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SD74CA18 - 冥想と神聖な精神
アラン・W.アンダーソンとの会話、第18回
カリフォルニア、サンディエゴ
1974年2月28日



0:36 クリシュナムルティの、アラン・W・アンダーソン博士との対話
0:41 J.クリシュナムルティは、南インドに生まれて、 イングランドで教育を受けた。 過去四十年にわたって、彼は、 合衆国、ヨーロッパ、インド、オーストラリアと、 世界の他の地方で、話をしてきた。 彼は、生涯の仕事の最初から、 組織された宗教とイデオロギーとの 関連すべてを、拒絶して、 自らの唯一つの関心事は、人を 絶対的に無条件に自由にすることである、と言ってきた。 彼は、多くの書物の著者であり、 それらの中には、『智恵の覚醒』、 『変化の緊急性』、『既知からの自由』、 『鷲の飛翔』が、ある。 これは、クリシュナムルティとアラン・W.アンダーソン博士との間の 一連の対話のうちの一つである。 博士は、州立大学サンディエゴ校の 宗教学の教授であり、 そこで彼は、インドとシナの聖典と 神託の伝統を、教える。 アンダーソン博士は、詩人として作品を発表し、 コロンビア大学とユニオン神学大学院より 学位を受けた。 彼は、カリフォルニア州立大学より、 最優秀教育賞の表彰を、受けた。
1:48 A: クリシュナムルティさん、私たちは、 前回の会話において、 冥想について、議論していました。 私たちがちょうど終結するとき、あなたは、 植物の花開くことから、とても美しい類似を、持ち出されました。 そして、私は打たれました - 花開くときの植物の動きにとって、 本来的な秩序が、 あなたが議論されてきた 啓示的な秩序のイメージであることに、です。 私たちはまた、 冥想の関係についても、話していました - 一方の理解と、他方の知識に対して、です。 ほぼ、されない区別です。

K: ええ。

A: 普通の言語において、私たちは おそらく知らず知らずに、区別をしますが、 それは、あります。

K: あります。
2:39 A: 私たちは、二つの言葉を持っています。 が、それから、区別が何であるかに、入ることは、 何か、あなたが始めようとされていることでした。 おそらく私たちは、それができるかも・・・

K: 私たちは、そこから進めるでしょう。 私が正しく憶えているなら、私たちは、 制御について、話していました。 

A: ええ。

K: 私たちは、制御者は、制御されるものであると、言いました。 私たちは、充分にそれに、入りました。 制御があるとき、方向が、あります。 方向は、意志を含意しています。 制御は、意志を含意しています。 そして、制御したいとの欲望には、 確立された目標と、方向が、あります。 それは、意志によりなされた決断を、 実行する、という意味です。 そして、実行することは、時の持続です。 

A: ええ。

K: ゆえに、方向は、 時、制御、意志と目的を、意味しています。 そのすべてが、「制御」という言葉に、含意されています。 そうでないですか。

A: ええ。
4:11 K: で、冥想において、ゆえに、生において、 意志は、どんな所を、持っていますか。 または、それは、まったく所を持っていませんか。 それは、決断には、何の所もない、という意味です。 ただ、見る、するだけです。 それは、意志を要求しません。 方向をも、です。 よろしいですか。

A: ええ、いいです。
4:50 K: これの美しさ。 それがいかに、うまく働くのか。 精神が、制御の無益さを見るとき - それは、制御者が制御されるものであることを、理解したからです - 一つの断片が、他の諸断片を、支配しようとしていますが、 支配的な断片は、他の諸断片の一部です。 ゆえに、それは、ぐるぐると円を回っているのに、似ています。 悪循環で、けっしてそれを、抜け出しません。 で、制御なく、生きることが、ありえますか - ただ、聞いてください - 意志なしに、そして、方向なしに、です。 知識の平野には、方向が、なければなりません。同意です。 さもないと、私は家へ、生活する所へ、帰られないでしょう。 私は、車を運転したり、自転車に乗ったり、 言語を話したりする能力を、失うでしょう - 生において必要な、技術的なことすべてを、です。 そこで、方向、計算、決断は、 その分野において、必要です。 選択は、これとあれとの間で、必要です。 ここでは、選択があるところ、混乱が、あります。 なぜなら、知覚がないからです。 知覚が、あるところ、選択は、ありません。 私の必要が、混乱しているから、選択が、存在します - これとあれとの間で、です。 で、生は、制御なく、意志なく、 方向なく、送られますか - すなわち、時を意味するものなしに、です。 そして、それが冥想です! 問いだけではありません。 おそらく興味深く刺激的な問いだけではない。 問いは、どれほど刺激的でも、 それ自体では、何の意味も、ありません。 それは、生きる中で、意味を、持っています。
7:15 A: 私はまたもや、通常の言語の用法について、考えていました - あなたが、話しておられるとき、です。 興味深いですね - 私たちが、故意だ(ウィルフル)と呼ぶ行為を、 誰かが遂行したことを、見るとき、です。 

K: もちろんです。 すなわち、これは、理解なく、 行われてきた行為であるわけです。 

K: もちろんです。
7:42 A: で、単語としての意志(ウィル)と、 形容詞としての、故意の(ウィルフル)との間の、区別こそにおいて、 私たちは、この区別の仄めかしを、持っていますが、 私は、できるなら、意志の関係について当面、お訊きしたいと思います。 私たちは、冥想について、話しているけれども、 私たちは、知識は、それ自体としては、 適正な経歴を持っているのだと、見做しました。 

