Krishnamurti Subtitles home


SD74CA12 - 愛、性と楽しみ
アラン・W.アンダーソンとの会話、第12回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月25日



0:36 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:41 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:48 A: クリシュナムルティさん、私たちは、前回の会話において、 私たちの関心事への関係において、 現象としての宗教について、話していました - 個々人、各人間の変容、 知識や時に依存していない変容を 探究する私たちの関心への関係において、です。 私たちの、宗教についての議論の間、 あなたは、注意の行為への関係において、 真の意味での宗教と見做されるものについて、 話しておられました。 そして、傷の個人的な歴史全体が、 言及対象であるとき、 この注意の行為が、いかに単純に毀損されるのか、 それが叶わないのか、です。 私たちが行った傷の議論をとおして、 私たちは、議論の終わりにかけて、愛に触れました。 ご都合がよろしければ、おそらく私たちは、今、 この愛の問いを、探検できるでしょう。
3:00 K: あなたが、「探検」という言葉を、使われるとき、 私たちは、その言葉を知的に使っていますか。 知能でもって探検するのか、 または、その言葉への関係において、探検し、 その言葉、鏡の中に、見る - それにより、私たち自身が、その鏡の中に、開示されるのでしょうか。
3:30 A: 後者を望みます。

K: ええ。 すなわち、言葉が鏡です。 その中に、私は人間として、観察しています。 で、「探検」という言葉は、本当に、自分自身を観察する、という意味です - あなたが使ってきた言葉の鏡において、です。 で、そのとき、言葉はそのものになります。 ただ、自体での言葉だけではありません。 

A: そうです。
4:06 K: ゆえに、それは、知的な探検、 理論的な説明ではありません。
4:14 A: それは、冥想の始まりなのかもしれません。
4:17 K: それが、私がすっかり明らかにしたいと思うことです。

A: まあ、それが、その主題との関係で、 私がいたいと思うところです。

K: はい。 また、探検するとは、精神がとても真剣でなければならない、という意味です - 何かを達成したい、どう愛するのか、 隣人の愛をどう獲得するかを知りたいとの単なる欲望に、 捕らわれているのではなくて、です。 よろしいですか。

A: ええ。 愛する者として、成功を収めたい、と。
4:57 K: ええ。愛する者として、成功を収めたい。 で、私は思いますが、私たちが、その言葉と、 それの意味、意義を探検するとき、 この事柄について、きわめて真剣でなくてはいけません。 なぜなら、人々は、この言葉を、こうも緩く使っているからです。 それは、こうも腐敗してしまいました - 神の愛、私の妻の愛、私の資産の愛、 私の国の愛、私は読書を愛している、 私は映画に行くのを、愛している・・・と。よろしいですか。 私たちの困難の一つは、 現代の教育が、私たちを真剣にしていないことです。 私たちは、専門家になりつつあります。 私は、一流の医師だ、一流の外科医だ、 一流の内科医だ、などなどと。 ですが、専門家は、そのように脅威になります。
5:55 A: 学識のある無知蒙昧の人。

K: はい。 そして、私たちが以前に言っていましたように、教育は、 人間精神が真剣であるよう、励ますこと、見届けることです - 生きるとは、何を意味するかを、見出すよう、真剣です。 ただ、専門家になるだけではありません。 で、それがすべて理解されるなら - そして、はるかに多くも、ですが - 愛とは何ですか。 愛は、楽しみですか。 愛は、欲望の表現ですか。 愛は、性欲の充足ですか。 愛は、欲望の対象への追求ですか。 家族との、女との、男との同一視ですか。 愛は、養成できるものですか。 私が愛を持っていないとき、それは、成長させられる。 私は、それについて考える。私はそれへ、あらゆる種類のことを、する。 それで、私は、自分の隣人の愛し方を、知るだろう、と。
7:33 A: 私たちは、時々、勧告を、聞きます - すなわち、自らはそれを目指して働かなくてはいけない、と。 ええ。今までの私たちの会話ということに立って、 それは、その拒否になるのでしょうね。
7:48 K: で、愛は楽しみですか。 見たところ、今は、そうです。
7:57 A: それは、そこへ低下してしまったように、思われます。
8:00 K: 実際にそうであるんです。 それが、私たちが愛と呼ぶものです。 神の愛。 私は、神が何であるかを、知りません。 けれども、私は、神を愛するのだと、されています。 ゆえに、私は、自分の楽しみを、移転させます - 世の中の、物事の、セックスのそれを - 自分が神と呼ぶ、上の水準に、です。 それは、やはり楽しみです! で、愛との関係において、楽しみ(プレジャー)は、何ですか。 愛への関係において、楽しさ(エンジョイメント)は、何ですか。 喜び(ジョイ)は、何ですか- 喜びの無意識的な感じとは? 私が喜びを認識した瞬間、それは、去ってしまいました。 そして、喜び、楽しさと楽しみの、 愛への、愛との関係は、何ですか。 私たちは、それを理解するのでなければ、 愛が何であるかを、理解しないでしょう。
9:07 A: ええ、ええ。お話に付いてきています。
9:11 K: 起きつつあることを、取り上げてください。 愛は、セックスと同一視されてきました。 性交(ラヴ・メイキング)。 性的に愛する - よろしいですか。
9:24 A: まさにその構文 - 性交(ラヴ・メイキング)、情交。
9:28 K: それは、怖ろしいことです! 私はそれに、衝撃を受ける感じが、します。 性交(ラヴ・メイキング) - まるで、それが愛であるかのように、です。 そうね、これは、とても重要であると、私は思うのです - 西洋文明は、これを 地球全体に、広めてきたのです。 映画をとおし、本をとおし、ポルノ写真をとおし、 あらゆる種類の広告、物語をとおして、 この愛の感覚は、セックスとの同一視です。 それは、基本的に、楽しみです。
10:13 A: グラマー(性的魅力の)産業全体が、それに基づいています。
10:15 K: それに。

