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SD74CA10 - 聞くことの芸術
アラン・W.アンダーソンとの会話、第10回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月22日



0:38 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:43 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:49 A: クリシュナムルティさん、前回、一緒に話していたとき、 私たちは、美しさに、入ろうとしていました。 ちょうど、私たちの会話の終わりに来たとき、 見ることと、 その、人の変容への関係との問いは - すなわち、知識や時に依存していない変容ですが - それは、何か私たちが次回、会えるだろうとき、 取り上げようと、約束したことでした。
2:23 K: 見るとは、何ですか。 聞くとは、何ですか。 そして、学ぶとは、何ですか。 その三つは、互いに関係し合っていると、私は思います - 学ぶこと、聞こえることと、見ること。 見えるとは、知覚するとは、何ですか。 私たちは、実際に見ますか。 または、私たちは、スクリーンをとおして、おぼろげに見ますか。 先入観のスクリーン、 私たちの体質、経験、 私たちの願い、楽しみ、恐れのスクリーンと、 明白に、私たちが見るものについて、と私たち自身についての イメージのそれを、とおして、です。 で、私たちは、これらの、スクリーンに次ぐスクリーンを、 自分と、知覚の対象との間に、持っています。 で、私たちは、そもそも、そのものを、見ますか。 または、見ることは、私たちの知識により、染まっていますか - 植物学的なのや、経験などなどなどや、 私たちがそのものについて持っているイメージによって、です。 または、信念は - そこに精神が条件づけられています - ゆえに、それが、見ることを、阻止しますか。 または、記憶は - それは精神により養成されてきました - それが、見ることを阻止しますか。 で、見ることは、まったく起きないのかもしれません。 精神が、これらのイメージ、結論、信念、 記憶、先入観、恐れを持たないこと、そして、 それらのスクリーンをもたずに、ただ見ることは、可能ですか これが、きわめて重要になると、私は思います。なぜなら、 見ることが、あるとき - 私が話している、そのものへ、ですが - 見ることが、あるとき、行為せざるを得ないからです。 先送りの問いは、ありえません。
5:20 A: または、継承は。 

K: 継承は。

A: または、間隔は。
5:24 K: なぜなら、行為が、 信念、結論、観念に、基づいているとき、 その行為は、時に束縛するからです。 その行為は、必然的に葛藤などを、もたらすでしょう - 後悔、そうね、その他すべてを、です。 で、見出すことが、とても重要になるのです - 見るとは、知覚するとは、何なのか、 聞こえるとは、何なのかを、です。 私はいったい、聞こえますか。 自分が結婚しているとき、妻や夫として、 または、彼女や彼氏として、私はいったい彼女や彼から、聞こえますか。 または、私は、自分が彼女や彼について築いてきたイメージをとおして、 彼女や彼から、聞こえますか。 苛立ちのスクリーン、 困惑、支配、そうね、それらのスクリーンをとおして、です - 関係に入って来る、怖ろしい物事です。 で、私はいったい、あなたが言うことが、直接的に聞こえますか - それを翻訳せず、変容させず、 それを歪めずに、です。 私はいったい、鳥の鳴き声や、子どもの泣き声が、聞こえますか。 または、人が痛みで泣いているのが、です。 よろしいですか。私はいったい、何かが聞こえますか。
7:08 A: 一年ほど前に私たちが行った会話の中で、 私は、あなたが仰ったことに、強く打たれました - 私はそれを、個人的に 自分自身にとって、無量の価値があると、見做しています。 あなたは、聞こえるのは、見るのを止めたり、それに介入したりするために 何もしないことであると、仰りました。 聞こえるのは、見るのを止めるために、何もしないことである。 それは、きわめて著しいです。 なぜなら、 会話の中で、聞こえることの概念は、 指図と親密に提携していると、見做されるからです。 私たちは、「さあ、話を聞きなさい。 しっかり聞きなさい」と言うでしょうね。 そして、当人は、身を乗り出さなくてはいけないと考えます - 自発的に何かをする、という意味で、です。
8:15 K: 全くです。全くです。
8:16 A: それはまるで、彼らがここで、自分を奮い起こして、 或る種の苦悶へ、ねじ込まなくてはいけないかのようです - 彼らは聞いていないと主張している人を、 喜ばせるためだけではなく、 自分自身で何か聞くことを、起こすために、です。
8:30 K: 全くです。

A: ええ、ええ。 で、人間は、私やあなた、Xはそもそも、聞きますか。 そして、私が聞くとき、何が起きますか。 何の介入もなく、何の解釈、結論、 好き嫌いもなく、聞く、という意味で、です。 - 起きることすべてを、ご存じですね。 私が実際に聞くとき、何が起きますか。 ご覧ください。私たちは、ちょうど今、言いました - 私たちは、苦しみ、熱情を理解しないなら、 美しさとは何かを、とうてい理解できない、と。 あなたは、あの発言が聞こえます。 精神は、何をしますか。 それは、結論を引き出します。 それは、観念を形成したのです - 言語的な観念、言葉です。 言葉が聞こえる。 結論を引き出す。 そして、観念です。 その種の発言は、観念になったのです。 そのとき、「私はどうやって、その観念を 実行すべきなのか」と、言います。 それは、問題になります。
10:07 A: ええ、もちろん、なります。 なぜなら、観念は、自然へ順応しないし、 他の人々は、他の観念を持っているし、 彼らは、自分のを、具体化したいと思うからです。 そこで、私たちは、ぶつかっています。

