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SA85T5 - 永遠のものの基盤としての静寂
第5回公開講話
スイス、サーネン
1985年7月21日



1:50 これは、サーネンでの最後の講話になるでしょう。 私たちは、イングランドの ブロックウッドで、継続するでしょう。
2:14 私たちが、前回ここで会ったとき、話していたことについて、 継続してもいいですか。 私たちは、他のことの中でとりわけ、 これは講義ではないことを、言っていました。 講義は、特定の主題について情報を与えるもの、 教示するものと、されています。 これは、講義ではありません。 また、娯楽でもありません。 娯楽は、面白がる、という意味です。 または、映画へ行くとか、 教会、寺院、モスクでの 儀式へ行くことです。 これは娯楽ではありません。 また、単なる知的、理論的、心理学的な 事柄でもありません - 私たちは、どういう言葉を使いましょうか。 心理的な追求、 むしろ、哲学的な追求か。 哲学(フィロソフィー)は、真理への愛を、意味しています - すでに話されてきたことについて、話をすること、ではない。 私たちは、他の人たちが言ってきたことについて、 議論していたり、関心を持ったりしていません。 私たちはともに、あなたと語り手は、 二人の人間として、 あなた - この大きな聴衆ではなく、 一人の人物としてのあなたと、語り手は、 ともに会話を行っています - 自分たちの生について、自分たちの問題について、 生の苦労すべてについて、です。 自分たちの混乱、恐れ、切望、 成功を達成したいという自分たちの欲望 - ビジネスの世界でも、 いわゆる宗教的な世界でも、 霊的な世界でも、です。 すなわち、成功です。 涅槃(ニルヴァーナ)、天国や覚りへ到ることは、 ビジネスの世界での成功と同じです。 私たちがお互いに理解しあうことを、願っています。 それは、大きな違いではありません。 生で成功を収めていて、 大金を稼いでいる人は、 それから成長し、拡大し、 変化し、継続します - 成功の線において、です。 その人物と、いわゆる・・・真理を探し求めていて、 その方向で何らかの成功を達成しつつある人との間には、 大きな違いがありません。 どちらも成功を、探し求めています。 一人は、世間的と呼ばれます。 もう一人は、非世間的、霊的、 宗教的と呼ばれます。 私たちは、それら二人のどらちをも、扱っていません。 私たちは、関心を持っています -人間としてのあなたと、 - 単独でも、二人でも - そして語り手は、ともに会話を行っています。 彼は本気で、ともに、と言っています。 あなたは、そこに座っていて、不運にも語り手は、上のここに座っています。 で、それは、あなたと語り手との間でです。
7:26 あなたと語り手は、関係について話してきました - 男と女、男の子と女の子の間などです。 私たちはまた、恐れについても話していました - そもそも、生において、現代世界に生きていて、 まったく自由であることは、いったい可能なのかどうか、です。 心理的に、すべての恐れから、です。 私たちは、よくよく気をつけてそれに入りました。 また私たちは、時についても話しました - それにより私たちが生きる時、 時の循環、すなわち・・・ 時の循環 - すなわち、過去が 現在において加工、処理され、 未来に継続します。 過去は、私たちの背景全体です - 人種的、共同体的、宗教的なもの、 経験、記憶。 そのすべてが、私たちみんなのその背景です - 私たちが、遠い東洋や、ヨーロッパや アメリカに生まれていても、です。 その文明、その文化は、 私たちみんなの背景です。 その背景は、変化を遂げていきます。 それは、現在において加工、処理され、 未来へ継続します。 人間たちは、あなたと他の一人は、この循環に捕らわれています。 それは、何百万年に何百万年もの間、つづいています。 で、過去が、現在を経てゆき、 それ自体を修正したのが、未来です。 それが、私たちの進化であったのです。 私たちは生物学的に変化してきましたが - 百万年前から今まで、です - しかし、心理的、内的、主観的に、 私たちは、多かれ少なかれ、百万年前の私たちなるものです - 野蛮で、残酷で、乱暴で、競争好きで、 自己中心的で、自己本位です。 それは事実です。 で、未来は現在です。ですね? これは、あなたにとって、語り手にとって、明らかですか。 未来。それは過去です -それ自体を修正して、 それが未来になるのです。 その未来は、今なのです - 根源的な心理的変化があるのでなければ、です。 私たちは一緒にいますか。 それが、私たちが関心を持っていることです - 人間たち、あなたと他の一人にとって 心理的な変異をもたらすことは、 可能なのかどうか、です。 自分自身に、心理的な全的な革命を、です。 私たちが今、傷ついているのか、 ほとんどの人がそうですが、心理的にけがをしているのかを、知って、です。 現在においてそれ自体を修正する。 未来へつづいていく。 で、未来の傷は、今なのです。 それは明らかでしょうか。 合意していますか。あなたと私は?