K: もちろんです。
8:12 A: そして、私たちは、決断は、それを参照していると、言います - 選択は、それを参照している。 ゆえに、意志はそこで、作動中です。
8:21 K: そして、方向と、あらゆる物事が、です。
8:23 A: 方向などが、です。 で、私たちは、ここで区別を、つけています。 意志と、その役割 - 大まかにノウハウと呼ばれる 平野全体への関係における役割との間に、です。
8:37 K: ・・・ノウハウ、知識。

A: ええ。 そして、それ自体としては、こうも必要な、その活動が、 これの中へ持ち越されるとき、 生ずる混乱です。

K: そのとおりです。
8:52 A: そのとき、私たちは、本当はそれのどちらも、できませんね。
8:55 K: そのとき、まさにそうなんです。 ゆえに、私たちは、無能になり、 個人的になります。
9:01 A: が、そうね、私たちは、そう考えませんよ。 私たちが考えることは、自分たちが、知識において、 おそろしく有能でありうるし、 非霊的(世俗的)と呼ばれるものでありうる。 ここでは成功者でなく、ここでは成功者でありうる、ということです。 ところが - お話を正確に理解するなら - あなたは、どちらか一方で失敗しません。 あなたはただ、失敗します。で、終了。 それは、全的な失敗です - もし、この混乱が、なされるなら、ね。 あなたは単純に、ここでさえ、うまく作動できません - それが目先だけで、どのように見えようとも、です。
9:33 K: あなたが、自分自身の内側で、 完全に秩序立っていないかぎり、ね。
9:40 A: そうです。 そのとおり。 で、私たちが、内と外との間に付ける分割こそは、 それ自体、このひどいことの症状です・・・
9:50 K: 症状です。全くです。 外と内とを分割してきた思考のそれです。
9:54 A: ええ、ええ。 私がそれを通り抜けてゆくのを、堪えていただきたいと、望みます。
10:00 K: ええ。絶対に、です。 あなたは、全く正しい。

A: なぜなら、存じていますが、宗教思想において - 私の専攻分野ですが -宗教思想において、この混乱は・・・ まあ、その重みは・・・

K: 存じています。
10:17 A: 感じられる・・・

K: ・・・抑圧された。
10:20 A: それについて、どの種類の批評でも、しはじめたとたんに、 それは、単純にその問いを、出すことなんです。 極端な硬直と神経質が、生じて・・・
10:32 K: 全くです。全くです。

A: ・・・劇的です。ええ、ええ。
10:35 K: ご覧ください。 で、私は訊ねています - 冥想は、生きることの平野全体を、掩います - その一区分を、ではありません。 ゆえに、制御なく、生を生きる - 意志の行為、決断、方向、達成なしに、です。 それは、可能ですか。 それが、可能でないのなら、 それは、冥想ではありません。 ゆえに、生は、表面的に、無意味になります。 そして、その無意味な生より逃避するために、 私たちは、すべての導師、 宗教的な娯楽、サーカスを、追いかけます - よろしいですか - すべての冥想の実践、です。 それは、何の意味も、ありません。
11:31 A: ご存じでしょうが、もちろんご存じです。 

K: いえ、どうぞ。

A: 古典的な伝統において、私たちは、意志の定義を、持っています。 それは、合理的にされた欲望であると、私たちは言います。
11:46 K: 合理的にされた欲望。
11:48 A: さて、もちろん、古代の人々が、自らの観想的な背景に照らして、 「理」(リーズン)という言葉で、言った意味について、 私たちは、ずっと前に、失念してしまいました。 私たちは、それは計算を意味すると、考えますが、 もちろん、それは、古典的な伝統が、 「合理的」と言うときの意味ではありません。 それは、むしろ、定義されない秩序を、指しています。 私は思いつきましたが、もしも、その発言を、正確に理解したなら、 私たちは、こう言っているでしょう - 意志は、私が自意識的に焦点化することなき、 欲望の焦点である、と。
12:26 K: ええ、そのとおりです。 そして、欲望が花開くのを、見守る。 ゆえに、作動中の意志を、見守る。 そして、それに花開かせる。 そして、あなたが見守っているとき、それが花開くとき、 それは、死にます。 それは、萎れてしまいます。

A: ええ。 

K: 結局のところ、それは、花に似ています。 それを咲かせてやります。 すると、それは萎れます。
12:47 A: それは、自ずと、生じてきて、過ぎ去ってしまう。
12:50 K: ゆえに、あなたが、選択なく、 この欲望の動きに、気づいているなら - 制御、意志、その意志を行為に焦点化すること、などなどなどに、です。 そうさせる。それを見守る。 あなたは、それを見守るとき、 それがいかに、その生命力を失うのかが、見えるでしょう。 で、制御は、何もありません。 で、そこから、次の問いが、生じます - すなわち、 方向は、空間を意味しています。
13:26 A: ええ、もちろんです。
13:28 K: 何が来るのかは、とても興味深い。 空間とは、何ですか。 思考が創り出してきた空間は、一つのものです。 天空に存在する空間- 何ですか・・・ 宇宙での、空間。 山が存在するには、空間が、なければなりません。 樹が成長するには、空間が、なければなりません。 花が咲くには、空間が、なければなりません。 で、空間とは、何ですか。 私たちは、空間を持っていますか。 または、私たちはみんな、物理的にこうも制限されていますか - 小さなアパートメント、小さな家々に、住んでいて、 外的に、まったく空間が、ありません。 ゆえに、空間を持っていないので、 私たちは、ますます暴力的になります。 

