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SD74CA13 - 異なった生き方
アラン・W.アンダーソンとの会話、第13回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月26日



0:38 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:43 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:51 A: クリシュナムルティさん、私たちは、前回の会話の終わりに、 私が正確に憶えているなら、生きることと 愛と死との間の関係を、覗きみていました。 すなわち、私たちはちょうど、そうしはじめていましたが、 そのとき私たちは、議論を、終わりにしなくてはいけませんでした。 私は今日、私たちがこれを、追求してもいいかと、 望んでいました - 人の変容に対する、私たちの 継続的な関心ということに立って、です。
2:26 K: いつものように、 これは、こうも複雑な問いです- この生きることは。 それは、何を意味するのかと、それは、実際に何であるのか、 そして、愛 - 私たちはそれについて、先日、 相当、詳細に、かなりくわしく話しました。 そしてまた、この甚大な、死の問題です。 あらゆる宗教は、慰める信念、慰める観念を、 提供してきました - 恐れ、悲しみと、そこに関与した物事すべてへの 解決が、あるだろうと、望んで、です。 で、私は思うのですが、おそらく私たちは、 生きるとは何であるのか、から、始めて、 次にそこから、愛と死へ行くべきだと思います。 

A: いいです。
3:38 K: 私たちは、今、生きることと呼ばれるものを、 実際に見つめるべきではないでしょうか - 何が起きつつあるのか、

A: ええ。
3:51 K: 何が実際に進んでいるのかを、です - それを、私たちは、存在、生きることと、呼びます。 自分自身を良くするための、 人の尽力のこの平野全体を、掩うための、 それら二つの言葉、です - テクノロジーの世界で、だけではなく、 心理的にもまた、人は、違っていたい。 人は、今の自分なるもの以上でありたい、などです。 で、私たちがそれを見つめるとき、 人々が所属している、いかなる国と いかなる人種や、いかなる宗教においても、 それは、常なる格闘の事態です - あなたが生まれた瞬間から、 あなたが死ぬ瞬間まで、それは、一つの戦いです。 他の人間たちとの関係において、だけではない - どれほど親密でも、親密でなくても、です - また経済的に、社会的に、道徳的にも、 それは、広大な戦いです。 あらゆる人が、それに同意すると私は思います。それは、明白です。 葛藤、闘争、苦しみ、痛み、 挫折、苦悶、絶望、 暴力、残忍さ、 互いに殺し合うこと - そのすべてが実際に進んでいることです。 オフィスや工場で、四十年、五十年を使い、 時折、一ヶ月間の休日。 そして、荒れた種類の休日です。 なぜなら、休日は、彼らの単調な生への反動であるからです。
5:48 A: 一休み。 

K: 一休みとか、それを何と呼ぼうと、です。 それらは、ヨーロッパ中、アメリカ中で、見られます - 次々と美術館へ行き、 あれこれを見て、駆け回る。 それは、逃避です - 自分たちの日々の課業の単調さから、です。 彼らは、インドへ行ってしまいます。そこには、 一万五千人ほどの、いわゆるヒッピーがいると、思います - 様々な衣装を着て、様々な僧院と、 様々な都市にいて、 最も突飛なことをやらかしています。 薬物を売っています- 彼らの幾らかは、です - インドの衣服を着て、 僧侶として衣装をまとう、それらです。 それは、一種、広大なロマンチックな、感傷的な逃避です - 自らの日々の単調な課業の生から、です。 それが、生きることと呼ばれるものです - 関係における戦い、ビジネスにおける、 経済的環境における戦い- それは、常なる格闘です。
7:08 A: あなたが仰ったことは、この生きることの把握自体にも、 染みついているように、思われます。 私たちは、生は戦いだという、言い方を、持っています。 あなたが仰ってきたことに立って、私たちは、それを解釈します。
7:27 K: 誰も、なぜそれはあのようであるべきかと、言うように、思われません。 私たちはみんな、それを受け入れてきました。 私たちは、「ええ、それは、私たちの存在の一部です」と、言います - 「私たちは、格闘しないなら、破壊される。 それは、私たちの自然な遺産の一部である。 動物たちから - 私たちは、それがいかに格闘するのかが、見える。 だから、私たちは、動物の一部、類人猿の一部である。 私たちは、格闘し、格闘し、格闘しつづけなければならない」と。 私たちは、「これは正しいのか」と一度も言ったことが、ありません - 「これが、生きる道なのか。 これが、振るまう道、 生きることの美しさを堪能する道なのか」と。
8:21 A: その普通の問いから、 いかに、より効果的に戦いを行うかが、出てきます。
8:27 K: 効果的に、成功裏に、最小の損害で、 最小の緊張で、最小の心不全などなどで、です。 が、地盤は、格闘のために、準備されています。 修道士、僧侶たちは、そうします- よろしいですか - 宗教者たちは、そうします。 ビジネス・・・芸術家、画家、あらゆる人間が、 どれほど区画化されていても、彼は、戦いの中にいます。 それを、私たちは生きることと、呼びます。 人は、それを見つめます。 智恵ある人は、こう言います - 「後生だから。それは、生きる道ではない。 違った生きる道が、あるのかどうかを、見出そう」と。 そして、誰も訊ねません。 私は、世界中で、 大変多くの政治家へ、話してきました。 そして、大変多くの導師たちへ、です。 私たちは、それへ来るでしょう。 その言葉は、とても興味深い - それが何を意味するのか、です。 私たちは、それへ入るでしょう。 私は、芸術家へ、実業家へ、職人へ、労働者へ、 極貧の人々へ、話してきました。 それは、一つの常なる戦いです。 豊かな人たち、貧しい人たち、中流階級、 科学者- よろしいですか -
10:03 A: ああ、はい。 よろしいです。
10:04 K: 誰も、「これは間違っている!」と、言いません - 「これは、生きることではない。 これは、流血だ!」と。
10:16 A: 私は、予知的性質の世界の文学について、 考えていました - その形態と内容ということに立って、 三つの基礎的な声明へ分割されがちなものです。 一方で、私たちは、正しく、生の戦いの表現を、 取り扱う叙事詩を、持っています。

