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SD72CA2 - 教育の意味は何なのか home
アラン・W・アンダーソンとの会話 第2回
カリフォルニア、サンディエゴ
1972年2月16日


0:21 クリシュナムルティの、アラン・ W・アンダーソン博士との対話
0:27 J.クリシュナムルティは、 南インドに生まれて、 イングランドで 教育を受けた。 過去四十年にわたって、 彼は、 合衆国、ヨーロッパ、 インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、 話をしてきた。 彼は、 生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、 人を 絶対的に無条件に自由に することである、と言ってきた。 彼は、 多くの書物の著者であり、 それらの中には、 『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、 『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、 ある。 1:06 クリシュナムルティと対話しているのは、 アラン・W.アンダーソン博士、 州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授である。 そこで彼は、 インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、 詩人として作品を発表し、 コロンビア大学と ユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、 カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の 表彰を、受けた。
1:33 アンダーソン: クリシュナ ムルティさん、あなたの本、 「教育と生の意義」の中で、 あなたは、規律(修練)に ついて、記されます。 私は憶えています。 私は、自分が 正確に憶えてきたと望みますが、 あなたは、規律(修練)に ついて、本質的に、 子どもや学生において始まること として、話をされます - 子どもは、自分の 振るまいの原因を見るよう、 助けられなければならない、 という意味において、です。 ですが、今、教師は、子どもが これをするよう、助ける人です。 私には、きわめて明らかに思われたの ですが、あなたが仰っていたことは、 本質的に、規律(修練)はむしろ、 教師において始まる、ということです。 それは、教師自身がきわめて修練されて いることを、必要とするでしょう。 そして、単純に 子どもへ諭さないで、 彼の誤った振るまいの原因へ透徹しようと するとは、どういう意味ですか。 クリシュナムルティ: 私たちがいう、その言葉、
2:38 「規律」(修練。ディシプリン) とは、どういう意味ですか。 その言葉は実際に、何を 意味していますか - 一般的にそれが 受け入れられているように、です。
2:49 A: それはふつう、訓練を 意味していると、思います。 それはもちろん、語源的には、教える ことと関わりを、持っています。
2:58 K: はい、教えることです。それが、 私が言おうとしていたことです。 それは、師匠より学ぶ学徒(ディサ イプル)と関わりが、あります。 それは、学び方です。 様式へ順応することではない。 理想へ服属すること、 何かであるために、 自己を抑圧することではない。 私は、今それが使われているような、 一般的な意味で、言っています。 それは、順応、抑圧、 比較を、含意しています。 あるため、特定のものに填まり込む ために、自分自身に叩き込むこと、です。 軍隊の規律などなどのように、です。 そういう規律(修練)すべては、 間違いなく、人間に葛藤を、 創り出すにちがいありません。
4:00 A: もし子どもが、 幼いとして、 アルファベットを、教えられるなら - そして、文字の写し方を、です - 彼は、Aを書こうとしている とき、Bではなく、 Aを書かなければなりません。
4:16 K: ええ、ええ。
4:17 A: さて、あなたは、こう提案なさって いますか - このAを書こうとし、 Aの形をなぞっている 中で、彼は必ずや、 葛藤を発生させるに ちがいないのだ、と。
4:33 K: たぶんそうでしょうが、私は むしろ、提案してもよろしいなら、 それを、子どもより、教育者の 視点から、見つめたいと思います。 そうしましょうか。 A: はい、どうぞ。
4:44 K: 教育者の機能とは、 何ですか。
4:46 教育される者ではなく、 学生ではなく、子どもではなく、 教育者、教師の 機能とは、何ですか。
5:02 A: まあ、私はいつも、それは 二重であると、思ってきました。 一方で、その人物から、彼の潜在能力 の何かの顕現を、引き出すこと。 そして、他方では、 今、彼が知っていることより、 違った何かを、彼に教えること。
5:29 K: 私たちは、教育者、教師に ついて、話しています。
5:32 A: はい、教育者に ついて、です。
5:33 K: 子どもや学生ではなく、 教育者です。
5:36 A: ええ、教育者。 教育をする人です。 私はいつも、思ってきました - この二重の責任を、持っています。
5:42 K: それは? A: 一方で、 学生から引き出すこと。
5:44 K: ああ、いいえ。私は、学生に ついて、まったく話していません。
5:50 K: 教育者の機能とは、 何ですか。
5:56 私が教師であるなら、 私の機能は、何ですか。 何が重要ですか。
6:05 A: 学生の役に 立つことです - 学生が学べる ような形で、です。
6:10 K: それは、 教育者が学生と関係を、 確立しなければならない、 という意味です。 上下関係的、権威主義的でない ものを、です。 あなたは、あちらで上、 私は下、ではなく、 相互の探究、研究、分かち合い、 意志疎通の関係、です。 そのすべてが、教育者に含意 されています。 そうでしょう? もし、あなたが 教師であり - あなたがそうでいらっしゃる ように、です - 私は、学生です。 あなたが 教育者であるなら、 あなたは、私と一定の関係を、 確立しなければなりません。 その関係は、私に情報を 与えることに、基づいていますか。 A: いいえ、いいえ。