K: ええ。で、私は、それを聞けますか。 精神は、その発言を聞けますか - 何も抽象概念を形成せずに、です。ただ聞く。 私は、同意も不同意も、しません。ただ実際に、聞く - 完全に、あの発言を、です。
10:49 A: お話に付いていっているなら、仰っていることは、こうです - もしも私が、適切に聞くことに、なったとしたなら または、ただ、そうね、聞くとして、 - それは、多い、少ないの問題ではないからです - 私は、絶対的に聞いているのか、絶対的に聞いていないのか、です。
11:13 K: そのとおりです。

A: ええ。 私は、答えを案出しなくていいでしょう。
11:22 K: ええ。あなたは、そこにいるんです!
11:26 A: ええ。 で、猫のように、行為と見ることは、一つです。
11:35 K: ええ。
11:36 A: それらは、一つの行為です。

K: そのとおりです。 で、私は、発言を聞いて、 その発言の真理を、または、 その発言の虚偽を、見られますか - 比較において、ではなく、 あなたがしている発言こそにおいて、です。 話が明らかになっているのかどうか、私は知りません。
12:14 A: ええ。お話は、きわめて明らかになっています。
12:17 K: すなわち、私は、発言を聞きます - 熱情なしには、美しさは、けっして存在できない。 そして、熱情は、悲しみから来る、と。 私は、その発言を聞きます。 私は、そこから観念を、抽出しません。 または、そこから観念を作りません。 私はただ、聞きます。 何が起きますか。 あなたは、真理を語っているかもしれないし、 虚偽の発言をしているかもしれません。 私は知りません。 なぜなら、私は、比較しようとしていません。 

A: ええ。 あなたは、見ようとしています。

K: 私は、ただ聞きます。 それは、私は全的な注意を注いでいる、という意味です。 ただ、これを聞いてください。 お分かりになるでしょう。 あなたが言っていることへ、私は、全的な注意を、払います。 そのとき、あなたが言うことや言わないことは、大事ではありません。 このことが、分かりますか。

A: もちろんです。もちろんです。
13:28 K: 重要なのは、私の聞く行為です! その聞く行為は、奇跡をもたらしたのです - あなたの発言すべてからの完全な自由という奇跡を、です。 (発言が)真実でも、虚偽でも、実在でも、 私の精神は、完全に注意深い。 注意は、境界がない、という意味です。 私は、境界を持った瞬間、あなたと戦いはじめます - 同意、不同意をします。 注意が、辺境を持った瞬間、 概念が、生じます。 が、私はあなたに、完全に聞くなら - 唯一つの思考や観念化や精神作用の介入もなく、 ただ、それを聞くなら、 奇跡が、起きたのです。 すなわち、 私の全的な注意は、私を、私の精神を、 すべての発言より、解放します。 ゆえに、私の精神は、とてつもなく自由で、行為できます。
14:58 A: これは、私に起きてきました - この一連の、私たちの会話において、です。 これら会話の一つ一つにおいて、 これは、撮影されつつありますから、 合図をもらったとき、始めます。 そして、時間が経過したとき、私たちは、言われます。 ふつう、この種の活動ということに立って、 番組製作そのものについて、考えています。

K: もちろんです。
15:42 A: が、私が学んできたことの一つは、ですね、 私たちの会話において、 私は、きわめて強烈に聞いてきました。 けれども、私は、自分の精神を、分割しなくてよかった。
16:02 K: ええ、それは・・・

A: けれども、これは、ですね、 あなたが教えてこられたことへ、 私が正確に応答しているなら- まあ、あなたが、 まあ、その(教えるという)言葉が、お好きでないのは、存じています - あなたが仰ってきたことへ、です。 私は、なぜここで「教える」が、間違った言葉であったかを、理解します。 あのまさに最初の遭遇が、あります - 精神が、従事するところのものが、です。 

K: ええ。
16:38 A: 私はどうすれば、 区別しない余裕が、できますか - 番組の局面へ、その製作の局面で、 注意を払うことと、 それでも、私たちの議論に従事することとの間で、です。
16:56 K: 全くです。
16:58 A: ですが、強烈に・・・
17:01 K: それは、できますよ!

