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SA85T4 - 美しさは、自己が忘れられた静けさである
第4回公開講話
スイス、サーネン
1985年7月17日



1:42 発表すべてが聞こえましたね。 私もまた、自らが話をしようとしていることを、発表してもいいですか。 また、あなたは、話を分かち合おうとしている、ということをも、です。 それは独演ではなくて、 ともに、です。語り手は、ともに、と本気で言っています - 彼はあなたを導いているとか、助けているとか、 あなたを説得しようとしているとか、ではありません。 むしろ、ともに、です。 その言葉は重要です。 ともに、私たちはきわめて長い旅を、行います。 それはかなり、困難な道です - 私はその言葉を使わないでしょう。 それは危険な言葉です - トレイル、小道、 かなり複雑になるであろう道、です。 なぜなら、私たちは利己性、きびしさ、行いについて、 話そうとしているからです - そして、私たちの日々の生において、悲しみすべてを終わらせることが、 可能なのか、です。 これは、とても重要な問いです - なぜ人類は、幾千年に幾千年もの後、 けっして悲しみから自由でなかったのか - 各々の悲しみ、痛み、 心配、さびしさ、 その悲しみに関与したさびしさだけではなく、 また、人類の悲しみからも、です。 私たちは、それについて話しそうとしています。 また、時間があるなら、 私たちは、楽しみについて、また、死についても、 話そうとしています。
4:22 とてもうるわしい朝です。 美しく、晴れた青空、 静かな丘々、深い陰、 流れる水。 牧場、木立と緑の草。 また、私たちは、美しさは何かについて、 ともに話し合うべきです -こういううるわしい朝に、です。 私たちは、美しさが何かについて、話してもいいでしょうか。 なぜなら、それはとても重要な問いであるからです。 自然の美しさや、 虎のとてつもない生命力、 動的なエネルギーではない。 あなたたちは、動物園で虎を見たことが、あるだけです。 かわいそうなものたちは、あなたが面白がるために、そこに飼われています。 あなたが、世界の幾つかの地方へ行くなら - 語り手が行ったように - 彼は、野生の虎に近づきました。 2フィートほどです。 興奮しないでください!
6:08 私たちはまた、この問いにも入るべきです。 なぜなら、美しさと愛なしに、 真理はないからです。 私たちは、「美しさ」という言葉を、つくづくと検討すべきです。 美しさは何でしょうか。 あなたが、その問いを訊ねています。 語り手もまた、その問いを訊ねています。 で、私たちはともに見つめています- その言葉だけではなく、 その言葉の意味合いと、 美しさの、 無量性と計算不可能な深さを、です。 私たちは、それについて話をしましょうか。 私たちはそれについて話せます。 しかし、話、言葉、 説明と叙述は、美しさではありません。 「美しさ」という言葉は、美しさではありません。 それは、何か全然違ったものです。 で、指摘してもよろしいなら、 言葉に対して、とても鋭敏でなければなりません。 なぜなら、私たちの頭脳は、 言葉の動きにおいて、働き、活動的であるからです。 言葉は、自らが感じること、自らが考えることを、伝えます。 そして、説明、叙述を受け入れます。 なぜなら、私たちの頭脳の構造全体、そのほとんどは、言語的であるからです。 で、よく気をつけて、入らなければなりません - 美しさに関してだけではなく、 また、きびしさに関して、 利己性に関しても、です。 私たちは今朝、これらすべての問いに入ろうとしています - もしそうしたいなら、です。
9:13 で、私たちは自分自身に訊ねています - 美しさは何でしょうか。 美しさは、人物に、顔にあるのでしょうか。 美しさは・・・ 美術館に、絵画、古典派の絵画、 現代の絵画に、あるのでしょうか。 美しさは、音楽すべてにあるのでしょうか - ベートーヴェン、モーツアルト、バッハ、その他のすべての彼らに、あるのでしょうか。 美しさは、詩歌にあるのでしょうか。 文学に、でしょうか。 舞踏に、でしょうか。 音楽と呼ばれる世の中で起きている 騒音すべてに、でしょうか。 そのすべては、美しさでしょうか。 または、美しさは、何か全然違ったものでしょうか。ですね? 私たちはともに、それに入ろうとしています。 尊敬をこめて指摘してよろしいなら、どうか 言葉を受け入れたり、 単に叙述と説明に満足しないでください。 同意と不同意、それらの事柄ではない。 もしできるなら、それらを私たちの頭脳から、外してしまい、 よく気をつけて、それを見つめ、 それとともに留まり、その言葉の中へ透徹しましょう。
