからです。 (古代)ギリシャ人たちは、幾つもの乳房をもった(女神)アテネを、持っていました。 両側に四つずつだと、思います - 彼女は大地の母であることを、表示していました。 大地としての母親です。
19:15 それで彼は示しました - このXさんは、自らの内的な思考、 外的な活動の幾らかを、示しました。 彼は言いました - これらはどういうことでしょうか。 なぜ人間たちは、自分たちを 教育してきて、 洗練され、テクノロジーの熟達者で、 のべつ幕なく論争できるのに - あなたは、これらすべての表現を理解されますか - 人は、神と女神とあらゆる物事を、創案できるのに、 なぜ世界中の人間たちは、 なぜ永続的な葛藤、抗争(状態)に、あるのでしょうか。 環境とだけではなく、 彼らが選挙した自らの政府とだけとか (共産党)政治局に支配されたり、 古代の司祭者たちが創案した 何か教義に支配されたりだけではなく、 このすべてにもかかわらず、 なぜ各々の人間は、生まれた瞬間から 死ぬまで永久に、なぜ彼は この葛藤、抗争に生きるのでしょうか。 それが、彼が訊ねた最初の問いでした -このXさんが、です。 なぜでしょう。 この葛藤の存在理由や原因は、何でしょうか - 外的にだけではなく、 また大変深く、内的に、主観的に、 いわば肌の内側でも、 なぜ彼は、葛藤(状態)にあるのでしょうか。 彼らは果てしなく、平和について話してきました。 すべての宗教は、説いてきました- キリスト教のはるか前、 キリスト教の幾世紀も前に、 平和に生きなさい、平和的でありなさい、静かでありなさい、 優しく、寛大で、慈しみ、愛しなさい、と。 彼らの宣伝にもかかわらず、 人間たちは子どもの頃からプログラムされるにもかかわらず、 攻撃的であるよう、または、優しくあるよう、励まされるのです。 または、自分たちで、一人で行って世の中に向き合い、闘うように、です - それらはご存じでしょう。 この問いに答えは、あるのでしょうか - 最終的な反駁不可能な答えが、です。 すなわち、この世界の人間たちは、 自らの日々の生を生き、オフィスへ行き、 世帯、セックス、子ども、それらを持ちながら、 また、単なる生の物質的な物事をはるかに越える 何かへの、この探求、このあこがれ、です。 この問いは、いったい解決できるのでしょうか。 人は、見たところ、それを解決していません - 彼はこの地上に、二百万年か 三百万年の間、人間として 四万年か五万年の間、 生きてきたけれども、です。 私たちは、ものすごい経験を集めてきました。 私たちは、大変多くの知識を、集めてきました。 Xさんは、語り手に言っていました - 私たちはテクノロジー的に、無量の情報を集めてきました。 しかし内的に、私たちは野蛮人に留まっています - 互いに殺し合おうとし、 互いに競争し合おう、互いに破壊し合おうと、しています。
25:30 で、彼は、はるばるとやってきました。バス、列車、 航空機と、とても長い距離です。 彼は、「この問いに答えてください」と言いました。 この葛藤には、原因があるのでしょうか。 もし原因があるのなら、 原因が何なのかを、発見しましょう。 あなたが私を導いていこうとか、語ろうとか、ではなく、 ともにあなたは、Xさんと語り手は、ともに、です。 あなたが私に語るだろう、私は受け入れるだろう、とか、 私は行って、それについて考えて、 或る種の自分の結論へ到る、とかではない。 むしろ - Xさんは言いました - ともに、二人の人間として、 一人が演壇の上に座っていて、 もう一人が下に座っているのではなく - すみません! ともに、二人の人間、 生の大変多くを経てきた者として - さびしさ、絶望、 心配、不安定、 愛をほしいが、それが見つからない。 愛しているが、それで満足していない。 いつも押して、押して、押して、 いつも何かを達成したい - それが天国でも、 啓明でも、覚りでも、 億万長者になることでも、です。 それは、多かれ少なかれ、同じことです。 みんなが、何かを達成したいのです。 彼らは、けっして満足していません。 彼らは、平和が何かを、けっして知りません。 彼らは、けっして樹の下に、 静かに座りません - 山々、 川、草の葉、 大地の美しさと、日の光と、 早朝の輝きを、見つめません。