A: ・・・議論に従事しているほど、 メカニズムすべては、より効果的に、達成されます。 私たちは、それを信じません。 始めるにも、私たちは、それを信じないだけではなく、 私たちは、それを試してみようともしない、という意味で、です。 予め、誰からの保証も、ありません。 むしろ私たちが言われることは、こうです - 「まあ、君はそれに慣れるよ」と。 けれども、役者は、生涯ずっと、舞台で上がってしまいます。 で、明らかに、彼らは、それに慣れません。
17:38 K: ええ - こうお考えになりませんか - それは、私たちの精神が、こうも商業的であるからです。 それから褒賞を、得るのでなければ、私は、何一つ、しようとしないのです。 私の精神は、市場に生きます- 自分の精神は、です。 私は、あなたにこれを上げよう。 私に、これをくれ、と。
18:03 A: 間には、間隔が、ある。
18:06 K: お分かりですか。

A: いいです。
18:08 K: 私たちは、商業主義にこうも慣れきっています - 霊的にも、物理的にも、です。 それで、私たちは、褒賞なしには、何もしないのです - 何かを得ることなしに、 目的なしには、です。 それはすべて、交換でなければなりません。贈り物ではなく、交換です - 私はあなたに、これをやる。 あなたは私に、これをくれる、と。 私は宗教的に、苦行をします。そして、神は、私に来なければならない、と。 それはすべて・・・商業の事柄です。
18:58 A: 原理主義者たちは、或る言い回しを、持っていて、 それが心に浮かんできます - 自分たちの信仰生活に関して、です。 彼らは、こう言います - 「私は神の約束を、主張している」と。 あなたが仰っていることの脈絡において、この言い回しは・・・ 何ともまあ、あれは、精神の中で、何へ、つながらないんでしょうか。
19:22 K: 知っています。 で、そうね、きわめて深くこれに入るとき、 行為が、観念、定式、信念に基づいていないとき、 そのとき、見ることは、することです。 そのとき、見ることと、聞こえることは何ですか - 私たちはそれらに入りました。 そのとき、見ることは、完全な注意です。 そして、することは、その注意の中に、あります。 困難は - 人々は、訊ねるでしょう - 「どうやって、その注意を維持するのでしょうか」と。
20:05 A: ええ。そして、彼らは、出発すらしていないんです。
20:08 K: ええ、いえ。どうやって、それを維持するのでしょうか。 それは、彼らが褒賞を探している、という意味です。
20:13 A: そのとおり。
20:15 K: 私はそれを実践しよう。 私は何でもしよう - あの注意を維持するために、 見返りに何かを得るために、と。 注意は、結果ではありません。 注意は、原因を持ちません。 原因を持つものは、結果を持ちます。 そして、結果は原因になります。 それは、循環です。が、注意は、それではありません。 注意は、あなたに褒賞を与えません。 注意は、反対に、褒賞や処罰が、ありません。 なぜなら、それは、辺境を持っていないからです。
21:00 A: ええ。これは、私たちが行った前の会話を、呼び起こします。 そのときあなたは、「美徳」という言葉に、触れられて、私たちはそれを 権力への関係で、探検しました。

K: ええ、そのとおり。そのとおり。
21:09 A: 私たちは、言われます - 子どもの育てられ方を、鑑みると、 考える子どもにとって、信ずるのが、困難なことですが、 その子はどうにか、それを通り抜けていくことを、必要とされます - すなわち、美徳は、それ自体の褒賞です。 

K: ああ、全くです。
21:28 A: もちろん、それについて、何が真っ当なのかを、 見ることは、不可能です・・・

K: ええ、全くです。

A: ・・・その子が生きる、条件づけられた状況のもとでは、です。
21:39 K: それは、観念だけです。

A: それは、観念です。
21:41 で、今、私たちは、それを詰めなおします。それから後で、
21:44 何か自分たちがやった良いことのために、 多すぎる褒賞を求めているのを、 誰かに、思い起こさせなくてはならないとき、 私たちは彼らに、こう語ります- 「あなたは、美徳は それ自体の褒賞であることを、忘れたんですか」と。 ええ、ええ。 それは、一つの形の処罰になります。
22:02 K: で、そのとき、そうね、見ることと聞こえること。 そのとき、学ぶことは、何ですか。 なぜなら、それらは、すべて相互に関係し合っているからです - 学ぶこと、見ること、聞こえることと、 行為、それら。それはすべて、一つの動きの中に、ある。 それらは、分離した各章ではない。 それは、一つの章です。
22:27 A: 区別は、けっして分割ではない。

K: ええ。 で、学びとは、何ですか。 学びは、蓄積の過程ですか。 学びは、非蓄積的ですか。 私たちは、両者をまとめつつあります。 それを見つめましょう。

A: ええ、それを見つめましょう。
22:59 K: 自らは、言語を学びます - イタリア語、フランス語、何でも、です。 そして、単語を蓄積します。 不規則動詞などを、です。 そのとき、話すことができます。 言語を学ぶことと、話せることが、あります。 どう自転車に乗るかを、学ぶ。 どう車を運転するかを、学ぶ。 どう機械を組み立てるか、 電子工学などなどを、学ぶ。 それらは、すべて学びです - 行為の中で、知識を取得することです。 そして、私は訊ねています - 他の形の学びが、ありますか。 それを、私たちは知っています - 私たちは、知識の取得に、親しんでいます。 さて、他の種類の学びが、ありますか - 蓄積して、行為するのではない、学びです。 付いてこられるのかどうか・・・
24:04 A: ええ、私たちは、それらを、蓄積してきたとき、 私たちはそのために、何をも理解していません。 

