SD74CA15 - 宗教、権威と教育 - 第一部
アラン・W.アンダーソンとの会話、第15回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月27日
0:00 | クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話 |
0:43 | J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を、 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。 |
1:50 | A: クリシュナムルティさん、 私たちは、前回、ともに、死について、話していました - 生きることと愛の脈絡において、です。 そして、私たちがちょうど、 議論していることの締めに、来たとき、 私たちは、教育へのさらなる探究、ということに立って、 これを追求するのが、良いだろうと、考えました - 教師と学生との間で、彼らがともに見はじめるとき、 本当に何が進んでいるのか、と、 即時に現れて、ぎょっとさせる罠が、何であるか、です。 あなたは、死の恐怖に、触れられました - 単純に、外面的に、だけではなく、 内面的に、思考への関係において、です。 私には思われますが、おそらく、もしも、私たちがそれを継続して、 それにもっと深く入ったなら、すばらしいことでしょう。 |
3:04 | K: 私は、お訊きしたいのですが、 なぜ私たちは、そもそも教育されるのですか。 人々が受ける、この教育の意味は、何ですか。 見たところ、彼らは生のことを、何一つ理解しません。 彼らは、恐れ、楽しみを、理解しません - 私たちが議論してきたこと全体と、 究極的な死の恐れと、 無いことの恐怖を、です。 それは、私たちが、こうも全く物質主義になってしまった、ということ、 私たちはただ、良い職、お金、楽しみと、表面的な面白いことと娯楽に、 関心を持っているだけ、ということですか - それら(娯楽)が、宗教的でも、フットボールでも、です。 それは、私たちの本性と構造の全体が、 こうも全く無意味になってしまった、ということですか。 そして、私たちは、それへ教育されているとき、 突然に、何か実在のことに、向き合うことは、怖ろしいのです。 私たちが、昨日、言っていましたように、 私たちは、自分自身を見つめるよう、教育されません。 私たちは、生きる事柄全体を 理解するよう、教育されません。 私たちは、自らが死に向き合うなら、 何が起きるのかを、見つめ、分かるよう、教育されません。 で、私たちが今朝、やって来ながら、私は、思い巡らしていましたが、 宗教は - それについて、私たちはともかく議論しようとしていましたが - 単に、分割的な過程だけではなく、 また、全く無意味にもなってしまったのです。 たぶん、キリスト教としての二千年、 または、ヒンドゥー教、仏教としての三千年、五千年、など、 それは、その実質を失ってしまいました! そして私たちは、けっして探究しません - 宗教とは何か、 教育とは何か、生きるとは何か、死ぬとは何か、 そうね、その事柄全体を、です。 私たちは、けっして訊ねません - それは、どういうことなのか、と。 私たちは、訊ねるとき、 「生は、ほとんど意味が、ないな」と、言います。 私たちが生きているように、それは、ほとんど意味が、ありません。 で、私たちは、逃避します- あらゆる種類の突飛で ロマンチックな戯言の中に、です - そこには、何の理性も、ありません。 それについて、私たちは、議論したり、論理的に探究したりできませんが、 それは、自分が送る、この生の、 全くの空しさからの、単なる逃避です。 あなたが先日、ご覧になったのかどうか、私は知りませんが、 一団の人々が、或る人間を讃美していて、 最も突飛なことを、していました。 それが、彼らが宗教と呼ぶものです。 それが、彼らが神と呼ぶものです。 彼らは、理性すべてを失ってしまったように、思われます。 見たところ、理性もまた、もはや何の意味も持っていません。 |
7:25 |
A: 私は、実際に、この放送局により、流された
ドキュメンタリーを、見たんですが、
その中で、公衆とこの個人との間の、
その会合の運営全体が、描写されつつありました
- この若い十五歳の導師マハラジとで、です。
それは、とてつもなかった。 K: 吐き気がします。 |
7:56 | A: びっくりし、多くの面で、ぞっとしました。 |
8:00 | K: それが、彼らが宗教と呼ぶものです。 で、私たちは、宗教から始めて、進みましょうか。 |
8:14 | A: ええ。そうするのが、すばらしいことだろうと、 |
8:17 |
思います。 K: よろしいです。 人はいつも、何かを、ほしがってきたか、見出そうとしてきました - 毎日の生活を越え、 毎日の課業、毎日の楽しみ、あらゆる思考の活動を越えたものを、です。 人は、はるかに上の何かを、ほしがりました。 あなたがインドへ行かれたことがあるのかどうか、存じません。 あなたが、村々に行かれたことがあるのかどうか、存じません 彼らは、樹の下に小さな石を、置きます。 そこに、何か印を付けて、翌日、彼らは、花を供えます。 そこにいる人々すべてにとって、 それは、神聖なものになったのです。 それは、何か宗教的なものになったのです。 その同じ原理が、大聖堂でも、継続されます。 まさしく同じこと- ミサと、 インドでの儀式すべて。 そのすべては、そこに始まります - 思考が組み立ててきたもの以上の何かを、 人間たちは見つけたいとの欲望、です。 それを見つけることができないので、 彼らは、それをロマンチックにします。 彼らは、象徴を創り出します。 または、これを少し持っている誰かを、彼らは崇拝します。 そのまわりで、彼らは、あらゆる種類の儀式を、します。 インドの供養、それらの事柄が、進んでいきます。 それが、宗教と呼ばれます。 それは、振るまいと、私たちの日常生活と、 絶対的に、何の関わりも、ありません。 で、これらを見て- 西洋でも、東洋でも、 イスラムの世界でも、 ヒンドゥー、仏教の世界と、このすべてでも、です。 それは、同じ原理が、進みつつあるのです。 自分たちが創り出してきたイメージ、像を、崇拝しています。 それが、ブッダでも、イエスでも、キリストでも、 そのイメージ、像を創り出してきたのは、人間の精神です。 |
