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SD74CA11 - 傷つくことと、他の人たちを傷つけること
アラン・W.アンダーソンとの会話、第11回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月25日



0:36 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:41 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:48 A: クリシュナムルティさん、私たちの会話の間に、 私にとって、一つのことが、出現してきました - 強烈な力をもって、と言いますか。 すなわち、一方で、私たちは、 思考と知識について、話してきました - それへの、機能不全の関係ということに立って、ですが、 あなたは一度も、 私たちは思考を取り除くべきだとは、仰りませんでした。 あなたは、知識そのものは、それ自体では、 何か深遠に、いけないところがあると、 けっして仰りませんでした。 ゆえに、智恵と思考との間の関係が、生じます。 そして、智恵と思考の間の創造的な関係を 維持するものだと思われるものの問いが、です - おそらく、ありつづける何か原初的な活動、です。 これについて考える中で、私は、あなたが同意されるだろうかと、 思いました - すなわち、おそらく 人間存在の歴史において、 神の概念は、このありつづける活動への 関係の中から、生成してきた、と。 その概念は、きわめてひどく濫用されてきましたが。 それにより、宗教自体の現象の 問い全体が、出てきます。 私たちは今日、それについて、議論していいかなと、思いました。 

K: はい。 そうですね、 「宗教」、「愛」や「神」といった言葉は、 ほぼ、その意味すべてを、失ってしまいました。 人々は、これらの言葉を、尋常でなく、濫用してきました。 そして、宗教は、広大な迷信、 巨大な宣伝に、なってしまいました - 信じがたい信念と迷信、 手や精神により作られたイメージ、像の崇拝に、です。 で、私たちが、宗教について話をするとき、私は、よろしければ、 すっかり明らかでありたいと思うのです - すなわち、 私たちは、どちらもともに、 「宗教(レリジョン)」という言葉を、 その言葉の真の意味で、使っている、ということが、です - キリスト教徒や、ヒンドゥー教徒や、イスラム教徒や、仏教徒や、 この国で宗教の名で進んでいる、愚かなすべてのではなくて、です。 私は、「宗教」(レリジョン)という言葉は、 エネルギーすべてを、集めてまとめる、という意味である、と思います - すべての水準において、物理的、道徳的、霊的、すべての水準において、ですが、 これらのエネルギーすべてを、集めること - すなわち、大いなる注意をもたらすであろうもの、です。 その注意の中に、辺境は、ありません。 そのとき、そこから動きます。 私にとって、それが、その言葉の意味です。 全エネルギーを集めること - 思考がとうてい捉えられないものを、理解するように、です。 思考は、けっして新しくない。 けっして自由ではない。 ゆえに、それはいつも、条件づけられていて、断片的である、などです - それについて私たちは、議論しました。 で、宗教は、思考によって、組み立てられたものではありません - または、恐れによってか、満足と楽しみの追求によっても、です。 何か全的にこれらを越えたものです。 それは、ロマン主義、 思弁的な信念や、感傷性ではありません。 私は思うのですが、もしも私たちは、それを通せて、 その言葉の意味を通せて、 世の中で、宗教の名で進んでいる、 迷信の戯言すべてを、脇に置けたなら - それは本当に、すっかりサーカスになっています。 それがどれほど美しくても、です - そのとき、私たちはそこから、出発できるかもしれないと、思います - もしあなたが、よろしければ、 もしあなたが、その言葉の意味に同意されるなら、です。
7:06 A: あなたが、語っておられるとき、私は、考えてきました - バイブルの伝統には、 預言者たちからの実際の発言が、ありますが、 それらは、あなたが仰っていることを、指しているように、思われます。 こういうことが、精神に浮かんできます - たとえば、イザヤは、神々しいものの役を担って、 そのとき彼は、「わが思考は、あなたがたの思考ではない」と、言います - 「わが道は、あなたがたの道ではない。 天が地より高いように、 わが思考は、あなたがたの思いより、高い。 だから、その意味で、私について考えるのを、止めなさい」と。
7:40 K: ええ、全くです。

