Krishnamurti Subtitles

SA85T3 - 利己が恐れの根だと見ること home
第3回公開講話
スイス、サーネン
1985年7月14日


0:52 私たちの会話を、継続してもいいですか。
1:08 私たちは、葛藤と、葛藤の因果について 話していました。 葛藤、抗争は、世の中で ますます成長しています - あらゆる形で、 あらゆる社会的な区分などで、です。 私たちは、葛藤の原因は この常なる対立である、と言いました - 私たちの中でだけではなく、 また、私たちがそこに 生きている社会の中にも、です。 社会は、私たちがそれから 作ってきたものです。 それは相当に明らかで 明白である、と私は思います。 なぜなら、私たちは、 自分たち自身の中で、 生まれた瞬間から死ぬまで、 常に闘争、競争、 葛藤(状態)にあるからです - あらゆる形の破壊的や肯定的な態度、 先入観と見解です。 2:43 これが、私たちの生の道であったのです。 現在の期間にだけではなく、 また、ここ、たぶん 二百五十万年の間に、です。 私たちは、いまだに これをつづけています - 同じ様式、同じ型枠で、です - 戦争は、かつてないほど破壊的です。 民族性、国籍の間の分割、 すなわち、部族主義です。 宗教的な分割、家族の分割、 派閥的な断片化など。
3:44 私たちは今朝、再び、 指摘してもよろしければ、 私たちは、知的な集団として、または、 かなりロマンチックで想像力豊かな 感傷的な集会として、 ここにいるわけではありません。 私たちはともに、 あなたと語り手は、 旅を行おうとしています。 彼があなたを導いているとか、あなたが 彼に従っているとか、ではなく、 ともに、隣り合って、 必要なら、おそらく手を取り合って、 私たちは旅を行っています - かなり複雑で、 ねじれて、微妙で、 おそらく終わりがない。 始まりも終わりも持たない旅を、です。 または、私たちが理解するところ、 「始まりと終わり」という用語には、 何かが始まり、進んでいき、 それから、終わりになる。 おそらく、それはまったく、 そのようではないのです。 それは、常なる動きである かもしれません - 時の循環の中でではなく、 むしろ、 私たちが知っているような運動量 (モーメンタム,勢い)の分野の外側で、です。 私たちはまもなく、それらに入れます。
5:33 それで、私たちは一緒です。 どうか、語り手は、この点を 主張しなければなりません。 あなたたちは単に、聞き手ではありません - あなたは、彼が言うことを、 受け入れたり拒絶したりでなく、 むしろ、責任において、 ともに協働し、歩みを合わせる。 一人がもう一人の後に、ではなく、 同じ道を歩んでいく。 同じ「トレイル」や、同じ小道を、です。 で、それは、語り手のそれとともに、 あなたの責任です。 受け入れたり、拒否したり、 同意したり、不同意したりするのではない。 私たちは、この同意と不同意の 体系の中で、育てられ、 教育されてきました。 私たちは、幾つかのことで同意します。 私たちは、他のことでは 全面的に不同意します。 で、いつもこの分割がある - 同意し、何かを一緒にやる人たちと、 彼らがやっていることに、 反対している人たちです。
7:11 私たちは今朝、自分たちの頭脳から、 すっかり全面的に、 自分たちの血潮から、 自分たちの頭脳から、 同意と不同意の観念を、 放逐できるでしょうか。 なぜなら、あなたが 語り手に同意するなら、 同意しない人も、幾らかいます。 そのとき、二人の間には、 必然的に葛藤があるのです。 一人は、それに忍耐するかもしれません。 一人はそれを堪え、受け入れるかもしれません。 しかし、いつもこの分割が、 あるのです。 明らかですか。 で、私たちは、同意と不同意、 賛同と不賛同の帰結を見て、 ともに観察できるでしょうか - ともにそのとおりに、見るのです。 私たちに見えるかぎり、 外的に起きていることだけではなく - それは相当に単純です。 なぜなら、 私たちは、実際に起きていることを、 あまり聞かされていないからです。 政治の世界で、 軍備の世界、科学の世界で、 テクノロジーの世界すべてで、です。 また、内的、主観的に、 起きていることを、そのとおりに見る。 「まあ、これは悪い。これは良い。 9:06 私はこれを受け入れる。私はあれを 受け入れない」と言うのではなく、 ただ観察するのです。 その観察において、 何も先入観がない。 ですね? 私たちはこれをできますか。 私たちは、自分たち自身を、観察できる でしょうか - 自分たちの行い、振るまい、 自分たちの考え方、反応、 信仰、信念、結論などを、です。 私たちはそれらを、ありのままに 観察できるでしょうか - あるべきようにとか、 なければならないように、ではなく、 ただそれを見つめるのです。 私たちはそれをできるでしょうか。 それは、大変多くの注意を、 必要とします。 頭脳は、自分自身を見守る中で、 どの種の反応をも拒絶するには、 とてつもなく活動的で なければなりません。 なぜなら、結局のところ、他の人々が、 私たちについて言ってきたこと - 教授、心理学者、精神科医、 導師と、それらすべての人々が、です - それは、彼らが言うことであるからです。それは あなたが自分自身について、見ることではない。 10:48 私たちは互いに付いて きていることを、願っています。 私たちは、英語を話しています。 語り手が使っている 言葉は、とても単純です - 私たちが、お互いとの会話で日々 使う、単純な言葉です。 業界用語はない - 専門化された言語的、 意味論的な業界用語は、ない。 私たちは、二人の友として 一緒に話し合っています。 