K: 私たちは、「オデュッセイア」を
10:42 持っています。私たちは、「マハーバーラタ」を持っています。 私たちは、他の多くの書物を、持っています - すべて、このことを、讃えています。

A: それから、他のものは、
10:51 いわゆる生の旅を、取り扱います。 (ギリシャの)「オデュッセイア」は、特に、それに関係しているでしょう。 その中に関連した戦いが、多くあります - 個々人の間の対決ということに立って、です。 それから、充足としての生の概念が、ありますが、 私たちは、めったに充足の問いへ、到りません。 これらが研究されるとき、 それらは、文学形式ということに立って、研究されます。 あなたが出された問いは それは、学生一般に提示されるべき 問いであろうと、私には思われます。
11:30 K: そして、それは、真正な問いです。 それは、出されなければならない問いです。
11:37 A: あなたが語っておられるとき、私は、考察していました - すなわち、教室自体の中で、 この戦いは、そういうものであることが、当たり前だと、取られています。 それは、剛勇などと関係させられるべきものですが、 それに関連した問いは、生じません。
11:55 K: ええ。でも、或る若者たちには、それは、生じてきましたが、 彼らは、急に脇道へ行ってしまいます。
12:02 A: そのとおり。

K: コミューンか、 あるいは、ヒンドゥー教徒になる。 よろしいですか。 どこか大昔からの国へ、行ってしまい、ただ崩壊する。 何もしない。何も考えない。 ただ生きるだけ。
12:19 A: それは、本当に、横の方への動きです。
12:21 K: ええ、横の方へ。

A: 垂直のものではない。
12:23 K: そのとおりです。

A: その問いの中へ、でない。ええ。
12:26 K: で、それは、妥当な問いなのです。 それは、妥当な答えを、持たなければなりません。 理論的ではなく、こう言うのです- 「まあ、私はそのように生きよう。 私は、葛藤なしに生きよう」と。それがどういう意味かを、ご覧ください。 私は、息を止められるかもしれません。 私は、問います - あなたが格闘しないなら、 社会により拭い去られるだろうかどうかを、です。 私は個人的に、一度も格闘したことが、ありません。 私は、自分自身とか、または、他の誰かと、戦うことを、 一度も考えたことが、ありません。 で、私は思いますが、その種類の問いは、 言語的に、表されなければならないだけではなく、 その言葉の表現において、 私たちの一人一人が、そのように生きること、 唯一つの葛藤もなく、生きることが、可能なのかどうかを、 見なければなりません。 それは、分割なし、という意味です。 葛藤は、分割を意味しています。 葛藤は、両極の戦いを、意味しています。 葛藤は、あなたと私、我らと彼ら、 アメリカ人、ロシア人など、という意味です。 そうね、分割、分割、分割です。 断片化は、内的に、だけではなく、外的にも、です。 断片化があるところ、戦いが、あるにちがいありません。 一つの断片が、権力を掌握し、 他の諸断片を支配します。 で、智恵ある人は- そういう人物が、いるとして - 生きる道を、見出さなくてはいけません 眠りに就こうとしていなくて、 植物状態でいるだけではなく、 何か夢想的、神秘的なヴィジョンとそれらのものへ 逃避するだけではなく、 日常生活で生きる道を、です - その中で、どの種類の葛藤も、終わってしまった道を、です。 それは、可能です。 私は、身の回り中で、それを見守ってきました - 過去五十年の間、私の回りで戦いが、進んできました。 霊的に、経済的に、社会的に、 一つの階級が、別の階級と戦う。 独裁制、 ファシスト、共産主義者、ナチス。 よろしいですか。

A: ええ、いいです。
15:16 K: 彼らのすべては、これに根ざしています - 服従を助長し、服従を抑制し、 模倣し、順応し、服従する- すべて、戦いです。 で、生は、戦いになったのです。 私個人にとって、 そのように生きることは、 最も破壊的な、非創造的な生きる道です。 私はそのように、生きないでしょう。 私はむしろ、消え去るでしょう。
15:59 A: おそらく私は思うのですが、 あなたは同意なさるだろうかと思われますが、 或る種の混乱が、ここで、私たちの精神に、生じてきたのです - あなたのその叙述ということに立って、 私たちが自分自身を、この戦いと同一視するとき、です。 その問い- これは継続すべきか - について、 私たちが考えはじめて、 私たちが、戦いのイメージを、目の前に持っているとき、 私たちは、自分自身に想像しがちです - すなわち、私たちが本当に、話していることは、 「牙と爪を血に染めた自然」と呼ばれるものの、 人間的な等価物である、と。
16:45 K: 全くです。
16:46 A: が、私が、お話に正確に付いていっているなら、 これは、基本的な誤りです。 なぜなら、私たちの以前の会話において、少なくとも私にとっては、 あなたは、きわめて明らかに指示してこられたからです - すなわち、私たちは、恐れと危険を区別しなければならないし、 動物たちは、自身の環境の中で、 危険に臨んで、 明らかで即時の敏捷性をもって、行為します。 ところが、私たちは、この類似の水準において、 人間の葛藤と呼ばれるものを、研究しようと試みるなら、 私たちは誤りをしているように、思われます。 なぜなら、私がお話を正確に理解したのなら、 類似はただ単に、妥当しないからです。

