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SD74CA17 - 冥想 - 自らの生のすべてに浸透する注意の性質
アラン・W.アンダーソンとの会話、第17回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月28日



0:36 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:42 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:48 A: クリシュナムルティさん、前回の会話において、私たちは、 ほぼ、或る地点、別のことについて始めようとするところにまで、 来ました - 冥想の主題について、です。 私は、今日、私たちがともに、それを分かち合えることを、望んでいました。
2:06 K: そうですね。 あなたが、冥想の多くの流派に、 気づいておられるのかどうか、私は知りません - インドで、日本で、シナでの、です。 禅と、様々なキリスト教の、黙想をする修道会、 果てしなく祈り、来る日も来る日も続ける人たち、 そして、神の恩寵を受け取ろうと待つ人たち - 彼らがそれを何と呼ぼうが、です。 私は思うのですが- 私が提案してもいいなら - 私たちは、正しい種類の冥想とは何であるか、から、ではなく、 冥想とは何であるか、から、 始めるべきです。

A: ええ、ええ。

K: そのとき私たちは、進行し、ともに究明できます。 ゆえに、ともに分かち合えます- この冥想の問いを、です。 その言葉(メディテーション)は、熟慮する、まとめる、抱擁する、 きわめて深く、深く考慮する、という意味です。 それらの意味が、その一つの言葉、「冥想」に、関与しています。 もしも、私たちは、冥想が何であるかを、本当に知らないと 言うことから、私たちが始められたなら、です。
4:10 A: ええ、けっこうです。
4:18 K: 私たちは、正統派の、伝統的な キリスト教やヒンドゥー教や仏教の冥想を、受け入れるなら - もちろん、イスラム教徒の中には、 スーフィーとして、冥想が、あります。 

A: ええ。

K: 私たちがそれを受け入れるなら、それはすべて、伝統に基づいています - 誰か他の人たちが、経験してきたことに、です。 そして、彼らは、方法や体系を、定めます - 自分たちが達成してきたことを、実践するために、です。 それで、冥想の流派が、たぶん、何千もあります。 それらが、この国で、増殖しています - 一日三回、冥想する。 或る言葉、標語、マントラについて、考える。 そのために、あなたは35ドルか、100ドルを、支払います。 そのとき、あなたは、何かサンスクリットの言葉や、 何か他のギリシャの言葉を、得ます。 そしてあなたは、反復し、反復し、反復します。 それから、様々な呼吸法を実践する、 それらすべての人々が、います。 そして、禅の実践。 そのすべてが、課業を確立する形です - 本質的に精神を鈍らせるであろう、実践です。 なぜなら、あなたが実践し、実践し、実践するなら、 あなたは、機械的な精神になるだろうからです。 で、私は、それらのことを、どれもしたことが、ありません。 なぜなら、個人的に私が、少し自分自身について、話していいなら・・・
6:27 A: どうぞ、なさってください。

K: ・・・私は、見守ってきました。 様々な種類の一定の集団に、出席し、加わりました。ただ見るため、です。 そして私は、「これは、それではない」と、言いました。 私はそれを、即座に捨て去りました。 で、もしも、私たちがそれらを、捨て去られたなら - ヒンドゥー教の、仏教の、キリスト教のと、 インドからの導師たちによる、 様々な輸入物の冥想と、 黙想の、そのすべてを、伝統の継続として、です。 それは、他の人たちが言ってきたことと、 他の人の経験を、持ち越すことです - 他の人の啓明、 他の人の覚りなどを、です。 もしも私たちが、そのすべてを、全的に捨て去れたなら - 彼らの方法、彼らの体系、 彼らの実践、彼らの規律を、です。 なぜなら、彼らはみんな、真理や神は - 彼らが何と呼ぼうとも - 何かあちらのものであると、言っているからです。 あなたは、あそこに着くために、実践します。 それは、固定したものです- 彼らによれば、ね。 もちろん、それは、固定していなければなりません。 私は、そこに着くために、実践しつづけるなら、 それは、静止していなければなりません。
8:00 A: ええ、もちろんです。 ええ、すっかり分かります。

K: ゆえに・・・ 真理は、静止していません。 死んだものではありません。
8:11 A: ええ。私は、すっかりそれが分かります。
8:15 K: で、もしも、私たちは正直に、そのすべてを片づけて、 冥想とは何であるかを、訊ねられたなら、です。 どう冥想するのか、ではありません。 冥想とは何であるか- その問いをする中で、 私たちは、見出しはじめるでしょう。 私たちは、自分自身、冥想しはじめるでしょう。 話が明らかになっているのかどうか・・・
8:40 A: ええ、そうです。お話は、きわめて明らかになっています。 私たちは再び、区別に戻っています - 或る活動と、その活動の外側に、 その活動と対称的にある目標との間の、です。

K: それ自体と。
8:52 A: ・・・それ自体にとって、本来的である目的と。
8:54 K: はい。

A: ええ。
8:57 K: で、私たちは、「冥想が何であるかを、私は知らない」 と言うことから、始められるでしょうか。
9:07 A: ええ、ええ。私は、そこから始めようとしています。
9:09 K: あなたが、そこから始めるなら、それは、本当にすばらしい。

A: 確かにそうです。 

K: それは、大きな謙虚さの感覚を、もたらします。
9:18 A: また、たとえ遠くからでも、自由を直観します。
9:25 K: ええ、そのとおりです。 私は知りません。 それは、自由のものすごい認知です - 既成の知られたもの、既成の伝統、 既成の方法、既成の流派と実践からの自由、です。

A: そのとおり。
9:47 K: 私は、自分が知らない何かから、始めます。 それは、私にとって、大いなる美しさを、持っています。 そのとき私は、自由に動けます。

A: そのとおり。

K: 探究の中で、私は、自由に流れられるか、 ともに泳げます。 で、私は知りません。 さて、そのとき、そこから、私たちは始められます。 まず第一に、 冥想は、日常生活より、離別していますか。 日常的な行い、 充足、野心、貪欲、妬みの日常的な欲望、 日常的な、競争好きで、模倣的で、順応する精神、 日常的な食欲 - 感覚的、性的、他の形の知的な食欲など、です。 冥想は、それらより離別していますか。 または、冥想は、 流れて、それらを通ってゆき、 それらを掩い、それらを内包します。 さもないと、冥想は、何の意味も、ありません。 よろしい?