普通の日常言語を、用いています。 で、私たちは訊ねています - 私たちは、 自分たちのありのままを、そのとおりに見られるでしょうか。 それについて、どちら側かに付かずに、です。 なぜなら、私たちは今朝、 それらに入ろうとしているからです。 同意と不同意をするだけではない。 各々の態度の帰結を見て、 それを完全に片付ける - 査定し、不同意し、評価し、 判定することを、です。 ただ観察する。 晩の、星に充ちた 空と、あれら山々、 青空に対して荘厳なのを、 観察するように、です。 12:35 あなたは、ただ観察します。 私たちは外的に、 同じことをできるでしょうか。 なぜなら、それが 判定基準であるからです。 そこから、自分自身を観察する - 世の中への私たちの関係と、 私たちへの世の中の関係を、です。 それは、かなり複雑な過程です - ですね? 私たちは一緒にいますか。 または、私は、先を行進していて、 あなたを後に残していますか。 私たちはともに、行けるでしょうか - 歩みを合わせて、です。 私たちは、互いに理解しないのなら、 「私は、あなたが話していることを、 理解できない」と言います。 ですね?私たちは、それでもって 始められるでしょうか。
13:35 私たちは、何なのでしょうか。 なぜ私たちは、こんなに根深い 利己性を、持っているのでしょうか。 外的に利己性だけではなく、 そこには、利己性に 一定の必要性があります。 さもなければ、 あきらめなくてはなりません。 14:04 しかし、内的、心理的、主観的に、 なぜ、こういう深い透徹不可能な 利己性が、あるのでしょうか - 私たちのみんなに、です。 その利己性 - その言葉が 何を意味するかを、ご存じですか。 自分自身に、関心を持つ - 自分の利得、 自分の失敗、自分の断片化、 自分の先入観、見解、 自分の生の存在全体に、です。 利己性。 いいですか? 私たちがこんなにそれへ 参与しているのは、なぜでしょうか。 その利己性なく、この世界に 生きることは、可能でしょうか。 初めに、心理的に、です。 それから私たちは、 それが外的に可能なのかが、見られます。 ですね? 私たちは一緒にいますか。 または、私はそのテントを越えて、 フェンスを越えて、話していますか。
15:24 あなたは、私たちが自分自身のまわりに、 フェンスを築くことに注目したことがありますか - 自己保護のフェンス、 どの傷をも避けるフェンス、 あなたと他者との間、 あなたとあなたの家族との間、 などの間の障壁、です。 あなたと語り手との間には、 障壁があります。 ですね? 当然です。 あなたは、語り手を知りません。 語り手は、あなたを知りません。 ゆえに、あなたはかなり 礼儀正しく聞いています - 一体全体、彼が何について 話しているかを、知りたがっています。 一時間ほど、この暑いテント、 大天幕に座り、 何かを期待した後で、そこから 得るだろうと、願って、です。 ですね?当然です。 16:44 知りたがり、自分に合うもの、 自分に合わないものを、選択し、 全面的にではなく、 部分的に聞く - なぜなら、自分自身に対して、 自分自身を露呈したくないからです。 で、自然に創り出すのです - ごく薄い、ほぼない障壁を、 または、明確な壁を、です。 なぜ私たちは、そうするのでしょうか。 それもまた、利己性ではないでしょうか。 この利己性は、必然的に断片化を、 もたらすにちがいないのです - 砕くことを、です。 民族的、国家的に、障壁が見えます。 一方にはイングランド、 他方には全ヨーロッパ、 そして、その彼方、です。 この常なる分割が、あるのです。 18:02 分割があるところ、葛藤があるに ちがいない。それは回避不可能です。 あなたが、妻や夫、 女の子や男の子などと、 とても深い親密な関係を、 持っていても、 分割があるところ、 断片化があるにちがいない。 葛藤があるにちがいないのです - それは法則です。 ですね? あなたがそれを好きでも、 好きでなくても、それは法則です。 しかし、それが見えるとき、 あなたは壊すのです - まさに見えることこそが、 障壁を壊す道なのです。
18:51 で、私たちは 探究しなければなりません - 見えるとは、どういう意味でしょうか。 観察するとは、どういう意味でしょうか。 私は、自分自身を観察しています。 私は、自分が何であるかを、 見守っています - 私の反応、先入観、 確信、体質、 私がそこで育てられてきた伝統、 評判、そのすべてのごみ。 私は、見守っています。 私は、よくよく気をつけて見守り、 見守る中で、起きていることの あらゆる響きを、聞くのでないなら、 私は、自らが行かなければ ならない方向を、定めます。 これらに付いてきていますか。 私は自分自身へ話していますか。
20:05 私たちは、アメリカ、ワシントンで 話していました。 私が言ったことへ、彼らは拍手しました - 賛同し、奨励して、です。 ここでみなさんは、 とても静かに座ります。 あなたが実際に一緒に歩んでいるのか どうか、本当は分かりません。 実際に聞いているのか、 または、普通に入ってくるのか - 日曜日の朝のお説教、です。 教会へ行く代わりに、 あなたはここに現れます。 面白さのためなのか、 または、ただ、あいつが 言っていることを、聞くだけか。 または、「まあ、私は彼に同意するね。 でも、彼は、他のことについては、 すっかりは正しくない」と。 私たちはけっして、 全体のことを、見つめません - 生の問題全体を、 子ども時代より死までの 存在全体を、です。 21:16 私たちはけっして、全部のことを 取り入れ、観察し、学ぶことがありません - 知識を蓄積するのではない。 それは相当に単純です。 私たち自身に起きて いることを、学ぶのです - 私たちが互いに対して行う要求、 傷、深いさびしさ、 抑鬱、心配、 不安定、恐れ、そして、 私たちが持つ 気持ちよいことすべてと、 また、苦しみ。 究極的には、 死の痛みがあるのです。 私たちはけっして、 この動き全体を、一つとして見ません。 むしろ、私たちはそれを、 断片的に考慮します。