A: それに。
10:17 K: すべての映画、そうね、全部が、です。 で、精神は - またもや、私たちはその点に、戻らなければなりません。 精神は、楽しみの本性と、 愛へのその関係を、理解できますか。 楽しみを追求している精神、野心的な精神、 競争したがる精神、「私は、生の中から、 何かを得なければならない。 私は、自分自身と他の人たちに、 褒賞しなければならない。私は競争しなければならない」と、言う精神 - そういう精神は、愛せますか。 それは、性的に愛せます。 が、セックスの愛 - それが、ただ一つのものですか。 なぜ私たちは、セックスを、こういう甚大な事柄に、してしまったのですか。 何巻もの書物が、それについて書かれています。 本当にこれに、きわめて、きわめて深く入るのでなければ、 他のものは、理解することさえも、可能ではありません。 私たちは、愛が何であるか、愛が何でないかについて、 果てしなく話せます- 理論的に、です。 が、私たちは、「愛」という言葉を鏡として、使うなら - 内的に何が起きつつあるかを、見るように、です。 そして、私は必然的に、質問をしなければなりません - それは、楽しみであるのかどうか、その多様な形において、です。 最高経営者であり、 やる気をとおし、攻撃をとおし、欺瞞をとおして、 非情さをとおして、その地位へ就いた人 - 彼は、愛が何であるかを、知りえますか。 そして、司祭者は、いつまでも神について、話しつづけますが、 彼は、司教や大司教や何にでも、なろうと、野心的です。 彼の野心は、 イエスの隣に座ることです。
12:37 A: 右手に座るだろう人、です。

K: 右手に。 で、それについて話をする、あの司祭者は、愛が何を意味するかを、知りえますか。
12:45 A: いいえ。彼は、自分は知りうると、考えます - 何か、より高い愛と呼ばれるものに照らして、です。 それは、より低い愛の拒否に、基づいています。
12:55 K: はい。それはただ言葉だけだ、というんです。 

A: で、それは、葛藤です。 その葛藤の中、愛は、ありえません。
13:02 K: で、そのとき、私たちの社会的、道徳的な構造全体が、不道徳です!
13:11 A: ああ、はい。

K: これは、おぞましいことなんです。 誰も、それを変化させたいと思いません。 反対に、彼らは、「はい、続けてゆこう。 それへ、たくさんの上塗りをしよう。 違った色合いで、もっと快くして、 続けていこう」と言います。 で、人が本当に、愛と呼ばれるこのものに 出くわすことに、関心があるなら、 彼は、この全部を、否定しなければなりません。 それは、彼が、楽しみの所を、理解しなければならない、という意味です - 知的な楽しみでも、 楽しみとしての知識の取得、 権力としての地位の取得でも、です。 よろしいですか。 全部を、です。 精神は、この腐った・・・社会的条件づけの中で、訓練されてきて、 条件づけられ、維持されてきましたが、 それは、愛について話す前に、どうすれば、自由になれますか。 それは初めに、あれから、自由にならなければなりません。 さもないと、あなたの、愛についての話、 それもまた、ただの言葉だけです。 それは、何の意味も、ありません!
14:42 A: 私たちは、特に西洋文化の中で、 きわめてセックスに縛られていると、思われます。 他方で、私たちは、性的に成功を収めないなら、 不幸せに脅かされます。
14:59 K: ええ、性的に。 そのとおりです。
15:01 A: けれども、他方で、 臨床心理学の歴史全体は、 性的なことの病理に、精確に、焦点を合わせています・・・
15:11 K: もちろんです。

A: ・・・どうやら、それ自体で、 研究として、私たちを解き放つことができる、と。 それら二つの活動の間の相互関係は - 一方では、成功を収めたいとの欲望と、 他方で、衝動のどこがいけないのかを 研究する必要性、ですが - それは、麻痺をもたらします。
15:35 K: ええ。 で、そうね、このもの、 セックスは- 私は知りませんが - 今、世界中で、こんなに尋常でなく重要になってしまったのです。 アジアでは、それは覆い隠されます。 そこでは、それについて話をしません。 あなたがセックスについて、話すなら、それは、何か間違ったことです。 ここでは、それについて、果てしなく話されますが、 そこでは、そうしません。 一定のことについては、話をしません。 それについては、寝室の中で、話をします。 または、おそらく、寝室の中でさえも、です。 が、けっして・・・それは、行われません。 私は、インドで話をするとき、それを持ち出します。 彼らは少し、衝撃を受けます。 なぜなら、宗教的な人は、それらの種類のことを、 取り扱うと、考えられていないからです。
16:23 A: 彼は、それを越えていると、考えられています。
16:26 K: それを越えていると考えられていますが、 彼は、それについて、話してはなりません。 それが、物事の一つです。 なぜセックスは、こうも重要になってしまったのですか。 そうね、愛は、結局のところ、 「私」の全的な不在の感覚です。 「私」の全的な不在、です - 私の自我、私の野心、私の貪欲、それらの、です。 それが、「私」です。 そのすべての、全的な否定です。 否定 - 残忍な拒否や外科手術ではありません。 それらの理解です。 「私」が、ないとき、他方が、ある。 明白です。それは、こうも単純です! そうね、キリスト教のしるし、十字は、 私は聞かされましたが、太古からの象徴です。 あの象徴を、キリスト教が受け入れる以前から、です。 

