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SD74CA16 - 宗教、権威と教育 - 第二部
アラン・W.アンダーソンとの会話、第16回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月27日



0:37 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:43 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を受けた。
1:50 A: クリシュナムルティさん、私たちの一連の会話の中で、 私には思われますが、私たちは、 特に、重大な所に、到ったようです。 前回の議論において、私たちはともに、 権威の問いに、触れました。 あちらにあって、私たちが投影するものと、 あちらにあって、文字通り私たちが向き合うことに、 関係して、だけではありません。 また、私の関係の、内の、より深い水準での問いも、です。 そして、或る地点が- 探究の中、 私自身に深く入る中、自己検証の中で、 ぎょっとする地点が、あります。 そこで、自らが、ぎょっとします。 自らは、向き合い、自らは、ためらい、震えます。 それは、本当の恐れと震えです - すなわち、その探究の際で、生ずることです。 そして、思うのですが、あなたは、 私たちの前の会話の結末において、 それの議論に向かって、動いていました - 宗教的な生の中でのその役割、ということに立って、です。
3:14 K: そのとおりです。

A: ええ。
3:22 K: なぜ私たちは、ためらいますか。 そういうことに、なってきますね- あなたが仰っていることは。 なぜ私たちは、飛び込まないのですか。 それが、訊ねておられることです。

A: ええ。
3:36 K: なぜいつも、へりまで来て、 退く、逃げ去るのですか。 なぜ私たちは、そのものを、ありのままに見て、行為しないのですか。 それは、機能を養成してきた、 私たちの教育の一部ですか- 尋常でなく、機能を・・・ 私たちは、機能へものすごい重要性を、与えます - 技術者として、教授として、 医師として、などなど、 特定の技術で機能することに、です。 私たちは、一度も養成したり、奨励したり、 探究したことが、ありません -智恵が何であるのかを、です。 智恵があるところ、 この、ためらいは、ないでしょう。 行為が、あります。 つまり、自らがきわめて敏感であるとき、 あなたは行為します! その敏感さが、智恵です。 さて、教育において - 私はそれを、ここでも、インドでも、 世界の他の地方でも、観察してきましたが、 教育は単に、社会の命令に合わせて、 機能するよう、精神を訓練することだけです。 こうも多くの技術者が、求められています。 多くの医師が、求められています。 ほとんど人がいない専門職へ、入るなら、 もっと多くのお金を、稼げるかもしれない、と。
5:24 A: だぶつきを見張らなくてはいけません。
5:26 K: ええ、だぶつきを。 科学者になるな。 科学者は、もう十分、いる。 または、何であっても、です。

A: おやまあ、ええ。
5:33 K: で、私たちは、職能、経歴としての活動の分野で、 機能するよう、奨励され、訓練されます。 さて、私たちは、自らの注意すべてを要求する何かへ、 入ることや飛び込むことを、ためらいます。 

A: ええ。

K: 断片的ではなく、あなたの注意すべてを、要求する何かへ、です。 なぜなら、私たちは、度量が何であるかを、知らないからです。 私たちは、いかに測量し、機能するのかを、知っています。 が、ここで私たちは、何の度量をも、持ちません。 ゆえに、私は依存します。 ゆえに、私は、ここで推理しないでしょう。 なぜなら、私は、どう推理すべきかを、知らないからです。 私は、「私は知っている」と言う人へ、言いません・・・ 私は、「あなたは、何を知っていますか」と、言います。 あなたは、何か過ぎ去った、終了した、死んだことを、知っているだけです。 あなたは、「私は、何か生きているものを知っている」とは、言えません。 それで、次第に、私が見るように、 精神は、鈍り、落ち着かなくなります。 その好奇心は、ただ、機能する方向にのみ、あります。 それは、探究する能力を、持っていません。 探究するには、初めに、自由を持たなければなりません。 さもないと、私は探究できません。 私は、自分が探究しなくてはいけない何かへ、 探究しに来るなら、 私は、先入観を持っているなら、探究できません。 私は、それについて、結論を持っているなら、探究できません。 ゆえに、探究するには、自由が、なければなりません。 しかし、それは拒否されます。 なぜなら、社会と文化は、機能に対して、 ものすごい重要性を、置いてきたからです。 そして、機能は、自体の地位を、持っています。
7:46 A: ああ、はい、はい。 それは、昂揚して、究極的に、過程になります。
7:50 K: ええ、地位に。

A: そうです。
7:53 K: で、地位は、機能より、はるかに大事です。
7:56 A: ええ。
7:58 K: それで、私は、あの平野に、あの構造の中に、生きます。 私は、宗教を探究したいのなら- 宗教とは何か、 神とは何か、不滅性とは何か、美しさとは何かを、ですが - 私はそれをできません。 私は、権威に依存します。 私は、推理するための基礎を、持っていません - よろしいですか - 宗教のこの広大な平野において、です。 で、それは、部分的には、私たちの教育の過失です。 部分的には、何をも客観的に見られない、私たちの無能力です。 樹を見つめられない、私たちの無能力 - すべての長話、知識、スクリーン、妨げ、 私が樹を見つめるのを阻止するものなしに、です。 私はけっして、自分の妻を見つめません - 私が妻や彼女や、何であれ、持っているなら、ですが、 私は、けっして見ません。 私が彼女や彼について、持っているイメージをとおして、 私は、彼女や彼を見つめます。 で、イメージは、死んだもの、死物です。 で、私は、生きているものをけっして、見つめません。 私はけっして、自然を見つめません - すべてのその驚異、その美しさ、 その形、その麗しさとともに、ですが、 私はいつも、それを翻訳しています。それを描こう、 それについて書こうとか、それを楽しもうとか、しています。 よろしいですか。