22:30 今、私たちは、できるなら、 ともに、見ようとしています - この断片化の原因は 何なのかを、だけではなく、 また、頭脳は数百万年の間、 条件づけられてきました - 戦争へ、葛藤へ、 いつの時も働きに働くこと、 果てしなくおしゃべりすることへ、です。 部族として、民族性、国籍などとして 分割されている - あなたの神と私の神、 西洋の哲学に対立した東洋の哲学。 起きていることすべてを、ご存じです。 で、私たちはもしも今朝、できるなら、 同意と不同意の動き全体を、 すっかり脇に置けたなら - その動きには、選択があります。 ですね? 私は、あの道を行くのを選択する。 あなたは、あの道を行くのを選択する。 23:55 私は、神を信じるのを選択する。 または、神はない、と。 あなたは言います - 「いや、 すまないな。 私はそれを受け入れられない。 神はいるにちがいない。 なぜなら、私はそれを信じているし、 それが好きだから」とか、 または、「それは私の伝統だ」 などと、です。 私たちは、ひとたび分割を認識するなら - 同意と不同意、 賞と罰などを、です - そのとき、実際に私たち自身を、 見つめはじめられるのです。 なぜなら、私たち自身が 世界であるからです。 ですね? 世界は、私たちなるものです。 私たちが暴力的で疑い深く、 狭量であるなら、 世界はそのようです。 これは明白なのでしょう。 なぜなら、私たちがこの社会を、 作ってきたからです - 私たちがそこに生きている この化け物じみた、 醜い、非道徳的な社会を、 神々すべてと、そうね、 それらの事柄とともに、です。 25:18 それは、大きなサーカスに なってしまいました - 痛みにみちたサーカス、 または、楽しめるサーカス、です。 で、私たちが何であるかを、 そのとおりに、 何も歪曲なしに、見る。 私たちは何でしょうか。 生物学的にではなく、 心理的に、です。 生物学的に、それは、 幾千年に幾千年をかけて、 組み立てられてきました。 心理的には、 人の始まりから、 暴力、憎しみ、嫉妬、 攻撃が、あります - いつも、もっともっと何かに、 なろうとしている。 私たちのありのままより、 はるかにもっと、です。 それは、自らが単に叙述を聞いている だけ、ということなのでしょうか。 または、事実が見えるのか - 事実についての 観念ではなくて、です。 理解されますか。 事実と、事実についての観念の間には、 違いがあります。 26:52 すなわち、私たちは 観念を、持っています - 何かが見えて、私たちは その中から、観念を作り出します。 それから、観念を追求します。 「私は、このようであるべきではない。 私は、あのようでなければならない」 - それは観念です! 初めに私は、自分が何かが、見えます。 自分のあるべきものが、ではない。ですね? そのとき私は、自分が何かが、 そのとおりに見えます。 それは事実です。 事実に、観念、概念、 イデオロギーは、要りません。 それはそのとおりです。 私は怒っている。それは事実です。 ですが、「私は怒ってはならない」と、 私は言います。 そのときそれは観念になります。 私たちはともに、ここにいますか。
27:50 で、あなたがここから 作り出しているのは、何ですか。 それは、あなたが一組の観念を 結論づけている、ということですか。 または、事実が ありのままに、見ていますか - すなわち、私たちは嫉妬深い、 攻撃的だ、さびしい、 恐れ、その他すべてが、です。 心理全体、ペルソナ、自我は それらです。 あなたは、これを疑っていますか。 このすべては過去です - 私たちが収集してきた記憶です。 私は恐れてきました。 私は、 恐れが何なのかを、知っています。 その感じが生じた瞬間、私は、 「それは恐れだ」と言います。 それは恐れだと言うことこそが、 観念です。 事実ではない。 あなたが、これらに付いてきているのか、 私は知りません。 29:09 「樹」という言葉は、 実際の樹ではありませんよ。 ですね? Kという名前は、実際のKではない。 言葉はそのものではない。 ですね? で、あなたが観察するとき、 あなたの頭脳は、 言葉、言葉、言葉の ネットワーク全体に、捕らわれています。 あなたは、言葉なく、自分自身を 見つめられるでしょうか。 さあ、みなさん。 私とともに ゲームをしてくださいよ。 ボールは、あなたのコートにあります。 すなわち、あなたは、自分の妻、 夫、子どもたちや、 ガールフレンドや、 何であれ、見つめられますか - 言葉なく、イメージなく、です。 その言葉、そのイメージは、 分割です。 ですね? あなたは、語り手を 言葉なく、見つめられますか - 30:41 言葉は、語り手についての 思い出すべて、 評判、あなたが読んできたことや 読んでこなかったこと、 などです。 ただ観察する。 それは、頭脳がどう作動するかを、 捉え、理解しなければならない、 という意味です - あなた自身の頭脳を、です。 哲学者や、 霊的な著者や、司祭者や、 誰かしらの頭脳を、ではない。 ただ、あなた自身を、 言葉なく観察する。 そのとき私たちは、一定の事実を、 見つめられるのです - なぜ人間たちは傷つくのか。 それを見出すことは、とても重要です。