10:43 | A: ああ、はい。確かに。 |
10:45 | K: 彼らは、彼自身のイメージ、像を、崇拝します。 言い換えると、彼らは自分自身を、崇拝しています。 |
10:54 |
A: 分割、裂け目は、広くなる。 K: 広くなる。 で、宗教が何であるかを、訊ねるとき、 明白に、自らは、否定しなければなりません - 残忍に切り捨てるのではなく、このすべてを理解する、という意味で、です。 それで、宗教すべてを否定する! インドの宗教と 多数の神と女神を否定する。 ここでは、キリスト教の宗教 - それは、彼らが創り出したイメージです。 それは、偶像崇拝です。 彼らはそれを、偶像崇拝と呼びたくないかもしれませんが、そうなのです。 それは、精神の偶像崇拝です。 精神が、理想を創り出してきたのです。 そして、精神は、手をとおして、 彫像、十字架などなどを創り出したのです。 で、自らは本当に、そのすべてを、脇に置くなら、 信念、迷信、人物の崇拝、 観念の崇拝と、儀式と伝統、 そのすべてを、です - 自らはそれができるなら、です。 そして、見出すには、そうしなければなりません。 |
12:34 |
A: そのとおり。
ここには、恐怖の点が、あります -
すなわち、きわめて多くの面を持ったもの、と
私には思われますが、
それは、多くの異なった鏡を、持っているので、
それは、自らの機能不全へかざします。
自らが進んではじめようとする所に、至るには・・・
そこで、彼は、見出すために、この否定を行いますが、
彼は、しょっちゅうこう考えます -
否定を行うために、自分は前もって、
何かを想定することが必要になる、と。
K: ああ、もちろんです。 A: ゆえに彼は、それに尻込みします。 |
13:19 |
彼は、そうしようとしません。 K: ええ。 |
13:21 |
なぜなら、頭脳は、安全が必要だからです。
さもないと、それは機能できません。 A: そのとおりです。 |
13:29 | K: で、それは、信念に、イメージに、安全を見つけます - 儀式に、二千年や五千年の宣伝に、です。 そこには、安心、慰め、安全、 幸福の感覚が、あります。 誰か、私より大きくて、 私を見守ってくれている人のイメージです - 内的に彼が、責任を持っている - それらです。 で、あなたが人間に、 それらを否定するよう、頼んでいるとき、 彼は、無量の危険の感覚に、向き合います。 無量の感覚・・・彼は、パニックに陥ります。 |
14:16 | A: そのとおり。 |
14:18 | K: で、そのすべてを見る。 現在の宗教すべての不条理、 そのすべての全くの無意味さを、見る。 そして、全的に不安全であることに、向き合う。 そして、怯えない。 |
14:48 | A: 私は、ちょうどここで、自分自身に対して行えるごまかしを、感知します。 またもや、私はあなたに、とても感謝しています - すなわち、私たちがともに、この病理を、 その様々な局面で探検していることに、です。 自らは、何か、より良いものに到達するために、 この否定をしようとしているとの概念をもって、始められますね。 |
15:13 | K: ああ、いいえ。 それは、否定ではありません。 |
15:15 | A: それは、まったく否定ではありません。 |
15:17 |
K: ええ、否定は、虚偽であるものを、拒否することです
- 何があるのか、何が真理であるかを、知らずに、です。
虚偽の中に、虚偽を見ることと
虚偽の中に、真理を見ること。
そして、虚偽を拒否するのは、真理です。
あなたは、虚偽を拒否しません。 あなたは、何が虚偽であるかを、見ます。
そして、何が虚偽であるかを、見ることこそが、真理です。
明らかになっているのか・・・ A: ええ、もちろんです。 |
15:50 | K: それが、拒否します。それが、このすべてを、拭い去ります。 話が明らかになっているのかどうか、私は知りません。 |
15:59 | A: まあ、私は、昨日、授業で、 とても興味深い経験を、しました。 私はクラスに、課題を出していました。 私は、昨日、行った会話の中で、これに触れたと、思います - すなわち、私は、クラスに、 行って、樹を見つめる課題を、出していました。 で、事実、私は、彼らが帰ってきた後、 何が起きたかについて、報告をしていました。 一人の若い女性が、自分に起きたことを、叙述しましたね。 彼女は、それを叙述しましたが、クラスは確信し、 私は確信したように、です - すなわち、彼女自身と、この樹の間で、 彼女が見ることに、何も妨げがなかった、と。 彼女は、自らの報告において、穏やかにうっとりしていました。 それは、おもしろい言葉の併置に、聞こえますが、 それは、私には、正確だと、思われます。 が、そのとき私は彼女に、質問をしました。 そして私は、言いました- 「あなたは、 この樹を見つめているとき、自分自身について、考えていましたか」と。 彼女は、ためらいました。 彼女はすでに、この発言全体を済ませていたんです - それは、きわめて美しく行われていました。 私はやってきて、 楽園での蛇の役割を、果たしていました。 私は、言いました - あなたは、こうしていた、どの時にも、 樹を見つめている自分自身を考えたことが、 実情だったのかもしれませんね、と。 |
17:35 |
K: 観察者として。
A: このためらいでもって、 彼女は、自身の行為の中から、ますます落ちはじめました。 私たちは、それを一目、見ました。 彼女と私とクラス - 私たちはみんな、彼女が何をしているのかを、一目見ました。 最終的に、彼女は振り返って、言いました - 「私が止めた理由は、 私と樹との間で進んでいることのせいではありませんでした - 私は、それについて、とても明らかです - それは、私は今、授業に出ているし、 私は、自分は正しいことを、言うべきだと、考えているからです。 それで、私は、全部のことを、台なしにしてしまったんです!」と。 それは、啓示でした - 彼女にとって、だけではなく、 教室中の顔に関して、見られました - 私たちはみんな、この戯言に関与していることが、です。 |