11:27 なぜなら、私たちが言いましたように、その美しさの性質なしには - それは敏感さであり、 それは、自然の美しさ -砂漠、林、川と、 無量の威厳、荘厳さをもった 広大な山々 - だけではなく、 また、感情をも、含意しています。 ロマンチックな想像と感傷的な状態ではない - それらは単に、感受です。 私たちは訊ねています - すると、美しさは感受でしょうか。 なぜなら、私たちは感受によって生きるからです。 性的な感受 - それには、楽しみが伴います。 また、痛み - それは、充足していないなど といった感じにも、関与しています。 もしも私たちが今朝、自らの頭脳から、それらすべての言葉を、外してしまい、 この尋常でない問い、とても錯綜し微妙なものを、 見つめられ、入れたならば、 美しさの本性は、何でしょうか。 私たちは、詩歌を書いていません。
13:27 あなたは、あれら山々を見つめるとき - 空へ突き出す、あれら無量の岩々 - あなたは、それを静かに見つめるなら、それの無量性、 それの尋常でない荘厳さを、感じます。 その瞬間、一秒間、 それのものすごい威厳、 それの堅固さが、 あなたの思考、あなたの問題すべてを、片付けてしまいます - 一秒間、です。ですね? あなたは、「あれは何とすばらしいのか」と言います。 で、そこには、何が起きたのでしょうか。 一秒間、あれら山々の荘厳さ、 空と青さと、雪をまとった山々の まさに無量性こそが、 あなたの問題すべてを、追い払ってしまうのです。 それにより、あなたは全的に、自分自身を忘れます - 一秒間、です。 あなたは、それに魅入られます。 あなたは、それに打たれます。 一日中、いたずらだった、子どものように、です。 または、しばらくの間、いたずらです- その子は、そうする権利がある。 あなたは彼に、複雑な玩具を、与えます。 彼は、玩具に没入します - ついに、それを壊してしまうまで、です。 玩具が彼を、没入させていました。 理解されますか。 玩具が、彼を持っていってしまいました。そして彼は、静かです。 彼は楽しんでいます。 彼は、自分の家族すべて、母親を、忘れてしまいました。 そうね、「これをしなさい。 あれをするな」を、です。 玩具は、彼にとって、最もわくわくするものに、なります。 理解されますか。 山々、川、牧場と木立が、 あなたを没入させます。 あなたは、自分自身を忘れます。 で、それが美しさでしょうか。 理解されますか。 山によって、没入する。 川や、緑の野原によって - それは、あなたが子どもに似ている、という意味です - 他の何かにより没入する。 そして、瞬間、あなたは静かです。 没入し、持っていかれ、 何かへ降参する。 それが美しさでしょうか。 持っていかれることですか。 理解されますか。 何か偉大なものへ降参する。 そのものは、一秒間、あなた自身を忘れるよう、 強いるのです。 で、そのときあなたは、依存します。 子どもが玩具に依存するように、依存する。 または、映画、テレビに依存する。 瞬間、あなたは自分自身を、 俳優、女優と同一視します。 確かに、そのすべては、あなた自身から 持っていかれる一つの形です。ですね? あなたは、あの状態を - 持っていかれること、 降参すること、没入すること、 あの静かな一秒。 それが美しさでしょうか。 あなたは、教会や寺院、神殿、モスクへ行くとき そこで、詠唱、儀式、 声の抑揚。あらゆるものが、一定の感動を創り出すために、 組織され、気をつけて組み立てられています - それらは、礼拝と呼ばれます。 それらは、宗教性の感覚、と呼ばれます。 それが、美しさでしょうか。 または、美しさは、何か全然違ったものでしょうか。 理解されますか。 私たちはともに、この問いを理解しつつありますか。