A: そして、あなたがたが企ててきたところの、 私への手段を見つけようとしてはいけない。 わが道は、あなたがたの道より、高いのだから、と。 そのとき、あなたが語っておられた間に、私は、 この注意の行為に関連して、考えていました - この、人全体のエネルギーすべてを、集めてまとめること、 ごく単純な、(詩編の)「静まって、われこそが 神であることを知れ」、です。 静まれ。 宗教の歴史について考えるとき、それは、驚くほどです - 儀式に比較して、それへいかにほとんど、 注意が、払われてこなかったのか。
8:15 K: ですが、私は思うのですが、 私たちは、自然との触れ合いを、失ってしまったとき - 万物、宇宙との、 雲、湖、鳥たちと、です。 私たちが、それらとの触れ合いを失ってしまったとき、 司祭者たちが、入ってきました。 そのとき、すべての迷信、 恐れ、利用、搾取 - そのすべてが、始まりました。 司祭者が、仲介者になりました - 人間と、いわゆる神との間で、です。 私が思うに、あなたが「リグ・ヴェーダ」を、読まれたのなら - 私はそれを、聞かされました。なぜなら、私はこれらを読まないからです - そこには、最初のヴェーダには、 神への言及が、まったくないのです。 何か無量なものへのこの崇拝だけが、あります 自然に、大地に、雲に、 樹々に、ヴィジョンの美しさに、 表現されたものへ、です。 ですが、それは、きわめて、きわめて単純であり、 司祭者たちは、「それは単純すぎる」と、言いました。
9:50 A: それを、よく混ぜ合わせよう、と。
9:52 K: それを、よく混ぜ合わせよう。 少し混乱させよう、と。 そのとき、それが始まりました。 これは、古代のヴェーダから、 現在時まで、追跡可能であると、私は思います - そこで、司祭者が、解釈者に、 仲介者、説明者、搾取者に、なりました - 「これは正しい。これは間違っている。 これを、信じなければならない。 さもないと、あなたは、破滅に向かうだろう」 などなどなどと言う人に、です。 彼は、恐れを発生させました - 美しさの崇敬ではなく、 全体的に、健全に、葛藤なく生きられた、 生の崇敬ではなくて、 何か、外側に、ずっと上のあそこに置かれたもの、 彼が、神だと考えて、そのために宣伝をしたもの、です。 で、私は感じるのですが、もしも私たちが、始まりから、 「宗教」(レリジョン)という言葉を、一番単純な形で、使えたなら、 すなわち、エネルギーすべてを集めること、 それで、全的な注意が、あり、 その注意の性質の中で、 測量不可能なものが、生ずるように、です。 なぜなら、私たちが先日、言いましたように、 測量可能なものは、機械的なものであるからです。 西洋はそれを、養成してきました。 すばらしくしてきました - テクノロジー的に、物理的に、 医療、科学、生物学などなど、です。 それは、世界を、こうも表面的に、機械的に、 世間的に、物質主義的にしてきました。 それは、世界中に拡がっていきます。 それへの反応の中で、 - この物質主義的な態度へ、です - これらすべての、迷信的で、無意味で、非理性的な宗教が、 あって、進んでいます。 あなたが先日、ご覧になったのかどうか、私は知りません - インドから来て、西洋に教えている、 これら導師の不条理です- いかに冥想するのか、 いかに息を止めるのかを、です。 彼らは、「私は神である。 私を崇拝しなさい」と、言います。そして彼らの足下に、平伏していますね。 それは、こうも不条理に、 子どもっぽく、全く未熟に、なったのです。 そのすべては、「宗教」という言葉の堕落と、 この種のサーカスと痴呆を受け入れられる人間精神の堕落を、 表示しています。

A: 進んでください。私は、シュリ・オーロビンドの寸評を、考えていました
13:28 - (宗教思想家の)彼が、ヴェーダへの研究の中で、言ったことですが、 そこで彼は、この文章の中で、その衰退を、追跡していました。 彼は、言いました - それは、言語として、賢者たちから、発する。 それから、それは、司祭者たちへ落ちてくる。 それから、司祭者たちの後、それは、学者たちか、 研究者へ落ちてくる、と。 しかし、その研究の中で、それがいったい、どのように司祭者へ 落ちたかについて、私が見つけた発言は、ありませんでした。 私は、どうなのかと思っていて・・・
14:00 K: それは相当に単純だと、思います。

A: ええ、どうぞ。
14:03 K: それは、相当に単純だと、思います - いかに司祭者たちが、全部の事柄を、手に入れたのかは、です。 なぜなら、人は、自分の些細な小さな用事に、 こうも関心を持っているからです - 些細な小さな欲望と野心と浅薄さに、です。 人は、もう少し何かを、ほしいのです。 彼は、もう少しロマンチックで、もう少し感傷的で、 汚らわしい日々の生活の課業より、 もっと他の何かが、ほしいのです。 で、彼は、他のどこかを、見ます。 司祭者は、「おーい、こっちに来なさい。 私は、いいものを持っているよ」と、言います。 司祭者たちが、いかに入ってきたのかはきわめて単純だと、思います。 それは、インドで見られます。 それは、西洋で見られます。 それは、どこにでも、見られます - 人が、日々の生活に、関心を持ちはじめるところで、です - パンとバター、住宅と、その他すべての 日々の業務に、関心を、です。 人は、それよりもっと多くの何かを、要求します。 人は、言います - 「結局、私は死ぬだろうが、 何かもっとあるにちがいない」と。
15:24 A: で、根源的に、それは、自分自身に 何かを確保する事柄であり・・・ 

K: もちろんです。
15:31 ・・・天の恩寵を。

A: ・・・何か天の恩寵 - すなわち、生じてきて、去ってゆく この悲しげな周回に、陥らないよう、 自分を保護してくれるだろうものを、です。 一方で、過去について考えて、 他方で、未来を予期して、人は、 今現在より、抜け落ちてしまうと、あなたは、仰っています。
15:50 K: ええ、そのとおりです。