A: ええ、分かります。 これにより、興味深い問いが、出てきます- 私がお訊きしたいこと、です。 おそらく、これを明瞭にするのを、助けてくださるでしょうか。 さて、私は、個人的に冥想を、 一度も行ったことが、ありません - 何らかの伝統における、その儀式的な性格に関して・・・
11:49 K: ・・・僧院的な・・・

A: その僧院的な、 根本的に方法論的な接近に関して、です。 私は、文献で、かなり深く読んできました - それらの実践より、発散されたものを、です。 私は、考えていました- 例えば、 私が自分の研究から理解してきたことについて、 (東方正教会の静寂主義)ヘシュカズムの伝統と呼ばれるものについて、です。

K: ええ。 

A: そこでは、イエスの祈りと呼ばれるものが、 修道士たちにより、唱えられます - 特に、(ギリシャの)アトス山において、 「主、イエス・キリストよ、私、罪人を、憐れみたまえ」と、です。 これは、何度も何度も、反復されます。私が理解するところ、 いつの日か、それが、自動的になるだろうとの望みをもって、です - おそらく、現代の深層心理学者たちが、表すようなら - 無意識が、それに所有されてしまい、 それで、私がしていることが、何であろうとも、 それ自体が、全面的に、その祈りに焦点を合わせるのです。 その主張は、これが達成されるとき、 私はもはや、その意味で、祈りを唱えなくていい。 私の中で、祈りがそれ自体を唱えている、ということです。
13:14 K: 同じことは、インドでは、違った形で表現されます。 それが、マントラです。 それをご存じですね。
13:21 A: ええ。

K: 文章や言葉の反復です。 初めに声に出して反復し、それから静寂に。 そのとき、それは、あなたの存在に、入ったのです。 それの響きこそが、進んでいます。
13:47 A: ええ。
13:49 K: その響きから、あなたは、行為します。生きます。 が、それは、すべて自己が賦課しています - 一定の点に達するために、です。 例えば、ちょうど今、反復された祈りの中で、罪と、仰いました。 私は、罪を受け入れません。私は、罪が何であるかを、知りません。
14:13 A: 私は、耳が、それらの言葉を捉える人たちの 顔に浮かんだ恐怖を、想像できるだけです。

K: 知っています。
14:20 それは、彼らが信念へ、条件づけられている、という意味です - イエスがおられる、とか、罪がある、とか、 許されなければならない、とかいう、それらへ、です。 それはただ、伝統を持ち越していくことだけです。
14:38 A: これは、私に、きわめて個人的に、語りかけてきます。 私が何年も前にした決断 - これらのことの一つをしないこと - の基礎は、 あなたの少し先の発言に、具体化されていました - すなわち、 この言葉の中からか、これらの言葉の中から、期待されますが・・・

K: ・・・呼吸、それらの中から、です。
15:00 A: どうやら、私の全存在の、この浸透が、来るだろう、と。 そして、その時に、私に生じた問いは、こうでした - この問いが正確だったとお考えになるのかどうか、 明瞭にしていただきたいと思うのですが - 私の心に生じたことは、 その発言自体が、マントラであっても、 イエスの祈りであっても、 それ自体は、有限な表現です。

K: 絶対的にそうです。
15:30 A: ゆえに、私は、ここで何か変なことを、していませんか。 

K: ええ。
15:34 A: 私が、到達しがいのある何かに、どうやら到達するのなら、 たぶんそれは、そのせいというより、 むしろ、にもかかわらずかもしれません。 それはおそらく、思考について考えることでしたが、 私はその時に、それを感じませんでした。 私は、それに対して自分が、直観的な応答をしていると、思いました。 ゆえに、私は単純に、先へ進もうとしませんでした。 ええ、どうぞ、進んでください。

K: 全くそのとおり。 そうね、そのすべては、真理への道があることを、含意しています - キリスト教の道、ヒンドゥー教の道、禅、 様々な導師と体系。 あの覚りへとか、あの真理へとか、 あの測量不可能な、何らかのものへとかの道が、ある。 それが、そこにある。 あなたがしなくてはいけないすべては、 それに向かって、歩むこと、歩むこと、歩むことを、 つづけること、つづけることです。 それは、あのものが、確立されている、固定している、静止している、 動いていない、生きていない、という意味です。
16:35 A: 私の心に閃きました- バイブルの本文です。 そこで、神は、私の足への灯火と、私の道への光として、 叙述されています。神が道であるとは、言われません。 むしろ、彼は灯火である・・・
16:51 K: ・・・道を照らす。全くです。

A: そうです。 足への灯火と、道への光だと。 が、神が道であるとは、言われません。 それは、きわめて興味深い。

K: きわめて。
17:02 A: が、たぶん、誰も本当に、それらの言葉を、間近に見つめません。
17:06 K: そうね、あなたがいかに、すでにそれを見ておられるのか。 あなたの、その発言は・・・ あなたは、その発言の真理を、ご覧になります。 それの感じ、です。