K: ええ。 私は、褒賞を獲得するために、学びます。 または、処罰を回避するために、です。 私は、特定の職や特定の技能を、学びます - 生計を立てるために、です。 それは、絶対的に必要です。 さもないと・・・ 今、私は、訊ねています - 他の種類の学びが、ありますか。 それは、課業です。 それは、記憶の養成です。 そして、記憶は、経験と知識の結果ですが、 それは、頭脳に蓄えられています。 そして、それが、作動します - 自転車に乗る、車を運転するなどを、求められるとき、です。 さて、他の種類の学びが、ありますか。 または、それだけですか。 自らが、「私は自分の経験から学んできた」と言うとき、 それは、私が学んできた、 その経験より、一定の記憶を蓄えてきた、 それらの記憶が、防止するか、 褒賞するか、あるいは、処罰する、という意味です。 で、そういう形の学びすべては、機械的です。 そして、教育は、 課業の中で、機械的に作動するように、 頭脳を訓練することです。 なぜなら、そこには、大きな安全が、あるからです。 そのとき、それは、安心です。 で、私たちの精神は、機械的になります。 「私の父親は、こうした。私は、こうする」と。よろしいですか。 全部の事柄が、機械的です。 さて、非機械的な頭脳がそもそも、ありますか。 非功利的な学び- その意味で、ですが - すなわち、未来も、過去も持っていなくて、 ゆえに、時に束縛しないものが、です。 話が明らかになっているのかどうか、私は知りません。
27:03 A: 私たちは、時々、 「私は経験から学んだ」と言いませんか - うまく伝わらない何かを、その表現により 私たちが伝えたいと願うときに、です。 私たちは、洞察を伝えたいと願います - 厳密な意味で、日付できると感じないものを、です。
27:24 K: そうね、私たちは、経験から、何かを学びますか。 私たちは、歴史が始まってから- 書き記された歴史ですが - 五千の戦争を、行ってきました。 私はどこかで、それを読みました。五千の戦争です。 殺し、殺し、殺し、不具にする。 私たちは、何かを学んできましたか。 私たちは、悲しみから、何かを学んできましたか。 人は、苦しんできました。 私たちは、経験から何かを学んできましたか - 不安定の苦悩と、その他すべてのそれから、です。 で、私たちが、自分は学んできたと言うとき、私は、それを問います。 よろしいですか。「私は経験から学んできた」と言うことは、 とてもひどいことに、思われます。 あなたは、何も学んできていません! 知識の分野において以外は、です。 話が明らかになっているのか・・・

A: ええ。 ここで、ちょうど思い起こされたことを、何か言ってもいいですか。 私たちは前に、悲しみについて、話していました。 私は、聖パウロの「ローマ人への手紙」の中での 彼の発言を、考えていました。 そこには、きわめて異例な言葉の順序が、あります。 そこで、彼は、「われわれは、患難において、喜ぶ」と言います。 さて、或る人々は、そういう発言をする中で、 彼はマゾヒストか何かだったにちがいないと、考えましたが、 それは確かに、私には異様に思われます。 「われわれは、患難において喜ぶ。」 それから、彼は、「なぜなら、患難は働いて・・・」と、言います。 ギリシャ語で、これは、エネルギーが関与している、という意味です。 「・・・働いて、忍耐を生み出すから」と。 忍耐、経験。 さて、それは、きわめて異例な順序です。 なぜなら、私たちはふつう、こう考えるからです - 「私たちは、十分な経験をするなら、学んで、忍耐強くなるだろう」と。 彼はここで、完全にそれを、逆さまにします。 あなたが仰っていることの脈絡では、 彼の言葉の順序は、顕著に意味をなします。 どうぞ、進んでください。

K: いえ、いえ。
29:46 A: ええ、それは本当に、とても著しい。
29:51 K: そうね、そういうわけで、 私たちの教育、私たちの文明、 回りのすべての物事が、 私たちの精神を、こうも機械的にしてきたのです - こうも反復的な反応、 反復的な要求、 反復的な追求、です。 同じことが、年々、反復されています - 何千年もの間、です。 「私の国、おまえの国。 私は、おまえを殺す。 おまえは、私を殺す」と。 よろしいですか。 全部が、機械的です。 さて、それは、精神がけっして、自由ではありえない、という意味です。 思考はけっして、自由ではありません。 思考はいつも、古いのです。 新しい思考は、ありません。
30:51 A: ええ。それは、宗教の分野の中での動きへの関係で、 とても興味深いです - それは、(19世紀後半から)「新思考」を、自称します。か、自称しました。 ええ、私は、その皮肉に笑っていました。 ええ、おやまあ。 幾らかの人物は、戦争の継続、ということに立って、 私たちが経験から学ばないとの概念に、 反対するだろうと、私は想像します。 なぜなら、戦争は連続的に、世代から世代へ、 起こりがちであるし、あなたは成長しなくてはいけないからです。 でも、それは、真実ではありません。 なぜなら、一つ以上の戦争が、 同じ世代の中で、しょっちゅう起きるだろうからです。
31:31 K: 彼らは、何について、話していますか。二つの(世界的な)戦争です。
31:34 A: ええ。まったく何も学ばれたことは、ありません。 誰かが、ただ出てきて、こう言うのを、聞くのは、 怖ろしいことです - 「誰も経験から、何をも学ばない」と。
31:49 K: ええ。「経験」(エクスペリエンス)という言葉はまた、
31:51 経てゆく、という意味です。