A: ええ。

K: 夕方に見守られたことがあるのかどうか、私は知りません - そのとき、すべてのツバメが、電線に並んで、止まっています。 

A: ええ、はい。

K: 彼らがいかに間に、きっちり空間を空けているのか。よろしいですか。 見たことがありますか。 

A: ええ、あります。それは、すばらしい。
14:47 K: この空間を見ることは、すばらしい。 そして、空間は必要です。 私たちは、物理的に空間を、持っていません。 ますます増える人口、その他すべて。 ゆえに、ますます増える暴力。 (集合住宅の)小さなフラットに、ますます一緒に生活しています。 千もの人々が、混雑し、 同じ空気を呼吸し、同じことを考え、 同じテレビを見、同じものを見、 同じ本を読み、同じ教会へ行き、 同じことを、信じています。 よろしいですか。 同じ悲しみ、同じ心配、同じ恐れ。 私の国、あなたの・・・そのすべてです。 それで、精神は、それで、頭脳は、ほとんど空間を、持っていません。 空間は、必要です。さもないと、私は、息が止まります! で、精神は、空間を持てますか。 方向が、あるなら、何の空間も、ないでしょう。
16:01 A: 明らかです。ええ。
16:03 K: お分かりですか。

K: もちろんです。ええ、分かります。
16:06 K: 方向が、時を意味しているなら、何の空間も、ありません。 そして、精神が占有されているとき - 家族でもって、ビジネスでもって、神でもって、飲酒でもって、 セックスでもって、経験でもって、占有され、充たされていると、 何の空間も、ありません。
16:36 A: そのとおりです。 まさにそうです。
16:39 K: で、精神の平野全体を、 知識が、思考として、占有するとき、 何も、空間がありません。 そして、思考は、自体のまわりに空間を、創り出します - 閉ざされた「私」と、閉ざされたあなた、我々と彼らとして、です。 で、自己、「私」は、 思考のまさに本質なのですが、 それは、自らの小さな空間を、持っています。 その空間の中から、動いて出ることは、恐怖です。恐れです。心配です。 なぜなら、私はただ、あの小さな空間に、慣れているからです。
17:38 A: ええ、そのとおり。 それにより、私たちは、前に行った会話へ、引き戻されます - そのとき、私たちは、恐怖の点に、触れました。
17:45 K: ええ、そのとおりです。

A: すばらしい。

K: 無いことと、有ることは、 思考が創り出してきた小さな空間に、あるのです。 で、思考は、けっして空間を、与えられません。
18:03 A: もちろん、そうです。
18:06 K: で、冥想は、精神を、 意識としてのその内容より、自由にすることです - 自体の小さな空間を、創り出すものより、です。 よろしいですか。

A: はい、分かります。
18:27 K: で、そこから言います- それは、可能ですか。 なぜなら、私は、自分の妻、自分の子ども、 自分の責任でもって、占有されているからです。 私は、樹を気づかいます。 私は、猫を気づかいます。私は、あれとこれを、気づかいます。 そして、私は、占有され、占有され、占有されています。
18:48 A: これは、イエスのあの言葉に、すばらしい光を、照らします - 人々が熟考し、不思議に思ってきて、 とても変だと考えてきたことですが、 「狐には、穴があり、空の鳥には、巣がある。 しかし、人の子には、頭を休める所が、ない」。 自分自身を掴む、理解する人そのものは、 自分自身のために空間を、考案していません。 それは、完璧に合います。それは、完璧に合います。すばらしい!
19:29 K: 私は、何なのか、知りませんが・・・

A: ええ、理解します。 が、私は、談話全体の脈絡の中で、考えていました。 それはただ、私に閃きました。 私たちの会話は、私にとって、 こうも啓示であったのです。 私が長年の間、没頭してきた文献に関して、です。 それは、私にとって、あなたが仰ってきたことの立証です。 例えば、私が、これらの問いを、 個人的に、自分自身にするかぎり、 精確に、それらが答えられるにつれて・・・ 

K: 全くです。
20:05 A: ・・・こちらの、これらすべてのことが、答えられます。 そして、個人にとって、それより、何が、経験的に 立証可能でありうるでしょうか - すなわち、「私は世界であり、世界である」ことが、です。
20:16 K: そのとおりです。

A: 私がしているすべては、 方向なき旅の報告を、することだけです。

K: で、ご覧ください。 世界は、ますます人口過剰に、なりつつあります。 都市は、ますます成長し、 拡大に拡大し、拡大しつつあります - 郊外などが、です。 人は、ますます空間が、乏しくなりつつあります。 ゆえに、動物たちを追い出し、殺しつつあります。 よろしいですか。

A: ああ、はい、はい、はい。
20:41 K: アメリカ・インディアンを、殺す。 ブラジルのインディオなどを、殺す。 彼らは、こうしています。実際にそれは、進んでいます。 

A: ええ。

K: あちらに、外的に、空間を持っていないので - 折々に私が、田舎へ行ってしまい、 「神様。私はここで生活できたらなあ」と、言うの以外は、です - 「だが、それはできない。なぜなら、私はしなくてはいけない」などなどと。 で、内的に、空間がありえますか。 内的に、空間があるとき、外的に、空間がある。
21:21 A: そのとおり。
21:22 K: が、外的な空間は、 内の空間を、与えようとしていません。 