K: ええ、そうです。
17:33 A: が、これが行われがちであることに、同意されませんか。
17:36 K: ああ、なかなか、です。
17:37 私たちは、人を理解するために、 動物や鳥を研究します。

A: そうです。
17:43 K: ところが、人を研究できるのです- すなわち、あなた自身を、です。 人を知るために、動物へ行かなくてもいい。 で、それは本当に、とても重要な問いです。 なぜなら、私は - 私自身について、少し話してもいいなら - 私はすべてを、見守ってきました。

A: どうぞ、そうしてください。
18:05 K: 私はインドで、それを見守ってきました。 サンニャーシ、僧侶、導師、弟子、 世界中の政治家を、です。 私は、たまたまそうしてきました。 どうやら私は、彼らみんなに、会ってきました - 作家、有名人、 きわめて有名な画家 - 彼らのほとんどが、私に、会いに来ました。 それは、深い不安感です - 自分たちは、格闘しないなら、何物でもないだろう、 自分たちは、失敗者だろう、というものです。 すなわち、その生きる道が、 ただ一つの、正しき、生きる道である、と。
18:55 A: いわゆる生産的であるよう、自己を駆り立てるんです。
18:58 K: 生産的、進歩的であるように。

A: 進歩的であるように。
19:01 K: 私たちは、これを子どもの頃から、教えられます。
19:05 A: ああ、はい。

K: 私たちの教育は、それです。 自分自身と、戦うだけではない。 隣人とも、です。 けれども、隣人を、愛するのです。 よろしいですか。 それは、あまりに滑稽になります。 で、それを述べておいて、 葛藤なく、生きる道が、ありますか。 私は、ある、と言います- 明白です。 すなわち、分割を理解すること、 葛藤を理解すること、 私たちがいかに断片化しているかを、見ること、 諸断片を統合しようとするのではありません - それは、不可能です。 その知覚の中から、 行為は、統合より、全然異なっています。 断片化を、見ること - 葛藤をもたらすそれ、 分割をもたらすそれ、 この常なる戦い、心配、緊張、心不全を、 もたらすそれを、見る。 よろしいですか。それが、起きつつあることです。 それを見ること、 それを知覚すること - その知覚こそが、行為をもたらします。 それは、葛藤の行為より、全然、異なっています。 なぜなら、葛藤の行為は、自らのエネルギーを、持っていて、 自らのエネルギーを、もたらすからです - それは、分割的です。 それは、破壊的で、暴力的です。 が、知覚と行為のエネルギーは、 全然、違っています。 そのエネルギーが、創造のエネルギーです。 何でも、創造されるものは、葛藤の中に、ありえません。 色彩との葛藤の中にいる芸術家 - 彼は、創造的な人間ではありません。 彼は、完璧な技、完璧な技術を、持っているかもしれません - 絵を描くための才能を、ですが、それは・・・
21:21 A: それに私は、大いに興味があります- すなわち、あなたがここで、 双方の活動への関係において、「エネルギー」という言葉を、 使われたことが、です。

K: ええ、双方の活動、です。
21:30 A: あなたは、根本でエネルギーは、異なっているとは、仰らなかった。
21:35 K: ええ、ええ。

A: 現象は、異なっています。

K: ええ。

A: こう見えるでしょうね -
21:45 自らが、成功、繁栄、勝利を自分の活動の対象とし、 この葛藤に提携するとき - 彼はそれが、自分に提携すると、解釈します。 彼はいつも、「物事が私に向かってくる」と、考えがちです。 彼が、これを引き受けるとき、 私がお話を、正確に理解したのなら、 エネルギーが解放されますが、 それは、断片的な様式で、解放されます。
22:18 K: 逆の方で、ええ。

A: ええ。 ところが、知覚でもって解放されるエネルギーは、 同じエネルギーです。 いつも、全体的(ホール)です。

K: 全体的です。ええ、そのとおりです。
22:30 A: それが、あなたの仰っている・・・

K: ええ。そのとおりです。 ゆえに、真っ当です。 ゆえに、健康的(ヘルシー)です。 ゆえに、聖です。(同じ語源の)ホーリーです。 

A: ええ。 私は、こういう感じが、しています - このエネルギーの解放が砕け散って、 断片化として、エネルギーの様式になるのは、 本当に、私たちが「デーモン的」という言葉で言っている意味です。
22:59 K: デーモン的。 そのとおりです。
23:01 A: それは、それに悪い名前を、付けることです。

K: でも、それは、良い名前です。 それは、秀逸な名前です。

A: でも、あなたは、本当にこれを、仰っていますよね。
23:08 私は、これを言っています。

K: が、私は同意します。 私は全的に、あなたとともに、それを見ます。 私は、それがデーモン的だと、見ます。 それは、とても破壊的なものです。
23:18 A: そのとおり。

K: それが、私たちの社会なるもの、
23:23 私たちの文化なるものです。
23:27 A: 私たちが、その「デーモン的」という言葉に、したことです! 私はちょうど、ソクラテスについて、考えていました。 彼は、自分の(超自然的な)「ダイモーン」に、言及します - 全体性の中で作動するエネルギー、という意味で、です。
23:42 K: そのとおりです。
23:44 A: 私たちは、ギリシャ語より、その言葉を すっかり(ソクラテスの)「弁明」の脈絡から、取り出してしまい、 それをひっくり返してしまいました。 今、それが意味するのは・・・
23:54 K: 悪魔です。