A: ええ。
9:43 K: で、そこから、問いが、生じます -
9:49 なぜ私は・・・なぜ人間たちは、権威を受け入れ、 服従しますか。 それは、彼らが、機能の平野で 訓練されてきたからですか - そこであなたは、学ぶには、服従しなければなりません。 よろしいですか。それはただできない・・・ 

A: ああ、はい。 ええ。それは、自らの法を、組み込まれています。
10:15 K: それは、独自の修練を、持っています。 

A: そのとおり。
10:17 K: それは、自らの法、自らの道を、持っています。 私は、そのように訓練されてきたから、 私はそれを、こちらへ持ち込みます - 宗教の平野へ、 自由を要求する何かの平野へ、です。 自由は、終わりにありません- まさに始まりから、です。 精神は、始まりから、権威より、自由でなければなりません。 私は、神が何であるかを、見出したいのなら - 私は神を信ずる、ではありません。 それは、何の意味も、ありません。 神がいるのか、神がいないのか、私は本当に、見出したいのです。 私は、怖ろしく真剣です。 私は本当に真剣であるなら、 私は、神について理解すること、学ぶことに、 本当に関心があるなら- 神があるとして、ですが - 私は、信念すべてを、完全に押しのけなければなりません - 構造すべて、教会すべて、 司祭者すべて、書物すべて、 宗教について、思考が組み立ててきた 物事すべてを、脇に、です。 よろしいですか。

A: ええ、分かります。 私は、一生懸命、考えてきました - あなたの「智恵」という言葉と、「真理」という言葉について、 あなたが仰ってきたことに関係して、です。 そして、福音書から一節が、私の心に、浮かんできます。 それは、あなたが仰ってきたことに立って、 きわめて異なった釈義に、なってしまうだろうと、思います - もしも、あなたが、指して示してこられたことを、 この本文へ適用したなら、ですが、「彼が、真理の精霊が、来るとき、 彼は、あなたがたを、すべての真理へ導いてくれるであろう。 そして、真理は、あなたがたを、自由するであろう」と。 真理は、ここで精霊と呼ばれています。 まさに同じ「ヨハネ福音書」では、 神はまた、精霊とも呼ばれています。 根本的な行為です。 私が投影してきた、あちらの、どこか外の、この精霊ではありません。 自らが真剣に取るならば - ひどいことは、 それが、真剣に取られてこなかったことです -
12:26 K: なぜなら、私たちは、真剣であることを、許されないからです。
12:30 A: 私たちは、自分たちが最も真剣でなければならないと 主張されることについて、真剣でもいられません。
12:35 K: まさにそうです。
12:36 A: ええ。仰る意味を、知っています。
12:38 K: 私たちは、自らの子どもについて、真剣でないんです。 私たちは、彼らに責任を感じません - 生涯をとおしてずっと、です。 彼らが、四つ、五つ、六つになるまでだけ、 私たちは、責任を持っていますね。 その後、彼らは・・・自分が望むことを、します。 で、自由と権威は、とうてい共存できません。 自由と智恵は、相伴います。 そして、智恵は、自らの生得の、自然な、 楽な修練(ディシプリン)を、持っています - 抑圧、制御、模倣とそれらの、 という意味での規律、修練ではなく、 いつの時も学ぶ行為である、修練(ディシプリン)です。
13:32 A: 注意の中で。

K: ええ、注意の中で。

A: 注意の中で。 あなたが語られる、この智恵は、
13:40 光輝と連携していますね。

K: ええ。
13:44 A: その到来は、即時です。 段階的ではありません。
13:51 K: ええ、もちろんです。 知覚が智恵です!
13:54 A: 知覚が智恵です。

K: ゆえに、行為することです。
13:57 A: そして、知覚は行為です。

K: もちろんです。
13:59 A: で、行為、智恵、美しさ・・・

K: これらすべて。
14:02 A: ・・・愛、真理、自由・・・
14:05 K: 死。それらすべては、一つです。

A: ・・・・秩序。 それらは、行為の中の、完全で総合的で不可欠の動きを、形成します。

K: そのとおりです。
14:18 A: それは、それ自体、肯定的に見つめられましたが、 さらに、ひとたびそれが、概念に翻訳されるとき・・・
14:25 K: ああ、そのとき、もはやそれではありません。
14:27 A: それ自体が再び、恐怖のための機会に、なります。
14:31 K: もちろんです。

A: なぜなら、それは、あなたから あまりに速く逃げ去っていくように、思われるからです。
14:35 K: ええ。 

A: ・・・分かります。 すばらしくないですか。 それはまるで、あなたが触れられたこれら、美しさ、智恵、 愛、自由は・・・

K: ・・・そして、死。
14:49 A: ・・・言うならば、すべてのばかな真似より、 それら自体を、保全してきました。
14:55 K: はい、ばかな真似より。 全くそのとおり。
15:00 A: それらは、こうも根本的に清浄です。 それで、どのばかなことも・・・
15:04 K: で、それは、こういう意味です- 精神は、宗教に関して、 思考の構造すべてを、全的に、脇に置けますか。 それは、知識の平野において、 思考の機能を、片付けられません。 それを、私たちは理解しました。 それは、きわめて明らかです。 が、ここには、何か私が知らない、 私たちが知らないものが、あります。よろしいですか。 私たちは、自分が知っているふりを、します。 或る人が、「イエスは救い主だ」とか、何であれ、言うとき、 それは、知ったかぶりです。 それは、「私は知っているが、あなたは知らない」と、言うことです。 一体全体、あなたは何を知っていますか。 あなたは、何も知りません! あなたは、他の誰かより学んできたことを、 ただ反復するだけです! で、精神は、宗教の平野において・・・ なぜなら、宗教は、私たちが始まりに言いましたように、注意の中、 あの注意の性質の中で、エネルギーすべてを、集めることであるからです。 そして、人を再生させるのは、 その注意の性質です - 行い、振るまい、関係の道全体に関して、人の中に、 本当の変容をもたらすのは、それです。 宗教が、その要因です。 進んでいる、このすべてのばかなことではありません。 さて、探究するには、精神は、 その言葉のまわりに築かれた、思考の構造すべてを、 脇に置かなければなりません。 よろしいですか。