A: 理解できます。
15:54 K: で、もしも私たちは、「宗教」(レリジョン)というその言葉の その意味を、通せたなら、 そこから、問いが浮かんできます - 精神は、 全的な意味で、注意深くて、 それで、名づけられぬものが、生じてくるように、できますか。 そうね、個人的に、私は一度も、 これらのものを、読んだことが、ありません - ヴェーダ、バガヴァッド・ギーター、ウパニッシャッド、バイブル、 その他すべて、または、どの哲学をも、ですが、 私は、あらゆる物事を、問いました。
16:44 A: ええ。
16:47 K: 問うただけではなく、観察しました。 そして、完全に静かである精神の 絶対的な必要性が、見えます。 なぜなら、起きつつあることを、知覚するのは、 静けさの中からだけであるからです。 私はしゃべっているなら、私はあなたに、聞かないでしょう。 私の精神が、常にガチャガチャ、やっているなら、 あなたが言っていることに、私は注意を、払わないでしょう。 注意を払うことは、静かであることを、意味しています。
17:35 A: 見たところ、幾人か司祭者が、いました - ふつうそのために、大変多くの紛糾に、陥ってしまった人たち、です。 幾人か司祭者たちが、いました - これを掴んでいたと、思われる人が、です。 私は、(ドイツ中世の神学者)マイスター・エックハルトの寸評について考えていました - すなわち、誰であれ、自然の書物を、読むことができる人は、 まったく聖典が必要でない、と。
17:57 K: まったく、ね。 そうなんです。
17:59 A: もちろん、彼は、大変大きな紛糾に、陥ってしまいました。 ええ、彼は、人生の終わりにかけてひどい時を、過ごしました。 彼が死んだ後、(カトリック)教会は、彼を弾劾しました。
18:09 K: もちろんです。 もちろんです。 教会としての組織された信念と、その他すべては・・・ それは、あまりに明白です。 そうね、 それは、微妙ではありません。 それは、本当の深さと 本当の霊性の性質を、持っていません。 それが何であるかは、ご存じです。

A: ええ、そうです。
18:29 K: で、私は、訊ねています - 知覚できる精神の性質は、何ですか - ゆえに、心と頭脳のそれ、ですが - 思考の測量を越えた何かを、 知覚できる精神の性質は、何ですか。 精神の性質は、何ですか。 なぜなら、その性質が、宗教的な精神であるからです。 能力をもち、 神聖であるとのこの感じを、それ自体に持ち、 ゆえに、測量不可能なほど神聖である何かを、 見る能力がある精神のその性質、です。
19:27 A: 「献身(デヴォーション.信心)」という言葉は、これを含意するように、思われます - それが、その適切な意味で捉えられるときに、です。 あなたの先の言い回しを使いますと、 「一点になった注意深さに向けて、集めて、まとめる・・・」
19:47 K: あなたは、注意は、一点になっていると、仰るのでしょうか。
19:50 A: いいえ。私が、一点になっていると言ったとき、 焦点、という含意ではありませんでした。
19:55 K: ええ。それが、私がどうかなと思ったことです。 

A: 私がいったのは、 むしろ、それ自体に統合されている、という意味です - 全く静かであり、 思考を、前にあることや、後にあることとして取ることに、 関心を持っていない。 単純に、そこにある。 「そこに」という言葉も、良くないです。 なぜなら、それは、「どこに」と「ここに」と、 その他すべてを、提起するからです。 あなたが仰っていることを、正当に評価する言語を、 見つけることは、とても困難であると、私には思われます - まさしく、私たちが話すとき、 発話は、時の中にあるからです。 それは、前進的であり、 それは、画像芸術に見られるのより、 音楽のような性質を、持っていますよね。 あなたは、絵画の前に立てます。 ところが、音楽を聞いて、その主題を掴むには、 実質的に、待たなくてはいけません - 終わりにたどり着いて、それをすっかりまとめ上げるまで、です。
21:01 K: 全くです。

A: 言語についても、 同じ困難が、あります。
21:06 K: いいえ。私は思うのですが、こうお考えになりませんか。 私たちが、この問題を探究しているとき、 精神の本性と構造は、何ですか - ゆえに、自体で神聖で、聖なる(ホーリー)だけではなく、 何か無量のものを見る能力がある、 精神の性質は、何かです。 私たちは先日、苦しみについて、話していましたように - 個人的なのと、世界の苦しみ、です。 それは、私たちは苦しまなければならない、ということではありません。 苦しみは、あるのです。 あらゆる人間は、それでひどい時を、過ごしています。 そして、世界の苦しみが、あります。 それは、自らがそれを経てゆかなければならない、ということではありません。 が、それはあるので、それを理解し、 乗り越えなければなりません。 それが、宗教的な精神の性質の一つです - 私たちが、その言葉を使っている、意味において、ですが - 苦しむ可能性がない精神の、です。 それは、苦しみを越えてしまいました。 それは、それが冷淡になった、という意味ではありません。 反対に、それは熱情的な精神です。
22:57 A: 私たちの会話の間に、 私が大いに考えたことの一つは、言語自体です。 一方で、私たちは、こう言います - あなたが叙述してこられたような精神は、 苦しみに臨んでいるものです。 それは、一方では、 苦しみを押しのけることを、何もしません。 けれども、どうやら、それを収容することが、できます。 それを壺や樽に入れて、 その意味で収容するのではありません。 けれども、まさにその言葉、 「苦しむ」(サファー)自体が、下支えする、という意味です。 それは、下に立つ(アンダースタンド. 理解する)に、近いと思われます。 私たちの会話において、何度も何度も、 私たちの慣習的な言語の使い方について、 私は、考えていました - その言葉が、それ自体へ、それ自体で指している栄光を、 本当に見ることを、私たちより剥奪する言葉遣いとして、です。 私たちが先に話していたとき、私は、 「宗教」(レリジョン)という言葉について、考えていました。 学者たちは、それがどこから来たのかについて、異なっています。 一方で、或る人たちは、それは縛る、という意味だと、言います。
24:29 K: 縛る、(ラテン語の)リガーレ。