A: ええ、ええ。
31:54 K: が、あなたはけっして、経てゆきません。 

A: まさにそのとおりです。
31:57 K: あなたは、いつも途中で、止まります。 または、けっして始めません。

A: そのとおり。 それは、こういう意味です- 私が正確に憶えているなら、 その語源、ということに立って、 それ(エクスペリエンス)は、試す、試してみる、という意味です。 まあ、何かを、試してみて、それが進んでいる間、 正確に動作するのか、確かに見なくてはいけません。 ただ見つめなくてはいけませんね。

K: もちろんです。 で、私たちの文明、私たちの文化、私たちの教育は、 ますます機械的になる精神を、もたらしてきたのです - ゆえに、時に束縛し、 ゆえに、けっして、自由の感覚が、ないのです。 そのとき、自由は観念になります。 あなたは、哲学的に遊び戯れますが、 それは、何の意味もありません。 が、或る人は、「さて、私は見出したい。 私は本当に、これに入って、 自由があるのかどうかを、発見したい」と、言います。 そのとき彼は、知識の制限を、理解しなくてはいけません - どこで知識が終わるのか、 または、むしろ、知識が終わることと、 全然新たな何かが、始まることを、です。 何かが伝わっているのかどうか、私は知りません。
33:32 A: 伝わっています。 ああ、はい、はい。
33:34 K: すなわち、学びとは、何ですか。 それが機械的でないのなら、学びとは、何ですか。 いったい学びが、ありますか。 何についての学びですか。 私は、月へどう行くのかを、学びます - あれこれをどう組み立てるのか、どう運転するのかなどを、です。 その平野には、学びだけが、あります。 他のどの平野に、学びが、ありますか - 心理的に、霊的に、です。 精神は、神と呼ばれるものについて、学べますか。
34:20 A: もし、学びの中に - あなたが、この質問をなさった意味において、ですが・・・ いえ、私はそれを、言い換えなくてはいけません。 この「もし」というのを、止めましょう。 私が言おうとしていることを、するとき、 神についてとか、月へ行くことについて、学ぶとき - あなたがなさった質問ということに立って、ですが - もしこれが、一覧表へ付け加えられる何かであるなら、 彼は、あなたが指しておられることを、しているわけがありません。
34:52 K: ご覧ください。それは、こうも明らかです。 

A: ええ、そうです。
34:56 K: 私は、言語を学びます。 自転車に乗ります。車を運転します。 機械を組み立てます。 それは、本質的です。 さて、私は神について、学びたいと思います - ただこれを聞いてください。 神は、私の作りものです。 神は、自らの姿(イメージ)に似せて、私を作っていませんでした。 私は、自らの姿(イメージ)に似せて、神を作ってきました。 さて、私は、それについて学ぼうとしています。
35:26 A: ええ。私は、自分自身へ話をしようとしています。
35:29 K: 私が築いてきたイメージについて、学ぶ - キリスト、ブッダについて、それが何であっても、です。 私が築いてきたイメージ。 で、私は、何を学んでいますか。

A: 話について、話をする。ええ。
35:43 K: 私が築いてきたイメージについて、学んでいる。
35:47 A: そのとおりです。
35:48 K: ゆえに、他の種類の学びが、ありますか - 機械的な学び以外に、です。 話が明らかになっているのか・・・ 質問を理解されますか。

A: はい、理解します。 はい、確かに理解します。
36:05 K: で、ただ、生の機械的な過程を、 学ぶことだけが、ある。 他の学びは、ない。ああ、それがどういう意味かを、ご覧ください。
36:26 A: それは、自由を意味しています。

K: 私は、自分自身について学べます。 私自身は、知られています。 知られている - 私はそれを知らないかもしれないが、 私は知りえます。私自身を見つめることにより、私自身を知りえます。 で、私自身は、過去の蓄積された知識です。 「私は貪欲だ。私は妬んでいる。 私は成功している。 私は怯えている。 私は裏切られた。 私は後悔している」と言う「私」。 そのすべてが、「私」です。 私が「私」の中に考案してきた魂や、ブラフマン、 アートマンを含めて、です。 それはやはり、すべて「私」です。 「私」は、神のイメージを、創り出してきました。 そして、私は、神について、学ぼうとしていますが、 それは、何の意味もないのです! で、もし、それがあるなら・・・それがあるとき・・・ いや、私は、「もし」という言葉を、使おうとしています。 もし、他の学びが、ないのなら、何が起きますか。 理解できますか。 精神は、物質における知識の取得に、使われています - 違ったように表すと、です。 機械的なことにおいて、です。 精神が、そこで使用されるとき、 他の、学びの過程が、ありますか。 それは、心理的に、内的に、という意味です - ありますか。 内的なものは、思考の創案です - 外へ対立して、です。 お分かりになるのかどうか、私は知りません。 私は、外を理解したのなら、 私は、内を理解したのです。 なぜなら、内が、外を創り出してきたからです。 社会の構造、宗教的な裁可、という意味で、外です。 そのすべては、思考により、 創案されたか、組み立てられています - イエス、キリスト、ブッダ、それらです。 そして、学ぶべき何が、ありますか。
38:52 A: お話を聞く中で・・・
38:55 K: 出てきつつあることの美しさを、見てください。
38:57 A: ああ、はい、はい。 それは、ヴェーダーンタについてのあなたの寸評へ、戻ってきます - 知識の終わりとしての、です。
39:09 K: それが、私が言われたことです。
39:11 A: ええ。 サンスクリットの構造について、 私にとって興味深いことは、こうです - 私が誤っているのでなければ、ですが、それは、 終点として、終末としてのそれの終わり、という意味ではありません。 なぜなら、それは、単純に、新しい一続きを、開始するだろうからです。 それは、その極致です - すなわち、全的な終わりです。 まさにその点において、全的に新たな始まりが、なされた、 という意味において、です。
39:40 K: それは、こういう意味です- 私は知っています・・・ 精神は、知られたものの活動を、知っています。
39:48 A: そのとおりです。ええ。 それは、知識の極致です。
39:53 K: 知識のそれです。 さて、それより自由であるが、けれども、 知識の中で機能する精神の状態は、何ですか。
40:03 A: けれども、その中で機能する。
40:05 K: よろしいですか。