19:45 自意識的な尽力があるところ、美しさが、あるのでしょうか。 または、自己がないとき、「私」、観察者がないときにのみ、 美しさはあるのでしょうか。 で、没入し、持っていかれ、降参することなく、あの状態に いることは、可能でしょうか - 自己なく、自我、「私」がいつも それ自体について考えていることなく、です。 質問を理解されますか。 それはいったい可能でしょうか - この現代世界に生きていて、その専門化すべてがともない、 その卑俗さ、 起きている無量の雑音がともなって・・・ 流れる水の音や、 鳥の歌ではない。 この世界に、自己、「私」、自我、 ペルソナなく、個人の主張なく、 生きることは、可能でしょうか。 その状態に、このすべてから本当に自由があるとき、 そのときだけ、美しさがあるのです。 あなたは、言うかもしれません -「まあ、それはあまりに困難です。 それは可能ではありません。 私は、絵画を見ているほうとか、 うるわしい所にいるほうが、好みです。 そこには、静寂と静けさの大きな感覚がある」と。 まったく利己性を持たないことは、可能でしょうか。 ですね?私たちは、それに入ろうとしています。
22:18 利己性なく、この世界に 生きることは、可能でしょうか。 利己性は、何を意味しているのでしょうか。 その言葉の含意は、何でしょうか。 私たちはどこまで、利己性なしであって、 ここに、生きられるでしょうか -騒がしさ、雑音、 卑俗さ、競争、 個人的野心などなどの中に、です。 私たちはともに、見出そうとしています。
23:05 利己性。 あなたは、その言葉が何を意味しているかを、ご存じです。で、私が説明しなくてもいい。 利己性は、多くの形で隠れます。 あらゆる石と、あらゆる行為の下に、隠れます。 祈り、礼拝に隠れます - 良い職業を持つことに、 大きな知識を持つことに、 特別な評判を持つことに(隠れます) - 語り手のような、です。 導師がいるとき - 「私はそれについてすべて知っている。 私がそれについてすべて、あなたに教えよう」と言う人が、です - そこにはまた、利己性もないでしょうか。 人は熟達者、専門家であり、巧みであるかもしれませんが、 この利己性の種子があるのです。 それは百万年の間、私たちとともに、ありました。 私たちの頭脳は、利己性へ条件づけられています。 それに気づいているなら - それは、それにただ気づく、という意味です。「私は利己的でない。 それは間違い。それは正しい。 どうすれば利己性なく 生きられるのか」と言うことではない。 そうですね、論争すべて、賛否両論です。 ただ気づく - どれぐらい行けるのか。 どれぐらい自分自身を究明し、 自分たち自身で、私たちの一人一人で見出せるのか。 行為、日々の活動において、どれぐらい 私たちの振るまいにおいて、どれぐらい どれほど深く、利己性の感覚なく 生きられるのか。
25:40 で、あなたがその気なら、私たちはそれらを検討するでしょう。 なぜなら - すみません。 なぜなら、ではない。 利己性は、分割します。 利己性は、最大の腐敗です- すみません! 腐敗(コラプション)という言葉は、物事を砕いてしまうことを、意味します - (語源の)ロンペレ、壊すこと、です。 利己性があるところ、断片化がある - 私の利得に対して、あなたの利得。 あなたの欲望に対して、私の欲望。 あなたの、成功の梯子を登りたいとの欲求に対して、私の。 で、利己性があるところ -ただ観察してください。 あなたは、それについて何もできません。理解されますか。 ただ観察する。それとともに留まり、何が起きているかを見る。 あなたがかつて、車を分解したことがあるなら - 語り手がしてきたように、です - 車は、後で走りました! あなたがかつて、車を分解したことがあるなら、 あなたは、その部品すべてを、知ります。 あなたは、それがどう働くのかを、知ります。 あなたは、それについてすべてを学びます - 単に車へ乗り込み、走り去るだけではなくて、です。 私は、1925年の車について話しています。 その時期に、それらは、とても単純で、 とても直接的で、とても正直で強く、美しい車でした。 あなたは機械的に、何かを知るとき、 気楽に感じられます。 あなたは、どれほど速く行くべきか、どれほど遅くか等を、知りえます。 で、自分の利己性を、 知り、理解し、気づくなら、 あなたは、それについて学びはじめます - ですね? あなたは、「私はそれに反対しなければ」とか「賛成しなければ」とか、 「私はどうやって生きられるのか」、「私自身へ語るとは、あなたは誰なんだ」等と言いません。 あなたは気づきはじめるとき - 選択なく、です。 「まあ、これは私の利己性だ」と言うのではない。 あなたの利己性へ、選択なく気づく。 それとともに留まる。