A: (キリスト教の)教父たちは、 それについて語りました。 それから、他の人たちは、 「いや、いや、それは、神霊的なものを、意味する」と、言います。 または、「思考により究尽できない光輝だ」と。 私には思われますが、あなたは、こう仰らないのでしょうか - 「縛る」には、もう一つ、 否定的なものでない意味が、ある - すなわち、自らがこの注意の行為を行っているなら、 縄紐で縛られたのではなく、 自らがそこにいる。または、ここに、という意味で、です。
25:11 K: またもやですが、はっきりさせましょう。 私たちが、「注意」という言葉を使うとき、 集中と注意との間に、違いが、あります。 

A: ええ。

K: 集中は、排除です。 私は、集中します。 すなわち、私の考えすべてを、一定の点へ、持っていきます。 ゆえに、それは、排除していて、 障壁を築いています - 自らの全集中の焦点を、それに合わせられるように、です。 ところが、注意は、 何か、集中より全然違ったことです。 そこには、排除がありません。 そこには、抵抗がありません。 そこには、努力がありません。 ゆえに、辺境もなく、限界もないのです。
26:19 A: あなたは、この面で、「受容的」という言葉について、 どのように感じられるのでしょうか。
26:27 K: またもや、受容することになるのは、誰ですか。
26:34 A: すでに私たちは、分割を作ってしまった。 

K: 作ってしまった。
26:38 A: その言葉でもって。

K: ええ。 私は、注意(アテンション)という言葉は、本当にとても良い言葉であると、思います。 なぜなら、それは、集中を理解するだけではなく、 受容の二元性 - 受容する者と受容されるもの - を、 見るだけではなく、 それはまた、二元性の本性と、 対極間の葛藤を、見るからです。 そして、注意は、 頭脳が、自らのエネルギーを注ぐだけではなく、 また、精神、心、神経、実体全部、全的な人間精神が、 知覚するように、自らのエネルギーすべてを、注ぐ、という意味です。 それが、その言葉の意味だと、私は思います。 少なくとも、私にとっては、です- 注意深い、注意する。 集中するのではない。 注意する。 それは、聞く、見る、 それへ、自分の心を注ぐ、それへ、自分の精神を注ぐ、 それへ、自分の全存在を、注ぐ、そして注意する、という意味です。 さもないと、注意できません。 他の何かについて、考えているなら、私は、注意できません。 自分の声が聞こえているなら、私は、注意できません。
28:13 A: (アテンドの語義の一つ、)「待つ」(ウェイト)という言葉の 隠喩的な使用が、聖典に、あります。 英語でもまた、私たちが、「付き添う人」(アテンダント)という言葉を、 お付き(ウェイト・オン)の者、ということに立って、 使うのは、興味深いです。 私は、これに関係して、待つこと(ウェイト)と辛抱の概念に、 透徹しようとしています。
28:41 K: 私は思うのですが、待つこと(ウェイト)は、またもや、 「何かを待っている者」を、意味しています。 またもや、そこに二元性が、あります。 あなたは、待つとき、期待しています。 またもや、二元性です。 待っていて、受容しようとしている者、です。 で、もしも私たちは、当面の間、 その言葉「注意」で、通せたなら、 私たちは、探究すべきでしょう。 注意深い精神の性質とは、何ですか - 理解してしまい、 行いとして関係と責任において、 生き、行為する精神、 そして、私たちが話したことですが、 心理的に、恐れを持っていなくて、 ゆえに、楽しみの動きを、理解する。 そのとき、私たちは、その点に来ます - そういう精神は、何ですか。 もしも私たちは、傷の本性について議論できたなら、 その甲斐があろうと、思います。
30:13 A: 傷の、ですか。ええ。
30:15 K: なぜ人間たちは、傷ついていますか。 すべての人々が、傷ついています。
30:25 A: 物理的なことも、心理的なことも、という意味ですか。
30:27 K: 特に、心理的に、です。
30:29 A: 特に、心理的なものね。ええ。
30:31 K: 物理的には、私たちはそれに忍耐できます。 私たちは、痛みを堪えて、 「それを、私の考えに介入させないようにしよう」と、言えます。 「それに、私の精神の心理的な性質を、侵食させないようにしよう」と。 精神は、それを見張られます。 が、心理的な傷のほうが、取り組んで、理解することが、 はるかに重要であって、困難です。

A: ええ、ええ。 私は、それが必要であると、思います。なぜなら、 傷ついている精神は、無垢な精神ではないからです。 「無垢」(イノセント)という言葉こそが、 (ラテン語の)「イノケーレ」、傷つかない、から、来ています。 傷つくことが不可能な精神、です。 そこには、大いなる美しさが、あります。
31:23 A: ええ、あります。 それは、すばらしい言葉です。 私たちは普通それを、何か(罪、害)の欠如を、指示するために
31:32 使ってきました。

K: 知っています。

A: ええ。そこで、それはまたもや、逆さまにされています。
31:36 K: キリスト教徒はそれを、こうも不条理なことに、してしまいました。
31:39 A: ええ、それは理解できます。
31:42 K: で、私たちは、宗教について議論する中で、 私たちは、きわめて深く、深く傷の本性を、 探究すべきだと、私は思うのです。 なぜなら、傷ついていない精神は、無垢の精神であるからです。 あなたは、全的に注意深いために、 この無垢の性質が、必要です。
32:15 A: お話に正確に付いてきたのなら、たぶんあなたは、 こう仰るだろうかと、思います。 人は、自分が傷ついていると考えることについて、 考えはじめるとき、傷つく、と。
32:30 K: ご覧ください。それは、それより、はるかに深いのでしょう。 子どもの頃より、 親たちは、その子を他の子と比較します。
32:44 A: それが、その思考が生ずるとき、です。 