A: そのとおり。 同じことが、 (インドの)「アスラ」という言葉の使用において、起きたのです。 元来、ヴェーダにおいて、 これは、悪魔的なものへの言及ではなかった。 根本的な分極化は、なかった。

K: ええ、ええ、全くです。
24:16 A: 最終的に私たちは、神々と悪魔(阿修羅)に、終わってしまいます。
24:20 K: 全くです。
24:21 A: それは - あなたは提起なさっていると、思いますが - それは、 私たち自身のデーモン的な振るまいの全くの投影に、他なりません - 私たち自身が生成させてきたものの、です。 

K: そのとおりです。
24:32 A: これは、私にとって、 ものすごく意味をなします。 どうぞ、進んでください。
24:35 K: で、私たちの生きる道は、最も非実践的な、狂った生き方です。 私たちは、狂った生き方を、もっと実践的にしたいのです。
24:57 A: ええ。それへの祈りは、ありませんね。
25:00 K: が、それが、私たちがいつの時も、要求していることです。 私たちは、「全体的であり、ゆえに、健康的で、真っ当で、聖なる生き方を、 見つけよう」とは、けっして言いません。 それをとおして、知覚すること、行為することをとおして、 全的なエネルギーの解放が、あります - それは、非断片的です。 それは、芸術家、実業家、政治家、 司祭者、素人ではありません。 それらは、まったく存在していません。 さて、そういう精神を、そういう生き方を、もたらすには、 何が実際に起きつつあるかを、 観察しなくてはいけません- 外側と内側で、 私たちの中、内側と、外側で、です。 それを見つめる。 それを変化させようとしない、 それを変容させようとしない、 異なった適応を、もたらそうとしないで、 実際に、それが何であるかを、見る。 私は、山を見つめます。私は、それを変化させられません。 ブルドーザーを使っても、それを、変化させられません。 が、私たちは、見えるものを、変化させたいと思います。 観察者は、観察されるものです。 理解されますか。 ゆえに、そこに変化は、ありません。 ところが、知覚には、観察者がない。 ただ見ることだけが、ある。ゆえに行為することが、あるのです。
26:44 A: これは、私たちが行った前の会話へ、鏡を掲げます。 そのときあなたは、美しさ、熱情、苦しみに、言及されました。
26:55 K: ええ。 苦しみと行為です。ええ。
26:58 A: 私は、あなたに質問をしたのを、憶えています - それらの間に、正確な関係を回復するには、 私たちは、苦しみから始めなければならない、と。 それは、もし知覚されるなら - それは、知覚されるべきですが - 熱情を生成します。
27:15 K: そのとおりです。

A: 働いて、それを作り出さなくていい。 それは起きます。 そして、見よ。 同じ瞬間に、 美しさが、吹き出します。 そして、愛も、です。 で、熱情(パッション)は、自体が慈悲(コンパッション)です。 (「ともに」を表す)「コン」が、正しく(「苦しむ」を表す)熱情とともに 入ってきます。 

K: 熱情とともに。 そのとおりです。 

A: ええ。
27:40 K: さて、もしもあなたが、教授としてか、 教師としてか、親としてか、これを指し示せたなら - 私たちが生きている道の非実践性、 その破壊性、 大地への全くの無頓着を、です。 私たちは、触れるものすべてを、破壊しつつあります。 そして、そこに葛藤がない、生きる道を、指し示す。 それが、私にとっては、 最高の形の教育の機能であると、思われます。
28:24 A: ええ。けれども、それは、必要条件を、含んでいます。 私には、それは、きわめて明らかに思われます - すなわち、教師自身が、葛藤なしでなければならないのです。 これは、私たちの一般的な教育構造の中で起きることとは、 きわめて、きわめて異なった出発点です。 特に、専門的な教育活動におけるものとは、異なっています。 そこでは、人文学の科目そのものというより、 専門教育での学位を、取るんです。 私たちが、例えば、教えられる・・・ 私は、これについて、幾らか外部者として、語っています。 なぜなら、私は、教育での学位を、持っていなくて、 人文学の科目そのもので、持っていますが、 私は、教育の中で私の同僚たちに 起きていることを、観察してきました - すなわち、教える技術が、 ものすごく強調されているんです。

K: もちろんです。 もちろんです。
29:21 A: そして、あなたが議論なさってきた種類の変容を 遂げてきた個々の教師の問いは、 根本的な関心の要因ではありません。 もちろん、利他的な意味で、関心事であるのは、 教師が、学生の興味、関心を、 心に留めておくことと、 その種のことです。 それは、もちろん、それ自体では、称賛すべきなんですが、 それは、事実の後追いです。 それは、この初めの変容の事実の後追いです。
29:54 K: ええ。 ですが、そうね、 すると・・・私は初めに、私自身を変容させなければなりません。 それで、私は教えられるのです。

A: 正しくそう、正しくそう。
30:04 K: 待って、見てください。 そこには少し、何かが、あるのです - 全く的確ではないことが、です。 それは、私は、自分が変化するまで、待たなくてはいけない、という意味です。 もし、私が教育者であるなら、 なぜ、教える行為こそにおいて、私は、変化できないのですか。 少年たち、学生たちは、葛藤の中に、生きますね。 教育者は、葛藤の中に生きます。 さて、もしも私は、たくさんの学生をもった教育者であったなら、 私は、そこから始めて、こう言うでしょう - 「私は、葛藤の中にいる。 君は、葛藤の中にいる。 議論する中、私たちの関係に気づく中、 教える中で、私と君が、 この葛藤を解消することが、 可能でないのかどうかを、見てみよう」と。 そのとき、それは行為がある。 が、私が葛藤すべてから自由になるまで、私は待たなくてはいけないなら、 私は、最後の審判の日まで、待っていられます。
31:11 A: あなたが仰っていることが、今、正しく分かります。 仰っていることは、文字通り、こうです - 教師は、今現在、葛藤の中に、いますが、 単純にただ、これを認知します。 歩いて、教室へ入って行く・・・