A: ええ。
17:28 K: それは、「私」を拭い去れ、という意味でした。
17:33 A: 私は一度も、それについて、聞いたことが、ありません。 拭い去れ。

K: 「私」を拭い去れ。 「私」 - それを拭い去れ。 理解されますか。

A: ええ。イエスの非正典(外典)の発言には、 彼がこう述べたことが、記されています - あなたは、自分の上を下に、自分の下を上に、 自分の右を左に、左を右にする。 何かを完全に、全的にひっくり返すこと - 自らが、するのを慣習としてきたことを、180度、変えること。 それがなければ、天国に来ないのだ、と。 それは、もちろん、彼の言語では、 こちらにあって、期待される、のではありません。 彼は精確に、こう言います - それは、観察によって来ない。 それは、ここにない。それは、そこにない。それは、自らの内にある。 ギリシャ語では、それは、場所として、 「中に」という意味ではありません。それは、現存です。
18:28 K: それは、現存です。

A: はい。
18:30 K: で、私たちが、この愛の問いを、探究しているとき、 私たちは、楽しみ(プレジャー)を探究しなければなりません - その多様性すべてでの楽しみと、 それの、愛への関係、楽しさ(エンジョイメント)の、愛へ、 本当の喜び(ジョイ)、けっして招けない、このものと、 その、愛への関係を、です。 で、私たちは、楽しみでもって、始めたほうが、いい。 すなわち、 世界は、セックスを、無量なものに、してしまいました。 世界中で、司祭者たちはそれを、拒否してきました。 彼らは、女を見ようとしません - 彼らは、内側では、情欲と、 すべての種類の物事でもって、燃えさかっているけれども。 彼らは、眼を閉じます。 彼らは、純潔である人だけが、神へ行けると、言います。 そういう発言の不条理を、考えてみてください! で、誰でもセックスをする者は、永遠に呪われている、と。
19:53 A: すると、私たちがそれへ、いわゆる陥ったのは、どうしてかについて、 何か物語を、考案しなくてはいけませんね。
19:59 K: 陥ったのか、または、 (処女懐胎した)聖母マリアを、です。 よろしいですか。その観念全体です。
20:04 A: ええ、その全部です。

K: それは、茶番劇です! で、なぜ私たちは、それをこうも突飛な、ロマンチックで、 感傷的な事柄に、してきたのですか - セックスを。 それは、知的に私たちが、不具になっているからですか。 私たちは、受け売りの人々です。 よろしいですか。 私は、プラトン、アリストテレス、ブッダ、誰かが言ったことを、反復します。 ゆえに、私の精神は、知的に三流です!
20:44 A: そのとおり。 

K: で、それは、けっして、自由ではありません。 で、知的に私は、奴隷です。 情動的に、私はロマンチックになります。 私は、感傷的になります。 そして、ただ一つの逃避が、セックスです - そこで、私は自由です。 その女か男が、同意するなら、彼らが、相性がよい、その他なら、 それは、ただ一つの道路、ただ一つの扉です。 それをとおって、私は、こう言います - 「後生だから、少なくとも、ここで私は自由だ」と。 オフィスで、私は虐められます。 よろしいですか。 工場では、私はハンドルを回すだけです。 で、これは、私にとって、ただ一つの逃避です。 インドの小作人、町や村の貧しい村人- 彼らを見てください。 それは、彼らが持っている、ただ一つのものです。 そして、宗教は、他の何かです。 私は同意します - 私たちは、純潔であるべきだ、 私たちは、こうあるべきだ、その他すべてですが、後生だから、 私たちの楽しみ、私たちのセックスは、放っておいてくれ、と。 で、そうであるなら - そして、そのように見えるのですが、 私たちは、知的に、道徳的に、霊的に、 不具になった人間、退廃者です。 これは、私たちに、何か解放、何か自由を 与えてくれる、ただ一つのものです。 他の分野では、私は何の自由をも、持っていません。 私は、毎日、オフィスへ行かなくてはいけません。 私は、毎日、工場へ行かなくてはいけません。 私は・・・よろしいですか。 映画、週に一回、三回か、 あなたがするのが、何であっても、です。あなたは、しなくてはいけ・・・ ここで、やっと、私は男、女だ、と。 で、私は、このものを、甚大な事柄に、してしまったのです。 そして、私は性的でないのなら、私はなぜ性的でないかを、 見出さなくてはいけません。私は、見出すために、何年も掛けるのです! よろしいですか。 書物は、書かれています。 それは、吐き気がすること、愚かなことに、なってしまったのです。 私たちはまた、それへの関係で、見出さなくてはいけません - 純潔とは、何ですか。 なぜなら、彼らはみんな、それについて、話してきたからです。 あらゆる宗教が、それについて、話してきました - あなたは、純潔でなければならない、と。 そして、彼らは言いました。 キリスト教は、言いました - 聖母(処女)マリアが・・・イエスは汚れなく純真に生まれた、と。 よろしいですか。 そして、仏教徒は あなたが、あの物語について、聞いたことが、あるのかどうか、 私は知りませんが、ブッダの母は、妊娠したとき・・・ 人間の関係からではなく・・・同じことです! 彼らは、セックスを、宗教に連携させたくないのです。 けれども、あらゆる司祭者は、それで、燃えさかっています! そして、彼らは、「あなたは、純潔でなければならない」と、言いました。 彼らは、純潔の誓いを立てます。 私はあなたに、あの哀れな僧侶の物語をしましたね。 

A: ああ、はい、はい。 深く動かされる物語です。

K: そして、純潔とは何ですか。 それは、ここ、内に、あなたの心とあなたの精神に、ありますか。 または、ただ行為だけですか。
24:40 A: 私が正確に、お話に付いてきていたなら、 あなたは、ここでセックスを、功利的な形で堪えられたもの、と 指し示されたように、私には思われます。 それは、何かへの手段であり、ゆえに・・・
24:58 K: 課業、要求、助長、よろしいですか。
25:03 A: ええ。いつも、活動の外側にある目標です。 ゆえに、それには、けっして追いつけません。 