A: ええ。

K: 占有より自由である、内の精神の空間 - それは、その瞬間に、しなくてはいけないことで、占有されていますが。 それは、占有されているが、自由です。 それが終了した瞬間、それは、過ぎ去りました! 私は、オフィスを家に、持ちかえりません。 それは、過ぎ去りました! で、精神の中の空間は、意識を、その内容すべてより、 空っぽにする、という意味です。 ゆえに、「私」としての思考が 創り出してきた意識が、終わる。 ゆえに、空間があるのです。 その空間は、あなたのや私のではありません。それは、空間です。 よろしい?
22:21 A: ええ、ええ。私は、「創世記」の中の 天地創造の物語について、考えていました。 水が水より分離されたとき、 空間の出現が、起こります。 今や、大空があり、その上を、鳥たちが、飛びます。 この空間は、天空(天国)と呼ばれます。
22:52 K: それは、天空です。

A: それは、天空です。
22:54 K: そのとおりです。

A: ええ、ええ、もちろんです! が、それから、私たちがそれを読むとき、そうね、私たちは・・・
23:01 K: 幸運にも、私は、それらのものをどれも読みません。よろしいですか。
23:05 A: ええ、何とまあ。

K: で、空間、方向、時、意志、 選択、制御 - 理解されますか。 さて、そのすべてが、私が生きる中で重要性を、持っています - 日々、私が生を生きる中、あらゆる人間が生きる中で、です。 人は、冥想の意味を知らないのなら、 単に、あの知識の平野に、生きるだけです。 ゆえに、あれは、牢獄になります。 ゆえに、牢獄の中にいるので、彼は、 「私は、娯楽をとおし、神々、あれとこれをとおして、 面白いことをとおして、逃避しなければならない」と、言います。 それが、実際に起きつつあることですね。
23:50 A: 休暇(ヴァケイション)という言葉が・・・ 

K: 休暇。そうなんです。
23:54 A: ・・・すべてを、語ります。 そうでないですか。
23:56 K: ええ、絶対にそうです。
23:58 A: 空ける(ヴァイケイト)とは、空間へ退出することです。 ええ、ですが、そのとき私たちは、一つの穴から別の穴へ、行きます。
24:09 K: 別の穴へ。

A: ええ。
24:12 K: さて、私自身の中で、それが、明らかに確立・・・知覚されるなら - 私は、そのものが、自分の日常生活で作動しているのが、見えます - そのとき、何が起きますか。 空間は、静寂を意味しています。 静寂が、ないなら、方向が、あります。 それは、意志の作動です - 「私は、しなければならない。 私は、してはならない。私は、これを実践しなければならない。 私はこれを得なければならない」と。よろしいですか。 あるべきことと、あるべきでないこと、 ありつづけたこと、あるべきでないこと - 私は後悔する。 そのすべてが、作動します。 ゆえに、空間は、内的に静寂を、意味しています。
24:55 A: それは、きわめて深い。 きわめて、きわめて深い。 けれども、原型的に私たちは、顕現を、 沈潜に対して、音と連携させます。
25:10 K: ええ、音と。
25:13 A: あなたが仰ってきたことは、全部のことを・・・
25:18 K: 静寂は、二つの物音の間の空間ではありません。 静寂は、物音の停止ではありません。 静寂は、何か、思考が創り出してきたものではありません。 それは、自然に、不可避に来ます - あなたが開くとき、あなたが観察するとき、 あなたが検討するとき、あなたが究明するとき、です。 で、そのとき、問いが、生じます - 動きなき静寂。 方向の動き、思考の動き、時の動きですが、 すべての静寂です。 さて、その静寂は、私が日々生きる中に、作動できますか。 私は、知識としての物音の平野に、生きます。 私は、そうしなくてはなりません。 そして、静寂をもって生きることが、ありますか。 そして、同時に他方も、です。 二つが、一緒に動く。 二つの河が、均衡の中、流れる。 分割ではありません。 よろしいですか。 調和の中で、です。 分割が、ありません。 それは、可能ですか。 なぜなら、さもないと、それが、可能でないなら - 深く正直であって、です - 私はただ、そこに生きられるからです。知識の平野に、です。 付いてこられるのかどうか、知りません。 

A: ああ、はい、はい。
26:57 K: で、私にとってそれは、可能です。 私はそれを、虚栄の中から、言っていません。 私は、大きな謙虚さの中で、これを言います。 私は、それは可能であると、言います - そうなのです。 そのとき、何が起きますか。 そのとき、創造とは何ですか。 創造は、何か、表現されるべきものですか - 絵画に、詩歌に、彫像に、著作に、 赤ちゃんを作ることに、ですか。 それが、創造ですか。 創造は、必ず・・・それは、表現されなければなりませんか。 私たちにとって、それは、表現されなければなりません - ほとんどの人々にとって、です。 さもないと、自分は欲求不満、不安に感じます - 「私は生きていない」と。 よろしいですか。 それらです。 で、創造とは何ですか。 自らが本当に、このすべてを、経てきたとき、 それに答えられるだけです。 理解されますか。 さもないと、創造は、かなり安っぽいものに、なります。
28:12 A: ええ。それは、「表現された」(エクスプレスト)という言葉に立って、 単純に、何か押し出されたものになります。

K: 押し出された。もちろんです。
28:18 A: それだけです。ええ。

K: それだけです。 作家、文学者たちのように、です。 彼らのうちの何人は、 果てしなく、自分自身の中で、戦いになっています。緊張と、それらです。 その中から、彼らは、書物を書いて、有名になりますね。
28:33 A: ええ。芸術作品は、神経症に基づいているとの心理学の理論です。 それは、私は駆り立てられる、という意味です。
28:40 K: ええ。 で、創造とは、何ですか。 それは、何か・・・ 花開くことであり、その中で、花は 自らが花開いていることを、知らないのですか。どうですか・・・
29:07 A: そのとおり、そのとおり。