K: そこなんです。 あなたは、比較するとき、傷つけています。 

A: ええ。
32:52 K: いえ。私たちは言うが、そうします。

A: ああ、はい。 もちろん、そうします。
32:57 K: ゆえに、生きること- 比較なく、模倣なく、 子どもを教育することは、可能ですか。 ゆえに、けっして、そのように傷つかないことは、です。 そして、自らは、傷ついています。 なぜなら、自分自身について、イメージを、築いてきたからです。 イメージを、自分自身について、築いてきましたが、 それは、一つの形の抵抗です。 あなたと私との間の壁です。 あなたが、その壁に、その痛いところに、触れるとき、 私は、傷つきます。 で、教育において比較しないこと、 自分自身についてイメージを持たないこと、 それは、生において、最も重要なことの一つです - 自分自身について、イメージを持たないことが、です。 それを持っているなら、あなたは必然的に、傷つこうとしています。 仮に、自分はとても良いとのイメージを、持っている、とします または、自分は大した成功者であるべき、というものや、 自分は大きな能力、才能を持っている、というもの、 - そうね、自分が築くイメージですが - 必然的にあなたが、来て、それを、ぐさりとやるでしょう。 必然的に、事故と事件が、起きます。 それが、イメージを破ろうとしています。 そして、自分は傷つきます。
34:36 A: これにより、名前の問いが、出てきませんか。
34:39 K: ああ、はい。

A: 名前の使用。
34:41 K: 名、形態。
34:44 A: 子どもは、名前を付けられます。 その子は、自分自身を、その名と同一視します。
34:49 K: ええ。その子は、自分自身を同一視できますが、 イメージなしで、ただ名のみ - ブラウン、ブラウンさん。 そこには、何もありません! が、彼が、ブラウンさんは社会的に、道徳的に違っている、 とのイメージを、築いた瞬間- 優っているとか、劣っているとか、 いにしえのとか、きわめて古い家族から来ている、 一定の上の階級、貴族階級に所属していると、ですが、 それが始まった瞬間、 そして、それが、思考により助長され、維持されるとき - そうね、俗物性。その全部をご存じでしょう。それがどうなのか - そのときあなたは、必然的に、傷つこうとしています。
35:38 A: 私が受け止めるに、あなたが仰っていることは、 ここに根本的な混乱が、ある、ということです - 自分自身を、その名前であると、想像する中に、関与したものが、です。
35:51 K: ええ。名前との、身体との、同一視。 自分は、社会的に違っている、 自分の親、自分の祖父母は、君主だった、 あれやこれだったとの観念との同一視。 そうね、イングランドの俗物性全体と、それら。 そして、この国(アメリカ)での、違った種類の俗物性です。
36:14 A: 私たちは、言語において、自分の名を保存することを、語ります。

K: ええ。インドでは、ブラーフミン(バラモン)と、非ブラーフミン、 その事柄全体です。 で、教育をとおし、伝統をとおし、宣伝をとおして、 私たちは、自分自身について、イメージを、築いてきました。
36:35 A: ここで、宗教ということに立って、 こう仰るのでしょうか - 例えば、ヘブライ人の伝統において、 神の名を発声することへの拒絶は、関係がある、と。
36:49 K: 言葉は、とにかく、そのものではありません。 

A: ええ。

K: で、あなたは、それを発声することも、発声しないことも、できます。 もしあなたが、言葉はけっして、そのものではないこと、 叙述はけっして、叙述されたものではないことを、知るなら、 それは、大事なことではありません。
37:05 A: ええ。長年にわたって、私がいつも、語源の研究に、 深く惹かれてきた理由の一つは、 単純に、大部分それらは、何かきわめて具体的なことを、指しているからです。

K: 方向を、大いに、です。 

A: それはものです。あるいは、それは仕草です。 少なからず、それは、何かの行為です。
37:31 K: 全くです。全くです。

A: 何らかの行為です。 前に私が、「考えることについて考える」という言い回しを、使ったとき、 私は、自分の言葉に、もっと気をつけて、 イメージについてじっくり考えることへ、言及しておくべきでした - そのほうが、はるかに良い、その表し方だったでしょうね。
37:46 K: ええ、ええ。

A: ええ、ええ。

K: で、子どもは、 けっして傷つかないように、教育できるでしょうか。 私は、教授たち、学者たちが言うのを、聞いてきました - 「世の中で生きるために、子どもは傷つかなければならない」と。 私が彼に、「あなたは、自分の子どもに傷ついてほしいですか」と 訊ねたとき、彼は、絶対的に、黙っていました。 彼はただ、理論的に話していただけです。 今、不幸にも、教育をとおして、 社会構造と、 私たちが生きているところの、社会の本性をとおして、 私たちは、傷ついてきました。 私たちは、自分自身について、 イメージを持っていますが、それは、傷つこうとしています。 イメージをまったく創り出さないことは、可能ですか。 話が明らかになっているのかどうか、私は知りません。 