K: 全くそのとおり。 ゆえに、葛藤です。

A: ゆえに、葛藤と反復です。
25:14 K: ゆえに、純潔とは何ですか。
25:18 清純であるのは、行為ですか、精神ですか。 よろしいですか。
25:27 A: それは、精神にちがいありません。

K: 清純。清純な精神です。 それは、ものすごくきびしい精神、という意味です。 厳格さと、 原理の非情な受け入れ、 その他すべてのきびしさ、ではありません。
25:48 A: これは、先の会話へ、戻っていきます- 私たちが、傷について、 話していたとき、です。

K: そのとおりです。
25:52 A: 清純な精神は、けっして傷つかないでしょう。 

K: けっして、です。 ゆえに、(無傷の)無垢の精神です。 それは、女や男や行為の映像を、持っていません - その想像を一つも、です。
26:14 A: これは、きわめて、 きわめて根源的です。 私は、私たちの会話の中で、自分が読んで、研究してきたことを、 いろいろと持ち出しているのを、知っています。 なぜなら、それが、おもに私の人生の業務であったからです。 お話を聞く中で、深く私が感動することは、 幾世紀にもわたって、言われてきて、 幾世紀にもわたって書かれてきたことの多くは、 あなたが、それらを提示してこられた形で、 理解されるべきであったことなのです。 私たちは、例えば、キリスト教神学に、 或る伝統を、持ってすらいます - すなわち、(楽園からの)人の堕落と呼ばれるものは、 想像の地点で始まった、というものです。
27:04 K: そうです。
27:05 A: けれども、それは、適切に理解されてこなかった、と 私には思われます。 さもないと - もしも、それが適切に理解されていたなら、 私たちは、今いる、この無量の葛藤の中に、いないでしょう。
27:19 K: キリスト教徒は、初めに、原罪を創案し、 それから、その他すべてを創案しました。
27:23 A: それは、本末転倒だったのです。 ええ。仰っていることは、分かります。
27:30 K: で、精神は、清純でありえますか。 精神が、純潔の誓いを立てて、 燃えさかる欲望を、持っていられるか、ではありません。よろしいですか。 私たちは、先日、欲望について、話しました。 私たちは、欲望で燃えさかっています。 私たちの(ホルモン)分泌腺は、それに満ちています。 で、清純は、傷を、イメージを何も 持たない精神を、意味しています - それ自身の映像の感覚、その食欲、それらを、持たないのです。 そういう精神は、この世界に存在できますか。 さもないと、愛はありません。 私は、イエスの愛、これの愛、あれの愛について、 果てしなく話せますが、それは、見かけ倒しになります。
28:38 A: それは、何かの愛であるからです。
28:41 K: ええ。

A: ええ。 活動としての愛は、手段として引き受けられた愛と、 同じではありません。

K: はい。 で、愛は、楽しみですか。 私は、楽しみを理解したとき、 そうではないと、答えられるだけです。 言語的に、ではなく、深く、内的に理解する。 その本性、その残忍さ、 その分割的な過程を、見る。 なぜなら、楽しみ(プレジャー)は、いつも、分割的であるからです。 楽しさ(エンジョイメント)はけっして、分割的ではありません。 喜び(ジョイ)は、けっして分割していません。 分割しているのは、楽しみだけです。 あなたが、石油、エネルギーについてアラブ人の話を聞くとき、 それは、彼の誇りです。 よろしいですか。 それは、見られます・・・ それは、大臣に、政治家に、見られます - この傲慢の、権力の感覚全体が、です。 同時に、彼らは愛について、話します。
30:03 A: が、それは、いつも何かの愛です。
30:05 K: もちろんです。何かしらの愛・・・彼らが、どういう意味で、言うのか、 ともあれ、私は知りません。 それは、何の意味も、ありません。 彼らは、わが国への愛と、言います。 そして、私の愛は、おまえを殺そうとしている、と!
30:18 A: ええ、ええ。

K: で、そうね、私たちは、
30:24 この殺すことをもまた、理解しなくてはいけません。 西洋文明は、殺すことを、完璧な芸術に、仕上げてきました。 戦争、軍事学、 彼らは全世界に、これを教えてきました。 たぶん、キリスト教徒は、最も殺す人たちです。 イスラム教徒の次に、です。 本当の宗教的な人たち、 元来の仏教徒は、本当に、殺さない人たちだったと、思います。
31:05 A: ええ、ええ。
31:06 K: 「殺すな。取っておけ!」と言った、ただ一つの宗教です。 私は、この麗しい物語を、お話ししなければなりません。 私は、何年も前に、セイロン(スリランカ)に、いました。 仏教徒の夫婦が、私に会いに来ました。 彼らは、言いました - 「私たちは、一つ、大問題を抱えています。 私たちは、実践的な仏教徒です」と。 彼らは、「私たちは殺しませんが、私たちは、肉を食べます」と、言いました。 私は、「それは、どういう意味ですか」と、言いました。 彼は、こう言いました - 「私たちは、屠殺人(肉屋)を取り替えます。 私たちは、屠殺人を取り替えます。 ゆえに私たちは、責任がありません」。
31:54 A: びっくりします。

K: 「私たちは、肉が好きです」と。 私は、言いました - 「それが問題ですか」、彼は、「いいえ、まったく」と言いました。 「私たちの問題は、私たちは、有精卵を食べるべきか、です。 それは、命を孕んでいるからです」と。
32:08 A: ああ、やれやれ。