31:41 子どもの頃から、私たちは傷つきます - しなさい、と、するな。 ですね? いつも圧迫がある。 いつも、賞罰をされるとの感覚が、ある。 あなたは、私に何かを言う - それを、私は・ ・・ それに私は怒ります。 それは私を傷つけます。ですね? で、私たちは、とても単純な事実を、 悟ったのでしょうか - すなわち、子どもの頃から 私たちは傷つくし、 余生の間、私たちはその傷を 持ち運んでいく、ということを、です。 さらに傷つくのを恐れる、 または、傷ついては ならないと、試みる - それは、もう一つの形の抵抗です。 で、私たちはこれら傷に、 気づいているでしょうか。 ゆえに、私たちは自分自身のまわりに、 障壁を創り出す、ということに、です - 恐れの障壁。ですね? 32:57 私たちは、この問い、 恐れに、入れるでしょうか。 入りましょうか。 私の楽しみのためではない。 あなたのために、私は話しています。 私たちは、それにとても深く入って、 見られるでしょうか - なぜ人間たちが、すなわち 私たちのみんなが、 なぜ人間たちが幾千年もの間、 恐れを堪えてきたのかを、です。 私たちは、恐れの帰結が、見えます。 報賞を与えられない恐れ、 失敗者である恐れ、 自分は一定の点に到らなければ ならないが、それができない という自分の感じの恐れ、 自分の弱さ。 ですね? このすべては、一定の形の 恐れを、生み育てます。 あなたは、この問題へ 入ることに、興味がありますか。 34:20 それは、それへ完全に入ることを、 意味しています - まさに終わりまで、です。 「すみません。 それはあまりに 困難です」と言うだけではない。 何も困難すぎることはありません - あなたがそれをしたいなら、です。 「困難だ」という言葉は、 あなたのさらなる行為を、阻止します。 しかし、「困難だ」という その言葉を、片付けられるなら、 私たちは、このきわめて複雑な 問題へ、入れます - 言語的にだけではない。 それは相当に・・・ 私たちは、因果作用すべて、 結果すべてを、説明できます - 結果は原因になること、などです。 それは鎖です。
35:08 初めに、なぜ私たちは、 それを堪えるのでしょうか。 あなたは車を持っていて、 それがおかしくなるなら、 最寄りの修理工場へ行きます - 行けるなら、です。 そこで機材が直されて、 あなたはまた乗っていきます。 それは、私たちが持っていない・ ・・ 私たちが、頼れる人、恐れを持たないよう 私たちを助けくれるだろう人が、 誰もいない、ということですか。 質問を理解されますか。 私たちは、恐れから自由になるために、 誰かから助けがほしいですか。 心理学者、心理療法者、精神科医、 または、司祭者、告解、 または、導師 - 「あらゆるものを、私に明け渡しなさい。 あなたのお金を含めて。 すると、あなたは完璧に だいじょうぶになるでしょう」と言う人。 私たちは、こうします。 あなたは、笑うかもしれません。 面白がるかもしれません。 ですが、私たちはいつの時も、 内的にこうしています。
36:31 で、私たちは、助けがほしいでしょうか。 祈りは、一つの形の助けです - 恐れから自由になるよう 頼むことは、一つの形の助けです。 語り手が、恐れからどう自由になるかを、 あなたへ語るのは、一つの形の助けです。 ですが彼は、どうすべきかを、 あなたへ語ろうとしていません。 なぜなら、私たちはともに 歩んでいるからです - 私たちは、あなた自身で、 恐れの因果を発見するよう、 エネルギーを注いでいるのです。 あなたは、何かが とても明らかに見えるなら、 決断したり、選択したり、 助けを頼んだりしなくていいのです。 あなたは行為します。ですね? 私たちは、恐れの構造全体、内的な本性が、 明らかに見えるでしょうか。 または、あなたは恐れてきた。 それの記憶が戻ってきて、 「それが恐れだ」と言う。 私の言っていることを、理解できますか。
38:00 で、気をつけて、これに入りましょう。 語り手が、それに入ろうとしていて、それから、 あなたが、同意や不同意をするのではない。 あなた自身が、語り手とともに 旅を行っているのです - 言語的にとか、知的に、 言語的にではなく、掘り下げ、 調査し、究明する。 ですね? 私たちは、見出そうとしています。 行こうとして ・・・いや、私たちは掘り下げたいのです。 あなたが庭を掘るように、です。 または、水を見つけるために、深く掘ります。 あなたは、外で地面に立っていて、「私は 水を持たなければならない」とは言いません。 あなたは掘るか、川へ行きます。 で、まず最初に、 とても明らかにしましょう - あなたは、恐れから自由になるために、 助けがほしいでしょうか。 39:06 あなたは、助けがほしいなら、 そのとき、権威を確立しつつあります。 ですね? そのときあなたは、権威を 確立することへ、責任があります - 指導者、司祭者を、です。 で、私たちは、この恐れの問いへ入る 前に、自分自身に訊ねなければなりません - あなたは助けが ほしいのかどうかを、です。 もちろんあなたは、医師へ行きます。 一定のことが自分自身でできないなら、 痛みや頭痛や或る種の病気を 持っているなら、 あなたは当然、医師へ行きます。 そこで彼は、あなたの器官の本性について、 はるかに多く、知っています。 で彼は、何をすべきかを、 語ってくれます。 私たちは、その種の助けについて、 話していません。 40:08 私たちは、あなたは助けが要るのか どうかについて、話しています - 誰かあなたに教示し、あなたを導いて、 「これをしなさい。 あれをしなさい。 来る日も来る日も、です。 