12:49 で、人間に、あなたにとって、 完全に変異をもたらすことは、可能でしょうか。 その変異は、脳細胞自体を変化させます。 すなわち、人が生涯ずっと北へ進んできたのなら、 或る人物がやってきて、言います - 「北へ行くことは、まったく重要性がない。何の価値もない。 そこには何もない。 東か、西か、南へ行きなさい」と。 あなたは聞くから、あなたは関心を持っているから、 あなたは熟慮するから、東へ行きます。 あなたが東へ向いて、行くまさにその瞬間、 脳細胞にすっかり変異があるのです。 なぜなら、北へ行くことは、様式、型枠になってきたからです。 あなたは、東へ行くとき、様式を破ります。ですね? それは、さほどに単純です。 しかしそれは、ただ聞くだけではなく、 単に言葉をだけではなく、 単に耳で聞こえるだけではなく、 また、何の解釈もなく、比較もなく、 聞くことをも、必要とします。 直接的に聞くことを、です。 そのとき、まさにその聞くことこそが、その条件づけを、壊します。 すべてのあなたの伝統、あなたの背景、 あなたの解釈を持ち出すのではない- それのどれでもない。 子どもが、良い物語を聞くときのように、です。 彼は、自らのいたずらすべてを脇に置いて、聞きます。
15:19 また私たちは、見えることについて話をしました。 有るものが、きわめて明らかに見えること、です - 現在の世界で起きつつあることが、です。 アフガニスタンでの戦争、 そこで、起きている最もおぞましいこと。 レバノンで、南アメリカで、極東で、です。 人は、百万年か二百万年前から、 棍棒でもって殺しました。 それから人は、弓矢を発明しました。 人は、それがすべての戦争を止めるだろうと、考えました。 今あなたたちは、何百万に何百万の人々を、一発の爆弾で 蒸発させられます。 私たちは、ものすごく前進してきました - 外的、テクノロジー的に、です。 コンピューターは、取って代わろうとしています - たぶん、私たちの考えることすべてを、です。 それは、私たちができるのより、良くやるでしょう。はるかに良く、一秒で、です。 あなたたちがこの問いへ入ったことがあるのかどうか、私は知りません。 でも、あなたは入るべきです。 人間の頭脳へ、何が起ころうとしているのでしょうか - コンピューターが、あなたができることを、ほぼ何でもできるときに、です。 もちろん、セックス以外、です。 それは、星を見つめて、 「何てすばらしい晩なんだ!」とは言えません。 それは、美しさが何かを、とうてい鑑賞できません。 で、人間の頭脳には、何が起ころうとしているのでしょうか。 それは、萎れてしまうでしょうか - レーザー、コンピューターが、あなたから、そのすべてを取り去ってしまえるときに、です。 それは、たくさんの労働を省くでしょう。 で、私たちは、娯楽へ向かうのか - 娯楽産業、スポーツのものすごい重み - または、そのもう一つの形、娯楽で楽しむために、 教会、寺院、モスクへ行く- 感受、です。 または、全的に異なった方向へ、向かうのか。 なぜなら、心理的、内的にあなたは、無限に行けるからです。 頭脳は、とてつもない能力を、持っています - 一人一人の頭脳が、です。 テクノロジーが何をしてきたかを、見てください。 しかし、心理的、主観的に私たちは、今あるままに留まります - 年から年へ、世紀から世紀へ、です - 葛藤、闘争、痛み、 心配と、その他すべてです。 それが、私たちがここ四回の講話か、三回の講話にわたって、 話をしたことです -三回の講話でしたか。
19:29 聴衆: 四回の講話です。

K: そうです。ありがとう。
19:36 私たちはまた、思考についても話をしました。 考えることの本性は、何でしょうか。 考えることは、何でしょうか。 私たちは、よく気をつけてそれに入りました。 思考すべては、記憶です - 知識に基づいて、です。 知識は、いつも制限されています - 今でも、過去でも、未来でも、です。 知識はいつも、永続的に、永遠に制限されています。 なぜなら、それは経験に基づいているからです。 経験は、いつも制限されています。 それで、知識は制限されています。 記憶、思考 - それが、私たちが考える過程です。 思考は、宗教的な場所すべての 儀式すべてを、創案してきました。 それは、神々を創案してきました -私たちの恐れなどをとおして、です。 私たちは、それについて話をしました - 相当の長さで、詳細に、です。