7:18 K: それは、この感覚に、
7:19 「あなたは知っている。私は知らない」 というのに、基づいていますか。
7:26 A: 部分的に、部分的に。
7:30 K: 「あなたは知っている、 私は知らない」の意味、 意義、権威主義的な背景。 ゆえに、そこには、 権威の想定が、あります。
7:47 A: 私たちが、幼い子どもに 戻っていっても、構いませんか。
7:49 K: はい、いいですよ。
7:52 A: 教師が、Aをどう正確に書くのかを 知っていることは、実情です。
7:56 K: が、私たちは、それに戻ってくる でしょう。 A: ああ、いいです。
7:57 K: が、私は、 思い巡らしているんです -
7:59 教師と学生との間の 関係の性質は、何ですか。 教師のほうが 学生より、重要です。 当面の間は、です。 なぜなら、私たちは、 教育者の状態は何であるか、 教育者の性質は何であるかを、 探究しているからです。 私たちは、彼は関係を確立しなければ ならないことを、言いました - その中で、 権威主義的な精神が、 完全に去ってしまう 関係を、です。 さもないと、あなたは、私を 召使いのように、扱います。 私たちの関係は、全然違っています。 「あなたは知っている。 私は知らない」に、基づいています - この知識の程度に、です。 8:51 そして、あなたは、私へ 何か情報を、授けています。 それが、すべてですか。 または、はるかに 多くが、そこに関与していますか。 すなわち、教師は、 本当の関係に確立されていて、 自分の情報を伝達したがって いるだけではなく、 また彼は、智恵の性質を、 学生にもたらしたいと 思うのです。 そうでしょう。 それは単に、知識の活動の 智恵だけではない。 それは、はるかに 大きいのです。 で、教育者は、智恵を 持たなくてはいけません。 その言葉の深い意味において、 です。 物知り、ではない。 A: ええ、智恵がある。
9:46 K: 智恵がある。
9:48 そして教師は、自分の情報を 伝えたいと思います。 それで、学生は、 情報を得る中で、 養成しているか・ ・・智恵の 中に、成長しているのです。 それをどうか、私は知りませんが・ ・・ 洗練か、明瞭さの性質、です。 A: 明瞭さ。
10:16 K: 明瞭さ、です。
10:17 また彼は、本当の友情、 本当の慈しみ、本当の愛の関係を、 自分自身と学生との間に、 確立したいと思います。
10:28 A: はい。私は、それが きわめて本質的だと、思います。
10:32 特にそれが、です。 K: はい。特に、それが、です。
10:34 A: 「リグ・ヴェーダ」の或る讃歌に ついて、私が魅了されたことの一つは、 言葉が、言葉の女神が、 友だちの中に現れることです。
10:46 K: はい。 A: それは、 まるで、敵たちが出会うとき、
10:47 理解の可能性が、 消え去るようです。 K: そのとおりです。 A: どうぞ、進んでください。
10:53 K: で、あの愛、慈しみの性質、 関係が、あるとき
10:55 - 権威の感覚がなく、 学生にあの智恵を、 目覚めさせるとか、 養成するとか、 もたらす - そのとき、教師の責任は、 尋常ではありません。 A: はい、そうです。

K: 尋常ではない。 結局のところ、私たちは 新しい世代を、創り出しています。 それは、教師は、既成体制に 所属できない、という意味です。 正統派、社会的な受け入れ、という 意味での、既成体制に、です。 彼は、自分自身において、 残りの世界より、 致命的に異なって いなければなりません。
11:45 A: 彼は、自分自身で なければなりません。
11:46 K: 彼自身ね。彼自身ではありません。 それは、違った物語を持ち込みます。
11:50 A: ええ、仰る意味は、分かりますが、 彼は、真正でなければなりません。
11:53 K: 彼は、真正であり、誠を 持たなければなりません。 一つのことを言って、 別のことをするだけではない。 それで、 教師の面前において、 学生は、完全に 安全に感じます。 なぜなら、教師といて、 彼は、寛いでいるからです。 家族とでは、そうでない。 なぜなら、家族もまた・・・ 彼らは、自分の問題、 自分の野心、自分の貪欲を 持っていて、彼らは 戦っているからです。 教師といて、学生は、 ついに今、感じます - ここには、本当に気づかう人が 誰か、いる、と。
12:38 A: これにより 問いが、生じます - あなたに、大いにお訊きしたい ことです。 クリシュナムルティさん。 二つの見たところ、根本的に 違った教育の概念について、です。 私は、インド文化が 持っていると、私が思う理解に、 いつも、大きな感銘を 受けてきました - 学生が教師と居住する 必要性について、です・・・
13:10 K: はい。それは、 古い伝統です。
13:13 A: ・・・真の相互の人格的 関係を、基礎にして、です。
13:16 K: 彼は、教師の家で 生活しました。 A: はい。 K: 彼は、教師の 家族の一部でした。 彼は、教師の子どもたちと ともに、育てられました。 それで、彼は親でした - 母と父ではないが、 彼は、彼を無量に気づかう 本当の親でした。 一度、あなたが、学生とその 種類の関係を、確立するとき、 私は、あなたより学びたい。 私はあなたに、私へ語ってほしい。 私は、あなたが知っていることを 見出そうと、ひどく熱心です。 そのとき、あなたが 私を好きであるとき、 それは、全く違った 感じを、含んでいます。
14:07 A: 練習帳以上です! はい、 お話に、付いていっています。
14:11 K: そのときまた、あなたは、 私を、他の学生と比較しません。 あなたが私を、他の学生と 比較するなら、 あなたは、他の学生を 破壊しています。 なぜなら、私は たぶん、鈍いし、 あなたは私を、もっと利巧な 誰かに、比較するからですが、 この葛藤が、あります。 比較の中に、競争、そうね、 それらが、私の中に生まれます。 ところが、あなたが、「ほら、私は あなたに教えている。 気にするな。 私はあなたを、誰とも比較していない」と 言うなら、あなたはそうしないでしょう。 で、この感覚が、 あります - 親密さ、流れ、友情の とてつもない感じの、です。 あなたは、これやあれでなければ ならないとの、何の感覚もなく、です。 そのとき、私の精神は、 学びたいと思います。