K: ただ・・・ で、私たちは、愛について話すとき、 暴力と、殺すことについてもまた、話さなければなりません。 私たちは、殺します。私たちは、大地を、破壊してきました - 理解されますか - 大地を、汚染してきました。 私たちは、動物と鳥たちの種を、消し去ってきました。 私たちは、赤ちゃんアザラシを、殺しています。 テレビでそれらを、ご覧になりましたか。

A: ああ、見ました。ええ。
32:44 K: どうして人間が、そういうことが、できるのか。
32:46 A: それは、深く衝撃的です。
32:48 K: 誰か女が、その毛皮を着るために、です。 そして、彼は、戻っていき、「私は妻を愛している」と、言います。 私たちは、殺すよう、訓練されます。 すべての将軍、彼らは、果てしなく、 他の人たちを殺す手段を、準備しています。 それが、私たちの文明です。 よろしいですか。 で、野心的である人は、愛せますか。
33:30 A: いいえ。

K: いいえ。ゆえに、 野心を終了させなさい! 彼らは、そうしようとしません。 彼らは、どちらも、ほしいのです。 ゆえに、それは、殺すな、という意味です - どんな状況下でも、です。 食べるために、動物を殺すな! 私は人生で、肉を食べたことが、ありません。一度も、です。 私は、それがどのような味がするのかさえも、知りません。 私は、自分が菜食主義や何かであるのを誇っている、ということではなく、 私はそれを、できませんでした。 殺すことは、産業になってしまっています。 人間に食べさせるために、動物を殺すことが、です。よろしいですか。
34:16 A: ええ。そうなっています。 そうです。 清純について、あなたが話しておられたとき、私は、考えていました。 私は、思いつきました - 清純な精神は、 分割されていない精神でなくてはならないだろう、と。
34:39 K: はい。 殺しながら、愛している。
34:42 A: そして、それらをまとめようとしている。 それから、それらをまとめられない私の明白な失敗を、 言い繕うために、 あらゆる形の手段を、取る。
35:00 K: もちろんです。
35:04 A: あなたが、出してこられたことの甚大さには、 真に唖然とします。 私は、一秒間、これとともに、留まりたいと思います - もし、あなたが構わなければ、です。 私は、ひたむきに聞いてきました。 自分自身においてこの停止をすべきとの あなたの根本的な助言は、 とても根本的なので、 それは、一種の真剣さを、必要とします - それは、真剣さへの量的な関係ではありません。 事実、私たちは本当に、その言葉がどういう意味かを、理解しません。 真剣さと愛との間の関係が、ここで、 私の気づきに、入ってきました。
36:10 K: ええ。私は、真剣であるなら、けっして、殺さないでしょう。 そのとき、愛は・・・それは何か・・・ それは本当に、慈悲(コンパッション)です。 (語源的に、)すべてへの熱情(パッション)です。 慈悲は、すべてへの熱情を、意味しています。
36:30 A: 愛しているなら、けっして殺さないだろうと、仰るとき、 それは、自らが計画的に殺すところの、 このイメージ作りの活動の脈絡の中で、という意味ですね。
36:40 K: ええ。それだけでなく・・・仮に、私の姉妹が - 私は姉妹を持っていませんが - 私の姉妹が襲われると、します。 或る男が、彼女を強姦しに来ます。 私はその瞬間に、行為するでしょう。

A: まさしく。
36:54 K: 私の智恵が - 私は愛し、慈悲を持っているから、 その慈悲が、その智恵を創り出す。 その智恵が、その瞬間に、作動するでしょう。 あなたが私に、「自分の姉妹が襲われるなら、 あなたは、どうするのでしょうか」と、言うなら、 私は、「知らない」と言うでしょう。 私はそのとき、知るでしょう!
37:14 A: ええ。それはすっかり分かります。私はそれに、すっかり付いていっていますが、 私たちは、計画を産業にしてきました。
37:22 K: 計画された殺しです。

A: すべての水準で、
37:25 自分自身だけではありません。

K: 私は知りません。 私は先日、テレビで見ました - (ソビエト・ロシアの首都、モスクワの)赤の広場に、 巨大な大陸間弾道ミサイルが、ありました。 発射して、どれだけ多く殺すのか。 盲目的な殺しです。 アメリカ人は、それを持っています。 インド人は、それを持っています。 フランス人は、それを持っています。 よろしいですか。
37:52 A: それを持たざるを得ない。

K: もちろんです。 私たちは、存在しなければなりません。 

A: ええ。

K: で、精神は、殺したいとのこの衝動より、自由でありえますか。 それは、こういう意味です - 精神は、傷つくのより、自由でありえますか。 で、傷があるとき、 それは、あらゆる種類の神経症的なことを、します。 楽しみは、愛ですか。 欲望は、愛ですか。 ですが、私たちは、楽しみ、欲望を、愛にしてきたのです。 私は、神を欲望します。 よろしいですか。私は、神について、学ばなければならない、と。 よろしいですか。 その全部です。 神は、私の創案、私のイメージです。 私の思考の中から、私は、そのイメージを、作ってきました。 で、私は、ぐるぐる、円周を回ります。 で、私は、楽しさが何であるかを、知らなければなりません。 楽しさ(エンジョイメント)は、楽しみ(プレジャー)ですか。 私は、良い食事が、楽しいとか、良い日の入りが、楽しいときや、 美しい樹や女や、何であれ、見るとき、 その瞬間に終わらないなら、それは、楽しみになります。 理解されますか。 精神、思考が、その楽しさを持ち越してゆき、 翌日、それを反復したいなら、 それは、楽しみになったのです。 それはもはや、楽しさではありません。 私は楽しい。それで、それは終わりです!
39:44 A: (詩人)ウィリアム・ブレイクは、きわめて、きわめて美しく、 これを指してきた、と私には思われます。 もちろん、彼は気違いだと、見做されていました - ご存じのように。 私は言葉を、精確に憶えていないかもしれませんが、 彼の小さな詩の一節は、こう言うと、思います - 「喜びが飛び去るとき、それにキスする者は、 生きて、永遠の日の出を見る」と。