あなたは、恐れから 自由になるでしょう」と言う人を、です。 それは、私たちは、誰か助けてくれる人が、 ほしい、という意味です。 ですね? 語り手は助けていません! それは、一つ、確実なことです。 なぜなら、あなたたちは、何十もの 助ける人を、持っているからです。 偉大な宗教的な指導者から - とんでもない! - 一番下の者、そうね、角を曲がった ところの、へたな心理学者まで、です。 で、私たちの間で、 とても明らかにしましょう - すなわち、語り手は、あなたを 助けたくない、ということです。 心理的に、どの形でも、です。 41:14 あなたは、それを 受け入れてくださるでしょうか。 正直に受け入れますか。 「はい」と 言わないでください。それはとても困難です。 あなたは、生涯ずっと様々な方向で、 助けを探し求めてきました。 或る人は、「ええ、私は 助けは要らない」と言います。 それは、知覚だけではなく - 助けへの要求が人類へ 何をしてきたのかを、 見ることだけではなく、必要とします - あなたは、混乱しているとき、 何をすべきかを知らないとき、 不安定であるときだけ、 助けを求めます。 ですね? しかし、あなたは、 物事が明らかに見えて 外的にだけではなく、はるかに内的にも、 見え、観察し、知覚するとき - 物事がきわめて明らかに見えるとき、 あなたは、どんな助けをも 欲しがりません。そうなんです! 42:17 そこから、行為です。 私たちはともに、ここにいますか。 気にされないなら、 もう一度、反復しましょう。 語り手は、どうするかを、 あなたへ語っていません。 けっしてその問い、 「どうすれば」をしないでください。 そのときいつも、あなたに 手綱を与える誰かが、います。 で、語り手はどの形ででも、 あなたを助けていません。 しかし、ともに私たちは、 同じ道路を、歩んでいます。 おそらく同じ速さでではない。 あなた自身の速さを、定めてください。 私たちはともに、歩むでしょう。 明らかですか? 私たちは合意できていますか。
43:14 あなたは、助けへの 要求について、明らかでないなら、 他のどこかへ 行かなくてはいけないでしょう。 たぶん、そうするでしょう。 または、或る本に向うか、 誰かに向かうでしょう。 語り手に向かってではなくて、です。 あなたを意気消沈させて、すみません。 または、「すまないね。 私は手を差し伸べない」 と言って、です - そうではないのです。 私たちは、ともに歩んでいるなら、 ともに手を取り合っています。 手を差し伸べること、助けを 探し求めることが、ありません。ですね?
44:01 私たちは、ともに働いていますか。 または、私が働いていて、 それについて熱くなっていますか。
44:16 恐れの原因は、何でしょうか。 ゆっくり行ってください。 原因。 あなたは、原因を発見できるなら、 それについて何かをできます。 原因を変化させられます。 医師が、語り手は癌を 持っている、と告げるなら、 - 彼は持っていませんが、仮に、私は 癌を持っていると、彼が私に告げるとします - 彼は、「私はそれを容易く取り除けます。 すると あなたは、だいじょうぶでしょう」と言います。 私は彼へ行きます。 彼はそれを取り除かなくては いけません。原因は、終わりになります。 で、原因はいつも、変化させられます。 根こそぎにできます - 明らかですか。 あなたは、頭痛を持っているなら、 それの原因を、見つけられます。 あなたは、間違った食事をしていたり、 あまりに多くタバコを吸っていたり、 あまりに多く飲みすぎている、 その他すべてなら、 あなたは、それを止めるのか - 酒を飲んだり、タバコを吸ったり、をです。 または、それを止めるために、 錠剤をとります。 45:38 そのとき錠剤は、効果を出します - それは当分、因果作用を 止めます。 ですね? で、原因と結果は、いつも 変化させられます - 即時にか、または、あなたは それに時間を掛けます。 それに時間を掛けるなら、 その間隔の内に、 他の要因すべてが、それに入ってきます。 で、あなたはけっして、結果を 変化させません。 原因とともに継続します。 明らかですか。 私たちは 一緒に、ここにいますか。 で、恐れの原因は、何でしょうか。 なぜ私たちは、それに 入ったことがないのでしょうか。 なぜ私たちは、それを許容するの でしょうか - 恐れの効果、 恐れの帰結を知って、です。 私たちは、まったく心理的に 恐れていないなら、 まったく恐れがないなら、 あなたは、神を持たないでしょう。 崇拝する象徴、 礼賛する人格を、持たないでしょう。 47:02 そのときあなたは、心理的に、 とてつもなく自由です。 また恐れは、縮みあがらせ、 神経質にし、憂慮させ、 それから逃避したくさせます。 ゆえに、逃避のほうが、 恐れより重要になるのです。 付いてきていますか。 で、私たちはともに、 恐れの原因が何かを、 調べよう、見出そうとしています。 それの原因、根を、です。 私たち自身で、それを発見するなら、 それは過ぎ去っています。 よろしい? あなたは、因果作用や 多くの原因が見えるなら、 そのとき、まさにその知覚こそが、 原因を終わらせます。 ですね? あなたは、私に、語り手に 聞いていますか - 因果を説明するのを、です。 48:15 または、あなたは、そういう問いを 訊ねたことすら、ないですか。 私は、恐れを抱えてきました - 私の父、私の曾祖父も、です。 私が生まれた種族全体、 共同体全体、 神々、儀式の構造全体が、 恐れに、基づいています - そして、何かとてつもない状態を、 達成したいとの願望に(基づいて)、です。 ですね?