それを研究する。 それを学ぶ。 その錯綜すべてを観察する。 そのとき、 どこでそれが必要なのか、 どこでそれが完全に必要でないかを、 自分自身で見出せます。ですね? 日々生きることは、必要です - 衣食住と、物理的な ものすべてを、持つことは、です。 しかし、心理的、内的に、 どの種の利己性をも持つ必要性が、あるのでしょうか。 質問を理解されますか。 すなわち、関係を究明するには、です。 理解されますか。 なぜなら、私たちの互いとの関係には、 相互の利己性があるからです。 あなたは私を満足させる。 私はあなたを満足させる。 あなたは私を使う。私はあなたを使う。 私はあなたを売りとばす。あなたは私を売りとばす - 川下へ、です。 これらを理解されますか。 私たちの関係には、利己性があるのでしょうか。 これを理解することは、重要です。なぜなら - すみません。私は「なぜなら」という言葉を、使いません。それはバカげています。
30:48 私たちの関係に、利己性があるかを、見出す。 利己性があるところ、断片化、砕けることが、 あるにちがいないのです - 私はあなたとは違っている。 利己性です。
31:16 関係とは何でしょうか。 大地への関係、 世界の美しさすべてへ、自然への関係、 他の人間たちへ、 自分の妻、夫、女の子、男の子などへ(の関係)。 その束縛は何でしょうか。 私たちが、「ええ、私は関係しています」 と言うそのことは、何でしょうか。 理解されますか。 どうか、このことを、ともに究明してください。 語り手が耽溺している叙述に、どうか、頼らないでください。 それをつくづくと見つめましょう。 関係とは何でしょうか。 何も関係がないとき、私たちは、とてもさびしく、憂鬱に、 心配に感じます。そうね、利己性の構造に隠れた、 一連の動き全体です。 関係とは何でしょうか。 あなたが、「私の妻」「私の夫」と言うとき、 それは、どういう意味なのでしょうか。 あなたが神へ関係しているとき- 神がいるとして、です - それは、どういう意味なのでしょうか。 で、その言葉は、理解することがとても重要です。 私は、私の妻へ、子どもたちへ、家族へ、関係しています。 そこで始めましょう。 それが、すべての社会の核心です - 家族、です。 アジア世界で、家族は大変多くを、意味しています。 彼らにとって、それはものすごく重要です - 家族は、です。 息子、甥、祖母、祖父。 それは、すべての社会が基づいているところの中心です。 で、私の妻、私の女の子、私の友だち、と言うとき、 それは、どういう意味でしょうか。 あなたたちのほとんどは、たぶん結婚しています。 または、ガールフレンド、ボーイフレンド(がいます)。ですね? 関係するとは、どういう意味でしょうか。 あなたは、何へ関係しているのでしょうか。 あなたが導師に従って、「私は彼に従っている」と言うとき、 あなたは、何に従っているのでしょうか。 一秒の間、妻と夫から、離れましょう。 私たちは少し後で、それへ戻ってくるでしょう。 あなたはむしろ、この問いを究明したくないかもしれません - 夫と妻、女の子と男の子(という問い)を、です。 ですが、私たちはもっと静かに、それに接近できます。 あなたが、誰かに従うとき- 導師、預言者に、です - あなたが、語り手や何か他の人物、政治家 などに従うとき、 あなたが従っているのは、何でしょうか。 あなたが降参し、あきらめているのは、何でしょうか。 理解されますか。 それは、あなたが語り手や導師について、創り出してきた イメージですか。 または、あなたが自らの頭脳に持っているイメージですか - すなわち、それは、正しいすべきことである。 ゆえに私はそれに従おう、と。 それは、あなたが築いてきたイメージ、 映像、象徴であり、 あなたは、人物ではなく、それに従っていますか。 理解できますか。 彼が言っていることに、ではない。 語り手は、ここ七十年間、話してきました。 ですね? 彼は気の毒です! 彼は不運にも、何らかの評判を、確立してきました。 書物と、それらの事柄です。 で、あなたは自然に、イメージ、評判を、創り出してきました。 あなたは、それに従っています! 教えが言うことに、ではない。ですね? 教えは、「誰にも従うな」と言います。 しかし、あなたは、築かれたイメージを、持っています。 あなたは、自らが願望するもの、自らを満足させるものに、従っています。 それは、ものすごく利己的です。ですね?