A: はい。分かります。
17:06 K: それをできますか。 そうでないなら、私たちは、ふりをしています - 神について話して、「神はいない」、「いや、神はいる」と。 よろしいですか。進んでいる、そのすべての戯言です。 で、それが、最初の問いです - 精神は、他の人の権威より、自由でありえますか - どれほど偉大でも、どれほど崇高でも、 どれほど神聖でも、神聖でなくても、です。よろしいですか。
17:35 A: なぜなら、この問いに答えるためには、 行為が、必要とされるからです。

K: 絶対に、です。
17:42 A: 個人は、これを、自分でしなければなりません。
17:45 K: さもないと、彼は単に、機能の課業の中に、生きるだけです - 彼は、そうしてきたし、彼はいまだに、そうしています。 ゆえに、彼は、これらすべてのサーカスの中へ、逃避します - 彼が宗教と呼ぶものへ、です。
18:01 A: これは、昨日、授業中に、 劇的な力をもって、私にぐさりと来ました。 一方には、私たちは、教科書を持っています - その意味での古典的な価値ゆえに、 幾世紀も、生き残ってきた教科書です。 そして、この教材が教えられる、普通の道筋は、 たとえば、シナの人生観について、 何かを学ぶわけです。 それから、私たちは、ヒンドゥーの人生観を、持っていて、それから・・・ それで、私たちは、長い時期にわたって、蓄積します - 学校をとおし、大学院をとおして、ずっと、です。 そこで粘りつづけて、それに耐えられるなら、ですが、 あなたは、所有することになり・・・
18:51 K: ・・・他の人々が、言ってきたことを、です。
18:53 A: ・・・他の人々が言ってきたことを、です。

K: が、あなたは、それについて、何も知りません! 

A: そのとおり。 あなたは、機能の秩序において、 一定の技能を、取得します- 仰ったように、です。 さて、教師は、問題を持っています。 私は、あなたが言及してこられた、これらの学校について、考えています - インドのと、オーハイにできるだろうもの、です。 ここに、一群の教材が、あります。 明らかに教師は、機能動作の秩序での知識を、 所有していなければなりません- 進行上の技巧などを、です。 彼は単純に、知っていなければなりません。 子どもは、本を読もうとしています。

K: もちろんです。
19:29 A: あなたが触れられた、これらの学校では、子どもは・・・
19:31 K: ああ、読みますよ。

A: 彼らは、本を読みます。 それらの本のすべては、必ずしも、 これらの学校で、学生と教師の間で、進んでゆくそのことを、 行おうとしつつある誰かにより、 書かれたのではありません。 さて、教師は、本でのこの書かれた教材を、使いこなさなければなりません - 子ども、若い学生、年長の学生に対して、 それが可能であることを、表示する形で、です。 すなわち、そうする中で、自己分割されずに、 この教材を読むことが、できるのだ、と。
20:04 K: そしてまた、もしも何も本が、なかったなら、 あなたは、何をするのでしょうか。
20:14 A: 同じ立場に、いるでしょうね。
20:16 K: いいえ。もしも、何も本がなく、 「伝統」を言う人が、誰もいなかったなら、 あなたは、自分自身で、見出さなくてはなりません。
20:28 A: が、それが、私たちが本でもってするよう、その子に 求めていることなのでしょう。

K: そうですか。
20:34 A: いえ、いえ。 一般に、ではなくて、 この新しいアプローチの中で、です。

K: ああ、もちろんです。
20:39 A: この新しいアプローチの中で、私たちは、どうにか、本と・・・
20:42 K: ・・・本と、他方、・・・
20:44 A: 本と他方を、まとめなければなりません。
20:46 K: 自由を、まとめる -本と自由、です。
20:48 A: ええ、これが、昨日、授業中に、 私は、こうも衝撃で打たれたことです。 私は即時に、これをする根本的な責任能力を、 感じました - 私にできそうなかぎり、です そして、私は見て、驚きました - 学生たちは、極度にためらっていましたが・・・ 

K: もちろんです。

A: そこには、たくさん心配が、ありました - 本当の恐れと震えが、です。 彼らが所有している、どれほどかの健康が、自ずと発揮され、 その可能性へ、ものすごい興味、関心が、ありました。 が、それから、ためらいが、ありました - すなわち、どうやら、やり過ごせないものが、です。
21:42 K: やり過ごせない。全くです。

A: ためらいが、ある。 私は、これが、幾世紀をとおして、起きてきたとの、 この感じが、あります - 聖典類を真剣に研究してきた人物において、です。 私たちは、宗教について、話していたからですが、 時々、それは探知できます - 彼らの注釈こそに、彼らの著作こそに、です。 彼らはまともに、そこまで来て・・・