18:24 | K: はい。 |
18:25 |
A: 自分がしてきた、この関係を、自分が演習をする中で、
ほんの二言で裏切りえたとの彼女の衝撃は、
ほとんど・・・ K: とても啓示的だった。 |
18:43 | A: ええ、極端に啓示的でしたが、 同時に、絶望的に信じがたかった - 誰かが、そういうことを、自分自身にすることは、です。 |
18:52 |
K: 全くです。全くです。 A: ええ。どうぞ、進めてください。 |
18:55 |
K: で、そうなんです。
精神が虚偽を見るとき、否定は、起きうるだけです。
虚偽への知覚こそが、
虚偽の否定です。
あなたは、宗教が
奇跡に基づき、個人崇拝に基づき、
恐れに、基づいているのを、見るとき -
すなわち、あなたが、自分自身が、自分の生が、
こうも見かけ倒しで、空っぽで、無意味であると、です。
そして、それは、こうも移ろいます。
あなたは、二、三年で、去ってしまうでしょう。
そのとき精神は、イメージを、創り出します
- すなわち、永遠であり、すばらしい、
美しいもの、天国を、です。
そして、それと同一視し、それを崇拝します。
なぜなら、それは、安全の感覚が、
深く必要であるからです。
それは、このすべての表面的な、戯言、サーカスを、創り出してきたのです。
それは、サーカスです。 A: ああ、はい。 |
20:09 |
K: で、精神は、この現象を観察できて、
安全、慰め、安心、恒常性への
自身の要求を、見られ、
そのすべてを拒否できますか。
拒否する - いかに頭脳、思考が、
恒常性の感覚を創り出すのかを、見る、という意味で、です。
それを、永遠とか、何と呼ぼうとも、です。
そのすべてを、見る。
ゆえに、思うのですが、自らは、思考の問いへ、
はるかに深く行かなくてはいけません。
なぜなら、西洋においても、東洋においても、
思考は、生の中で、最も重要な動きになったからです。
よろしいですか。 A: ああ、はい。 |
21:13 | K: 思考は、このすばらしいテクノロジーの世界、 すばらしい科学の世界と、それらを、 創り出してきました。 そして、思考は、宗教を創り出してきました - すべてのすばらしい詠唱、 グレゴリオ聖歌も、サンスクリットの詠歌も、です。 思考は、美しい大聖堂を築いてきました。 思考は、救い主のイメージ、像を、作ってきました - 大師、導師、父なる神のイメージ、像を、です。 自らが本当に、思考を理解するのでなければ - 考えるとは、何であるか、です - 私たちはやはり、違った平野で同じゲームを、やるでしょう。 |
22:16 | A: そのとおり。 そのとおり。 |
22:19 | K: この国で、起きつつあることを、見てください。 これらの導師が、インドから、来ます。 彼らは、頭を剃り、インドの衣装を、着ます。 小さな髪のふさを、ぶら下げて、 誰かが言ってきたことを、果てしなく反復します。 新しい導師。 彼らは、古い導師たちを、持ってきました - 司祭者、です。 |
22:44 |
A: ああ、はい。 K: カトリック、プロテスタント。 彼らは、それらを拒否してきましたが、他のものを、受け入れます! よろしいですか。 A: はい。 |
22:52 | K: 他のものは、古いものと同じように、死んでいます。 なぜなら、彼らはただ、伝統を反復しているからです - 伝統的に、どう座るのか、どう剃るのか、 どう冥想するのか、どう頭を保ち、呼吸するのかを、反復しているだけです。 最終的にあなたは、古い導師たちが言うことに、服従します。 または、若い導師が言うことに、です。 それは、まさしく、カトリック世界で、 プロテスタント世界で、起きたことです。よろしいですね? 彼らは、それを拒否します。けれども、他のものを、受け入れます。 なぜなら、彼らは安全が、ほしいからです。 彼らは、何をすべきか、何を考えるべきかを、 誰かに、自分へ語ってほしいのです - けっして、どう考えるのかを、ではありません。 |
23:36 | A: ええ。これにより疑問が、出てきます - 私たちがともに探検できることを、望みます - それは、「経験」という言葉に、関連します。 |
23:46 | K: ああ、はい。それは、もう一つの言葉です。 |
23:48 |
A: 今時、この言葉が、いかに多く、
ひょいひょいと出てくるのかは、驚くほどです
- 何か私が必死にほしいもの、すなわち、
どうやら、私自身の外側にあるものを、表示するために、です。
私は、目覚めの経験が、必要だ。
見たところ、私が必要なのは、目覚めではありません。
それは、この目覚めの経験です。
私には思われますが、経験としての宗教の観念全体は、
よくよく気をつけた思考、よくよく気をつけた透徹が、
必要です。 K: 全くそうです。 お訊きしてもいいなら、なぜ私たちは、経験を要求しますか。 なぜ、経験へこの渇望が、ありますか。 私たちは、性的な経験を、します。 あらゆる種類の経験を、しますね? |
24:58 |
A: ええ。 K: 生きていながら、です。 侮辱、へつらい、出来事、事件 影響、人々が言うこと、言わないこと、 私たちは読書をする、などなどです。 私たちは、いつの時も、経験しています。 私たちは、それに飽き飽きしています! そして、私たちは、こう言います - 「神の経験を、私に与えてくれる誰かのところへ、行こう」と。 |
25:27 | A: ええ。それが、正しく主張されていることです。 |
25:30 |
K: ええ。さて、
そこには、何が関与していますか。
経験 - 経験への要求と、その要求を経験することには、
何が、関与していますか。
私は、あの導師や大師や誰かが
語ってくれることを、経験します。
私はどうやって、それが本当であると、知りますか。
私はそれを認識すると、私は言いますね?