K: そのとおりです。
31:27 A: 葛藤から自由である誰かとして、ではありません。
31:31 K: そのとおりです。

A: ええ。 彼は、歩いて、教室へ入る。 そして、さあ、ここにある。 私たちは、それに向き合っています。 彼は、学生たちを見つめます。 彼はそれを、開け広げます。
31:41 K: それが、私が議論するだろう、最初のことです - 専門的、技術的な主題ではありません。 なぜなら、それが生きることであるからです。それから、私は議論します。 また、専門的、技術的な主題を教える中でこそ、 私は、「いいよ。 見てみましょう」と、言うでしょう - 「私たちはどう接近するのか」と、ね。 私は、そこから学べます。 それで、学生と教師はどちらも、 自分たちの葛藤を知り、 葛藤を解消することに、興味を持つ。 ゆえに、彼らは、ものすごく関心を持っています。 それは、とてつもない関係を、生み出します。 なぜなら、私は、それを見守ってきたからです。 私は、インドとイングランドで幾つもの学校へ、行きますが、 それが、起こります。
32:31 A: これが起こる中で、愛が、吹き出します。
32:36 K: もちろんです。もちろんです。 それが、まさにその本質です。 なぜなら、私は気づかう、私は、責任を感じるからです。
32:46 A: 私は少しだけ、これに入ってもいいですか。 この一連の、私たちの対話の中で、 私に関連してきたことの一つは、 誰かはおそらく、さほど明らかに見なかったはずだと、いうことです - あなたが私に、指摘してくださったと私が思うほどには、です。 すなわち、思考と知識について、私たちの議論の中で、 私たちが言ってきたことは、 思考に、そして知識には、何か機能不全がある、ということです。 それは、自体の本性へ関係します - 思考の本性と、知識の本性へ、です。 それは、思考は病気である、とか、 知識は病気であるとの印象を、けっこう与えるかもしれません。 私がお話より理解したように、 思考と知識には、自らの適切な使用が、ある、 との印象を、与えるよりは、です。
33:48 K: もちろんです。
33:49 A: それらの本性は、そのものとして、腐敗していません。
33:52 K: 明白にそうです。

A: そのとおり。
33:53 K: それは、その使用です。 全くです。 

A: そうです。 ゆえに、それは、最重要になります。 私は思いますが、あなたが仰っていることを、理解する中で、 私たちが加える是正に、気づくことは - ともに私たちが、思考の使用と知識の使用を、 検討するとき、ですが - 同時に、 思考の原理、知識の原理が、それ自体の本性で、 腐敗していると、想定しません。
34:22 K: ええ。全くそうです。

A: それで、教室の中で、 私たちは、テキストを研究できるでしょう - その中には、主張がなされます。 肯定的な言明が、なされますが、 こうは、考えない - 名と形態は、それ自体で・・・
34:38 K: 腐敗している、と。 

A: ・・・腐敗しているとは、考えない。
34:40 K: 明白にそうです。マイクロフォンはマイクロフォンです。 それに、腐敗したことは、何もありません。
34:46 A: そのとおり。 ですが、 そうね、そのことは、ものすごい力をもって、心に沁みいります - すなわち、自らの学生への関係において、 これをすることから始めなければならない、ということです。 私はここで、私自身について、少し物語を、しなければなりません 何年も前に私は、あなたの講演の一つを、聞きに行きました。 私は、よくよく気をつけて聞いたと、思いました。 もちろん、 一つの講演は、それ自体では、 おそらく、少なくとも私のような者にとって、それは十分でなかった。 または、別の表し方は、おそらく、より正直には、こうなるでしょう - 私はその時に、講演のために、十分ではなかった。 なぜなら、私が今、それを思い起こしてみると、 私たちが議論してきた諸原理を、 あなたは、きわめて明らかに述べられたと、思われるからです。 私は、その講演から、去って行きました - あなたが仰っていることと、仏教との間には、 きわめて近い関係が、あるとの印象をもって、です。 学者は、いつもやりがちですが、 私は、ラベルのこと全体について、考えていました。 そうね、私たちがいかに世界を、種類に分割するのか、です。 そして、私たちの一連の会話の中で、今、 私は、自分が深遠に誤っていることが、分かってきました - 深遠に誤っている。 私は、自分自身をつねって、考えます。そうね、 私は、前に自分が考えたことを、考えつづけていたかもしれません - それは、あなたが関心を持っておられることの何とも、 何の関わりも、ないんです。 それに向き合うことは、啓示です - すなわち、 歩いて、教室へ入る前に、 始めるための資格証明を、持たなくてもいい。 彼はただ、そのことを見はじめなくてはいけません - すなわち、自分を、 クラスとの敵対関係に入れようとしていると 信じていることを、です。 なぜなら、私たちは、自らが話すのを 回避しなければならないことがあると、信じているからです - なぜなら、それらは、諍い、決裂を創り出し、私たちを挫いてしまうから、と。 ゆえに、葛藤について、話さないようにしよう。 