48:58 で、これに入りましょう。 私たちは様々な・ ・・ ともに、です。 私たちは、様々な形の 恐れについて、話していません - 暗闇への恐れ、 自分の夫、妻への恐れ 社会への恐れ、死ぬことの恐れ、 何かの恐れ、そうね、 私たちは、様々な形の 恐れについて、話していません。 それは、きわめて多くの枝、 多くの花、多くの果実を 持っている樹に、似ています。 花々は、果実になります。 しかし私たちは、その樹の まさに根について、話しています - それの根、です。 あなたの特定の形の 恐れではありません。 50:04 あなたは、自分の特定の形を、 その根まで、辿れます。 で、私たちは訊ねています - 私たちは、 自分の恐れに、関心があるのでしょうか。 または、恐れの全体に、でしょうか。 その一つの枝だけではなく、 樹の全体に、です。 なぜなら、樹がどう生きるのか、 それが必要とする水、 土の深さなどを 理解するのではなければ、 単に枝々を刈り込むことは、 何にもならないでしょう。 で、私たちは、恐れのまさに根まで、 行かなければなりません。
50:52 で、恐れの根は何でしょうか。 私を待たないでください。 私は、あなたの指導者ではありません。 私は、あなたの助けではありません。 私は、あなたの導師ではありません - ありがたい! 私たちは、二人の兄弟のように、 一緒です。 私は、本気でそう言っています。 語り手は、本気でそう言っています。 それは言葉だけではありません。 二人の良き友、 お互いを時の初めから 知ってきた者たちとして、 同じ小道を、同じ速さで、 歩いていき、 あなたのまわりと、あなたの中の あらゆるものを、見つめています。 で、ともに私たちは、それに 入るでしょう。 どうか、ともに、です。 さもなければ、それは ただの言葉になります。 講話の終わりに、あなたは 言うでしょう - 「本当に私は、自分の恐れを どうすべきなのか」と。
52:08 恐れは、とても複雑です。 それは、ものすごい反応です。 あなたがそれに気づくなら、 それは衝撃です - 生物学的、身体組織的にだけではなく、 また、精神、頭脳にとっても衝撃です。 頭脳は、能力を持っています - 他の人たちが言うことから、ではなく、 自らが発見するように、です - それは、衝撃にもかかわらず、 健康に留まる能力を、持っています。 一定の腺 - 私はそれについて、 すべてを知りませんが、 まさに衝撃こそが、 自らの保護を、招きます。 ですね? あなた自身で、それに入ってください。 分かるでしょう。 で、恐れは衝撃です。 瞬間的にか、または、 それは違った形、違った表現、 違った道で、継続します。 で、私たちは、それの まさに根へ、行こうとしています。 53:26 それのまさに根を理解するには、 私たちは、時を 理解しなければなりません。 ですね? 昨日としての時、今日としての時、 明日としての時。 私は、何か自らがしたことを、 憶えています - それについて私は、恥ずかしかったり、 神経質だったり、憂慮したり、恐れています 私はそれらを憶えています。 それは未来へ継続します。ですね? 私は、怒り、嫉妬し、妬んできました - それは過去です。 私は、いまだに妬んでいます - わずかに修正されて、です。 なぜなら、私は物について、 相当気前がいいからです。 しかし、妬みは、つづいていきます。 この過程全体が、時なのでしょう。 理解されますか。 「はい」と 言ってください。後生ですから! いいえ、「はい」と言ってはいけません! 理解されますか。
54:34 すなわち、私たちは時を、何だと考えるの でしょうか。もう一回、始めましょう。 あなたは、時は何であると、 考えるのでしょうか。 時計、日の出、日の入り、晩の星、 新しい月によっての(時)、ですか - 二週間後に、満月が来る。 あなたにとって、時は何ですか。 技術を学ぶための時、 言語を学ぶための時、 手紙を書くための時、 ここからあなたの家へ行く時ですか。 そのすべてが、距離としての 時です。 ですね? 私は、ここからそこへ、 行かなくてはいけません。 それは、時により 渡られる距離です。 ですね? で、時はまた内的、心理的です。 私はこれである。 私はあれに ならなければならない、と。 「あれになること」は、 進化と呼ばれます。 55:47 進化は、種子から樹へ、 を意味しています。 また、私は無知であるが、 私は学ぶだろう。 私は知らないが、私は知るだろう。 暴力から自由になる ための時を、私にください、と。 これらに付いてきていますか。 私に時間をください。 私に、数日か、一ヶ月か、一年かをください。 私はそれから自由になるでしょう、と。 で、私たちは、時によって生きます。 毎日、9時から5時までオフィスへ 行くことだけではない - とんでもない! また、何かになるための時も、です。 これらを理解されますか。 いいですか? 時、時の動き。 私は、あなたを恐れてきました。 私はその恐れを憶えています。 その恐れは、やはりそこにあります。 私は明日、あなたを恐れるでしょう。 57:01 そうでないことを願います。しかし私は、 それについて、何かきわめて徹底的なことを、 しないなら、明日、あなたを恐れるでしょう。 で、私たちは、時により生きます。 これは、はっきりさせてください。 どうか、これは明らかにしましょう。 私たちは、時により生きます - すなわち、 私は生きている、私は死ぬだろう。 私は、可能なかぎり、 死を遠くへ延期します。 ですが、私は生きています。 私は、それを 回避するために、あらゆることをしようとします - それが回避不可能であっても、 です。 ですね? で、生物学的にとともに、心理的にも、 私たちは、時により生きます。