A: はい、はい。 それは、完璧に見ることです。
40:11 K: どうぞ、それに入ってください。 とてもふしぎなことが、起きるのが、分かるでしょう。 これは、可能ですか- 初めに、です。 理解されますか。 頭脳は、機械的に機能するから、 それは、安全がほしいのです。 さもないと、それは機能できません。 もしも、安全を持っていなかったなら、 私たちはここに、一緒に座っていないでしょう。 私たちは、安全を持っているから、対話を行えます。 頭脳は、完全な安全の中で、機能できるだけです。 その安全を、神経症的な信念に、見つけるのでも・・・ すべての信念と、すべての観念は、その意味で、神経症的です。 で、それは、どこかに安全を、見つけます - 民族性、国籍を、最高の形の善として、受け入れる中で、です。 成功は、最高の美徳です。 頭脳は、そこ、信念に、安全を、見つけます。 さて、あなたは、訊ねています - 頭脳は、機械的になってしまい、 幾世紀もの間、訓練されましたが、その頭脳に、 他の平野、すなわち機械的でないところを、見るよう、頼んでいます。 他の平野が、ありますか。
41:48 A: いいえ。
41:49 K: 問いに、付いてきておられますか。

A: はい、付いてきています。 ええ、それが、全く壊滅的なものです。
41:56 K: ありますか - 待って、待って。 他の平野が、ありますか。 さて、頭脳と精神が、平野全体を 理解するのでなければ- 平野でない - 知識の動きを、理解する。 それは、動きです。

A: それは、動きです。ええ。
42:15 K: それはただ、静止していない。 あなたは、付け加えている、取り去っている、入れている、などです。 それが、そのすべてを理解するのでなければ、 それは、とうてい、他のその問いを、訊ねられません。
42:26 A: そのとおり、そのとおり。
42:28 K: それが、その問いを訊ねるとき、何が起きますか。 これが、本当の冥想ですよ。
42:42 A: そうです。 ええ、ええ。
42:44 K: 私たちは、別の時にそれに、入るでしょう。 で、そうね、それが、その意味するところです。 自らは、いつも知識をもって、聞いています。 知識をもって、見ています。
43:03 A: これは、ガラスをとおしておぼろに見ることです。 

K: おぼろに、です。 さて、静寂の中から聞くことが、ありますか。 それが、注意です。 それは、時に束縛していません。 なぜなら、その静寂の中、私は何をも、ほしくないからです。 それは、私が自分自身について学ぼうとしている、ということではない。 それは、私が処罰や褒賞されようとしている、ということではない。 その絶対的な静寂の中、私は聞きます。
43:44 A: 全部のことのふしぎさは、 それが、何かなされたことではない、ということです - この冥想は、連続的に、です。
43:54 K: 私たちは冥想について、話すとき、 きわめて深く、それに、入らなくてはいけないでしょう。 なぜなら、彼らは、その言葉を、破壊してしまったからです! これら、ごまかしの小さな人たちが、インドやどこかから来て、 彼らは、そのことを、破壊してしまったのです。
44:09 A: 私は、先日、誰かについて、聞きました - 超越冥想を学んでいる人について、です。
44:16 K: ああ、学んでいる!
44:20 A: 彼らは、午後3時に、それをしなくてはいけませんでした。
44:24 K: それを学ぶために、35ドルか、100ドルを、支払う。 それは、こうも冒涜的です。
44:33 A: すなわち、午後3時に、審判の日が、ありました。 もしも、あなたが、自分の予定に沿って、それをしなかったなら、 世界は明白に、終わりになってしまったのですが、 表向き、あなたは、それより自由になるために、そうしています。 どうぞ、先へ進んでください。
44:52 K: で、お分かりですか。 それが、起きることなのです。 私たちは、今朝、美しさについて、始めました。 それから熱情、それから苦しみ、それから行為、です。 観念に基づいた行為は、無行為です。 それは、奇怪に聞こえますが、そうなっています。 そこから、私たちは、言いました- 見えるとは、何ですか。 聞こえるとは、何ですか。 見えることと、聞くことは、機械的になったのです。 私たちは、けっして、何も新たなものが、見えません。 花さえも、けっして新たではありません - 一夜のうちに、開花したものが、です。 私たちは、「ええ、あれはバラだ。私はそれを期待していた」と、言います - 「それは今、咲いた。 何と美しいのか」と。 それはいつも、知られたことから、知られたことへ、です。 時の中の動き、ゆえに、時に束縛します。 ゆえに、けっして自由ではありません。 けれども、私たちは、自由について、話しています。 そうね、哲学、 自由についての講義、などなどなど、です。 共産主義者は、それはブルジョワ的なものだと、呼びます。そのとおりです - それを知識へ制限するとき、 自由について話すのは、愚かしい、という意味で、です。 が、あなたが、知識の動き全体を、理解するとき、 自由が、あります。 で、あなたは、静寂の中から観察できますか。 そして、知識の平野で観察して、行為できますか - 両方がともに、調和しているように、です。
46:50 A: そのとき、見ることは、予定されていません。 ええ、もちろんです。 もちろんです。 私は、ただ考えていました - こう言うんだろうと、思うのですが、 知識の経歴ということに立って、自由の古典的な定義は、 それは行為の属性である、ということになろう。 行為の属性や性質である、と。 一般的な使用には、どちらの言葉でもいいでしょう - 属性か、性質か。 私は思い至ったのですが、 私たちが言ってきたことの脈絡において、 あの発言を読めるだろうに、それをして、自体を 自分へ、露わにさせないことは、何という恐怖でしょうか。
47:58 K: 全くです。 