15:04 A: 私たちの文化において、私たちが、 ソクラテス的な真理と呼ばれるものに 言及するとき、私たちは それについて、幾らか 理解すると、思います。
15:13 K: ソクラテス的な、ええ。 しかし、クラスに、三百人か、 四十、五十か、百人の学生がいると、 あなたは、 これをできません。
15:21 A: ええ、ええ。で、 あなたは、何をしますか。
15:23 K: それが、論点です。 まさにそうなんです。 あるがままの物事を 与えられて、 あなたは突然に、 革命を起こし、 各々の教授や教師に、十人 だけの学生を、持てません。 それは、 不可能でしょう。 私は、こう 考えたでしょう - もしも教師、教育者が、精神と感情の あの性質を、持っていたなら、 彼は、学生の数人を、 見抜くでしょう - あの少年、あの少女と、 半ダースを、です。 そして、彼らを、はるかに気づかい、 彼らに与えるでしょう。  A: ええ。 K: 彼らを家に連れてきて、彼らに話し、 彼らと散歩し、彼らと遊ぶでしょう。 よろしいですか。 この感覚・・・ 私は、様々な学校で、 それを、ちょっとしましたが、 私は止めました。各々の所で、 より短い時間と、私は言われました。 16:16 が、もし、本当の友情と、慈しみ、 愛の、この感じが、あるなら、 学生は、完全に 寛いだ感じが、します。 そのときあなたは、あの少年、 この少女を、見られます。 よろしいですか?  あなたは 半ダースを、受け持てます。 そのとき彼らは、本当に あなたの子どもです。 彼らは、エリートと なるでしょう。 私は、民主主義の中で、 エリートという言葉が、 何かひどいものであるのを、 知っています。 しかし、それは エリートです。 結局のところ、あなたは、 文化のエリートです - そうね、「宗教、哲学へもっと 重要性を与えろ」と言うそれの、です。 あなたにとっては、 それが重要です。
17:01 A: 私は思いますが、私たちは、 その種類の区別について、 全くひどく うろたえがちなんです。 なぜなら、結局のところ、 最後の分析において、 確かに、エリートと いう意味は、単純に、 誰か自分がすることを、うまくする人 である、ということであるからです。
17:19 K: はい。あなたが、良い 一流の大工であるなら、
17:23 あなたは、エリートである、と。 A: そのとおりです。
17:25 K: あなたが、匠の仕事を 愛しているなら - 自分が1日、8ドル、10、15ドルを 得ようとしているからではない。 あなたは、15ドルを得るかも しれませんが、そのもの自体を、です。
17:36 A: 私たちは、かなり興味深い 概念を、発生させてきました。 それは、私にはすっかり、 機能不全なものと、思われます。 私は、これへのあなたの光に、 大いに感謝するでしょう。 私は、小学校やハイスクールで 教えてきませんでした。 で、私は、自分が読み聞きしてきた ことについて、話しているだけですが、 私が誤っていないなら、 私たちは、少し前に、 学生の熟達度を平均化する 傾向を、始めました。 それで、もし学生が、 才能に恵まれ、 利発であり、 課題に熱心であるなら、 彼は自然に、 優秀になるでしょう。 が、私たちは、どうにかこうにか、 気をつけなければなりません - すなわち、私たちは本当に、彼を そこで奨励しすぎないように、です。 不均衡を恐れて、です。
18:32 K: が、結局のところ、もし私が 教育者であるなら、私は、彼に 優秀であってほしいと思います。
18:37 A: もちろんです。 もちろんです。そのとおり。
18:39 K: 優秀になり、利益を得るとか、 他の人たちを利用するとか、ではない。 結局のところ、あなたが何かで優秀に なるなら、それは、すばらしい。 が、あなたが、私を潰すために、 その優秀さを使うなら・・・
18:56 A: それは、災難です。
18:58 K: それが、起きつつある ことです。 A: はい。
18:59 まあ、私たちが採用する 感傷は、それ自体では、 感傷的でしかなかったと、 思います。 K: ええ。 A: 結果的に・・・
19:13 K: それは残酷になる。 A: それは、残酷だと判明します。 なぜなら、 感傷性はいつも、残酷になるからです。 ええ、ええ。 知っています。 五十人や百人のクラスの中で、 その点を示すことは、 ひどく難しい。 なぜなら、私たちは、自分が感傷的だ と思う物事を、大切にするからです。
19:29 K: そういうわけで、 私は、こう感じるのです - 教育者は、学生より、 はるかに重要である、と。
19:37 A: はい、理解できます。 はい。 そういうわけで、私は、 教育者で始まる規律(修練)について、 あなたが仰ることを、むしろ 聞きたいと思ったのです。 学生でもって 逆の方よりも、です。 私が、できるなら、お訊きしたいと 思う問いが、もう一つあります - 子どもが悪い振るまいを するとの観念について、です。 懲戒上の問題になるとの 意味で、です。 一方で、それへ 臨床的な接近が、あります。 そこでは、こう 言うかもしれません 「まあ、今、その裏を探ろう。 それの原因を覗きみよう」と。
20:17 K: それの原因を、ね。 はい、分析的な過程です。
20:20 A: でも、悪い振るまいが 必ずしも、引き起こされますか。 それは、全く可能で ないのでしょうか - 誰かが、自分は悪く振るまおうと していると、判断することは、です。
20:37 K: そのとき、彼は神経症になります。 それは全く、違ったことですが、 現代の世界において、 なぜ、子どもたちは、 こうも暴力的で、こうも 組織だっていないのですか。 で、彼らが何であるかは、ご存じです。 彼らは世界中で、見られます。 なぜですか。 それは、彼らが生きる ところの社会ですか。 彼らへ本当に慈しみを持たない 親たちですか。 よろしいですか - 彼らは、 「はい、私たちは、自分の子どもを 愛しています」と言いますが、 社会は、親たちの集団は、 自分たちの子どもが、戦争で 殺されるのを、許します。 よろしいですか。  A: はい、はい。よろしいです。
21:32 K: 彼らは、「私たちは、自分の 子どもを、愛している」と言う。