K: 全くです。

A: または、私たちがそれについて、話そうとしているなら、 これら光を持たない人たちに対して、 私たちは、それを持っている人たちだということに立って それについて、話そう。 そして、私たちは彼らに、良い知らせをもたらさなくてはいけない、と。
37:22 K: それは、導師に似ています。
37:24 A: そのとおり。でも、単純に、教室へ入ってきて、 何の前提条件もなく、見てみよう - 私はこれを、手にしているが、あなたは、していないとか、 あなたは、手にしているが、私は、していないとか、 自分で考えることなしに、です。 私たちはともに、それをただ保とうとしています。
37:42 K: そのとおり。 ともに分かち合う。
37:44 A: それを分かち合う。 そして、見よ・・・ お話に付いていっていますか。

K: 完璧です。
37:50 A: ああ、それは、すばらしい。 私は、こうしようとしています - 私たちの会話が、終わりになった後に、です。 私は歩いて、あの教室へ入るでしょう。 どうぞ、進めてください。
38:12 K: で、葛藤をとおして創り出されたエネルギーは、 破壊的です。 葛藤、格闘、戦いをとおして 創り出されたエネルギーは、 暴力、ヒステリー、神経症的な行為などを、生み出します。 ところが、知覚の行為は、 全的、非断片的です。 ゆえに、それは、健康的で、真っ当ですし、 こうも強烈な気づかいと責任を、もたらします。 さて、それが、生きる道です - 見る、行為する。 見る、行為する。いつの時も、です。 もし、観察されるものより、異なった観察者が、あるなら、 私は、見られません。 観察者は、観察されるものです。
39:17 A: これは、私たちの死との対決と呼ばれるものへ、 とてもすばらしいことを、します。

K: ええ、私たちはそこに、来るでしょう。
39:25 A: ええ。私は、自分が行ったのが、分かります・・・
39:27 K: ・・・飛躍した。 いえ、いえ。そのとおりです。 で、そうね、 私たちの意識の内容全体は、戦いです。 戦場、いくさ場です。 この戦いを、私たちは、生きることと、呼びます。 その戦いの中、どうして愛が、存在できますか。 もし私は、あなたを殴っているなら、私は、あなたと競争しているなら、 あなたを乗り越えよう、成功しようとしていて、非情であるなら、 愛や慈悲、優しさ、穏やかさの炎が、 どこに、それらへ入ってきますか。 入ってきません。 そういうわけで、今あるような、私たちの社会は、 行為に関してや、愛に関して、 道徳的責任の感覚を、何も持っていないのです。 それは、存在していないのです。
40:35 A: 私は、自分の経験の脈絡の中へ、戻ろうとしています - またもや、教室の中で、です。 私には、いつも、こう思われました - 「(バガヴァット・)ギーター」の第一偈頌、 「ギーター」の第一章、第一偈頌は、こう始まります - ダルマクシェトレ・クルクシェトレ法の国土において、 クルの国土において - その「クルの国土において」は、 同格での言明です。そして、国土(平野)は一つです。 私は歩いて、教室へ入り、そのとき、私たちは、「ギーター」をしはじめました。 私は、言語的にも、示そうとしていました。 それは、テキストから、そして全体の精神、ということに立っても、 可能であると、私には思われたからです - すなわち、これが本当に、言われつつあることである。 それは、一つの国土(平野)であり、それは、二つの国土ではない、と。 私たちは、こちらに一つの軍勢を、こちらに別のを、持っていますが、 それらは、二つの国土を占有しない。 どうしてか、それは一つの国土です。

K: それは、私たちの大地です。
41:36 A: そのとおり。それは全体です。

K: そうです。
41:40 A: ですが、そうね、私は、お話を聞いてきた今、 自分は、もっと上手くやっただろうと、思います。 もしも私が、授業へ行って、あの発言をする代わりに、 彼らを招く - 気をつけてテキストを見つめるよう、そして、 教えるのをとおして、私たちが進行するにつれて、 それに留意するように、です。 そして、注釈に次ぐ注釈の中で発生しただろう、 それへの誤った解釈を、見張る。 もしも、私が別の形で始めていたなら、もっと良かったでしょう。 もしも私が、こう言うことから、始めていたなら、もっと良かったでしょう - 「一目見て、それが一つの国土であるか、または、 それは、葛藤をもった国土であるのかどうかを、一緒に見よう」と。 私たちは、この時点で、まったく書物を読もうとしていません。 私たちはただ、ここで出発しようとしています。これが、国土です。 教室が国土(平野)です。 さて、一目見てみよう。 そのほうが、良いやり方だったでしょう。
42:39 K: それを理解されたなら - 教室は国土である - それを理解されるなら、 全部を理解されたのです。
42:46 A: そのとおり。 ですが、私は、こういう概念をもって、入って行きました - 私はそれを掴んでいたけれども、それで、私は、 単純にそれを言語的に示すことで、十分だと、思いましたが、 それは明らかに、そうではない。 これは、怖ろしい。 なぜなら、たとえ、教室の中で、 表向きは、いわゆる正しいこととして通ることを、言うとしても、 それはやはり、私たちが話してきたこの行為ということに立って、 納得されないでしょう。