37:41 さて、妻と夫と、その他すべてへ、 戻ってきましょう。 あなたが、「私の妻」と言うとき、その言葉は、どういう意味でしょうか。 その言葉の内容は、何でしょうか。 言葉の裏に、何があるのでしょうか。 見てください。 それはすべて記憶、感受でしょうか - 楽しみ、痛み、心配、嫉妬、 妻に体現されているすべてでしょうか。 または、夫に、でしょうか。 夫は、野心的です。 より良い地位、もっと多くのお金を、達成したい。 妻は、家に留まるだけではない。 彼女は、自分の野心、自分の欲望を、持っています。 で、彼らはいるわけです。 彼らは一緒に、ベッドへ入るかもしれません。 しかし、二人は、いつの時も分離しています! これらの事実について単純であり、正直でありましょう。 それで、いつも葛藤があるのです。 それに気づいていなくて、「ああ、いや。 私たちの間には、何も葛藤がない」と言うかもしれません。 しかし、それを、重いシャベルや外科用メスで、少し削ぎ落とすと、 このすべての根は、利己性であることを、見つけるでしょう。ですね? 利己性は、職業的専門家に、あるかもしれません。 もちろん、あります - 医師、科学者、 哲学者、司祭者。 全部のことが、基づいています。 理解されますか。 すなわち、感受、欲望、充足、です。 ですね? 私たちは、誇張していません。 私たちは単純に、「有るもの」を述べています - それを覆い隠そうとせず、 それを乗り越えようとせずに、です。 それはあります。 それは、私たちが生まれたところの種子です。 その種子は、私たちが死ぬまで、花咲き、育ちつづけます。 または、そのすべての制御が、あります。 理解されますか。 利己性を制御する。 まさにその制御こそは、もう一つの形の利己性です。よろしいか? いかに利巧に、利己性が作動するのか。 またそれは、きびしさの裏にも、隠れます。
40:52 で、私たちは、その言葉を検討すべきです。 私たちがいう、きびしさとは、どういう意味でしょうか。 正しい行い。 きびしさとは、何でしょうか。 なぜなら、世界全体が、 特に宗教的な世界は、 その言葉を使ってきたからです - きびしさについて、一定の法を定めてきたからです。 特に、西洋の修道士と、様々な修道院のために、です。 また、インドやアジアには、修道院がないので - 一定の仏教者の中を、除外して、です - インドでは、彼らは単独です。 理解されますか。 幸運にも、組織された修道院は、ありません。 で、その「きびしい(オースティア)」という言葉は、どういう意味でしょうか。 それには、大きな威厳が、伴います- 理解されますか。 その「きびしい(オースティア)」という言葉は、どういう意味でしょうか。 私たちは、その言葉は何を意味するかを、辞書で探してみました。 辞書が言うことを、説明してもいいですか。 - それは、言語の普通の用法です - それは言います - それは、ギリシャ語の「口を渇かせる」から、来る、と。 それは、乾いた、きつい、という意味です。 口だけではなく、きつい、と。 それは、きびしいのでしょうか。 すなわち、自分自身に、温かいお風呂の贅沢を、拒否すること。 あなたは、「いや、私はそれを、冷たくしよう」と言う。 または、ほとんど衣服を持たないこと、 または、特定の形の衣を着ること、 純潔であろう、清貧であろうとの誓いを、立てること。 理解されますか。 ものすごく自分自身を、制御する - 自らの欲望すべてを、 そうね、その他すべてを、です。 それが、きびしさでしょうか。 または、きびしさは、何か全然違ったことなのでしょうか。 断食をしてきた人たち、 果てしなく正座してきた人たちは、いました - 自分自身を制御し、わずかな衣服を持って、です。 確かにそのすべては、きびしさではありません。それはすべて外的な見せかけです。
44:12 ですね?で、感受でないきびしさが、あるのでしょうか。 それは、企画されていない。 それは、丸め込まれていない。 それは、「私は何々のために、きびしくあろう」と言うことではない。 他の人には全く見えないきびしさが、あるのでしょうか。 これらを理解されていますか。 きびしさが・・・ 修練を持っていないきびしさが、あるのでしょうか。 「修練(ディシプリン)」という言葉は、学ぶ、という意味です。 感覚・・・ 内的に、全体性の感覚 - そこに、何の裂け目もない、何の途絶えもない、 何の断片化もないもの、です。 そのきびしさには、威厳、静けさが、伴います。
45:46 また、私たちは、時間があるなら、 欲望の本性を、理解しなくてはなりません。 それは、利己性の構造全体の根であるかもしれません。 欲望 - ですね? 私たちはともに、ここにいますか。 欲望は、大きな感受です。 欲望は、諸感覚が活動を始めることです。 私たちが先に言いましたように、 感受は、私たちにとって、大いに重要です。 セックスの感受、新しい経験の感受、 有名な誰かに会う感受。 私はあなたに、このすてきな物語を、語らなければなりません。 私たちの友だちが、イングランドの女王に、会いました。 彼女と握手をし、 その種のことすべてを、つづけました。 それがすべて済んだ後、或る人物が彼女へやってきて、言いました - 「あなたと握手してもいいですか。 あなたは、女王と握手をしたからです」と。 それはこれらです。 私たちは、感受により生きます。 感受は、私たちにとってものすごく重要です。 