K: ・・・見逃します。
22:07 A: ・・・それから、彼らは・・・

K: ・・・できない。
22:10 A: ・・・押し通れない。 彼らは、進めない。
22:13 K: 理解できます。

A: その点を越えられない。
22:16 K: それは、ですね、 大変多く話をすることが、 私の幸か、不幸か、だったのです。 あらゆる人がその点に、来ます。 彼らは、言います - 「どうぞ、私は、何をすべきですか。 私は、その点に到ったのです。 私は、越えてゆけません」と。 もし提案してよろしければ、それをこのように、見てください - 私は、もしも授業を持っていたなら、初めに、書物について話さないでしょう。 私は、自由、と言うでしょう。 あなたたちは、中古の人々です。 そうでないふりを、しないでください。 あなたたちは、中古の、だらしない、見かけ倒しの人々です。 そして、あなたは、本源的な何かを、見つけようとしています。 神は、実在は、本源的です。 それは、世界の司祭者すべてにより、彩られていません。 それは、本源的(オリジナル)です。 ゆえに、あなたは、本源的な精神を、持たなければなりません。 それは、自由な精神、という意味です。 絵画での独創的(オリジナル)、新しい絵画、 新しいこれ、ではありません- それはすべて、馬鹿話です。 自由な精神です! 知識の平野で機能できる、自由な精神、 そして、見つめ、観察し、学ぶことができる、自由な精神です。 さて、あなたは、自由であるように、どう他の一人を、助けますか。 または、それは、可能でないのですか。 理解されますか。 いいですか。私は、けっして何にも、所属しませんでした。 私は、何も教会や信念やそれらを、持っていません。 本当に見つけたい人 - 永遠の、名のないもの、 思考すべてを越えた何かが、あるのかどうかを、です - 彼は、当然、思考の上に築かれたものすべてを、 脇に置かなければなりません。 救い主、大師、導師、知識を - よろしいですか - そのすべてを、です。 そうする人々が、いますか。 よろしいですか。 誰かが、その旅を行うのでしょうか。 または彼らは、言うでしょう - 「あなたが、私にそれについて、すべて語ってくださいよ。 私は快適に座っているだろうし、それからあなたが、私に語ってください」と。
24:52 A: ええ、ええ。それが、進んでいることです。
24:54 K: 「私はそれを叙述しませんよ」と私は、言います - 「私はあなたに、それについて、何一つ、言わないでしょう」と。 それを言葉に表すことは、それを破壊することです。 で、あなたが自由でありえないのかどうかを、見てみましょう。 あなたは、何について、怯えていますか。 権威に、怯えていますか。 間違えることに、怯えていますか。 ですが、あなたは、生き方が完全に間違っています。 あなたが続けていくさまが、完全に愚かです。 それは、何の意味もありません。 よろしいですか。 霊的な権威を、否定してください - あらゆる種類のを、です。 なぜなら、あなたは、何に怯えていますか。 霊的に間違えることに、ですか。 彼らが間違っているんです。あなたが間違っているのではありません。 あなたは、学んでいるだけだからです。 彼らは、不正義の中に樹立されたものたちです。
25:58 A: それは、美しい!ええ。
26:05 K: それで、あなたはなぜ、彼らに従いますか。なぜ、彼らを受け入れますか。 彼らは、退廃しています。 あなたは、そのすべてより、自由でありえますか - それで、あなたの精神が、冥想をとおして - 私たちはそれについて、おそらく別の時に、議論するでしょう - 自由であるとは、どういう意味なのか、 人々があなたに積んできた物事すべてを、拭い去るとは、 どういう意味なのか。 理解されますか。 それで、あなたは無垢であり、 あなたの精神は、けっして傷つかないで、 傷つく可能性がないように、です。 それが、無垢(イノセンシー)が意味することです。 そして、そこから、探究します。 そこから、ともに旅を行いましょう。よろしいですか。 思考が組み立ててきた、物事すべてへの、 この否定の感覚から、です。 なぜなら、思考は、時であり、思考は、物質であるからです。 あなたが、思考の平野に生きているなら、 あなたは、けっして・・・けっして、自由はないでしょう。 あなたは、過去の中に、生きています。 あなたは、自分が現在に生きていると、考えるかもしれませんが、 思考が作動中であるとき、 実際に、あなたは過去の中に、生きています。 なぜなら、思考は記憶であり、 頭脳に蓄えられた、記憶、知識、経験の 応答であるからです。 その知識、経験は、 思考の表現です。 それを理解し、思考の制限を知るのでなければ、 あなたは、宗教と呼ばれるものの平野に、入れません。 よろしいですか。 これが、彼らに語られ、反復され、示されるのでなければ、 あなたは、果てしなく書物について、話せます。 これが、初めに来ます。 そのとき、あなたは、書物を読めます。
28:11 A: ええ。 

K: ブッダは、けっして書物を読みませんでした。 彼は、聞き、見守り、見つめ、観察し、 断食し、「このすべては、ごみだ」と言い、それを放り出しました。
28:26 A: 私はちょうど、何かあなたが仰ったことについて、考えました - これは、またもや反復しつづけなければなりません。
28:35 K: 違った形で。

A: 違った形で、またもや、です。 私は今、教えることについて、語っています。 このためらいの点は、 何かが生まれるだろうか、生まれないだろうかの地点です。
28:57 K: そのとおりです。
28:59 A: 先の会話であなたが使われた、 あの美しい表現 - 「今、転生しなさい」。

K: ええ、今。
29:07 A: で、私たちは、間際にいます。 私が前に触れたオルテガの言葉では、 私たちは、新しい出来事の間際で、前へ後へ揺すぶられています。 私たちは、その線を越えていません。 私たちの誰も、その時点で、できることは、何もありません - これを聞く人の恐怖に関して、 私自身のを含めて、です。 私はここから、自分自身を、分割していません - 学生と一緒にすることから、です。 私は、この活動において、学生であるからです。 

K: 全くです。

A: で、私たちは、ここにいます- 学生たちの中の学生です。 そして、このぎょっとすること、 この恐れと震えが、あります。 そして、単純に励ますより、他には、何もできません。
30:04 K: そして、彼らに言います - 「待って。そこに留まりなさい」と。
30:08 A: 持ちこたえなさい。