A: ええ、ええ。
17:24 K: で、それが、一つのことです。 冥想は、存在の平野全体を、掩いますか。 または、それは、何か全的に生より離れたものですか。 生とは、ビジネス、政治、セックス、 楽しみ、野心、貪欲、妬み、 心配、死、恐れです。 そのすべてが、私の生、生きることです。 冥想は、それより離れていますか。 または、それは、そのすべてを抱擁しますか。 それが、そのすべてを抱擁しないなら、冥想は、何の意味もありません。
18:10 A: 私はちょうど、何かを思いつきました - きっと、信じがたく異端的だと見做されるだろうことですが、 そうね、イエス自身の言葉、「私は道で、真理で、命である」は、 私たちが行った、これらの議論をとおして、 開示されてきたことの脈絡において、理解されたとき、 彼が言った他の何かとの関係において、 私たちが教えられてきたことより、 信じがたく違った意味を、帯びます。 例えば、彼がペテロに、自分は誰であるかを、訊ねるとき - すなわち、「私は誰ですか」と。 イエスは、です。 そして、ペテロは、「あなたは、キリストです。 生ける神の息子です」と言います。 彼は即時に、彼の方を向いて、言います - 「血と肉が、あなたに、これを開示したのではない。」 血と肉とは、何の関わりもない。 「天にまします私の父が、である」と。 彼は他のところで、それは自分と一つであると、言います - 自分が、父と一つであるように、です。 そのとき彼は、祈りの中で、弟子たちが自分と一つであることを、祈ります - 自分と父が一つであるように、 彼らがみんな、一つでありますように、と。 で、それを見ますと・・・私はほとんど、どもっていますが、 この、私が言おうとしていることは- 私は気づいていますが - 神学的に言って、それは、空想的だと見られるでしょうが、 彼が、「私は道で、真理で、命である」と言うとき、 もしそれが、行為としてのあの「一つ」の脈絡において、 見られるなら- 行為として、です - そのとき、すべての事柄が、全く変容しています。 そうでないですか。

K: 全くです。全くです。
19:51 A: 私は、それについて、長い時間、懸命に、 呑み込もうとしています。 どうぞ、進んでください。
19:56 K: で、それが、生より離別しているなら、 そのとき、冥想は何の意味も、ありません。 それは、ただ生からの逃避です - 私たちのすべての苦労と悲惨、悲しみ、 混乱からの逃避です。 ゆえに、それは、触れる甲斐すら、ありません。

A: ええ、そうです。
20:20 K: そうでないなら - 私にとって、そうではありません -
20:24 そのとき、冥想とは何ですか。 よろしいですか。 それは、達成ですか。 目標への到達ですか。 または、それは、香り、美しさですか - 私の活動すべてに浸透するものであり、 ゆえに、それは、ものすごい意義を、持っていますか。 冥想は、ものすごい意義を、持っています。 そのとき、次の問いは、こうです - それは、探求の結果ですか。 禅の集団に加わる。 それから、別の集団に加わる - よろしいですか - 次から、次へ、次へと これを実践する、あれを実践する、実践しない、 純潔、清貧の誓いを立てるとか、 まったく話さない、断食する - そこに到るために、です。 私にとって、それらすべては、全的に不必要です。 なぜなら、重要なことは- 私たちが先日、言いましたように - 虚偽を見ることであるからです。 私が虚偽を、真実だとか、虚偽だとか、判定するのではありません。 知覚こそが、それの真理や虚偽を、開示します。 私は、それを見つめなければなりません。 私の眼は、何の先入観もなく、何の反応もなく、 それを見つめなければなりません。 そのとき私は、「これは虚偽である」と言えます - 「私はそれに触れまい」と。 それが、私が・・・私は、そうしないでしょう! 人々は、私へやってきて、言いました - ああ、すべてのことには、見当もお付きにならないでしょう - 彼らは、「あなたはしなければ」と、言ってきました。 私は、「何もしない」と言ってきました。 私にとって、これは虚偽です。なぜなら、それは、あなたの生を内包しないからです。
22:48 A: ええ。 

K: あなたは、変化していません! あなたは、「私は愛に満ちている。私は真理に満ちている」と言うかもしれません - 「私は知識に満ちている。 私は英知に満ちている」と。 私は、「それはすべて戯言です。あなたはきちんと振るまいますか」と、言います - 「あなたは、恐れから自由ですか。 あなたは、野心、貪欲、妬みから、 成功を達成したい欲望から、自由ですか- あらゆる分野において、です。 そうでないなら、あなたは、ゲームをやっているだけです。 あなたは、真剣ではありません」と。 で、そこから、私たちは進行できます。 

A: ええ。
23:29 K: その冥想は、存在の平野全体を、内包します - 芸術的な分野においても、ビジネスの分野においても、です。 なぜなら、私にとって、分割は- 芸術家、ビジネス・・・、 政治家、司祭者、学者、科学者として・・・ですが、そうね、 私たちがいかに、これらすべてを経歴として、断片化させてきたのか。 私にとって、 人間たちは、断片化しているので、 この断片化の表現が、これです - ビジネス・・・科学者、学者、芸術家・・・ よろしいですか。

A: ええ、ええ、ええ。 私は、これに関して、 学界で進んでいることについて、考えています。 私たちはいつも、大学教員として、互いに言い合っています - 「後生だから、このすべてを或る種の統合へまとめるための、 秩序づけの原理を、見つけよう - それで、学生が、自分が何か意味あることをしていると、 実感できるように。 そして、自分が見もしないことの長い列車に、 貨車を、もう一台、加えているだけではないのだ、と」と。
24:48 K: 全くです。全くです。