安全であることの感受- どうか、それを見守ってください - 充足したことの感受、 大きな楽しみ、満悦の感受など。 感受は、欲望へどういう関係を、持つのでしょうか。 理解されますか。 欲望は、何か感受より、分離したものでしょうか。 どうか、これに入ってください。 このことを理解することは、重要です。 私は、それを説明していません。 私たちはともに、それを見つめています。 欲望の、感受への関係は、何でしょうか。 いつ感受は、欲望になるのでしょうか。 または、それらは、分離不可能でしょうか。 付いてきていますか。 または、それらはいつも、相伴うのでしょうか。 あなたは、語り手が働いているように、しっかり働いていますか。 または、あなたはただ、「ええ、つづけなさい」と言っているだけですか。 または、あなたは、前にこれを聞いたことがあり、「ああ、神様、 彼はまたもや、あれへ戻ってきたよ」と言うのでしょうか。
49:29 そうですね、あなたは、思考の活動を理解すればするほど、 本当に思考の深み、根へ到るのです。 そのときあなたは、とても多くの物事を、理解しはじめます。 そのとき、あなたは、世界の現象全体が、見えます - 自然、自然の真理が、です。 そのとき、あなたは訊ねます -真理とは何でしょうか。 私は当分、それらに入らないでしょう。
50:04 それで、私たちは生きる・・・私たちの生は、感受と欲望に基づいています。 私たちは訊ねています - 二つの間の実際の関係は、何でしょうか。 いつ感受は、欲望になるのでしょうか。 これに付いてきていますか。 どの秒に、欲望は優勢になるのでしょうか。 私は、美しいカメラを、見ます - 最新の改善すべてを、ともなったもの、です。 あなたがすべきことは、カメラを取り上げて、見ることです。 それはすでに、撮られています。 観察の感受があります - ですね? 美しいカメラを見る - 美しく作られて、とても複雑です。 それは、大きな価値を持っています- 所有の楽しみ、 写真を撮る楽しみ、その他すべてとして、です。 で、感受があります - そこにあのカメラを見ます。 そのとき、その感受は、欲望と何の関わりがあるのでしょうか。 その欲望は、いつ花開きはじめ、活動を始め、 「私はそれを持たなければならない」と言うのでしょうか。理解できますか。 あなたは、感受の動きを観察したことがありますか - それは、性的であっても、 それは、丘と谷を登って、 大いなる高みから、世の中すべてを見ることであっても、です。 または、あなたは、うるわしい庭が見えるとき - 美しい庭園が見える。 あなたは、自分のところの回りに小さな芝生を、持っています。 あなたは、これが起こるのが、見えます。 そのとき、何が起こりますか -感受を欲望へ変えるものが、です。 これらに付いてきていますか。 どうか、眠らないでください。 あまりにすてきな朝です。 あなたが、この問いとともに留まるならば - 感受の、欲望への関係は、何でしょうか。 それとともに留まってください。 答えを見つけようとしないで、 それを見つめ、観察し、それの意味合いを見てください。 それが、それとともに留まることです。 そのときあなたは、発見するでしょう - すなわち、その感受は自然であるなどですが、 その感受の中から、思考がイメージを創り出すとき、 その感受は欲望へと変容させられる、ということを、です。 分かりましたか。理解できますか。 すなわち、私は感受を持ちます。 あのカメラを見るという感受が、あります - とても高価で、美しいなどです。 感受があります。 そのとき思考が、やってきて、言います - 「私はあのカメラが持てたらな」と。 あなたはそれを持っている。 あなたは写真を撮る、などです。 そのとき思考は、その感受の中からイメージを創り出します。ですね? その瞬間に、欲望が生まれます。 私は知りません。それは明らかですか。 よろしいですか? あなた自身で、見てください。 それに入ってください。 あなたは、どの書物も、どの哲学者も、どの人も、要りません。 ただそれを見つめる。 辛抱強く、仮初めに見つめる。 ゆっくり行ってください。そのときあなたは、すごく速くそれに出くわします。 すなわち、感受が・・・ 感受が思考の奴隷であり、 思考が、そのイメージでもって何かを創り出すとき、 その瞬間に、欲望が生まれます。ですね? 私たちは欲望により生きます。 「私は、これを持たなければならない。私は、それを欲しくない。私は、ならなければならない」 - この欲望の動き全体です。
55:42 さて、欲望は、利己へどんな関係を、持っていますか。 私たちは、同じ糸を追求しています。 または、欲望があるかぎり - それは、感受の中から思考により、イメージを創り出すことです - その欲望があるかぎり、利己性があるにちがいないのです。 私が天に到りたいのでも、銀行の頭取や お金持ちになりたいので、それは同じです。 あなたが天に到達したいのでも、 あなたが天国に到達したいのでも、お金持ちになりたいのでも、 それらはまったく同じです。 自らは、聖人、貴族、それらの事柄になりたいと願望し、 他の者は、「私は大した技術を持っている」と言うなら、 それはまったく同じことです。ですね? 一つは、宗教的と呼ばれます。 もう一つは、世間的と呼ばれます。 いかに言葉が、私たちを不具にするのか。 あなたは、物事を見ないのです!