K: ええ、ええ。
40:12 A: 飛び去るとき、彼がキスするのは、喜びです - 楽しみではありません。
40:16 K: ええ、ええ。 

A: それは、それが飛び去るとき、です。 あなたが仰ったことは、こうです - もし彼が、それを飛び去らせないで、それを保つなら、 私たちは、喜びの行為の中から、落ちこぼれて、この・・・
40:29 K: ・・・楽しみの追求へ入る。

A: ・・・果てしなく、反復的で、 最後には、悲しげに退屈なことに、なってしまう。
40:35 K: そして私は、思うのですが、 それが、この国(アメリカ)で起きつつあることなのです - ヨーロッパとインドと同じように、ですが、主として、この国で、です。 即座に充足したいとの欲望、 楽しみを探し求める原理、です。 娯楽で楽しめ。フットボール・・・よろしいですか。娯楽で楽しめ、と。
41:01 A: これは、あなたが先に指摘しておられたことへ、戻ってゆきます - 私たちが行った前回の会話で、です。 ここに、誰かが居て、空っぽに感じて、充足しなくてはなりません。
41:13 K: さびしい。

A: さびしい。充足される。 充足と呼ばれるもの、十分に充たすことを、探す。
41:19 K: 十分に充たす。

A: 十分に充たす。 けれども、 自らが、この注意の行為を行うよう、請け合うなら - 宗教について、私たちの議論の中で、あなたが言及なさったことを、です。 穴を十分充たすために、ですが、そのとき私たちは、しっかりやってきたのです。 私たちは、そうしようとしていません。 その試みの果てしない歴史が、あったのです - 思考の制御という名のもとに、です。

K: もちろんです。
41:55 A: こう思われるでしょうね- 自らが愛に、始まらないなら、 彼は、非功利主義的な形で この注意の行為を、行わないでしょう。 彼は単純に、それを功利主義的な形で、行うでしょう - もし彼が、愛に始まらないなら、です。
42:12 K: それは、市場にありません。 全くです。
42:15 A: そういうわけで、私たちが行ったごく初期の会話の一つで、 あなたは、始めが終わりである、と仰ったのです。

K: ええ。始まりが、終わりです。

A: 始まりが、終わりです。
42:25 K: 最初の一歩が、最後の一歩です。
42:26 A: 最初の一歩が、最後の一歩です。

K: 全くそうです。
42:29 A: 私が、これまで私たちの会話をとおして、ずっと考えていたことは、 何が関与しているのか・・・ - 「関与した」という言葉を、私は好きでないです - 何を自らがしなければならないのか・・・それも、良くない。 何かが、あって・・・ 私たちは、行為について語っていました - すなわち、 進んできた、これらの戯言にとって、根本的な終わり、 すなわち、恐ろしく破壊的な戯言にとって、です。 

K: 存じています。
43:02 A: 何かをすることが、ある。
43:06 K: それが、これらを見ることです!
43:09 A: あなたは、見ることが、することである、行為であると、仰いました。
43:15 K: 私は、危険を見るとき、行為します。 私は、楽しみということに立っての 思考の継続の危険を、見ます。 私は、危険を見ます。ゆえに、私はそれを終わらせます - 即座に、です。 私は、危険が見えないなら、続けてゆくでしょう。 私は、民族性の危険が、見えないなら - 私はそれを、きわめて単純だとして、取り上げています - 私は、続けてゆきます。殺害し、分割します。よろしいですか。 私自身の安全を探し求めます。 が、私は、それの危険が、見えるなら、それは、終了しました。
43:52 A: 私たちはここで、一瞬の間だけ、愛を教育へ、関係させてもいいですか。
43:58 K: ええ。
43:59 A: 教師として、私はこれに、無量の関心を、持っています。
44:05 K: 私たちがこの先週と今の対話の中で、 議論してきたことは、教育の一部です。
44:13 K: もちろん、そうです。
44:14 K: それは、教育はあちらにある、ということではありません。 それは、精神を、違ったことへ教育することです。
44:23 A: 私は、時々、教師へ来て、こう言う学生について、 考えています - 「私はただもう、自分の生き方を、変えなければなりません」と。 すなわち、時たま、 ここへ迫っている学生が、見つかるでしょう - 本当に、言うところの、うんざりしているんです。 彼らがふつう、出してくる最初の質問は、こうです - 「私は何をしなければなりませんか」と。 さて、もちろんそれは、罠です。 私は、お話に付いてきました。私はそれを見ることに、なりました - 私が前に自分自身で、それを観察したのより はるかに大きな明瞭さをもって、です。 ただ単純に、彼らは、そう言うとき、手段を探しているからです。
45:15 K: 「私は何をしなければならないのか」と。
45:17 A: 私たちは、手段について、話していません。 

K: ええ。 手段は、(最終的な)目的です。全くです。
45:23 A: 私はここにおいて、キリスト教の歴史について、考えています。 問いが、あるんです - 「救われるために私は、何をしなければならないのか」。 答えは、「信じなさい」です。

K: ええ。
45:34 A: そのとき、これがどういう意味かについて、行き詰まっている、 気の毒な人物は、信念を信ずることに、終わってしまうんです。
45:40 K: ええ、信ずる。全くです。

A: それは、もちろん頓挫します。 学生は、来て、「私は何をしなければなりませんか」と、言います。 さて、私たちの先の、一緒の会話の中で、 私たちは、教師と学生が、ともに話し合っている地点に、 到りました。

K: はい。 私たちは今、それをしています!