K: 持ちこたえなさい。 あなたが、ぐらつこうと、構わない。ぐらつきつづけなさい。
30:15 A: 逃げ出すな。

K: 逃げ去るな。
30:21 A: それで、これは、違った形で 何度も何度も、言われます。 今、私は、あなたが仰ったことの意味を、理解します - 「さあ、授業を始めよう。 十分間・・・」と。
30:32 K: これからね。

A: これからです。 私たちは、書物を開きません。

K: そのとおりです。
30:36 A: 私たちは、書物を開かない。 私たちは、これから始めます。 それから、書物が開かれるとき、 おそらく、言葉は、いつもと違って、自ずと明らかになるでしょう。
30:44 K: そのとおりです。
30:45 A: なぜなら、智恵が、吹き出したからです。
30:48 K: そのとおりです。 

A: そして見よ、それは、すべて見事である。 ええ。どうぞ、私は、お話を遮るつもりは、ありませんでした。 私はただ、確かめたいと思いました- 私は・・・ 

K: ええ。

A: 私がこれを理解することは、すごく重要です。
31:00 K: なぜなら、そうね、 学生は、一つの授業から別のへ慌てて行くからです。 時限は短いから、駆けつける - 数学から地理へ、地理から歴史、化学、生物学へ よろしいですか。 駆ける、駆ける。 もしも私が、教授、教師の一人であったなら、 私は、言うでしょう- 「ほら、座りなさい。 静かでありなさい。 五分間、静かでありなさい。 そうしたいなら、窓の外を見なさい。 水面の光や、木の葉の光の美しさを、見なさい。 あれとこれを見つめるが、静かでありなさい」と。
31:44 A: 私たちは今、窓を持たない授業で、教えますよ。
31:47 K: もちろんです。当然です。 

A: ええ、私は、おどけているだけでした。
31:50 K: もちろんです。

A: でも、おどけるだけではなく、 それは、恐怖です。

K: 恐怖です。 あなたは、機能的であるよう、訓練されます。よろしいですか。
31:59 A: 知っています。
32:02 K: 「他の何をも見るな。 猿であれ!」と。 私の子どもは、そのように育てられます。 

A: ええ。
32:15 K: それはおぞましい。

A: 教室は、墓です。ええ。
32:20 K: で、私は、「静かに座りなさい」と、言います。 そのとき、静かに座った後、私は、初めに、これについて、話します。 私は、学校でこれを、してきました。 これについて、話します - 自由、権威、美しさ、愛。 そうね、私たちが議論してきたすべてについて、です。 それから、あなたの書物を、手に取ります。 が、あなたは、書物の中よりここで、はるかに多くを、学んだのです。
32:45 A: ああ、はい。 ああ、確かに。
32:46 K: ゆえに、書物は、あなたが何であるかを、示します。
32:49 よろしいですか。

A: ええ、そのとおり。 書物は、見られて・・・
32:55 K: 書物は、中古のものに、なります。
32:57 A: ええ。それは、澄んだ目で、見られます。
33:04 K: そういうわけで、私個人は、これらの書物を、唯の一冊も 読んだことがないのです -ギーターも、ウパニシャッドも、 それらも、ブッダが言ったことも、です。 それはなぜか、私には退屈でした。すみません。 それは、私にとって、何の意味も、ありませんでした。 何か意味があったのは、観察することでした。 インドの、きわめて貧しい人たちを、観察する。 豊かな人たちを、観察する。 独裁者、ムッソリーニ、ヒットラー、フルシチョフと ブレジネフのような、彼らすべてを、です。 彼らと、政治家を、見守る。 そしてあなたは、すごくたくさん学びます。 なぜなら、本当の書物は、あなたであるからです。 理解されますか。 あなたの書物を、読めるなら- すなわち、あなた自身を、です - あなたは、あらゆる物事を、学んだのです - 機能的な知識以外は、ね。 で、自己を知ることが、あるとき、権威は、何の意味も、ありません。 私は、受け入れないでしょう。 なぜ私は、これらの、 インドから真理をもたらす人々を、受け入れるべきですか。 それは、真理ではありません - 彼らが、もたらしているものは! 彼らは、伝統をもたらしています - 彼らが信じていることを、です。 で、精神は、 人が、教えたり、創案や想像したりしてきた物事すべてを、 片付けられますか - 宗教、神、あれこれについて、です。 それは、こういう意味です- この精神は、 すなわち、世界の精神、すなわち、共通意識の精神ですが、 その意識は、それ自体から、 実在について人が言ってきたことすべてを、空っぽにできますか。 さもないと、私は・・・よろしいですか。
35:21 A: ・・・始められません。
35:23 K: 始めるだけではなく、私は、何を発見しますか。 他の人々が言ってきたことを、ですか。 ブッダ、キリストが言ってきたことを・・・なぜ私は、それを受け入れるべきですか。
35:33 A: まあ、怖ろしいことは、私が、何であれ、彼らが言った、 甲斐のあることを掴む立場に、いない、ということです - これが生ずるまでは、です。
35:47 K: で、自由は、絶対的な必要です。
35:51 A: ああ、はい。 絶対に、です。

K: が、彼らの誰一人として、これを言いません。反対に、 彼らは、自由は、はるか後であなたに来るだろう、と言います。 余生の間、牢獄にいなさい。 あなたは、死ぬとき、自由を持つだろう、と。 それが、本質的に、彼らが説いていることです。 で、精神、心は、 そして、頭脳の中の倉庫すべては、 人が実在について言ってきたことより、自由でありえますか。 それは、すばらしい問いです。 理解されますか。
36:39 A: ああ、理解します。 理解します。 私たちの議論、私たちの会話において、私にとって、 著しく妥当だと思われることの一つは、 いかに持続的に、あなたが、 問いへ戻ってこられたのか、です。
37:00 K: ええ。
37:01 A: 問いへ戻ってくる。 そして、戻るとの概念は、その深みにおいて - お話に正確に付いてきたなら、ですが - 全く、誤って表示されてきたと、思われます。 戻ること(リターン)は、答えへの動きとして、表示されてきました。
37:29 K: 全くです。全くです。 