28:38 それで、Xさんは、語り手に言いました - 話をしましょう。 互いに問いましょう、と。 彼が言うことや、あなたが言うことを、けっして受け入れないで、です。 私は、あなたから何一つ、受け入れないでしょう。 またあなたも、私から何一つ、受け入れないでしょう。 私たちは、同じ水準にいます。 あなたは、とても利巧なのかもしれません。 あなたは、評判を取っているかもしれません- それは、戯言です。 あなたは、地球とか、 地球の一定の地方を、回るかもしれません。 そのすべては、勘定に入らない。 それは、何の価値もない - それについて、語り手は心から、同意します。
29:46 で、この呪いを、探検しましょう - 人が時の始まりから、抱えてきたものを、です。 なぜ人は - どうか、それは女を含んでいます - なぜ人は、このように生きるのか、なぜ人は、葛藤(状態)にあるのか - 自分の親密な関係において、 性的に、家族の中で、です。 葛藤のネットワーク全体。 ですね?
30:54 で、彼は、Xさんは、次の日、来ました。 私たちは継続しました。 私たちは、美しい日に、谷を見下ろす ベランダに、座りました - まわりの、雪を被った大きな山々、 すばらしい谷、青く、うるわしい紺碧の空。 太陽は木の葉にきらめき、木漏れ日の大地。 あらゆるものが、驚くほど生きて、脈動し、 エネルギーに満ちて、見えました。 そこに私たちは、彼と語り手は、いました - この大いなる美しさを見守っていました。 けっして美しさとともにいないで、 いつも、それを見守っていて、 けっして、自らの心と精神で美しさを感じず、 大地の輝きすべてに全く敏感でなくて、です。 彼は、「私たちは美しさについて話さないでしょう」と言いました。 「それはあなたの事柄です。あなたがそれについて、私に語ってください」と。 私は、「私たちは、少し後でそうしましょう」と言いました。 初めに、ともに、この葛藤の問いの中へ、 旅を行いましょう。または、探検しましょう、と。 私たちは訊ねています - 人間たちは、それに耐え、それに馴染み、 それを保たなければならないのでしょうか。 けっして、けっしてそれを、完全に脇に置いて、 そのため、そのとき人の頭脳がしかるべく機能しうるように、できないで、です - 完全に、繋がれていないで、完全に自由であり、 プログラムされていなくて、条件づけられていなくて、です。
33:35 で、今、語り手は、この問いをあなたに、出しています。 また私たちは、この点について議論し、話し合い、討論しました - それの原因は、何でしょうか。 私たちは、ともに旅を行っています。 私に告げるよう、あなたに頼んでいないし、私があなたに告げるのでもない。 それの原因は、何でしょうか。 あらゆるところに、闘争があります。 あなたは、自然には闘争がある、と言うかもしれません - 大きな動物が小さな動物により生きるとき、などです。 林では、小さな樹が、光を求めて、 巨大な樹と闘争しています。 あなたは、地上のあらゆるところに、自然に、葛藤がある、と言うかもしれません - 或る種の闘争がつづいている、と。 で、なぜ私たちもまた、そのように、つづけるべきでないのでしょうか。 私たちは、自然の一部分であるからです。 そこには、向こうには、葛藤、抗争があります - 人間たちが、葛藤と呼ぶものが、です。 そうではないかもしれません。それは、自然の行為する、最も自然な道なのかもしれません。 鷹、鷲がウサギを殺す。 熊が、鮭を殺す。 虎が、何かをすばやく殺す。 または、チーターが、です。 自然では、殺しに殺しつづけます。 