57:13 で、私たちは、問いへ来なければなりません- 今、11時30分です。 私たちは、問いに来なければなりません- 悲しみは、何でしょうか。 利己性があるかぎり、悲しみがある、ということですか。 どうか、それに入ってください。 あなたは、これらを理解するなら、 ただの一冊も書物を、読まなくていい。 あなたは本当に、このものとともに生きるなら、 天国への門は、開いています -天国、ではない。理解されますか。 それはただ、一つの言い方です。 で、私たちは、とても深刻な問いを、訊ねています - それは、人の存在の始まりから、彼に付きまとってきました。 百万年か、もっとです。 悲しみは、何でしょうか -涙、笑い、痛み、 心配、さびしさ、絶望。 それはいったい、終わりうるのでしょうか。 または人は、永久に悲しみとともに生きるよう、定められているのでしょうか。 進んでください。 地上のあらゆる人が - あらゆる人が - 高い地位にいても、まったく何者でもなくても - あらゆる人が、この悲しみの騒動を、経ていきます - その衝撃、その痛み、 その不確実性、そのまったくのさびしさを、です。 そして、貧しい人の悲しみ - 読み書きの仕方を知らない者の、です。 あなたが、彼を見つめるとき、彼と話をするとき、 彼はあなたに似ています。 彼は、自分の悲しみを持っています。 あなたは、自分の悲しみを持っています。 これらを理解されますか。 で、数百万に数百万の人々の悲しみ - 権力者、偏狭な人たちに虐殺されたり、 教会に拷問された人たちの、です。 不信者と信ずる者 -これらを理解されますか。 宗教、特にキリスト教は、 他の誰より、多くの人々を殺害してきました - すみません! 大きな戦争、 百年戦争、 宗教的な人々、教会の三十年戦争。 世界には、悲しみがあります。ですね? 一日一食以外、何も持たないで、 舗道で眠る人の悲しみ。 あなたは、それらについて何も知りません。 で、悲しみがあるのです。 その言葉は、どういう意味でしょうか。 それは、何かあなたが失ってしまったものの、単なる思い出でしょうか。 ゆえに、あなたは悲しく感じる。 理解されますか。 あなたは、兄弟、息子や妻がいて、亡くなりました。 あなたは、ピアノや、(暖炉の)マントルピースの上や、 ベッドの横に、写真を置いています。 あの出来事の思い出、 あれらすべての日々の記憶。 それら記憶は、突然に断ち切られます - ですね? それが、悲しみでしょうか。 悲しみは、記憶により、発生し、養成されるのでしょうか。 私の質問すべてを、理解されますか。 私たちがお互いに質問をしているのを、理解されますか。 憶えた物事の記憶、 それが、死により、事故、老齢により、または何によってでも、 断ち切られるとき - 理解できますか。 記憶がない、実際にないとき、 しかし、記憶は継続します。 それが悲しみでしょうか。 悲しみは、記憶に関係しているのでしょうか。 さあ、どうぞ。
1:02:58 私は、息子を、または兄弟を、または叔母を、持っていました。 私は好きでした - 私は当分、「好き」という言葉を、使うでしょう。 私は、その「好き」を、愛と呼びます。 私は、それらの人々がとても好きでした。 私は、彼らとともに生きました。 私は、彼らとおしゃべりをしました。 私たちは一緒に遊びました。 そのすべての記憶が、蓄えられています。 私の息子、兄弟、母親は、死にます。 取り去られてしまいます- 永久に、です。 私は、衝撃を感じ、涙を流します。 私は、ひどくさびしく感じます。 私は、教会へ、寺院へ駆けていきます。 書物を手に取ります。 あれやこれをします -逃避するために、です。 または、「まあ、私はお祈りをして、乗り越えよう。 イエスが私を救ってくれるだろう」と言います。そうですね、それらの事柄です。 すみません。私は、その言葉を見くびっていません。 または、他の言葉を使ってください - インドではブッダやクリシュナです。付いてきていますか。 それは、違った名前で同じことなのです。 または、同じ象徴、象徴の同じ内容です。 象徴は変わります。しかし、それは同じ内容です。