A: 私たちは今、それをしています。
46:00 K: 私は、あなたの教師ではありませんが、私たちは今、それをしています。
46:04 A: まあ、はい。 私たちの会話の中で、 それがあなたの役割でないことを、理解しますが、 それが、この順序で働いてきたことを、私は、 告白しなければなりません。なぜなら、私は、無量に学んできたからです。 ここには、私が明らかにしたいことが、二つ、あります。 あなたの助けが必要です。 一方では、この純粋な注意の行為を、行うには、 私は、自分自身だけが、必要です。 それは、正確ですか。 

K: いいえ。 さほどそうでもありません。
46:42 A: さほどそうでもない。

K: さほどそうでもない。 初めに、問いを出しましょう。 問いは、こうです - 私は、この世界で、何をすべきですか。
46:51 A: ええ。 

K: すなわち、この世界で、私の所は何ですか。 まず第一に、世界は私です。 私は世界です。 それは、絶対的な事実です。 私は、何をすべきですか。 世界は、こうです - 腐敗し、不道徳で、殺していて、 愛が、ありません。 迷信、偶像崇拝が、あります - 精神と手のそれへ、です。 戦争が、あります。 それが、世界です。 それへの私の関係は、何ですか。 それへの私の関係は、私がそれであるときのみ、あるのです。 私がそれでないなら、私は、それへの関係を、持ちません。
47:46 A: 私はそれを、行為ということに立って、理解します。
47:49 K: そうなんです。

A: 行為、ということに立って。 私が持っている概念、ではありません。
47:54 K: 私にとって、世界は腐敗しています。 殺すために、ギアが入っています。 私は、殺さないでしょう。 行って、赤ちゃんアザラシを殺す男への、 私の関係は、何ですか。 私は、「神様。 どうしてあなたは、そういうことが、できますか!」と、言います。 よろしいですか。私は、それについて泣け叫びたいです。そうします。 あなたはどうやって、あの男を、教育できますか - または、そういうことが起きるのを許す社会を、です。
48:26 A: そのときおそらく、私は、 その問いの言い回しを変えて、こう言うべきです - まあ、何であれ、されることを、私がするとき - この純粋な注意の行為を、行う中で、ですが - 私は、自分がいるところの世界より、分離していません・・・
48:47 K: 私は、すっかり違った角度から、それへ来ます。
48:49 A: そのとおり。いいです。
48:52 K: 私は、それへ来ます。 なぜなら、何か違ったものが、 私の中で、作動しつつあるからです。 

A: ええ。

K: 慈悲、愛、智恵、 それらが、私の中で作動しています。
49:04 A: でも、それは思うに・・・ここには、二つの可能性が、 あるように、思われます。 一方で、この純粋な注意の行為を、行うことは、 私が物理的に、別の人間の面前に、いることを、必要としません。 もちろん、私は、そこにいようが、いまいが、 いつも関係の中に、います。

K: もちろんです。
49:23 A: ええ。私は十分にそれを掴みます。 が、そのとき、第二の可能性は、 会話の中で - 私たちが今、それを、楽しく行っているように、ですが - 何かが、発生します。 何かが、起きます。 それは、それが起きるために、私たちが一緒にいなければならない、 ということではありません。 それは、それが起きるために、 私たちが一人でいなければならない、ということではありません。 ゆえに、私たちが確立してきたことは、 何かが発生する、ということです。 それは全く、 内と外の、これらすべての区別を、越えています - あなたがあちらにいて、私がこちらにいるとかを、です。
50:09 K: 何が起きるかを、ご覧ください。 何が起きるかを、ご覧ください。 まず第一に、私たちは、真剣です。本当に真剣です。 第二に、 殺すこと、腐敗 - 私たちはそれを、断ち切ってきました。 私たちは、それを終了させてきました。 で、私たちは、一人で立ちます。 一人です - 孤立しているのではありません。 なぜなら、精神は、それでないとき、一人、一つであるからです。 それは、引き下がってこなかった。 それは自体を、切り離してこなかった。 それは、自体のために、象牙の塔を、築いてこなかった。 それは、幻影の中に、生きていないのです。 それは、言います - 「あれは虚偽だ! あれは腐敗している。私はそれに触れまい!」と。心理的に、です。 私は、ズボンをはく、等々かもしれませんが、 私は、内的に、心理的に、あれに、触れないでしょう。 ゆえに、それは、完全に一人、一つです。
51:11 A: それは、これらの悲しげな巡りの最中で、これを言っています。ええ。
51:15 K: ゆえに、それは、一人であるので、純粋です。
51:19 A: 清純です。

K: ゆえに、 純粋さは、百万切れに切り刻まれるし、 それはやはり、純粋に留まるでしょう。 それは、私の純粋さや、あなたの純粋さではありません。それは、純粋です。 純粋な水のように、それは、純粋な水に留まります。
51:38 A: また、全面的に充ちている。 全体的に充ちている。