私たちもまたこの自然全体の一部分である、と言うかもしれません - それで、私たちが常に闘争になっているのは、不可避である、と。 それを受け入れるなら - それは自然であり、不可避であると、です - もはや、それについて言うべきことは、ありません。 なぜなら、あなたは、それは自然であると言うからです。私たちはそのように つづけるでしょう。なぜなら、私たちは地球全体の一部であるからです。 しかし、それを問いはじめるなら - Xさんは語り手に言っていました - それを疑いはじめるなら、あなたは、どこにいるのでしょうか。 それは、あなたはともに見出そうという気があるのか、という意味です。 なぜなら、私たちは、樹々、虎、象より、もう少し 活動的で、智恵がある、と考えられているからです - 幸運にも、象はそうではない。 彼らは、あまりに多くを殺しません。 が、彼らは樹々を破壊します。 そして、チーターとその他すべてより、です。 私たちは、類人猿から来たのかもしれません。 たぶんそうなのでしょう。 私たちは、変な猿であるにちがいない! 葛藤が生の道であることを、 もし私たちが受け入れないのなら、何をすべきでしょうか。 葛藤の動き全体を理解するように、どこから始めるのでしょうか。 これらへの道を、どのように探って行くのでしょうか。 語り手は、Xさんへ言いました。 あなたは、よく気をつけて葛藤の要因すべてを、 次から次へ、分析するのか。 分析をとおして - 自己分析や 他者に分析されたり、 教授、哲学者と心理学者たちの 専門的な助言を受け入れたり、です。 分析しはじめるなら、 それは、原因の発見をもたらすでしょうか。 その発見は、分析をとおして 知的であるでしょう。 あるいはまた、その分析は、あなたに、一定の結論をもたらすかもしれません。 または、あなたは、分析的要因をすべてまとめて、全体が見えるのか。 理解されますか。 それは可能でしょうか。 または、問いには、異なった接近があるのでしょうか。 理解されますか。 Xさんは語り手が言っていることを、理解されるのかと、思われます。
39:55 で、彼はXさんに訊ねます -私たちはまだ、同じ水準に、 同じ了解にいますか、と。 すなわち、語り手はXさんに、語っています - 分析は、分析者である者を、含意している、と。ですね? ゆえに、分析者と、分析されるものが、ある - 主観と客観(対象)が、です。 自分自身に、そういう違いがあるのでしょうか - 主観と客観(対象)のように、です。 私たちは、一緒になりつつありますか。 それが、語り手がXさんに訊ねる最初の問いです。 あなたがXさんです。 分析者は、教育をとおし、条件づけをとおし、 プログラムされることをとおして、助長されてきました - すなわち、彼、分析者は、彼の分析するものより、 完全に違っている、と。ですね? 顕微鏡のもと、何かをとても注意深く見つめるとき、 そのまさに注意こそが、観察されつつあるものへ、 さらに大きな光を照らします。 私はこれには入らないでしょう。 語り手は言います - 私は、分析に対する態度全体を、 問おうとしている、と。 語り手は言っています -私は、職業的専門家たちが、 分析について言ったことを、受け入れていません、と。 ウィーンから来る(精神医学の)人たちや、 最新のアメリカの心理学者を、含めて、です。 私は、彼らのどれをも、受け入れていません- 語り手はXさんへ告げます - 私はそれを問います。 それを疑問とします - 分析の活動だけではなく、分析者は誰ですか。 初めに、分析者を理解できるなら、 そのとき、分析に、どんな必要があるのでしょうか。 理解されますか。 私は、あまりに速く行っていますか。 私たちはともに、ここを行ってもいいですか。