K: 行為に立って、全くそうです。 私たちは、そこから進めるでしょうか。 私たちは、生、生きることについて、議論してきました - そこには、愛が、まったく存在していません。 知覚者が知覚されるものであり、行為するとき、 愛は、存在できるだけです - 私たちが言ったように、です。 そのとき、その炎、その慈悲、 いわば大地を両腕に抱えている、その感覚は、 もしそれが、理解されるなら - そして、そこから、振るまいです。 なぜなら、それが、基盤であるからです。 もし、振るまいがないのなら - 無葛藤の振るまい、という意味で、ですが - そのとき、私たち自身の中に、それを確立した後か、 それを観察する中で、 私たちは次に、死の問いへ進行できます。 なぜなら、死の問いは、無量のものであるからです。 私にとって、生きること、愛と死は、分離していません。 それらは、一つの動きです。 それは、死はあちらにあり、 私は二十年後か、翌日、それに出会おうとしている、というのではありません。 それは、そこにある。 それは、愛とともに、生きることとともに、ある。 それは、継続的な動きです- 非分割的です。 これが、私が生き、考え、感じるさまです。それが、私の生です。 私は本気で、申しています。これらは、私にとって、言葉だけではありません。 で、私たちは、死の問いへ入る前に、 意識とは何であるかの問いへ、入らなくてはいけません。 なぜなら、意識とは何であるかを、理解しないなら - 説明ではなく、 叙述ではなく、言葉ではなく、 意識の実在性を、です、 私は、人間として、いったい意識していますか。 そして、意識するとは、どういうことですか。 気づくとは、どういうことですか。 私は、全的に、気づいていますか。 または、時折、危機が生ずるとき、 気づいているだけであり、その他では、私は睡眠中ですか。 で、そういうわけで、意識は何であるかを、 見出すことが、とても重要になるのです。 よろしいですか。 

A: ええ。 あなたがちょうど、仰ったことは、 私には、私たちが、意識との間に区別をつけていることを、 表示するように、思われます - 意識は、継続する動きであり、全く行為に位置している。

K: そのとおりです。

A: これらピッピというもの、 実質的に、自然の眠い進路の中での これら噴出に対して、です。
47:11 K: そのとおりです。

A: ええ。 それは分かります。ええ、ええ。 どうぞ、先へ進んでください。
47:15 K: で、意識とは、何ですか。 意識は、その内容です。 私はそれを、きわめて単純に、表しています。 私は、これらのことについて、きわめて単純に話すのを、好みます - 精巧な、言語的な叙述と理論と、 仮説と、その他すべてではなくて、です。 それは、私には個人的に、何の意味も、ありません。
47:40 A: それは、真実であるなら、単純でしょう。 

K: 単純です。
47:43 A: ええ、もちろんです。
47:46 K: 意識は、その内容です。 内容が、意識です。 二つは、分離していません。 すなわち、諸々の思考、心配、同一視、 葛藤、抗争、懸念、 執着、無執着、恐れ、楽しみ、 苦悶、苦しみ、信念、 神経症的な行為 - そのすべてが、私の意識です。 なぜなら、それが、内容であるからです。
48:27 A: これは、「世界は私であり、私は世界である」というのと、 同等の発言です。

K: そのとおりです。

A: で、そこには、継続があります。

K: ええ、そのとおりです。 で、「あれは、私の家具だ。 あれは、私の神だ。 あれは、私の信念だ」と言う内容は - そのあやと微妙さすべてと、それらとともに - 私の意識の一部です。 「私がいる。私はあれだ。 私は、あの家具だ」と 言う意識の一部です。 私が、自分自身を同一視し、「あれは私の家具だ。私はそれを 保たなければならない」と言うとき - よろしいですか - 私が、それに執着しているとき、私は、あれです。 私は、あの知識です - 「私は、知識を取得してきた。 私は、そこで成長してきた。私は、そこで成功してきた」と言う知識です - 「それは、私に、大きな慰めを、与えてくれた。 それは、私に住宅を、地位、権力を、与えてくれた」。 あの住宅は、私です。 私が経てきた戦い、苦しみ、苦悶 - あれが、私です。 あれが、私の意識です。 で、内容が・・・意識は、その内容です。 ゆえに、分割は、ないのです - その内容より分離した意識として、です。 私は、意識を拡張させるか、拡げることが、できます - 水平にか、垂直にか、ですが、 それはやはり、その平野の中に、あります。 私は、「神は無量である」と言って、 それを拡張できます。 それは、私の信念です。 私は、自分の意識が拡張していると、想像することにより、 それを拡張してきました。 何であれ、思考が、世界に、そして、私の内側に 創り出してきたものは、内容です。 世界全体が、特に西洋では、 思考に基づいています。 その活動、その探検、その達成、 その宗教などは、 根源的に、思考の結果です - そのイメージなどなどなどとともに、です。 で、それが、意識の内容です。 いいですね?

A: いいです。
51:16 K: さて、そこから生じます -死とは何ですか。 死は、意識がその内容とともに 終わることですか。 または、死は、その意識の継続ですか。 あなたの意識は、私のより、異なっていません。 それは、小さな差異、小さな修正を持っているかもしれません - もう少しの小さな拡張、小さな縮小などを、ですが、 本質的に、意識は、私のと同じく、あなたのです。 なぜなら、私は、自分の住宅に執着しているからです。 あなたも、またそうです。 私は、自分の知識に、執着しています。 私は、自分の家族に、執着しています。 私は、絶望しています - インドに生きていても、 イングランドにでも、アメリカにでも、どこにいても、です。 で、その意識は、共通しています。 それは、反駁不可能です。 よろしいですか。 