ほら、私は何かを経験します。
私は、自分がそれを認識したとき、
自分がそれを経験したことを、知りうるだけです。
ですね? A: そうです。 |
26:29 | K: 認識は、私がそれを、すでに知っていることを、含意しています。 |
26:33 | A: (再び、という接頭辞をもつ)認識する(レ・コグナイズ)。 |
26:36 |
K: 認識する(レ・コグナイズ)。 A: ええ。 |
26:38 |
K: で、私は、すでに自分が知っていることを、経験しています。
ゆえに、それは、何も新しいものではありません。
話が明らかになっているのか・・・
A: ええ。お話は、きわめて、明らかになっています。 |
26:52 | で、彼らがしていることすべては、自己欺瞞です。 |
27:00 |
A: それは実際に、欲情されるのです。 K: ああ、神様、はい! |
27:05 | A: ええ。それへの衝動は、とてつもないです。 私はそれを、きわめて多くの学生に、見てきました - 彼らは、とてつもないきびしさへ、行くんです、本当に。 |
27:15 | K: ああ、これらは、存じています。 |
27:17 | A: 私たちは時々、今日の若者たちは、 振るまいが、きわめて弛んでいると、考えます。 幾らかの人は、そうですが、それのどこが、新しいのですか。 それは、忘れられた大昔から、進んできたのです。 思うのですが、めったに見られないことは、 今日のきわめて多くの青年は、何かを取得することについて、 極度に真剣である、ということです - 誰かが所有しているが、自らが持っていない何かを、です。 そして、誰かが、それを持っていると主張するなら、 彼らは、無邪気に道を進んで行きます。 彼らは、幾つの数の側転をも、やってゆくでしょう。 彼らは、無際限に、逆立ちをするでしょう - あちらにあるそれのために、です。 |
27:57 | K: ああ、はい。私は、それらを見てきました。 |
27:59 | A: それは、そのものとして、経験と呼ばれます。 |
28:02 |
K: そういうわけで、よく気をつけなくてはいけないのです -
あなたが指摘なさったように、この言葉を探検するには、です。
そして、なぜ精神は、なぜ人間は、
もっと多くの経験を、要求するのかを、見る
- 自らの生全体が、広大な経験であるときに、です。
それらに、彼は、こうも飽き飽きしています。
彼は、これは新しい経験であると、考えます。
ですが、新しいことを経験するには、
どうして精神は、それを新しいことと認識できますか
- すでにそれを知っているのでなければ、です。
話が明らかになっているのかどうか・・・ A: ええ、ええ。 ここには、何かきわめて著しいことが、あります - 私たちが行った、以前の他の会話で、 あなたが先に、仰ったことに立って、です 新しいことと呼ばれるものの認識において、 古い思考、古いイメージとの繋がりは、 移行において、何か段階的なことがあるとの概念を、 確立します。 すなわち、 本当に、ここに、或る種の真正な繋がりが、 今、私がいるところと、前に私がいたところとに、あるのだ、と。 今、私は、次の導師に、なる - 出かけて行き、その人物に、 いかに次第にこの修練を行うべきかを、教える人になる、と。 |
29:27 |
K: はい。 A: それはけっして、止まりません。 ええ。私はそれが、分かります。 それは、驚くべきです。 今朝、私は車を運転してきて、 あなたが触れられた詠唱の事柄全体について、考えていました - それらの美しさ、です。 これは、経験そのものに、関係しているからには、 たぶん私たちはその美学を、検討してもよかろうと、考えました - その中に、この自分の罠に掛かることが、 潜んでいるところ、ということに立って、です。 もちろん、私は、サンスクリットについて、考えました。 あの美しい祈願 - 「ウパニシャッド」のイーシャー(主)へ、詠唱されるものです。 プールナマダ・プールナム・イダム(あれは充満している。これは充満している)、 プールナット・プーナムダチャッテ(充満より、充満が発出する)、 プールナシャ・プールナム(もし充満より、充満が取り去られるなら)、 と、進んでいきますが、 私は、自分自身に言いました - もし、それらの言葉に注意しようものなら、 全体をとおして、永続の反響が、ある - あの輝かしい韻律全体をとおして、です。 けれども、その中に、 多幸感へ陥る、 根本的な機会があります。 K: そうです。 |
30:56 | A: そして、眠気が、取って代わりますが、 それは、まさに同じものの中で、です。 私は、自分自身に言いました - 「たぶん、クリシュナムルティさんは、これに対する 美しさの関係について、一言、仰るだろう - 美しいものへの自分の関係が、ありのままに、見られないとき、 その関係ということに立って」と。 私が発生させられる、現在の昏睡が、あるうえは、 それは、それらの言葉には、ない! けれども、私たちは、言語に、落ち度があるにちがいないと、考えます - これには、何かデーモン的に催眠的なものが、 あるにちがいない、と。 私たちは、そう考えます。 そのとき、宗教的な集団は、 これらより、全的に離別するでしょう。 ヨーロッパには、プロテスタント、カルヴァン派の人たちが、 オルガンを許そうとしない時期が、ありました。音楽はなし、と。 なぜなら、音楽は、誘惑的であるからです。 私が、自己の誘惑者ではない。 それは、音楽の落ち度である、と! |
32:03 |
K: まさにそうなんです。 A: それを見つめましょう。 |