A: ええ。
24:54 K: そして、冥想は、 あなたが、これらすべての体系、方法、導師、権威を拒否するとき、 宗教的な問いになります。
25:14 A: ええ。深遠に宗教的な問いです。

K: 深遠に宗教的です。 

A: ああ、はい。
25:19 K: さて、芸術家は、どんな所を、持っていますか - 社会構造においてだけではなく、 宗教的なもののその表現において、です。 理解されますか。 芸術家とは、何ですか。 彼は、何か、私たちの日常生活より、離れたものですか。 生きることの美しさ、 本当に宗教的な精神の性質 - よろしいですか - 彼は、その一部ですか。 または、彼は変種であり、その外側にいますか。 なぜなら、彼は、一定の才能を、持っているからです。 その才能の表現が、 彼にとってと、人々にとって、とてつもなく重要になります。
26:26 A: 私たちの文化において、しばしば、 その才能の表現は、彼をして、 一定の慣習との葛藤に陥れるように、思われます。
26:35 K: そしてまた、彼自身において、その葛藤を表現することも、です。
26:40 A: もちろんです。 ええ、私たちは、西洋文明において、 外部者としての芸術家の長い伝統を、持っていますね。
26:50 K: ええ、何か外部のものですが、 彼は、はるかに敏感です。 はるかに鋭敏です - 美しさに対して、自然に対して、ですが、 それを別として、彼は、ただの普通の人です。
27:09 A: ええ、もちろんです。 ええ。
27:12 K: 私にとって、それは、矛盾です。 初めに、全的な人間でありなさい。 そのとき、何であれ、あなたが創り出すもの、 何であれ、あなたがすることは、美しくなるでしょう。 

A: もちろんです。 あなたが、絵を描くのでも、何をするのでも、です。 分割して、芸術家を、何かとてつもないものに、とか、 ビジネスマンを、何か醜いものに、しないようにしましょう。 学者は、知能の世界に生きているだけとか、 科学者は、物理学の世界に、などなどなどと、しないようにしましょう。 初めに、人間がなければなりません。 よろしいですか。 生の全的な理解、という意味での、人間です - 死、愛、美しさ、関係、責任、殺さないことについて、です。 そのすべてが、生きることに、含意されています。 ゆえに、彼は、自然との関係を、確立します。 そして、その関係の表現、です - それが、全体的で、健康的であり、創造的であるなら、です。
28:31 A: これは、多くの芸術家が、自分の任務と構想することより、 きわめて異なっています。 特に現代において、芸術家たちは、この概念を持っています - すなわち、 自分たちは、何らかの意味で、時代の断片化の反映者である、と。
28:46 K: 絶対に、です。

A: それで、彼らは鏡として、私たちに 断片化を掲げる発言を、しますが、 これが関わっているのは、断片化を 補強することにすぎません。

K: 絶対、そうです。
28:59 A: ええ。仰ることは、すっかり理解できます。
29:02 K: お分かりですね - 冥想は、存在の平野全体を掩う、ということが、です。 冥想は、方法、体系からの自由を、 含意しています。 なぜなら、私は、冥想が何であるかを、知らないからです。 私は、それから始めます。

A: ええ。
29:24 K: ゆえに私は、自由でもって始めます。 彼らの重荷でもって、ではありません。
29:29 A: それは、すばらしい。 自由でもって、始める。 彼らの重荷でもって、ではない。 あの展望から、私たちへ断片化を掲げるという この用件は、本当に、一種のジャーナリズムにすぎません。

K: 絶対に、ジャーナリズムです。
29:41 A: そうでないですか。 ええ、もちろんです。
29:43 K: 宣伝です。

A: ええ、もちろんです。
29:45 K: ゆえに、嘘です。 で、私は、そのすべてを、捨て去ります。 で、私は、何の重荷をも、持ちません。 ゆえに、精神は、冥想が何であるかを、自由に探究できます。
30:00 A: すばらしい。
30:02 K: 私は、こうしてきました。 よろしいですか。 それは、言語的な表現ではありません。 私は、自分が生きてこなかったことを、何も言いません。
30:12 A: ああ、それは、私にとって、きわめて明白です - ここに座り、あなたと会話している者として、です。ええ。
30:17 K: 私は、そうしません。 それは、偽善です。 私は、それらに興味がありません。 私は、冥想が何であるかを、見ることに本当に、興味を持っています。 で、この自由でもって、始めます。 そして、自由は、精神を自由にすること、 それ自体から、他の人たちの重荷を空っぽにする、という意味です - 彼らの方法、彼らの体系、 彼らの権威の受け入れ、 彼らの信念、彼らの望みを、です。 なぜなら、それは、私の一部であるからです - それらは、です。 ゆえに、私は、それらを捨て去ります。 今、私は、「冥想が何であるかを、私は知らない」と言うことから、始めます。 私は始めます - それは、精神が、 大きな謙虚さのこの感覚を、持っている、という意味です。 知らないのですが、私は、求めていません! それなら、誰かがそれを充たすでしょう!