43:07 私は自分自身を分析します。 私は怒っていた、貪欲だった、性的だった - それが何であっても、です。 分析する中、すなわち、それを砕いてしまい、 よく気をつけて、一歩一歩見つめる中で、 観察者は誰なのでしょうか。 観察者は - 語り手はXさんへ語っています。 彼が言うことを、受け入れないでください。 ともに問い、疑ってください、と - 分析者は、蓄積された過去の思い出すべてではないでしょうか。 彼は、経験をとおして条件づけられています - 彼の知識 彼の生への見方、 彼の特有の傾向、 彼の先入観。 彼の先入観、彼の宗教的プログラム - 宗教的にプログラムされること - このすべてが、過去です。 このすべてが、彼の生の背景です -子どもの頃からです。 彼が観察者です。彼が分析者です。 その背景が、共同体的な思い出、 人種的な思い出、人種的な意識などなどを、含んでいるにしても、 彼が観察者です。 そのとき、観察者はそれを砕いて、 観察されるものと観察者にしてしまう。 ですね?付いてきていますか。 で、分析におけるまさにその分割こそが、葛藤を、創り出すのです。 ですね?私たちは、ともにいますか。 あなたはXさんです。私は語り手です。 私たちはともに、同じ旅を行っていますか。 すなわち、分析者と分析されるものとの間に、 分割があった瞬間、 必然的に、或る種の葛藤があるにちがいないのです - 微妙で、愚鈍で、無意味だが、 それは葛藤です。 乗り越える、征服する、抑圧する、超越する。 これらすべては、大小の形での努力です。ですね?
46:15 それで発見するのです -すなわち、分割があるところ、 スイス人とドイツ人、 フランス人とイギリス人、 どこでも分割があるところ、葛藤があるにちがいないことを、です - 「私とあなた」、「私たちと彼ら」。 分割がない、ということではない。 豊かな者たちは、とても強力です。 しかし、もしも私たちは、主観的に分割を創り出したなら - 私は、これに所属しているが、あなたは、あれに所属している。 私はカトリックだが、あなたはプロテスタントだ。 私はユダヤ人だが、あなたはアラブ人だ、と。ですね?
47:12 で、どこでも、二人の人々の間に、 で、いつでも、この分割があるとき - 男と女の間、 神と地上の間、 「あるべきもの」と「有るもの」の間 - あなたが付いてきているのか・・・ - 私は、Xさんに訊ねています - 彼がこれらに付いてきているのかどうか、と。 言語的に、知的にだけではない- それは無意味です。 彼の心でもって、存在でもって、 活力、エネルギーと熱情でもって、です。 すなわち、どこでも分割があるところ - 私とあなた、 私は女だが、あなたは男だ、と。
48:23 それで、葛藤の根を発見しはじめるのです。 人間にとって、現代世界に生き、仕事へ行き、 生計を立て、ビジネスはそこで、 家族はここ、 私はそこでは攻撃的だが、妻とは穏やかで、 従順で、堪える、それらです。 それで、自らの生は、矛盾になるのです。 その矛盾は、終わりうるのでしょうか。 さもなければ、私たちは、葛藤、抗争に生きるでしょう。 さもなければ、偽善者になります。 偽善者でいたいのなら、それもまた、けっこうです。 しかし、ごく正直に生きたいのなら - それは絶対的に必要です - 大いなる、きびしい正直さをもって生きること。 誰かに対して、自分の国や自分の理想に対してではなく、 自らの思うところを、そのまま言うこと。 そして、自らが思うところを、言う。 他の人たちが言ってきたことを、ではなく、あなたも反復するのではない。 それは正直さではない。 または、何かを信じていて、正反対のことをする、とか。 みんなが、平和について話をします。 あらゆる政府、あらゆる宗教、あらゆる説教者が - 語り手を含めて、です - 平和について、話をします。 平和に生きることは、ものすごい正直さと智恵を、要求します。 で、この二十世紀とか今、生きて、 まず初めに、内的に、 初めに心理的に、主観的に、 自分自身にどの種の分割をも、 持たないことは、可能でしょうか。 どうか、探究してください。 探求し、訊ねてください。 熱情をもって、です。熱情は、狂信を含んでいません。 熱情(パッション)は、殉教を要求しません。ですね? それは、何かあなたが執着していることではありません。 まさにその執着こそが、あなたに熱情を与えます。 それは、熱情ではありません。 それは、何かに繋がれているようなものです - それが、あなたに、熱情の感じ、エネルギーを与えます。 杭に繋がれたロバのように、です。 それは、ぐるぐると歩き回れますが、やはり、そこに留め置かれています。