21:33 彼らがヴェトナムで殺されるとき、 彼らは、涙を流すけれども、 私は感じますが、 それは、子どもたちへの 愛の全くの欠如の この感覚です。 なぜなら、彼らは、自分自身に、 関心を持っているからです。 自分の見栄え、自分の髪、自分の衣装 - よろしいですか - 自分の爪に、です。 神様! コマーシャルを見てください。 ものすごい自己関心が、見られます。
22:06 A: すると、私たちが前に 言ったことに立つと、 彼らはその子を見ないと、 私たちは言うでしょう。
22:09 K: ええ。彼らは見ません。彼らは その子を見たくありません。 なぜなら、彼らは、 子どもが見えるなら、 子どもに何が起きようと しているかが、見えるなら、 彼らは、 恐怖するでしょう。 で、彼らは、それを 覆い隠します。 そして、彼らを学校へ、 送ってしまいます。 または、そうね、 彼らを取り除きます。 そして家は、もはや 本当の家ではありません。 ゆえに彼らは、非行少年になる、 いたずらをする、その他すべて、です。 しかし、教師が、「私が あなたに、家を与えよう。 あなたは、私の子どもだ」 と言うなら - よろしいですか - そのとき、あなたは、 何か新しいものを、創造します。 このすべてのものすごい テクノロジー的な情報ではない。 それは必要ですが、 この重要性、です。 22:59 ゆえに、あなたは、誰をも 気づかわない人々を、送り出します。 そして、あなたたちは、これらの 永続的な戦争を、持っています。 アメリカの母親たちが、 本当に、 「ほら、私たちは、自分の子どもを、 愛しています」と言ったなら - 「私は、わが子が殺されるのを、 もはや許そうとしていません。 何が起きようと、構いません。 私はそれを 許そうとしていません」と、です - 戦争は、明日、 終わるでしょう。 しかし、彼らは、 気づかいません。 彼らは、自分の安全を、自分の楽しみを、 気づかいます。よろしいですか。
23:31 A: はい、 よろしいです。
23:32 K: 自己関心の醜さ全体です。
23:39 A: 長い時間、私たちは、教育に おいて、概念を持ってきました - すなわち、どう教えるのかが、 教えられる、と。 私たちは、職業教育に ついて、語ります。 時々、ひたすら、 一方での学者たちと、 他方での教室の人たちとの 間の不和は、 かなり きびしくなります。 しかし、あなたの 教育観では、 あなたが、本当に誰かに、どう 教えるかを、教えられるというのは、 実情でしょうか。
24:24 K: そう思います。 教育の意味とは、 何ですか。 なぜ私は、教育されたいのですか。 なぜ私は、教育されるべきですか。 このものへ 填まり込むためですか。 殺されるため、余生の間、 戦うためですか。 戦って死ぬ。 私自身の中の果てし ない問題をもって、死ぬのですか。 教育は、何に なりますか。 私は、トップの人々を 幾人も、存じています - 数学で、哲学で、 技術で、です。 彼らの生は、こうも 見かけ倒しで、無意味です。 彼らは、それを知っています。 そして彼らは、こう言います - 「神様。 なぜ私たちは、このように 終わってしまうために、 いったい大学へも 行ったのか」と。 生きることの全体的な意味を、 理解するのでなければ、 単に教育されること、 一流の技師であること - そのすべては、いったい 何を、意味していますか。
25:30 A: 或る人たちは、なかなか適切に、 説得的に、書いてきました - すなわち、プラトンの「国家」は、 本当は、政治的な論文ではなくて、 結局のところ、本当は、 教育の哲学である、と。 そして、あなたが 仰ってきたことに立って、 あの対話の中で、ソクラテスが 述べてきたことの幾つかは、 関係すると、 思われるでしょう。 例えば、ソクラテスの 観念、すなわち、 正義は、魂の内的な 秩序であるし、 すべての重みが、自分自身の秩序を 内面的に正すことに、加わります。 それで、正義の仕事は、 外的な物事へ、秩序づけられるの ですが、うまくされるのです。 私がお話を正確に 理解したのなら、 これは、何か関わりが あるにちがいありません - 教師がまず第一に、自分自身、 見ることができるのを、 あなたが必要とされることに、です。
26:28 K: 明白ですよ! 学生が、「タバコを吸うな」と言って タバコを吸う人々のようなら - よろしいですか - それは 何の意味も、ありません。 で、また、この教育の 問いの中で、 比較は、明白に破壊的です - 二人の学生の間で、です。 そしてまた、この集中の 観念全体も、です。 彼らは、学習するために、集中 するのを、学ばなければなりません。 ご存じですね。 ゆえに、 集中するために、 なされる、このものすごい 努力が、あります。 これをする、違った道が、 ありませんか。 子どもや学生を、集中を学ぶよう 強いる代わりに、です。 理解されますか。 A: ええ、ええ。 K: この問題には、すっかり 違った接近が、ないですか。 それはあると、 私は思います。 なぜなら、私はそれについて、 学校で、少し話してきたからです - 私が行く 様々な学校で、です。
27:44 A: 私も、それは あると、思いますが、 おそらく、私たちが ぐるりと見つめるなら、 きわめて困難なのは、 円満にまとめることです - 一方では、 教育の活動を、です。 それはそれ自体に、目的を持って います。 それ自体の外側に、ではない。 が、訓練はいつも、それ自体の 外側に、目的を持っています。 で、例えば、運動選手。 彼は 走るために、実践します。 単純に、走っているためではなく、 自分の走りを、改善するために、です。
28:26 K: そして、より速く走る誰かとの 比較における改善、です。
28:30 A: いえ、記録だけです。 K: 記録だけ。同じことです。
28:32 A: が、あの人物との 比較において、ではない。
28:34 K: ええ、記録と、です。 A: 記録と、です。ええ。
28:36 K: 別の人物は、忘れられて しまいます。 A: そのとおり。
28:37 A: それは、私は、今やって いるのより、良くやるために、
28:38 骨を折らなければならないとの 観念に、関わりがあります。
28:42 どうぞ、進んでください。 K: すなわち、
28:54 私は、自分がしていることを、 愛しています。 私の全人生で、私は本当に、自分が していることを、愛してきました。
29:03 A: ああ、私は それを信じます。