32:09 | K: 私たちが、先日、言っていましたように、 美しさは、 自己の全的な放棄があるとき、 ありうるのみです。 意識より、その内容を完全に空っぽにすること - すなわち、「私」を、です。 そのとき、美しさが、あります - すなわち、絵画、詠唱、それらより、全然違った何かが、です。 たぶん、これら若者のほとんどは、 そして、年配の人々もまた、その意味で、美しさを探し求めます - 教会の罠をとおして、 詠唱をとおして、 美しい・・・旧約のバイブルを読むことをとおして、です。 そのすべての美しい言葉とイメージとそれらともに、です。 それは、彼らに、深い満足感を、与えます。 言い換えると、彼らが探し求めているものは、 本当は、美しさをとおした満悦です - 言葉の美しさ、詠唱の美しさ、 すべての衣とお香と光の美しさをとおして、です。 あれらのすばらしい色彩の欠片を抜けて来る光の、です。 それらは、大聖堂で、ご覧になってきました。 シャルトルのノートルダム大聖堂と、これらすべての所です - 驚くほどです。 それは、彼らに、神聖さの感覚、 幸せで救われたとの感覚を、与えます。 少なくとも、私が行って、冥想できる所が、ある - 静かでいて、何かと接触できる所だ、と。 そして、あなたがやってきて、「ほら、それはすべて、がらくただ。 それは、何の意味もない!」と、言います - 「意味があるのは、あなたが日々の生活で、いかに生きるかだ」と。 |
34:23 |
A: ええ。 K: すると、彼らはあなたに、煉瓦を投げつけます。 |
34:26 |
A: もちろんです。それは、飢えた犬から、食べ物を
取ってしまうのに、似ています。 K: そのとおり。 で、これが、論点全体です。 経験は、罠です。 すべての人々は、このふしぎな経験を、ほしがります - 導師たちが、自分は持っていると考えるものを、です。 |
34:56 |
A: それは、いつも、知識と呼ばれます。
興味深いですね。 K: きわめて、そうです。 |
35:02 | A: それは、いつも、知識と呼ばれます。 ええ、もちろんです。私は、以前の会話について、考えていました - 知識に依存していない、この自己変容について、です。 |
35:16 |
K: もちろんです。
A: 時に依存していなくて・・・ K: ええ。 |
35:19 | A: そして、顕著に、責任を必要とします。 |
35:23 | K: そうね、また、私たちは、働きたくないのです。 私たちは、生計を立てることでは、きわめて精力的に働きます。 私たちが何をするかを、ご覧ください - 来る年も来る年も、来る年も来る年も、 来る日も来る日も、来る日も来る日も それらの残忍さ、醜さ。 しかし、ここで、内的に、心理的に私たちは、働きたくないのです。 私たちは、あまりに怠けています。 「他の者に働かせよう。 おそらく、彼は働いてきた。 おそらく彼が、私に、何かを与えてくれるだろう」と。 が、私は、「私は見出そう」と言いません - 「全部を拒否して、見出そう」と。 |
36:07 | A: ええ。想定は、ですね、司祭者の業務は、 知るために、働いてきたことである、というものです。 それで、私は、その任務を軽減されるのだ、と。 または、もしも私は、十分な分別をもって、世の中に入っていなかったなら、 私がしなくてはいけないことは、単純に、彼の教示に従うことだけです。 そして、彼がごちゃごちゃにしてしまうなら、それは、彼の落ち度である、と。 |
36:26 |
K: ええ。「私は知っている。 私は経験した」という人に、
私たちは、けっして訊ねません -
「あなたは、何を知っていますか」と。 A: そのとおり。 |
36:37 |
K: 「あなたは、何を経験しましたか。
あなたは、何を知っていますか」と。
あなたが、「私は知っている」と言うとき、
あなたは、何か死んだものを、知っているだけです - それは、去っています。
それは、終了しています。 それは、過去です。
あなたは、何か生きているものを、知りえません。
よろしいですか。 A: ええ。 |
36:58 |
K: 生きているものを、あなたはけっして知りえません。それは、動いています。
それは、けっして、同じではありません。
で、私は、「私は妻を知っている」と、けっして言えません
- または、夫、子どもを、です。
なぜなら、彼らは、生きている人間であるからです。
が、これらの者たちが、やってきて
- 特に、インドから、ですが -
彼らは、「私は知っている。 私は経験した。私は知識を持っている。
私はそれを、あなたに与えよう」と、言います。
何という厚かましさかと、私は言います。
よろしいですか。 A: ええ。 |
37:33 | K: 何という冷淡な無頓着か - 「あなたは知っているが、私は知らない」とは。 そして、あなたは、何を知っていますか。 |
37:43 |
A: 関係ということに立って、起きてきていることは、
驚くべきですね - これに関して、
一方の男たちと他方の女たち、
または、人たちの間で、です。
なぜなら、これについて、神話全体が、成長してきたからです。
例えば、私たち男性は、
「女は神秘的だ(謎だ)」と、言います。
これは、けっして、
生の新鮮さということに立って、理解されません。
そこには、あらゆる物事が、含まれます - 女だけではありません。
今、私たちは、女は神秘的だ(謎だ)という観念を、持っています。
で、私たちは、或る本質ということに立って、何かについて、話していますが、
それは、存在とは、何の関わりも、ないんです。
それが、仰っていることでは・・・? K: はい、そのとおり。そうなんです。 |