52:11 で、私たちは、Xさんと語り手は、 自分たちが何をすべきかを、互いに告げるのではなく、 自分自身で発見できるでしょうか - すっかり正直に、 何の欺瞞の感覚もなく、 何の幻想の感覚もなく、 それが可能なのかどうか - 可能か、です。 「それは可能だ」と言うのではない。 この世界、戦争や、起きている恐怖すべての中 葛藤なく、分割なく、 生きることは、可能なのかどうか、です。 どうか、眠らないでください。 朝にあまりに早すぎます。 あなたは訊ねられるなら -あなたはXさんです。あなたは訊ねられるなら、 あなたの答えは、どうなるでしょうか- 内的に、です。 あなたは、スイス人、ヒンドゥー教徒、インド人、イスラム教徒です。 または、何か党派や、何か集団に従います。 何か導師の信奉者です。 そのすべてを、完全に放棄しなくてはいけないではないでしょうか。 あなたは、スイスのパスポートを持っているかもしれません。 語り手は、インドのパスポートを持っています。しかし、彼はインド人ではありません。 インドでは彼らは、それが気に入りません。 ですが、私たちは彼らに対して、幾度も言ってきました - どの宗派にも、どの導師にも、何にも所属すべきでない、と。 あなたたちは、これを恐ろしく困難だと、見るでしょう。 それの終わりに、一人立つのではなく、 了解があるのです - 本当に無意味である、それらのものに対する、 内的な気づき、洞察が、です。 それは、瞬間的な満足を、与えてくれるかもしれません - 何かに所属すること、 集団に所属すること、 何か派閥に所属することは。 しかし、それはすべて、かなりくたびれ、あわれで、醜くなろうとしています。
55:25 で、これのどれにも、執着できないのです - 特に、語り手が言っていることをも、含めて、です。 そのため、自分の頭脳は・・・ ふしぎにも、あなたの頭脳はあなたのでなく・・・、 また、他のでもあるのです。 理解されますか。 あなたの頭脳は、あらゆる他の人間の頭脳と、似ています。 それは、無量の能力を、持っています。 無量で、信じがたいエネルギーを、です。 テクノロジーの世界で、やられてきたことを、見てください。 アメリカの科学者すべてが今、(国防の)スター・ウォーズ計画に、関心を持っています。 私たちは、それらに入らないでしょう。 エネルギー。理解されますか。 頭脳は、このとてつもないエネルギーを、持っています - あなたが何かに集中し、 何かへ注意を向けるなら、です。 彼らは、他の人間たちを殺すことへ、注意を向けてきました。 それで原子爆弾が生じました。 で、私たちの頭脳は、私たちのではありません。 それらは、長い時の期間をへて、進化してきました。 その進化において、私たちは ものすごい知識、経験を、集めてきました。 そのすべての動き、状態には、 愛と呼ばれるものが、ほとんどありません。 理解されますか。 私は、自分の妻を、子どもたちを、自分の国を、愛しているかもしれません。 私の国は、思考により分割されてきました - 地理的に、です - それは世界です。私の世界、 自らが生きている世界は、全世界です。 で、私の頭脳は、長い時の期間をへて、進化してきましたが、 意識をともなった頭脳は、私のではないのです。 なぜなら、私の意識は - Xさんは言っています。 私は、あなたが言ってきたことについて、何らかを読んできました。 私は、あなたが言ってきたことを、反復していません。 ですが、これは、私もまた感じること、その実際が見えることです。 