K: それは、明らかになりましたか。
29:10 A: ええ。あなたは、それを、きわめて明らかにされました。 私たちの会話をとおして、ずっと、 私にとって、一つの言葉が、 ずっと、諸刃の剣の冴えた刃のようでしたが、それは、 この「行為」という言葉でした。

K: はい。
29:30 A: が、無行為に対する行為ではありません。 

K: ええ、ええ。
29:38 A: ええ。 その対極の哲学的用語、 (受動的)「熱情」(パッション)に対する(能動的)行為ではありません - それは、私たちの会話において、 あなたが使っておられたものとは、異なった用法です。 まったく、行為です。

K: 行為です。
29:56 A: まったく行為です。
29:59 K: それで、何が起きるかを、ご覧ください。 私が生きる中での、創造です。 よろしいですか。 表現すること、美しい椅子、あれこれを創り出すことではありません。 それは、来るかもしれません。それは、来るでしょうが、生きる中で、です。 そこから、もう一つの問いが、生じます。 そのほうが、本当は、はるかに重要です。 思考は、測量です。 私たちが、思考を養成するかぎり - 私たちの行為すべては、思考に基づいています。今そうであるように、です - 測量不可能なものへの探求は、何の意味も、ありません。 私はそれに、意味を与えられます。 「測量可能なものが、ある」と、言えます - 「名づけられぬものが、ある。 永遠のものが、ある。 それについて、話さないようにしよう。それは、ある」と。 それは、何の意味もありません。 それは、ただ仮説、思案だけです。 または、自分は知っていると考える、わずかな人の主張です。 そのすべてを、捨て去ってきました。 ゆえに、訊ねます - 精神が全く静寂であるとき、 測量不可能なものとは、何ですか。よろしいですか。 果てしないものとは、何ですか。 永遠のものとは、何ですか。 神ということ、そうね、人が考案してきた、 これらすべての物事ということに立って、ではありません。 実際に・・・それである。よろしいですか。 さて、静寂は、その言葉のその深い意味において、扉を開きます。 なぜなら、あなたはそこに、自らのエネルギーすべてを、 持っているからです。 何一つとして、むだにされません。 エネルギーの消散が、まったくありません。 ゆえに、その静寂の中、エネルギーの総和が、あります。 

A: そのとおり。

K: 刺激されたエネルギーではありません。 自己投影されたエネルギーなどではありません。 それはすべて、あまりに子どもっぽい。 なぜなら、何も葛藤が、なく、 何も制御が、ないからです - 届こうとすることも、なく、届こうとしないことも、ない。 探求すること、訊ねること、問うこと、要求すること、 待っていること、祈ることもない。 それのどれ一つ、ない。 ゆえに、そのすべてのエネルギーが、むだにされてきましたが、 それが、今、あの静寂の中に、集まっています。 あの静寂は、神聖になったのです。 明白です。

A: もちろん、そうなりました。
33:20 K: 思考が創案してきた、神聖なものではありません。
33:24 A: ええ。世俗的なものに対して、神聖なものではありません。
33:26 K: ええ、それらではありません。
33:29 で、最高に神聖なものを見られるのは、 そういう神聖な精神だけです - 神聖であるものすべての本質を、です。すなわち、美しさを、です。 よろしいですか。

A: 分かります。
33:44 K: で、それが、ある。 神は、何か人が創案したり、自らのイメージとあこがれと失敗の中から 創り出したりしてきたものではありません。 が、精神自体が、神聖になるとき、 それは、何かへ、扉を開きます - 測量不可能に神聖であるものへ、です。 それが、宗教です。 それは、日々生きることに、影響します - 私の話し方、私の人々のもてなし方 行い、振るまい、そのすべてに、です。 それが、宗教的な生です。 それが存在しないのなら、 他のあらゆる過ちが、存在するでしょう。 どれほど利巧でも、どれほど賢明でも、どれほど・・・それらでも、です。
34:43 A: そして、このすべての無秩序の脈絡において、 冥想は、生じません。
34:51 K: ええ。