A: そのとおり。 

K: 或る書物、或る学者、或る教授、
31:20 或る心理学者が、やってきて、「あなたは知らない。 ほら、私は知っている。私がそれをあなたに与えよう」と、言います。 私は、「どうぞ、しないでください」と、言います。 私は、何も知りません。 あなたもまた、何も知りません! なぜなら、あなたは、他の人たちが言ってきたことを、反復しているからです。 で、私は、それらを捨て去ります。 さて、私は、探究しはじめます。 私は、探究する立場に、います。 結果を達成するため、ではありません。 覚りと呼ばれるものに、到達するため、ではありません。 何もない。私は、覚りがあるのかないのかを、知りません。 私は、知らないという、大きな謙虚さの、この感じでもって、始めます。 ゆえに、精神は、本当の探究をする能力が、あります。 で、私は、探究します。 まず第一に、私は自分の生を、見つめます。 なぜなら、私は始まりに言いましたが、冥想は、 生の平野全体を、掩う、という含意であるからです。 私の生、私たちの生は、初めに、日々の意識的な生活です。 私は、それを検討してきました。 私は、それを見つめてきました。 矛盾がある、などなどです。 私たちは、それらについて、話してきました。 また、眠りの問いも、あります。 私は眠りに就きます。 8時間、9時間、10時間。 眠りとは、何ですか。 私は知らないで、始めます。 他の人たちが、言ってきたことではありません。 よろしいですか。

A: ええ、分かります。
33:10 K: 私は、冥想への関係において、探究しています - それは、宗教の本当の精神です。 すなわち、エネルギーすべてを、集めることです - 一つの次元から、 全然違った次元へ動くように、です。 それは、この次元より離別する、という意味ではありません。お分かりか・・・
33:38 A: ええ。それは、丘へ登っていくあれらの僧侶のようではありません。
33:42 K: 私は、あれらの丘に登ったことが、ありますよ。
33:45 A: ええ。
33:48 K: で、眠りとは、何ですか。 そして、目覚めているとは、何ですか。 私は、目覚めていますか。 または、危機があるとき、私は目覚めているだけですか - 衝撃があるとき、挑戦があるとき、 出来事、死、捨て去り、失敗が、あるときだけか - よろしいですか。 または、私は、日中に、いつの時も、目覚めていますか。 で、目覚めているとは、どういうことですか。 よろしいですか。 

A: ええ、分かります。分かります。 冥想は浸透しなければならないと、仰っている上は、 

K: もちろんです。

A: 明白に、目覚めることは、時たまではありえません。
34:37 K: そうなんです。 時たまではありえません。 何か刺激されたものではありえません。
34:43 A: 至高体験として、叙述できません。
34:45 K: ええ、ええ。 どの形の刺激も、外的なのでも、内的なのでも、 あなたは、眠っていて、刺激物が要ることを、含意するだけです - それが、コーヒーでも、セックスでも、精神安定剤でも、です。 すべてが、あなたを目覚めさせておきます。
35:05 A: 眠るために、衝撃を受け、目覚めるために、衝撃を受ける。
35:08 K: で、私は、自らの探究の中、訊ねています - 私は目覚めているのか、 目覚めているとは、どういう意味なのか、と。 起きつつあることに、目覚めているのではありません 政治的に、経済的に、社会的に、です - それは、明白です。 が、目覚めている。 それは、どういう意味ですか。 私は、重荷を持っているなら、目覚めていません。 よろしいですか。 どの種類でも、恐れがあるとき、 目覚めているとの感覚は、ありません。 私が幻影とともに生きるなら、ありません。 私の行為が、神経症的であるなら、 目覚めている状態は、ありません。 で、私は、探究しています。 そして、私は、私の中、外で起きつつあることに、 きわめて敏感になることにより、探究できるだけです。 で、私は・・・精神は、日中、気づいていますか - 私の内側、外側で、起きつつあることに、完全に、です。
36:22 A: あらゆる瞬間に。

K: そうなんです。 さもないと、私は目覚めていません。
36:28 A: 私は、或ることについて、考えていました - いつも私に、大きな不思議な感覚を、与えてきたことです。 家に私たちは、数羽の鳥などと、猫も一匹、飼っています。
36:37 K: もちろんです。 

A: が、彼らは互いに、愛し合っています。 すなわち、鳥たちは、部屋の中で、猫と駆け回りません。 猫は、鳥たちを、監督します。 晩に寝かされるとき、 猫は、その部屋へ入っていき、彼らと一緒に居ます。 たぶん、一時間か、二時間、見守ります。 自分は、鳥たちを見守らなければならないとの 気持ちのようです。 日中に、私はしばしば、猫が座って、鳥たちを、 無量の強烈さで、見つめているのを、見守ってきました。 ふつうの反応は、「後生だから。おまえは、 彼らを前に見たことがないのか」、というものです。 この果てしなく続く強烈さは、何なのか。 でも、彼女は、見ています。

K: そのとおりです。
37:21 A: そして、彼女の目は、いつも、あの宝石のような・・・
37:27 K: ・・・明晰さをもつ。

A: ・・・強烈さと明晰さをもって、
37:30 炎より明るい。それはけっして、止まりません。 そして、彼女は、眠るとき、本当に眠ります - ええ。 あなたが私に、眠りとは何かを、訊ねられたとき、 猫の完全に眠る能力に対して私たちが感じる不思議さとの間には、 関係が、あるにちがいありません。 そして、彼女は、目覚めるとき、完全に目覚めています。
37:54 K: そのとおりです。 で、眠りとは何かを訊ねて、探究する中で、 私はまた、訊ねなければなりません- 目覚めているとは、何ですか。

A: もちろんです。 

K: もちろんです。 私は、目覚めていますか。 または、過去が、こうも生きているので、 それが、現在において、私の生に指令しているのですか。 ゆえに、私は眠っていますか。
38:25 A: もう一度、それを言っていただけるでしょうか。それは、とても重要です。
38:29 K: 私は、どう表すべきか、知りません。 私は、違ったように、表しましょう。 私は、目覚めていますか。 私の精神は、過去の重荷を負っていますか。 ゆえに、重荷を負っているので、 私は、現在へ目覚めていない・・・