38:27 | A: ええ、ええ。 何とまあ! あなたが前に仰ったように、私たちは実際に、これを教えられます。 これは、すべて書物にある。 これはすべて、教室で進む会話に、ある。 |
38:40 | K: そういうわけで、私は感じるのです - 教育は、人々を破壊しつつある、と。 今、そうであるように、です。 それは、悲劇になってしまいました。 もしも私が、息子を持っていたなら- 私は、それを持っていません。 ありがたい! - 私は、どこで彼を、教育することになりますか。 私は、彼をどうすることに、なりますか。 彼らを、残りの集団のように、しますか。 残りの共同体のように、しますか。 記憶を教えられ、受け入れ、服従する。 よろしいですか。 進んでいる、すべてのことです。 あなたが、それに向き合うとき - 多くの人々が、今そうであるように、です。 彼らは、この問題に、向き合っています。 |
39:30 | A: ええ、向き合っています。 ええ。それに、疑問はありません。 |
39:34 | K: で、私たちは言います - 「ほら、学校を始めよう」と。 それを、私たちはインドに、持っています。 それを、私たちはカリフォルニアで、オーハイで、しようとしています。 私たちは、そうしようとしています。学校を始めよう - そこで、私たちは全然、違ったように考える。 そこで、私たちは、違ったように教えられる。 ただ、課業、課業、課業、受け入れたり、拒否したり、 反発するだけではない- そうね、全部です。 で、そこから、もう一つ問いが、生じます。 なぜ精神は、服従しますか。 私は、国の法律に服従します。 私は、道路の左側か、 右側の走行に、服従します。 私は、医師が私に語ることに、服従します - 服従する。 彼が私に語ることに、私は気をつけます。 個人的に私は、医師に近づきません。 そうするなら、私は、よく気をつけます。 私は、彼らが言うべきことを、よく気をつけて聞きます。 私は、見守っています。 私は即時に、あれやこれを受け入れません。 が、政治的に、いわゆる民主主義の世界では、 人々は、暴君を受け入れようとしないでしょう。ですね? |
40:54 |
A: ええ、ええ。 受け入れないでしょう。
K: 彼らは、権威なし、自由、と言います。 が、霊的に、内的に、 彼らは、誰でも彼でも受け入れます。 特に、彼らがインドから来るとき、です。 |
41:13 | A: ああ、はい。 |
41:14 | K: 先日、私は、ロンドンのBBCを、付けました。 或る人が、一団の人々に インタビューをしていました。 男の子と女の子は、「私たちは、導師が仰ることに、 全面的に、服従します」と、言いました。 インタビューをする人は、 「彼は、あなたに結婚するよう、言うんでしょうか」と、言いました。 「彼が私に、そう言うなら、私は、結婚するでしょう。 彼が私に、私は飢えなければならない、と言うなら、 私は飢える、断食するでしょう」と。 ただの奴隷です。理解されますか。 けれども、まさに同じ人物が、 政治的な暴虐に、反対するでしょう。 |
41:56 | A: 不条理です。ええ。 |
41:58 | K: そこでは彼は、突飛な観念をもった些細な小さい導師の暴虐を、 受け入れるでしょう。 彼は、政治的には、暴虐や独裁制を、拒絶するでしょう。 で、なぜ精神は、生を分割しますか - 一つの形、一方向では、権威を受け入れて、 別には、それを拒否するように、です。 そして、権威の重要性は、何ですか。 「権威」(オーソリティ)という言葉は、ご存じのように、 「創生する者」を、意味しています。 |
42:44 |
A: ええ、作者(オーサー)です。 K: ええ、作者。もちろんです。 これら司祭者、導師、指導者、霊的な説教師 - 彼らは、何を創生したのですか。 彼らは、伝統を反復しているのでしょう。 |
43:05 | A: ああ、はい。 正しくそうです。 |
43:08 | K: 伝統は、それが禅の伝統から、シナの伝統、 ヒンドゥーの伝統からであっても、死んだものです。 これらの人々は、死んだものを、永続化しています。 先日は、私は、或る人を見ました。 彼は、どう冥想するかを、説明していました - 両手をここに置き、両目を閉じる。 |
43:31 | A: ええ、それは、私が見たものです。 |
43:32 | K: これ、あれ、他をしなさい、と。 私は、「何とまあ」と、言いました。 |
43:35 | A: それは、おぞましかった。 |
43:38 | K: 人々は、それを受け入れます。 |
43:41 | A: 同じことについて、この女の人がいて、 彼女は、お金を切らせていて、恵まれたものがすべて、なかった。 彼女は、寝に行くところなども、なかったのですが、 ヒステリックに彼女は、言っていました - 「私は、列に並んでいます。私の前にはこれらの人々、みんなが、いますが、 私は、この知識を得なければなりません! 私は、この知識を得なければなりません!」と。 そのヒステリー、その必死さ。 |
44:03 |
K: そういうわけで、
この権威の受け入れの裏には、何が、ありますか。
理解されますか。
法律の権威、警察官の権威、
司祭者の権威、これら導師の権威 -
権威の受け入れの裏には、何が、ありますか。
それは、恐れですか。
霊的に、間違えること、
正しいことをしないことの、恐れですか -
覚り、知識、超意識を
獲得するために、です。
それが何であれ、それは、恐れですか。
または、それは、絶望の感覚ですか。
全くのさびしさ、
全くの無知の感覚ですか。
私は、無知という言葉を、その言葉の、より深い意味で、