A: なっています。
38:55 K: すなわち、仮に、私が自分自身についてイメージを持っている、とします。 幸運にも、私は、それを持っていませんが、 私はイメージを持っているなら、それを拭い去ること、 それを理解し、ゆえにそれを解消することと、 自分自身について、新しいイメージを創り出さないことは、可能ですか。 理解されますか。社会の中に生き、教育を受けてきて、 私はイメージを、築いてきました。必然的に、です。 さて、そのイメージは、拭い去れますか。
39:35 A: この完全な注意の行為でもって、 それは、消え去らないのでしょうか。
39:39 K: それが、私が次第に行こうとしていることです。 それは、全的に消え去るでしょうが、私は、このイメージが どう生まれたのかを、理解しなければなりません。 私はただ、「まあ、私はそれを、拭い去ろう」とは、言えません。
39:55 A: ええ。私たちは、しなくてはいけません・・・
39:57 K: それを拭い去る手段として、注意を使う - それは、そのようには働きません。 イメージを理解する中、傷を理解する中、 教育を理解する中で - その中で、自分が育ってきたものを、です。 家族の中で、社会の中で、そのすべて、です。 それを理解する中で、 その理解の中から、注意が、出てきます。 初めに注意、次に、それを拭い去る、ではありません。 あなたは、傷ついているなら、注意できません。 私が傷ついているなら、私はどうして、注意できますか。 なぜなら、その傷は、私を 意識的にか、無意識的に、この全的な注意より、 隔てようとしているからです。
40:45 A: 私がお話を正確に理解しているのなら、驚くべきことは、 機能不全の歴史の研究においてさえ、 - 私がそれへ、全的な注意を持っていくとの条件をつけて、ですが - 非時間的な関係があるだろう、 ということです・・・

K: 絶対に、です。そのとおりです。
41:04 A: ・・・注意の行為と、起きる癒やしとの間で、です。 私が、注意をしている間、 そのものは、去りつつあります。

K: そのものは、去りつつあります。 ええ、そうなんです。

A: 私たちは、ここでずっと、 「事とする」のを、してきました。 ええ。そのとおり。
41:17 K: で、二つの問いが、関与しています。 傷は、癒やされますか - それで、跡形も残らないように、です そして、未来の傷は、完全に防止できますか - 何も抵抗なしに、です。 よろしいですか。 それらが、二つの問題です。 それらは、私が自分の傷の理解へ、注意を注ぐときだけ、 理解され、解消できるのです。 私がそれを見つめるとき、 それを翻訳しないで、それらを拭い去ろうと願わないで、 ただ、それを見つめる - 私たちが、知覚のその問いへ、入ったように、です - ただ、私の傷を見る。 私が受けてきた傷 -侮辱、 怠慢、 何気ない言葉、仕草、 それらすべての傷を、です。 そして、自らが使う言語 - 特に、この国において、です。
42:39 A: ああ、はい、はい。 あなたが仰っていることと、 「救い(サルヴェーション)」という言葉の意味の一つとの間には、 関係があるように、思われます。
42:54 K: (ラテン語の)サルワァーレ、救う。
42:57 A: 救う。

K: 安全だ(セーフ)。
42:59 A: 全体的にする。

K: 全体的にする。 あなたは、傷ついているなら、どうして、全体的でありえますか。
43:05 A: 不可能です。
43:06 K: ゆえに、この問いを理解することが、 ものすごく重要です。
43:10 A: ええ、そうですが、 私は、学校へ来る子どもについて、考えています。 彼はすでに、傷で一杯の貨車を 持っています。

K: 知っています。傷です。
43:18 A: 私たちは今、ベビーベッドの幼子を、扱っていなくて、 私たちは、すでに・・・

K: すでに、傷ついています。
43:24 A: すでに傷ついています。 傷ついているから、傷つく。 それは、果てしなく増殖します。

K: もちろんです。 その傷から、彼は暴力的です。 その傷から、彼は、怯えていて、ゆえに、引き下がっています。 その傷から、彼は、神経症的なことを、するでしょう。 その傷から、彼は、自分に安心を与えてくれるものを 何でも、受け入れるでしょう- 神を、です。 彼の神の観念は、けっして傷つけないだろう神です。
44:00 A: 時々、私たち自身と動物たちとの間には、 この問題に関して、区別が、付けられます。 

K: ああ、はい。

A: 例えば、ひどく傷ついてきた動物は、 緊迫と攻撃ということに立って、 あらゆる人に向かって、身構えるでしょう。
44:22 A: ですが、一時期にわたって - それには、三、四年が掛かるかもしれませんが - 動物が愛されるなら・・・
44:31 K: で、そうね、あなたは、仰いました - 愛される、と。 私たちは、あのものを持っていません。
44:40 A: ええ。 

K: 親たちは、自分の子どもへの愛を、持っていません。 彼らは、愛について話すかもしれません。 なぜなら、彼らが、下の子を、上の子と比較した瞬間、 彼らは、その子を傷つけたからです。 「おまえのお父さんは、利巧だった。 おまえは、こんなにバカな子だ」と。 そこで、あなたは、始めたのです。 学校では、点数が付けられるとき、 それは、傷です。点数ではない。 それは、故意の傷なのです! それは、蓄えられています。 そこから、暴力が、あります。 あらゆる種類の攻撃が、あります。 そうね、それらが起こります。 で、精神は、全体的にできないのか、または、全体的ではありません - これが、きわめて、きわめて深く理解されるのでなければ、です。
45:41 A: 私たちが言っていたことに関して、 私が前に心中に持っていた問いは、 この動物は、愛されたなら - 私たちが、脳の損傷か何かを扱っていない、という条件つきですが - そのうちに、愛し返すでしょう。 ですが、その思考は、人間の人物において、 愛は、その意味で、強要できない、というものです。 それは、動物を強要して、愛させるだろう、ということではなく、 動物は、無垢だから、そのうちに、 単純に応答する、受け入れるんです。