A: 現在において目覚めていない。そのとおり。
38:48 K: 私が話しているとき、目覚めていない。 

A: そのとおりです。
38:51 K: 私は、自分の過去の背景より、話しています - 私の経験、私の失敗、私の傷、私の憂鬱のそれより、です。 ゆえに、過去が今、支配しつつあり、 私を眠らせつつある。

A: 眠らせる。 それは、麻酔薬です。

K: 麻酔薬です。 ゆえに、私は、過去をどうすることに、なりますか。よろしいですか。

A: ええ、分かります。ええ。
39:22 K: 過去は必要です。
39:24 A: ええ、もちろんです。 知識の平野全体です。
39:26 K: 知識です。 過去は必要です。
39:28 が、過去が現在を覆うとき、 私は眠っています。 で・・・過去が何であるかを、知り、 それを現在に溢れ込ませないことは、 可能ですか。 その問いと、その実在性は、それ自らの修練を、もたらします。 ゆえに、私は言います - 「ええ。私は、それがどういう意味かを、知っています。 私は、生きられます。 私は、全的に、すっかり 目覚めたままでいながら、知識の平野で機能できます」と。 で、矛盾は、何もありません。 それが伝わっているのかどうか、分かりません。
40:21 A: ああ、伝えておられます。 おられます。
40:22 K: で、どちらも、調和の中で、動いています。 一つが、もう一つの後に遅れていません。 一つが、もう一つを、反駁していません。 均衡が、あります。
40:33 A: 私がここで見ていることは - 私が正確に付いていっているなら、ですが - 一方で、私たちは知識を、持っています。 そして、実務的な用事におけるノウハウに関して、 その必要性を、掴んでいます。

K: もちろんです。
40:48 A: 他方で、私たちは、見ること、理解することが、あります。 そして、冥想の行為は、それらの間の連係です。
40:57 K: そのとおりです。

A: で、理解することと知ることとの活動において、 流れの中断は何も、ありません。
41:06 K: それが、冥想の一部です。

A: もちろんです。
41:08 K: よろしいですか。

A: ええ。
41:10 K: 今、何が起きつつあるかを、見てください。 そのとき、眠りとは、何ですか。 私は今、目覚めているとは、どういう意味かを、理解しました。 それは、私は見守っている、という意味です - 私は気づいています。 私は、何の選択もなく、気づいています。 選択なき気づき、見守っています。 見つめ、観察し、聞いています - 何が進んでいるのか、外側で何が進んでいるのか、 人々が私に、何を語るのか、彼らが、私にお世辞を言うのか、 私を侮辱するのか。 私は、見守っています。 で、私は、よく気づいています。 さて、眠りとは何ですか。 私は、眠りとは何であるかを、知っています - 休むこと、眼を閉じること、ベッドへ行くこと、 9時か、10時か、遅くに、です。 眠りとは、何ですか。 そして、眠りの中では、夢。 夢とは、何ですか。 私は、他の人たちが何と言うのかを、知りません。 私は、他の人たちが何と言うのかに、興味がありません。 よろしいですか。 なぜなら、私の探究は、 冥想が生の平野全体を掩うのかどうかを、 見出すことであるからです - ただの一区分を、だけではありません。
42:18 A: 私の探究は、「私は知らない」と言う地点からです。
42:22 K: 私は知らない。 そのとおりです。 で、私は進行します。 私は夢を見ます。 夢が、あります。 夢とは、何ですか。 なぜ私は、夢を見るべきですか。 で、私は、なぜ私が夢を見るのかを、見出さなくてはなりません。 夢とは、何ですか。 夢は、私の日常的な眠りの継続です - それは、私が理解してこなかったものです。 何が起きつつあるかを、ご覧ください。 私は、自分の日常生活を、理解してきませんでした。 私は、自分の日常生活を、見守りますね。 私の日常生活は、無秩序の中に、あります。 で、私は、眠りに就きますが、無秩序は、継続します。 そして、頭脳は、「私は、秩序を持たなければならない」と言います -「さもないと、私は機能できない!」と。 で、精神が、日中に、秩序立てないのなら、 頭脳は夜中に、秩序をもたらそうとします。お分かりになるのか・・・
43:31 A: 夢をとおして。
43:32 K: 夢をとおして、暗示をとおして、です。 私は、目覚めているとき、「ええ、私は、これを しなければならないとの一定の感じが、する」と、言います。 で、何が起きるかを、見てください。 精神は、日中に、目覚めているとき、秩序を持ちます。 それは、秩序を確立しました - 私たちが以前に議論してきた意味での秩序、です。
43:58 A: ええ、あの秩序の意味で、です。
44:00 K: 無秩序を理解する中から、出てくる秩序です。 無秩序の否定が、秩序です - 青写真や様式に、従うことではありません。 

A: ええ。

K: そのすべては、無秩序です。 で、日中に、精神は、頭脳は、秩序を確立してきました。 で、私が眠るとき、頭脳は、安全であるために、働いて、 いかにそれ自体に秩序を確立するのかを作り出そうと、していません。 ゆえに、頭脳は、休まります。

A: 分かります。
44:40 K: ゆえに、頭脳は、静かになります。 夢なく、眠ります。 それは、表面的な夢を見るかもしれません - 間違った食事をするとき、です。 そうね、私は、それらについて、話していません。 で、眠りは、頭脳の再生を、意味しています。 付いてきておられるのかどうか・・・ 