21:06 今朝私たちは、ともに話し合うべきです。 あなたと語り手が、ともに、です。 聴衆全体が、ではない。 聴衆全体は、ありません。 あなたと語り手だけがいるのです。 私たちは、ともに話し合うべきです -あなたと語り手は、 愛について、 死について、 宗教は何なのか、 冥想は何なのか、 人間の尽力すべてを越えたものが、何かあるのか。 または、人が唯一つの度量なのか。 思考の構造すべてを越えたものが、何かあるのか。 時がないものが、何かあるのか。 これが、私たちが関心を持たなくてはいけないことです - 今朝、あなたと語り手が、です。 それはよろしいですか。
22:41 私たちは、感受により生きます。 私たちは、それについて話しました。 私たちの構造全体が、感受に、基づいています - 性的な、想像をかきたて、 ロマンチックで、夢想的な、などのです。 また、私たちが言いましたように、 利己性は、最大の断裂・腐敗です。 感受は、 諸感覚の刺激なのですが、 それは、愛でしょうか。 私たちは、このものを、究明しています - あなたと語り手が、ともに、です。 私たちは、とても長い旅を行っています。 それは、長い小道です。 あなたと語り手は、ともに歩んでいます。 彼は先にいて、あなたは付いていく、のではない。 ともに、歩みを合わせて、です。 おそらく、ともに手を取り合って、仲良く、です。 互いにどちらかを、支配するのではなく、 互いに印象づけようとするのではない。 で、私たちは、あなたと語り手は、静かに歩んでいて、 探検し、究明し、 見守り、聞き、観察しています。
24:53 で、私たちは互いに、訊ねています -愛とは何でしょうか。 その言葉は、だめにされてきました。 唾を吐きかけられ、堕落しました。 で、私たちは、その言葉の濫用へ、とても鋭敏でなければなりません。 で、愛は何なのでしょうか。 それは、単なる感受でしょうか。 私は、あなたを愛している。 私は、あなたに依存する。 あなたは、私に依存する。 おそらく私は、あなたを売り飛ばす。 あなたは、私を売り飛ばす。 私はあなたを使う。 あなたは私を使う。 もし、あなたたちがそこにいて、私の虚栄を養うから、語り手が、 「私はあなたたちを愛している」と言うなら- あなたたちは、とても大きな聴衆であり、 私は、幸せに感じ、喜び、満悦な気持ちです。 で、満悦、充足、執着 -それは、愛でしょうか。 愛は、思考により組み立てられるのでしょうか。 で、あなたと語り手は、ともに究明しています。 で、どうか眠らないでください。 すてきな、うるわしい朝です。
27:00 で、愛は感受でしょうか。 愛は満悦でしょうか。 愛は充足でしょうか。 依存でしょうか。 愛は、欲望でしょうか。 どうか、ともにそれを、究明してください。 どうか、同意や不同意をしないでください。 私たちは、そのことへ入りました - 私たちはいつも、同意するか不同意するかにより、何かに接近します。 もしも、私たちは、自らの語彙から、頭脳から、それをすっかり 脇に置けたなら - 「私は同意する」と「私は同意しない」、「私の意見はこれで、 あなたの意見はそれだ」と言うこと、判定を、です。 もしも、私たちがそのすべてを脇におけて、 ありのままの事実へ、ただ向き合えたなら - 世の中でだけではなく、また私たち自身においても、 ありのままの物事へ、です。 それは、大きな正直さを、 正直さの切実さを、要求します。 私たちは今朝、それをでき、 ありのままの物事へ向き合えるでしょうか - ロマンチックにや感傷的に想像する、 または、「それは私たちの伝統だ」とかではない。それらを脇におく - そのとき、私たちは、愛とは何かを問いはじめ、探究しはじめられます。
29:07 私たちは、それは感受でしょうか、欲望でしょうか、と言いました。 私たちは以前にこれらの講話で言いましたように、 私たちは、その問いにとても深く入りました - 欲望の構造全体へ、です。 私たちは、もう一度それに入る時間が、ありません。 とても短くすると、 欲望は、感受の結果です。 その感受へ、思考が 形、イメージを与えます。 理解されますか。 すなわち、感受、 そのとき、思考が、その感受へイメージを与えます。 その秒に、思考が感受を、型枠へ入れるとき、 その秒に、欲望が生まれます。 私たちはそれに入りました。