29:04 K: 私は、他の何をも しないでしょう。 私は、お金のためにも、できない でしょう。 何のためにも、です。 これは、私にとって、 呼吸です。 私は、それに優秀でありたい とは思いません。 私は、記録を 破りたいとは思いません - ブッダ、イエスやX、Y、Zが 樹立したものを、です。 私は、何者かになりたくありません - 人気者か、不人気者に、です。 それは本当に、私には 興味が、ありません。 なぜなら、私は本当に、自分が していることを、愛しているからです。 私がしていることの愛は、 他のあらゆる物事を、排除します。 その愛こそが、 最高の形の優秀さです。
29:51 A: はい。私は 思いつくのです - すなわち、あなたが愛しているのを 見るのは、愛おしいものである、と。 はい、はい、 私は理解します。
30:01 K: そして、教育者が この感じを、伝えられるなら - 三百人の学生へ、ではなく、何かを できると彼が感じる十人へ、です。 彼らは、競争することなく、 優秀になるでしょう - 「私は記録を破らなければならない」 と言うことなしに、です。 愛は、自分を、ものすごく 効果的にします。 A: 私は、思うのですが、
30:29 成績評価を受けるのを 好きでない学生たち、ですが、 彼らが成績評価に対して行う 大変多くの異論は、 おもに、この個人的比較の 概念に、基づいています - 彼ら自身と他の一人との 間での、です。 さて、成績評価には、 他の異論も、あります - 私には、本当に何も根拠 なしと、思われるものです。 が、ここには、 心理的な点が、あります。 成績評価が、大型ハンマーと して使われるなら、 もちろんそのとき、 それは、 すっかり機能不全と 破壊的になります。 それでも、私は、 成績評価そのものが、 役に立たないとまでは、 言わないでしょう。 もし教師が、彼らに 適切に関係づけるなら、 彼は、学生に 何かを語っています - 与えられた課題に関する、学生 自身の実演について、です。
31:29 K: はい、私はそれを理解しますが、 あなたは教師として、 本当の意味で、五人の学生か 十人の学生を、持ちました。 あなたは、それら十人の 一人を、助けるでしょう。 彼がしていることを 愛するように、です。 それが、何であっても、庭仕事で あっても、何であっても、です。 そこには、成績評価が ありません。 私は、学べば学ぶほど、 愛するでしょう。 私は、こう言いません - 「まあ、あなたは、自分の心に 私について成績評価を 持つにちがいない」と。 あなたは、私を 見守ります。 あなたは、「まあ、あれは 何か正しくない。 これは正しい。 それについて話そう」と 言います。 よろしいですか。 あの関係が、あります - その中で、 私をあなたの理想へ順応させる 感覚すべてが、消え去るのです。 ゆえに、本当の慈しみの 関係が、あります。 そして、それは十分です。それは、 日の光と花に、似ています。
32:36 A: 或る人物が実に、花々を愛せる だろうことは、実情でないですか - 鑑賞者として、自分の庭を愛せ、 庭仕事を愛せることは、ですが、 栽培者としては、才能に 恵まれていないかもしれません。
32:50 K: そのとき私は、研究します。 そのとき私は、見出すでしょう。 あなたは、草花を育てる腕を、 持っていないかもしれませんが、 あなたは、「まあ、 私は見出そう」と言います。
33:06 A: 彼は振り向くし、彼は、 この花を植えた後、こう言います - 「ふむ、私はどうやっているのか」と。 彼は本気で、あなたに訊ねます - 自分がこの花を 植えてきたさまで、 自分がよくやってきたのか、 よくなかったのかを、です。
33:22 K: ゆえに、あなたが彼に、 彼がどうしたのかを、語るさま - それが、重要です。 より良い 成績評価や、これやあれではない。 私がしてきたことが、さほど 正しくないことを、 あなたが私に 伝えるさまが、です。 または、それは全く正しい。 それは すばらしくされていることを、です。 あなたの眼差しこそが、 充分です。 それは、あなたが、とてつもなく敏感 でなくてはいけない、という意味です。
33:50 A: はい、はい。それがいかに 真実すぎるかを、私は知っています。 なぜなら、しばしば、 こういう感じが、するからです - あまり才能に恵まれていない かもしれない学生が、 にもかかわらず、能力を 持っている。 すなわち、まだ届かれ、作動 させられるべきままのものを、です。
34:19 K: はい。ですが、あなたは 困難が、見えますか。 すべての宗教は、この比較に 基づいています - 最終的に、神の御足に到るか、 神の隣に座るのです。 司祭者的な、位階制度的な 方法すべてが、あります - 司祭、司教、 大司教、枢機卿。 この上下の位階制度的な感覚 全体が、競争的な意味です。 そして、宗教、ビジネス、家族 - 構造全体が、それに基づいています。 あなたは、子どもを、それに 填まり込むよう、育て上げます。 ところが、あなたがこう言うなら - 「ほら、あなたは、私の子どもだ。 私は、あなたの世話を、しよう。 私は、あなたが、地上で 最もすばらしい人間であるよう、 見計らおうとしている」と - 全的に、です。 テクノロジー的にだけ ではなく、心理的に、霊的に、です。 そうね、そしてあなたは、全く 異なった実体を、産出します。
35:35 A: おそらく、位階制度のこの概念は、 ひどく誤用されてきたと、お考えですか - なぜなら、私たちは、上下の 位階制度は、機能的というより、 むしろ静止的であると、 信じがちであるから、と。
35:51 K: 機能的ね、ええ。それは機能的ですが、 そこに地位を、持ち込まないでください。
35:57 A: 親は - 自分の学生たちの家族を 愛するこの教師は、やはり親です。 その意味で、機能的な上下の 位階制度は、存続します。 それは、自然でしょうか。
36:16 K: はい。ですが、結局のところ、 あなたは、一流の技師である かもしれないし、 私は、料理人であるかもしれないが、 何が起きるかを、見てください。 あなたは、トップの技師です。 私は、トップの料理人です。
36:31 A: はい、はい。まあ、それが、 私が言った機能的だという意味です。
36:33 K: そこに地位を導入しないでください。 A: ええ、すっかり分かります。 あなたは、キャデラックで、 私は、ジープ!