A: 絶対に、です。 が、その進み具合、あなたがそれに触れられたさまにおいて、 自らは、精確にそこにいます - あなたの言葉「宗教的」が、指しているところです。
35:11 K: ああ、それが、最も深遠な宗教的な生き方です。 何が起きるのかを、ご覧ください- もう一つのことです。 そうね、このことが、起きつつあるとき - なぜなら、あなたのエネルギーが集まりつつあるからです。 エネルギーが、集められつつある。 あなたのではありません。 エネルギーが集められつつある。 あなたは、他の種類の力を、持っています - 超感覚的な力、です。 あなたは、奇跡を行えます。 これらが、私に起きてきたように、です。 除霊、その種のこと、癒やしですが、 それらは、全然、不適当になります。 あなたは人々を愛さない、ということではありません。 反対に、宗教は、愛の本質です! が、それらはすべて、二次的な主題になります。 人々は、二次的な主題に、捕らわれます。 何が起きてきたかを、ご覧ください。 本当に癒やせる人は・・・ 人々は彼を、崇拝するでしょう- 少しの癒やしを、です。
36:19 A: それで、私は、あなたがかつて語ってくださった物語を、 思い起こします。 それは、一年前でした。 それは、河の岸に座っている老人について、でした。 そして、若者が彼のところへ、来ました。 何であれ、彼がこれらを学ぶために必要なことを行うよう、 老人が、彼を送り出した後、彼は、戻ってきました - 自分は水の上を歩けるとの、すばらしい発表をもって、です。 あなたは、こう仰いました - その老人は、彼を見つめて、 「それが、何なのだ」と言いました - 「で、おまえは、水の上を歩ける。 おまえは、水の上をどう歩くのかを、学ぶために、 これらの年すべてを、掛けてきた。 おまえは、あそこの舟が、見えなかったのか」と。
37:06 K: そのとおりです。 そのとおりです。 そうね、それは、とても重要です。 これがあるとき・・・ 宗教は、私たちが言いましたように、 すべてのエネルギーを、集めることです - それが、注意です。 その注意の中、多くのことが、起きます。 彼らのうち、何人かは、この癒やし、奇跡の才能に、恵まれています。 私は、それを持ってきましたし、 私は、自分が話していることについて、知っています。 そして、宗教的な人は、けっして、それに触れません。よろしいですか。 彼は、時折、あれやこれをするかもしれませんが、 それは、片付けられるべきことです - 贈り物のように、才能のように、です。 それは、片付けてしまわれるべきです。 なぜなら、それは、危険であるからです!
38:00 A: そのとおり。
38:02 K: なぜなら、あなたは、才能を持てば持つほど、もっと「私」であるからです - 「私が重要である。私は、この才能を持っている。私を崇拝しなさい」と。 その才能でもって、私は、金銭、地位、権力を、得るでしょう。 で、これもまた、最も危険なものなのです。 で、宗教的な精神はこれらに気づいているし、 生を生きます・・・
38:31 A: ・・・この空間の中、このすばらしい空間の中に、です。 或ることが、私に生じました - 先の、エネルギーに関連する、私たちの議論についてと、 あなたの寸評、すなわち、 エネルギーは、自体を様式化するとき - 様式化したエネルギーが、何であるかを、指示するために、 あなたが何を用いられたのか、私は忘れてしまいましたが、 私は、それは、しばしば物質(質料)と呼ばれるものではないかと、思います。
39:05 K: 物質。ええ、全くです。

A: 正確でないでしょうか。そうです。 仰った行為を指すという、このことに立って、 それは、様式化されたエネルギーの特徴に対して、 きわめて違った光を照らしますし、 私たちの注視を、様式より引き離してしまい、 私たちに思い起こさせます- すなわち、実体、 あるいは、むしろ、実質的な要素 - 私は、実体という言葉を使って、ゆえに、哲学化したくありません - 私たちが指している、実質的な要素は、 様式ではなく、エネルギーです。
39:51 K: 全くです。 ご覧ください。 それが、愛です。 そうでしょう。 エネルギーの宗教的な総和のこの感覚が、あるとき、 それは、愛です。 それは、慈悲と気づかいです - 日々、生きる中で作動するものです。
40:09 A: 愛の中、様式は、けっして変化に、抵抗しません。
40:13 K: ええ。で、ご覧ください。 その愛は - あなたは、自分の好きなことができます。それは、やはり愛でしょう。 が、そこで、愛は、感受になります- よろしいですか - 知識の平野において、です。

A: ええ、知識の轍全体です。ええ。

K: ゆえに、そこには愛が、ありません。
40:39 A: ええ。(鉄道模型の)ライオネル・トレインのあのイメージ - ぐるぐる回ってゆく玩具の、です。 あれは、とてつもなくないですか。
40:50 K: ご覧ください。 それは、こういう意味です。 精神は - 私は、「精神」という言葉を、精神、頭脳、身体、 という意味で、使っています- 全部です。 精神は、本当に静寂でありえますか。 誘引された静寂ではなく、組み立てられた静寂ではなく、 思考により、静寂であると想像される静寂ではない。 教会や寺院、神殿の静寂ではない - それらは、自らの静寂を、持っています。 あなたが、寺院とかへ入るとき、です。
41:28 A: ああ、はい。

K: ・・・古い大聖堂とか、 それらは、とてつもない静寂の感覚を、持っています。 幾千の人々が、詠唱し、話をし、祈った、それらです。 しかし、それは、あのすべてを、越えています。 それは、あれでもありません。 で、この静寂は、企画されていないし、 ゆえに、それは本当です。 それは、「私が、実践をとおして、静寂をもたらした」、ではありません。
42:01 A: ええ。それは、あなたが先に触れられたもの、 二つの物音の間の空間ではありません。 

K: そのとおりです。
42:06 A: なぜなら、それは、間隔になるだろうからです。 

K: そのとおりです。
42:09 A: 間隔として、それは単純に、連続的になるだけです。
42:12 K: 連続的に。 そのとおりです。
42:21 A: これは、問いへの継続的な回帰と いうことに立って、とてつもない。 私には、こう思われます - 可能性があるのは、問いの態度において、だけだ、と。 すなわち、はるか遠くから 静寂の可能性を、直観できるにも、です。 答えはすでに、物音であるからです。
42:53 K: で、ちょっとお待ちください。 何か、とても興味深いことが、あります。 これは、問うのをとおして、出てきますか。
43:05 A: いいえ。私は、問うことがそれを生成すると、 提起するつもりではありませんでした。 私は単純に、答えでの魅力と魅惑より、 一歩、退くことは、自体で必要な歩みである、 と言うつもりでした。

K: もちろんです。
43:25 A: それは、自体で、自らの恐怖を、持っています。
43:28 K: もちろんです。が、私は、訊ねています - 静寂、 測量不可能なものの感覚、 それは、私が問うことにより、訪れますか。
43:41 A: いいえ。いいえ。