30:29 で、私たちは訊ねています -愛は、欲望でしょうか。 愛は、思考でしょうか。 どうか、それに入ってください。 私たちが関心を持っているのは、あなたの生です - 私たちの一人一人、 私たちの生、日々の生活です。 何か霊的な生活ではなく、 誰か導師 - 自らの空疎をともなった者- へ従うことではない。 特別の衣を着たり、その他すべて。 中世の衣 - すなわち教会の中の - でも、 または、近頃の導師の衣でも、です。 この問いは、とても重要です。 愛は単に、思考の構造でしょうか。 私たちの関係 - 互いとの、 男、女、男の子と女の子など - において、 性的な感受を別として、 一人がもう一人へ、「私はあなたを愛している」と言うとき、 それは、依存でしょうか。 一人は、もう一人において、自分自身を充足させています。 ゆえに、その関係に、思考が入ってきます。 そのとき思考は、イメージを創り出します - そのイメージを、私たちは愛と呼びます。 または、そのイメージを、愛と呼びます。 で、私たちは訊ねています。愛は・・・ - その言葉を使うことは、不幸です - 愛は、思考により組み立てられるのでしょうか。 愛は、敵対でしょうか。 野心があるとき、愛がありうるでしょうか - 私たちが互いに競争しあっているとき、です。 利己性があるとき、愛があるでしょうか。 どうか、単に語り手に聞かないでください。 あなた自身に聞いてください。 聞いて、あなた自身で見出してください。 実際に有るものをとおして、発見するとき、 あなたは、はるか遠くへ行けるのです。 しかし、あなたが単に他の一人へ依存するだけなら - 彼の言葉、書物、評判へ、です - それは無意味です。 それらを投げ捨ててください。そして、自分自身を見つめなくてはいけません。 熱情を持たなくてはいけません。 私たちが先日、言いましたように、苦しみが終わるときにのみ、 熱情(パッション)は、存在しうるのです。 狂信なしの熱情。 狂信はそれからテロになります - 世界の狂信的な運動すべて。 彼らは、ものすごい熱情を持っています。 狂信は、熱情を生み育てます。 その熱情は、悲しみの終わりがあるとき、 生じてくる熱情ではありません。 私たちは、それに入りました。 で、私たちは訊ねています -愛はそれらでしょうか。 嫉妬ですか。すなわち、憎しみ、怒り、 欲望、楽しみなど(の状態)にあること- それらは、愛ですか。 私たちは敢えて、これらに向き合うでしょうか。 あなたは、そして語り手は、その言葉の香りを 自分自身で発見するほど、正直でしょうか。
36:04 そこから私たちは、考慮しなくてはいけません - 私たちの生において、死はどういう持ち場があるのか、です。 死、それについて話をすることは、陰鬱ではありません。 それは、私たちの生の一部です。 それは、子どもの頃から、私たちが実際に死ぬまで、あるかもしれません。 死ぬことのこの怖い恐れが、いつもあるのです。 あなたは、死を恐れていませんか。 私たちは、それを可能なだけ、遠ざけてきました。 で、ともに探究しましょう - 死と呼ばれる、あのとてつもないものは、何なのでしょうか。 それは、とてつもないにちがいない。 で、どの種のロマンチックな慰めてくれる、 輪廻転生、死後の生を信じることもなく - それは、抜群の観念です。 驚くほど慰めてくれます。 それの起源は、たぶん太古のヒンドゥーで 始まりました。 エジプト人は、それについて話をしました。 それからピタゴラスと、ギリシャ人たちが、それについて、話をしました。 私たちの一人一人の継続性が、あるのなら、 すなわち、今、生きなさい。 同じことが、来世、よりよい機会になるでしょう。 それを真摯に、深く信じているなら- 数百万人が信じています - そのとき、あなたが今することが、大事です。 ですね? 今あなたなるもの、 あなたの行いであるもの、あなたの日々の生であるものが、です。 なぜなら、継続性があるのなら、 そのとき、来世もちろん、あなたは、もっと良いお城、もっと良い冷蔵庫、 もっと良い車、もっと良い 妻や夫を、持つでしょう。 熱心にそれを信じている人たち、 彼らは、適切に振るまいません。 彼らは、未来に関心を持っていません - あなたや他の人と同じく、です。
39:32 で、私たちはまた、その慰める観念をも、脇に置けるでしょうか。 それでないものを、キリスト教世界は信じています。 あなたは、まっすぐ天国へ行く- あなたの魂が、です - または、下へ行く。 語り手は、それについてあなたに、ジョークを語りたいとも思いますが、 そうしないでしょう。 これは、まったく可笑しなジョークです。 でも、それは、あまりに長く掛かるでしょう。 私たちの時間は、制限されています。