A: が、それはまた戻ること(リ・ターン)ではない。
37:32 K: ええ、もちろん、そうではない。

A: ええ。なぜなら、
37:35 向かうこと(ターン)は、あなたが触れられたあの本源の方へ、です。 ゆえに、それは、問いへ、です。 まったく答えへ、ではありません。
37:47 K: 全くそうです。 そうね、私は、かつて、(インド北部)カシミールに、 泊まっていました - 丘、山々の真ん中に、です。 一団のサンニャーシ、僧侶が、私に、会いに来ました - 新たに沐浴と、あらゆることをし、 儀式すべてと、それらをして、 彼らは、私に会いに来たのでした。 彼らは、私に言いました- 自分たちはちょうど、 俗世間を離れた一団の人々、すなわち、すごい僧侶たちから、来た。 山々の中で、きわめて上に上がっている人々からだ、と。 彼らは、それらの人は全的に俗世間を離れていると、言いました。 私は、「その言葉は、どういう意味でしょうか」と、言いました。 彼らは、「彼らは世間を離れてしまったのです」と、言いました - 「彼らは、もはや世間に誘惑されません。 彼らは、世間について、この大した知識を、持っています」と。 私は、言いました - 「彼らは、世間を離れたとき、 世間の記憶を、離れたのですか」と。 世間が作ってきた記憶、知識 - よろしいですか - すなわち、導師たち、教師たちが組み立ててきたものを、です。 「それは英知です。どうして英知を離れられますか」と、彼は言いました。 私は、言いました - 「あなたは、英知は、書物をとおし、 教師をとおし、他の人から、犠牲、苦行、放棄をとおして、 買われると、仰るんですか」と。 よろしいですか。 彼らの観念、 すなわち、英知は、 何か他の誰かより買えるものである、と。
39:36 A: 彼らは、この荷物すべてをもって、山に登っていきました。
39:40 K: 荷物をもって。そのとおりです。 それがまさしく、私が言ったことです。 あなたが脇に置いてきた、荷物すべて。 あなたは、たぶん世間を置いてきたが、 彼らの荷物を運んできた。 よろしいですか。

A: おやまあ。
39:56 K: で、それは、本当に、重要なことです - 精神が本当に、きわめて真剣であり、 宗教が何を意味するかを、見出そうとしているなら、です。 このすべてのがらくたではありません。 私は、反復しつづけます。なぜなら、それは、積み上がっていく、 そうね、成長していくように、思われるからです。 が、精神を、すべての成長、増大より、自由にすること、 ゆえに、それは、こういう意味です- 増大を見てください。 不条理すべてを、見てください!
40:37 A: それは、私たちの「世間的」という言葉に、きわめて、きわめて 異なった役を、割り振ります。

K: ええ。まさにそうです。
40:44 A: 彼らは、世間を離れるために、 山へ登っていきますが、 彼らは、それを携えていくために、無量の骨折りを、しています。
40:52 K: そのとおりです。 それが、 彼らが僧院へ入るとき、していることです。
40:57 A: もちろんです。 もちろんです。 増大、外殻形成。
41:05 K: で、今 - 私は戻ってきます - 精神は、完全に一人でありえますか。 孤立したのではなく、退いたのではなく、 自体のまわりに壁を築き、「それで私は一人だ」と言うのではありません。 あなたがこのすべてを、 思考の物事すべてを、片付けるとき、 訪れる、一人という意味での、一人です。 理解されますか。 なぜなら、思考は、こうも利巧で、ずるがしこいからです。 それは、すばらしい構造物を築けるし、 それを、実在と呼べます。 が、思考は、過去の応答です。 で、それは、時のです。 思考は、時のであり、 何か時を持たないものを、創り出せません。 思考は、その知識の平野において、機能できます。 それは、必要ですが、他方においては、そうでありません。 これに、勇敢さは要りません。 それに、犠牲は要りません。 それに、苦行は要りません。 ただ、虚偽への知覚です。 虚偽を見ることは、虚偽に、真理を見ることです。 明らかになっているのか・・・
42:41 A: 虚偽を見ることは、虚偽に真理を見ることです。
42:45 K: もちろんです。 

A: 私はそれをもう一度、繰り返さなければなりません。 虚偽を見ることは、虚偽に真理を見ることです。
42:55 K: そして、真理だと考えられているものを、虚偽と見ることです。
43:03 A: ええ、ええ。
43:08 K: で、私の眼は、すべての虚偽を、剥ぎ取られています。 それで、いかなる内的な欺瞞も、ありません。 なぜなら、何かを見たい、 何かを達成したいとの欲望が、ないからです。 なぜなら、経験したい、達成したい、 覚り、それらに到達したいとの 欲望が、あった瞬間、 幻影が、あろうとしているからです - 何か欲望により創り出されたものが、です。 ゆえに、精神は、この欲望の追求と、 その充足より、自由でなければなりません。 私たちは、それらについて、以前、議論しました。 欲望の構造が何であるかを、理解する。 私たちは、それについて、大変多く話しました。 で、この点に来ます - 精神は、自由でありえますか。 そして、恐れと欲望と楽しみより生まれた物事すべてから、 自由でありえますか。 それは、自分自身を大いなる深みで、理解しなくてはいけない、という意味です。
44:39 A: ポンポン出つづけることは、 自分が、それらの問いを、反復できるし、
44:50 K: はい。
44:52 A: 自分はそれらを掴んだと、考えはじめる、ということです。
45:00 K: あなたは、言葉を掴みます。