K: 全体的に、です。
51:44 A: それで、私たちは、あのサンスクリットへ、連れ戻されます - 「これは充実している。 あれは充実している。 充実から、充実が発する」と。 英語では、これが伝わらないのが、残念です - サンスクリットが伝える旋律が、です。
52:06 K: で、そうね、この会話から、出てきたことは、 とても興味深いのです。 そのことは、こうです - 私たちは、一人であることに、怯えています。 すなわち、私たちは、孤立することに、怯えています。 が、人間がする、あらゆる行為は、自分自身を、孤立させつつあります。 すなわち、人の野心は、自分自身を孤立させつつあります。 人は、民族主義的であるとき、自分自身を、孤立させつつあります。 人が、「それは私の家族だ」と言うとき、自分自身を、孤立させています。 「私は、充足したい」 - 自分自身を、孤立させています。 あなたが、それらを否定するとき- 暴力的に、ではなく、 それらの愚かさを、見る。そのとき、あなたは、一人、一つです。 それは、内に、ものすごい美しさを、秘めています。 ゆえに、その美しさは - あなたはそれを、 あらゆるところへ、拡げられますが、それはやはり、一人に留まります。 で、慈悲の性質は、それです。 ですが、慈悲は、言葉ではありません。 それは、起きます。それは、来ます- 智恵とともに、です。 この智恵が、指示するでしょう- 私の姉妹が襲われるなら、 その瞬間に、です。 が、「もしそうなら、あなたは、どうするのだろうか」 と言うなら、それは、智恵ではありません。 そういう問いと、それへの答えは、智恵がありません。 話が明らかになっているのかどうか・・・
53:48 A: ああ、はい。私は、精確にお話へ、付いていっています。
53:51 K: が、「ふむ、私の敵であるそれらすべての人々を 殺すために、私は準備しよう」と、言うのは、 非智恵です。 よろしいですか。 それが、陸軍や海軍です。 主権を有する政府全体が、それをしています。 で、愛は、何か、本当に清純であるものです。 清純は、一人、一つであることの性質です。 ゆえに、けっして傷つきません。 話が明らかになっているのかどうか・・・
54:22 A: この一つの行為において、自らは、自分自身をも、 他の一人をも傷つけないことは、興味深いです。 それは、傷からの全的な謹慎です。
54:33 K: ちょっと、お待ちください。 私は、あなたを信用しているから、自分のお金すべてを、預けてきました。 あなたは、それを私に、返そうとしません。 私は、「どうぞ、私に少し返してください」と、言います。 あなたは、返そうとしません。 私は、何をするのでしょうか。 智恵の行為とは、何ですか。 よろしいですか。 慈しみの行為、慈悲の行為 - 「それは何をするのだろうか」と言うもの、です。 質問に、付いてきておられますか。 私の或る友人が、 第二次世界大戦中に、 彼は気がついたら、スイスにいました - 彼は、大量のお金を、持っていました - 大金を、です。 彼は、子ども時代からの親友を、持っていました。 その友だちに、彼は言いました。 彼は、次の瞬間に、発たなくてはいけませんでした。 なぜなら、何かが、そうね、戦争が起きて、 彼はその国を、発たなくてはいけなかったからです。 で、彼は、お金すべてを持ってゆき、彼は、言いました - 「さあ、友よ、私のために、それを持っておいてくれ。 私は戻ってくるだろう。戦争が終わったとき、私は戻ってくるだろう」と。 彼は、戻ってきて、「どうぞ」と、言います。 彼は、「何のお金?」と言います。
55:41 A: 何とまあ。
55:43 K: お分かりですか。で、彼は、何をすべきでしょうか。 理論的に、ではありません。 あなたは、その立場に置かれます。 あなたは私に、何かを預けます。 あなたは私に、何かを信託します。 そして、私は、「ああ、もっともだ」と、言います。 「あなたは、私に与えてくれた。 今は遠吠えでも、していなさい」と。 あなたの責任とは、何ですか。 ただ、立ち去るだけですか。

A: いいえ。 もしも、それを取り戻す手段が、あったなら、 その瞬間に、それがされるでしょう。
56:17 K: 智恵が、です。

A: 智恵が、引き受けるでしょう。
56:20 K: ゆえに、それが、私が言っていることです。 愛は、許しではない。 - よろしいですか - 私は許して、立ち去ってしまう、ではない。 愛は、智恵です。 智恵は、敏感さを、意味しています - 状況へ敏感である。 あなたは敏感であるなら、 状況が、あなたに、何をすべきかを、語るでしょう。 が、もし、あなたは、鈍感であるなら、 あなたはすでに、何をすべきかを、決意しているなら、 あなたは、自分がしてきたことにより、傷ついているなら、 そのとき、鈍感な行為が、起きます。 話が明らかになっているのかどうか・・・

A: ええ、ええ、もちろんです。 ええ、もちろんです。 ここから、きわめて、きわめて興味深い問いが、出てきます - 良心について、私たちがいうのは、どういう意味なのかについて、です。 

K: ええ。
57:12 A: そして、「良心」(コンシャンス)という言葉は、 招いてきたように、私には思われます- 驚くほどの量の・・・
57:20 K: ・・・ごみを。 

A: ・・・進んでいることへの、誤った了解を。
57:23 K: ゆえに、意識(コンシャスネス)とは何であるかを、究明しなくてはいけません。

A: ええ。
57:30 K: 今、時間があるのかどうか、私は知りませんが、それには・・・ 私たちは、明日、別の日に、そうするでしょう - 意識とは何ですか。 そして、良心とは何ですか。 そして、あなたに、すべきことや、すべきでないことを語るのは、何ですか。
57:50 A: 関係への関係において、意識は、私たちが機会があるとき、 私があなたとともに、探検したいと思う何かです。 私は、何年も前に、大学院で、 大いに引き留められました - 或るアメリカ人思想家の行った発言に、ふと出くわしたことから、です。 モンタギューが、彼の名前だったと、思います - そのとき彼は、意識は、ひどく誤解されてきたと、言いました。 なぜなら、識ること(シャスネス)と呼ばれる何かが、 あると、考えられてきたからです。 が、識ること(シャスネス)といったものは、何もない。 私たちはそこに、(接頭辞の)コンを、入れなくてはいけません。 (コンの意味する)ともに、関係を、です。 それなしでは、私たちは、もううんざりです。 次回、私たちは、次の会話において、機会があるとき、 それを探検できるだろうことを、私は望んでいます。
58:35 K: 私たちは、この問いについて議論しなくてはいけません - 生きること、です。