40:18 で、死とは何でしょうか。 生きるとは、何でしょうか。 生きることは、何でしょうか -日々の生、です。死とは何でしょうか。 私たちが、自らの日々の生活を理解しないなら、 死は、それへどんな関係が、あるのでしょうか。 理解されますか。 で、初めに私たちは、生きるとは何かを、探究しなければなりません。 私たちがいう、生きるとは、どういう意味でしょうか。 私たちがいう、良い生とは、どういう意味でしょうか。 良い生は、たくさんのお金、車を持つこと、 妻や女の子を変更することでしょうか。 一人の導師から別のへ行くことと、 彼の強制収容所へ捕らわれることでしょうか。 どうか、笑わないでください。 これは実際に、起きていることです。 良い生は、楽しむこと、ものすごい快楽、 興奮、一連の感動、 朝から晩までオフィスへ行くことですか - 六十年間。 後生ですから、これらに向き合ってください! 働きに働いて、それから死ぬ。 これが、生きることと呼ばれるものです。 すみません。あなたと私は競争できません。 すみません。 これが、生きると呼ばれることなのでしょうか - 常なる葛藤、常なる問題、 次から次へ。 この生 - 私たちがそれへ縋りつくもの、 私たちがそれについて知っているもの。 私たちは、実質的にあらゆる物事について、ものすごい情報、 知識を、取得してきました。 その知識へ、私たちは縋りつきます。 自らが持っているそれら記憶へ、 私たちは深く執着しています。 このすべてが、生きることと呼ばれます - 悲しみ、痛み、心配、不安定、 果てしない悲しみと葛藤。 そして、死が来ます - 事故をとおし、 老齢、老衰をとおして、です。 それは良い言葉です。 老衰とは何でしょうか。 なぜあなたは、それを老齢へ帰するのでしょうか。 なぜあなたは、「ああ、彼は老衰した老人だ」と言うのでしょうか。 私はそうかもしれません。 あなたは老衰していますか。 老衰は、物忘れ、繰り返すこと、 古い記憶へ戻っていくこと、 半ば生きていることなどです。ですね? それが一般的に、老衰と呼ばれます。 私は、あなたに訊ねています。 語り手は、自分自身にこの問いを、 しょっちゅう訊ねてきました。 で、私たちはどちらも、同じ陣地にいるのです。 老衰は、老齢の問題でしょうか。 または、老衰は、あなたが繰り返し、繰り返し、繰り返しているとき、始まるのでしょうか。 付いてきていますか。 あなたが伝統的であり、教会、寺院、モスクへ 行き、繰り返し、繰り返し、跪くとき - 他の人は、額を地面に触れる。 ヒンドゥー教徒は、平伏します。 で、老衰は、どの年齢でも始まりうるのです。ですね? で、あなた自身に、この問いを訊ねてください。
46:41 で、死は、老齢をとおし、事故をとおし、 ひどい痛み、病気をとおして 起こりえます。 それが来るとき、 あなたの継続すべてに、終わりがあります。 ですね? あなたの記憶すべてに、 あなたの執着すべてに、 あなたの銀行口座に、あなたの名声に、です。 あなたは、娯楽の中心的人物であるかもしれません。 それもまた、終わりになります。
47:31 で、私たちは、継続とは何かを、考慮すべきです。 理解されますか - そして、終わりとは何かを、です。 私たちはそれに入っていいですか。 継続するのは、何でしょうか。 すなわち、継続となる一連の動き。 そして、「終わる」というその言葉の意味は、何でしょうか。 理解できますか。 何かが終わる。 なぜ私たちは、何かを終わらせることに、怯えているのでしょうか - それが、伝統でも、 習慣でも、 記憶でも、 経験でも、です。 そのすべてが、終わりうるでしょうか。 計算された終わりではない。 努力、決意ではない終わり。 私は、他の何かを達成するために、何かを終わらせます。 死 - あなたは、死とは論争できません。ですね? 古代インドのすばらしい物語が、あります。 それもまた、あまりに長すぎます。 それは本当に、すばらしいお話です。 私たちは時間があるのかどうか、分かりません。 なぜなら、私たちは、宗教、冥想について話をしなくてはならないからです - このすべての人間の尽力を越えて、何かあるのか、です。 よろしい。私はその物語を、きわめて短く繰り返しましょう。