57:52 時は、恐れの要因でしょうか。 どうか、探究してください。 時、すなわち、 私は嘘をつきました。 私は、あなたに知られたくありません。 しかしあなたは、とても敏くて、 私を見て、言います - 「ああ、君は嘘をついたね」と。 「いえ、いえ、嘘はついていません」 - 私は即座に、自分自身を保護します。 なぜなら、私が嘘つきであることを、あなたが 見出すのを、私は恐れているからです - または、部分的に 嘘つきであることを、です。 で、私は恐れています。 ですね? 何か私がしたことに対して、です - 私はあなたに、それを知ってほしくありません。 私はそれを恐れています - それは、どういうことでしょう。 思考ですね? 58:49 私は何かをしました - 私はそれを憶えています。 その憶えていることが、 気をつけろ、と言います。 自分が嘘をついたことを、 彼に発見させるな、と。 なぜなら、あなたは正直者として、 良い評判を取ってきたからです。 それで、あなた自身を保護します。 で、考えることと時は、一緒です。 思考、考えることと、時との間に、 分割はありません。 私たちはこの事柄について、明らかですか。 どうか、この事柄を 明らかにしてください。 さもなければ、あなたは後で、 かなり混乱するでしょう。 恐れの因果は、時・思考です - その根は、です。
59:53 聴衆: 私はすっかり明らかではありません。
59:55 K: お待ちください。 質疑応答会合があるとき、 質問はできますよ。 来週のいつかだと、思います。
1:00:09 で、私たちは、このことについて 明らかでしょうか - 時、すなわち、 自らのしてきたこと すべてをともなった過去、 そして、快で不快でも、思考。 特に、それが不快であるなら、 私はそれを防護したい、 それを変化させたい。 または、 変化させるのが不可能で、ゆえに私は、 「やれまあ、私はそれに怯えている」 と言います。 ですね? それは、それについて考えることです。 で、時と思考が、恐れの根です。 これは明白な事実です。 とても単純な言語的な事実です。 しかし、言葉の裏へ行き、 この時・ 思考の真理を見る。 そのときあなたは、必然的に 訊ねるでしょう - 思考はどのように、 止まるべきなのか、と。 1:01:21 自然な問いです。ちがいますか? 思考が恐れを創り出すなら - それは明白です - そのとき私は、どのように 考えるのを、止めるべきでしょうか。 質問を理解されますか。 私はどうやって、考えるのを 止めるべきかを、言ってくれ、と。 なぜなら、私は、原因は 思考であるのが、見えるからです。 なぜなら、私は、自分のしたことを 憶えていて、それに怯えているからです。 私は、あなたに、それを見出して ほしくない。 で、それは考えることです。 そのとき私は、あなたに頼みます - 「どうか私が 考えるのを止めるのを、助けてください」と。 そういう質問をするとは、 私は間抜けでしょう。 でも、私はそれを頼んでいます。 私はどうやって、考えるのを止める べきでしょうか。 それは可能でしょうか。 さあ、進んでください。 私に進ませないで、究明してください。 1:02:29 考える - なぜなら、私たちは、 考えることにより生きるからです。 私たちがすることすべては、 思考をとおして、です。 手紙を書くこと、言語を学ぶこと、 オフィスへ行くこと、 ビジネスすべてをすること。 考える過程全体です。 私たちは先日、気をつけて、 それに入りました。 私たちは、考えることの原因、始まりへ 入ることに、時間をむだにしない でしょう。 それがどう来るのか - 経験、知識。 それはいつも制限されています。 記憶、それから思考。 私はただ短く、これを反復しています。
1:03:14 で、考えるのを止めることは、 可能でしょうか。 一日中、おしゃべりしないことは、 可能でしょうか - 頭脳に一休みさせるのです。 それは自らのリズムを持っていますが - 血液がそこへ上がっていく、 自らの活動。 思考が課した活動ではなく、 それ自らの、です。 理解されますか。 今日は、たくさん 列車があるようです! 私は、語り手は、指摘してもいいですか - それは、間違った問いです。 考えるのを止めるのは、誰ですか。 質問を理解されますか。 それはやはり思考なのでしょう。 「私は、もしも考えるのを止められさえすれば、 恐れを持たないだろう」と、私が言うとき、 「私はそれを止められたらいいのに」 という、まさに発言ですが、 思考を止めたいと願う者は、誰でしょうか。 それは、やはり思考なのでしょう。 なぜなら、それは、他の何かが欲しいからです。 ですね?