A: そのとおり。 何か、あなたがその裏側へ 出てこなくてはいけないことが、あるんです。
45:08 K: 全くそうです。
45:11 A: が、その問いの反復は、 機能的な価値を、持っているんです。

K: 知っています。
45:21 A: 私には、そう思われます。

K: ええ、持っています。 すなわち、その人物が、進んで聞こうとするなら、です。
45:28 A: 彼が進んで聞こうとするなら、です。 なぜなら、思考は、信じがたくも、欺瞞的であるからです。
45:34 K: きわめて、そうです。

A: あなたが指摘してこられたとき、 ああ、私は、哀れな老いたエレミアの言葉について、考えていました - 「心は絶望的に、すべてのものより、 邪であり、欺瞞的である」と。 確かに、(預言者の)彼は間違いなく何かを・・・
46:01 K: ・・・何かを味わった。

A: ええ、もちろん、 (「誰がそれを理解できるか」という)その行全体でのように、です。 が、私は、自分自身にこの問いを、していました - なぜ私が、自分の学校教育を 継続しつづけたのかに、関連して、です。 深くこれに付いていく中で、 それは、何かに戻っていくように、私には思われます - きわめて不条理に聞こえるだろうことに、ですが、 それは、仰ってきたことすべてと、 何らかの関わりを持っています。 私は、とても小さくて、イングランドで成長していたとき、 多くのアメリカの子どもが学校へ送られるのより、 私は、かなり早く学校へ、送られました。 そして、私は、大変多くの詩歌を、読んでもらいました。 私は、この国で私たちに、何が起きてきたのかを、知りませんが、 詩歌は本当に、民衆にとって、 まったく存在していません。

K: ええ、存じています。
47:00 A: でも、ありがたいことに、私は日々、それによって育てられました。
47:07 K: ええ、イングランドでは、もちろん誰もがみな、詩歌を読みます - ギリシャ語、ラテン語。私たちはみんな、それを経てきました。
47:14 A: 私はいつも、詩歌を読んでもらいました - 私と私の妹の世話などをするために、 両親が雇用した、若い女の人によって、です。 私は、それを聞かずには、けっして眠りに就きませんでした。 或る日、私がとても小さかったとき、学校で、教師は読みました - 「フクロウさんと猫ちゃんは、海へ行きました。 きれいな黄緑のボートに乗って」と。 エドワード・リアが書いた、あのすばらしく、ばかげたものです。
47:42 K: ええ、エドワード・リアね。
47:44 A: そうね、私はけっして、二度と同じではありませんでした。 私は今、なぜなのかを、知っています- それは絶対的に不条理に聞こえます - 私は言語に、輝きを経験することになったし、 私は、それとの触れ合いを、けっして、失いませんでした。 私が、教師たちとに抱えた格闘すべてにも関わらず、です。 私は、学校で、ひどい時間を過ごしました - 学校教育を、終わりまでやり遂げるために、です。 それはあまりよく聞こえないと言わざるを得ませんが、そうでした。 私は、かなり嫌な時間を、過ごしました。 嫌な時間の理由の一つは、 私が、これをあきらめるのを、拒絶することでした。この・・・
48:22 K: 全くです。 ボートに乗った猫ちゃんね。
48:25 A: 同じボートに、鳥と猫が乗り合わせている、という事実。 そして、その人は、あなたが行為、動きと呼ばれたものを、叙述しています - その中で、真理と美しさなどが、 動いて行きます。 ああ、何とも。
48:43 K: 私は思うのですが、私たちは、この点まで来た後で、 私たちは、またもや、きわめて深く、 冥想の問いへ、入るべきです。

A: ええ。
48:57 K: なぜなら、 私たちが話している意味での宗教と、 冥想は、相伴うからです。 それは、宗教は、観念だけではなく、 日常生活の実際の行いである、という意味です。 あなたの思考、あなたの言語、 あなたの振るまいが、宗教のまさに本質です。 理解されますか。 それが存在しないなら、宗教は存在できません。 

A: そのとおり。

K: それは、言葉だけです。 あなたは、たくさんの言葉を、 紡いで回れます。様々なサーカス小屋へ、行けますが、 それは、宗教ではありません。 で、それを深く自分自身に確立し、 宗教を理解した後で、 そのとき、次のことは、こうです - 冥想とは何ですか。 それは、ものすごく重要です。 なぜなら、冥想は、適切に理解されるなら、 何か本当に・・・ 人ができる、最もとてつもないことであるからです。 冥想は、日常生活より、離別していません。
50:24 A: 私の心を駆け抜けていたことは、 間違いなく、「メディスティ」、「メデオ」という言葉への 語源的な関係は、・・・
50:36 K: 「メデオ」は、考えること、熟考すること、入ることです。
50:42 A: ・・・(古代ギリシャの)「ホメーロス」において、それは実際に、 「扶養する」という観念を、帯びています- 気づかう、という意味で、です。 とても美しい。 それにより、あなたが先に、出された問いが、出てきます - 真の気づかいについて、です。