A: それが、自体を、あなたへ露わにするなら、 あなたは、それに突き当たっているでしょう。 あなたは、真剣でなくてはいけないでしょう。 もしもあなたが、哲学の学生であって、それを読んだなら、 そして、そのことが、あなたの中に、作動しはじめたなら、 あなたは言うでしょう - 「私は、進む前に、これを決着させなくてはいけない。 「たぶん私は、けっして卒業しないだろう。それは、重要ではない」と。
48:20 K: それは、重要ではない、と。 全くそのとおり。 私は、考えていました - 西洋では- 東洋でもそうですが - あなたは、工場や事務所へ行かなくてはいけません。 人生の毎日、です。 8時、6時に起きて、運転する、歩く。 働く、働く、働く。 五十年の間、課業です。 そして、蹴飛ばされ、侮辱される。 成功を崇拝する。 またもや、反復です。 時折、都合がよければ、神について、話をする。 などなど、です。 それは、奇怪な生です! そのために、私たちは自分の子どもを、教育しているのです。
49:15 A: それは、本当の生ける死です。
49:19 K: 誰も、こう言いません - 「後生だから、これらを新たに見つめよう。 私たちの眼より過去を、きれいに拭き去り、 私たちが何をしているのかを、見つめよう。 私たちが何をしているのか、注意を注ぎ、気づかおう」と。
49:36 A: 今、私たちは代わりに、この問いを、持っています - 「私たちは、それについて何をしようか」と。 ええ、それが問いです。 そのとき、それは、 次の、なされることに、なる。 すなわち・・・ 一覧表に付け加えられるものに。

K: それは、違った形での、過去の継続です。

A: そして、連鎖は、果てしなく 繋がり、繋がり、繋がり、繋がる。
49:54 K: 原因は、結果になり、結果は、原因になる。 で、私たちが、これらについて、話をするとき、 それは、きわめて真剣なことなのです。 なぜなら、生は、怖ろしく深刻になるからです。 そして、生きるのは、この真剣な人物だけなのです。 宗教的、その他の娯楽を、探し求める、それらの人々ではありません。
50:19 A: 私は、とても興味深い機会が、ありました - あなたが仰っていることを、理解する機会が、 昨日、授業で、です。 私は、学生たちが見るように、支援していました - 作動中の(アリストテレスの)四原因の、古典的な理解は、 それらが、時間的にでなく、関係し合っている、ということを、です、 私は、言いました - 陶工が、粘土に手を付けるとき、 粘土に触れている手は、 手がそれに触れた後、 粘土により応答されません。 授業を参観していた一人の人物は、 この人物は、よい教育を受けた人物で、 教授でしたが、 これは、たぶんそうではなかろうとの印象を、受けました。 私は、顔の表情から、ここに少し苦悩があることが、 言い当てられました。 それで、私は、言いました - 「私のレーダーは、 何か困難が起きていると、言いますね。 どうか、したのですか」と。 「時の間隔があるように、思えるんですね」と。 で、私は彼に、デスクに載っている何かを、拾い上げるよう、頼みました。 私は、「自分の指で、それに触れてみて、 私に言ってください - 指で触れる瞬間に、 そのものが、触れた後で、 指に反応するのかどうかを、です。 さあ、してください」と。 まあ、そのような実地試験を、施行するよう、 誰かに頼むことさえも - (アリストテレスの)四原因が何たらかんたら、みたいな、 知識のデータに関して、ですが - それは、私たちが知ってきたような教育の過程を、中断させることです。 なぜなら、学生に対して、四原因を教えるし、 彼は、それらについて考えるから、 彼はけっして、外に出かけて、物事を見つめません。 または、それについて何をも、しません。 で、私たちは授業で、そのものを、拾い上げていて、 私たちは、こうしていましたが、 ついに、最終的に、それは、啓示のように、思われました。 「見守る」と言われてきました- その古典的な教えの中で、です。 もちろん、それは、現代社会では、拒絶されます - たまたま、それが実情です。 私は、「これは、見られ、 見守られなくてはいけない」と、言いました。 これが、あなたが仰る意味です。