49:46 バラモンの少年が -バラモンです。理解されますか。 古代インドのバラモン。 彼は、たくさんの物を収集してきました - 雌牛とその他すべてを、です。 彼は、それらを与えてしまおうと決断します - 一つずつ、です。 彼の息子が、彼へ来て、言います - 「なぜあなたは、これらを与えてしまっているのですか」と。 彼は、なぜかを説明します - たくさんの物を収集するとき、 それらを与えてしまい、再び始めなければなりません。 その意味、意義を、理解されますか。 あなたは、収集して、それから、自らが収集してきたものすべてを、与えてしまう。 私はあなたに、こうするよう頼んでいません。 で、少年は、その質問をしつづけます。 父親は、彼に怒って、 「おまえが、さらに私へ質問をするなら、私はおまえを、死へ送るだろう」と言います。 少年は、「なぜあなたは、僕を死へ送ろうとしていますか」と言います。 バラモンとして、話すとき、 何かを言うとき、それに拘らなければなりません。 で、彼は少年を、死へ送ります。 少年は、死の家に着きます - すべての教師、哲学者、導師、 その他すべてに話をした後、です。 彼は、死の家に着きます。 私は、それを、ごくごく短くしています。 そこで彼は、三日間、待ちます。 これらの意義を、これらの微妙さに、 付いてきてください。 彼はそこで、三日間、待ちます。 死がやってきて、彼を待たせたことを、謝罪します。 なぜなら、結局のところ、彼はバラモンであるからです。 で、彼は謝罪して、言います - 「私はおまえに、何でも欲しいものを与えよう - 富、女、雌牛、資産、何でもおまえの欲しいものを」と。 少年は言います - 「でも、その終わりに、あなたがいるでしょう。 あなたはいつも、あらゆる物事の終わりにいるでしょう」と。 そのとき死は、様々なことについて、話します - 少年が理解できないことを、です。 ですね? それは本当に、すばらしい物語です。
52:44 で、現実へ戻ってきましょう。 たぶん、あなたたちは、たくさんの物語を、語ってほしいでしょう。 私は、大量に持っていますが、語らないでしょう。
52:57 で、死とは何でしょうか。 時は、そこに関与しているでしょうか。 時。 時は死でしょうか。 私はあなたに訊ねています。 どうか、考慮してください。 時 - 時計によって、日の入りと日の出によって、だけではなく、 また、心理的、内的にも、です。 時の利己性があるかぎり - いいですね? これらに付いてきていますか- 利己性があるかぎり - それは時の車輪です - そのとき、死があるにちがいないのです。 で、時は、死に関係しているのでしょうか。 さあ、どうぞ。 もし時がないなら、死があるでしょうか。 私たちは一緒でしょうか。 どうか、これには、冥想が・・・これが、真の冥想です。 まがい物すべて、ではありません。 時、心理的な時は- 大時計や、 あなたの腕時計の時ではない。 私たちにとって、時はとても重要です。 成功するための時。 その成功において成長し、 その成功において、変化をもたらすための時。 時は、継続性を、意味しています - 私はそうであった。私はそうである。 私はそうなるであろう。 私たちには、この常なる継続性があるのです - それが時です。 ですね? もし明日がないのなら - 私はこれらに入っていいですか。 これは、危険な主題です。 あなたは、それに興味があるなら、どうか、注意を払ってください。 さもなければ、あくびをし、休んで、寛いでください。 もし明日がないなら、あなたは、死を恐れるでしょうか。 死が今、即座であるなら、何も恐れはないのでしょう。 時はない。私が言っていることを、あなたは捉えていますか。 で、時は 死でしょうか。 思考が、時の分野で機能するかぎり - いいですね?私たちは一日中、そうしています - そのとき必然的に、それの終わりが、ある - 「それは終わるかもしれない。ゆえに私は恐れている」と言って、です。 で、時は、死の敵であるかもしれません。 または、時が死です。
57:27 それは、こういう意味です - 語り手が、自らの聴衆へ執着しているなら - これに執着している。 なぜなら、彼は、その執着の中より、 大変多くの興奮、感受、重要性、 利己を招来するからです。 より大きな聴衆を持っている人物を、羨んで、です。 ですね? もし語り手が、執着しているなら- 聴衆へでも、 書物でも、経験へでも、称号でも、名声へでも、です - そのとき彼は、死に怯えています。 執着は、時を意味しています。 あなたがこれらを理解できるのかと、思われます。 執着は、時を意味しています。 で、私は、あなたは、完全に執着から、すなわち時から、 自由でありうるでしょうか。ですね? 私は、あなたに執着しています。 私は、あなたに依存しています。 私は、あなたを求めて泣きます。 あなたは、私に対してまったく同じことをします。 私たちは、互いに執着しあっています。 死がやってきて、それを終わらせます。 で、私は、その執着を、今終わらせられるでしょうか。 死を待つのではなく、 その執着から完全に自由であるのです。 ええ、そうです。 その事実に向き合ってください。