K: ええ。 知覚は、虚偽を見て、虚偽を、捨て去ります。 問いは、ない。それは、見る。 そして、終了です! ですが、私が問いつづける、私が疑いつづけるなら、 疑いは、その所を持っていますが、 それは、革紐に、繋いでおかなければなりません!
44:15 A: さて、ここで、よろしければ、質問をさせてください。 知覚する行為は、 あなたが仰ってきたように、することです。 絶対的に、間に、何の間隔もなくて・・・
44:36 K: 私は危険を見るし、私は行為します。

A: 私は行為します。そのとおり。 さて、この知覚する中で、行為は、全的に自由であり・・・
44:53 K: そうです。

A: ・・・そのとき、 あらゆるエネルギーの様式は、自由であって、変化できます。
45:02 K: ええ、全くそのとおり。

A: ええ、そのとおり。 もはや、それ自体に、貯め込んでいません・・・
45:09 K: 後悔がない。 

A: ・・・生涯ずっとそのために、働いてきたすべてを、です。 けれども、お話を正確に理解したなら、驚くことに、 これには、帰結があるように、私には思われます。 様式が、自由に変化できるだけではなく、 エネルギーは、自由に、様式化できるのです。
45:28 K: または、様式化しないでいられます。

A: または、様式化しないでいられます。 ええ。 

K: そこにあります。
45:33 知識は、様式化しなくてはいけません。 

A: もちろんです。
45:36 K: が、ここで、それは、様式化できません。何のための様式ですか。 それは、様式化するなら、再び思考になったのです。 ゆえに、思考は、分割的です。 思考は、表面的です。 先日、お話ししたのかどうか、知りませんが、 誰かが、私に語っていました- 実は、ボーム博士です。 彼は、エスキモーの言語では、 思考は、外側を意味していると、言いました。 とても興味深い。 外側です。彼らが、「外へ行く」と言うとき、 その言葉は、「思考」です。 で、思考は、外と内を、創り出してきました。 もし思考が、ないのなら、 そのとき、外も内も、ありません。 それが、空間です。 理解されますか。 それは、「私は、内の空間を持っている」、ではありません。
46:41 A: ええ。 私たちは、 宗教へ関係において、冥想について、話してきました。 私は単純に、あなたに、語っていただくよう、 お願いしなければならないと、感じます - 冥想への、冥想との、祈りの相互関係について、です。 なぜなら、慣習的に私たちは、いつも祈りと冥想に、言及するからです。
47:06 K: いいえ、私はそうしません。 私にとって、祈りは、冥想に何の所をも、持ちません。 私は、誰に対して祈っていますか。 私は、誰に祈願していますか。 乞うていますか。 訊ねていますか。
47:21 A: 嘆願としての祈りは、そこに、 何の所をも、持ちません。

K: 嘆願、そうです。
47:26 A: 「祈り」という言葉の用法が、 何かありますか - 私たちが話してきたことと協和するだろうものが、です。
47:40 K: 何も嘆願が、ないのなら - 理解されますか - 深く、内的に、 何も嘆願が、ない。
47:47 A: 捕らえること、掴むことが、ない。
47:49 なぜなら、捕らえる者は、捕らえられるものであるからです!
47:52 A: そのとおり。
47:54 K: 嘆願が、ないなら、何が、起きますか。 私は、理解しないときだけ、嘆願します。 私が葛藤の中にいるとき、私が悲しみの中にいるとき - よろしいですか - 私が、「ああ、神様。私はすべてを失ってしまった。私は終わりだ。 私は辿り着けない。私は達成できない」と言うときだけです。
48:22 A: 嘆願が、ないとき、私は、見られます。 ええ、そのとおり、そのとおり。
48:30 K: かつて、しばらく前に、或る女が、私のところに来ました。 彼女は、こう言いました - 「私は、長年、尋常でなく祈ってきました。 私は、冷蔵庫を祈ってきましたが、私は、それを得たんです!」と。 そうです! 私は、平和を祈ります。 そして、私はいつの時も、暴力の生を、生きます。 私は、「私は、私の国のために祈る」と、言います。 そして私は、国を分割してきました- 他の国へ対立して、ですね。 そして、私は、自分の国のために、祈ります。 それは、こうも子どもっぽくなります!
49:13 A: 通常の祈りにおいて、 ふつう、嘆願と称賛の両方が、あります。 両方が、あります。

K: もちろんです。 称賛するのと、受け取るのです。 ご存じにちがいないですが、サンスクリットでは、いつも - その幾つかの部分は - 称賛で始まり、それから乞うのです。 すばらしい詠唱が、あります。 それは、神々の保護を求めるものです - 保護を、です。 それは、「私の歩みを保護したまえ」と、言います。

A: ええ、ええ。

K: 神を称賛します。それから、
49:54 「どうぞ、私の歩みを保護してください」と、言います。 で、何も嘆願が、ないのなら - なぜなら、嘆願者は嘆願されるものである、 乞う者は、乞われるものであり、受け取る者であるからです - そのとき、精神の中に、何が起きますか。 求めることが、ない。
50:21 A: 無量の静けさです。 無量の静けさです。 「平静」という言葉が、何を指していようとも、 その適切な意味です。