1:04:57 で、あなたは、どうするのでしょうか。 質問を理解されますか。 有るものより他であろうとする、 どの思考の動きも、 やはり考えることなのです! 私は貪欲である。 だが、私は貪欲であっては ならない。それはやはり考えることです。 考えることは、教会の 道具立てすべてを、 組み立ててきました。 そこで行われる事柄すべてとそれらは、 思考により、組み立てられています。 この大天幕やテントのように、 思考により、気をつけて 組み立てられています。 で、思考は、私たちの存在の まさに根なのです - 明らかに。 で、私たちは、とても深刻な問いを 訊ねています - 思考がしてきたことを見て、です。 最もとてつもない物事を 創案、発明してきました - コンピューター、軍艦、 ミサイル、原子爆弾、 外科手術、医薬。 薬がお好きなら、です。 また、それが、人にさせてきたこと - 月へ行く、などです。 1:06:26 思考は、恐れの まさしく根なのです。ですね? それは見えますか。 思考をどう終わらせるか、ではない。 私たちは、考えることが恐れの根であるのが、 実際に見えますか - すなわち、時が、です。 見える - 「私は見えている」 という言葉ではなく、実際に見える。 あなたは痛みがあるとき - 激しい痛み、です - 痛みは、あなたより異なっていません。 あなたは、即座に行為します。 で、あなたは、時計が見えるように、 はっきりと見えるでしょうか - 語り手と、あなたの隣に座っている 友だちが(見えるように)、です。 思考が、恐れの因果であることが、 見えますか。 どうか、「私はどうやって 見るべきなのか」と訊ねないでください。 あなたが、どうやってを訊ねた瞬間、 誰かが進んで、あなたを手助けするでしょう。 そのときあなたは、彼らの奴隷になります。 1:07:46 しかし、あなたが・・・ もしあなた自身が、思考・ 時が 本当に恐れの根であることが、見えるなら - 時間を掛けてください。 熟慮してください。 それに決断は要りません。 ただ見るだけ。 サソリは有毒である。 蛇は有毒である。 それの知覚こそにおいて、 あなたは行為します。
1:08:32 それで訊ねます - なぜ私たちは、見えないのでしょうか。 なぜ私たちは、戦争の原因の一つが民族性、 国籍であることが、見えないのでしょうか。 ですね? 原因の一つが、です。 なぜ私たちは、見えないのでしょうか - 自分がイスラム教徒と呼ばれようとも、 あなたがキリスト教徒と呼ばれようとも、 なぜ私たちは、名前をめぐり、 宣伝をめぐって、闘うのでしょうか。 いいですか? それが見えるでしょうか。 または、 記憶して、それについて考えるのか。 理解されますか - あなたは、 あなたの意識は、 残りの人類である、ということを、です。 人類は、あなたと他の人たちのように、 人類は、あらゆる形の困難を、 経ていきます - 痛み、苦労、心配、 さびしさ、憂鬱、悲しみ、楽しみ。 あらゆる人間が、これを経ていきます。 スイス人だけではなく、 あなただけではなく、あらゆる人間が、 世界中で、彼らがロシア人であっても、 アメリカ人、その他すべてであっても、です。 1:10:01 で、私たちの意識、私たちの存在は、 全人類です。 理解されますか。 これはそうなのです。 いかに私たちが、そういう単純な事実を、 進んで受け入れようとしないのか。 なぜなら、私たちは個人性が 慣習となっているからです - 初めに私、と。 で、それが見えるなら - あなたの意識は、このすばらしい大地に 生きる他の人間すべてが、 分かち合っていることが、見えるなら、 そのとき、あなたの生きる道 全体が、変化します。 しかし私たちは、それが見えません。 あなたは、論争が要るのです。 たくさんの説得、圧力、宣伝が 要るのです。 それらはすべて、恐ろしく 役立たずです。なぜなら、それは あなたであるからです。あなたが自分自身で これらのことが、見えなくてはならないのです。
1:11:18 で、私たちは、私たちの一人一人は、 残りの人類であり、人類であるが、 とても単純な事実を、見つめられる でしょうか。 恐れの因果は、 思考・ 時であることを、 観察し、見られるでしょうか。 そのとき、まさに知覚こそが、行為です。 そこからあなたは、誰にも頼りません。 導師は、あなたに似ています。 理解されますか。 指導者は、違った衣を着て、 宝石すべてを付けるかもしれません。 彼からそのすべてを、はぎ取ってください。 彼は、まさにあなたと私に似ているのです。 しかし彼は、より大きな権力を達成したし、 私たちもまた、より大きな権力、金銭、 地位、身分が欲しいのです。 で、私たちは、これらを見つめられ、 それがきわめて明らかに見えるでしょうか。 そのとき、まさにその知覚こそが、 このすべてのごみを、終わらせます。 そのときあなたは、自由な人物です。
1:13:18 止めてもいいですか。 立ち上がってもいいですか。 語り手が立ち上がるには、 あなたたちが、立ち上がらなくてはいけません。
🢁