59:53 で、生きることは、死ぬことです。 ゆえに、生きることは死です。 ともに、です。 私が言っていることを、理解されますか。 さあ、どうぞ。 そういうわけで、 自分自身を理解する基盤を、 敷かなくてはいけないのです- 哲学者、精神科医 などに沿ってではなくて、です。 自分自身を理解する。 書物をとおしてではなく、 自らの振るまい、行い、 習慣を見る、見守る。 幾千年に幾千年をとおして、 私たちが収集してきた蓄積を、です。 あなたの内側のそれらを、知る -人種的、共同体的、 伝統的、人格的なのを、です。 それの知識、 気づきは、時のではありません。 それは即座でありえます。 そして、あなたがこれを見るところの鏡は、 関係です - あなたともう一人との間、あなたと妻との間。 その関係に、すべての過去、現在、習慣、 未来が、見える。 あらゆるものが、そこにある。 どう見るか、どう観察するか、 あらゆる言葉、あらゆる思考の動きをどう聞くかを、知る。 それは、大いなる注意、見守りを、必要とします。
1:01:56 で、死は、未来にありません。 死は今です - 時がないとき、 何かになる「私」がないとき、 利己性、自己本位の活動がないとき、です。 それはすべて、時の過程です。
1:02:26 で、生きることと死ぬことは、いつも一緒です。 あなたは、それの美しさを知りません。 そこには、大いなるエネルギーがある。 私たちはエネルギーによって、生きます。 あなたは、充分な食物、正しい食事などを、とります。 それは、一定の質のエネルギーを与えます。 あなたが喫煙、飲酒、その他すべてを するとき、そのエネルギーは、歪曲されます。 頭脳は、とてつもないエネルギーを持っています。 自分自身で見出すには、そのとてつもないエネルギーが、 必要とされるのです -他の人に方向づけられるのではなく、 発見するには、または、そのことが起きるには、です。
1:03:37 で、私たちは、それを探究しようとしています。 すなわち、宗教とは何でしょうか。 どうか、理解してください。 私たちは、恐れについて、話してきました。 私たちは、心理的なけがについて、話してきました - 余生の間、運んで行かないことを、です。 私たちはともに、話をし、それに入りました - 関係は何なのか、 関係の意義に、です。 関係なしには、地上に何も存在できません。 私たちの一人一人が、自分の野心、 自分の貪欲、自分の充足などを追求するとき、 その関係は、破壊されます。 私たちは、恐れについて、話しました。 私たちはともに、それに入りました - 思考、時の問いに、 悲しみと、悲しみが終わることに、です。 私たちはまた今朝、死についても、話しました。 今、私たちは、有能で、生きていて、 宗教とは何かを、見出せます。 なぜなら、私たちはエネルギーを持っているからです。理解できますか。 なぜなら、私たちは、そのすべての人間的な葛藤、利己性を、脇へ置いてきたからです - あなたがそうしてきたなら、です。 そのときそれは、あなたに、無量の熱情とエネルギーを、与えます - 計算不能なエネルギーを、です。 そして、宗教とは何でしょうか。
1:05:49 宗教は、思考が組み立ててきたことすべてでしょうか。 儀式、衣、導師、 永続的な反復、祈り、全部のこと - それが、宗教でしょうか。 または、それは、大きなビジネス的な関心事でしょうか。 南インドには、寺院があります - 三日ごとに、百万ドルを稼ぐところ、です。 私が言っていることを、理解されますか。 三日ごとに、その寺院は百万ドルを、集めます - 三日ごとに、です。 それが宗教と呼ばれます。 彼らは、様々な形でお金を使います。 そして、キリスト教 - それが何をしてきたかを、見てください。 ものすごい富。 ヴァチカン、世界中の教会。 ニューヨークの五番街へ行ってください。 そこに、一番の壮観が ありますよ。それが宗教でしょうか。 日曜日の朝ごとに、どこかへ行く - 誰か説教師の話を聞き、儀式を反復するため、です。 それが宗教でしょうか。 