36:44 A: ええ、ええ。すっかり 付いていっています。
36:45 K: で、それは本当に、全く違った ことを、持ち出します。すなわち、 心理的に、そもそも 前進が、ありますか、 なぜなら、それが、この裏に あるものであるからです - それが、心理的、内的に、です。 あなたは、成長するだろう。 ますます良く、 ますます良く、と。 それは、自己改善です。 そのすべてが、そこに 含意されています。 結局のところ、それが、いわゆる 宗教的な位階制度の基礎なのです。 あなたは次第に、神へ近く、 近くなりつつあります。 バラモン的な体系全体は、 それに基づいています。 一番下に生まれた者は、次第に進化し、 ついに、バラモンになるでしょう。 それから彼は、次第に 進んでいくでしょう。 次第に進化する、恒常的な 実体といったものが、 あなたの中に、 あるのかどうか、です。 または、このこと全部が、 全然間違っているのか。
38:11 A: 私たちの文化において、その概念を 伝えることは、とても困難なことです - すなわち、本質的な前進といった ものは、ない、ということを、です。
38:19 K: それは自分自身に、見られます。 それは、存在していません!
38:26 A: ああ、全く そう思いますが・・・ K: ああ、人々が言うこと - それは、不適当ですが、 例えば、悲しみが あるなら、 それは、次第に拭い去れる ことに、なりますか。 または、それは、即座に 拭い去れることに、なりますか。
38:44 A: 理解できます。 もしも私が、冥想について、お訊き しても、構わないでしょうか。 あなたが、この悲しみの問いを 戻してこられたからです。 冥想は、特に過去十年、かなり 著しく報道されてきました。 私たちが知っている ように、です。
39:07 K: はい、ほとんど東洋から 伝えられてきました。
39:09 A: ええ、私は、関心を持っていて、 知りたいです - 例えば、 もしも学生が、私にこう言ったなら、私は 学生へ、どう返事していいかを、です - 「まあ、クリシュナムルティさんが、 冥想という言葉を使うとき、 彼がいうのは、 どういう意味ですか。 私は、何を すべき・・・」と。
39:27 K: お話ししましょう。それは 相当に単純であると、思います。 一般的に理解されているように、 冥想は、生からの逃避です。 彼らは、これを否定するでしょう。 A: ああ、はい、強力に。
39:43 K: 強力に。しかし、 事実は、回避、逃避です。
39:44 生を乗り切ることです - 生の悲惨を、です。 下から働くのではなく、 何かを賦課することです。 冥想にはまた、あなたは神を 探し求めなければならないことも、 含意されています。 あなたは、超越的 状態を、経験しなければならない。 あなたは、様々な実践を とおして得なければならない、と。 それらのことを、 ご存じですね。
40:16 A: 何かあなたが向かって 前進するもの、です。
40:19 K: 前進する。 それが、一つのことです。
40:22 A: ええ、それが、 普通の概念です。
40:23 K: もちろん、そうです。 それは、こうも全く偽りです。 あなたは、私の導師になります。 彼は、こう言います - 「まあ、私は、超越的な 経験を、してきた」と。 それが何を意味 していようと、です。 そしてあなたは、 体系を形成します。 そして、あなたの顎髭と あなたの評判と、 あたりのサーカス、 へり飾り、それらのせいで、 私は、「彼は正しい」と 言います。 私は、従います。 私は、これらに何が含意されて いるかを、理解しません - それが、個人的な 経験であるのかどうかを、です。 それが、あなたの 個人的な経験であるなら、 私は、あなたの個人的な体験を、 ほしくありません。 それは、私にとって 何の意味も、ありません。 なぜなら、あなたは、あなた自身を 欺瞞しているかもしれないからです。 明白にあなたは、そうです - 神が あなたの個人的な経験であるとき、です。
41:13 A: それは本当に、びっくりすること です - この頃、何と多くの学生が、 外的なものが、あると、 思い込んでいるのかは、です。 すなわち、この目的を達成するために、 自分がしはじめられる何かが、です。 私は、そうね、授業に来る 或る学生を、持っていました。 彼は、小さな鈴を、身に付けて いました。 小さなチベットの鈴です。 もちろん、その愉快なものは、授業で 彼が動くたびに、揺れたのでした。 それは、他の二、三人の 学生を、悩ませました。 私は、二、三日、 待ちました。 私は、たぶんそれの珍しさは、 すり減るだろうと、思いました。 或る日、私は、彼へ 歩いて行って、 彼の肩に、自分の腕を回して、 こう言いました - 「そうね、鈴が、君を身に付けている、 ってことかもしれないよ」と。 41:59 彼は、その後、もはや それを付けませんでした。 彼は、その点を掴む 能力は、ありましたね。 彼は、幸運にも、立腹 していませんでした。 が、あれは、とても 励みになります。 彼はそれを、即時に 掴みました。 私たちはたぶん、彼は見たし、あの瞬間に 鈴は去ったと、言えるかもしれません。 次第に鈴をあきらめることは、ありません でした。  

K: それだけです。 A: 三日、鈴を付けていて、それから 二日、それから一日と、ではない。 はい、理解できます。
42:35 K: そのとき、冥想とは何ですか。 A: はい。それそのものは、何ですか。
42:37 K: で、それが、 私が感じることです。
42:39 自らは、すべての格言、 すべての裁可、 人間精神が考案してきた物事 すべてを、否定しなくてはいけません - 神について、冥想について、 実在への手段としてのを、です。 そのすべてを 否定する。 なぜなら、それはただ、 人間の考案物であるからです。 そして、すべての儀式、 すべての式典、 すべての装置 - 教会の中で 進んでいくものを、ですが、 それはすべて、人間精神により 組み立てられています。 ゆえに、なぜ私は、人間精神が 組み立ててきたものを、 受け入れるべきですか。 私が欺瞞されているように、 彼らは、欺瞞されています。 ゆえに、冥想は、 精神より、 あらゆる形の欺瞞を、 浄化することです。
43:41 A: そのとき、あの点で、こう 言うことが、正確でしょうね - たとえ、それが部分的な 発言だけであるとしても、 それは、臨床的な 活動である、と。