1:04:35 で、実際には、悲しみは単に、一定の記憶が終わることだけでしょうか - 私は、記憶を持っているけれども、それら記憶をまとめた 現実が、終わったのです。 ゆえに私は、迷った感じです。 私は息子を失ってしまいました。 それは悲しみでしょうか。または、 - 私たちは、きつくしていません。ただそれを検討しています - 自己憐憫でしょうか。 誰かが終わったことより、自分の記憶、痛み、心配のほうへ 関心を持っている。理解されますか。 悲しみは、利己性でしょうか。 どうか、それらに入ってください。 私は、その記憶を養成します。 私は、自分の息子に忠実です。 私は、自分の前の妻に忠実です- 私は新しい妻と結婚するけれども。 私は、自分の・・・に、とても忠実です - それは、過去に 起きてきたことの思い出です。 それが悲しみでしょうか。 または、失敗、成功の悲しみが、あります。 そうですね、利己性の運動量(モーメンタム、勢い)の全体 - それ自体を、その言葉と同一視して、涙を流すのです。 これら涙は、男と女が百万年の間、 流してきました。 私たちは、いまだに泣いています。 レバノン、アフガニスタンでの戦争、 それらの残忍さ。 アフガン人とレバノン人たちは、泣いています。撃たれて、バラバラにされています - 私たちが支配しなければならない、私たちは 違っていなければならない、という観念のためです。ですね? 観念、思考が、互いを破壊しあっています。 あなたの前に泣いてきた人々すべてについて、考えてみてください。
1:07:16 で、悲しみに終わりは、あるのでしょうか。 「悲しみ」という言葉はまた、熱情(パッション)をも、含意しています。 利己性があるかぎり - それ自体を、去ってしまった記憶と同一視していて - それらは、まだそこにありますが、実際は去っています。 その利己性は、一部分で、部分的です。 悲しみの動きです。 そのすべては、終わりうるのでしょうか。 悲しみがあるところ、愛はありえません。 で、愛は何でしょうか。 理解されますか。 私たちは明日、つづけられるでしょうか- すみません、日曜日ですか。 または、私たちは今、それについて、つづけるでしょうか。 アレジイ(行きましょう)! そうですね、私たちは、とても深刻な主題に、入ってきました - これらです。 それは、何かあなたが玩ぶものだけではありません - 日曜日か水曜日の朝に、です。 それは、何か深く深刻なことです - これらは。 それは、道路を駆け下りていくことではない。 それは、小道を、とてもゆっくり、物事を見守りながら、歩んでいくことです - そうですね、見守り、見守り、見守って、です。 あなたを動揺させる物事とともに留まり、 あなたを楽しませる物事とともに留まり、 抽象的である物事とともに留まる。 想像すべて、 頭脳が組み立ててきた物事すべて - 神を含めて、です - それは、思考の活動です。 神は、私たちを創造しませんでした。私たちが、自分たちのイメージに、神を創造しました - まあ、私はこれには入らないでしょう。 それは、とても明らかで、単純です。
1:09:56 で、愛について話すと - それはまた、死をも含意しています。 愛、死と創造、です。理解されますか。 私たちは、これに一時間を掛けられます。 なぜなら、それはとても深刻であるからです。 私たちは、訊ねています -創造とは何でしょうか。 創案、発明、ではない。 どうか、創造と、創案、発明を区別してください - 新しい一組の観念と、 すなわち、新しい一組の観念と、です。 それら新しい組み合わせの観念は、創案、発明です - テクノロジー的に、心理的に、科学的に、などです。 私たちは、観念について話していません。 私たちは、とても深刻なことについて話しています。 すなわち、愛、死と創造、です。 これは、五分間では答えられません。 お許しください。 私たちは、次の日曜日、それを取り扱うでしょう - 私はあなたを招待している、ということではありません。 私たちは、これに入るでしょう。 また、宗教とは何でしょうか。 冥想とは何でしょうか。 何か言葉すべてと度量と思考を越えているものが、 あるのかどうか、です。理解されますか。 思考が組み立てていないもの。 何か表現不可能な、 無際限で、時のないもの -私たちは、それらに入るでしょう。 しかし、それへは来られません - それが存在するには、 恐れがあるなら、関係の、正しい関係の欠如があるなら - 付いてきていますか。 それらなしには、それらから自由な頭脳なしには、 あなたは、他を理解できません。 いいですか? もう止めてもいいですか。