すなわち、私がどこに行っていても、 地のあらゆる片隅に、 苦しむ人間たちがいるのです - 痛み、心配、絶望的なさびしさ。 で、私たちの意識は、すべての他の人間たちにより、分かち合われています。 あなたは、これを悟りますか。 ここ、上でではなく、知的にではなく、実際にです。 それを本当に感じるなら、そのとき分割はないでしょう。 理解されますか。 Xさんは理解するのか・・・私は彼に訊ねます - あなたは、この真実が見えますか。 それの概念ではなく、 それの観念ではなく、美しい結論ではなく、 それの実際が、です。 実際は、実際についての観念より、異なっています。ですね? あなたは、そこに座っています。 それは実際です。 ですが、私は、あなたがそこに座っていることを、想像できます - それは全然異なっています。
1:00:35 で、私たちの頭脳は、私たちの意識の中心です - 神経的応答、感覚的応答すべてをともない、 私たちの知識すべて、 経験、知識、記憶すべての中心です。 あなたの記憶は、他のとは違っているかもしれません。 しかしそれは、やはり記憶です。 あなたは、高度の教育を受けているかもしれません。 他者は、まったく教育を受けていないかもしれません。 読み書きの仕方さえ知りません。 ですが、やはり、それの一部です。ですね? で、あなたの意識は、この地上のあらゆる人間が、分かち合っています。 ゆえに、あなたは全人類です。 理解されますか。 あなたは実際に、 理論的にや神学的に(ではなく)、 「神の眼において、私たちはみんな一つである」ではない。 たぶん神は眼を持たないでしょう。 しかし実際に、どこに行こうとも、 このふしぎな改変不可能な事実が、あるのです - すなわち、私たちはみんな、同じ型枠、 同じ心配、望み、恐れ、死、さびしさ(を経ていく)、すなわち こんなに絶望をもたらすものを、経てゆくのです。 で、私たちは人類です。 それを深く悟るとき、他の一人との 葛藤は、止まります。なぜなら、あなたは私に似ているからです。
1:02:49 で、それが、私たちが話をしたことです - XさんとKさんが、です。 また私たちは、他のことについて、継続しました。 彼は、幾日もの間、そこにいたからです。 ですが、私たちは初めに、本当の関係を、確立しました - どの種の討論、どの種の意思疎通もあるとき、 必要であるものを、です。 言語的だけではない。 言葉は、自らの伝えたいこと、 伝えたいと願望することを、深遠に伝えません。 で、二日目、または一日目の終わりに、 私たちはどこにいるのでしょうか、と私たちは言いました。 あなた、XさんとKさん - 私たちは、これのどこにいるのでしょうか。 私たちは、もたらしたのでしょうか - 変化を、ではない。変化は、時を含意しています。 私は知りませんが・・・私たちは別の時に、それへ入るでしょう。 私たちは単に集めてきたのでしょうか - 理解されますか - 収穫物を集めるように、です。 私たちは種子を蒔きます。すなわち、あなたはここに来たのです - それは、種子を 蒔くことの一部です。 あなたはKに聞いてきました。 そしてXさん、あなたは何を集めてきましたか。 それは、集めることは、蓄積を意味しています。ですね? あなたは、とても多くの情報を、集めてきました - どうか、これに付いてきてください。 私たちは、まもなく止めるでしょう。 眠くなったり、神経質になったりしないでください。 あなたは、専門家から、心理学者から、 精神科医から、とても多くを集めてきました。 理解されますか。 集めて、集めて、集めてきた。 Xさんは - Kは彼に訊ねます- あなたもまた、集めてきましたか。 あなたは集めてきたのなら、 それは、他のどの集めるのとも、似てきます。 私は知っている。私は集めてきた。 または、山への登り方を学んだ。 今、私は、山登りの熟達者である - 私は(実は)そうではないですが・・・ で、頭脳は、磁石に似ています。集めています。 で、KはXさんに訊ねます - あなたは、何を集めてきましたか。 または、あなたは、集めることから自由ですか。 どうか、これはとても・・・理解されますか。 辛抱がおありなら、どうかこれを聞いてください。