使っています。 A: ええ、ええ。分かります。 |
45:12 | K: すなわち、「自分は知っていると言う人が、そこにいる。 私は彼を受け入れよう」と、私をして、言わせるもの、です。 私は、推理しません。 よろしいですか。 私は、「あなたは、何を知っていますか」と、言いません。 「あなたは私たちに、何をもたらしますか。与えてくれますか。 インドから、あなた自身の伝統を、ですか。誰が気にしますか! あなたは、何か死んだものを、もたらしています。 何も本源的、独自的なものではない - よろしいですか - 何も本当のものではない。 他の人たちがしてきたことを、 反復し、反復し、反復し、反復する。 すなわち、インドでは彼ら自身が、放り捨てているものを、です。 |
45:47 |
A: ええ、私はちょうど、(詩人)テニスンの数行を、考えていました。
異なった脈絡の中で、ですが、(軽騎兵隊進撃の詩に)
そのとき、彼は、こう書きました- 「彼らは道理を問うことなく、
彼らは進みて、死するのみ」と。 K: ええ、それは、古き良きものです。 で、この権威の受け入れの裏に、何がありますか。 |
46:04 | A: 「権威(オーソリティ)」という言葉が、根源的に 自己に関係しているのは、興味深いです- (ギリシャ語の)オートス、自己に。 この、感知された、ぽっかり開いた空虚が、あります。 - 分割をとおして、です。 |
46:25 |
K: はい、そうなんです。 A: 分割をとおして、です。 それは即時に、空腹を開きますよね。 そして、私の食べ物への私の投影 - 私が狂ったように、駆けつけるものを、です。 |
46:40 |
K: これが見えるとき、私は、泣きたいですよ。
よろしいですか。 A: ええ。 |
46:47 |
これらすべての若者たちが、これら導師へ行き、
髪を剃り、インドの衣服を着て、
通りで踊っている。
そうね、彼らがやっている、突飛なこと!
すべて、伝統に基づきますが、それは、死んでいます。
すべての伝統は、死んでいます。 よろしいですか。
それを見るとき、「神様!何が起きてきたのか」と、言います。
で、私は戻って、訊ねます - なぜ私たちは、受け入れますか。
なぜ私たちは、これらの人々に影響されますか。
コマーシャルで、「これを買え。 これを買え。これを買え」と、
常なる反復があるとき、なぜ私たちは、影響されますか。
それは、あれと同じです。
よろしいですか。 A: ええ。 |
47:43 | K: なぜ私たちは、受け入れますか。 子どもは、受け入れます。 それは、私は理解できます。 かわいそうに。 その子は、何も知りません。 その子は、安全が必要です。 その子は、母親が必要です。 その子は、気づかいが必要です。 その子は、保護が必要です。 その子は、膝に座らせてやることが、必要です。よろしいですか。 慈しみ、親切で、優しい - その子は、それが必要ですね。 それは、導師が自分にこれらを与えてくれると、 彼らが考える、ということですか - - 彼らの言葉をとおし、彼らの儀式をとおし、彼らの反復をとおし、 彼らの不条理な規律をとおして、ですか。 よろしいですか。 受け入れの感覚 - 私が子どものとき、自分の母親を受け入れるように、です。 私は、それを受け入れます- 快適であるために、 ついに何かが、私を見守ってくれていると、感じるために、です。 |
48:39 |
A: これは、あなたが以前の会話で仰ったことに、関係します。
私たちは、恐れを、覗きみました。 幼児の反応は、
自分の目論見の、どの種の仲介もない反応です。
彼は単純に、自分に必要があることを、認識します。
これは、想像された欲しがりではありません。
それは、根本的な必要です。
彼は、食べさせてもらわなくてはいけません。
彼は、慈しみぶかく抱かれなくてはいけません。 K: もちろんです。 |
49:19 |
A: そこからの移行は・・・その子が年を取るにつれて、
その必要を充たすことの起源について
考えはじめる地点まで、ですが・・・
危険の感覚と即時の行為との間に
挿入されるイメージとして、出現します。
で、私が、お話を正確に理解しているなら、
ここには、行為の根本的な清浄さからの、
偏向が、あります。 K: そのとおりです。 |
50:05 | A: 私は、自分自身、そうしてきました。 それは、何も、私が言われて、 実際に私に無理やり、そうさせたことのせいでもありません。 あなたが仰ることは、真実であるけれども、 私たちは、持続的に招かれます。 それは、 文化全体をとおして、私たちへ来る、 一種、(船人を呼び寄せる)セイレーンのような呼び声です - すべての文化において、あのことを、始めるように、です。 |
50:32 |
K: それが、私が取りかかりたいことです。
私たちが権威を受け入れるのは、なぜですか。
民主主義の世界で、政治的に、私たちはどの独裁者をも、避けるでしょう。
けれども、宗教的に、彼らは、みんな独裁者です。
なぜ私たちは、それを受け入れますか。
なぜ私は、司祭者を受け入れますか
- 彼が、自分は知っていると言う何かへの仲介者として、です。
で、それは、私たちが、推理するのを止めることを、示します。
政治的に、私たちは推理します。
私たちは、自由であることが、いかに重要であるかが、分かります
- 自由な言論、あらゆることが自由、可能なかぎり、多くです。
私たちは、ここで自由が必要であると、けっして考えません。
霊的に、私たちは、自由の必要性を、感じません。
ゆえに、私たちはそれを、受け入れます
- 誰をも彼をも、です。 それは、怖ろしい!