K: そのとおりです。 それが、本当の平和です。 彼らがみんな、話している、まやかしの平和ではありません - 政治家と、宗教的な人たちが、です。 すなわち、何一つ、求めることがない。
50:46 A: とても美しいバイブルの文句が、あります - 「理解を越える平和」。
50:55 K: 私は、子どもだったとき、その文句を、聞いたことがあります。
51:03 A: 私は、子どもの時から、いつも自分自身に、訊ねてきました - こういうことについて、こうも多くの話があり、 その証拠が、こうも、ほとんどないことが、 どうして実情なのか、と。
51:19 K: そうね、私は思いますが、 書物が、ものすごく重要になってしまったのです - 彼らが書いてきたこと、彼らが言ってきたことが、です。 で、人間精神は、受け売りになってしまったのです。 または、実在について、他の人々が経験してきたことについて、 こうも多くの知識を取得してきた精神 - そういう精神は、本源的であるものを、 どうして経験したり、見つけたり、出くわしたりできますか。
51:58 A: その通路ではない。

K: ええ。 そして、精神は、それ自体よりその内容を、空っぽにできますか。 それができないなら、それはただ、取得でき、 それから拒絶し、それから受け取ることができるだけです。」 よろしいですか。

A: ええ。
52:15 K: なぜ私は、これらすべてのことを、経てゆくべきですか。 なぜ私は、「まあ、見てみよう」と、言えませんか。 私に教えてくれようとしている書物は、世界に何も、ありません。 私に教えてくれようとしている教師は、誰もいません。 なぜなら、教える者は、教えられる者であるからです。 学徒は、教師です。
52:38 A: それは、自体では、発言として、ですが、 私たちが前の会話で言いましたように、 もし自らが、見ることの開始において、まさにその発言、 「私は世界であり、世界は私である」を、保つなら、 癒やしのための機会です。
53:06 K: そうです。

A: が、まさにその発言、 「私は世界であり、世界である」は、 しばしば仰ってきたように、こうも不条理に響くので、 その点で、またもや、慌てはじめます。 またもや、狼狽します。 冥想は、継続的に行われるとき - そうでなければなりません - なぜなら、私たちは、その動きについて、話したからですが・・・
53:33 K: それは、自らが、きわめて真剣でなければならない、という意味です。 それは、私たちが玩ぶものではありません。 

A: ええ。 それは、この頃、面白いことと呼ばれるものではありません。
53:43 K: ええ!

A: いかなる意味でも、です。 ええ、ええ、ええ。 それに関連して、あなたが行ってこられた議論は、 こうも全的です。 冥想は、とりわけ、あなたがすることではありません。ええ。
54:12 K: すなわち、冥想は、注意、気づかいを、意味しています。 それが、その一部です - 私の子どもへ、私の隣人へ、 私の国へ、大地への気づかい。 大地へ、です! 樹々へ、動物へ。 動物を殺さないでください。 よろしいですか。食べるために、彼らを、殺さないでください。 それは、こうも不必要です! 伝統は、「あなたは肉を食べなければならない」と、言います。 ゆえに、このすべては、 深い、内的な真剣さの感覚に、来るのです。 その真剣さ自体が、注意、気づき、責任を、もたらします - そして、私たちが議論してきたすべてを、です。 それは、自らがこれらを経てきた、ということではありません。 自らは、それが見えるのです! そして、知覚こそが、行為です- すなわち、英知です。 なぜなら、英知は、苦しみが終わることであるからです。 それは、冷淡さではありません。 それは、それが終わることです。 それが終わることは、 苦しみの観察、見えることを、意味しています - それを乗り越える、それを拒絶する、それを合理化する、 それから逃げ去るのではありません。 ただ、それを見る。 それに、花開かせる。 そして、あなたが、選択なく、この花開くのに、気づいていると、 それは、自然に萎れてしまうことに、なります。 私が、それについて、何かをしなくていい。
56:07 A: それは、驚くほど、驚くほどです- いかにエネルギーが自由に、 自体を様式化したり、自体を様式化しなかったりできるのかは。 様式は、自由に、エネルギー化できたり・・・ 全部のことが、単純にすべて、円かです。
56:29 K: ええ。それは、人の尽力、人の思考、 人の心配の全体を、掩います。 それは、あらゆる物事を、掩います。
56:38 A: で、私たちの会話の中で、ずっと通して、 私たちは、ここで完成の点に、到ったのです。 そこで、それは円かです。 シェークスピアは、これの暗示を何か持っていたのかと、思われます - 彼が、「円熟がすべてだ」と言ったとき、です。 彼は、それについて、考えていたにちがいありません - 単純に、果実の経歴に、期限を定めるだけではなくて、です。
57:12 K: ええ。時は、終わりになります。 時は、止まります。 静寂の中、時は、止まります。
57:22 A: 静寂の中、時は、止まります。 無量に美しい。 私は、あなたに、心の底から 感謝を表明しなければなりません。 そうさせてくださることを、望みます。 なぜなら、私たちの議論の経歴全体をとおして、ずっと、 私は、変容を遂げてきていたからです。
57:56 K: 全くです。 なぜなら、あなたは、進んで聞こうとしているから、 良くも、聞いてくださるからです。 ほとんどの人々は、そうではありません。 彼らは、聞こうとしません。 あなたは、聞くために、時間、手間暇、気づかいを、掛けてこられました。
58:12 A: 私はすでに、自分のクラスへの関係の中で、見てきました - 私の学生と私が、分かち合う活動の中で、 花開くのが始まっているのを、です。

K: 花開く。全くです。
58:26 A: 花開くのが、始まっている。

K: 全くです。
58:29 A: 重ねて、御礼を申し上げます。 ありがとう。ありがとう。