A: ええ、付いてきています。 ここで、夢について、質問をさせていただけるのかと、思われます。 それにより、それらの本性ということに立って、 夢の間に、区別が、導入されるかもしれません。 時々、私たちは、未来の出来事を指す夢を、 見たことを、報告します。
45:22 K: ああ、それは、別のことです。

A: それは、話しておられることより全然違っています。で、言えるのは・・・
45:27 K: それは、とても単純に理解できると、私は思います。 そうね、先日、私たちは、 インドで、高く丘の上を、歩いていました。 下には、河が流れていました。 二艘の舟が、反対方向に来ていました。 それらがどこで出会おうとしているのかが知られました。 

A: もちろんです。

K: あなたが、十分、高く上がるとき、 舟が精確な地点で、出会おうとしているのが、見えます。
46:02 A: が、それは、きわめて客観的です。 それは、私の主観的で未完成の事柄とは、何の関わりもありません。
46:07 K: ええ。 

A: それは、あなたが話しておられた別のことです。
46:09 K: そのとおりです。

A: ええ、すっかり分かります。 用事すべてを済ませて、眠りに就くことは、 何と驚くべきことでしょうか。 そして、もしも、秩序があなたに、理解を 贈ってくれるようなら・・・

K: ええ。もちろんです。
46:26 A: そのとき、理解は、けっして、止まりません
46:28 - 目覚めから、眠りをとおして、です。
46:30 K: そのとおりです。

A: ええ! もちろんです。 すばらしい。

K: で、そうね、 そのように、頭脳は、再生されます。 若いままでいつづけます。 葛藤がない。 葛藤は、頭脳を、すり減らしてしまいます。 

A: ええ。

K: で、眠りは、秩序、若返り、 無垢を、意味するだけではありません。 また、眠りの中に、 絶対的に、自由が、あるところの状態が、あります - あなたが目で、肉眼で、見たことがない何かを、 探究できて、覗きみられるように、です。
47:20 A: ええ。 

K: もちろんです。

A: ええ。
47:22 K: で、私たちは十分に、それを叙述してきました。
47:26 私は、それが分かります。 で、私は、精神は、日中に、 その種類の生を、生きますか。
47:35 A: それは、稀でしょうね。
47:37 K: さもないと、それは、冥想ではありません。
47:40 A: もちろんです。 もちろんです。
47:41 K: 私は、偽善的なゲームをしたくありません。 なぜなら、私は、誰をも欺瞞していないからです。 私は、自分自身を欺瞞しています。 私は、自分自身を欺瞞したくありません。 私は、自分自身を欺瞞する意味が、分かりません。 なぜなら、私は、偉人、小物、大物、成功者でもありたくないからです。 それは、すべて、あまりに幼稚です。 で、私は言います - 私は、それを生きていますか。 そうでないなら、何が、起きつつありますか。 それは私に、そのように生きるエネルギーを、与えてくれます。 なぜなら、私は、他の人たちの重荷を、持っていないからです。 話が明らかになっているのか・・・
48:16 ですね?

A: これは、きわめて著しい。 それは、私に、或る物語を、思い起こさせます - 或る剣豪と、その三人の息子について、語られたことです。 昔の日本に、きわめて年老いた剣豪が、いました。 彼は、自分の武芸への責任を、 息子たちに、伝えたいと思いました。 彼は息子たちに、各々、自室へ入ってくるよう、頼みました。 彼は、彼らに話をするでしょうし、彼は、決断するでしょう。
48:54 K: 全くです。全くです。
48:55 A: 彼は、剣ということに立って、知識の人でしたが、 彼はまた、理解の人でもありました。 息子たちに知らせぬままに、彼は、鴨居の上に、玉を置きました。 彼らは、入って来るとき、もちろん、 全くそれに、気づいていませんでした。 末の子が、初めに、呼び入れられました。 末の子が、歩いてきたとき、 父親は、この玉が落ちるよう、調えておきました。 玉が落ちてきて、息子は、自らの剣で、 一撃で、それを真っ二つに割り、それは落ちました。 父親は、「別室で待っていておくれ」と、言いました。 二男が、入ってきました。 玉は、彼の頭へ落ちてきましたが、 まさしくちょうど、それが頭に触れたとき、 彼は、両手を挙げて、それを捉えました。 父親は、「別室で待っていておくれ」と、言いました。 長男が、入ってきました。 彼は、戸を開けましたが、戸を開けながら、 手を伸ばして、玉を取りました。 父親は、彼らを呼び入れましたが、 彼は、末の子に、読み上げて、言いました - 「実にみごとだ。 おまえは、技を修得した。 おまえは、何をも理解しないが」と。 彼は、二男へ言いました - 「おまえは、ほぼできているな。 つづけなさい。つづけなさい」と。 彼は、長男に、言いました - 「おまえは、始めていいぞ」と。

K: 全くです。 

A: そして・・・まさしく・・・想像してみてください! それは、プラジュニャー(般若)という言葉のようです - それは、 プラは、前に、ジュニャーは、知る。 前もって知る、という意味です。 何か、予測をすること - 私たちが、実験室のネズミの研究に基づいて、行うものではありません。 ええ、理解は・・・
50:55 K: そうです。