K: 受け入れる。もちろんです。
46:22 A: が、そのとき、人間の人物は、何かをしています - 動物がしているとは、思われないことを、です。 

K: ええ。 人間は、いつの時も、傷つきつつあるし、傷つけつつあります。
46:33 A: そのとおり、そのとおり。 彼が、自分の傷について、じっくり考えている間、 そのとき彼は、自分に向かってされる愛の寛大さの行為こそを、 誤って解釈しがちです。 で、私たちはここで、何かきわめてぞっとすることに、関与しています - 子どもが学校へ入る時、七歳までに・・・
46:53 K: ・・・彼はすでに、やられています。 終了し、拷問されています。 その悲劇が、あります。 それが、私が申し上げる意味です。
46:59 A: ええ。知っています。 あなたが、なさったように、その質問をするとき・・・ 子どもを教育する道が、ありますか - その子が・・・
47:11 K: ・・・けっして傷つかないように。 それが、教育の一部です。 それが、文化の一部です。 文明は、傷つけているのです。 ご覧ください。 これは、世界中で至るところで、見られます。 この常なる比較、常なる模倣、「あなたは、あれだ。 私は、あなたのように、ならなければならない」と、常に言うこと - 「私は、クリシュナのように、ブッダのように、イエスのように ならなければならない」と。 よろしいですか。 それは、傷です。 宗教は、人々を傷つけてきました。
48:02 A: その子は、傷ついた親へ、生まれます。 学校へ送られて、そこで、傷ついた教師に、教えられます。 今、あなたは、訊ねています- この子が回復するように、 その子を教育する道は、ありますか。

K: お示ししましょう。 それは可能だと、私は言います。

A: ええ、どうぞ。
48:23 K: すなわち、教師が自分が傷ついているし、
48:26 子どもが傷ついていることを、悟るとき、 教育者が悟るとき、 彼は、自分の傷に気づいているし、 彼はまた、子どもの傷にも、気づいています。 そのとき、関係は変化します。 そのとき、彼は、まさに教える行為の中で - 数学でも、何であっても、ですが - 彼は、自分の傷より、自由になりつつあるだけではなく、 また彼は、子どもが自らの傷より自由であるよう、助けています。 結局のところ、それが教育です。 私は教師ですが、私が傷ついているのを、見る - 私が傷の苦悩を経てきたことを、です。 そして私は、その子が傷つかないよう、助けたいと思います。 その子は、傷ついて、学校に来ています。で、私は、こう言います - 「いいよ。友たちよ、私たちは、どちらも傷ついています。 見てみよう。それを拭い去るよう、互いに助け合おう」と。 それが、愛の行為です。
49:38 A: 人間の有機組織を、動物と比較すると、 私は、問いへ戻ってきます - 他の一人の人間への、この関係が、 この癒やしを、もたらすにちがいないというのは、 実情であるのかどうか、です。

K: 明白です - 関係が存在するなら、です。 私たちは、こう言いました - あなたと私との間に、イメージがないとき、 関係は存在できるだけだ、と。
50:11 A: こう言ってみましょう - 教師がいて、 彼は、自分自身において、これをきわめて深く受け止めてきた。 あなたが仰ったように、その問いへ、深く、深く、深く入ってきた。 彼は、もはや自らが 傷に縛られていない所に、到った、と。 

K: ええ。

A: 彼が出会う、その子や、 彼が出会う、若い学生は、または、同年齢の学生さえも - なぜなら、私たちは成人教育を、行うからですが - 傷に縛られている人物ですし、彼は・・・
50:53 K: ・・・その傷を、他の一人へ伝播させないでしょうか。
50:56 A: いいえ。彼は、自分が傷に縛られているから、 傷に縛られていない人の活動を、 誤って解釈しがちではないでしょうか。
51:08 K: ですが、傷に縛られていない人物は 誰もいません - ごくごくわずか以外に、です。 ご覧ください。私には、個人的に、たくさんのことが、起きてきました。 私はけっして、傷ついたことが、ありません。 私はこれを、まったく謙虚に、本当の意味で、申し上げます - 傷つくとは、何を意味しているかを、私は知りません。 私には、いろいろと起きてきました。 人々は、私に、あらゆる種類のことを、してきました。 私を褒め称える、私にへつらう、私をやっつける - あらゆることを、です。 それは、可能です。 教師として、教育者として、子どもを見ること、 そして、その子がけっして傷つかないよう、 見届けることは、教育者として、私の責任です - ただ、何かひどい教科を教えることだけではありません。 こちらのほうが、はるかに重要です。
52:15 A: 私は、話しておられることの幾らかを、掴んでいると、思います。 私は、自分はけっして傷ついたことがないとは、 一番突飛な夢にも、言えただろうとは、思いません。 私は、困難を持っているし、子どもの頃より、私は、 そのために、いっそう叱られてきました - それに滞っている、と。 私は、自分の同僚がかつて幾らか、つっけんどんに、 私へ言ったのを、憶えています - 私たちが、或る状況について議論していたとき、です。 そこには、学部の教職員の中で対立が、ありました - 「君の困ったところは、だね、君が憎むことができないってことだよ」と。 それは、無秩序と見做されました - 敵に対して、 それへ全的な注意を専念させるような形で、 焦点を合わせることができない、ということに立って、です。
53:10 K: 正気が、狂気と受け取られます。
53:13 A: ええ。で、彼への私の返事は、単純に、 「まあ、そのとおりだ。私たちは、それに向き合ってもいいかもね」 私は、それについて、何をするつもりも、ないよ」と。
53:21 K: 全くです。全くです。