43:48 K: 非分析的、という意味で、 臨床的です。
43:53 A: ええ。 K: なぜなら、 あなたが、あの少年、学生に、
43:54 「鈴があなたを身に 付けている」と語ったとき、 あれは、臨床的ではありません。 彼はそれを、即座に見ました。 ところが、 私たちの精神は、 それへの臨床的、分析的な 向かい方に、慣れています。 で、冥想は、 この即座の知覚です。 それは、身体の大いなる 敏感さを、必要とします。
44:29 A: はい、そうです。
44:30 K: つまり、アルコール、 肉、飲酒、 そうね、それらのものは、 脇に置かれなくてはいけません。 そしてあなたは、きわめて 明らかな精神、敏感な精神を、 持たなくてはいけません。 鈴について言うと、 少年は、即座にそれを見たし、 ゆえに、それを止めました。 で、冥想は、その言葉の 本当の、深い意味において、 非臨床的、 非分析的であり、 私自身において、物事を、 ありのままに見ることです。 私が何であるかを、です。 自己を知ることです。 そして、自己が 創り出す葛藤 - それの真理を、見て、 それを終わらせる。 そのすべてが、 冥想の一部です。 また、本当に静かな精神を 持つことも、です。 静かな精神を 養成するのではない。 なぜなら、あなたが物事を 明らかに見るのは、 精神が静かであるとき だけであるからです。 私の精神が、おしゃべり しているなら、 私は、絨毯が、さほど 明らかに見えません。
45:51 A: はい。あなたは、こう 提案なさると思われます。 私たちが隠喩的に、言及する かもしれないもの 、 岸を完璧に反映する、 平穏な湖として、ですが。
46:04 K: はい。が、ここに 反映は、ありません。
46:10 A: ええ、ええ。それが、類似が 崩れてしまうところです。 私は確かに、湖を、全体的に 受容的な意味で、言ったのでした。
46:20 K: お待ちください。この「受容的」と いう言葉においても、気をつけましょう。 受容すべき何が、 ありますか。 誰が、 受容していますか。
46:31 A: 「有るもの」が、 あります。
46:33 K: で、精神は、 本当の秩序を確立した後で - その本当の秩序は、 それが、自体において 無秩序を究明してきたとき、 確立されうるだけです。 その無秩序の究明と理解が、 秩序を、もたらします。 賦課された秩序ではない。
46:59 A: それが、 奇跡です。ええ。
47:01 K: そのとき、それが確立 されます。そのとき、精神は、 それの過程において、精神は、きわめて 静かになり、すっかり止まります。 そのとき、反映すべき 何が、ありますか。 または、その全くの静けさこそが、 自らの運動を、持っています。 自らのエネルギー、 自らの活動を、です。 それらは、言葉に 表されません。 精神が、静かであるとき、それは、 死んだ精神ではありません。 A: ええ。  

K: それは、植物の ような精神ではありません。 それは、きわめて、 きわめて鋭敏な、 きわめて活動的で、 きわめて生きた精神です。 そして、大いに智恵が あり、敏感です。 さて、そこに 起きることは、 - あの静けさの状態において、 です - 全然違った次元の運動です。 そういうわけで、自らは、最高に気を つけていなくてはいけないのです - 自己を欺瞞しないように、始まりから、 です。よろしいですか。 A: はい、はい。
48:20 K: そして、意志の機能全体が、 終わりになったのです。
48:21 A: はい。それは、私たちの 文化にあると、思います -
48:30 私たちが、静かな心を持つという ことが、意味することが、です。 なぜなら、私たちは、心と意志を 提携させがちであるからです。
48:39 K: ああ、いえ、いえ。 A: 私のは、 そういう意味ではありません。
48:41 私たちはまた、心と花ということに 立って、心についても話します。 K: もちろんです。 A: が、心の 根本的な意味は、能力の台座です。
48:51 K: そうね、あなたが本当に、 この冥想の問いに、入るとき、 冥想しようとする、どの意識的な 努力も、冥想ではありません。
49:07 A: 冥想しようとする 意識的な努力。
49:12 K: そうね、実践です。
49:13 A: 「今、6時だ。 私は冥想しようと思う」。 はい、仰る意味を 理解します。 自分はいつも、そうでなくては いけません・ ・・ K: なぜなら、あなたはそうして いるからです。あなたは見守っている、
49:26 あなたは聞いている、あなたは見つめて いる、あなたは見えているからです - 自分が感じていることを、 です。 よろしいですか。 この運動が、いつの時も、進み つつあります - 動きが、です。
49:39 A: そういうわけで、私たちの 伝統において、私たちは 至福について語るのだと、 私は思います - それが正確に理解されるとき、状態と して、ではなく、活動として、です。 さて、ほとんどの人々は、それを状態と 考えることを、私は知っています。 が、厳密に言って、それは、 私たちの文化において、 その教えが何であるかではなく、 その至福は、活動です。
50:03 K: はい。そうね、それは 問いを、持ち込みます。 実在が、あるのか どうか - 精神により掴まれない ものが、です。 精神の関係とは、 何ですか - 精神(マインド)とは、心 (ハート)を別として、知能です - それは、実在に何か 関係を、持っていますか。 または、精神と心と全存在が、 一つであり、調和的であるとき、 そのとき、関係が あるのです。 しかし、知能との関係があるのか どうかを、見つけようとすることは - 分析とそれら、という 意味での知能、ですが - それは、全体と何の 関係をも、持っていません。 51:15 それは、身体、心、精神の全的な 調和が、あるときだけです。 そのとき、あの状態において、 真理との関係が、あります。 で、真理を忘れましょう。 神、 このすべてを忘れ、脇に置いて、 自らが調和的な生活を、確立 できるのかどうかを、見ましょう。 そのとき、その中から、出てきます。 それが、冥想の一部です。 その中から、最もとてつもない ことが、出てきます。