K: そうです。
51:05 A: すなわち、自らは、そうでないなら、冥想していない・・・
51:08 K: ・・・気をつけていないなら。

A: ・・・気をつけて、気づかっていないなら。
51:12 K: 気をつけるより、むしろ気づかう。ええ。 

A: ええ。 それはすべて、その言葉に、ありますが、 私たちは、見ません。 一目、見ようとしません。 ええ、どうぞ、進んでください。
51:28 K: そうね、私たちが、宗教より行いを離別させてしまい - 私たちは、そうしてきました - 宗教より関係を離別させてしまい- 私たちは、そうしてきました - 宗教より死を離別させてしまい- 私たちは、そうしてきました - 宗教より愛を離別させてしまったとき、 私たちは、愛を、何か感覚的なもの、 何か楽しめるものに、してしまったとき、 宗教は、再生の要因であるのに、 そのとき、それは、人において消え去ります。 そういうわけで、私たちはこうも退廃しているのです。 私は、きわめて強調しているかもしれませんが、 あなたが、本当に宗教的であるこの精神の性質を、 持っているのでなければ、退廃は、回避不可能です。 よろしいですか。 人々の統治者、導き手、助ける人だと 思われている、政治家たちを、見てください。 彼らは、退廃しています。 この国と、あらゆるところで、起きつつあることが、見られます。 彼らは、こうも腐敗しています。 そして、彼らは、秩序をもたらしたいと思います。 彼らは、こうも反宗教的です。 彼らは、教会へ行くかもしれません -バプテスト派や、何であっても、です。 けれども、彼らは本当に、反宗教的です。 なぜなら、彼らは、きちんと振るまわないからです。 で、人は、ますます退廃しつつあります。 それは、ご覧になれます。 なぜなら、宗教は、エネルギーの新しい性質を、 もたらす要因であるからです。 それは、古い同じエネルギーですが、それは、新しい性質になったのです。 で、頭脳は、退廃しません。 私たちは、年を取るにつれて、 退廃しがちですが、 それは、そうなりません。 なぜなら、それは、 「私」のあらゆる種類の安全からの自由であるからです。 それは、何の所も持ちません。
53:53 A: 私は昨日、授業中に、これに注目しました - あなたが、ちょうど話しておられる、エネルギーについての この事柄について、です。 速まりが、ありました・・・
54:03 K: はい。

A: ・・・それが起きました。 授業の終わりに、ありましたが、 このひどい、ためらいのせいで、それには、苦労しました。 が、たとえそうでも、エネルギーの解放が、ありました。 それは、娯楽とは、まったく関わりが、ありませんでした - 言われているように、人々が、自己を忘却するために、 駆けつけるものとは、関わりません。 それは、もちろん戯言です。 彼らはただ、もう幾らかのそれでもって、身を粉にして、 自分自身に打ち込んでいるだけです。 が、この特定の事例においては、 仰っていることの、経験的な実証が、ありました。 そちらにある何か、です。 それは、見られるべきであり、それは、観察可能です。
54:51 K: そのとおりです。

A: そして、見よ。 それは、緑の月桂樹のように、勢いよく茂りました。 ええ、どうぞ、進んでください。
55:01 K: そうね、そういうわけで、世界中の司祭者たちは、 宗教を、何か利得のものに、してしまったのです - 崇拝者も、仲介者も、です。 それは、商売の事柄、知的な事柄に、なってしまったか、 それは、本当に商業的になってしまったのです - 物理的に、だけではなく、内的に、深く、です。 これをしなさい。すると、あなたは、あれに到るだろう、と。
55:36 A: 芯まで、功利的に。
55:38 K: それは、商業的です。

A: ええ。
55:43 K: それで、これが、終わりにされるのでなければ、 私たちは、ますます退廃しようとしています。 そういうわけで、私は、こうも無量の責任を、感ずるのです - 個人的に、です。 私は話をするとき、聴衆に対して、ものすごく責任を、です。 私は、インドで様々な学校へ行くとき、 自らは、あれらの子どもたちに、責任があると、感じます。 よろしいですか。

A: ええ、もちろんです。分かります。 確かに分かります。

K: 私は、こう言います - 「後生だから、違ってください。 あのように成長しないでください。ごらん」と。 私はきわめて・・・それに入ります。 そうね、大変多く話します。 そして、彼らは、見はじめます。 が、世界は、彼らにとって、強すぎます。 彼らは、生計を立てなくてはなりません。 彼らは、自らの親に、抵抗しなくてはなりません - すなわち、彼らに、 落ち着いて、良く職を持ち、結婚し、家を持ってほしい親に、です。 そうね、それらの事柄です。 そして、世論と、過剰な人口。 それは、あまりに強すぎます。
56:50 A: (学生、家住、林住、遊行の)生の四段階の (ヒンドゥーの)あの伝統の、ものすごい重み。もちろんです。
56:56 K: ええ。で、私はこう言います - わずかな「エリート」がいるのどうかを見出そう、と。俗物性なしに、 私は、括弧付きのエリートというその言葉を、使っていいなら、です。 本当に関心を持っている、わずかな人を、創り出そう - わずかな教師、わずかな学生を。 それさえも、きわめて困難になります。 なぜなら、ほとんどの教師は・・・ 彼らは、あれやこれが上手でない。 ゆえに、教師になるからです。 彼らが何であるかを、ご存じです。 

A: ええ。 あれまあ、ええ。
57:41 K: で、あらゆる物事が、あなたに反しています。 あらゆる物事が、です。 導師たちは、あなたに反しています。 司祭者たちは、あなたに反しています。 ビジネスの人々、教師、政治家、 あらゆる人が、あなたに反しています。 それは当たり前だと、思ってください! 彼らは、あなたを、1インチも助けないでしょう。 彼らは、あなたに、自分たち流にやってほしいのです。 彼らはそれらに、既得権益を、持っています。それらは、ご存じですね。
58:17 A: ええ。それは見えます。 私はそれが、明瞭に見えます。 私たちは、次の会話において、冥想の活動を、 探検できるだろうと、お考えでしょうか - 叙述されてきた、このすべての恐怖の脈絡の中で、です。
58:33 K: はい。私たちは、そうするでしょう。
58:35 A: ああ、それはすばらしい。ええ。