1:06:30 私たちはいったい、集めることを止めるのでしょうか。 ベッドのシーツ、枕カバーを、集める- それはもちろんです - 水。 良い職を持つために、学位を集める。 生の実践的なことのためには、集めなくてはなりません。 しかし、どこで集めることが必要でないのかが、見えること - それが、生きる芸術が来るところです。 なぜなら、そのとき、あなたは集めているなら、私たちの頭脳は、けっして自由ではなく、 けっして空っぽではないからです - 私たちは、空っぽという問いに、入らないでしょう。 それは違った事柄です。 ですが私たちは、自分たちが集めに、集め、集めていることに、気づいていますか。 私たちが習慣を集めるように、です。 あなたがそんなに多く集めてきたとき、 それを免れることは、とても困難です。 この集めることが、頭脳を条件づけるのです。 インドに生まれて、一定の種類の人々、伝統に所属し - 宗教的とか、きわめて正統的なものに、です - あなたは、それらを集めてきました。 そのとき、そのすべてから自由であるには、無量の探究が、掛かります - 探求、 見つめること、見守ること、あなたが言うことへの気づきが、です。付いてきていますか。 で、まったく集めないことは、可能でしょうか。 どうか、これを考慮してください。 それを拒絶しないで、見出してください。 あなたは、知識を集めなくてはいけません - 自宅へ行くため、 どう車を運転するのか。 外国語を話すには、単語、動詞の不規則活用、 その他すべてを、集めなくてはいけません。 しかし内的に、そもそも集めることは、必要でしょうか。 覚りは、集めることではありません。 反対にそれは、そのすべてからの全的な自由です - それが結局のところ、愛なのでしょう。 私はあなたたちを集めてきたからといって、あなたたちを愛していません。 ですね? 私は性的に、あなたに満足してきました。 または、あなたは交際しやすい。 または、私はさびしい。 ゆえに私は、あなたに依存します。 そのときそれは、市場で売り買いできるものになります。 そのとき私たちは、互いを搾取し、互いを使用し、 互いを川下へ売り飛ばします。 確かにそれは、愛ではないでしょう。 それ(愛)は、まったく 何も集めない頭脳の性質です。 そのとき、それが言うことは、それが発見してきたことでしょう - 他の人々が言ってきたことではなくて、です。 そこには、ものすごい熱情があるのです - 欲情ではなく、熱情(パッション)です。 しかしそれは、狂信性を持ちません。 私は突如、厳格な菜食主義者になりません - 今、私は塩に触れない!、と。 または、私はイスラム教徒、狂信的なシーア派の者です - 理解できますか。 彼らは、みんな一定の種類の熱情を、持っていますが、 彼らは、狂信的になってしまいました。 殉教の傾向を持つ、 その他すべての事柄です。
1:11:29 で、私は訊ねています- 語り手、Kは、Xさんに頼んでいます - あなたは、集めることなく生きられるかを、見出してください、と。 あなたは、それについて語られるわけにいきません。 私たちはともに、それを探究できます。 しかし、けっして集めないこと、蓄積した記憶が けっして作動しないことの実際。 これは本当に、きわめて微妙です。 それは、大変多くの探究を必要とします。
1:12:15 今、止めてもいいですか。 私たちが話をしたのは、一時間と十五分です。 あなたたちは話をしていなくて、Kが話してきました。 ですが、私たちは互いに、疎通を行ってきました。 なぜなら、私たちは、疎通の基礎を、確立してきたからです - そこに、優れた者と劣った者がなく、 知っている者と知らない者がない基礎を、です。 立ち上がってもいいですか。 あなたがたが、お先にどうぞ。 お先にどうぞ。