51:55 A: 意志の誤用は、そのとき この能力を、毀損するでしょう。 はい、はい。 すっかり 付いていっています。 何か真に進んでいくものと しての冥想の観念は、 私たちがもっと大いに 強調すべき何かです。
52:19 K: が、そうですね、 私は、こう言うでしょう - あなたが正しいことを 知らないなら、冥想するな、と。
52:28 A: そのとおり。
52:30 K: なぜなら、これらすべての 方々が、東洋から渡ってきて、 彼らに冥想を教えるからです - 冥想の 学校、センターとその他すべて、です。
52:41 A: あなたは、貨車を もう一両、繋いだんです。
52:49 はい、もう一つの 追加です。はい、はい。 K: そういうわけで、自己を知ることが 冥想より、はるかに重要であるのです。 もし、あなた自身を 理解する中で - 分析をとおして、臨床的に、 ではなく、あなた自身を理解する。 あなたを、まさしく ありのままに見る。 ゆえに、あなたなるものへ 全的な注意を、注ぐ 見出す。 よろしいですか。
53:13 A: はい。それが、浄化の 効果を起こすのです。 それが、前に私が「臨床的」と いう言葉で、意味したことです。 技巧として 臨床的、ではない。 その効果において、 それは、臨床的です - 浄化が発生したという意味で、 です。そして今、物事は・・・
53:30 K: 結局のところ、英知は、自己を知る ことです。書物に、英知はありません。 自己を全的に理解する ことが、英知です。 それなしで冥想は、絶対的に意味が ない。それは、子どもっぽい。
53:52 A: 私たちは、この点で戻って、 愛を、私たちが言ってきたことに、 関係づけようとしていいか、 とお考えですか。 前に、私は、こう述べたのを、 憶えているようです - すなわち、 「リグ・ ヴェーダ」には、友だちの 中に現れる言葉の女神が、ある、と。 私たちは、哲学 (フィロソフィー)について、 語源学に関するところ、 英知の愛として、語ります。 けれども、おそらく、より深い 意味において、それは、 自分が愛しているし、 愛する人たちの中にいるの以外、 自分はそれをできない、と いうことなのかもしれません。
54:31 K: いえ、結局のところ、 何かの愛は、愛ではありません。
54:40 A: まあ、愛することは、 進んでいきます。
54:41 K: 愛 - それは、「私は神を愛している。 私は真理を愛している」ではない。 あなたが、「私は真理を愛している」 と言うとき、あなたは愛していません。 しかし、私たちにおいて、愛は 大いに、楽しみに関与しています。 私たちは、「楽しみなしでは、 愛とは何か」と言います。
55:11 A: 私は、もっと楽しみを得るために、 愛に填まらなくてはならない、と。
55:14 K: 1ダースものことです。 A: ええ、ええ。理解できます。
55:17 K: お分かりですね - そういうわけで、
55:20 愛、楽しみ、苦しみ、 死のこの問い全体が・・・ 私たちは、そうねえ、 それらへ目を瞑るんです。 私たちは敢えて、死について、探究 しません - 死があるのかどうかを、です。
55:45 A: ええ。私たちは、亡骸に 死に化粧を、施します。
55:48 それが生きているように 見えるように、です。 K: それは、おぞましい観念です。 A: そうです。グロテスクです。
55:52 K: これは本当に、この、 死、愛、生きることの問いへ
55:55 入ることを、 必要とします。 そうね、大変多くの智恵、愛、 慈しみ、見ることを、必要とします。
56:17 A: 私はたまたま、とても美しい 物語を、思い出します - スーフィーが、イエスに ついて語ると、思うんですが、 彼は、幾人かの人物と 歩いていて、 犬の死骸に、 出くわしましたが、 すでに壊死が、始まっていて、 腐敗しています。 それで、悪臭の衝撃により、 彼らは、通りを歩いて渡ります。 イエスは、そうしませんでした。 彼は、立ち止まって、見ました。 本当に、犬を 見つめました。 彼が、彼らに追いついた とき、彼らは、 どうして彼が、それに耐えられた のかを、知りたがりました。 彼は、自分は、歯がいかに美しいのかを 見つめていたと、言いました。 あの物語はいつも、私にとって 大変多くを、意味してきました。 なぜなら、それは、表示すると思われた からです - 強烈さをもって見ると・・・
57:18 K: それが、私たちが始まりに、 言っていたことです。 その中に分割がない、 この注意の性質、です。 お分かりですか、 それは、起きるのです - 科学者が何かを 検討しているとき、です。 彼は顕微鏡をとおして、検討しています。 彼は完全に・・・よろしいですか。 「私」、教授としての 分割が、ありません。 「私」、顕微鏡をとおして見ている 偉大なノーベル賞受賞者が、です。 彼は、見ています。 私は思うのですが、 あの見る性質が、 もしそれが、学生に 伝えられるなら - すなわち、 彼がクラスへ入る前に、 世界全体を見ることを、です。 そうね、 あらゆるところを、見る。 樹々、鳥たち、醜さ。 そうね、 あらゆる物事を、見つめる。 そのとき、あなたが 部屋に入るとき、 あなたは、見てきたし、あなたは その見るのを、続けてゆきます。
58:22 A: ええ。これは、私が初めて化学を 取ったときを、思い起こさせます。 いかに私が教室で、分子と原子などに ついて、すっかり聞いていたのか、です。 そして、外側には、とても 美しい樹が、ありました。 私は、思い巡らすでしょう - この樹を見つめていて、ですが、 私を大いに かき乱したものは、 どうやら私たちが、分子とその樹を、 まとめていないことでした。
58:49 K: ええ。私は、樹を 完全に見つめるでしょうね! A: ええ。  

K: あの樹へ、 あなたの注意全体を、注ぐ。 K: それから、分子を見つめる。 A: そのとおり。 それで、樹と分子との間に、 何も分割が、ありません。 あなたは、樹へ、 注意を注いできたのです。 そしてあなたは、分子へ、 注意全体を、注いできたのです。 A: ええ。  

K: よろしいですか。 そのとき、何も葛藤がありません。 何も分割が、ありません。 世界にこうも荒廃を 創り出すのは、 内的にも、外的にも、 この分割です。
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