A: ああ、はい。 私は、よく付いていっています。
52:27 K: で、何が起きるかを、見てください。 私はこの内容を、一度も検討したことが、ありません。 私は、それを間近で見つめたことがありません。私は、怯えています。 私が死と呼ぶ何か、知られていないものに、怯えています、 当面の間、それを、知られていないものと、呼びましょう。 で、私は、怯えています。 それに、答えはありません。 誰かがやってきて、言います - 「ええ、友よ。死の後に、生がある。 私は、その証拠を持っている。 私は、それが存在するのを、知っている。 なぜなら、私は、自分の兄弟、自分の息子に、会ったから」と。 私たちは、今すぐ、それに入るでしょう。 で、私は、怯えて、心配し、恐れて、病気になっています。 よろしいですか。私は、それをものすごく受け入れます。 即座に、「はい、輪廻転生がある」と、言います - 「私は来世、生まれるだろう」と。 その生は、業に関係しています。 「業」(カルマ)という言葉は、行為する、という意味です。 

A: ええ。
53:47 K: そこに関与した、長い無駄話すべてではなく、ただ、行為することです。 何が関与しているのかを、見てください。 すなわち、もし私が、輪廻転生を信じているなら - すなわち、この意識が、 その内容とともに - それが、「私」です。 私の自我、私の自己、私の活動、 私の望み、楽しみ。 そのすべてが、私の意識です。 その意識が、来世、生まれようとしています - それは、あなたと私の、そして、彼と彼女の、 共通の意識です。 それが、来世、生まれようとしています。 彼らは、こう言います - 「あなたは今、適切に振るまうなら、 あなたは、来世、褒賞されるだろう」と。 それは、因果の一部です。
54:40 A: それは、意識の内容の一部です。
54:42 K: 因果作用と、果報です。

A: ええ。
54:46 K: だから、きちんと振るまいなさい。 なぜなら、あなたは、来世、処罰されようとしている。 あなたは、来世、褒賞されるだろうから、と。 東洋世界の全体が、それに、基づいています。 輪廻転生を信じています。 で、何が起きますか。 私は信念に、慰めを得てきましたが、 実際に、私はそれを、実行しません - それは、こう言います - 「今、きちんと振るまいなさい。 今、良くありなさい。 今、他の一人を傷つけるな」と。
55:24 A: 実際にその観念は、私は今、きちんと振るまうべきだ、というものです。 私たちは、この「べき」ことを、経てきました。 「私は、これをすべきだ、あれをすべきだ。 他をすべきだ - 後で、起きるだろうことのために」と。 が、そのとき私は、それが果てしない過程であるとの 思考に、慰めを得ます。

K: そのとおりです。

A: それはどうやら、そこに組み込まれています。 すなわち、私はまた、別の機会を、得るだろう、と。 で、私は一種、言い訳をできます。 私は、言い訳をできます。
55:50 K: 私は、言い訳ができます。私は、延期できます。私は、誤った振るまいをできます。
55:54 A: ええ。なぜなら、私たちはみんな、終わりにそれをやり遂げるよう、
55:57 運命づけられているからです。

K: 結局は、ね。
55:59 A: はい。それは、これらの会話をとおしてずっと、あなたが 話してこられたことへの把握がないことを、示します - 行為の即時性と切実さへ、です。

K: 行為へ。そのとおりです。
56:09 A: ええ、ええ。分かります。

K: で、そうね、 たぶんヒンドゥー教徒が、この観念の創始者だったのでしょう - 原因、結果。 結果は、次の因果により修正されるでしょう。 で、この果てしない連鎖が、あります。 彼らは、「それは果てしない。 私たちはそれを、いつか破るだろう」 と言います。「ゆえに、今あなたが何をするのかは、大事でない」と。 信念は、あなたに、大きな慰めを、与えてくれます - あなたは、継続するだろう。 あなたは、兄弟や妻、夫と 一緒になれるだろうと信ずる中で、です。それが何であっても、ですが、 その間は、あまり深刻に悩むな。 生を、あまり深刻に捉えるな、と。

K: そのとおり。ええ、ええ。
57:01 K: 実は、すてきな時間を過ごせ、楽しめ。 または、何でも自分のしたいことを、しろ。 来世、少しつけを支払うが、続けてゆけ、と。
57:09 A: 私はこれについて、有名なヒンドゥーの教師に、話していましたが、 私は、あなたがちょうどなさった、まさにこの発言を、しました。 私は、それは、幾らか力を持つだろうと、考えました。 そして、私は、こう言いました - そうね、反復を止める望みは、何もないですね。 もし、これに関して、行為が、即時になされないのなら - ゆえに、この概念に浸る人々全体の 意識の内容ということに立って、ですが、 果てしない反復の他、何もありえないし、 真の関心は、ありえないですね、と。
57:45 K: 彼は、何と言いましたか。 

A: 彼がしたことは、笑うことだけでした。 まるで、見たところ、ほとんどの人々が見るために、 本当に頭を悩ませていない何かを、 私がどうにか、知覚したかのように、です。 が、私にとって、とてつもないことは、 彼が、自分が知的に判別することへ、 何の関心をも、示さない、ということでした。
58:07 K: それが、彼らなるものです。 偽善者です。よろしいですか。 彼らは、偽善者です - 彼らが、それを信じているのに、 正反対のことを、するときは、です。
58:16 A: 正しくそうです。 あなたが仰る意味を、理解します。 仰っていることは、ですね、バイブル的な、偽善者の概念の 用法が、あります - あの厳密な意味で、です。
58:24 K: 厳密な意味で・・・もちろんです。

A: ええ。きわめて厳密な意味で、です。 私たちは、次の会話で、これを継続できるでしょうか。 

K: ええ。

A: なぜなら、思うに・・・
58:32 K: ああ、ここには、大変多くが、関与しています。
58:34 A: すばらしい。私はそれを、待ち望んでいます。
58:36 K: ええ。私たちはそれに、入るでしょう。