K: はい。 見ること。もちろんです。

A: もちろんです。もちろんです。 ですが、私たちはそこで、あの歩みに、戻っています - なぜ、あの人物と、 先例に倣う、他の多くの学生たちは、 実践的な主題が生じたその地点で、 苦悩したのか。 彼らは崖っぷちに立っているとの感じがあったと、私は思います。
53:33 K: 全くです。全くです。
53:36 A: 当然、鋭敏さが、必要とされましたが、 鋭敏さは、私たちが崖っぷちにいることを、登録します。 ゆえに、最善のすべきことは、 振り向いて、逃げ帰ることです。 ええ、ええ。
53:58 K: で、私は思うのですが、そうね、 私たちは、こうも言葉に捕らわれてしまっています。 私たちにとって・・・ 言葉は、そのものではありません。 叙述は、叙述されたものではありません。 私たちにとって、叙述は、大事なすべてです。 私たちは、言葉の奴隷であるからです。
54:26 A: そして、儀式の、です。
54:28 K: 儀式とその他すべての、です。 で、あなたが、「ほら、 そのものは、言葉より大事です」と言うとき、 そのとき彼らは、「私はどうやって言葉を取り除くべきですか。 私は、言葉を持たないのなら、どうやって意思疎通すべきですか」と、言います。 彼らがいかに、逸れてしまったのかが、分かりますか。 彼らは、そのものに、ではなく、言葉に、関心があるんです。
54:52 A: ええ。
54:53 K: そして、ドアは、その言葉ではありません。 で、私たちが、言葉に捕らわれてしまっているとき、 「ドア」という言葉が、とてつもなく重要になります。 ドアが、ではありません。
55:13 A: 私は本当に、ドアと折り合わなくていい。 私は、自分自身に言います - 「私は、その言葉を持っているから、すべて持っている」と。
55:23 K: で、教育が、これをしてきました。 この教育の大部分は、言葉の受け入れです - 事実から、「有るもの」からの抽象として、です。 すべての哲学は、それに基づいています - 理論化する、理論化する、理論化する - 果てしなく、 自らはいかに生きるべきかを、です。 哲学者自身は、生きません。
55:57 A: ええ。知っています。 

K: これは、いたるところに、見られます。
56:00 A: 特に、或る哲学者たちは、私には、この面で、 全く異様に思われました。 私は、時々、自分の同僚たちに訊ねてきました - 「あなたは、そのことを信じているなら、なぜ、そうしないんですか」と。 彼らは、まるで私が正気を失っているように、私を見つめます - まるで、誰も本当に、真剣に、その質問をしないかのように、です。
56:21 K: 全くです。全くです。 

A: でも、その質問をできないのなら、 どんな問いが、問うに値しますか。

K: 全くそうです。
56:28 A: 私は、あなたが以前の会話の中で、語られた、 猿についての、あのすばらしい物語について、考えていました。 あなたが、これについて、話しておられた間、 彼女があなたと握手をしたとき、 誰も彼女に、いかに握手するかを、語っていませんでした。
56:48 K: ええ、それは、手を差し出しました。 

A: ええ。
56:51 K: 私は、それを取りました。
56:53 A: それは、何か彼女が、どうすべきかを、 言語的な疎通をとおして、教えられたことではありませんでした。 それは、その時に、適当なことでした。

K: その時に、ええ。
57:02 A: 誰もその適当さを測量せずに、です。
57:05 K: 全くです。
57:07 A: それは、なかなかではないですか。 ええ、私は、あなたとこれを分かち合うことが、できてきたことに、 どんなに感謝しているのかを、お伝えできません。 私は、教師としての自分の活動に関して、見てきました - その中で私は、自分の言語によってでも、セラピーを行わなければなりません。
57:45 K: 全くです。全くです。
57:46 A: それで、私は、その学生に対して、 私は、この果てしない連鎖へ、繋がりから繋がり、また繋がりへ、 単純に付け加えているだけだと、考える機会を、与えないのです。 すると、ここには、二つのセラピーが、あります - それは、言葉に関係するセラピーと、自然に溢れ出てくるものです。 それは、目論みではありません。 それは、自然に溢れ出てきます - 私がお話を正確に理解したのなら、内のセラピーから、です。 さて、これは、あなたが先に仰っていたように、 直接的に、冥想に関係します。私たちは準備ができたと、お考えですか。
58:32 K: それは錯綜しすぎていると、思います・・・

A: 今すぐ、ということではないんですが、 たぶん、私たちの次の会話の一つの中で、です。
58:39 K: ああ、はい。私たちはまだ、幾つものことについて、議論しなければなりません。
58:42 A: ええ。 

K: 愛とは何か、死とは何か、冥想とは何か、 生きることの動き全体は、何か、です。 私たちは、すべきことを、大変多く持っています。
58:49 A: ああ、私は、それを大いに待ち望んでいます。すばらしい。はい。