A: でも、それは、 相互関係ということに立って、状況に、役立ちませんでした。
53:25 K: で、そのとき問いは、こうです - 教育において、 教師、教育者は、自分の傷を観察し、 それらに気づき、 学生との関係において、 自分の傷と学生の傷を、解消することが、できますか。 それが、一つの問題です。 それは、可能です- もし教師が本当に、 その言葉の深い意味で、教育者が、 すなわち、養成されるなら、です。 次の問いが、そこから出てきます。 精神は、傷つかないことが、可能ですか - 自らが傷ついてきたのを、知って、です。よろしいですか。 さらに傷を付け加えない。 いいですか。

A: ええ。
54:16 K: 私は、これら二つの問題を持っています。 一つは、傷ついていることです- それは過去です - そして、二度と傷つかないことです。 それは、私が抵抗の壁を築く、という意味ではありません - 私は引き下がる、私は修道院へ入ってしまうとか、薬物中毒者とか 何かそのような、ばかげたものになる、という意味ではありません。 傷がないのです。 それは、可能ですか。 二つの問いが、分かりますか。 さて、傷とは何ですか。 傷ついているのは、何ですか。 よろしいですか。

A: ええ。
54:59 K: 私たちは、物理的な傷は、心理的なものと同じではない、 と言いました。

A: ええ。
55:04 K: で、私たちは、心理的な傷を取り扱っています。 傷ついているものは、何ですか。 心理(サイキ. 精神)ですか。 私が、自分自身について持っているイメージですか。
55:19 A: それは、私がそこに持っている投資です。
55:21 K: ええ、それは、自分自身への私の投資です。 

A: ええ。 私は、自分自身より、自分自身を分離してきました。 

K: ええ、私自身へ、です。 それは、こういう意味です - なぜ私は、自分自身へ投資すべきですか、 私自身とは、何ですか。 よろしいですか。

A: はい、分かります。
55:40 K: そこに私は、何かを投資しなくてはいけません。 私自身とは、何ですか。 すべての言葉、名前、性質、教育、 銀行口座、家具、 住宅、傷 - そのすべてが、「私」です。
55:59 A: 「私自身は、何であるか」という問いへ、答える試みの中で、 私は即時に、これらのものに、訴えなければなりません。
56:06 K: 明白です。

A: 他の道は、ありません。 そのとき私は、それを持っていません。 そのとき、私は自分自身を褒め称えます。なぜなら、私は、 どうにか抜け出すほど、すばらしいにちがいないからです。
56:16 K: 全くです。全くです。

A: 仰る意味は、分かります。 私は、ちょうど一瞬前に考えていました - あなたが、教師は学生と関係し、 それで、癒やしの働きや癒やしの行為が起きることが 可能だと、仰っていたとき、です。
56:36 K: そうね、私がもしも授業にいたなら、これが、私がするであろうことです。 それが、私が始めるであろう、最初のことです - 何かの教科ではありません! 私は、こう言うでしょう - 「ほら、君は傷ついている。私は傷ついている。 私たちはどちらも、傷ついている」と。 そして、傷が何をするかを、指し示します - それがいかに、人々を殺すのか、それがいかに、人々を破壊するのか、 その中から、暴力がある。 その中から、残忍さがある、 その中から、私は、他の人々を傷つけたい。 よろしいですか。 それらが、入ってきます。 私は、それについて話して、十分間を使うでしょう - 毎日、違った形で、です。 私たちのどちらも、それを見るまで、です。 そのとき、教育者として、私は正しい言葉を、使うでしょう。 学生は、正しい言葉を使うでしょう。 身振りは、ないでしょう。 苛立ちは、ないでしょう。 私たちは、どちらもそれに、関与しています。 ですが、私たちは、そうしません。 私たちは、授業に来た瞬間、 書物を取り上げて、さっさと始めてしまいます。 もしも私は、教育者であったなら - 年上の人たちとでも、若い人たちとでも - 私は、この関係を確立するでしょう。 それが、私の義務です。それが、私の職です。それが、私の機能です - ただ、何か情報を、伝達するだけではありません。
57:58 A: ええ。それは本当に、とても深遠です。 私は思うのですが、あなたが仰ってきたことが、 学術界で育てられた教育者にとって、 こうも困難であることの理由の一つは・・・
58:17 K: ええ。私たちが、こうも空疎であるからです。 

A: そのとおり。 私たちは、この変容が起きることが、可能であると、 聞きたいだけではなく、私たちは、それは 明確に立証された、と見做されてほしいのです - ゆえに、単に可能なだけではなく、予言できるほど確実である、と。
58:35 K: 確実だ、と。ええ。

A: そのとき、私たちは、
58:37 全部のことの中へ、戻っています。
58:38 K: 私たちは、古い腐ったものの中へ、戻っています。全くそうです。
58:41 A: 次回、私たちは、愛の、これへの関係を、 取り上げられるでしょうか。

K: ええ。
58:47 A: 私は、大いにそれが楽しいでしょうし、 私にとって、それは・・・
58:51 K: ・・・すべて、まとまって来るでしょう。
58:53 A: 一緒に集まる中で、まとまって来るでしょう。