A: 先と後にある - あの一つの行為の、全的な動きの中で、です。 ああ、はい。 もちろんです!
51:02 K: で、私はこれが、分かります。 なぜなら、私は、冥想を日常生活より、分離しないからです。 さもないと、それは、何の意味も、ありません。 で、私は、目覚めた時間での、秩序の重要性が、分かります。 ゆえに、若返り・・・ 精神、頭脳を、眠りの間に、 葛藤、それらより、解き放っています。 で、頭脳に、全的な休みが、あります。 それが、一つのことです。 そのとき、制御とは、何ですか。 なぜ私は、制御すべきですか。 彼らはみんな、「制御しなさい」と言ってきました。 すべての宗教が、「制御しなさい」と、言ってきました - 「制御しなさい。 欲望なしでいなさい。 あなた自身について、考えてはいけない」と。 よろしいですか。 それらです。 これが、彼らが言うことです。 私は、自分自身に言います - 私は、制御なしに、生きられますか。 よろしいですか。

A: ああ、はい、はい。 その問いもまた、まさに最初に始めなくてはいけません。
52:21 K: 私はそうしています。それが、私たちがしていることです!
52:23 A: ええ。私の発言は、反映です。 ただ、それへの鏡です。ええ。

K: ええ。 制御なく、生きることは、可能ですか。 なぜなら、制御とは、何ですか。 そして、制御者は、誰ですか。 制御者は、制御されるものです。 私が、「私は自分の思考を、制御しなければならない」と言うとき、 制御者は、思考の創造物です。 そして、思考が、思考を制御します。 それは、何の意味も、ありません。 一つの断片が、別の断片を、制御します。 ゆえに、断片、断片に留まります。 で、私は言います - 制御なく、生きる道が、ありますか。 ゆえに、葛藤なく、 ゆえに、対極なく、です。 一つの欲望が、別の欲望に対立する、 一つの思考が、別の思考に対立する、 一つの達成が、別の達成に対立する、のではありません。 で、何の制御もない。 それは、可能ですか。 なぜなら、私は、見出さなければならないからです。 よろしいですか。 それはただ、質問をして、放っておくだけではありません。 私は今、エネルギーを持っています。 なぜなら、私はもはや、彼らの重荷を持ち運んでいないからです。 私はまた、自分の重荷をも持ち運んでいません。 なぜなら、彼らの重荷は、私の重荷であるからです。 私は、あれを捨て去ったとき、これを捨て去ったのです。 で、私は、エネルギーを、持っています。 私は、言います - 制御なく生きることは、可能ですか。 で、それは、ものすごいことなのです。 私は、見出さなければなりません。 なぜなら、制御してきた人々は、 制御をとおして、あなたは涅槃、天国へ達すると、 言ってきたからです。 私にとって、それは、間違っています。全然、不条理です。 で、私は、言います- 私は、 そこに制御がない冥想の生を、生きられますか。
54:46 A: 智恵が吹き出すとき・・・

K: そうです。

A: ・・・私たちが前に見つめたように、ですが、 そのとき、それにともなって、秩序が来ます。その秩序は・・・
55:01 K: 智恵が、秩序です。

A: 智恵が、その秩序です。 見ることが、することです。

K: ええ、することです。
55:07 A: ゆえに、まったく葛藤が、ありません。
55:10 K: ゆえに、私は、生を生きますか - それが可能か、だけではありません -私は、それを生きますか。 私は、欲望を持っています。 私は、車、女、住宅を、見ます。 麗しい庭、美しい衣服を- それが、何であっても、です。 即座に、欲望すべてが、生じます。 そして、葛藤を持たないけれども、屈しない。 私は、お金を持っているなら、行って、それを買います。 それは、明白ですが、それは、まったく答えではありません。 私は、お金を持っていないなら、 「すみません。私はお金を持っていません」と、言います - 「私は、いつか、いつの日か、得るだろうし、 そのとき私は、戻ってきて、それを買おう」と。 それは、同じ問題ですが、欲望が、起こされました。 見る、接触、感受、そして、欲望。 さて、その欲望が、そこにあります。 それを断ち切ることは、それを抑圧することです。 それを制御することは、それを抑圧することです。 それに屈することは、別の形で、 生を、損得へ断片化することです。 明らかにできているのかどうか・・・ 

A: ええ、ええ。

K: で、制御なく、欲望が花開くのを、許すこと。 理解されますか。

A: はい、理解します。
57:02 K: で、花開くことこそが、その欲望が、終わることです。 が、あなたが、それを叩き切るなら、それは、再び戻ってくるでしょう。

A: ええ、ええ。それは、終着点と成就との間の違いです。
57:18 K: ええ、そうです。で、私は、欲望を来させ、花開かさせ、見守ります。
57:25 それを見守る - 屈するとか、抵抗するとか、ではありません。 ただ、それに花開かせる。 そして、起きつつあることに、十分に気づいている。 そのとき、制御がありません。
57:44 A: そして、無秩序が、ありません。

K: ええ、もちろんです。 あなたが制御した瞬間、無秩序が、あります。 なぜなら、あなたは、抑圧しているか、受け入れているか、 その他すべてであるからです。 で、それが、無秩序です。 が、あなたが、そのものに花開くのを許し、それを見守るとき - 全的にそれに気づいている、という意味で、それを見守ります。 その花びら、 所有したい、所有したくないとの欲望の微妙な形、 所有することは、楽しみです。 所有しないことは、楽しみです。 よろしいですか。 欲望のあの動きの全体、です。
58:20 A: そのとおり。
58:22 K: あなたには、きわめて敏感な見守り、 きわめて敏感に選択なく見守ることが、なくてはいけません、
58:32 A: あなたが、隠喩的に言及してこられた、 植物自体についての、このイメージですが、 私たちは、次の会話において、それを追求できるでしょうか - 冥想を、さらに覗きみようとの関心の継続をとおして、です。

K: 私たちはまだ、冥想を終了していません。
58:47 A: ええ、まだです。 

K: もっと多くのことが、関与しています。

A: 良いです。良いです。