私は、知識人、教授、科学者たちが、
これらの罠に掛かるのを、見てきました!
なぜなら、彼らは、自分の科学的世界の中で、
推理してきましたが、彼らは、推理することに、くたびれています。
ここで、ついに私は、推理せずに、座り込んでいられる。
言ってもらい、快適で、幸せでいられる。
「私が、あなたのために、仕事すべてを、しよう。
あなたは、何もしなくていい。
私があなたを、川向こうへ、渡してやろう」と。
よろしいですか。 A: ああ、はい。 |
52:28 |
K: そして、私は大喜びです。
それで、私たちは、受け入れます- 無知があるところ、
理性が機能しないところ、
智恵が、停止中であるところ、です。
そして、あなたはそのすべてが、必要です
- 本当の霊的な事柄に関して、
自由、智恵、推理が、です。
さもないと、何ですか。
或る導師が、やってきて、あなたに、何をすべきかを、語る。
そして、あなたは、彼がすることを、反復するのですか。
よろしいですか - それが、いかに破壊的なのか。 A: ああ、はい。 |
53:22 | K: それが、いかに退廃しているのか。 それが、起きつつあることです。 これらの導師が、自らが何をしているのかを悟るとは、私は思いません。 彼らは、退廃を助長しています。 |
53:38 |
A: まあ、彼らは、同じことの連鎖を、表現しますね。
K: 彼らは退廃しています。 そのとおり。 |
53:45 | で、私たちは - これにより、とても重要な問いが、出てきます - その中に、いかなる権威もない、 教育が、ありえますか。 |
54:01 | A: 私は、それに、「はい」と言わなければなりません - 私が昨日、授業中にした経験ということに立って、です。 それは、学生たちにとって、ものすごい衝撃でした。 そのとき、彼らは、一瞬の間、 不信を留保しました。 私が、「さあ、私たちはともに、これをしなければならない」と言ったとき、 私が本気で言ったのかどうかを、ただ見るように、です。 私が、すべきだと言うことを、あなたがするのではなくて、です。 |
54:32 |
K: ともにする、働く。 A: 私たちはともに、これをしましょう。 |
54:35 |
K: それを分かち合いましょう。 A: そうです。 あなたは、問うだろうし、私は、問うだろう。 私たちは、進みながら、掴もうとするだろう - しようとしなくて、です。 そして、私は、その事柄に、入りました - この「しようとする」 見かけ倒しの小さなことを持つまい、ということで、です。 |
54:51 |
K: 全くそうです。 A: それには、しばらく掛かりました。 それで、衝撃が増大しました。 なぜなら、 学生たちのうち、自分たちが大満足できることに、 いわゆる献身的であった者、 勉強し、努力する者たちは、 突然に見出しつつあるからです - この人が、教室に入ってきて、 「しようとすること」に、悪評を加えつつある、と。 これは、事を完全に ひっくり返してしまうように、思われるのです。 が、彼らは、勇気を示しました - 彼らは、真の注意の行為を始める前に、 それへ、少し注意を払った、という意味で、です。 そういうわけで、私はそこで、「勇気」を使っていたのです。 なぜなら、それは、あれへの準備であるからです。 あなたが、その問いを出されたとき、私は、お話によく付いていっていました - 清浄な注意の行為に対する勇気の関係についての問い、です。 それは、その所属するところでないように、私には思われます。 |
55:59 |
K: ええ。 A: ですが、彼らは、それを立ち上げたんです - この準備的な歩みのために、です。 そのとき、私たちはこれに、突っ込みました - 前の会話で私が、「編み目を一つ落とす」と呼んだと思うことに、です。 そこで彼らは、本当にこの深淵を、見ました。 彼らは、断崖絶壁に立つほど、鋭敏でした。 それにより、彼らは、凍り付いてしまいました。 私にとって、絶対に決定的だと思われるのは、 あの瞬間です。 K: ええ。 A: それは、ほとんど自らが、出来事、目的の出来事、 ということに立って、見るようなものです。 私は、スペインの哲学者、オルテガを読んだことを、憶えています 彼は、前へ後へ揺れ動く出来事について、 語りました - 事が、実際に、それ自体へ転がり込む前に、です。 それが、教室の中で、起きつつありましたね。 それは、水が、カップの縁まで上がってきたが、 まったく溢れ出せないのに、似ています。 K: 全くです。全くです。 |
57:22 |
A: 私は、これについて、幾らか長く語ってきました。
なぜなら、私はあなたに、実情を、叙述したかったからです -
何が実際に起きつつあるのかを、です K: 私は、言おうとしていました - 私は、きわめて多くの学校と連携してきました。 四十年以上の間です。 自らが、学生たちへ、 自由と権威と、受け入れについて、話すとき、 彼らは、完全に迷っています。 A: ええ。 |
57:56 | K: 彼らは、奴隷でいたいのです。 |
58:02 |
「私のお父さんは、こう言います。私はこれをしなければなりません」とか、
「私のお父さんは、そう言います。 私はそれをしないでしょう」と。
それは、同じです。 A: そのとおり。 私たちは、次の会話において、あのためらいの瞬間を、 見つめられると、お考えでしょうか。 K: はい。 |
58:21 | A: それは、私には、教育自体にとってすごく重大だと、思われます。 すばらしい。 |