または、宗教は、それらの事柄といかなる関わりも、ないのでしょうか。 なぜなら、それは、それらから自由であるとき、 この問いを訊ねられるだけだからです - もつれに、上演に、それらの位階制度の権力、地位に 捕らわれていなくて、です。 そのときだけ、あなたは問いを訊ねられます - 宗教とは何でしょうか。 神は、思考により、恐れにより創造されたのでしょうか。 または、人は、神の似姿(イメージ)でしょうか。 または、神は、人の似姿(イメージ)でしょうか。ですね? そのすべてを脇に置けるなら - 思考により、感受により、 反復により、儀式により組み立てられていないものを、 見出すように、です。 それらは、宗教ではありません -少なくとも、語り手にとっては、です。 それは、神聖なものと、いかなる関わりも、ありません。
1:09:10 で、そのとき・・・真理は何でしょうか。 真理といったものが、あるのでしょうか。 そういうものが、あるのでしょうか -絶対的な、改変不可能な真理が、です。 時、環境、伝統、知識に依存しないもの、 ブッダが言ったことや、誰かが言ったことに(依存しないもの)が、です。 言葉は真理ではありません。 象徴は真理ではありません。 人物は真理ではありません。 ゆえに、個人崇拝はないのです。 Kは、まったく重要ではありません。 で、私たちは、何が真理であるかを、探し求めています - 何かあるなら、です - そして、何か時を越えているものが、あるのか、です。 すべての時が終わること。 これに出くわすには、冥想が 必要であると、言われてきました- ですね? - 静かな精神を持つことが、です。 私たちは、それに入ろうとしています- あなたが許してくださるなら、です。 私たちは、とても短い時間を、持っています。 すみません。時計によれば、です。
1:11:08 冥想とは何でしょうか。 その(メディテイションという)言葉は、辞書によれば、熟考する、 よく考える、という意味です。 またそれは、違った意味をも持っています。 それは、測量することです - サンスクリットでも、ラテン語などでも、です。 冥想する(メディテイト)とは、熟考する、考えることだけではなく、 また、測量できることをも、意味しています。ですね? それは、比較を意味しています。 もちろんです。 比較なしに、測量はありません。 で、頭脳は、測量から自由でありうるでしょうか。 定規による、物差しによる測量、 キロメーター、マイルではなく、 頭脳は、測量すべてから自由でありうるでしょうか - なること、ならないこと、比較すること、比較しないことから、です。 理解されますか。 頭脳は、この測量の体系から、自由でありうるでしょうか。 私は、スーツを作ってもらうには、測量しなくてはいけません。 ここから別の所へ行くには、測量が要るのです。 距離は測量です。時は測量です。 さあ、どうぞ。理解されますか。 それで、頭脳は- 精神が、ではありません。 私たちは、精神と頭脳が何かへ、すばやく入るでしょう。 頭脳は、測量から自由でありうるでしょうか。 それは比較です。いかなる比較もない。 これが、真の冥想です - そのため、頭脳は全的に自由であるのです。 この現代の世界に生きて、お金を稼ぎ、 セックス、子どもを産むこと、 すべての雑音、卑俗さ、 宗教の名でつづいているサーカス。 それらから自由でありうるのでしょうか。 何かを得るために、ではない。 理解されますか。自由であること。
1:14:02 で、冥想は、意識的な冥想ではありません。 これを理解されますか。 それは、意識的な冥想ではありえません - 体系、導師に従うこと、 集団的な冥想、団体の冥想、 単独の冥想、 禅、仏教、ヒンドゥー教によるものではありえません。そうですね。 それは、体系ではありえません。 なぜなら、そのとき、あなたは実践し、実践し、実践するし、 あなたの頭脳は、ますます鈍くなり、 ますます機械的になるからです。 で、何も方向を持たない、意識的、意図的でない 冥想が、あるのでしょうか。 見出してください。
1:14:58 それは、大いなるエネルギー、注意、熱情を、必要とします。 欲情、ではありません。それはただ・・・ そのとき、まさにその熱情、エネルギー、 それの強烈さが、静寂です。 企画された静寂ではない。 それは、無量の静寂です -その中に、時、空間がないものです。 そのとき、名づけられぬもの、聖なる、永遠であるものが、 あるのです。
1:16:28 立ち上がってもいいですか。